高須城日記V(新春編)
(平成十八年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)
【一月の一/初日の出は、高須山で!】1月1日(月)
冒頭から突然であるが・・・「珍しい事もあるものだ?!」と、おそらくこの時、家族全員がこの大晦日の夜に食卓を囲みながら私を見ていた事だろう(何?何?)。藤田家の大晦日の夜は・・・毎年の事だが、手巻き寿しとなっている。勿論それは、子供が大きくなってきたこの10年ほど前からだろうか!(はっきりと覚えていない!)
年末29日に名古屋から帰省した長男も食卓に座り、久々にテーブルを囲む全ての椅子が機能??している大晦日の午後7時過ぎだった。NHK紅白歌合戦の放送を前に妻が段取りよく家族から注文を聞き・・・手巻きする。「僕は、・・・マグロときゅうり!」(次男)「俺、ネギトロね!」(長男)「イカと納豆を!」(父)「私は何でもいいわ!」(母)と、こんな調子で好きなネタを注文しながら繰り返していく。普段は晩酌しない私の父も、この大晦日や正月ばかりは特別と、日本酒の熱燗を少しづつ呑んでいる。そして「お前も呑むか?」という父に・・・・「俺・・・いいわ!」の私の言葉に、家族全員が「・・・・・・」と、なっていたのだった(そんなに珍しいのかな?!)。
一年365日のほとんどを晩酌する私だが、この大晦日の夜に大好きなお酒を飲まない・・・・理由は???
それは、一週間前の天気予報に原因があったのだ。その天気予報だが「全国各地で元旦は初日の出が見えるでしょう!」だった。「元旦?・・・初日の出?・・・高須山!・・・ホームページ!」と、こんな調子でまたまた安易に物事を考えていた私だった。当然、この事は田中先生にも連絡したのだが、「私も行きます!」と、予想通りの答えが来たのだ。しかし、正月早々と言う事もあり、万が一事故などに遭えば田中先生のご家族に申し訳が無いと思った私、「先生・・・いいですよ!私一人で行きます!」と、啖呵を切ったのだった。
この田中先生との電話の後、天気予報は毎日のように二転三転と変わり、やはり元旦の確実な予報は前日の大晦日しか出来ない様子。この間、「一人でも・・・行くぞ!」とか「やっぱり・・・止めようかな!」と、私の心の中も二転三転していたのだった(やっぱりね!)。
そして、昨日の午後の事。元旦の天気予報も確実に晴れとなっていた。この時、私は覚悟を決めたのだった(大げさな!)。
家族が大晦日での大掃除の中、私一人が「ポカロンどこ?、毛糸の手袋と、ニットの帽子は??」と、高須山登山に準備中。中学生(明道中学校1年)の時、知り合いの市役所の職員の皆さんと白山に登り、御来光を眺めた思い出はあるものの、それは記憶も薄れる30年も前の話で、その白山に比べれば「たかが・・・高須山ぐらい!」と、この時私は舐めていた。
新聞で日の出の時刻を調べると、『7時04分』と、なっている。改めてこの日の出の時刻を考えれば、「7時過ぎなの?!」と、冬の太陽の動きを勉強し直す私だった。
そんな時、携帯電話が鳴った。田中先生からだった。どうやら田中先生・・・高須山での初日の出がこの大晦日まで頭の中から消えないらしく「やはり、私も行きます!」と、なったのだった。元旦6時前に田中先生のお宅に迎えに行く約束をして電話を切った。
NHK紅白歌合戦が始まった。「今年は必ず最後まで見るからね!」と、豪語していた次男(小6)も・・・手巻き寿しの食べ過ぎと・・・長男とのゲーム疲れで、11時前には仮眠状態となっていた。私の両親は毎年の事ながら五木ひろし以外は興味が無く、若いラップ調の歌手には「何を言っているか分からない?」と、聞く耳持たずの状態。
細川たかしの歌詞忘れやナイナイ岡村のハプニング、そしてDJオズマの「これはNHKでは・・・ヤバイだろう?!」と、誰もが感じるシーンがあり、今回の紅白は別の意味で盛り上がっていた。そして、私的な最高視聴率がやってきた。それは当然、気象予報士「7時28分の恋人」半井小絵(なからい・さえ)さんの登場だった。「えっ!紅白にでるの?!」と、笑顔になっていたのは、私だけではなかったはず(巷のお父さん方もテレビ画面に釘づけ状態!)。「NHKも中々、やるなぁ〜!」と、私は拍手を送っていた(妻・・・不機嫌!)。
お酒を我慢しながらの紅白は・・・・航空自衛隊在籍時の当直以来の事だろう(飲酒運転になるからね!)。そんなこんなで・・・平成十九年の亥の年になった。妻・長男・次男と私で「おめでとう!」の挨拶となりこの後、私以外は佐佳枝廼社(大手3)に初詣に行く事に・・・・。
ね・うし・とら・う・・・と、十二支の最後の干支となる亥の年、そんな今年はどんな年になるのだろうと一人テレビを見ながら、私はお酒も飲まず、眠りもせずただ時間が早く過ぎることだけを考えていた。この時、「誰が、初日の出を見ようなんて言い出したんだ!」と、一人で愚痴を言う始末(それは、貴方です!田中先生ではありません!)。
また、「そうだ!高須町の佐々木さんに電話して、写真を(日の出)頼もうかな!」とも考えていた私(それは無いだろう!)。
コーヒーを何杯飲んだだろう、煙草を何本吸っただろう。どうにか時計の針は早朝5時をさしていた(もう少しだ!)。初詣から帰った妻たちもすでに就寝している。
私は、高須山への準備を始めていた。風邪をひかないようにと厚着を心がけ・・・でも、山道なのでなるべく軽装で・・・と、何故か中途半端な服装となっていた。デジカメ・携帯をチェックし忘れ物のないようにと準備する。
そんな時、携帯が鳴った。田中先生だった。「おめでとうございます!何故か目が冴えちゃって、で・・・今からそちらへお迎えに行きます!」と、田中先生(新年早々、ハイテンションな先生だった!)。
そんな田中先生は・・・15分後には私の自宅前に着いていた。私は田中先生の車の助手席に乗り込み「今年も宜しくお願いします!」と、一応の新年の挨拶の二人。
元旦の午前5時過ぎ・・・福井市内は静かな年明けを迎えていた。車の流れも無く・・・人の姿も見えない。この時、気温は氷点下4度・・・肌を刺す冷たい外気が車中からも感じられる。車は高須町を目指しながらも、道路の凍結状況を見るため田中先生はブレーキチェックをしながら、本郷・一王寺線を走る。まだ辺りは暗く、しかしながら空には幾つもの星が輝いている。「日の出、見られますかね?」と、田中先生。「山(高須山)に登らなければ何とも言えませんが、運が良ければ綺麗な日の出が見れるでしょう!」と、答えた私。それほど高い山とはいえない高須山だが、雲の流れや霧・霞など今まで幾度となく経験していた私。田中先生と私の今年の運?を占う意味でもご来光を望む二人だった。
市内中心部、先月末の雪はすでに消えていた。ところが、車が旧・上郷小学校跡地横の坂道を登り始めると、タイヤから「ガリガリ」と残雪が凍っている状況が座席に伝わってくる。それは、車が高須町に近づくにつれ身体に響く振動が大きくなる。途中、木々が倒れかかり道路の上に覆いかぶさっている。木々の上に雪が積もり、凍った重さで倒れかかってくるのだが、これも何故か・・・高須町の冬の風物詩?!田中先生も何故か楽しそうにハンドルを握っていた。
車は高須町に入り、高須城小学校前を通り過ぎ棚田へと続く道を登って行く。すると東の空がぼんやりとオレンジ色の薄い明かりを照らしている。時間はまだ6時過ぎ、日の出まで・・・あと1時間だった。
暗い山道、だが雪の白さでその山道は意外にもはっきりと見えていた。ここでもまた、何箇所か私が車から降り、木々の枝を持ち上げたりしながら、車を通していた(寒い!)。
高須山への登山道が見えてきた。車を止め、田中先生と私は雪を踏みしめながら一歩一歩、ゆっくりと登り始めた。雪道には誰の足跡も無く・・・先を行く田中先生の長靴跡だけがきれいに残っていく。「こんな処で遭難したら、笑われますからね!」と、冗談を交わしながら15分後には高須山の頂上に二人は着いていた(やっぱり・・・寒い!)。
考えてみれば昨年9月3日以来の高須山登頂だった。しかもあの時も田中先生と二人での高須山だった。ホームページ用に「高須山からの四季を皆さんに・・・!」と、簡単にあの時言葉にしていたのだが、まさか本当に冬の高須山に登るとは思いもしなかった私と田中先生(しかも、元旦ですよ!)。
頂上は約10aの積雪だが、やはり凍っている。二人が歩くと・・・「ガリッ!」と足跡が残る。日の出まで30分、だが東の空は少しずつ赤く染まっている。田中先生はその日の出の方向に向かい、デジカメを構えている。私は、その方向とは別の・・・北(奥尻島)に向かい手を合わせた(いつもの事です!)。
高須山・・・緩やかではあるが冬の風がこの頂に吹いている。「寒い!」この言葉しか出てこない私。そんな中でも田中先生は手袋を脱ぎ、デジカメのシャッターを押している(そんな田中先生を私も被写体に!・・・暗いかな?)。
7時前、東の荒島岳の山並みがオレンジ色を濃くしてきた。「うわ〜っ!何て綺麗な景色でしょう」と、田中先生。
平成19年1月1日午前7時4分、幻想的?な瞬間と言うのだろうか・・・その瞬間がやってきた。
長い人生において日の出の瞬間を何回見ることができるのだろう。しかし、このような状況は今この瞬間でしか体験できないだろう。目を奪われる時・・・言葉は浮かばない!ただ、私も田中先生も少しずつ昇る太陽に、手を合わせていた。おそらく、今年一年の家族の健康を願い・・・良い年となりますようにと、そして田中先生にはもう一つの願いがあった???それは教え子達の高校入試の合格祈願だろう。少し長めの祈りをする田中先生、私はその後ろ姿を見ながらもう一度手を合わせていた、「高須町にとって、今年も良い一年でありますように・・・!」と(本当です!)。
数分間の日の出のショータイムは高須山が感動の舞台となり、私達二人を癒してくれた。それは「一生に一度!」とも言うべき全ての偶然が重なった美しいものとなった。太陽・風・雲・時間・積雪・登山道のどれか一つがダメでも、このご来光を見ることは出来なかったはずである。
「感動です!来て良かったです」と、何度も言う田中先生。肌を刺す寒さと戦いながらの1時間弱は、最高の年の幕開けとなっていた(おそらくね!)。
まだまだデジカメで日の出を追う田中先生。その数メートル後ろでやはり「しばれる!」と、文句をいいながらデジカメを構えている私。《私の日の出のシーンをどうぞ!》
しかし、先ほどから気になる事が私の後ろに・・・・・。静かな高須山の頂上、音は風と私たち二人の声だけなのだが、時々聞こえる・・・・小さな雪踏みの音(足音?)。しかし、振り返るのだが・・・誰もいるはずは無く、「気のせいか!」と、再びご来光を見る私。しかし、しばらくすると「ゴソ・ゴソ」と、耳に聞こえてくる。「風音か・・・?」と、慣れない静寂な一時に戸惑う私(嫌な予感!)。
撮影を終え、「限界です!寒いから下りましょう」と、田中先生の言葉に再び登山道を下り始めた二人。だが、1時間前に登ってきた時には私たち二人の足跡だけだったのだが、その周りに・・・・小さな獣の足跡があった。しかも数匹分!
気になる音・・・それは猪(いのしし)だったのかも知れないが、猪も「亥の年」を迎えるにあたり・・・やはり高須山からご来光を・・・・だったのかも???
高須町に戻り、集落センター横の神社で参拝した私達。芯から冷えた身体をお神酒で・・・と、いうわけにはいかずそのまま車で高須町を後にしたのだった。
田中先生と別れ・・・まだ誰も起きていない自宅で私は台所にいた。「暖かいお風呂か・・・熱燗か」は、熱燗の勝ち!
数分後、咳をしながら熱燗に身体が火照る私だが、考えてみれば、昨夜からの禁酒・・・「田中先生が迎えに来てくれるなら、お酒を飲めばよかった!」と、クダラナイ事を考えていた私だった。
読者の皆様、新年おめでとうございます!今年も宜しくお願い致します。
△男の酒のつまみ・・・205
かまぼこアラカルト!
元旦の我が家の台所・・・そのテーブルの上にはお正月ならではのおせち料理が並んでいる。熱燗ができるまで、つまみ食いといきたいのだが・・・それは家族に失礼な話。
冷蔵庫に中を見ると、かまぼこがあった。紅白のかまぼこを薄く切り、わさび醤油で・・・とも考えたのだが、お皿にかまぼこを並べ、いくらや梅肉、そしてイカの塩辛を乗せて三種類の簡単つまみとした。熱燗に最高のつまみである。
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【一月の二/初体験、救命救急24時!】1月6日(土)
それにしても穏やかな正月三が日だった。全く雪の無い福井市内は何年ぶりだったのだろう。気象台の発表によれば、降雨量0と言うのは珍しい記録だと解説していた。まあ、たまにこんな新年の幕開けもいいものだ。
お正月と言えば、いつの間にか朝早くから老若男女がテレビの前に陣取る・・・箱根駅伝だが、日本人の駅伝好きもあってか今年も往路・復路の二日間とも高視聴率(日テレ)となったようだ。
何人かの※福井県出身選手もこの箱根路を駆け抜けたようだが、各大学の襷(たすき)を繋ぐ重さにそれぞれドラマがある。このドラマについつい私達はテレビの前で感動を覚え涙を流してしまう事になるのだ。
「山の神様」と、呼ばれた5区の今井正人選手(順天堂大学主将)のあの山登りの早さには今年も改めて驚いたものだ。4区から5区への引継ぎでは「まさか、東海大学には追いつけないだろう!」と、誰もが思ったのだろうが、そこは「山の神様」の今井選手、次から次へと抜き去り、ついにトップの東海大学を捕らえ、しかもタイム差を広げる活躍となった。
因みにこの「山の神様」と、命名したのは途中まで今井選手と並走した日体大3年の北村聡選手だと言う。ゴールで待つ昨年のドラマの中心となった順天堂大学前年主将、難波選手の顔にも二年越しの襷に対しての想いがあっただろう(この瞬間また、泣いてしまった!)。
※福井県出身選手
飛坂篤恭(美方高校、東洋大2年・4区)
福岡 功(美方高校、城西大3年・10区)
米沢 豪(敦賀気比、青学大2年・10区)学連選抜
さて、年末からこの新年にかけてだが、福井県を代表して全国大会に挑んだ高校スポーツ全国大会の活躍には毎日のように声援を送った県民の皆さんも多くいたことだろう。
年末の高校バスケット(選抜大会)では、男子の北陸高校が準優勝。女子の足羽高校がベスト4となった。また、年末から年明けにかけての高校サッカーでは、丸岡高校がベスト8となりそれぞれ福井の名を全国に広めてくれた(みんな頑張ったね!)。
そして高校サッカーと言えば、FBC川島秀成アナウンサーだ。昨年も丸岡高校に密着していた川島アナウンサーだが、今大会は丸岡高校の活躍で年末から年始にかけて実況からベンチリポーターと嬉しい悲鳴となっていた川島アナ。千葉県の市原(いちはら)競技場での試合が続いたため茨城出身の川島アナにとっては、時間を見つけて里帰りとなったのだろうか???それにしても川島アナの実況の上手さには昨年夏の高校野球と今回の高校サッカー共に感心してしまった(努力しているのですね!・・・川島アナ!)。
新しい年、その記念すべき元旦の初日の出を高須山から田中先生と眺め・・・感動の幕開けとなった私だったのだが、帰宅後何故か咳が止まらない。「風邪か?」と、高須山での冷え込みが原因かと軽く考えていた私だったのだが、元旦の夜になってもその咳は激しさを増していた。「大丈夫!お酒の飲みすぎ?」(長男)「煙草・・・やめたら!」(妻)「お薬・・・持ってこようか?」(次男)と、私のまわりで三人が気にしているような?気にしていないような?。
この咳だが、深夜になっても止まらず・・・呼吸自体さえうまく出来ないでいる私。それは、まるで肺が機能していないような感じで、大きく深呼吸しても通常の三分の一で止まるようなものだった。
咽が「ゼイゼイ」と唸り苦しさとなっていた。「苦しい!」と自分でもどうにもならない状態で、二・三歩と歩いただけでも、まるで長距離を走った後のように肩で息する私だった。ここで、真剣に何が原因かと考えた私。「風邪?」「お餅が咽の奥に詰まっている?」「もしかして・・・悪い病気?」と、気の重くなる事ばかり考える始末。
とにかく横になろうと自室のコタツの中で寝る事にしたのだが、やはり呼吸は苦しい。「どうしよう!!お正月早々にこんな事になって」と、自分自身を卑下する私。それでもしばらくすると高須山登頂の疲れと、大晦日からの徹夜のためか睡魔が襲ってきた。しかし、ものの10分程で目が覚める。テレビに映る正月番組のお笑いなども、逆にその笑い声さえもその時の私には煩い音となって聞こえていた。ボリュームを絞り耳に音が入らないようにする。
「ハア・・ハア」と、自分の苦しい呼吸の音だけが耳に入る。「もしかしたら俺・・・重病?」と、感じていた。「病院に行く?救急車呼ぶ?」と、妻も真剣に私に語りかけていた。しかしその妻の言葉さえ「うるさい・・・静かにしてくれ!」と跳ね返す私。
深夜、少し呼吸が楽になってきた。しかし咳は止まらず喘息(ぜんそく)のように連続してしまう。これもまた苦しいものだ。嗚咽(おえつ)が続き・・・また呼吸が出来なくなる。そこで小さく小さく呼吸を試みた。しかし今度は過呼吸状態となり、意識が薄れ頭(脳)がパニック状態となる。
身体を起こし色々な体勢をとるのだが、どれも苦しくコタツのテーブルの上に腰を下ろし、頭を下げ息をする(これが一番楽だった!)。しかし、頭を下げた状態のため目まいが起こるため再び身体を横にして寝る。この繰り返しが延々と続いたのだった。
「とにかく一人にしてくれ・・・話かけないでくれ!!」と、妻・長男・次男に頼み、さらに「静かに・・・音をたてないで!」と家族に願った。
一人の部屋、ここで体温計を取り出し熱を計った。しかし平熱の私。気を紛らわせようと再びテレビを見るのだが、おふざけ番組が多いためビデオを見ることにした。ビデオ、何故かこの時見たのは昔のTV「救命病棟24時」だった。そう江口洋介・伊藤英明・松雪やす子出演のものだった(私のお気に入り!)。
自分の体調が最悪の時にこんなドラマを・・・と、思ったのだが、何故かドラマの進行とともに私の体調も落ち着いてきた(これは不思議!)。それでも胸の苦しさは変わらず、ここで湿布を胸に貼った。すると心なしか胸が楽になり呼吸も少しスムーズになる。相変わらず咳は続くのだが、回数は減ってきていた。
咽が乾き・・・ここでコーヒーを飲む。熱いコーヒーが咽を通る。少しづつ少しづつ口に含むコーヒーがたまらなく「美味しい!」と感じた。「直ったかな!」と、感じた私はここで何時間振りに煙草を吸う。しかし、これがマズかった。煙草の煙が咽に入った瞬間・・・肺が悲鳴を上げた。再び咳が止まらなくなっていた(だから煙草を吸うな!)。
翌日(一月二日)午前10時、体調は最悪なものになっていた。完全に息(呼吸)が出来ない状態になっていた。この時だが私は「このまま死ぬかもしれない!」と、感じていた。
「ねえ・・救急車呼ぶ?」と、心配そうな妻が横にいた。しかしここでも「近所迷惑だから!」と、世間体を気にする私(そんなもん・・・気にしている場合か!)。
「病院に行く!」と、ここで意を決した私。直ぐに妻は電話で急患の病院を電話で聞いてくれた。「はい!日赤の救命(外来)ですね!」と、妻がメモを取りパジャマのまま車に乗った私。妻が運転し、私は後部座席で横になる。車の振動がたまらなく身体に響き苦痛になる。「おい!静かに走って!」と、妻に頼む私。「静かに走っているよ!」と、反論する妻(口応えするな!)。
約5分で車は日赤に着いた。駐車場に車を止め50メートルほど歩き救命外来入り口の自動ドアに着いた。静かな外部とは逆に、救命外来は混雑していた。「正月でもこんなに患者はいるのね!」と、驚く妻。約50人の急患の人が診察を待っていた。受付で症状を言うと「混雑していますので30分ほどお待ち下さい!」と、受付の男性(おいおい!)。
苦しさの余り、少し離れた椅子で待つ事にした私。他の急患の人を見ると、子供からお年寄りまで様々な年齢層が診察を待っている。やはり皆さん苦痛の表情だった。お腹を抑えている人、高熱なのか顔が赤い子供、腕の骨を折った人、車椅子で付き添いの身内に励まされるお年寄りと、館内は別の意味で賑わっていた。「何か飲む?」と、妻が聞く。「いらない!」と、答える私。
呼吸は相変わらず苦しい私はこの時「このまま入院だな!」と、思っていた。「藤田さん・・・!」と、診察室から看護士さんが顔を出した。「はい!」と、答えるとその看護士さんが私の所まで来て症状を聞いてきた。苦しい表情の私に対して意外にも冷静に対応する看護士さん。脈と熱を計り今の症状を聞く。「そうですか・・・もうしばらくお待ちください!」と、再び診察室に戻っていった(早くしてくれ!)。この待合椅子に座って約25分、入り口から次から次へと急患が入ってくる。この間にも救急車が3台入ってきた。
この時、応援の医師と看護士だろうか数名救命外来に入ってきた。先ほど私に症状を聞いた看護士がその応援看護士たちに指示を出している。それほど混雑していた日赤の正月二日目だった。「すごい人だね!」と、冷静な妻。
患者の数は・・・減るどころか増えていた。何人ずつか診察室に入るものの、急患受付には同じ数の新たな患者が来ている。私の座っている椅子の回りにも苦しそうな表情の人が多くいる。何故だかそんな人たちを見ていると・・・私の症状が楽に見えてきた(変な感じだ!)。
「藤田さん・・・!診察室へ」と、声がした。いよいよ日赤の江口洋介???と対面だ(そんな!)。
カーテンを開け、椅子に座る。私の前には若いドクターが一人。だが、江口洋介・・・ではなく・・・伊藤英明風だ!
「藤田さん、どうしました?」と、聞かれ症状を逐一説明した私。それは昨年からの急激な体重減から始まり・・・昨日の