高須城日記V(新春編)


(平成十八年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)





【一月の一/初日の出は、高須山で!】1月1日(月)

 冒頭から突然であるが・・・「珍しい事もあるものだ?!」と、おそらくこの時、家族全員がこの大晦日の夜に食卓を囲みながらを見ていた事だろう(何?何?)藤田家大晦日の夜は・・・毎年の事だが、手巻き寿しとなっている。勿論それは、子供が大きくなってきたこの10年ほど前からだろうか!(はっきりと覚えていない!)
 年末29日に名古屋から帰省した長男も食卓に座り、久々にテーブルを囲む全ての椅子が機能??している大晦日の午後7時過ぎだった。NHK紅白歌合戦の放送を前に妻が段取りよく家族から注文を聞き・・・手巻きする。「僕は、・・・マグロときゅうり!」(次男)「俺、ネギトロね!」(長男)「イカと納豆を!」(父)「私は何でもいいわ!」(母)と、こんな調子で好きなネタを注文しながら繰り返していく。普段は晩酌しない私の父も、この大晦日正月ばかりは特別と、日本酒の熱燗を少しづつ呑んでいる。そして「お前も呑むか?」という父に・・・・「俺・・・いいわ!」の私の言葉に、家族全員が「・・・・・・」と、なっていたのだった(そんなに珍しいのかな?!)
 一年365日のほとんどを晩酌する私だが、この大晦日の夜に大好きなお酒を飲まない・・・・理由は???
 それは、一週間前天気予報に原因があったのだ。その天気予報だが「全国各地で元旦は初日の出が見えるでしょう!」だった。「元旦?・・・初日の出?・・・高須山!・・・ホームページ!」と、こんな調子でまたまた安易に物事を考えていた私だった。当然、この事は田中先生にも連絡したのだが、「私も行きます!」と、予想通りの答えが来たのだ。しかし、正月早々と言う事もあり、万が一事故などに遭えば田中先生のご家族に申し訳が無いと思った私、「先生・・・いいですよ!私一人で行きます!」と、啖呵を切ったのだった。
 この田中先生との電話の後、天気予報は毎日のように二転三転と変わり、やはり元旦の確実な予報は前日の大晦日しか出来ない様子。この間、「一人でも・・・行くぞ!」とか「やっぱり・・・止めようかな!」と、私の心の中も二転三転していたのだった(やっぱりね!)
 そして、昨日の午後の事。元旦の天気予報も確実に晴れとなっていた。この時、私は覚悟を決めたのだった(大げさな!)
 家族が大晦日での大掃除の中、私一人が「ポカロンどこ?、毛糸の手袋と、ニットの帽子は??」と、高須山登山に準備中。中学生(明道中学校1年)の時、知り合いの市役所の職員の皆さんと白山に登り、御来光を眺めた思い出はあるものの、それは記憶も薄れる30年も前の話で、その白山に比べれば「たかが・・・高須山ぐらい!」と、この時私は舐めていた。
 新聞で日の出の時刻を調べると、『7時04分』と、なっている。改めてこの日の出の時刻を考えれば、「7時過ぎなの?!」と、冬の太陽の動きを勉強し直す私だった。
 そんな時、携帯電話が鳴った。田中先生からだった。どうやら田中先生・・・高須山での初日の出がこの大晦日まで頭の中から消えないらしく「やはり、私も行きます!」と、なったのだった。元旦6時前に田中先生のお宅に迎えに行く約束をして電話を切った。
 NHK紅白歌合戦が始まった。「今年は必ず最後まで見るからね!」と、豪語していた次男(小6)も・・・手巻き寿しの食べ過ぎと・・・長男とのゲーム疲れで、11時前には仮眠状態となっていた。私の両親は毎年の事ながら五木ひろし以外は興味が無く、若いラップ調の歌手には「何を言っているか分からない?」と、聞く耳持たずの状態。
 細川たかしの歌詞忘れやナイナイ岡村のハプニング、そしてDJオズマの「これはNHKでは・・・ヤバイだろう?!」と、誰もが感じるシーンがあり、今回の紅白は別の意味で盛り上がっていた。そして、私的な最高視聴率がやってきた。それは当然、気象予報士「7時28分の恋人」半井小絵(なからい・さえ)さんの登場だった。「えっ!紅白にでるの?!」と、笑顔になっていたのは、私だけではなかったはず(巷のお父さん方もテレビ画面に釘づけ状態!)「NHKも中々、やるなぁ〜!」と、私は拍手を送っていた(妻・・・不機嫌!)
 お酒を我慢しながらの紅白は・・・・航空自衛隊在籍時の当直以来の事だろう(飲酒運転になるからね!)。そんなこんなで・・・平成十九年の年になった。妻・長男・次男と私で「おめでとう!」の挨拶となりこの後、私以外は佐佳枝廼社(大手3)初詣に行く事に・・・・。
 ね・うし・とら・う・・・と、十二支の最後の干支となるの年、そんな今年はどんな年になるのだろうと一人テレビを見ながら、私はお酒も飲まず、眠りもせずただ時間が早く過ぎることだけを考えていた。この時、「誰が、初日の出を見ようなんて言い出したんだ!」と、一人で愚痴を言う始末(それは、貴方です!田中先生ではありません!)
 また、「そうだ!高須町の佐々木さんに電話して、写真を(日の出)頼もうかな!」とも考えていた私(それは無いだろう!)
 コーヒーを何杯飲んだだろう、煙草を何本吸っただろう。どうにか時計の針は早朝5時をさしていた(もう少しだ!)初詣から帰った妻たちもすでに就寝している。
 私は、高須山への準備を始めていた。風邪をひかないようにと厚着を心がけ・・・でも、山道なのでなるべく軽装で・・・と、何故か中途半端な服装となっていた。デジカメ・携帯をチェックし忘れ物のないようにと準備する。
 そんな時、携帯が鳴った。田中先生だった。「おめでとうございます!何故か目が冴えちゃって、で・・・今からそちらへお迎えに行きます!」と、田中先生(新年早々、ハイテンションな先生だった!)
 そんな田中先生は・・・15分後には私の自宅前に着いていた。私は田中先生の車の助手席に乗り込み「今年も宜しくお願いします!」と、一応の新年の挨拶の二人。
 元旦の午前5時過ぎ・・・福井市内は静かな年明けを迎えていた。車の流れも無く・・・人の姿も見えない。この時、気温は氷点下4度・・・肌を刺す冷たい外気が車中からも感じられる。車は高須町を目指しながらも、道路の凍結状況を見るため田中先生はブレーキチェックをしながら、本郷・一王寺線を走る。まだ辺りは暗く、しかしながら空には幾つもの星が輝いている。「日の出、見られますかね?」と、田中先生。「山(高須山)に登らなければ何とも言えませんが、運が良ければ綺麗な日の出が見れるでしょう!」と、答えた私。それほど高い山とはいえない高須山だが、雲の流れや霧・霞など今まで幾度となく経験していた私。田中先生と私の今年の運?を占う意味でもご来光を望む二人だった。
 市内中心部、先月末の雪はすでに消えていた。ところが、車が旧・上郷小学校跡地横の坂道を登り始めると、タイヤから「ガリガリ」残雪が凍っている状況が座席に伝わってくる。それは、車が高須町に近づくにつれ身体に響く振動が大きくなる。途中、木々が倒れかかり道路の上に覆いかぶさっている。木々の上に雪が積もり、凍った重さで倒れかかってくるのだが、これも何故か・・・高須町冬の風物詩?!田中先生も何故か楽しそうにハンドルを握っていた。
 車は高須町に入り、高須城小学校前を通り過ぎ棚田へと続く道を登って行く。すると東の空がぼんやりとオレンジ色の薄い明かりを照らしている。時間はまだ6時過ぎ、日の出まで・・・あと1時間だった。
 暗い山道、だが雪の白さでその山道は意外にもはっきりと見えていた。ここでもまた、何箇所か私が車から降り、木々の枝を持ち上げたりしながら、車を通していた(寒い!)
 高須山への登山道が見えてきた。車を止め、田中先生と私は雪を踏みしめながら一歩一歩、ゆっくりと登り始めた。雪道には誰の足跡も無く・・・先を行く田中先生の長靴跡だけがきれいに残っていく。「こんな処で遭難したら、笑われますからね!」と、冗談を交わしながら15分後には高須山の頂上に二人は着いていた(やっぱり・・・寒い!)
 考えてみれば昨年9月3日以来の高須山登頂だった。しかもあの時も田中先生と二人での高須山だった。ホームページ用に「高須山からの四季を皆さんに・・・!」と、簡単にあの時言葉にしていたのだが、まさか本当に高須山に登るとは思いもしなかった私と田中先生(しかも、元旦ですよ!)
 頂上は約10aの積雪だが、やはり凍っている。二人が歩くと・・・「ガリッ!」と足跡が残る。日の出まで30分、だが東の空は少しずつ赤く染まっている。田中先生はその日の出の方向に向かい、デジカメを構えている。私は、その方向とは別の・・・北(奥尻島)に向かい手を合わせた(いつもの事です!)
 高須山・・・緩やかではあるが冬の風がこの頂に吹いている。「寒い!」この言葉しか出てこない私。そんな中でも田中先生は手袋を脱ぎ、デジカメのシャッターを押している(そんな田中先生を私も被写体に!・・・暗いかな?)
 7時前、東の荒島岳の山並みオレンジ色を濃くしてきた。「うわ〜っ!何て綺麗な景色でしょう」と、田中先生。
 平成19年1月1日午前7時4分幻想的?な瞬間と言うのだろうか・・・その瞬間がやってきた。
 長い人生において日の出の瞬間を何回見ることができるのだろう。しかし、このような状況は今この瞬間でしか体験できないだろう。目を奪われる時・・・言葉は浮かばない!ただ、私も田中先生も少しずつ昇る太陽に、手を合わせていた。おそらく、今年一年の家族の健康を願い・・・良い年となりますようにと、そして田中先生にはもう一つの願いがあった???それは教え子達の高校入試の合格祈願だろう。少し長めの祈りをする田中先生、私はその後ろ姿を見ながらもう一度手を合わせていた、「高須町にとって、今年も良い一年でありますように・・・!」(本当です!)
 数分間の日の出のショータイム高須山が感動の舞台となり、私達二人を癒してくれた。それは「一生に一度!」とも言うべき全ての偶然が重なった美しいものとなった。太陽時間積雪登山道のどれか一つがダメでも、このご来光を見ることは出来なかったはずである。
「感動です!来て良かったです」と、何度も言う田中先生。肌を刺す寒さと戦いながらの1時間弱は、最高年の幕開けとなっていた(おそらくね!)
 まだまだデジカメで日の出を追う田中先生。その数メートル後ろでやはり「しばれる!」と、文句をいいながらデジカメを構えている私。《私の日の出のシーンをどうぞ!》
  
 しかし、先ほどから気になる事が私の後ろに・・・・・。静かな高須山の頂上、音は風と私たち二人の声だけなのだが、時々聞こえる・・・・小さな雪踏みの音(足音?)。しかし、振り返るのだが・・・誰もいるはずは無く、「気のせいか!」と、再びご来光を見る私。しかし、しばらくすると「ゴソ・ゴソ」と、耳に聞こえてくる。「風音か・・・?」と、慣れない静寂な一時に戸惑う私(嫌な予感!)
 撮影を終え、「限界です!寒いから下りましょう」と、田中先生の言葉に再び登山道を下り始めた二人。だが、1時間前に登ってきた時には私たち二人の足跡だけだったのだが、その周りに・・・・小さな獣の足跡があった。しかも数匹分!
 気になる音・・・それは猪(いのしし)だったのかも知れないが、「亥の年」を迎えるにあたり・・・やはり高須山からご来光を・・・・だったのかも???
 高須町に戻り、集落センター横の神社で参拝した私達。芯から冷えた身体をお神酒で・・・と、いうわけにはいかずそのまま車で高須町を後にしたのだった。
 田中先生と別れ・・・まだ誰も起きていない自宅で私は台所にいた。暖かいお風呂か・・・熱燗か」は、熱燗の勝ち!
 数分後、咳をしながら熱燗に身体が火照る私だが、考えてみれば、昨夜からの禁酒・・・「田中先生が迎えに来てくれるなら、お酒を飲めばよかった!」と、クダラナイ事を考えていた私だった。

 読者の皆様、新年おめでとうございます!今年も宜しくお願い致します。


△男の酒のつまみ・・・205
 かまぼこアラカルト!
 元旦の我が家の台所・・・そのテーブルの上にはお正月ならではのおせち料理が並んでいる。熱燗ができるまで、つまみ食いといきたいのだが・・・それは家族に失礼な話。
 冷蔵庫に中を見ると、かまぼこがあった。紅白のかまぼこを薄く切り、わさび醤油で・・・とも考えたのだが、お皿にかまぼこを並べ、いくら梅肉、そしてイカの塩辛を乗せて三種類の簡単つまみとした。熱燗に最高のつまみである。


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【一月の二/初体験、救命救急24時!】1月6日(土)

 それにしても穏やかな正月三が日だった。全く雪の無い福井市内は何年ぶりだったのだろう。気象台の発表によれば、降雨量0と言うのは珍しい記録だと解説していた。まあ、たまにこんな新年の幕開けもいいものだ。
 お正月と言えば、いつの間にか朝早くから老若男女がテレビの前に陣取る・・・箱根駅伝だが、日本人の駅伝好きもあってか今年も往路・復路の二日間とも高視聴率(日テレ)となったようだ。
 何人かの※福井県出身選手もこの箱根路を駆け抜けたようだが、各大学の襷(たすき)を繋ぐ重さにそれぞれドラマがある。このドラマについつい私達はテレビの前で感動を覚え涙を流してしまう事になるのだ。
「山の神様」と、呼ばれた5区の今井正人選手(順天堂大学主将)のあの山登りの早さには今年も改めて驚いたものだ。4区から5区への引継ぎでは「まさか、東海大学には追いつけないだろう!」と、誰もが思ったのだろうが、そこは「山の神様」今井選手、次から次へと抜き去り、ついにトップの東海大学を捕らえ、しかもタイム差を広げる活躍となった。
 因みにこの「山の神様」と、命名したのは途中まで今井選手と並走した日体大3年北村聡選手だと言う。ゴールで待つ昨年のドラマの中心となった順天堂大学前年主将、難波選手の顔にも二年越しのに対しての想いがあっただろう(この瞬間また、泣いてしまった!)
福井県出身選手
 飛坂篤恭(美方高校、東洋大2年・4区)
 福岡 功(美方高校、城西大3年・10区)
 米沢 豪(敦賀気比、青学大2年・10区)学連選抜
 さて、年末からこの新年にかけてだが、福井県を代表して全国大会に挑んだ高校スポーツ全国大会の活躍には毎日のように声援を送った県民の皆さんも多くいたことだろう。
 年末の高校バスケット(選抜大会)では、男子の北陸高校準優勝。女子の足羽高校ベスト4となった。また、年末から年明けにかけての高校サッカーでは、丸岡高校ベスト8となりそれぞれ福井の名を全国に広めてくれた(みんな頑張ったね!)
 そして高校サッカーと言えば、FBC川島秀成アナウンサーだ。昨年も丸岡高校に密着していた川島アナウンサーだが、今大会は丸岡高校の活躍で年末から年始にかけて実況からベンチリポーターと嬉しい悲鳴となっていた川島アナ千葉県市原(いちはら)競技場での試合が続いたため茨城出身川島アナにとっては、時間を見つけて里帰りとなったのだろうか???それにしても川島アナの実況の上手さには昨年夏の高校野球と今回の高校サッカー共に感心してしまった(努力しているのですね!・・・川島アナ!)
 新しい年、その記念すべき元旦の初日の出高須山から田中先生と眺め・・・感動の幕開けとなった私だったのだが、帰宅後何故かが止まらない。「風邪か?」と、高須山での冷え込みが原因かと軽く考えていた私だったのだが、元旦の夜になってもそのは激しさを増していた。「大丈夫!お酒の飲みすぎ?」(長男)「煙草・・・やめたら!」(妻)「お薬・・・持ってこようか?」(次男)と、私のまわりで三人が気にしているような?気にしていないような?。
 このだが、深夜になっても止まらず・・・呼吸自体さえうまく出来ないでいる私。それは、まるでが機能していないような感じで、大きく深呼吸しても通常の三分の一で止まるようなものだった。
 咽が「ゼイゼイ」と唸り苦しさとなっていた。「苦しい!」と自分でもどうにもならない状態で、二・三歩と歩いただけでも、まるで長距離を走った後のように肩で息する私だった。ここで、真剣に何が原因かと考えた私。「風邪?」「お餅が咽の奥に詰まっている?」「もしかして・・・悪い病気?」と、気の重くなる事ばかり考える始末。
 とにかく横になろうと自室のコタツの中で寝る事にしたのだが、やはり呼吸は苦しい。「どうしよう!!お正月早々にこんな事になって」と、自分自身を卑下する私。それでもしばらくすると高須山登頂の疲れと、大晦日からの徹夜のためか睡魔が襲ってきた。しかし、ものの10分程で目が覚める。テレビに映る正月番組のお笑いなども、逆にその笑い声さえもその時の私には煩い音となって聞こえていた。ボリュームを絞り耳に音が入らないようにする。
「ハア・・ハア」と、自分の苦しい呼吸の音だけが耳に入る。「もしかしたら俺・・・重病?」と、感じていた。「病院に行く?救急車呼ぶ?」と、妻も真剣に私に語りかけていた。しかしその妻の言葉さえ「うるさい・・・静かにしてくれ!」と跳ね返す私。
 深夜、少し呼吸が楽になってきた。しかしは止まらず喘息(ぜんそく)のように連続してしまう。これもまた苦しいものだ。嗚咽(おえつ)が続き・・・また呼吸が出来なくなる。そこで小さく小さく呼吸を試みた。しかし今度は過呼吸状態となり、意識が薄れ頭(脳)がパニック状態となる。
 身体を起こし色々な体勢をとるのだが、どれも苦しくコタツのテーブルの上に腰を下ろし、頭を下げ息をする(これが一番楽だった!)。しかし、頭を下げた状態のため目まいが起こるため再び身体を横にして寝る。この繰り返しが延々と続いたのだった。
「とにかく一人にしてくれ・・・話かけないでくれ!!」と、妻・長男・次男に頼み、さらに「静かに・・・音をたてないで!」と家族に願った。
 一人の部屋、ここで体温計を取り出し熱を計った。しかし平熱の私。気を紛らわせようと再びテレビを見るのだが、おふざけ番組が多いためビデオを見ることにした。ビデオ、何故かこの時見たのは昔のTV「救命病棟24時」だった。そう江口洋介・伊藤英明・松雪やす子出演のものだった(私のお気に入り!)
 自分の体調が最悪の時にこんなドラマを・・・と、思ったのだが、何故かドラマの進行とともに私の体調も落ち着いてきた(これは不思議!)。それでも胸の苦しさは変わらず、ここで湿布を胸に貼った。すると心なしか胸が楽になり呼吸も少しスムーズになる。相変わらずは続くのだが、回数は減ってきていた。
 咽が乾き・・・ここでコーヒーを飲む。熱いコーヒーが咽を通る。少しづつ少しづつ口に含むコーヒーがたまらなく「美味しい!」と感じた。「直ったかな!」と、感じた私はここで何時間振りに煙草を吸う。しかし、これがマズかった。煙草の煙が咽に入った瞬間・・・肺が悲鳴を上げた。再びが止まらなくなっていた(だから煙草を吸うな!)
 翌日(一月二日)午前10時、体調は最悪なものになっていた。完全に息(呼吸)が出来ない状態になっていた。この時だが私は「このまま死ぬかもしれない!」と、感じていた。
「ねえ・・救急車呼ぶ?」と、心配そうな妻が横にいた。しかしここでも「近所迷惑だから!」と、世間体を気にする私(そんなもん・・・気にしている場合か!)
「病院に行く!」と、ここで意を決した私。直ぐに妻は電話で急患の病院を電話で聞いてくれた。「はい!日赤の救命(外来)ですね!」と、妻がメモを取りパジャマのまま車に乗った私。妻が運転し、私は後部座席で横になる。車の振動がたまらなく身体に響き苦痛になる。「おい!静かに走って!」と、妻に頼む私。「静かに走っているよ!」と、反論する妻(口応えするな!)
 約5分で車は日赤に着いた。駐車場に車を止め50メートルほど歩き救命外来入り口の自動ドアに着いた。静かな外部とは逆に、救命外来は混雑していた。「正月でもこんなに患者はいるのね!」と、驚く妻。約50人急患の人が診察を待っていた。受付で症状を言うと「混雑していますので30分ほどお待ち下さい!」と、受付の男性(おいおい!)
 苦しさの余り、少し離れた椅子で待つ事にした私。他の急患の人を見ると、子供からお年寄りまで様々な年齢層が診察を待っている。やはり皆さん苦痛の表情だった。お腹を抑えている人、高熱なのか顔が赤い子供、腕の骨を折った人、車椅子で付き添いの身内に励まされるお年寄りと、館内は別の意味で賑わっていた。「何か飲む?」と、妻が聞く。「いらない!」と、答える私。
 呼吸は相変わらず苦しい私はこの時「このまま入院だな!」と、思っていた。「藤田さん・・・!」と、診察室から看護士さんが顔を出した。「はい!」と、答えるとその看護士さんが私の所まで来て症状を聞いてきた。苦しい表情の私に対して意外にも冷静に対応する看護士さん。脈と熱を計り今の症状を聞く。「そうですか・・・もうしばらくお待ちください!」と、再び診察室に戻っていった(早くしてくれ!)。この待合椅子に座って約25分、入り口から次から次へと急患が入ってくる。この間にも救急車3台入ってきた。
 この時、応援の医師と看護士だろうか数名救命外来に入ってきた。先ほど私に症状を聞いた看護士がその応援看護士たちに指示を出している。それほど混雑していた日赤の正月二日目だった。「すごい人だね!」と、冷静な妻。
 患者の数は・・・減るどころか増えていた。何人ずつか診察室に入るものの、急患受付には同じ数の新たな患者が来ている。私の座っている椅子の回りにも苦しそうな表情の人が多くいる。何故だかそんな人たちを見ていると・・・私の症状が楽に見えてきた(変な感じだ!)
「藤田さん・・・!診察室へ」と、声がした。いよいよ日赤江口洋介???と対面だ(そんな!)
 カーテンを開け、椅子に座る。私の前には若いドクターが一人。だが、江口洋介・・・ではなく・・・伊藤英明風だ!
「藤田さん、どうしました?」と、聞かれ症状を逐一説明した私。それは昨年からの急激な体重減から始まり・・・昨日の高須山登山までの話となった。ここで気がついたのだが、昔はドクターカルテをペンで書いていたのだが、今はそのままパソコンに打ち込んでいるのだ(時代だな!)
 聴診器で胸の音を聴く・・・伊藤英明??。「胸部のレントゲンを撮ります!」と、ドクター。診察室を出て妻と共にレントゲン室がある通路を歩く。「こちらでお待ち下さい!」と、レントゲンの若い助手。廊下のソファーには腕にギブスをした私と同じくらいの年齢の男性が横たわっていた。苦しそうなその男性、腕のギブスも痛そうなのだが、胸部を押さえている。
「大丈夫ですか?」と、私が声をかけると
「いや、最高に痛いんですわ!」と、言う。
「どうしたんですか?」と、聞くと
「年末28日に交通事故に遭い・・・この通りですわ!」と、苦痛の顔。何故かこの人を見ていると私が普通に感じるからおかしなものだ。
「藤田さん・・・お入り下さい!」の声でレントゲン室に入った私。
「上を脱いで下さい」の指示で私の鍛え上げた逞しい身体???若い助手に披露した私(中年のおじさんの身体だよ!)。  この時までこのレントゲン撮影で「ここに何かありますね!直ぐに入院して下さい」と言われる事に微かな期待をしていた私(人生上・・・入院経験なしの私!)
 再び診察室前で順番待ちとなった(これがまた長い!)。妻はその間、自宅の長男とメール交換中の様子。
 再び診察室に入ると、伊藤英明風のドクターが私のレントゲンを食い入るように見ていた。
「ん・・・・?!」と、声を殺すドクター。
「やはり何かありますか?」と、顔から血が引く感じがしていたこの時の私。沈黙は約1分・・・そしてドクターが声をあげた。
「藤田さん、レントゲンでは何ともありませんね!」
「はぁ?」
「特別に肺にも何もありません!」
「じゃ、この呼吸の辛さは何ですか?」
「おそらく、気管支炎の初期でしょう!大丈夫ですよ」と、若いドクター。
「吸引をしますから!」と、指示をされた。
「きゅういん???あの、痛いんですか?」
「いや、痛くありません!吸引ですから」と、会話が続いた(だから、きゅういん・・・って、何だ?)
 診察室の奥に通された私は小さな機械からゴム管を通し透明のガラス管を口に咥えた。このガラス管には透明の液体(薬)が入っていて機械からの熱によって水蒸気となり咽や気管支部分に入るものだ。
 ほぼ同時に幼稚園児だろうか可愛い女の子が私の横に座り、同じ吸引を始めた。だが、その女の子は慣れた感じで楽しそうに《音付き絵本》を見ながら吸引をしている。女の子と私、時々お互いが顔を見ながら・・・私は笑顔!彼女はそんな私の顔を見て・・・直ぐに絵本に夢中になる(おい・・無視かよ!)
 不思議なもので日赤に来て2時間、昨日から続いていたが止まっていた(まだレントゲンを撮っただけなのに!)。3種類の薬を貰い、帰宅した私だが・・・自宅に帰ると再びが出てきた(何なんだ??)
 日赤の薬、自宅の薬、妻がゲンキーで購入してきた薬と何種類の薬を飲んだだろう。あっ・・・咽アメも。これから2日間、タンを取り出す苦しい日々となった私。どうにかすこしずつ回復の兆しとなったのだが・・・正月明けの仕事は・・・休みとなってしまった(自営業でよかった!)
「お父さん、無理しないでね!」と、長男も3日の夕方には名古屋へ帰って行った(親父よりも・・・彼女かよ!)
 いずれにしても最悪の年の始めとなった私だが、どうやらこれが原因で・・・煙草が止められそうな感じだ!(たぶん!)
 夜、再び救命病棟(ビデオ)の続きを見ながら・・・今度はニコチン中毒??との戦いを始めた私だった(苦しい!)


△男の酒のつまみ・・・206
 鮪のふっくら醤油漬け!
 たまに食べたくなるのが鮪(まぐろ)の漬け、軽く醤油に漬けたが何とも言えない味わいが咽を擽る。今回紹介する漬けは某テレビ番組の中で若手天才料理人がやっていた、調理法だ。
 鮪のサクを買い(安い物)、上から包丁で薄く削ぐように切り取っていく。まるで大工さんが板を鉋(かんな)がけするように。なるべく薄く・・・薄く。すると、鮪にほどよい空気が入り食感がたまらなく高級なものになる。
 白ゴマをフライパンで炒るのだが、三粒がパンパンとフライパンの上で弾けたらOK!その白ごま醤油の中に入れて後はを入れ・・・10分待つ。お酒のつまみでも鮪丼でもOKだ。


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【一月の三/火の国・熊本からようこそ!】1月7日(日)

 本当に雪の降らない楽な年明けとなっている。「暖冬!」これはつまりスキー場にとっては大きな痛手となり、ゴルフ場にとっては嬉しい営業の日が続いている。近所のゴルフ好きのご主人も近くの公園で毎日夕方にはスイングのチェックをしてこの週末には朝早くからゴルフ場へと出かけて行った。「藤田君も行こうよ!」と、お誘いを受けた私だが・・・まだまだ体調が悪く、そこは丁重にお断りとなっていた(本当は行きたい!)。こんな調子で雪の降らない事は無いのだろうが、今月末か来月のドカ雪が恐怖だと思う人は多いのだろう(北陸の人ならね!)
 さて、元旦以来体調不良で苦しむ私だが、その横で「雪、降らないのかな??」と、雪を待ち望む次男(小6)がいる。スキーが特別好きでもなく、雪遊びをしたい分けでもない次男。それでも降雪を待つ理由は・・・そう、第12回福井市・熊本市姉妹都市交流事業熊本市の小学生たちが福井を訪れるからだ。
 昨年、夏休みに熊本市を訪れ市内観光ホームステイをして交流をした福井市の団員(小学6年生・男子12名。女子13名)だが、今回は逆にこの冬休みを利用して熊本市からの訪問となるのだ。
 昨年末に一泊二日の受け入れ事前研修をした福井の子供たち、次男はこの時から熊本で遊んだ子供達が来る事を楽しみにしていたのだ。冬の福井・・・すなわち雪・・・つまりスキーなのである。熊本の子供たちにとって、珍しい雪は、今回の福井での日程の中でスキー場が含まれていたのである(だから次男は雪を心配していたのだ!)。
 一昨日(5日・金)電車での長旅で福井に着いた熊本の子供達は、まず福井駅から福井市役所を訪れ、坂川優福井市長を表敬訪問したのだ。この時、次男たち福井の子供たちは福井市少年自然の家でスタンバイ、熊本の子供たちの到着を待っていた。三泊四日のスケジュール、夕方には少年自然の家で合流となり半年振りの再会となった。この後、夕食・歓迎のつどい・入浴と楽しい時間を過ごした。
 そして二日目、朝5時半の起床でバスに乗り込みスキー場へ向かった(朝食はバスの中!)
勝山スキージャムに行きスキー体験そり遊びで楽しい時間を過ごした一行は、午後から恐竜博物館を訪れ夕方には再び福井市に戻ってきたのだ(ハードスケジュールですね!)
 バスは勝山から福井市役所前に着き、ここから福井の子供達の家で翌日の夕方までホームステイとなるのだ。福井の子供達の保護者が車で迎えに行き、そのままステイ先での一泊となる。次男は市役所から徒歩1分の私の店にK君を連れてきた。昨年の夏休みでの熊本訪問の時、次男はこのK君宅でステイさせて頂いたのだ。
 このホームステイに先立ち、妻は「どこに連れて行こう?何をご馳走しよう?」と、あれやこれやと頭を悩めていたのだった。事前に熊本K君宅に電話をかけK君のお母さんに好き嫌いを聞いていた妻だが・・・この当日になってもまだ悩んでいたのだった(気持ちは分かる!)
 因みに昨年夏に次男が熊本を訪ねた時にはK君のご家族に、馬刺しやら熊本の有名な特産物たっぷりご馳走になったらしい。
 その妻が店まで次男とK君を迎えに行った。この時、私は体調不良(気管支炎)で休んでいた。自宅にK君と共に帰ってきた次男と妻、まずは朝からの雪遊びで濡れた下着や衣服を鞄の中から取り出し、妻が洗濯やら乾燥をする。着替えた次男とK君だが・・・次男の部屋でなにやら遊んでいる。
 ここで私が次男の部屋に行き、K君と対面した。「ようこそ!」と握手をすると「こんにちは、お世話になります!」と、さすが九州男児?のハキハキした口調で挨拶するK君。仲良く夕食までゲームやら話やらで盛り上がっていた二人だった。
 夕食はすき焼きか・・・焼肉と、悩んでいた妻だが、次男の希望で焼肉となっていた(私は一緒に食べていない!)。 この後、次男たちは自宅のお風呂は手狭と、近所の銭湯(たきの湯)に行った(妻は送迎のみ!)。冷えた身体を色々な種類のお風呂やらサウナで温め、2時間弱で帰宅してきた。
 6畳の次男の部屋、ベットの横には来客用の布団が並んでいた。「あの二人、今夜は遅くまで話すだろうな?」と、予測をしていた妻と私だったのだが、雪遊びの疲れか以外にも早くの就寝となった二人のようだ。
 九州・熊本北陸・福井の二人の小学六年生の男の子。縁あってお互いを知る事になったのだが、熊本弁福井弁の会話も聞きたいものだと笑いながら妻と話していた私(やっぱり・・・K君、「・・・ばい!」って言うらしいですよ!)
 翌日、少し遅めで起床した二人。これから夕方の合流までは各ステイ先の福井の家族が熊本の子供たちをそれぞれ福井の観光地を案内するのだ。
 運転手の予定だった私だが、やはり無理は出来ず自宅謹慎???となり、妻が二人を連れて自宅を出発した。私の父も母も玄関までお見送り。「どこに連れて行こうかな。東尋坊?永平寺?かにミュージアム?」と、悩んでいた妻だが・・・私の「高須町!」は簡単に却下され・・・まだまだ頭を抱えながら出かけて行った。
 結局、東尋坊永平寺、それから何故か春江のエンゼルランドに行ったらしいのだが、そのいずれの場所でも他の福井のステイ先のご家族や子供たちと会ったらしい(どこも同じ事を考えるものだ!)
 
 途中では福井の名産?《ヨーロッパ軒のソースかつ丼&おろし蕎麦》を食べたらしい(越前かには・・・無理!)
 夕方、次男とK君は再び少年自然の家に行った(宿泊です!)。そんな二人を無事届けて妻が疲れた顔で帰宅してきた。
「お疲れさん!」と、声をかけると「疲れた!」と妻。何やら東尋坊に向かう途中・・・あの全国を吹き荒らした強風に巻き込まれたらしい。「すごい風だった。あんなの初めて!」と、妻が興奮して話していた。「とても東尋坊の先端(断崖)までは行けなかった!」と、冬の日本海を間近でK君に見せられなかった事が少し残念そうな妻。
 しかし、しばらくすると「あの子(次男)、明日の会で司会なんだよね、うまく出来るかな?」と、班長の次男を心配する・・・妻の頭の中は切り替わっていた。
 三泊四日の行程も全て終わり、福井駅(往復電車らしい)で熊本の団員たちを見送った次男たちや福井のステイ先のご家族。少し疲れた顔で妻と帰宅してきた次男だが、寂しそうな顔も覗かせていた。
 この熊本市との姉妹都市交流事業で熊本市の子供たちとの交流も良い経験となっただろうが、福井市の他校の子供たちとの交流も大切なものとなっていた(多くの友達が出来たみたいです!)
 昨年、この交流事業が担任の先生(順化小学校)から話があり・・・「はい!」と手を上げた次男。その時から次男の新しい経験が始まっていた。熊本市で見聞きしたもの、また、それを文章にして人前で発表する経験、そして何よりも多くの友達が出来たことが宝(財産)となった小学6年生の次男だった(よかったね!)
 帰宅後、そんな思い出話を楽しそうに妻や私に話す次男だが、心なしか少し大人になったような気がする私だった。
 でも・・・咳が止まらない!
 そうそう、九州・熊本に帰る前だがK君からこんな一言が「あの・・・昨年の秋に送ってもらった福井のお米、本当に美味しかったです!」と、高須産コシヒカリ《げんき米》が好評だったようだ。


△男の酒のつまみ・・・207
 ふきのとうの天麩羅!
 暖冬が原因だろうか例年より早くスーパーふきのとうが並んでいた。勿論このふきのとう天然物ではなく、ハウス物だろう。それでもふきのとうはふきのとうと購入した。
 調理法はやはり天麩羅だろう。天麩羅粉と冷水、油でカラリと揚げる。春の息吹・・・この苦味が何とも言えない至福の時を齎すのだ。


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【一月の四/悲しい記事が・・・!】1月11日(木)

 新年早々体調不良もここにきてどうにか完治の兆しとなってきた私、少しずつではあるが体力も戻りつつあるようだ。年末以来、この高須城日記の原稿から離れていた私だが、こちらも短い時間ではあるがパソコンに向き合う事も出来るようになっていた(田中先生から無言の催促が!)
 辛いも時々となり・・・それでも薬は飲んでいる。あれほど心配してくれていた妻や次男も「・・・・」と、全く私に気配りせず、少し寂しい私(おいおい!)。そんな中「お身体、大丈夫ですか?」と、田中先生だけがメールで心配してくれている(有難うございます!)
 私自身の身体の事も気になるのだが、このところ相変わらず嫌な事件がニュースで取り上げられている。年末の兄妹殺人事件や最近の夫婦のバラバラ殺人事件だ。この日本では昔から家族や身内関係での殺人事件が多いと聞いていたのだが、それは数字に表すと全体の80%強にもなるらしい。
 エリートサラリーマンと美人の奥さん、その若い夫婦に何があったか知る由もないが、夫婦間の亀裂を離婚では無く殺人によって結末を向かえたのにはその理由は到底理解出来ない事だ。はからずも愛を誓い合った夫を殺し、その遺体を鋸でバラバラにして遺棄する妻の心境はと考えたら・・・・怖くなる私だ(私も家の鋸を隠そうかな!)
 暗い事件ばかりが世間をにぎわすのだが、本当に明るい話題が無い今の日本、今年もそんな一年になってしまうのだろうか。
 さて、福井市中心部と同じようにこの時期に雪の無い穏やかな日々となっている癒しの山里・高須町元旦高須山への登山で凍っていた登山道の雪も今は無い。そんな高須町だが、本日の福井新聞にその高須町高須城小学校の記事が大きく取り上げられていた。その記事だがまたまた・・・・私的にも、当然、高須町関係者にとっても悲しい記事だったのだ。
『高須小学校、来年度より休校!』の記事だった。この事は私が高須町を訪れるようになった五年前から気になっていた・・・そして触れたくなかった問題の一つだったのだ。
 過疎化・高齢化・少子化の波が押し寄せていた数年前、いや、昭和の終わりから高須町の皆さんにとってどうしようもない頭痛の種となっていた問題だった。「いつかはこんな日が!」と、ただ目を閉じ・・・言いようのない切なさだけが胸の奥の止まり木にずっとあった事なのだ。
 福井県で・・・北陸地方で一番小さな小学校として度々、ニュースや新聞に取り上げられ、話題になってきた高須城小学校
 
 まず、本日のその記事を全て紹介します。

《高須城小4月から休校》92年、一光小中以来『新年度児童1人に』福井市教委「教育の維持困難」
 県内最小規模の福井市高須城小(高須町)が三月末限りで休校となることが十日、分かった。現段階では新年度の児童数が一人となることから、市教委は「学校教育の維持は困難」と判断。創立から百三十一年の歴史の区切りとなる三月十六日の卒業式には、地元住民挙げての参加が予定されている。
 同小の児童は現在六年生と五年生各一人。教職員は校長、教頭と養護助教諭、調理技師の常勤四人で、教頭が担任を兼務し複式学級で指導している。
 三月には六年生男児が卒業。しかし四月に新一年生が入学するめどはなく、新年度には六年生女児一人だけに。このため市教委は、互いに学び合う中で子どもの協調性や社会性を養う学校教育の理念を成り立たせることは難しいとし、地元と話し合い休校を決めた。
 女児は、新年度から中学校区が同じ棗小(石新保町)に転校する。高須城小は、寺院を仮教場として1876年に創立(当時は高須小)。一つの集落だけが校区の全国的に珍しい小学校として知られた。
 児童数は、記録が残る1901年度以降、最盛期には六十人を超え、昭和三十年までには三十人を維持していた。しかし近年は過疎化や少子化が進み、2003年度以降新入生がなく、04年度四人、05年度三人、そして本年度が二人と急激に減少していた。また町内に現在、〇−六歳児はおらず、当面学校再開の見通しはない。
 同市の小学校が休校となるのは、92年の一光小中以来。一昨年には児童数の減少から上郷、下郷の両小が閉校・統合し、新たに本郷小が開校。新年度から市内の小学校は五十校となる。
 66年に改築された二階建て校舎は、市内小学校で唯一の木造。市教委は当面取り壊さず、校庭も地域の祭りや運動会などでの使用を認める方針。地元は、生きがいや健康増進のためのコミュニティーセンターとしての利用を要望している。
 三月十六日の卒業式は、地元自治会やPTA代表らでつくる「休校検討委員会」が内容を討議している。地元住民や歴代校長らを招待し、式典のほか創立からの歴史を振り返るスライド上映なども予定している。
 石村和道校長は休校について「赴任して三年、地域の方々には大変お世話になってきた。大変寂しいが、子どもたちには、いつまでも古里を愛し続ける人間に育ってほしい」と話している。
《社会部通信》
◆・・高須城小が本年度末で休校になると聞き、市政担当として恥ずかしながら初めて同校を訪問した。市ノ瀬町から延々と続く細くうねった坂道には驚かされたが、ギシギシと音を立てる板張りの校舎にはどこか懐かしさを覚えた。
◆・・標高四三八bの高須山の中腹に建つ同校。規模は県内最小ながら世帯数四十六、人口約、百二十人の高須町の人々には、まさに地域の宝。毎年、夏祭りや運動会が開かれ、文化やにぎわいの中心を担ってきた。建物は残るが、学校に子どもがいなくなるのは、やはり寂しいことだろう。
◆・・取材中、教室から笛の音が聞こえてきた。笛は一本だけのようだったが、響きはとても力強かった。(終)

 一つの学校が休校や廃校になることは過去にも何度か新聞やニュースなどで聞いたことがあった。しかし、これはと言って特別な感情もなく他人事のように思えていた私。しかし、今回のこの高須城小学校休校というニュースには、分かっていても寂しさを感じてしまうものだ。
 実は昨年の秋の暮れ、高須城小学校にお邪魔した際、石村校長先生から「休校になります!」と、お話は伺っていたのだ。その事を聞いた時の私は母校でもないのに胸に苦しくなるほどの切なさを感じていた。でも、その事を話してくれた石村校長先生はその何倍もの寂しさを抱いていたことだろう。そして、地元高須町の皆さんは言いようのない虚しさを感じていたことだろう。
 少子化によりどこの学校でも子どもの数は激減している。福井県一のマンモス校として昭和30年代、生徒数2,100人以上を抱えていた母校の明道中学校でも現在約600人となっている。また、こちらも母校で福井市の中心部にある次男が通う順化小学校も私たちの頃は各学年4クラスあったのに対し、現在は各学年1クラスだけとなっている。そしてそれは順化小だけに限らず、近隣の春山小・宝永小などでも同じ状態なのだ。
 益々、歯止めの利かないこの少子化問題高須町のみならず全国的な問題として真剣に考えなければならないのだが、今のところ解決策は見えてこない状況となっている。地域から子どもの声が消える・・・子どものいない校舎がある・・・こんな寂しい事はない。
 高須城小学校に通った多くの皆さんの心境を考えると、言葉も出てこない私だ。
 この数年間、いつ休校になってもおかしくなかった小学校。その高須城小学校の存続にあたり、並々ならぬご努力をしてきた植木御大を始め高須町の皆さんと、学校関係者の皆さんには頭が下がる想いの私。
 昨年度、高須町佐々木さん次男(現・中1)卒業式の際には取材をさせて頂いた私。《高須城日記U【三月の七/旅立ちの日に・二つの卒業式】》
今年の卒業式も必ず・・・取材をさせていただきます。でも泣いてしまうかも・・・!


△男の酒のつまみ・・・208
 姫竹の天麩羅!
「筍の子ども?」と、この姫竹が大好きな次男がお気に入りの天麩羅。コリコリとした食感が大人でも子どもでも美味しく食べられる。ジャガイモ厚揚げ人参煮物にしても美味しいのだが、やはり天麩羅にしてで頂くのが最高だろう。


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【一月の五/アクセス・ランキングに!】1月15日(月)

 本当に暖冬なのだろうか・・・こんなに雪の降らない一月は珍しいものだ。
「雪、降らないね!」と毎朝、次男が窓の外を眺めながら話している。「そのうち、嫌でも降るさ!」と、話す私に「そうそう、朝起きたら真白になってるからね!」と、12年の福井での人生経験?を想い起こす次男。
 それにしても暖かい日々が続く毎日。まるで冬が終わりが来たように全国からは木々や春の芽の息吹きの話題が届いている。ギリギリまでスノータイヤに交換しない呑気な私にとっては「今年は交換しないでいいかな?」と、倉庫の奥で眠っている4本のスノータイヤにはご無沙汰となっている(おいおい!)
 小学生として残りの数ヶ月となっている次男。そんな次男も放課後には少し遅めの下校が続いている。「卒業までに色々とやらなければならない事があるから!」と、少し生意気な口調で何やらクラスメイトと卒業記念の作品の仕上げをしているようだ。「もう少しで中学生か!」と、改めてそんな次男を見つめる私。黄色い帽子、そしてランドセル姿が当たり前になって次男が学生服姿になるなんて・・・子どもの成長の早さに今更ながら驚きを感じている。
 そんな時、次男が学校から一枚のプリントを持ち帰ってきた。「これ、お願いね!」と、差し出されたそのプリントは四月から入学する明道中学校《入学説明会のご案内》だった。来月6日(2/6)の午後から予定されているこの入学説明会だが、保護者と共に明道中学校に登校し、幾つかの授業を体験、その後、体育館にて学校説明やオリエンテーション、そして生徒代表(中学生)による説明、また部活の見学も含まれているのだ。
 長男(19歳)の中学入学当時、PTA役員として補導委員長(H・12)になり、その後の二年間を会長(H・13、14)として長男と共に過ごした私、長男の卒業と共に今度は明道中学校学校評議員(H・15〜)になった。評議員として、またまた次男の中学校三年間を共に過ごすのであろうか(いやはや!)
 それにしても・・・明道中学校での中学校生活を前に少し余裕の顔の次男。その理由は・・・・私が原因だった。評議員として度々、母校を訪ねる私だが時間が合えば学校帰りの次男も明道中学校に連れて行っていた私。共に職員室に入り、田中先生や他の先生方とも少し顔馴染みとなっていた。そうそう校長先生とも挨拶していた事が・・・・。おそらく、来年度の新入生の中で一番多く学校訪問をしている次男だから・・・・この余裕の表情なのだろうか。
 ところで、その入学説明会なのだが「俺が連れて行こうか?」と、珍しく父親としてやる気?の私が妻に話したのだが「私が行く・・・!」と、ここは母親としてのに完敗となっていた。「・・・・・!」(仕方ないか!)
 さて、このところこの高須城日記をパソコンで書きながら、「もう、二年になるんだなぁ〜!」と、今年四月一日で早や開設二周年を迎える事に過去の想い出を頭の中で振り返る私。特に「これは!」と、読者の皆さんが感心する内容も無く・・・平々凡々とブログ的に書いている私なのだが、昨年末だったか「もうすぐ、200話目ですね!」と、田中先生が教えてくれた。「えっ・・・そうですか!よく書いたもんだ!」と、瞬間思った私なのだが、その事が嬉しい訳でもなく逆にくだらない内容ばかりのこの日記に高須町の皆さんに対しての申し訳なさと自分の恥ずかしさを改めて感じていた私だった。
 それにしても早いものだ。三年前の秋、私の自宅に遊びに来た高須町の佐々木さんから「高須町のホームページを作りたい!」と、相談を持ちかけられ、私は田中先生に委ねた。高須町の佐々木さん宅植木御大や佐々木さんの会社の先輩の高島さんを交え集落センターで何度か会議しながら、このホームページが翌年春に開設できた。
 当初、「誰が見るのだろう?」「アクセスが少なかったら恥かくよ!」と、全員で心配していたものだった。しかし、皆さんのご愛顧により、また高須町の皆さんや棚田オーナーの皆さん、市・県の関係者の皆さんやFBC川島秀成アナウンサーなど、多くの方々のご協力により予想以上のアクセス数となっている。
 一昨年の夏頃だったかアクセス数が一日500件を超えていた頃だったか・・・「載らないね???」と、佐々木さん田中先生そして私が不思議に思っていた事があった。
 それは、この高須町ホームページ開設契約をした、mitene(ミテネ)の独自アクセスランキング(週毎)の事だった。アクセスランキング上位20のホームページには、コンテンツ容量が倍(当時は5倍)になるという特典があり、私達は毎週このランキングをハラハラドキドキ楽しみにしていたのだった。しかし、何故かこのランキングには入らず・・・・「どうせ・・・載らないよ!」と諦め、いつの間にか、ランキングを見ることも無く、忘れていたのだった。
 しかし、先週の事「藤田さん、ランキング5位です!」と、田中先生からのメール。「えっ!本当ですか」と、暫し感激してメールの交換を何度かしていた二人(電話で話せ!)
 当然ホームページの容量も今の倍をミテネさんからプレゼントとなり、嬉しいやら(私)逆に頭を抱えるやら(田中先生)の時間となっていた。容量が倍となると、「動画もバンバン入れられますよ!」と、青ざめた顔で解説する田中先生(また、忙しくなってしまう田中先生)
「いつからランキングに入っていたのだろう?」と、今更ながら勝手な事を考える私だったのだが、ようやくこの高須町のホームページも一人前になったのかと心から嬉しさが込みあげてきた。そして今週のランキングでも4位に上昇し、益々感動している私だった。
 癒しの山里・高須町から発信しているこのホームページが全国の皆様から益々ご愛顧頂けるように充実した内容にと、襟を正し(私)、頭を悩まし(田中先生)、酒を飲み(佐々木さん&高島さん)、睨みを利かす(植木御大)高須町HPスタッフだった。


△男の酒のつまみ・・・209
 寒鰤の豆乳しゃぶしゃぶ!
 富山・氷見では寒鰤が大漁だとテレビで話題になっていた。出世魚としてしられる鰤(ぶり)だが、地方では「はまち」とも呼ばれる。この「はまち」のお刺身が大好きな次男を無視して、友人から聞いた美味しい食べ方??に今夜は挑戦する。
 それは豆乳のしゃぶしゃぶだ。鍋に豆乳をどっと入れ、鰤の刺身をしゃぶしゃぶする。これが意外にも美味しいのだ。豆乳に包まれた鰤が口の中でとろけるような感覚になる。「まろやか!」の言葉が思わず出てきてしまう。薄め?のポン酢がお勧めかも・・・?


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【一月の六/高校スポーツの未来とは?】1月19日(金)

 朝夕、肌を突き刺す寒さなのだが、相変わらず週間の天気予報でも雪マークは無く、「このまま雪降らないで・・・!」と、願う人も多いはず。深刻な問題と言える地球温暖化が進み、この数十年で真冬の気温平均3度ほど上昇しているらしい。「3度?」と言われてもピンとこない私だが、冬の東京の気温が数十年前の九州地方の気温になっているとかで、何だか真面目に温暖化対策を個人個人でも考えなければいけないようだ(今更、遅い!)
 年末・年始と多少の積雪があった高須町だが、現在はその積雪も0となり、地元の皆さんも例年よりは少し広めの行動範囲となっている。しかし春以降、雪が降らない事により田んぼなどに害虫の影響があるとかで・・・こちらは少し心配そうに冬空を眺める高須町の皆さんがいた。
 そんな雪を・・・福井市・熊本市姉妹都市交流事業に続きまたまた心配している次男(小6)「雪降らないと可哀想だな・・・5年生!」と、何故か順化小学校の後輩たちを気づかっている。その話を聞くと、毎年順化小学校の5年生はこの時期に奥越のスキー場(六呂師)に行きスキー教室など雪遊びをするのだと言うのだ。「そうなの?」と、私が言うと「何で・・・去年僕も行ったじゃない!」と、声を張り上げる次男(お前の一年前の学校行事を覚えているか!)
「雪が無い時は・・・どうするの?」と、聞いた私だが「雪が無くても、行くよ!」と、答える次男。「じゃ、雪の無いスキー場で何するの?」と、続けて質問すると「・・・・それは・・・知らない!」と、曖昧な次男だった(雪が無くても本当に行くらしいです!)
 そうそう・・・先日の事だが、明道中学校田中先生順化小学校理科の出前授業をしたらしいのだ。「息子さんの6年生じゃなくて残念です!」と、笑顔で話していた田中先生だったのだが「田中先生が来た事は知ってるよ!」と、下校後話していた次男だが「もうすぐ田中先生の授業は受けられる(進学後)から!」と、呑気な次男がいたのだった(おいおい、中学校の理科の先生は、田中先生一人じゃないよ!)
 そんな次男が春から進学する母校の明道中学校だが、いよいよ三年生の高校入試が迫ってきた。学校内もその雰囲気があり大いに緊張感が漂っている。そして、その三年生だが、風邪をひかないようにと登下校では少し厚着となっている。マフラー&オーバーコート、また大きめのマスクもして歩く様子は思わず「頑張れよ!」と、声をかけたくなるものだ。希望の高校に入り勉強に部活にと楽しい高校生活が待っているだろう(ああ・・・戻りたい!)
 私の高校生活だが・・・部活ばかりが思い出となっていて、勉強をしたのは三年生の夏休みからだった。朝練から始まり夜遅くまで体育館でバスケットボールを手にしていたものだ。当時、「打倒!北陸高校」を合言葉に、血反吐が出るくらい練習に明け暮れていた。バスケをしていた福井の高校生なら誰でもそうだった。県大会それでも・・・試合ではダブルスコア以上の得点差となっていた(どんな事をしても勝てなかった!)
 身長差?スピード?体力?チーム力?フォーメーション?精神力?その全てが違っていた。そして、一番の違いは・・・・個人個人のバスケに対しての真剣で熱い想いだった(これじゃ、勝てる訳が無い!)。大人と子供の差・・・だった。名将・津田監督が率いていた北陸高校バスケ部はこの何十年間で名門と呼ばれる地位を築いた。東北・秋田の能代工業高校を倒すのは北陸高校だと呼ばれるようになった。中学バスケの有望選手も「打倒・・・能代!」を合言葉に北陸高校に全国から素晴らしい選手が集まってきた。そう、佐古賢一選手(アイシン)もそうだった。
「藤田君、今からとんでもない中学生がここに来るから見て!」と、当時福井市営体育館でミニバスケの指導者だった私に津田監督が声をかけてくれた。そして、現れたのがまだ神奈川県・汲沢(ぐみざわ)中学校の生徒だった佐古君だった。そして、そのプレーを見た私は唖然とした。
 とても中学生とは思えないプレーで、そのまま高校生・・・いや大学でプレーしても通用するものだった。超スーパー中学生だった佐古君だが、その後北陸高校を日本一に導き、中央大学に進学後もスター街道を行き・・・いすゞ自動車から現在のアイシンとまだまだ第一線での活躍だ。勿論、その間全日本のスタメンとして日本チームを引っぱってきたのだ。
「高校バスケット界に北陸あり!」と、いつしか呼ばれるようになっていた。何十年も日本の高校バスケ界のトップをキープすることは難しいものだ。私の高校生時代から現在まで、そのトップに位置する高校はそうは無い。秋田・能代工業、東京・京北高校、茨城・土浦日大、福岡・大濠がそうだ。学校名が変更になった学校も幾つかあるのだが、まさに北陸高校は長年において高校バスケ界をリードしてきたと言えよう(津田監督には頭が下がります!)
 そんな北陸高校もいつの頃からか、中国からの留学生がコートの中を走っていた。アジアではバスケの頂点の地位を不動のものにしている中国は、「バスケは国技!」と、言わんばかりに日本の人口の数倍の競技者がいる。身体能力に優れた中国の選手。全日本女子の監督である内海氏の日体大の先輩で、私の友人であり実業団・松下電器でプレーしていた※野口幸治氏が現役当時、日本リーグの試合で訪れた時、福井の飲み屋街(片町)でこんな話をしていた事を思いだした。「藤田さん、日本はこれから先・・・中国には勝てませんよ!」と、肩を落として話していた。
※野口幸治氏・・・神奈川県・相模工大付属高校(現・湘南工科大付属高校)当時、「サウスポーの天才シューター!」として、全国大会で活躍した。1試合で30〜40点を個人で得点した。月刊バスケットボール(専門誌)の表紙にも登場した。
 日本体育大学進学後も活躍し卒業後、日本リーグの松下電器(当時)に入社して活躍した。身長175aと、バスケット選手としては小柄だった。『野口が後10a身長があったら日本のバスケツト界は変わっていただろう!』と、言われた選手
 全国に広がったミニ・バスケの普及によりその当時よりもバスケのレベルは向上したのだが、それでも中国のレベル高さには追いつかない今の日本がいる。
 高校バスケ界の頂点を勝ち取るためには、その留学生が必要になってきているのが、今の実情なのだ。中国・セネガルと、200aを超える留学生選手がいるチームが当たり前のように全国大会の常連校として男女とも顔を連ねている。
 それはバスケばかりではなく、駅伝などの強豪チームにも見られることだ。花の1区・・・先頭集団はアフリカからの留学生が占めていた。大きく離される日本人高校生たち。過去に言われた、チームのレベルの向上のための留学生の存在・・・とは、いささか違った私立高校などに見られる名前を売るための優勝を意識した留学生の存在となってきている。
 この留学生だが、バスケットや陸上だけではなく幾つかのスポーツ競技にも見受けられる。そして、今後益々その数は増えていく傾向にある。一時、高校スポーツ界では他府県からの選手集めが話題となっていた。地元の子どもたちで純粋な地元のチーム作りを願った時代もあったのだが、今やそんな話も忘れさられ、外国からの留学生が当たり前の時代となっているのだ。
「日本一!」のチームを作るには・・・・言葉は悪いが形振りかまわずが常識となってきているのだ。日本の高校スポーツの未来はどうなっていくのだろう。
 奥尻島航空自衛隊に合宿に来た日体大の選手の中で私が一番仲良くなった野口君、名前が同じ幸治ということでお互いそれからも親交を深めた。その野口君がお酒を飲みながら私に言ったことがある。「いつか、楽しんでバスケをしてみたい!」と、私に話した野口君。中学・高校・大学・実業団日本の第一線で長くプレーした彼だから、そんな言葉が出たのだろう。いつも楽しんでバスケの試合をしていた私には彼のその言葉は重く突き刺さって、今も心に残るものとなっている。


△男の酒のつまみ・・・210
 焼きはんぺん!
 おでんなどの具となる練り物のはんぺん。そのはんぺんをフライパンで少し焦げ目が付くまで焼き、山葵醤油で食べる。
 これが日本酒に合うのだ。練り物本来の味が何とも言えないくらい美味しい一品だ!日本人で良かった。


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【一月の七/後輩たちの力走!】1月21日(日)

 昨日の朝、それは寒い朝だった。「大寒って今日だったっけ!」と、妻に聞いた私。「さぁ〜今日か明日じゃないの!」と、相手にしてくれない妻(人が真剣に聞いているのに!)
 そんな朝だが、妻は忙しそうに次男とバタバタと慌てて準備をしていた。「忘れ物しないでね!」「大丈夫だよ!」と、二人の声が聞こえてくる。そう・・・またまた次男はボーイスカウトキャンプ(一泊二日)なのだ。「こんな寒い時に!」と、私が次男に話しかけると「雪が無いだけいいよ!」と、愛想笑い(こいつ!)
 事前に準備をしてれば慌てなくていいのに・・・と、思う私なのだが、そこは呑気な次男で毎度の事の話。ようやく準備が整ったのか「行ってきます!」と、元気に出かけて行った。このところ毎週何かと行事のある次男だが、たまにはのんびりとしたいだろうに思う私だが、仲間とのキャンプが今の次男には何より楽しいらしい(まあ・・家でオンラインゲームで遊ぶよりは・・・いいか!)
 そんな土日の我が家だが、やはり次男がいないと何故か寂しいものだ。「明日、何時頃帰ってくるの?」「夕方ぐらい、電話かかってくるから、貴方迎えに行ってね!」「えっ!」「私はその時間は会合だから!」「そうなの?」「そうなの!」と、たわいも無い会話の夫婦だった。
 で・・・その日曜日、妻も朝からお出かけとなっていた。またまた一人の日曜日。「最近、このパターンが多いな!」と、独り言を言いながら、炬燵の中で横になりながらテレビだけが唯一のお友達の私だった。
 新聞を捲りながら「おっ!今日は男子の方か」と、広島で行われる都道府県駅伝を見ながら時間を潰そうと決め込んでいた私だった。新聞にはその福井県チームの選手が紹介されていた。実業団の選手から・・・正月の箱根駅伝を走った大学生・・・そして・・・「おっ!明道中の子が走るのか!」と、後輩の名前があったことに驚いた私、思わず身体を起こし新聞の記事を注意深く読んだのだった。「応援しなければ!」と、午後から始まるこの駅伝に何故かワクワク・ドキドキの私がいた(自分が走るわけでもないのに!)
 中学生の区間は二つあり、明道中の生徒はアンカー前に走ると紹介されていた。そうそう、この男子の数週間前に行われた京都女子駅伝でも福井県チームの中にやはり明道中の生徒の名前があった。ただし、その生徒は当日は走らず選手のサポートに回ったらしい。その女子駅伝も福井県チームはまあまあの成績となり翌日の新聞には全員笑顔で写っていた。昔の福井県チームと言えば「また、最下位か!」と、不遇の時代もあったのだが、最近では上位とはいかずとも中々、見ている私たちを興奮させてくれるレース運びをしてくれている。
 そして今日の男子だが、勿論福井県チームも注目なのだが、やはり連覇のかかった長野県チーム兵庫県チーム優勝候補だろうと予測する私(新聞に書いてあった!)。やはり長野は佐久長聖高校、そして兵庫は西脇工業高校と、レベルの高い駅伝名門高校があるだけに、その卒業生の実業団選手や大学生がいるチームは強い!となるのだ。
 一人の部屋、簡単な昼食となっていた私。カップ麺に熱湯を入れ、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出した。これで準備万端?・・・正午過ぎにスタートする男子駅伝のスタートを待っていた。福井県チーム1区美方高校の選手だ。
「1区から遅れるなよ!」の私の声が届いたのか、まさかの先頭集団でテレビにその力走振りが写っている。「おっ、やるな。そのまま付いて行け!」と、応援にも力が入る。そして、何と区間10位で襷を渡したのだ。
「これは・・・いけるかも!」と、この時予想した私・・・だが、やはり2区の中学生区間から遅れだし・・・いつもの福井県チームとなっていった。それでも選手は頑張っている。「頑張れ!頑張れ!」と、一人の部屋で声を出して応援していた。
 2区(中学生)、3区(一般・大学生)4区5区(高校生)と順位は20位台をキープしている。そして、いよいよ後輩の走る6区(中学生区間)が来た。この時、偶然にもNHKのアナウンサー「福井県の6区は○○です!」と、後輩の名前を紹介してくれた(やったね!)。テレビでは先頭集団や襷の受け渡しの場所しか写らないため、後輩が次に写るのは次のアンカー走者への襷渡しだけだ。
 3キロを走る中学生、おそらく9分前後で走ってくるだろう・・・と、予測していた私だが、「タイムよりも今の順位を落とすなよ!」と、願っていたのだった。その後輩だが1つ順位を落としたのだが無事アンカーに襷を渡してくれた。「頑張った!うん、うん頑張った!」と、お得意の涙が流れてきていた私。
 短いようで長い距離の3キロは・・・ペース配分が難しい距離とも言われているのだ。大いなる緊張感に包まれながら走った3キロの道、ここまでの福井県チームの選手が繋いだ襷にかける想いを無事にアンカーに繋いだ後輩が再び画面の中にあった。
 22位、それが福井県チームの最終順位だった。47都道府県の中での22位は、健闘したと言えるものだ。そうそう、当然、田中先生も応援していましたよ!(メールでのやり取りでした!)
 夕方、テレビの前から離れられない私は、時計の針を気にしながら次男からの電話を待っていた。そんな時、妻から携帯に連絡があった。「予定通り、向こう(芦原)を出たから4時前には迎えに行ってね!」と妻。「はいはい!」と、直ぐに電話を切る。
 穏やかな日曜日、「本当に、これが福井の一月だろうか?」と、思わせるポカポカ陽気の午後だった。スカウトハウス(順化小学校内)には、多くのお迎えの車が止まっている。そして、スカウトハウスの前ではキャンプ道具を車から下ろす次男たちがいた。みんな笑顔で最後の作業をしている。その子ども達を見つめる保護者の顔も笑顔であった。作業を終えた次男たち、解散を前に整列・敬礼凛々しい姿が私たち保護者の背筋を真っすぐにしてくれる。
 笑顔で車に乗り込んできた次男「帰りました!楽しかった!」と、私に報告する。「そうか・・・よかったね!」と、話すと「うん、お風呂入るから!」と、エンジン音に邪魔されてか、人の話を聞いていない次男。
 夕食後、そんな次男と五目並べをした私。「五目並べしよう」と、次男が珍しく碁盤を抱えながら私に話しかけてきたのだ。「いいよ、何年ぶりかなお前とするの」と、話すと「前に、したっけ!」と、覚えていない次男。赤子の手を捻るように・・・と、軽く考えていた次男との対戦だったが、5勝7敗で・・・・私の完敗となっていた(嘘!そんなバカな!)
 五目並べの敗戦を誤魔化すように、お昼の駅伝明道中学校の生徒が力走した話を次男にした私。すると、次男が「僕も陸上部に入ろうかな?」と言う。それもいいかなと思った私だったのだが、つい数週間前に「バトミントン部に入る予定だよ!」と、話していた次男を思いだした私。
「お前な・・・ころころ変わるな!」と、叱ると「だって、お父さんも中学は野球部で高校はバスケでしょ!」と、次男。「・・・・・・」(それはそれ・・・これはこれだよ!)


△男の酒のつまみ・・・211
 牡蠣の味噌鍋!
「男の酒のつまみ201」に続き、今回も牡蠣の登場となった(すいません!牡蠣、大好きなんです!)
 あれほど騒がれていたノロウィルスもこのところは少し収まりつつあるのだが、その原因とまで言われた牡蠣(牡蠣が原因ではない!)は、まだまだ人気が薄い。スーパーでも鮮魚コーナーの係の人が「まだまだだねぇ〜」と、暗い顔をしていた。そこで、今夜は新鮮な牡蠣を使い鍋を思いついた私。  牡蠣は大根おろしで丁寧に洗う。これもスーパーで売られている、私の大好きな鳥野菜味噌での味付けだ。鍋に水と昆布で1時間そのままにしておく。その間、少しボイルしたしらたき白菜を準備。焼き豆腐も切っておく。鍋に火を付け・・・豆腐・白菜・しらたきを入れ、最後に牡蠣となる。
 寒いこの時期には最高の熱つ熱つ鍋だ。「美味しい!」
 因みに我が家族は「あっ!牡蠣だ・・・」と、他のおかずで夕食となった(勝手にしろ!一人で晩酌だ!)


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【一月の八/暖冬から大暖冬へ・・・!】1月26日(金)

「雪景色ではない兼六園の冬は寂しいものだ!」と、金沢の友人が先日電話の向こうで話していた。「金沢の町には雪が似合う・・・」と、古い建築物が多い金沢の町並みの景観がこの冬の時期に訪れる観光客は少し期待はずれの様子だと言うのだ。
 それにしても、この予想外の暖冬だが・・・予報によると二月も雪は少なめ!と、気象予報士がテレビで話していた。 そして、「暖冬から・・・大暖冬に!」とも話す予報士に「大暖冬???」と、初めて聞くその言葉に大声で独り言の私だった(大暖冬の次は・・・極暖冬???かな!)
 スキー場はお客様も少なくどのスキー場も集客に苦慮している模様だ。しかし、肝心のが降らないことには話しにならない。逆にゴルフ場は予想外の嬉しい営業の日々となっている。この時期、コースは閉鎖が当たり前の雪国のゴルフ場も連日ゴルフバックを抱えたプレヤーが朝早くから押し寄せているらしい。暖冬・・・いや失礼、大暖冬の影響で様々な所で想定外の事が起こっているようだ。
 農家では野菜の成長が早く、安めの値段の出荷が続いているようだ。また量販店では昨年とは逆に除雪用品が売れ残り、穏やかな日につられたお客が・・・観葉植物を買う事が多くなっているとか(気持ちは分かる!)
 また、山菜採りの人たちもこの陽気で早めの山散策となっているようで、ふきのとうなどの山菜に満喫している。福井でもこの時期珍しい菜の花が咲いたと新聞などで紹介されていた。そして、店の近所にある中央公園梅の花も例年より2〜3週間早めの開花となり行きかう人の目を楽しませてくれている(春の気配が・・・!)
 雪が無い福井・・・道路や家の前の除雪もこの冬にはした記憶はなく、つまり毎年大きな予算となっている市や県の除雪費も今のところ出費は無いようで・・・これもまた、暖冬ならではの嬉しい話題となっている。
 そんな本日、今年初めてガソリンスタンド灯油を買いに行った私。スタンドの看板にはハイオク・レギュラー・軽油は幾らと、リッターの値段が表示してある。
 私の前で灯油を入れる店員だが「雪が降らなくて楽な冬ですね!」と、笑顔で私に話かけてきた。そこで「灯油は昨年よりもどのくらい(値段)上がっているの?」と、聞いた私。すると「いえ、昨年よりも安いですよ!」と、意外な答えが返ってきたのだ。昨年からのガソリン等の高騰により全ての値段が上がっていると信じ込んでいた私には、驚く答えだったのだ(私だけかな?)
 灯油を10缶、ついでに車のガソリンも満タンとした。しめて・・・1万???円(勿論、店の経費だ!)。灯油が倒れないようにと紐で全ての缶を結んでくれる店員、そしてもう一人の店員も灯油缶の注ぎ口をタオルで丁寧に拭いている。「大丈夫ですかね?」と、車の中の灯油缶を心配する店員たち「大丈夫!ゆっくり走るし・・・店、近いから!」と、答えた私。「そうですよね!藤田さんのお店はそこでしたよね」と、思い出した店員だった。
 そして「昨年よりもいささか暇ですから、お電話下さればこちらから灯油を入れに行きますよ!」と、話す店員。どうやらこちらも暖冬の影響で灯油の売れ行きが今一つとなっているようだ。光熱費もバカにならないからね!(節約、節約と!)
 さて、話は変わり・・・前の日曜日の事だが、夜のテレビの速報に驚嘆した私。それは、話題となっていた九州・宮崎県知事選挙の速報だった。談合事件により現職知事が逮捕され、全国から注目されたこの知事選には・・・もう一つマスコミ等が注目される事があった。
 それは、タレントそのまんま東(本名・東国原英夫)の立候補だった。いち早く決意を表明し名乗りを挙げた彼だが、当初には「タレントごときに何が出来る!」「宮崎の恥だ!」と、宮崎県民の中から冷ややかな話が沸き起こっていた。宮崎県以外でも大きな話題となり「保守王国では当選する事は無い!」とか「何を考えているのか?芸能人のお遊びだよ!」と、囁く人達が多くいた。
 それでも・・・奇跡?は起こったのだ。開票とほぼ同時に出た「そのまんま東氏、当確!」の速報。おそらく、宮崎県以外の都道府県の人は「えっ、嘘!」と、声をあげたことだろう。開票から5分の出来事だった。「宮崎で何が起こったのだろう?」と、それまで他人事として余り感心がなかった私はその後のテレビ報道に注目していた。雨の投票日だと言うのに投票率のアップもあり、東氏に追い風となった要因に無党派層の支持もあった。
 保守王国の中、自民が二分化した事により自民党支持者や・・・候補者を立てられなかった民主党支持者からも多くのそのまんま東氏支持となった有権者がでた。「何で?何で?」と、この選挙戦のドラマを知りたかった私に、テレビはその選挙戦開始からのドキュメントを流してくれた。
 立候補者唯一とも言うべきマニフェスト(公約)を前面に打ち出し「宮崎は変わらんとあかんとですよ!」と、宮崎弁で有権者に語るそのまんま東氏。それは、タレントの顔ではなく、政治家の顔になっていた。彼自身にあった以前の不祥事も公にしての演説会は、見ている私たちを逆に清清しさをも感じさせるものだった。
 政治不信がある宮崎県民は、その彼の真剣さが次第に伝わって行った。「彼なら、変えてくれる!」「しがらみはもう沢山だ!彼にはそれは無い!」と、考える有権者が増えてきた。対する自民・公明が擁立した候補者は・・・またまた官僚出身だった。懲りない中央政治家達。
 地方政治は地方でが、これからの日本の政治となる。勿論、悔しいかなまだ政治において地方と中央(国)とのパイプは大切なものなのだが、それは地元基盤が揺るがないものとなっての話。「どうせ、誰がやっても同じだろう!」の、そんな時代から脱却しなくてはならない時代に今の日本はなってきたのだ。
 2週間で全てが逆転した知事選のドラマだった。あえて芸能界からの応援も断ち切り、地元の親戚・友人・知人だけの応援で乗り切ったそのまんま東氏圧勝だった。
 当選後、テレビに映る彼はもはや宮崎県の顔となっていた。誰よりも宮崎県を愛し、誰よりも宮崎県の未来を考える顔となっていた。これから待ち受ける数々の難題には県議会議員や県役人との調和が必要となるだろうが、それでも彼の今までにはない県政を期待している宮崎県民が多くいる。
 知事選挙後、鳥インフルエンザと就任早々全国が注目する問題を抱えた東国原知事、同じように赤字財政を苦慮する自治体が多い中、どのように県政をリードしていくのか注目したいものだ。「今、国も県も何かが変わる時、いや、変わらなければならない時・・・だから!」
 そうそう、東国原氏マニフェストだが、政治に素人の若手が真剣に宮崎県を勉強して作成したらしい。それもまた・・・新鮮でいいものだ!
 北海道・夕張市財政破綻が話題になり、全国どこの県・市・町・村でも無駄な「ハコモノ」のあり方を考えるようになってきている。安易に政治家たちが考える「国の補助」がやがて自分達の首を絞めるものとなっているのだ。
 注目される東国原知事にはそんな地方政治からの希望の光を見たいと思うものだ(身体は無理をしないでね!睡眠不足だよ!)
 暖冬から大暖冬へ・・・そして選挙では逆転?いや大逆転の一週間となった日本列島だった。


△男の酒のつまみ・・・212
 手羽先の唐揚げ!
 名古屋名物として知られる手羽先だが、酒のつまみとしては最高の一品となるだろう。色々と味付けはあるのだが、私はシンプルに塩・胡椒で頂く。醤油を少し隠し味とし、油の中でカラリと揚げる。「幾つでも食べられる!」と、次男もお気に入りだ。


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【一月の九/友との昼酒にダウン!】1月28日(日)

「どこかに行こうか?」と、久々の次男がいる日曜日にそんな少し浮かれ気分の私だったのだが、折りしも天候不順の雨が降り止まず・・・そして「私は今日、試合だから!」と、妻は朝早くから綱引きの試合に出かけて行った。
 妻が出かけてしばらくの事、コーヒーを飲んでいた私の部屋に「お父さん、おはよう!」と、早くも無い次男のお目覚めのご挨拶だった。パジャマ姿のままパソコンの前に陣取る次男だが、またまた友達とのオンラインゲームで一日を費やしそうな日曜日だった。
 新聞を広げ、「今日は女子マラソンか?」と、呑気に時間を潰していた私、そんな時、携帯電話が鳴ったのは懐かしい友人からだった。「久しぶり、今日・・・家に居るのか?」と、友人が聞いた。「いるよ、来いよ!」と、こんな調子で電話切った私。何年振りだろう・・・中学・高校の同級生の彼。昔はよく二人で片町をはしごしたものだった。私より三年先に結婚した彼は、すぐに子供に恵まれ一男一女を儲けたのだった。「あいつの子供も大きくなっただろうな?」と、確か二人とも今は二十台半ばとなっている顔を思い出そうとしている私だが、どうも小学生の頃の顔しか浮かばない私。
「しかし、あいつ何の用事だろう?」と、考えていた私に、オンラインゲームをしながら画面を見て笑う次男。
「ほどほどにしておけよ・・・部屋の掃除と明日の準備をしなさい!」と、パソコン前の次男に話していると、玄関のチャイムが鳴った。「早いな・・・もう来たのか!」と、慌てて玄関に出た私。そこには、久しぶりの彼がいた。「おう!」「おう!」と、簡単な挨拶の二人は、まずは応接間でコーヒーを飲みながら世間話となったのだった。
 高須町での米作りの事、母校・明道中学校の事など話していた二人、だが、私は彼の元気の無さに気づいていたのだ。 しばらくして、「何かあったのか?」と、聞いた私。「・・・」と、無言の彼。そう・・・2分ほどの空白の時間があっただろうか、おもむろに彼が語り始めたのだった。
「実は・・・・」(息を止めて彼の言葉を待つ私)
「実は、昨日○○が(娘)が彼を連れて来てな、そいつが結婚するから・・・娘を頂きたい!と、言うんだ!」と、彼が話し始めた。
「○○ちゃん、幾つになった?」
「24だ!」
「そうか・・・そんなになったのか!」
「ああ・・早いもんだよ、いつまでも子供だと思っていたのにな」
「で・・・お前、何て答えたんだ?」
「答えも何も、二人はもうそのつもり(結婚)なんだから」
「で、相手は何している男なんだ?」
「普通のサラリーマンだよ」
「サラリーマンか?どんな関係の?」
「繊維関係だって!」
「そうか」
「ああ・・・」
 こんな会話だった。年頃の娘を持つ父親なら必ず経験する事なのだろうが、まるでテレビドラマのようなワン・シーンを体験した彼は、愚痴の一つでも聞いてくれ・・・と、私の家に来たのだった。そんな彼の心境なのだが男の子二人の父親の私には到底理解出来るはずもなく・・・ただ、彼の話を聞くしかなかったのだ。
「藤田はいいな、男の子で!」と、溜息をつく彼。そんな彼に
「おい!・・・飲むか?」と、話した私。
「おう!そのつもりで来たんだ。無性に藤田と飲みたくてな!」と、少し笑顔になった彼。
この時、まだ時計はお昼前だった。
 彼を応接間に残し、お酒の準備を始めた私。だが、冷蔵庫の中には、ワインが1本だけだった。部屋にはいつも飲んでいる2.7gの焼酎のボトルがある。水・氷簡単なつまみを用意したのだが・・・・そこはザルの二人で到底足りるはずは無く・・・1時間後には全て空になっていた。そこで私は自転車にまたがり近所の酒屋へ走った(おいおい!自転車も飲酒運転だよ!)缶ビール1ケース日本酒一升焼酎つまみを買い、再び自宅へ戻る(荷物が重たい!)
 二人のお酒の飲むペースは・・・速かった。見る見る空になった缶やビンがテーブルの上に置かれていく。
「お前、相変わらず強いな!」
「お前もな!」と、変な会話で慰め会う中年男二人。
 私の目の前には同級生では無く・・・近く花嫁の父となるであろう五十一歳の男がいた。いつかはその日が来るであろうと考えていただろうに、それが現実の事となれば、やはり心中穏やかではないのだ。
「で、・・・どうする?」
「どうするも・・こうするも、二人(娘&彼)はその気なんだから!」
「奥さんは?」
「あいつは前から娘に聞いていたんだよ、俺一人が知らなかった事さ!」と、またまた寂しそうな彼。
「そんなもんさ、男親は!」と、慰める言葉も出てこない私(酔いすぎ!)
「腹・・・減らないか?」
「もう、お昼すぎだな!」こんな会話の後、出前(おろし蕎麦&カツ丼×2)を頼んだ私たち。
そんな時、「お父さん、僕のお昼ご飯は?」と、次男が応接間に入ってきた(忘れてた!)
 大人二人は飲んで食べてのお昼から贅沢三昧模様。そんな私たちを見て次男は「・・・・」の呆れ顔。
 ここで同級生の彼が「僕、お寿司食べるか?」と、次男に話した。「おんちゃんが奢るから・・・お寿司食べね!」と、言い出したのだ。
 近所の寿司屋から何故か特上三人前の出前を頼み、完全にこの時点で私たちのお腹の中はパンク寸前となっていた。
 夕方近く、お昼に飲むお酒は回ると言うが、適量以上に飲んだ私達は完全にダウン寸前だった。それでも、二人はあれやこれやと話しながら・・・飲んでいた。楽しいとは言えない二人の会話も徐々にお酒の勢いで笑いが出てきた。
「息子がもう一人出来たと思えよ!」
「・・・・そうだな!」
「好き同士なんだから、いいじゃないか!」
「・・・そうだな!」
「お前も花嫁の父か?」
「・・・そうだな!」こんなバカな会話だった。
 この後、彼の独り言のような話をただ黙って聞く事にした私。そんな彼は、娘が生まれた時の話や幼稚園入園の話、小学校入学当時の話や、父親ならではの・・・・娘とお風呂にいつまで入っていた・・・どうのこうの、の話が続いたのだ。
「俺たちも、子供が結婚し・・・孫を抱く歳になったんだよ!」と、話した私に
「・・・・・・」と、少し潤んだ目をしていた彼(ただ・・・二人は黙って飲んでいた!)
 ほぼ買出しに行ったお酒も無くなり、彼は代行を呼んだ。
「藤田、有難う!少しは楽になったよ!」
「そうか、○○ちゃんに、おめでとうって言ってやれよ!」
「おう!ありがとな。でも、あのホームページに書くなよ!」
「書くよ!」
これが玄関で彼を見送る時の会話だった。
「花嫁の父か?」と、一人でソファーに座り彼の悲しそうな・・・でも、少し嬉しそうな顔を思い出しながらコップに残ったお酒を飲んでいた私。でも次の瞬間、田中先生高須町の佐々木さんの顔が頭に浮かんだのだ(二人とも高校生のお嬢さんがいる!)
 後何年後には、田中先生も佐々木さんもその花嫁の父となるのだが、式場に礼服姿で花嫁の父を演じている二人を想像すると・・・何故か笑ってしまう私だった(失礼!)
 楽しみにしていた女子マラソンを見ることもなく、この後完全にダウンした私は夜10時まで爆睡となったのだった。
「頭が痛い!」と、完全に二日酔い?いや、当日酔いの私、しばらくお酒は控えようと思うのだが、こちらは多分無理な話だろう。そうそう、もし私に年頃の女の子がいて、彼氏が来たら・・・絶対・・・会わない・・・かもね!


△男の酒のつまみ・・・213
 金目鯛の煮付け!
 煮魚の定番とも言うべき金目鯛をスーパーで買った。日本酒&水1対1で煮ていく。落し蓋をし、時々アクを丁寧に取りながら沸騰するまで待つ。ここで火を弱め醤油味醂で味付けする。味を決めたら弱火で15分・・・で出来上がり!ホクホクの金目は最高です!


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【一月の十/えっ!小学校に・・・農業科?】1月29日(月)

 昨日の同級生との酒盛りが大いなる原因で翌日の朝になっても、胸がムカムカ・・・頭ズキズキとなっている私。「飲みすぎたな!」と、少し反省をしていた私に「だって、ロレツが回っていなかったもの!」と、追い討ちをかける妻の一言。「で、綱引きの大会はどうだったの?」と、妻のご機嫌を伺った私だが「準優勝だったよ!・・・昨日も話したけど!」と、一層立場を悪くした私(最低!)
 そんな妻から逃げようと仕事に向かうために車庫の車に乗り込む私だが、その車庫の片隅には昨日の残骸(缶ビール&日本酒&焼酎・・・全て空!)があり、それを見た私はまたまた気分が悪くなっていたのだ(吐きそう!)
 こんな日は高須町清々しい空気でも吸って体調を良くしたいものだが、中々特別な用事でもない限り仕事が優先となる私(当たり前だ!普段からさぼり過ぎだよ!)。この時期には珍しく積雪の無い高須町だが地元の皆さんはいつものように何かと春からの農作業への準備と余念がないはずだ。じっとはしていない高須町のお年寄り達は雨でも雪でも精力的に働いている。それが農家の皆さんの日課なのだ(少しは見習いなさい!)。  農閑期農繁期と大きく区別される農家の一年だが、実際のところ素人の私から見れば一年を通して農繁期なのだ。過疎化・高齢化で悩む日本の農業問題だが、「一日、一日を大切に!」と、高須町の皆さんは田んぼに畑に今日も足を運んでいる。
 そうそう、あれは今月三が日過ぎの福井新聞だったか、面白い記事が目に止まった。その記事だが・・・・ 《小学校に「農業科」》全国初、今春まず3校・・・・「特区」認定の福島県喜多方市・・・・の見出しだった(記事を紹介します)。
 福島県喜多方市は子どもに農業への関心を高めてもらおうと、市立小学校に教科として農業を教える「農業科」を2007年度から導入する。構造改革特区の認定を受けて実現する全国初の試みで、市教育委員会は「農業の応援団を育てたい」と意気込んでいる。
 市教委によると、3〜6年生を対象に週1回程度、年間35〜45時間の授業を行う。農業高校の教科書を参考にテキストを作成し、成績も評価。07年度は三校で実施し、段階的に全二十校に広げていく。
 これまでも総合学習の中で農業を取り入れる学校はあったが、十分な時間が確保できず、「五月の田植えの次は九月の刈り入れまで何もしない。単なる農業体験だった」(ある小学校の教頭)などの指摘もあった。
 このため農業科では土作り、田植え、除草、稲刈りなどの一連の作業を体系的に学ぶ。高学年は水管理が難しいコメ、 低学年は栽培が比較的易しいサツマイモをつくり、もちや芋煮などにして食べる予定。
 各校が近隣住民向けに開いた説明会では、総合学習で畑を提供してきた専業農家の男性が「自分の活動が認められたようでうれしい。これからも協力していきたい」と話すなど、地域で支援する動きも出ている。
 生物学者の中村佳子JT生命誌研究館館長は「思い通りにならない自然が相手の農業は、複雑な社会を生き抜くセンスを磨く絶好の教材。小学校ではコンピューターより農業を必修化すべきだ。喜多方の取り組みが全国に広がればいい」と話している。(終)
 福島県喜多方市と言えば、・・・喜多方ラーメンが有名なのだが、この小学校の農業科の取り組み方は全国から注目を浴びるものだろう。勿論、今まで農業が盛んだった地区の学校では農繁期には学校での授業を中止してそれぞれ子どもたちは農業のお手伝いをしていたり、記事にもあったように総合学習の一環として畑に田んぼに子ども達はそれぞれ学んでいたのだが、このように公に学ぶ取り組みは珍しくもありこれからの日本農業の未来を考えるならば新たな起爆剤となりうるだろう。
 以前、田中先生と私が話していたのだが、「例えば、順化小学校や明道中学校などの市内中心部の児童や生徒たちに農業を体験させてみるのはどうだろう・・・」と、語りあっていた事があった。
 農業に対して経験や体験が無く、関心も持たない市内中心部の子ども達に、単なる農業のPRではなく、お米や野菜を作ることにより命の尊さ食の原点を学んで欲しいからだ。
 その市内中心部の順化小学校の我が次男(小6)だが、この三年間の高須町での棚田オーナー制度でのお米作りを通じて数々の事を学んだようだ。お米一粒の大切さ自然との共存命の尊さ大切さなど、言葉に表せないほど多くの学習が出来たと言える。
 
 普段は到底体験できない事を体験することによって学ぶことは多い。コンクリートの上での生活からの上での学習が貴重な生涯学習のはじめの一歩となったのだ。
 この喜多方市からの新たな農業教育の発信が全国に広がる事を願う私だった。


△男の酒のつまみ・・・214
 今夜はアツアツおでん!
 暖冬だと言うのだが、やはり夜になると身体は冷えてくるもので、こんな夜は無性におでんが恋しくなるもの。そこで、迷わずおでんの準備となった。
 妻が作るおでんにはロールキャベツや何やらハイカラな具材が多いのだが、私はシンプルな具?・・・いや、大好きな具が多くなる。牛すじ厚揚げ大根がんもどき平こんにゃく&糸こんにゃくちくわ昆布となる。本来ならだしから調理したいのだが、ここは市販のおでんだしを使う(十分、美味しいからね!)
 そしてチューブの和がらしか、出来れば練りがらしでおでんの美味さを引き立てる。「今夜は熱燗に決まりだ!」


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【一月の十一/寒い?!・・・暑い?!】1月30日(火)

 雪の無い福井市内の一月も終わろうとしている。「何だか変な気分ね、雪が無いのも・・・」と、妻はこの時期なら例年乗らない自転車でお買い物となっている。次男も学校が終ると「自転車で行くから!」と、迷わず自転車のタイヤ空気をチェックしての塾通い(良い事だ!)
 東北・北海道ではいつものようにテレビ画面では雪模様なのだが、そんな光景が懐かしいような・・・そんな気分となっている。「沖縄の人は、こんな感じなんだろうな」と、そんな馬鹿な事をついつい考えてしまう呑気な私。それにしてもこの日本列島冬模様はどこかおかしく心配なものだ。
 心配と言えば、宮崎県東国原英夫新知事だが・・・就任以来、いやおそらく選挙戦突入以来だろうか多忙な日々となっている。「睡眠時間は2時間から3時間です!」と、話しているが他人事ながら「大丈夫なの?」と、その健康管理を心配してしまう。
 多くの報道陣に囲まれ分刻みのスケジュールをこなす東知事だが、益々・・・人気はうなぎ上りとなっている。自ら「宮崎県のセールスマン!」と、言うように就任以来の行動は、前知事の官制談合鳥インフルエンザと暗い話題が続いた宮崎県にとって想像以上の明るい話題となっている。その経済効果は計りしれないものだ。初めての中央官庁、挨拶回りにと尋ねて各大臣に持参した宮崎県の地鶏等(炭火焼)は早くも全国から問い合わせが殺到しているらしい(本当に美味しいらしい。私も食べたい!)
 勢力的に宮崎県内や東京での公務をこなし、テレビにも毎日のように出演している。タレント当時よりも何倍も忙しい毎日なのだが、自由な時間を見つけないと本当に身体はもたないはずだ。今や、全国から注目されている東知事は多くの問題を抱える他県からも熱い眼差しの「時の人!」だと言えよう。
 興味があり宮崎県ホームページを開くと、そこには笑顔の東国原英夫知事の写真があった。「元気じゃひか?東国原です」と、書かれた挨拶は・・・宮崎県・県西地方の方言で「お元気ですか」と、言うらしい。これから県政を束ねていく東知事の宮崎県には何か明るい未来がありそうだ。
 そんな東宮崎県知事とは逆に、日本のトップ安倍首相の人気は下落(調査では森内閣以来、支持と不支持が逆転した)となっているようだ。任命責任を問われる幾多の大臣(閣僚)の不祥事には「総理は何もしていないのに・・・可哀想!」と、高い支持の女性ファンの声も聞かれるのだが、そこは一国の元首だから仕方がない話。何か一発逆転となるホームランを打たないことには統一地方選挙でも参議院選挙でも自民党の過半数割れは現実のものとなるだろう(やっぱり、北朝鮮しかないかな?)。若い安倍総理だから「しがらみ」を脱して元気で行動力と指導力を臆することなく発揮して欲しいものだ。
 政党政治?・・・自民でも民主でも公明でも共産でも無い政治が今の日本には必要なのかも知れない。無党派層が増えているだけに益々そんな声が聞こえてきそうだ。
「しがらみ」で思い出したのだが、先日の東宮崎県知事が散髪をしたのだが、散髪屋から出てきて報道陣から質問されていた。「知事、それは何カットですか?」「これですか?・・・・しがらみカット・・・です!」「上手い!」(最高のギャグです!)
 朝夕の寒さに比べ、日中の春を思わせる暖かさはついつい身体の健康管理を狂わせてしまうものとなっている。昨日の次男だが、朝「寒いね!」で起床し・・・昼は「暑いね!」ゲームに夢中・・・夜は、またまた「寒いね!」電気毛布で就寝となっていた。そして本日・・・37度2分の風邪でダウンとなっていた(いい加減にしろよ!)


△男の酒のつまみ・・・215
 蛸のキムチ和え!
 蛸や烏賊はもともと韓国ではキムチに使うものとして知られている。そこで、生蛸を少し小さめにぶつ切りして市販のキムチと混ぜる。混ぜた蛸キムチはそのまま冷蔵庫の中で1時間は馴染ませたい。コリコリ・・・ピリピリが最高です!生蛸が苦手ならば茹で蛸でもOKですよ!


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【一月の十二/団塊世代の趣味とは・・・?】1月31日(水)

 昨日の夕方の事、珍しく部屋で読書をしていた私(週刊誌です!)。すると、「あっ、雪だ!」と次男の声が聞こえてきた。「嘘!」と部屋の窓から外を眺めた私に「何してるの?」と、またまた次男の声。「雪・・・降ってないじゃん!」と、私が言うと「お父さん、僕が雪って言ったのは天気予報に雪マークがあったから」と、解説?した次男だった。「紛らわしい、言い方をするな!」と、次男を叱ると・・・人の話も聞かず・・・パソコンの前でまたまたオンラインゲームの次男だった(おい、無視かよ!)
 積雪も無く、その雪もちらつかず・・・・毎年、除雪作業で気持ちの良い汗??を流している私には、残念でもあり嬉しくもある今年の福井の冬。そんな福井だから珍しく天気予報にあった雪マークがよほど嬉しかった次男だったのだろう。その雪待ち症候群???の次男だが、やはり原因があったのだが・・・・つまり、近々ボーイスカウトでのスキー訓練(2月17日)があるらしいのだ(やっぱりね!)。私の父、それに私に妻とスキーの上級者(自分で言うな!)だけに次男はそのDNAを受け継いでいるのだろうか?
 さて、そんな寒い場所のお話から・・・・少し、暖かい所の話だが、先日カンボジア密林生活18年?という27歳の女性が保護された。1989年に外出したまま行方不明だったこの女性だが、全裸でしかも四本足で歩いていたというのだ。私はこの話を聞いた時、横井庄一さん(グアム島)小野田寛男さん(フィリッピン・ルバング島)を思い出してしまった(私だけかな???)
 それにしても、こんな事があるのか?と驚いた私だが、その後の取材によると何か疑惑が多いこの女性。「やらせ」「捏造」(あるある???)と、思う点も多々あるらしい。しかし、この話がもし真実ならば如何にジャングルが多いこの地方とはいえ、18年もの間、人目に触れずどうやって暮らしていたのだろう。私が航空自衛隊時代訓練で林の中で1時間動かずにいたのだが・・・とても耐え切れなかったと言うのに・・・・(根性が違う!)
 そのカンボジアから・・・西の話だが、どうにもならないイラク情勢。連日多くの犠牲者が出ているのだが、いつになれば平和な国となるのだろうか。いつか次男が言っていたのだが、「イラクの人がいなくなっちゃうよ!」と、毎日のように起きる自爆テロでの犠牲者の数に、そんな話をついつい思いだした私だ。この情勢に収集がつかないアメリカ政府25,000人の追加派兵をするとか・・・しないとか。
 アメリカ国内でも9.11以来、長く続いているテロからのイラク問題に、共和&民主の大統領候補者に対して、そろそろ国民感情的にも最後の声となる時が来ているようだ。諸々の罪を犯したとして、裁かれた前イラク大統領のフセインだが、同じく戦争責任としてブッシュ大統領が裁かれないのはおかしいと、そんな声も聞かれる世界の世論があるようだ。アメリカの話ばかりしていると「欧米か!」(タカ&トシ)と、つっこみを入れられそうなので・・・・。
 とにかく、イラク国民ではない国外からのテロリストが巻き起こす事件なども多いためますますイラク国民に犠牲者が出るのだ。宗教が絡むだけに長引くと予想されるイラク問題だが、一日も早い治安回復を願うものだ。
 イラクから・・・ぐるりと日本に戻り、騒がれた「団塊の世代」「2007年問題」が、すぐそこまでやってきている。日本の高度経済成長の立役者とも言うべき団塊世代の皆さんがこの春には区切りの時を迎えるのだ。まだまだお若い皆様だから、もうひと花もふた花も咲かせて頂きたいのだが、そこは「後は、ゆっくりと・・・のんびりとしたい!」と、話す方も多いようだ。
 その団塊の世代の方々の話なのだが、何やら趣味嗜好の話が新聞各紙に取り上げられていた。「今は蕎麦打ちが最高の余暇です!」とか「少年時代にはとても手が出なかったプラモデル(五重塔などの高級品)作りにはまっています!」、更には「とても実物は買えないけれど、ミニチュア・カー収集で我慢しています!」と、そんな楽しい話が聞こえているのだ。
 そして、そんな団塊世代の皆さんの多くが理想?としているのが・・・「田舎暮らし」なのだ。摩天楼のビル街から古民家へ・・・スーツ姿から作業着にと、のんびりと土いじりを考えているようだ。新鮮な空気の中で田んぼお米を、野菜を作りを楽しみたいご夫婦も多く、そんな方の為に地方自治体などの受け入れ態勢も整いつつあると言う。
 団塊の世代でも無く、団塊世代Jrでも無いその中間の世代の私だが、何故だかそんな気持ちが分かってしまう。基本的に「田舎好き!」の私だが、出来れば大好きな高須町に住みたいと何度考えた事だろう(マジメニ!)。だから、どことなく団塊世代の人の気持ちも分かるような私です。一時期、「リタイアしたら、暖かい南の国でのんびりと・・・!」なんてオーストラリアなど海外移住も話題になったのだが、やはり日本人日本がいいようだ(そりゃそうだ!)
 それにしても団塊世代の趣味だが、田舎暮らし蕎麦打ちは理解できるのだが、プラモミニカーとは意外なものだ。そんな事を考えていた私だが・・・・自分の部屋を見回すとそのミニカーが・・・・あったのだ!「俺も・・・か!」
 しかも、ご丁寧に・・・プラモ・・・もね!(アイタタッ!)
 


△男の酒のつまみ・・・216
 ナメタケと長いも!
 昔からどこのご家庭の食卓にあっただろう?ナメタケのビン詰め。温かいご飯の上に乗せて食べたりしたものだ。過去形なのは・・・次男は先日、「初めて見た!」と、話していた。
 そのナメタケだが、小鉢に長芋をおろしナメタケを乗せ少しの醤油を混ぜる。「これは・・・いける!」


高須城日記V(立春編)に続く


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