高須城日記W(春前編)


(平成十九年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)


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【四月の一/親子で入学式・・・!】4月6日(金)

 四月の声を聞くと、街は俄かに新しい風が吹いているような感じとなっている。真新しい制服に身を包み少し前までの学生気分も忘れたかのように、急ぎ足で歩く新人OL達がどことなく愛い愛いしい。そして、こちらは何故かぎこちなく新調スーツピカピカの靴で登場の新米サラリーマンだが・・・やはりネクタイの結び方も・・・まだまだ新米研修中のようだ。
 そんな若者が春の日差しの中を歩く福井市中心部だが、その新社会人に混じって朝の歩道では、登校途中の中学生たちの可愛い姿も見受けられる。つい先日までランドセルを背負っていた子供たちが、購入したての中学校の制服も・・・まだぎこちなく感じ、元気に仲間と話ながら少し遠くなった通学路を歩いて行く。そんな新1年生を見ていると、何故だか笑ってしまう私なのだ(だって・・・可愛いですから!)
 児童から生徒に・・・と、呼ばれるのだが、制服姿で少しだけ大きくなったような・・・そうでもないような春の一日がある(三年後には学生と呼ばれるね!)
 そして本日、新しい白の外ズックを履いた新・中学1年生保護者(ほとんどが母親!)と共に入学式に向かっている。男の子は学生服の詰襟が慣れないのか、何度も首元を触りながら左右に首を動かしている。女の子は制服のスカートを気にしながら少し早歩きでいた。
 しかしながらどちらがこの日の主役なの?と言いたくなるような母親の服装には驚く私。カラフルな洋装の胸元には「大きくないか?」と、言いたくなるようなコサージュがあり、腕に抱えたブランド物のバックも一際輝いている。また、和装の母親は慣れない履物に「ゆっくり歩いてよ!」と、少し前を歩く子どもに話している。
 こんな保護者の気持ち・・・理解出来ない訳でもないのだが、あくまでも主役は子供である事を再確認して欲しいものだ(それにしても・・・・驚くご婦人の姿です!)
 この日の福井市内は、市立中学校全校と一部県立高校で入学式が予定されていた。桜の花も、まだまだ綺麗な美しさを見せていて透き通るような青空とマッチして、この日の入学式を演出してくれている。
「入学式・・・僕は誰と行くの?」と、昨晩聞いていた次男だったのだが、「当然・・・お母さんよ!」との妻の言葉に嬉しさと少しの恥ずかしさの表情を覗かせていた。
 明道中学校・・・と、幼い時から感じていただろう次男にとって「でも、また入学式の時・・・学校に来ているんでしょう?」と、小声で私の耳元で囁く次男だった(当然!)
「何組になるのかな?順化小学校の友達は同じクラスになるのかな?担任の先生はどんな先生かな?まさか田中先生だったりしてね?お父さん・・・知らないの?!」と、ワクワクドキドキの入学式前の次男はこれから始まる新しい中学校生活に少し興奮していたのだ。
 そして、昼過ぎ・・・少し大きめの学生服を身体に纏い?妻と共に明道中学校へと登校して行った次男。「デジカメ忘れるなよ!校門の所で撮れよ!」と、出掛けの妻に話した私に「どうせまた高須町のHPに載せるんでしょう?」と、呆れ顔の妻だった(正解!)
 自宅から徒歩15分、妻と次男が明道中学校に出かけると慌てながら近所での配達を1件済ませ、私も仕事着で失礼かなと思いながら、可愛いい次男の入学式をひと目見ようと明道中学校へと車で出かけることにしたのだった(かなりの・・・親バカです!)
 福井市中心部の北にある我が母校の明道中学校(校章は北極星です)は、JR福井駅から徒歩15分でその福井駅周辺から東西南北にかなりの校区の広さを持つ歴史と伝統のある中学校である。
 そんな明道中学校に保護者と新入生が歩いている。晴れの入学式はもうすぐだ。おそらく妻と次男もこの中の一組となりあれやこれやと話ながら校門近くまで来ていることだろう。
 そんな保護者と新入生の姿を見ながら私は車を走らせていた。明道中学校の校門にさしかかると、何組もの親子が記念にデジカメで〔平成十九年度・福井市明道中学校入学式〕の案内板横で記念の一枚を撮影している。同じ小学校の出身同士だろうか、交代でシャッターを押している親子。どの顔も笑顔なのだが、新入生の顔は少しの緊張感となっている(可愛い・・・!)
 私はいつものように車を職員玄関前に止め、一人職員室に入って他の先生方と挨拶を交わしていた。そんな時、「息子さん、いよいよ入学式ですね」と、後ろから声がかかった。振り返ると校長先生だった。「宜しくお願いします」と挨拶をすると、「こちらこそ」と、優しい笑顔の校長先生。
 私はまたまたお茶を頂きながら入学式前で慌ただしい先生方を見ながらのんびりと一人くつろいでいたのだった。
 しかしここで、よくよく考えてみれば、PTA会長としての二年間(H.13・14)と、その後の学校評議員としての四年間はすでに先月31日付けで終わっていた私。つまりこの日の私はタダの・・・一保護者だった。その一保護者が偉そうにお茶を飲んでいる(まあ・・・いいか!)
 入学式30分前、私は職員室から体育館を通り生徒玄関に来ていた。生徒玄関は新入生やその保護者で混雑していた。そんな中で、妻や次男の姿を探すのは一苦労で・・・当然中々見つからず・・・・諦めかけた時だった。「藤田さん」と女性の声が聞こえたのだ。振り向くと知り合いの春山地区のお母さんだった(美人ですよ!)
「こんにちは!」と挨拶をすると「藤田さんと同じクラスです!」と、お母さんが言うのだ。「えっ!そうなんですか?」「そうですよ!」「これも不思議なご縁ですね!」「そうですね!」混雑する生徒玄関でのこんな会話だった。
 生徒玄関から廊下に上がると・・・そこには幾つかの受付テーブルがあり、そこには新入生のクラスが案内されている。 今年度の新入生190名7クラスに分けられていた。私はクラスを確認する保護者の隙間から、次男のクラスをチェックするのだが・・・・中々出来ない。すると、顔見知りの先生から「藤田さんは・・・6組ですよ!」と、声がかかった。
「1年6組か・・・!」と、独り言を言いながら生徒玄関の方を見ると、ようやく妻と次男の姿を確認した私。妻は順化小学校の同じクラスだった保護者と楽しそうに談笑していたのだった。そんな妻と次男の処へ近づいた私は「6組だよ!」と報告すると「知ってるよ!」と妻が答えた(何だ?)
 入学式を控えた体育館は、後方に保護者席が並び前方には新入生の椅子が綺麗に並べられている。そんな中ブラスバンド部が新入生を歓迎する演奏をしている。新しい中学校の制服に身を包む一年生、そしてこちらは少しおめかししたお母さん達が手にデジカメを用意しながらその時を待っていた。
 私はこの時、このまま保護者席で次男の晴れの入学式を見ようと思っていたのだが夫婦二人で参加するのも何故か照れくさく・・・そのまま先生方に挨拶しながら体育館を後にしたのだ。またまた職員室にて本日二回目のお茶を頂きながら事務の先生と高須町の話題であれやこれやと花が咲いていた。
 微かに聞こえてくる体育館での入学式の声と音。次男は緊張しているかな?・・・大丈夫かな?何て考えながら静かな職員室での一時を過ごしていたのだった(昔の話ですが、航空自衛隊の入隊式で緊張からか・・・倒れた想い出が!)
 入学式の後は・・・生徒たちは教室で新しい教科書を配布され、そして始めて顔を見る担任の先生から色々の話を聞くらしい。そして、保護者もPTA関連の事など少しの時間が必要となるのだ。「一緒に帰ろうかな?」と考えていた私だが入学式当日から親バカのような気もして、ここは妻と次男を残して仕事に戻る事にしたのだった。職員玄関を出ると、明道中学校の自慢のが南の空からの日差しに照らされて美しいピンクの花を私の目と心に癒しをくれていた。「綺麗だなぁ!」そんな言葉が自然と声になり・・・私の足を止めていた。
 心地よい春風に靡くを見ながら車に乗り込み店へと車を走らせた私、そんな時・・・入学式真っ際中のはずの妻から携帯に着信があった。「どうした?」と、聞いた私に次男の友達が入学式時に気分が悪くなって保健室で休んでいるから・・・迎えに来てとの、妻からの連絡だった。
 1時間ほど市内のお客様宅で修理を済ませ、再び明道中学校に車を走らせた。急いで保健室に入ると妻とその友達の母親がベッド横の椅子に座り、心配そうに横になっている次男の友達の顔を覗きこんでいる。保健のN先生順化小学校から数年前に明道中学校に転任された先生で、長男は勿論の事、次男もその友達も昔から知っているのだ(心強い!)
「お迎えですか?お疲れ様です」そんな優しい言葉をかけて下さる保健のN先生だが、数年前からこの明道中学校でお逢いする度に何かと私自身もお世話になり、会話の中で次男たちが入学するのを楽しみにしていて下さっていたのだった。
 保健室の外はにわかに騒がしくなってきた。どうやらこの日の入学式以降の全ての行事が終わり、保護者も新入生も帰路の途に着くようだ。私は妻達を残し校舎の外に出て、次男を探す事にした。多くの新入生達や保護者が一斉に生徒玄関から流れてきた。そんな中、次男もうろうろと周りを見ながら歩いてきた。そして私を見つけると「お父さん・・・!」と、小走りで歩み寄ってきた(可愛いい!)「お疲れさん・・・帰るぞ!」と、次男に言うと「少し、緊張したよ!」と、入学式を振り返る次男だった。
 この後、私の車には妻と次男・・・そして顔色が悪い次男の友達とそのお母さんの四人を乗せて家まで送る事になったのだ。車中では次男が「大丈夫か?大丈夫か?」と、クラスメイトを心配していた。「うん・・・・・・」と、小さな声で答える友達だが、自宅が近づくにつれいささか顔色も良くなってきたようだ(よかった!)
 同級生とそのお母さんを送り届けると、車は再び自宅とは逆方向へと向かった。晴れの次男の姿を一番見たいと願っている私の両親が待つ・・・・店だった。店に着くと、仕事の手を休め・・・・店前の歩道での、まずは次男を中心に記念写真となった。
 フェニックス通りに面している私の店だから、歩行者も多いのだが、この日の入学式を知っているのか知らないのか、この記念撮影には、どの歩行者も少し小走りで少し遠回りでこちらを見ながら通って行く。そんな歩行者にいちいち「すいませんね!ごめんなさいね!」と、声をかける私の母。するとどの歩行者も少し笑いながらカメラにポーズを撮る学生服の次男、妻、両親の四人を見ていたのだ。
 緊張の入学式の一日、この日入学式を迎えたそれぞれの子供たちに新しい想い出が加わった事だろう。新入生代表で挨拶した子(次男の友達!)、緊張した子(次男!)、具合が悪くなった子(これも次男の友達!)、少しと遠方の中学校に通う事になった子(これは高須町光くん!と、長いようで短い・・・・門出の一日だった。
 入学おめでとう!勉強にスポーツに頑張れよ!
 あっ!そうそう・・・・因みに、次男のクラスの理科担当の先生は・・・・田中先生でした!


△男の酒のつまみ・・・238
 山菜の天麩羅!
 雪の少なかった高須町では、今年は春の訪れも早く道沿いの土手の奥には私の大好物である数種類の山菜が顔を覗かせていた。そこで少しだけ(今夜の分だけ)・・・摘む事にした。こごみ・独活(うど)・たらの芽と春の息吹が感じられる山菜だ。
 勿論、今宵は天麩羅で晩酌だ。そして、天つゆよりも・・・ここは・・・で頂く!「うん・・・最高!」


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【四月の二/永久保存版だね?!】4月10日(火)

「春は桜の季節???」なんて言うのもこの時期までの事だろうか、桜の花が満開から少しずつ散る頃になると中年男にとって少し寂しさを感じてしまうものである(私だけかな?!)。毎年の事ではあるが桜前線に移動するにつれ、その桜の花が舞い散る道路や歩道では、ほうき&ちりとり片手で近所の奥様達総出での清掃作業が朝の日課となっている。
 先日まで「今年も・・・綺麗な桜ですね!」と、眺めていた桜の木々も・・・・「毎日毎日、掃いても掃いても!」と、溜息交じりのお小言が聞こえる我が町内である(ご苦労様です!)
 そんな我が町内の朝の慌ただしさの事から・・・癒しの里・高須町の事なのだが、四月に入ると俄かに町の皆さんの行動範囲は広くなり忙しそうにあちらこちらと畑や田んぼ作業に活気を帯びている。例年より雪の少なかった昨年から今年の冬だが、雪解けも知らないうちにと・・・・元気に農作業に向かう皆さんがいた(本当に高須町のお年寄りの皆さんはお元気です!)
 でも・・・やはり休校となった高須城小学校の校舎に灯りが無いと・・・寂しいものである。畑仕事や田んぼに向かう高須町の皆さんも、ついついその途中でその校舎を見て、どこか寂しげな表情となってしまうのである。子供たちの笑い声、ギターを爪弾く音、グランドを走る姿、美味しそうな給食の匂い、そのどれもがこの小学校の前にたたずむと・・・・今でもそんな毎日の学校での出来事が思い返される私であった(高須町の皆さんは私以上に・・・寂しいでしょうね???)
 そうそう、三月の末福井テレビ《福井っ子はいま・・・》でその高須城小学校の休校までがドキュメントで放送された。昨年秋(10月)から幾度となくこの高須城小学校を訪れ、先生光くん、そして岬ちゃんを追いかけた番組だった。
「三月の末に放送されますから、藤田さん是非見てくださいね!」と、幾度となく石村和道校長先生からお話があった番組だった。「勿論です・・・楽しみにしてますから!」と、話していた私は、放送当日いつものように録画をしようとビデオにテープをセットし次男と共にテレビの前でスタンバイしていたのだ。
 番組の冒頭には美しい高須町の景色が映し出された。そして「卒業生・・・一人、在校生・・・一人」のナレーションで始まった。
『ふるさとの宝』〜たった2人の卒業式、福井市・高須城小学校〜と、いうタイトルだった。あの感動の卒業式から始まった番組は、光くん岬ちゃんそして先生方全員の卒業写真に収まる映像と、光くんが校庭で坂川優福井市長や大勢のご来賓、地元・高須町の皆さんから祝福の拍手で送り出される光景があった(卒業式を想い出してしまった!!!)
『一昔前にタイムスリップしたような木造校舎』の二階の教室で五・六年の複式学級授業が行われていた。担任は、藤川純一教頭先生で・・・児童はもちろん・・・光くん岬ちゃんだ。教室での授業が終わると・・・今度は何やら体操服に着替えて高須山までの登山???いやハイキングのようだ。
 引率するのは、藤川先生畑先生、そして私は一度もお逢いしていないALT(英語指導助手)ピーター先生だ。5人は水筒を肩から下げ、自分の庭でもあるような、これまで何十回?も登っただろう高須山の頂を目指して歩いて行く(ピーター先生、高須山登山は初めてらしい!)
 高須城小学校から高須山山頂までは・・・約50分!先頭を歩く光くんは途中で拾った長い木の枝を手に、木々の間にある蜘蛛の糸と格闘している。頂上(城山・じょうやま)に着くと、光くんは360度絶景のパノラマを楽しみ・・・岬ちゃんはデジカメで植物観察をしていた。そしてこの時、高須山の頂上で二人はある事を思い付いていたのだが・・・それはまだまだ秘密らしい。
 昨年11月1日、学校の体育館には岬ちゃん光くん、そして石村校長先生藤川先生畑先生がいた。そして何やら優しいお顔の見慣れたおまわりさんが・・・・鷹巣駐在所小西さんだ。今日はその小西さんを先生として招きどうやら防犯訓練のようだ(でも、高須町には不審人物はいないでしょう!あっ・・・俺か?)
 この日、不審人物役の藤川先生(サングラスをかけてはいるが・・・やっぱり優しいオーラが!)光くん岬ちゃんに声をかける。
「一緒においで・・・!」と、無理やり光くんの手を引っぱる不審人物役の藤川先生、これに対し「止めて下さい・・・教頭先生!」と、逃げて行く光くん(何で「教頭先生!」なのか?)
 今度は車から「一緒にいなくなった犬を探して欲しい!この辺りの道を知らないから教えて!」と、岬ちゃんを車に乗せようとする藤川先生に、こちらも距離を置きながら付いていかない岬ちゃん小西さん「絶対、付いていかない!大きな声で近所の人に助けを求める事が必要です!」と、アドバイスしたのだ。
 不審人物役の藤川先生も・・・児童二人も・・・それを見守る石村校長先生も畑先生も・・・先生役の小西さんも、みんな笑顔の防犯訓練だったのだが、一番笑っていたのはテレビの前の・・・次男だった!(私もね!)
 防犯訓練が終わる頃、小学校には地元高須町の皆さんが集まってきた。体育館ではこれからミニ・コンサートがあるのだ。楽器が得意な小西さんと故・朝倉教頭先生からギターの手ほどきを受けた光くん岬ちゃん・・・それに畑先生によるコンサートだった。いつもお世話になっている地元の皆さんに感謝のコンサートとなったのだ(それにしても、小西さんの趣味は広い・・・蕎麦打ちから楽器まで・・・!)
 実はこのコンサート&防犯訓練の数日前に、高須城小学校休校が市教委で決定したのだ(私もこの時、石村校長先生からお話を伺いました!)。
 高須城小学校に残されている記録によると、明治34年には児童数35人大正5年には63人、そして昭和34年には60人と多くの児童がこの高須城小学校で学んでいたのだ。しかし、その昭和34年から児童数は減少となっていくのだ。 昭和55年には9人平成4年には14人となり今年度2人となってしまったのだった。
 ここで懐かしい放送記録が映しだされたのだが、実はこの《福井っ子はいま・・・》平成12年1月9日放送分で高須城小学校が取り上げられていたのだ。つまり七年前の映像なのだ。
 この時の児童数は・・・5人で、朝元気に登校してくる児童の姿があった。この児童の中には、佐々木さん長女(現・藤島高校3年)長男(現・棗中3年)次男(同2年)もいた(当時は幼稚園もあった!)。そして、教室で先生から虫眼鏡で植物を観察する・・・可愛い女の子が一人???
 その可愛いい児童の顔を見た瞬間・・・「えっ!まさか?」と、声を出した私と次男。その可愛いい児童だが、岬ちゃんお姉ちゃん萌ちゃん(当時5年生、現・大学1年)だったのだ。岬ちゃんとお姉ちゃんとは7つ違いなのだが・・・やはり・・・姉妹・・・「顔も声も・・・似ている!」
 そして、この5人の児童の中には光くんお兄ちゃん(当時2年生)もいたのだ。そしてそして・・・発見!しました。
 この時の先生の中には、私が明道中学校の卒業式の日、校長室にて2年連続で高須町の話で盛り上がった、春山小学校の校長先生・・・筧(かけい)先生の姿もあったのだ。「若い!」(筧校長先生・・・すいません!)
 話は戻り、高須山登山の時光くん岬ちゃんが考えていた事なのだが・・・それは卒業記念となる高須山の道標〔案内看板〕だったのだ。
「最後に、僕たちに手で何かを残したい!」そんな二人の児童の思いが数十枚の高須山までの案内看板(道標)となったのだ。藤川教頭先生の指導により製作される看板なのだが、勿論・・・この道標は全て手作業で・・・製作日数は数ヶ月を要したらしい。遠い先輩方が以前作った看板が古くなり読みにくくなったことにより、今回この新しい看板の製作となったのだが、放送では光くん・・・岬ちゃん、それぞれその作業工程には個性が出ていたのだ。あっ!と言う間に完成する光くん・・・それとは逆に、ゆっくりと作業する岬ちゃん。これを見ていた次男(中1)は、二人を良く知っているから大笑いでこの番組を見ていた(腹を抱えて笑っていた次男だった)
「これで初めてここ(高須山)に来た人も安心してこの看板を見て登れるよ!」そんな優しい心遣いで作成された数十枚道標だった。
 今年二月、うっすらと雪が残ったグランドに出てきたのは少しおめかしした光くんだった。この日、光くんは春から進学する棗(なつめ)中学へ体験入学するのだ。藤川先生の引率で棗中学に行くのだが・・・緊張しているのか、内ズックを忘れた光くん、慌ててそのズックを取りに戻った。「緊張しているの?」と、藤川先生「いや、全然緊張してないよ!」と、答える光くん(まあ・・・いいか!)
 2人が車に乗ると、その車の横で優しい笑顔で見送る石村校長先生と、校舎の二階の窓から「いってらっしゃい!」と、声をかけ手を振る岬ちゃん畑先生(こんなの、いいなぁ!)
 光くんが棗中学に出かけると、一人ぼっちとなった岬ちゃん、寂しいのかな???と、思えば・・・何やら秘策がありそうで・・・「鬼のいぬまの・・・何とかで!」畑先生と2人で一ヶ月後に迫った光くん卒業式《六年生を送る会》作戦中!らしいのだ(なるほど!)
 で・・・何をするのかな?と、聞けば「鶴の恩返し!」を考えているらしいのだ。「岬ちゃんは何の役?」と、聞くと「おじちゃん!」と、岬ちゃん(おじちゃん???)どうやらアレンジした「鶴の恩返し」らしい。
 色々な色紙で劇中の鬼やら何やらハサミで作成する岬ちゃんだが、いざ作成に取りかかると顔は真剣となり、これも先輩の光くんに喜んでもらおうとの岬ちゃんの優しい心だった。
 そんな岬ちゃん番組スタッフが質問したのだ。光くんのいない一人の校舎「一人で寂しいですか?」と、聞けば「慣れています。2年生と4年生の時は年中一人だったし!」と、答える岬ちゃん(でも、やっぱり・・・寂しそうです!)
 数時間後、藤川先生光くんが棗中学の体験入学を終えて戻ってきた。教室には藤川先生畑先生、そして光くん岬ちゃんがいる。どうやら下校の時間らしい。「さよなら」の挨拶後「気をつけてお帰り下さい!」と、2人に話す藤川先生だが・・・・2人の家はこの学校から徒歩30秒なのだ(これも・・・高須城小学校だからだ!)
 3月2日、この日の高須町は少し早い春の日差しが降り注いでいた。この日は2人が作成した高須山までの道標看板を取り付けにいくのだ。看板は全部で十八枚となった。一枚一枚の看板には矢印と共に「狭くて急です!」「広くてゆるやかなです!」「お疲れさまです!」などと、2人の優しい心の声が書いてある。
 看板を背負い学校を出発する2人、城山までの道を順番に立てて行くのだ。あれやこれやと児童2人は同行の藤川先生&畑先生と楽しい押し問答をしながら一本づつ想いを込めて看板を設置していく。看板の向きを確かめながら登山者の気持ちになって立てていくのだ。
 標高438メートル高須山、その頂に着くと西には日本海の青い海が・・・東には白山連峰のまだ白い雪化粧の山並みが四人の目を癒してくれた。そして、最後の看板には「頂上です、お疲れ様です。気を付けてお帰り下さい!」と、書かれてある(光くん岬ちゃん、そして先生方・・・有難う!)。
 そして、話はまたまた三月十六日のあの卒業式に戻った。大勢のご来賓と地元・高須町の皆さん、そして多くの報道カメラの中・・・あの感動の卒業式だった。
 光くん岬ちゃん・・・最後となるかもしれない高須城小学校最後の2人の児童の想い出は・・・「たくさんあるよ!」だった!(そりゃそうだ!)
 放送終了後、テレビの前の次男は・・・まだ笑っていた。私は録画ボタンを押そうとビデオの前に来たのだが、ここで大問題が起きていた。そう・・・録画ボタンを押していなかったのだ(大失態!!!)。そこで録画をしているはずの田中先生に電話をすると「ディスクでお渡ししますよ!」と、嬉しいお返事を頂いた。
「お父さん、田中先生から貰ったら永久保存のシールを貼ろうね!」と、次男が話した(当然!)
 それにしても・・・いい番組だった。この放送の中では石村校長先生藤川教頭先生そして畑先生石黒さん出口さん懐かしい姿???もあったのだが、つい先月までの事なのに、懐かしい・・・と感じてしまう私は・・・正直・・・・が溢れていたのだ(だって!)
 ところで、我が家での高須町関連の録画ビデオは全て次男が言う・・・永久保存版となっている。FBC2年間のげんき米プロジェクトから、連合音楽会にその他・・・諸々だ。
「記録より記憶に残る」・・・永久保存版がまた一つ我が家に加わる事になった!


△男の酒のつまみ・・・239
 うどの酢味噌味!
 やはりこの時期になると毎食(夕飯&晩酌)には、旬の山菜の顔が並ばないと食卓が寂しくなるものだ。そこで今晩は独活(うど)酢味噌で頂くことにした。皮の部分はキンピラに・・・保存!中の白い部分を水&酢ボイルする。ボイルが中途半端だと芯が茶色になるので気をつけてほしい。ボイルを終えたら冷水に漬けて置く。酢味噌は市販のものでOK!「美味しい・・・!お代わり???」と、なる私。


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【四月の三/今年も棚田オーナーに参加!】4月16日(月)

 四月も半ばとなり、福井市内は町並みも人々の服装も春の装いとなっている。しかしながらまだまだ気候は不安定が続き、今日は暑い?と思えば寒い日もあり・・・毎日の仕事着(私は私服!)も適当な長袖の日、半袖の日と部屋の中はハンガーにかかったポロシャツが並んでいる。
 この日、半袖ポロシャツに薄手のズボンを着ている私に「お父さん、寒くないの?」と、話す・・・入学式から2週間経った次男だが、毎日何故か楽しそうにこちらは学生服を着て友達と登下校となっている。楽しみにしている中学校の部活はまだ始まらず・・・現在のお楽しみは・・・新しいクラスメイトとのおしゃべりと・・・何故だか田中先生理科の授業だそうだ。「何で田中先生の理科が楽しいの?」と、聞く私に「秘密だよ!言うと田中先生に怒られるから!」と、意味不明の次男だった。理科嫌いの子供が増える中、田中先生の授業はどうやら1年生には大人気のようだ(今度、授業参観しよう!)
 小学生から中学生へとなり「慣れるまで時間がかかるかな?」と、心配していた私と妻だがそんな親の心配も他所に次男はマイペースで新一年生生活を楽しんでいるようだ。
 昨日もお昼に自宅に帰ると、数台の自転車が車庫に並んでいて「ん・・・この自転車は何だ?」と、考えていると応接間から楽しそうな歓喜の声が聞こえてきたのだ。次男の友達が来ているのかと私が応接間を覗くと・・・そこには5〜6人の次男の友達の姿があり・・・みんなでテレビゲームに夢中で遊んでいた。しかしながらよくよくその友達の顔を見た私なのだが・・・一人も顔見知りの子はおらず・・・次男に聞くと「春山の子だよ!」と、話すのだ。同じクラスになった他校出身の子たちと早くもこれほど仲良くなったのかと、驚く私だが・・・それも良い事だと次男の社交性に感心する私だった(やっぱり・・・俺の子だ!)
 さてこの時期になると「今年はどうしようかな?!」と、悩む事がある私だが・・・それは六年目を迎える高須町の棚田オーナーに参加するかしないのかと言う事だ。
 私自身今年で4年目となる棚田オーナーへの参加なのだが、当初は次男が小学生の間だけと決め込んでいたこの棚田オーナーへの参加、しかしながらこの4年間の棚田オーナー参加において、我が藤田家高須町の皆さんから色々な面でお世話になっており簡単に「今年はやらない!」と、なると植木御大佐々木さん、それに顔馴染みとなった高須町の皆さんに申し訳なく感じてしまう私だった。
 今年はオーナーでの参加ではなく・・・取材活動をメインにと田中先生とも相談したのだが・・・「やはり、藤田さんはオーナーをしながらの方が・・・!」と、田中先生の貴重なご意見だった(そりゃそうですよね!)
 そんな中、今年も高須町の棚田オーナーの募集が開始された。私達がこの高須町の棚田オーナー募集を知るのは、福井市の広報案内(3/25)と、福井新聞日刊県民福井の紙面(4/1)、それに前年度オーナー参加の場合、福井市農政企画課からの案内の四つとなる。
 そして何日か前の事、「今年はどうするの?市役所から案内きてたよ!」と、母がその農政企画課からの封書を私に手渡した。「当然やるよ!」「そうなの!」そんな短い会話での我が家の今年度の棚田オーナー参加は決定した(簡単だ!)
 農政企画課からの棚田オーナー募集の要項書、四年目ともなると・・・その要項書も・・・さらっと・・・読む事となる私(農政企画課の皆さん・・・すいません!)
 だが、一応・・・最後まで目を通していた私だが、最後の欄に担当・・・(藤田)と、書いてあるのを見た。「今年も続けて藤田さんが担当するのか!」と、大いに安心した私だった。何故なら農政企画課での高須町棚田オーナー制度の担当者だが、毎年度変わっているからなのだ。
 私が棚田オーナーに参加させて頂いた三年前の担当は・・・加畑さんと言う若い男性だった。二年前は・・・優しい笑顔の本多さん(男性)で、昨年は・・・美人の藤田さんだった。しかしながら我がホームページ農政企画課とは色々な面から密に連絡を取り合う事が多く、そんな中での電話で「藤田と言いますが・・・藤田さんおられますか?」と、話す私は何故か照れてしまう事が多く、それでも少し嬉しい気分???の私だったのだ(意味が分からない???)
 そして今日の午後の事、棚田オーナーの事で農政企画課に電話をした私、いつものように
「お疲れ様です!藤田ですが、藤田さん・・・お願いします!」と言うと
「はい、藤田です!」と、聞きなれた藤田さんの声が受話器から聞こえてきたのだ。
「現在のオーナー参加者の応募数は?」「まだ、応募してないけど当然今年も、私は参加しますよ!」なんて色々話していた藤田同士の会話だったのだが・・・・ここで藤田さんから驚きの話を聞くことになったのだった。
「もちろん今年も高須町には本多も私もお世話になりますが・・・担当は代わりまして・・・西野と言う者になります!」と、藤田さんが話すのだ。私は突然の藤田さんの話に
「えっ!嘘!・・・何で?」と、少し寂しい気分となった。せっかく昨年の一年間でお互い少し知り合えた2人の藤田同士!(意味深な・・・誤解を招くような事を書くな!)だから本当に寂しい気分になったのだった。
 しかし、次の藤田さんからの言葉は・・・・
「今年の担当の西野は若い女性ですから!」だった。
「若い女性???」と、聞いた私は・・・心も晴れ晴れとなり少しルンルン気分となっていた(何を考えている!)
「藤田さん、今年も宜しくお願い致します!」
「いえいえ、こちらこそ!」と、お互い挨拶をしながら電話を切った私だが・・・・まだ見ぬその新担当西野さんの顔を一人想像していたのだった(変態!・・・暇人!)
 夕方・・・「担当の藤田さん代わるらしいですよ!でも、新しい担当は若い女性です!」と、田中先生に電話をした私。「そうですか!寂しいですね」と、こちらは冷静な田中先生だった(田中先生が普通なのだ!)
 来月13日田植え予定日となる高須町、学生服で帰宅してきた次男に「来月13日が田植えだよ!」と、中学生となった次男の反応を見ると・・・「そうなの!了解!」と、意外にもやる気の次男に驚いた私だった。
 少し大きくなり・・・中学生になった次男だが、まだまだ癒しの山里・高須町は・・・大好きなようだ。
「今年も高須町の棚田は豊作だぁ〜!」


△男の酒のつまみ・・・240
 もやしと豚肉の簡単しゃぶしゃぶ!
 プロ野球をテレビで見ながら晩酌が私の楽しみの一つなのだが、今日は使い慣れた小さめの土鍋しゃぶしゃぶをしてみた(小さな贅沢!)。豚肉はしゃぶしゃぶ用を用意し、その相方は・・・もやしとなる(身体に良い!)
 土鍋にはだし昆布沸湯してくればもやしを入れ豚肉しゃぶしゃぶだ。豚肉でもやしを包み・・・ぽん酢ゴマダレの二種類で頂く。簡単・・・美味しい!
「頑張れ!ジャイアンツ!打て・・・由伸!」(高橋由伸のサインボールを握りしめながら応援している私!)


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【四月の四/本郷小学校は・・・授業中!】4月20日(金)

 私は今、誰もいない休校となった高須城小学校の校庭に立っていた。静かな高須町に・・・静かな校舎が今、私の目の前にある。
 つい先日まで、先生達や児童の笑い声が響いていたそんなぬくもりがあった校舎の窓にそっと近づき目を瞑ると、灯りの点らない誰もいないはずの職員室から「こんにちは、ようこそ藤田さん!」と、石村校長先生藤川教頭先生、そして「かつ丼とラーメンの出前を!」と、冗談の言えなくなった畑先生石黒さん、また、美味しい給食を毎日調理して下さっていた出口さんたちが今でもひょっこりと笑顔で顔をだしそうな・・・感じであった(まだ・・・少しの違和感があるのです!)
 校舎の屋根木々には光くん岬ちゃんに代わり、小鳥たちが囀っていた。再び目を閉じた私・・・遠くからでも聞こえる岬ちゃんの高い声、声変わりが近いのか少し低音となりつつある光くん・・・そんな二人が楽しそうに三角ベースの高須ローカル・ルールで先生たちと野球をし、走り周っていたお昼休み、そんな校庭の草も・・・少し寂しそうに生えていた。
 
 私がそんな高須城小学校校庭に佇んでいると、前の道路では畑仕事に向かうお婆ちゃんたちが手押し車を押しながら、不思議そうに私を見ながら通り過ぎて行く(不審人物ではありません!)
 三月末で明治・大正・昭和・平成と続いた、131年の長い歴史と伝統の幕を一時おろした高須城小学校、少子化問題に悩む全国各地域・学校は多いのだが・・・いざ、休校や閉校が我が事になると改めてその寂しさは心の奥まで重く暗い影を残す事になるものである。しかし、全国でも珍しく話題になっていた《一つの集落だけが校区》高須城小学校復活を望む声は早くも至る所から私の耳に聞こえてくるのだ(本当ですよ!)
 高須町の気候と風土!・・・この高須町で育つお米や野菜などはすでに「美味しい!」と、評判となっているのは皆さんご存知のことだろう。だが・・・お米や野菜ばかりではないのがこの高須町なのだ。優秀な人材!がこの高須町から育っている事に・・・皆さん気づかれているだろうか?
 山里の高須町、同じ福井に住みながら高須町の存在を数年前まで知らなかった私だが、そんな人は少なくないはず。だが、そんな小さな集落高須町から優秀な人々が今、福井市内で多く活躍しているのだ。
 いつか明道中学校田中先生と2人で話していた時のことだが、「高須町って・・・先生になっている人、多くないですか?」と、私が話すと「そうなんです!私もそれは感じていました。高須町の人は優秀な人材の宝庫かもしれませんね!」と、田中先生が真剣な顔で答えたのだった。
 少ない集落人口のはずの高須町、そんな集落から今現在私の知る限りでも三人の先生が福井市内でご活躍されているのだ。紹介すると、次男がこの三月まで通っていた順化小学校林校長先生高須町のご出身。それに植木御大お嬢様進明中学校で活躍されている。そしてこの春、明道中学校に着任された湯口先生も・・・・つい先日、学校で挨拶したのだが・・・高須町のご出身なのだった(優しそうな・・・先生ですよ!)
 福井市中心部なら多くの等があり、学校帰りに塾通いと当たり前の話なのだが、高須町ではそんな事はなく学校の勉強だけが中心のはず。
 昔から「田舎の子は本当に勉強が出来る!」と、聞かされた事があった私は改めてそんな言葉を思い返していたのだ。高須町の自然と共存した地域性高須城小学校が育んできた素晴らしい子育て環境は・・・・今、忘れかけている日本教育の何かを私たちに問いかけているのかも知れないのだ(安倍総理も山谷えり子先輩(順化&明道)も一度、高須町へ!)。こんな素晴らしい日本古来の環境での子育ては、これからの福井の未来、いや、日本の未来に必ず必要となる人材を齎すはずなのだ。
 そうそう佐々木さん長女藤島高校(3年)なんですよ!(やっぱり、高須町の皆さんは優秀ですね!)そんな事を田中先生とお酒を交わしながら他人事のように話していた私なのだが、忘れていたのではないのだが田中先生も???・・・藤島高校出身!そしてお嬢様藤島高校(2年)でした!(失礼しました!)
 高須町の皆さん・・・先生ばかりではなく、色々な分野で活躍しているのです!そんなみなさんの原点となっている高須町高須城小学校は、再び基礎教育の場として再開される時が来て欲しいのである。「いじめ」「不登校」など存在しない学校に・・・復活の声が上がるのは当然の事ではないだろうか。
 便利さだけが取り巻く今の世の中、「ちょっと、コンビニに!」「下校したら○○ちゃんの家でゲームしよう!」なんて話す今時の子供たち、そんな事が当たり前のご時勢だから高須町教育理念教育環境が今・・・必要なのではないだろうか!
 さて、そんな高須町から私は福井市中心部に向かって車を走らせていた。この日何をしに高須町に行ったのかは・・・私と植木御大だけの秘密なのだが・・・(どうでもいいか!)
 車は高須町から清水平を抜け・・・一王寺に入った。本来ならこのまま福井市中心部に走るはずなのだが、私はここから数分のところにある本郷小学校に向かったのだ。
 本郷小学校・・・一昨年だったか、上郷小学校下郷小学校の両校が統合され、新たに出来たのが本郷小学校なのだった。小高い丘の上に完成された綺麗な小学校は、幾度となく前を通り「是非、入ってみたい!」と、以前から思っていた私だった。しかしながらそれは出来ずにいた私(そりゃそうだ!本当に不審者になる!)
 しかし、高須城小学校の休校により藤川純一教頭先生がその本郷小学校の教頭として赴任され、また、石黒さんも以前から高須城小学校本郷小学校との二校を掛け持ちで事務職を担当されていたのだった。
「今度、本郷小学校にお邪魔してもいいですか?」と、藤川先生に話していた私に「どうぞ・・どうぞ!」と、快く返事をして頂いていた藤川先生(そりゃ、無碍にダメとは言えないかもね!)
 そんな藤川先生と私は・・・順化小学校明道中学校の1学年違いの先輩後輩となるなのだ(だから、どんな仲?!)。一応、先輩となる私の願いに断り切れない可哀相な藤川先生だが、そんな事をまるで無視するかのように今回お邪魔することにしたのだった。
 それでも数日前に本郷小学校に電話をした私。それは緊張の中での会話だったのだが「はい、本郷小学校・・・石黒です!」と、電話に出たのは石黒さんだったのだ。この日、藤川先生は会議出席(市・教頭会)のため学校にはおられず、石黒さんに訪問の事をお願いしたのだった。「是非、お越し下さい!」と、優しい言葉の石黒さんには、数年前から高須城小学校で幾度となくお会いしているはずなのだが、改めて考えてみると不思議な事に話をした記憶がなく・・・その電話が初めての会話だったのだ(女性が苦手な私ですから!・・・嘘?!)
 福井市大年町、その小高い丘の上にある本郷小学校全校児童48人と藤川先生から聞いていた。緩やかなスロープを登り駐車場に車を止めると、そこには大きなグランドと今風の綺麗な校舎や体育館があった。だが、意外にもそのグランドにも校舎の中からも児童たちの姿や声は無く、静寂の小学校だった。「授業中かな?!」なんて思いながら私は用意したデジカメで校舎を写し・・・玄関の前に立った。
 今ではどこの学校でも使われているカメラ付きのインターホン・・・その玄関の扉は不審者対策にと固く閉ざされている。私はそのボタンを押そうとしたのだが、玄関から校舎の中を見て何らかの不自然さを感じたのだった。「ここで・・・いいのかな?」と、感じながらよくよくその校舎の雰囲気を確かめると、そこは併設されている本郷幼稚園の玄関だった(チャイム押さなくてよかった!)。慌てて奥にある小学校の玄関に移動したのだが、この数分間の私の行動はまるでその不審者のようにキョロキョロ状態だった(だって・・・初めての学校ですから!・・・あ〜ぁ緊張した!)
 改めて小学校の玄関であろうその扉の前に立った私、その扉の横には職員室が見えた。その職員室を窓越しに覗いた私に一人の女性の姿が見えた。「あっ!石黒さんだ!」と、少し緊張の解れた私に・・・おそらくその職員室の中から人の気配を感じたのか・・・石黒さんが窓の外の私に気づいてくれたのだ(いやいや・・・不審者の気配を感じていたのかもね!)
 窓を開ける・・・石黒さん「こんにちは、今玄関を開けます・・・お待ち下さい!」と、笑顔の応対だった。玄関に入るとそこは綺麗に掃除されている廊下や下駄箱があった。
 石黒さんに案内され職員室に入った私に美味しいお茶を入れてくれる石黒さん。「今、教頭先生は授業中です。しばらくお待ち下さい!」と、話してくれた。
 そしてここでこの石黒さんから意外な話を聞く事になった私だった。
「私・・・順化、明道です!」と、石黒さん。
「えっ!本当に・・・じゃ後輩なの」
「はい!」こんな2人の・・・いや、誰もいない二人っきりの職員室での会話だった(意味深な表現は止めなさい!)。
「順化のどこ?(町内)」
「○○です!」
「そうなの!」
「そうなんです!」
「もっと早く言えばいいのに」
「はい!」
昼下がりの午後?(午前中だ!)2人だけの・・・誰も邪魔する者はいない会話は弾んだのだ(だから・・・その表現は止めなさい!)
 お茶の置かれたテーブルには、ガラス板越しにこの小学校の児童たちが楽しそうに写った数枚の写真が並べられていた。卒業式・・・入学式と色々な写真が私の目を楽しませてくれた。
「先生は全部で何人なの?」と、石黒さんに尋ねると
「教職員は13人です!」と、答えてくれる。  決して広くはない職員室・・・普段、明道中学校の広い職員室を見慣れている私には、そんな本郷小学校の職員室が可愛く感じられたのだ。
 静かな校舎内だった。耳を欹てるのだが児童の声は聞こえず・・・職員室の中を忙しそうに歩く石黒さんの足音だけが聞こえていた。
 突然、職員室のドアが開いた。そして授業を終えた藤川先生が・・・あのいつもの笑顔で入って来られたのだ。「お邪魔しています!」「ようこそです!」こんな会話だったのだが・・・三人の職員室は・・・「ここに石村校長先生と畑先生がいれば高須城小学校の職員室だ!」と、思わず笑ってしまった私だった。
「お時間があれば校舎内をご案内します!」と、藤川先生の温かい心配りだったのだが・・・私も一応・・・仕事に戻る時間が近づいていて、それは次回の楽しみにした私(えっ・・・また行くの?)
 約20分の本郷小学校へのお邪魔となった私だったのだが・・・それでもあれやこれやと藤川先生との会話は弾んだのだった。「また、飲みにいきましょう!」そんな話をしながら本郷小学校を後にした私は、途中で車を止め校舎を全望出来る道路に車を止め、またまたデジカメを構えた。
 すると、近所のお婆ちゃんだろうか私の姿を見て「ご苦労様です!」と、話かけてきたのだ。「いいお天気で!」と、答えた私に「ほやって・・・」と、お婆ちゃん。ここも高須町と同じ・・・長閑な風土で優しい人たちの住む町だった。
 藤川先生と石黒さん・・・「縁は異なもの・・・」なんて言うのだが二人とも私の後輩になるとは・・・不思議なものだ、そんなことを考えながら仕事に戻った私だった。
 授業のはじまりと・・・終わり、チャイムは鳴らさないらしい本郷小学校は・・・高須城小学校と違い、東西に広い校区を持ち、スクールバスを活用していると聞いた。ここもまた地域の皆さんや児童の多くは、学校の閉校問題で頭を悩ました日々があったのだ。
 本郷小学校・・・《教育目標》「自ら学び、たくましく、共に生きる子の育成」《めざす児童像》「強い子、考える子、助け合う子」。児童数48人、園児数7人・・・・多くはないその児童数だが、このままこの子供たちの数をいつまでも維持して欲しいと願う私だった。
 ところで、本郷小学校の校歌の1番から3番の冒頭にある「さわらび・・・」って・・・何?、教えて藤川先生!
※本郷小学校のHP(http://www.city.fukui.fukui.jp/gakkou/elm/hongo/index.htm)も是非、ご覧下さい!


△男の酒のつまみ・・・241
 あさりのかき揚!
 本来なら関東風のアオヤギの貝柱を使いたいかき揚なのだが、これは簡単には手にはいらずあさりを使う、多少苦労するのだが貝から身を取り出し薄い塩水で綺麗に洗い準備する。他にはカニカマをちぎり、越前水菜も2センチに切る。冷やした天麩羅粉冷水でほどよくきじを作る。あとはあさりカニカマ水菜を混ぜ・・・を乗せたオタマで油の中へ!材料はお好みだが、アサリを美味しく食べるには固い食材はダメ!天つゆでもお塩でも・・・最高ですよ!


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【四月の五/マラソン大会の練習中!】4月25日(水)

 五月を前に少しずつ暖かい日々となっている福井市内。淡いピンクの花びらを楽しませてくれていた桜の季節も終わり・・・郊外の田園ではそろそろ田植えの準備に忙しそうな農家の皆さんの姿も見られる頃となった。
 今年で六年目を迎える高須町・棚田オーナー制度も来月13日田植えとなり、毎年お逢いするオーナーさんや新たに参加のオーナーの皆さんのお顔を拝見するのが待ちどうしい私であった(もうすぐですね!)
 そんなのんびりとした本日夕方だが、今、私は自宅の前にある三秀公園三秀プール(市営プール)の前で携帯電話のストップウォッチ機能を見ながら・・・次男(中1)を待っていた。
 その次男はこの独自の周回コースも4周目で・・・遠くから「ハァハァ・・・」と、激しい息づかいで次男が走ってくる。「さっきより、2秒遅い!ペースを上げて!」と、私が声をかけると「・・・・・」無言で私の前を通り過ぎて行く、明道中学校のネーム入りのジャージ姿の次男だった。
 数日前から始めた星一徹(アニメ・巨人の星)ばりのこの親子特訓だが、これには理由があったのだ。
 四月に明道中学校に入学した次男だったのだが、意外にも毎日楽しそうに登校していた。
「友達は出来たか?」
「うん、出来たよ!」
「クラスのみんなは仲良くしているか?」
「うん、仲いいよ!」
「いじめはないか?」
「あるわけないよ!」と、こんな明るい答えの次男だった。
 しかし、そんな次男の唯一の悩みの種は・・・・5月頭に行われる明道中学校恒例足羽山マラソン大会だったのだ。最近の運動不足が原因なのか珍しくこのマラソン大会に向け少しナーバスとなっている次男。「お父さん、少し付き合ってよ!」と、次男が相談してきたのは数日前の事だった。
「お父さんも、昔(中学時代)足羽山で走ったんでしょう?」
「そうだよ、コースは今と違って足羽小学校のグランド前の道路からスタートして・・・ほらお墓に行くあの坂道を登り、今度は足羽山の南(自然史博物館方面)のゴールまでね!」
「そうなの?・・・で、お父さんは速かったの?」
「毎年、学年10位以内には入っていたかな!」(嘘です!)
「わぁ〜速いね!」
「だからお前も練習して20位以内を目指しなさい!」
「えっ!・・・でも頑張る!」
 こんな親子の会話の後、マラソン大会に向けて練習が始まったのだった。それにしても何故、次男がマラソン大会に頭を悩ましていたのか・・・当時の私よりもはるかに持久力がある次男、小学生の時に何度か持久走を見たことがある私だが、そこそこ速い次男だった。
 原因は?・・・負けず嫌いなのか!・・・それとも・・・誰かの前カッコイイところを見せたいのか?!(それは、ない!私じゃないから)
 次男がこの自宅前の周回コース・・・9周目を走っている。「ラスト1周、いいペースだよ!」(だから、そのペースの基準は何なんだ?)息を切らし真剣な顔をして走る次男に、夕方の買い物帰りの近所の奥様方も笑顔でこんな親子を応援していた。
 予定の10周を走り終え、次男は私の前のゴールで足を止めた。
「ダメダメ!そのままもう1周・・・呼吸を整えながらゆっくり歩いて!」
「・・・・」
「聞こえたか?」
「うん!」次男の額からは汗がこぼれていた(青春だぜ!)
「どうだった・・・僕の走り?」
「まだ、だめだよ」
「そうなの!」
「明日は足羽山のコースに行こう」
「うん!」こんな会話の後、この日の練習を終えたのだった。
 お風呂・・・夕食を終えた次男が晩酌中の私の前に座っていた。少し疲れた顔だが・・・まだまだ13歳元気な顔だ!
 昭和40年代!想い出される・・・懐かしい記憶!中学時代のマラソン大会で自分が何位だったのかは・・・当然、覚えていないのだが、何故か陸上部やサッカー部が上位を独占した事は記憶にあるのだ。「あの(昔)コースは辛かったんだよ!今のコースは楽だから・・・最初、先頭集団に付けて後は自分のペースで走りなさい。そうすれば必ず20位ぐらいになるから!」と、アドバイスを次男にした私。だが・・・実は今のコースも数年前に走っていた私だった。
 そう・・・あれは長男が中3の時だった。私は仕事を抜け出し生徒達の応援に足羽山に車で出かけたのだった(当時、一応・・・PTA会長だったから!本当は、長男の応援!)
 足羽山に着くとやはり応援の数十人のお母さんたちがカメラ片手に我が子の勇姿を激写しようとスタート&ゴール地点に並んでいた(どこの親も一緒です!)
 学年毎にスタートして行くのだが、そのスタートの号砲校長先生で・・・私のお世話になった向井健治校長先生だった。笑顔の素敵な向井校長先生は、号砲を鳴らすと「頑張って・・・無理するなよ!」と、スタート地点を飛び出していく生徒たちを応援していた。そして、最後の3学年のスタートとなった時だった。突然向井校長先生が私に「会長さん・・・スタート(号砲)をお願いします!」と、話しかけたのだった。
 実はこの時・・・私は何故か短パンの運動着で・・・長男たちと走るつもりでいたのだった。「昔とは違い・・・こんなコースくらい楽なもんさ!」と、自分で言い聞かせていた私はこの時点で走る気満々でいたのだった(おいおい!あれから何十年経っているのか分かっているのか?!)
 号砲用ピストルを向井校長から受け取った私の前に、長男を含めた二百数十人の3学年男女スタート地点に並んだのだった。驚いた顔の長男も・・・はっきり確認した私。マイク片手の先生が「それでは、3学年のスタート1分前です。スタートの合図は、藤田PTA会長です!」と、紹介してくれた。保護者や生徒たちから湧き上がる歓声・・・・(無い無い!)
「位置について・・・用意・・・」「ドン(号砲)!」引き金を引くと、スタート地点を勢いよく男子の生徒達が飛び出して行った。そして私は最後の女子生徒がスタートラインを過ぎた時、「私も走ります!」と、先生に声をかけスタートしたのだ。「えっ!」と、驚いた顔の先生たち。私は余裕の笑顔でのスタートだった。航空自衛隊当時、毎日何キロも走り訓練したこの身体は中学生にはまだまだ負けるものではない(だから・・・何十年経っている!)。そんな事を考えながらスタートしたあの時の私だった。
 しかし・・・スタートから数百メートル地点、緩やかな登り坂が続くこの道に・・・早くも「止めればよかった!」と、感じていたのだった。普段の運動不足、そして自衛隊当時より確実に数十キロの体重の増加、それにも増して精神力が失せていた私だった。スタート前は「必ず長男と並走するぞ!」と、甘い考えを抱いていた私だったのだが・・・到底それはスタート数分後には確実に無理な状況となっており・・・すでに足の筋肉悲鳴を上げていたのだ。「こんなはずでは???」と、情けない自分がそこにいた。最後尾から勢いよく飛び出し数十人の生徒を追い抜いた私だったが・・・すでにその生徒数人に抜かれていた。
「止めるかな!どうしよう!」早くも、頭の中でそんな事を考えていた私だが・・・「ここで止めたら、恥だぞ!最後まで走れ!」そんな言葉もこちらは速く脳裏を走っていたのだ。
 コースの途中、何人かの先生たちが立っている。私の走る姿に一様に驚く先生たち。そんな先生たちの前になると無理な作り笑顔の私がいた。足羽山動物園近く、すでに心臓は爆発しかけていた私。もうすぐ急な下り坂・・・だが、この下り坂は・・・・帰路には急な登り坂となる。「止めようか?ダメだ!・・・歩こうか?いや、ダメだ!」そんな事ばかり考えていた。そんな時、コースの向こうにカメラを構えたお母さんたちの姿が見えてきた。数人のお母さんたち、それは同じPTA広報委員会のお母さんたちで、このマラソン大会を広報誌に掲載するためこの日、取材に来ていたのだった(勿論・・・我が子の応援がメイン!)
「会長さん・・・頑張って!」「会長さん・・・凄い!」と、そのお母さんたちから声援が飛ぶ。「いやいや、余裕ですよ。取材ですか?ご苦労様です!」と、会長としての挨拶だがそんな言葉もすでに♪途切れ途切れの私(チャゲ&飛鳥か!)
 この時、折り返しを終えた先頭集団の男子生徒4人がすれ違った。「速い!」まだまだ余裕の表情の生徒たち。そしてその数人後・・・長男がすれ違った。その長男だが、笑いながら私を見て「お父さん・・・頑張って!」と、声をかけた(うるさい!)
 急な下り坂・・・・楽なはずの下り坂だが、実はこの下り坂が筋肉に大きな負担となるのだ。ゆっくりと・・・ゆっくりと坂道を下る。「もうすぐ折り返し地点、頑張らないと!」そんな言葉を自分に投げかけていた。
 折り返し地点が見えてきた。そこには3人の先生がいた。私が近づくにつれ・・・驚いた顔の先生たち。
「藤田会長、何してるんですか?」(走っているんだよ!!!)
「会長さん、大丈夫ですか?」(大丈夫じゃないよ!見れば分かるだろ!)
「藤田さん、無理をしないで下さい!」(無理をしてるよ!)
長男の担任&部活(バスケ部)顧問を含めた3人の先生たちからの心優しい激励も・・・私にはこの時、作り笑顔で答えるしかなかったのだった。
 折り返し地点を過ぎ・・・あの急な登り坂となった。走っているのか・・・歩いているのか分からないスピードだった。 それでも私は足を止めなかった(たぶん!)「今、私は何位だろう???」(関係ないだろう!生徒じゃないんだから!)そんなつまらないどうでもいいことを考えていた私だった。
 確実に私の後方には数人の生徒がいるはず、最下位にはならない。そんな事を考えていた時、私の前に一人の女子生徒がいた。すこし肥満体(ごめんね!)女子生徒は、息も荒く歩いていたのだ。
《ターゲット・ロック・オン》となった私はこの女子生徒と共に走る事にしたのだ。女子生徒に近づいた私は「大丈夫?頑張ろうね!」と、声をかけた(自分が大丈夫じゃないのに!)。すると「はい!」と、返事する女子生徒。「一緒に走ろうよ、ゆっくりとでいいから!」と、話すと「はい!」と、走り出した女子生徒だった。
 この女子生徒との並走は・・・「誰が見ても、私がこの女子生徒を心配して伴走しているように見えるはず!これでゴールが遅くなっても言い訳が出来る」・・・そんな事を考えていた情けない私がいた(情けない?・・・卑怯だよ!)。それでも「頑張れ!頑張れ!」と、女子生徒に声をかける私。「はあ・・・はあ・・・はあ!」と、呼吸も荒い女子生徒、だが私も同じだった。
 コース途中、「○○さん頑張って!会長さんと走ってもらってよかったね!」と、立哨の女先生から声がかかった(作戦・・・成功!)。あのPTA広報委員のお母さんたちからも「頑張って・・・もう少しだよ!」と、声援があった。
 しかしこの時、予想外の出来事が・・・・並走している女子生徒が「もう少しだよ!」の声を聞いてペースを上げたのだ。「やばい!」と、私。その彼女のペースに付いていけない私だったのだ(本当に情けない!)
 これではまずいと思った私は先に進んだ彼女に「だめだよ、さっきのペースじゃないと心臓と足の筋肉に負担かかるから!」と、声をかけた。すると「はい!」と、ペースを落とした女子生徒はまたまた私の横に並んだのだ(またまた作戦成功!・・・しかし、どこまで根性が汚いのだ!)
 長男と同級生の彼女、そんな彼女との並走はゴールまで続いたのだ。ゴール地点には多くの先生方や保護者、そしてすでにゴールした長男を含む3年生たちと1・2年生が待っていた。拍手で迎えられていた私と女子生徒。「今、飛び入り参加の藤田会長さんがゴールしました。」と、アナウンスされた。両手を挙げ・・・最後の作り笑いの私。(疲れた!因みに・・・最下位でした!)
 ゴール後、吹き出す汗をタオルで拭い、完璧な筋肉痛を何事もなかったように平然としている私の元へかけよったのは・・・長男だった。「お父さん、走ったんだね!びっくりしたよ!」と、笑顔の長男とそのクラスメイト。そして・・・しばらくすると何故か数人の先生方が私を取り囲み「会長さん、凄いですね!まさか走られるとは思いませんでした!」と、本当に驚いた表情の長男の担任を含む先生たち。しかし、この先生方の驚いた顔のどこかに策略があろうとは・・・この時、全身疲労の私には見抜けなかったのだ。
 当然・・・この日の午後は・・・仕事にならず、お風呂と自室で筋肉回復のストレッチとマッサージ・チェアで身体をケアしたのだ。
 そんな事が頭に鮮烈に今でも残っていた平成14年の明道中学校足羽山マラソン大会の思い出だった(今、目の前の次男には黙っていよう!)
「お父さん・・・もし僕が20位以内に入ったら、何かおねだりするからね!」と、次男が話した。
「いいよ!でも、20位に入れなかったら1週間ゲーム禁止だよ!」と、答えた私。
「えっ・・・嘘!」と、次男。
「とにかく、最後まで頑張れ。頑張る事に意義があるんだから!」と、一応父親らしい言葉で締め括った私だった。
 ここではっきり言える事は、今度の明道中学校足羽山マラソン大会に・・・私は・・・走りません!(たぶん!)
 で・・・あのマラソン大会ゴール後に先生達が企んでいた事なのだが・・・・それは、その年の秋の福井マラソンに参加することだったのだ。理由は3年生の高校入試合格祈願のためで・・・この福井マラソンには向井校長先生を監督?に明道中学校三学年全担任有志、それにが参加した(当時の福井新聞に掲載されました!)
 揃いのオレンジのTシャツ5キロコースに挑戦した先生方と私、ここでは最後まで沿道からの声援を受けて(生徒&保護者)楽しく・・・苦しく走りました(最下位ではありませんでしたよ!)
 因みに、この日の片町での打ち上げは校長先生と先生達と大いに盛り上がった夜となった!


△男の酒のつまみ・・・242
 小じゃが芋の煮っころがし!
 ついつい食卓の上にあると、摘みたくなる小じゃがの煮っころがしだが、これは我が家でも大人気である。一口代の大きさの小じゃがだが、スーパーの陳列棚をよく探すと売っている(季節による!)
 まずは、水洗い・・・表面の汚れをきれいに洗う。キッチンペーパーで水分をふき取り、油をひいたフライパンで炒める。フライパン全体をゆすり・・・小じゃがの表面に軽く焦げ目が付く程度まで炒める。
 次に、小じゃがを入れ、砂糖(黒砂糖がお勧め!)塩(少々)醤油(適量)を入れる(小じゃがが隠れるくらいの水がいい!)を揺すりながら鍋の水分が無くなるまで根気良く続けて欲しい。小じゃがの表面に照りが付けば出来上がり!「最高のつまみです!」
 そうそう・・・この小じゃが芋の煮っころがし田中先生大好物です!


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【四月の六/利休の心と中年男三人!】4月28日(土)

 あれは先月(3月)の終わりの事、ニュースの中での話だったか「今月でポケットベルのサービスが終わります。一つの時代の象徴が幕を閉じます!」と、言っていたのだ。
 世の中に携帯電話が普及するまでの一時代、片町の夜サラリーマン達自営業者達の腰に付けたそのポケベルから「ピーッ!ピーッ!」という音がどこの店でも鳴り響いていたものだった。また、若者の間でもポケベルに表示される数字暗号めいた(語呂遊び)連絡を取り合い楽しんでいたのもこのポケベルだった。
 1968年、当時の電電公社が東京23区でサービスを開始し、瞬く間にポケベルは全国広がった。一大ブームを巻き起こしたポケベルだが、1997年からの携帯電話PHSの急速な普及により減少が続いた。そして、2004年6月末でポケベルの新規申し込みは終わり・・・・そして、この三月でサービスが終了したのだ。
「♪ポケベルが鳴らなくて・・・」なんて歌も流行するほど重宝されていたポケベルも、我々の前からその姿?を隠す事になったのだ(何か・・・寂しいものですね!)。  そのうち、今の携帯電話も同じ運命となるのですかね? そんなポケベルの事を懐かしく考えていた私だったのだが、「ん・・・待てよ!」と、突然自室の机の奥を探した私。2分後・・・「あった!」と、少し埃のかかったポケベルが出てきたのだ。何年ぶりの再会だろう・・・すでに電池は無く機能はしないのだが・・・・まるで幼なかった我が子でも見るように優しく手のひらに乗せ・・・ポケット・ティッシュで埃を拭き取ったのだった(洒落ではありません!)
「懐かしいなぁ〜・・・それにしても、何でポケベルをまだ持っていたんだろう?」と、そんな事を真剣に考えていた私なのだが・・・・・(まあ・・・いいか!)「お疲れ様!・・・ポケベル君!」
 それにしても色々とあったこの四月だった。まず、スポーツ界では、プロ野球西武ライオンズアマチュア選手裏金問題が火種となり、高校野球の特待生問題へと全国をかけ巡った。地方私学の甲子園常連高校なら地元出身者はほとんどいないとまで言われたものだが、そんな有名リトルリーグ出身者を獲得するには、やはり特待生として受け入れる高校は多いはず。しかし今更ながら・・・高校野球だけが特待生禁止とは知らなかった私であった。
 同じプロスポーツでの日本の国技、相撲の八百長問題だが、これに関しては昔から嘘か真か・・・囁かれてきたものだ(余り、相撲に興味がないし・・・日本人の横綱がいないのでどうでもいい!)
 さて、日本国中を騒然とさせた事件が長崎市長銃撃事件だった。選挙期間中でのこの事件はあってはならないものだ。個人の身勝手な利益を求める容疑者が市長の再選を拒むために起こした銃撃だが・・・・この時、報道を見ていた私には何か不思議な気持ちと共に「これって、日本なの?」と、思わせる事件の一つだった。
 アメリカの大学構内で起きた銃の乱射事件と前後した長崎市での事件は、銃社会のアメリカみならずこの平和と言われている日本でも密輸された銃の多さを改めて物語っているのだ。毎年、警察により押収される銃の数・・・その数倍いや数十倍の数の銃がこの日本に密輸されているらしいのだが、ロシア製の拳銃(トカレフ)などが東南アジアや中国を通じ大量にこの日本に入ってくるのだ。
 多くの日本人は銃を撃った経験は無いはずだ。だが、もし目の前に銃があり、そこには誰もおらず広い荒野なら・・・一度は引き金を引きたくなるのも道理なのだ(例えですよ!)。幼い頃、男の子なら誰でも一度は遊んだ経験があるだろう〔拳銃ごっこ〕。テレビで放映されていたコンバットラット・パトロールなど戦争ものにも憧れ真似をしたものだった。ブームを繰り返すエア・ガンモデル・ガンはまさしく・・・そんな憧れにも似た銃社会の無い日本の裏の部分だろう。それが即ち本物の銃に結びつくとは思わないのだが・・・「一度は撃ってみたい!」と、心の裏の本音が強くなるのは弱い人間の心だろう。
 航空自衛隊出身の私、当然その自衛隊当時には毎年射撃訓練をしていた経験がある。入隊当時はアメリカ製のM−1カービン銃(大変古い銃です!)から64式小銃(重たい銃です!)と、的に向け射撃技術を磨いたものだが・・・その銃本来の怖さを全自衛隊員は入隊時に教えこまれるのだ(何十時間も勉強します!)
 初めて銃を手にする時、その銃の前(約1メートル)にはプラスチック製の洗面器が置かれていた。そして、銃には空砲が入っていた。恐々・・・目を閉じて引き金を引くと、その洗面器は粉々(少し・・・大げさかな?)となっていたのを今でも鮮明に覚えている。「弾が入っていようがいまいが、どんな事があっても銃口を人に向けてはならない!」それが教官から指導された私達新隊員への言葉であった。
 銃の怖さを知らずに銃は扱えないのだが、いつしかその初心を忘れてしまうのも人間なのだ。新隊員での初めての実弾射撃訓練・・・恐怖心緊張が全身を覆っていたものだ。数十メートル先にある的に狙いを定め照準を合わせる。※安全装置を解除し・・・深呼吸・・・そして息を止め・・・ゆっくり引き金を引く。その瞬間、床尾板の上に置いた自分の頬と顎に伝わる激しい衝撃は・・・忘れはしない。目の前から勢いよく飛び出す薬きょうには、ついつい目を閉じてしまう。 ※安全装置・・・殆んどの銃には安全装置のレバー(切替装置)が付いている。自衛隊の銃にはカタカナでア・タ・レと3つの文字が書かれてあり、アは安全装置(射撃不可)・タは単射(セミオート)・レは連射(フルオート)の事である。
 銃は射撃訓練後、自分自身の手で分解し整備するのだが、分解した細かい部品の一つ一つまで綺麗に油と布で掃除をする。そうする事により銃への愛情と性能を勉強する事になる。航空自衛隊の場合、陸上自衛隊とは違い射撃訓練は回数も少なく・・・実弾もそれほど撃たない。しかし、年数が経ち新隊員からベテランの隊員となると、その射撃訓練も慣れてくる事になる。所謂・・・緊張感のないまま実弾を扱うのだ。目を閉じていた新隊員の頃から、この時になるとはっきりと的や周りを見る余裕が出てくる(まあ、目を閉じていたら的には当たりませんからね!)
 それでも・・・あの新隊員の頃、教官から言われた「銃口を人には向けるな!」の言葉は絶対に・・・忘れない!
 またまた余計な事を書いてしまったのだが、この平和な日本から銃を排除しなくては安心して暮らせる本当の平和と言われる日本とは言えない。
 因みに、この10年間銃器犯罪により失われた尊い命は、234人(平成17年12末現在)で、国内で押収された拳銃9,000丁を軽く超えています(参考資料・高知県警HP)。  日本も国として大いに銃規制に努力してもらいたいものだが・・・この国(アメリカ)の銃に対しての本音はどうなのかと知りたい私である。
 32人が犠牲となったバージニア工科大学乱射事件だが、このように多くの犠牲者が出てもその銃に対する考えは変わらないようだ。1999年4月20日、あのコロラド州コロンバイン高校で起きた18歳の少年2人による大量銃乱射事件。死者13人、負傷者20人以上の犠牲者を出した事件は、驚きの中で全世界にニュースが流れたものだった。
 そんな事件の記憶もまだ消えない中で起きた今回の事件、「またか!」「だから銃を無くせばいいのに!」と、誰もが思うはずである。だが・・・・アメリカは・・・違うのだ。
 古くから銃社会・・・武器産業(軍需産業)で成長をしたアメリカは、日本人としては信じられない答えが多くあるのだ。
「銃があるから、事件が起きる!」ではなく「もし、あの時犯人に狙われた被害者(学生)が銃を所持していれば、こんな結末にはならなかったはずだ!だから、身を守るべく銃を持たすべきだ!」が、多くの意見となるのだ。
 州により厳しい銃規制はあるのだが、比較的安易に銃が手に入るアメリカ国内。そのアメリカ国内において大きな影響をもつとされる全米ライフル協会が銃の規制を打ち出さない以上、アメリカでのこのような痛ましい事件は続くような気がする私だ。
 さてさて、そんな怖い話から・・・こちらはゴールデンウィークを前に「飲みにいこうか!」と、中年男三人の呑気な話。この中年男三人とは、私と田中先生と藤川先生の事だ。
 夕方6時過ぎ「森八大名閣(裁判所前)の前で待ち合わせしましょう!」と、同じ順化地区に住む藤川先生と私はこの日自転車で行動する事にしたのだ。私は藤川先生が着く少し前、同じ町内のこの森八大名閣和菓子を買っていた。ただ、和菓子と言っても・・・お茶???いやいや・・・茶道に使う和菓子だった(ん?・・・同じかな!)
 ただ、人生初となるお茶菓子(茶道用)の購入には少しの緊張となっていた私は「茶道のお菓子を教えて?」と、和服美人の奥様に聞いたのだった。すると「藤田さん、お茶を始められたのですか?」と、奥様が聞いてきたのだ。「いやいや、今から・・・ちょっと・・・知り合いと・・・」と、訳の分からない言葉で濁した私。とにかく奥様ご推薦のお茶菓子10個を買い、自転車の買い物カゴに置いたのだった。
 しばらくすると、歩道の向こうから自転車のペダルをこぐ帽子をかぶった藤川先生の姿があった(自転車の藤川先生も似合う!)「お疲れ様!」「お待たせしました!」そんな挨拶の後、2人は裁判所前を通り・・・春山の・・・田中先生の待つ店までサイクリングとなった(久しぶりの自転車は疲れますね!)。5分ほどだろうか2人の自転車のツーリング???時間だった(少し・・・息切れの二人!完璧に運動不足です!)
 自転車を店の前に並べ・・・鍵をかけた私と藤川先生は情緒あるこの店の暖簾(のれん)を潜った。「ちわぁす!」「いらっしゃいませ!」カウンターの中のご主人と奥様に簡単な挨拶を済ませると、十数年来となる顔馴染みの私は、この店二回目登場の藤川先生(あぜ道インタビューで初来店!)と共に・・・店の奥の奥へと進んでいた。
 細い石の廊下の奥には和室がある。私と藤川先生はここで靴を脱ぎ・・・その和室の中へ。この和室の両側を見ると高価な???茶道具が並んでいる。工夫を凝らしたこの和室は日本人の心を楽しませてくれるたたずまいとなっている。だが、私たち二人は、この和室を通り過ぎ・・・中庭へと進んだ。石段には二足のサンダルがあり・・・その小日本庭園のような中庭の石畳を歩くと・・・そこには奥座敷がある。
 襖(ふすま)を開けると・・・まるで「おいでやす!」なんて京舞妓さんでも迎えてくれるような風情のある和室があるのだ。で・・・その襖を開けると・・・舞妓さんではなく・・・「お先に!」と、笑顔で正座の田中先生がいた(まあ・・・いいか!)
 最近私たち三人のお気に入りのこの店のこの和室だがその理由は三つあり・・・勿論、この店の料理がメインなのだが・・・もう二つ目は・・・・この和室の中央にある囲炉裏が大好きなのだ(カウンター横の和室にも囲炉裏がある!)
 囲炉裏を囲んで三人の男だけのが始まった。実はこの日、美しい女性??を二人お誘いしていたのだが・・・・断られてしまったのだ。一人は・・・友人の結婚式(披露宴)で、もう一人は・・・突然の風邪?らしく・・・何故か三重県が大好きな女性だった(まあ・・・いいさ!)
 そんなこんなで男三人全て50台の楽しい飲み会となったのだ。それぞれの近況報告!(そんなに変わりは無いのに!)、そして教育論議!(それぞれが熱い想いがあります!)、そして・・・・高須町の話となっていた(高須町の話が一番長いのです!)
 そして、ここからが大事な話となった私だが・・・それは「藤川先生!高須城小学校が休校になり、植木御大が寂しそうなんです・・・だから・・・・棚田オーナーになりませんか?」と、突然切り出した私に・・・驚いた顔もせず、優しい顔で「実は何か高須町の皆さんに恩返し的な事を考えていたのです!棚田オーナーですか?・・・やります!」と、早いお返事の藤川先生だった(さすが・・・藤川先生!)
 この店の料理は山菜がメインとなっている。長年の山菜との付き合いから、どの山菜が一番美味しく食べられるかをご主人は知っているのだ。長皿に綺麗に盛られた数々の山菜は春の香りと共に私たちに明日からの活力を与えてくれている。囲炉裏には竹串に刺さり、塩がふられたイトウ香ばしい匂いを漂わせ始めている。その竹串を指で摘み、魚の両面を均等に焼こうと180度(こんな瞬間がいいのだ、最高に!)
 高須町の話で盛り上がりながらビール冷酒焼酎と三人のお酒の量はすすんでいた。そんな時、「お待たせしました!」と、ご主人が運んできたのは・・・・この店のもう一つの自慢料理である手打ち蕎麦だった。信州の山里名店に出向き厳しい修行を積んできたご主人自慢の手打ち蕎麦だ。
「待ってました!」「楽しみにしてたんです!」「これが食べたくて!」と、三人の顔がほころんでいた。「今日は大盛りです!」のご主人の声に・・・またまた喜ぶ三人だった。
 きめ細かい蕎麦の咽ごし・・・それは蕎麦大好き福井県人の私たちでも・・・ここのお蕎麦は三本の指に入る味なのだ。そしてこの蕎麦の味の決め手の一つとなるものに・・・つなぎ〔オヤマボクチ〕を使っているのもこの店ならではの拘りがあるのだ。
 ただの枯葉!と見てしまうようなこのオヤマボクチなのだが、ご主人曰く・・・大変貴重な物らしい。
 いずれにせよ・・・・あっ!という間に蒸篭の上の大盛り蕎麦は・・・消えていた。「お酒と蕎麦は最高の友ですね!」そんな事を言いながら蕎麦湯を楽しむ三人だった。
 高須町を語り、お酒を飲み、山菜の数々を食べ、手打ち蕎麦を堪能して約3時間の宴は終わろうとしていた(満足!)。藤川先生も田中先生も・・・当然、私もほろ酔い気分!夢気分!(訳分からん!)
 囲炉裏の火も消えかかろうとした時だった。「藤田さん、ご用意できました」と中庭からご主人の声が聞こえてきた。
 実は、この日の締めにとお茶を入れて欲しいと私はお願いしていたのだった(だから・・・お茶菓子でした!)
 三人は席を立ち、中庭に降り・・・先程の茶室に入った。すると茶室にはこの店の奥様(お茶の先生です!)と、一人の男性がいたのだ。この男性は奥様のお弟子さんのようで、たまたまこの日のこの時間、お客としてこの店に来ていた方だったのだ。
「勉強のつもりで、三人の方にお茶を入れなさい!」と、奥様先生に言われたのだろうかほのかに湯気の出る炉釜?の前に作法にのっとり正座する男性がいた。30代後半だろうか落ち着いた雰囲気のこの男性は、私たち三人が茶室に座ると「宜しくお願いします」と頭を下げた。
 お茶の心得?、茶道の経験が無いに等しい私たち三人はこの男性の前に少しの緊張の中・・・座った。
「お茶の経験が無いもので・・・・」「作法を知りませんので・・・・」と、言い訳の三人だった。すると、横でこの男性の一連の動作を見ていた奥様が「いいんですよ、お茶を楽しんでもらえれば・・・・作法なんて!」と、心強いお言葉があったのだ。
 少し緊張の解れた私たちの前で、ゆったりとした動きでお茶を点てる男性がいた。私が買ってきたお茶菓子も用意されていて何やら楽しい時間となりそうだった。
 最初のお茶が出来た(お茶の専門用語を知りませんのであしからず!)。順番は田中先生・藤川先生そして最後は私の番となっていた。そしてまず、田中先生の前にお茶が置かれた。田中先生はおもむろにお茶碗を取り・・・口に運んだのだ。するとこの時・・・・「違う!違う!」と奥様先生の声がしたのだ。どうやら田中先生の動作の中に気になるところがあったらしいのだ(でも・・・さっき、「楽しんでもらえれば作法なんて!」と言ったのに)
 思わず再び緊張の藤川先生と私は、田中先生の動作に真剣な眼差しとなっていた(だって、真似をしないとね!)。ほろ酔い気分も・・・この時は・・・・少し醒めていた。
 千利休お茶の心に触れている・・・・三人の男がいた。
※《利休七則》
   茶は服のよきように
   炭は湯の沸くように
   夏は涼しく、冬は暖かに
   花は野にあるように
   刻限は早めに
   降らずとも雨の用意
   相客に心せよ
※《利休七則》・・・・お茶の神様の利休にある人が「茶道とは何ですか?教えて下さい」と尋ねたそうです。すると利休は「茶は服のよきように・・・炭は・・・・」と、七つの言葉を言い・・・これがすべてだと話したのだ。これに対し「そんなことは三歳の赤子でも知っています!」と反論した。すると利休は「理解していてもできないのが人間ではないですか。あなたが本当に出来るならば私はあなたの弟子になりましょう!」と、言ったそうです。
 つまり、茶道の基本は自然体のままで季節を何よりも大切にし、「しつらえ」と「もてなし」の精神を持て・・・ と言うことなのだ。
 こんな利休先生の心を知るよしもない三人の男だが、時間が経ち・・・少し寛ぐと「お茶菓子・・・食べてもいいですか?」「お茶のお代わり・・・いいですか?」と、なっていた(田中先生は3杯もお代わりしていました!)
「一期一会」ではないけれど、お茶を頂き楽しいひと時を過ごした私たちは、またの飲み会の約束をして帰路に着いたのだった。勿論、田中先生は代行で・・・私と藤川先生は自転車を押して・・・です!????(自転車も飲酒運転になりますからね!)
 それにしても藤川先生棚田での田植え姿は楽しみですね!


△男の酒のつまみ・・・243
 茗荷の天麩羅!
「あんまり食べると馬鹿になる!」と、幼い頃言われた茗荷だが、この歳になると・・・そんな事はどうでもよくなるもので、美味しい物はやはり沢山食べたいのだ。
 茗荷を半分に切り、天麩羅粉につけあっさりと揚げる。これがまた最高に美味いのです。一度お試しあれ!


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【四月の七/高須町に三名様・・ご案内!】4月30日(月)

 もうすぐ巷は五月ゴールデンウィークとなり、海外の観光人気スポット国内観光地は多くの人で賑わうだろう。「不景気!不景気」と言いながら「この期間だけは別!」と、大盤振る舞い?となり、また大型連休を取れるサラリーマンは家族サービスに、そして独身OLさん達はカラフルな大きめの鞄を持ち空港に駆けつける事となるのだ(いいなあ〜)
 どこもかしこも人・人・人の波が押し寄せる観光地は、この時期には最大の売り上げを目論むのだろう(そりゃ、商売ですからね!)
「最長7日間!?」なんて言われるゴールデンウィークの休みなのだが・・・実際のところ、「家でのんびりしたい!」が本音のお父さんは多いはず、それでも妻や子供の何か期待する顔を見れば・・・そんな言葉は胸の奥の奥に終うことになるのだろう(可哀想です!)。そして、当然この休みを利用しての故郷への帰省も多く、高速道路なども車の渋滞の話題でニュースをにぎわす事となる(しかし一度でいいから、渋滞の先頭を見てみたいものですね!)
 そんな我が家ゴールデンウィークの予定なのだが、毎年の如く・・・・予定は未定となっている。自営業の私にとって、「連休中も仕事!」とはならないのだが、それでも「修理お願いします!」「お休みのところ悪いのですが、この連休中にオーバーホールをして欲しいのですが・・・!」と、お客様から電話がかかるのも事実なのだ(お客様は神様ですからね!)
 それでも「お前は休んでいいよ!」と父の甘い言葉に数日の休みとなる私は「どこか行こうか?」なんて妻や次男に聞くと・・・・「あら・・・珍しい!!!」(妻)「僕は二泊三日でリーダー研修会があるから!」(次男)と予想通りの答えが返ってくる(助かった!やっぱり聞かなきゃよかった!)
 名古屋に住む長男も学生らしく「バイトがあるから!」と、今のところ帰省する気配は無く、やっぱりのんびりと過ごす連休となりそうだ(本心は飛び上がりたいほど嬉しいのです!)
 さて、数日前の土曜日に男三人(藤川先生・田中先生)で飲んで食べて騒いで・・・そして、利休の心(茶道)を少し感じた私だったのだが、そのなじみの店のご主人から「一度高須町に案内して!山菜も採りたいから!」と、その土曜日に頼まれていた私。ついつい「いつでもいいですよ、案内しますから!」と、安請け合いした私に・・・・「じゃ、明日!」と笑顔で話すご主人だった(言わなきゃよかった!)
 高須町鷹巣町と勘違いしていたこの店のご主人夫婦は、「そんなに藤田さんが惹かれる高須町って、いい処なんでしょうね?」と、興味津々となっていたのも事実だった。
「じゃ・・・明日ですね!朝何時に集合ですか?」「朝、8時!」「どこで待ち合わせします?」「ここ!」「少し遅れるかも!」「時間厳守ね!」そんなご主人との会話だった。
 それでも私は、癒しの里・高須町の大好き仲間が増える事を確信しての・・・">案内役をかってでたのだった。
 翌日・・・何かに掻き立てるように目覚めた私は、多少の二日酔いを感じながらも枕元の時計を見た。〔7時15分〕となっていた時計を見ながら「今日は休みなのに何で、約束したんだろう!それも朝から!」と、またまた昨日の約束を後悔していたのだ(おいおい、未練がましい!)
 それでも約束の15分前には着いていた私は店の前に車を止め、まだまだ眠気から覚めないためアクビの連発となっていた。しばらくすると、車の前(店⇔車)を慌ただしく往復する三人の完全装備???の人々。そうこの店のご夫婦と・・・もう一人は・・・あのお茶のお弟子さんの男性だった。
 そんなご主人が車の中の私を見つけると、「おはよう!さすが自衛隊出身やの・・・時間前に集合の精神か?」と、笑顔で話しかけてきたのだ。(自衛隊は5分前の精神です!)車から降りた私は爽やかな青空を眺めながら・・・背伸び運動と・・・やっぱり、アクビとなっていた(いい加減に目覚めろ!)
 それにしても・・・さすが商売で山菜を扱っているこのご夫婦、車のトランクに積み込む道具は・・・プロの山菜採りのように重装備となっていた。その完全装備姿の三人がマジマジと私を見て、何やら・・・笑っている。そう、この日の私の服装は・・・短パンTシャツとなっていたのだ(完全に・・・やる気なし!だって・・・)
「じゃぁ・・・行こうか!」のご主人の号令で2台の車は目的地、癒しの里・高須町に向けて出発したのだった。勿論、高須町までの道を知らない三人の為、先頭は私となり完全装備の3人は後続車両となっている。時々ミラーで後ろの車を確認しながらスピードを出さず・・・市内中心部道路を通過した。
 県立武道館が見える交差点に来ると・・・明治橋方向に車を走らせた。それにしても・・・いいお天気の日曜日だった。 汗ばむほどの車の中で・・・ついついエアコンのボタンを押したくなる私。家の冷蔵庫から持ち出した缶コーヒーを一気に飲み干した。
 一王寺・本郷線に入ると、いつもより対向車が多く感じられた。「やっぱり、日曜日だな!」と、すれ違う車の中の人数を確認しながらアクセルを踏んでいた。楽しそうにおしゃべりしながらの対向車や・・・助手席の奥様?からおにぎりを渡され笑顔で受け取るドライバーの対向車と・・・色々な車とすれ違っていた。
 そんな車を少し恨めしそうに眺めながら、時折後続車両の様子を気にしていた私だった。二日酔いにはこの一王寺・本郷線は最高の高速道路?だった(だって、信号が無いからね!)
 トンネル後の下り坂カーブでは・・・何故だか胸と頭の気分の悪さが気になっていた(だから・・・飲み過ぎだよ!)。それでも車から見える木々や田んぼの緑が・・・徐々にそんな私の身体を癒してくれていた。
 一王寺のT字路、車の方向指示器を左折にした私。すかさず後続車を見ると・・・車の中の三人は何かお喋りに夢中のようだった。旧・上郷小学校跡地(現・馬術クラブ)過ぎの坂道を登りだした2台の車。だが私はいつもより、ゆっくりゆっくり登っていた。ピッタリ私の後ろを走る車、ミラーに映る三人の会話は???「おいおい、こんな道・・・どこに行くんだろう???」(ご主人)「大丈夫じゃない・・・藤田さんに任せておけば!」(奥様)「しかし・・・凄いところですね。ここも福井市ですよね?」(お弟子さん)・・・と、こんな会話だと推察していた私だった(私も高須町・佐々木さんに初めてこの道を案内された時は・・・三人と同じで・・・顔が引き攣っていました!)
 清水平の坂道も終わりに近づくと、そこには静かに佇む白山神社と一軒の民家がある。斜めT字路を窮屈に右折した。ここからは高須町まで一本道となる。細い道、曲がりくねった幾つかのカーブで徐行しながら・・・いよいよ高須町の看板が見えてきた。思わず「はぁ〜着いた!」と独り言の私だが、出発する時の二日酔い眠気は・・・いつの間にか消えていたのだ。
「やっぱり、高須町は癒しの里だ!癒される〜ぅ!」と、一人車の中で・・・声を発していた(おいおい!)。そして、そんな私の車の前の道路では・・・・いつものように高須町のお婆ちゃんたち(いや、お嬢さんたち・・・ですよね!)農作業前の井戸端会議をしていたのだ。車が近づくと道路中心部から路肩に移動する数人のお婆ちゃんたち。「おはようございます!」と、私はスピードを落としながら挨拶した。
 すると、「・・・・・?」「誰やの?」「棚田オーナーの人やがの!」「あっ、ほうか・・・見たことあると思もたんや!」そんなお婆ちゃんたちの会話だった。
 高須町メイン十字路交差点???ここで左折となり、直ぐに右手にあの高須城小学校が見えてくる。ここで、またまた徐行となった私は・・・小学校を見ながら「変わりはないな!」と、変に納得していたのだ。(当たり前だ!!!) そして、小学校前の駐車場を覗いたのだが・・・・何故かあるはずも無い・・・石村校長先生や藤川教頭先生たちの車を探していたのだ(だって・・・もしかしたら?)
 当然、駐車場には一台の車もなく、寂しく空車状態だった(やっぱり寂しい!そうだ、藤川先生と石黒さんで朝、本郷小学校に出勤する前に高須町に来て・・・日替わり交代交代で車を止めて!お願い!)
 そんなつまらない事を考えていた私だったのだが、高須城小学校をマジマジと見ていると・・・・後続車を完全に忘れていたのだった(やばい!すいません)
 後ろを見ると・・・・やはり、不思議そうな顔の三人が車の中から私を見ていた。車は小学校から棚田へと続く道の登り坂を走り出した。途中の畑や田んぼには何人かの地元の皆さんがすでに働いていた。棚田オーナーがはさがけする場所に来ると・・・・少し心配な事を思い出していた私。
 実は先日、この道に来た時の事・・・はさがけ現場から棚田への道が舗装工事で通行止めとなっていたのだった。眼を凝らし・・・その現場を見ると・・・道路は綺麗に舗装されていて今は通行可能な様子だった。ホッ!とした私はアクセルを踏み目的地となる棚田オーナー行事開催時に使う駐車場へと目指した。
 青空と周りの鮮やかな緑の中で・・・高須山(じょうやま)は・・・今日も元気な表情を浮かべていた。時々、頂の上を通る淡い雲も・・・そんな城山には絵の中の一つの色となっている(意味が分からん!)。まだ延びかけの夏草の向こうに見える・・・高須山は、今日も私たちを歓迎してくれている(それは、思い過ごしだよ!)。  そんな景色を満喫しながら車は駐車場への道の最後のカーブに近づいていた。すると、見慣れた男性と・・・その男性のお母さんだろうか・・・田植え前の準備に忙しそうにあぜ道を歩いていたのだ。「おはようございます!」と、声をかけた私に「おはようっ・・・す!」と、笑顔で返してくれた男性だった。そして「藤田さん、今日は何やの?」と聞いてきたのだ。「今日は・・・棚田オーナー予定者を案内してきました。初めての高須町で・・・ついでに山菜採りもしたいと言うので・・・!山菜採ってもいいですよね?」と答えた私(おいおい!)。  すると「そりゃ・・・いいわ!どうぞどうぞ。藤田さん、いつも、ありがとのう」と、感謝されてしまったのだ。ついつい口から出てしまった「棚田オーナー参加予定者」に、反省の心もあった私は・・・「そうそう、藤川教頭先生も棚田オーナーになりましたよ!」と、話すと「本当か!そりゃ嬉しいわ!」と、益々笑顔の男性だった。
 またまた、本当の道草?となってしまった私だが、再び車を走らせ最後のカーブに来ると・・・ここで通行止めの看板と・・・少し小さい工事用ブルドーザーが視界に入ってきたのだ。
 昨年からそのまま立つ・・・川島アナ自筆のFBC《げんき米》看板の前に車を止めた。後続車もエンジンを止め、ここで約30分の高須町までの道案内の終わりとなったのだ。
 車から降りてきた三人は、ここから見える福井平野と遠く奥越の山並みの美しい景色に感動の様子だった。「いい処やの!」「うわ〜っ!綺麗」「空気が美味しい」と、それぞれ言葉が弾んでいた。「市内中心部から僅かな時間でこんな綺麗な所があるんです!ここが癒しの里・高須町です。ようこそ、高須町に!」と、三人に話した私(君は何者???)
 早速、車のトランクを開け山菜採りの道具を取り出す三人に「ここが、私たちが毎年お米を作っている田んぼです。この場所だからの寒暖の差で・・・美味しいコシヒカリが出来るんですよ。だから福井県の特別栽培米に認定されたんです。そうそう西川知事も美味しいって・・・そのお米のおにぎりを何個も食べたくらいですから」と、私が説明すると「そうなの!」と、・・・・すでにこの三人の心と眼は・・・山菜オンリーとなっていた(お〜い!・・・まあ仕方ないか!)
 完全装備の三人の準備が整った。私は周辺の山菜が採れそうな場所を教えたのだが・・・・それは釈迦に説法だった。
「藤田さんは採らないの?」との奥様の言葉に「残念ながらこれから仕事なんです!本当はお付き合いしたいんですが」と、私は答えたのだが・・・実際のところ『虫と蛇が大の苦手!』は内緒にしておこうと決めた私だった。
「案内有難う」「じゃあ・・・頑張って!」と、三人を残し棚田を後にした私はあの三人の帰路(道を間違えないか)を少し心配しながらアクセルをふかしていた。
 そしてまたまた高須城小学校の前にさしかかった時だった、校庭に何やら子供の気配がしたのだった。「ん・・・光くんか・・・岬ちゃんかな?」と徐行した私。木々の影で少し暗くなっていた校庭の中にいたのは・・・佐々木さんの長男(中3)だった。
 休校となったこの母校の小学校を懐かしむように、ただ一人で遊んでいた彼を・・・私は車の中からしばらく見つめていた。木造校舎の前を歩き・・・校庭の土や草を踏みしめ・・・誰もいない校長室や職員室をガラス越しに背伸びしながら見つめていた。
 数年前まで毎日「おはよう!」と、元気良く挨拶しながら入って行った児童玄関は・・・このひと月、鍵のかかったままになっている。中学三年の彼・・・だが、市内中心部の中学三年生とは・・・違うのだ。何か事ある度に、この小学校に顔を出し、後輩たちの面倒や良き相談相手となっていたのだ。そんな彼も数年前まで先生たちとこの校庭で特別ルールの野球をしていた一人だった。
 笑い声と・・・教科書を読む声は、今はこの校舎から・・・聞こえてこない。ただ、彼一人の足音が・・・彼の耳に入っていることだろう。そんな彼を見ていると・・・少し涙が溢れてきた私だった(歳をとると・・・涙もろくなるんですね!)
 私はクラクションを鳴らし・・・アクセルをふんだ。すると、私の車に気づいた彼が私の元へ・・・走ってきたのだ。 だが・・・アクセルを弱めることなく走り出した私は、彼に手を振り・・・遠ざかったのだ(だって・・・涙は見せられないもの!恥ずかしい!・・・お前は、河島英悟か!)
 高須町から再び清水平旧・上郷小学校が見える最後の下り坂・・・・私は車を止めていた。道路の右端には動かないが・・・そして、左端には首を伸ばして蛙を見ている蝮(まむし)がいた。正に・・・蛇に睨まれた蛙だった。蛇嫌いの私にとって高須町までの道の途中でこれまで何度蛇と出くわしたことだろう。道に落ちている枯れ木までもが蛇に見えてくるのだった。
 だが、現実に今目の前には蛇がいた。このままではの犠牲となる。自然界の摂理と割り切ればいいのだろうが・・・それは出来ない私。が少しずつに近づいていた。それでも動かない。私はゆっくりと車を走らせた。を踏まないように気をつけながら両者の真ん中を通過した。すると、は勢いよく逆方向へ・・・は礼も言わず・・・田んぼの中へと入って行った(よかった!)
 幼い頃からの虫や蛇嫌いの私に「それで、自衛隊出身なの?」と妻は言うのだが・・・嫌いなものは嫌いだから仕方がないのだ。
 人助けならぬ・・・蛙助けをして、私の心は晴れ晴れとなっていた。これも、昔中学校の理科の時間でした蛙の解剖の償いかも知れない(田中先生曰く・・・今の中学校では蛙の解剖はやらないそうです!でも、本当の命の勉強には・・・必要な事かも知れないのですが!今のこんな時代だから・・・ね!)
 夕方、山菜の成果を聞こうとあの店に電話をすると「あったよ!少し遅い(時期)けど。でも・・・有難うね!」と、ご主人が話してくれた。「高須って・・・本当に良い所だね。綺麗な景色に驚いたよ」とも話してくれた。
 また少し・・・高須好きな人が増えて・・・嬉しい私だった。でも棚田オーナーには・・・来年度参加してもらいますよ!・・・必ずね!


△男の酒のつまみ・・・244
 山葵(わさび)をシンプルに!
 大野の親戚から大きい採れたての山葵を頂いた。貴重な天然の山葵なのだ。私以外の家族はお刺身で・・・そして私は、山葵の中に醤油を数滴垂らし・・・日本酒の肴にそのまま・・・食べた。
 本山葵ならではの鼻に突く辛さが最高のつまみとなる。塩だけでお酒を飲む人もいるようだが、山葵もいい!またまた・・・涙目の私となっていた。「今日は二回も泣いてしまった!」


高須城日記W(春後編)に続く


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