高須城日記V(秋中編)


(平成十八年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)





【十月の一/すべての道は、高須町へ?!】10月1日(日)

 早いもので・・・もう秋本番?十月となり、今年も残すところ後三ヶ月となってしまった(少し気が早い!)
 朝の福井市内は・・・日曜日ということもあり、車も人もまばらな状態となっている。それでも補習授業だろうか昨日までの夏の制服から冬の制服を着た高校生が急ぎ足や、自転車でそれぞれの高校まで登校している(大変だね!)
 明日の月曜日には、黒の学生服やブレザーを着た高校生そして夏のクール・ビズから秋冬用となるウォーム・ビズに変わるサラリーマンの姿が多く見られるはず(夏の方がいい!)。このウォーム・ビズだが、昨年からの「ちょい悪風!」が流行りとなっているらしいのだが、サラリーマンのちょい悪って・・・どんな感じとなるのか?(余り興味が無い!)
 さて、先月のこの日記の中でお知らせした・・・高須町への近道なのだが・・・皆さんに教えるべきか・・・どうかまだ少し迷っている私(理由は・・・?)
 7月のあの大雨でゴルフ場横の道が崩落し通行止めとなっている高須町への道、まだまだその複旧には時間がかかりそうだと、地元の皆さんが話していた。となると、やはり遠回りとなる柳原からの道が唯一の高須町への道となっている。
 しかし、頭では理解しているものの・・・僅か10分か15分のその遠回りが・・・長く感じてしまうものだ。
 あれは3年程前、「今日は違う道から高須町へ行くわ!」と、案内役の佐々木さんの車でその山道を通った事を思い出したのは、道路崩落後の事だった。「あの道(佐々木さんに教えてもらった道)だったら早く着けるはず!」と、思い出した私だったのだが、その道順は・・・うろ覚えだった。
 そして、高須町夏祭りの時だった。「藤田さん、あの道ご存知ですか?狭い道で少々危険ですが近いもんですから」と、再びその道の事を思い出させてくれたのは、高須城小学校石村校長先生だった。
 市内・・武道館横・・すかっとランド九頭竜横・・七瀬橋・・旧下郷小学校・・ゴルフ場前・・高須町。棚田オーナーの皆さんはおそらく今までこの経路の道で高須町に来られていた。私の自宅(照手3)からその道を通れば約40分高須町。だが今回の道で高須町を目指せば・・・25分で到着することになる。 私が一年前に走った道《高須城日記U【八月の九】》、そう信号機が無い道だ。
 福井市内から武道館近くの交差点(藤島通りと県道・福井三国線が交差)をそのまま藤島通りに、
つまり武道館を右手に見ながら車を走らせ
明治橋(新しくなりましたよ!)を渡る。そのままT字交差点まで。
 ここで左折する(左折ですよ!)約300mで右折し新しい道路の本郷線に入りそのまま直進となる。トンネルを抜け下り坂(途中・・・猪注意!の看板もあるが・・・猿もいますよ!)
 木米町を通り一王寺町(この間、信号機は無し!)ここもT字の信号の無い交差点
 この交差点を左折する。約500m走ると・・・右手の丘に旧・上郷小学校のグランドが見えてくる(校舎はもう取り壊されました!)学校跡のすぐ先の坂道が・・・高須町までの・・・道なのである(標識・清水平)
 細く曲がりくねった道を登って行く。「対向車が来たら、どうしよう?!」なんて考えながら走る・・・細い道。10分程車を走らせると、何やら神社が正面に見えてくる(氷川神社!?)
 坂道だが・・・車を止めてデジカメで撮影!辺りを見回すと・・・民家がある。「ここに、住んでいるのかな?」と、失礼な話だが素朴な疑問を抱いてしまった。ここで、「何してるんやの?」と、林の中から声がした。その声の方向を見るとおじさん3人が不思議そうに私を見ていた。(ここで車を止め・・・デジカメ撮影は・・・珍しいのだろう!しかし、私の方が逆に3人のおじさんに聞きたかった「何してたんですか・・・林の中で?」と)
 近づいて来た一人のおじさんが「何かいい事でもあるんか?」と、私に聞いてきた。「こんにちは・・・ちょっと・・・高須町への道を撮りに」と、私が答えると「そうなんか!」と、頷くおじさん。
 そこで「冬場ですが、この道の除雪はどうなんですか?」と、私が聞くと「除雪か?・・・ほりゃ、ちゃんと除雪はしてくれるよ・・・税金払ってるからの!」と、おじさん(ごもっとも!)
 おじさん達との会話もそこそこに再び車に乗った私。
 
 さて、ここで道が分かれるのだが・・・当然、右折し、高須町方向となる。「こんな所にもお墓があるんだ!」と、感心しながら後は・・・・高須町までの一本道となる(対向車注意!道路横断中の蛇に注意!)
 この道は・・・確かに・・・市内からの近道なのだが、夜間の走行冬期間止めて頂きたい(マジで暗くて・・・怖いです!)
「すべての道はローマへと・・・」と、大昔の大ローマ帝国時代に言われた言葉があったのだが、山里・高須町までの新しい道があると・・・何故かそんな言葉を思い出し、嬉しくなるものだ。


△男の酒のつまみ・・・175
 キムチ&豆腐鍋!
 簡単に出来る酒のつまみの鍋としてお勧めなのが、この豆腐入りキムチ鍋。豆腐一丁を四つ切にして水の張った小鍋に入れ煮る。お湯が沸いたところでキムチを好きな量だけ入れ・・・約2分。簡単・・・ホカホカです!勿論、豚肉やシラタキ・・・キノコ類を入れてもOK!


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【十月の二/可愛い命の・・・誕生!】10月2日(月)

「はぁ〜っ!(溜息です!)・・・何だかなぁ?!」と、寝付かれないままの朝を迎えた私。その原因は・・・昨日(日曜日)スポーツ中継にあった。期待していた女子プロゴルフのメジャー戦・日本女子オープンで2連覇、そして国内戦(帰国後3試合)4連勝のかかった宮里藍が・・・少し太った(失礼!)韓国選手(張晶)に敗れ・・・3位となった。
 今季、アメリカに渡り優勝はないものの、既に今季賞金ランキング40位以内を確定し、そのランキング条件の来期から2年間のシード権を確定した宮里藍。国内に戻り身体の不調がありながらさすがの2連勝と、一回りも二回りも大きくなったプレーを見せてくれた。
 昨年まで無類の強さで賞金女王の地位を不動のものにしてきた、不動裕理選手(洒落ではないですよ!)も今季は外国での戦いもあり今一の状態となっている。
 そして、鬼のいぬ間にと今年ダントツの強さを見せた大山志保選手(5勝)だが、宮里藍の帰国後には・・・その強さもどこかに行ってしまったようだ。「宮里選手が出場している試合で勝ちたい!」と、大山選手は意気込むのだが・・・残り国内戦数試合のツアーが益々面白くなってきた。
 そして、誰もが優勝を信じ世界一となる事を疑わなかった競馬のディープインパクトが・・・まさかの・・・こちらも3位。競馬界世界最高峰の名誉あるレース、凱旋門賞(フランス・ロンシャン競馬場・2400m)での結果だ。
 早くからフランス入りし、調教をしてきたディープには「今、世界で一番強い馬!」と、外国の騎手も競馬評論家もレース前にはインタビューで答えていた。天才ジョッキー武豊(たけ・ゆたか)と日本が送る最高のコンビだけに、そのレースへの日本国内の関心は競馬史上最高の日となっていた。フランスでは日本からのファンのためにと日本語で書いた馬券を用意するほどの熱の入れようとなっていた。
 ゲートが開きディープは日本人の期待と夢を乗せてスタートした。レース中盤・・・いつもと違う位置どり。「ここで・・・いいの?」と、誰もが感じていただろう。そしてゴール前、ここからがディープの強さだ!と、信じていたその足が伸びない。勝つ時もあれば負ける時もある・・・それは判っていた。でも、ディープは違うと思っていた。世界一のレースで世界一の馬になるのはディープ・インパクトしかいない。日本の馬が世界一の名誉を勝ち取るには・・・来年、再びディープ最高コンビでリベンジして欲しいと誰もが思うはずである。
 長い歴史のこのフランス凱旋門賞は、フランス以外の外国馬が優勝したことは無いらしいのだ。だからこそ来年のディープに期待したい!(引退するなよ!あっ・・・高知のハルウララは、どうしてるんだろう?)
 そんなこんなで不完全燃焼日曜日を過ごし、食欲のないまま軽めの朝ごはんを食べた私、次男(小6)の登校を見送り・・・いざ仕事へ!と、言う時だった。何やら騒がしいハムスター2匹のゲージの中。
 このハムスターだが、そうあの高須町夏祭りの時、岬ちゃん(高須城小学校5年)のお宅で次男が貰ったハムスター。白は雄・・・茶が雌のいわゆる・・・夫婦?!である。8月15日以来、我が家の癒し系?!として毎日楽しませてくれる・・・可愛い仕草には、ついつい私も妻も次男も笑顔になっていく。
 藤田家の一員となって45日、白(オス)よりもはるかに食欲旺盛の茶(メス)に「まさか・・・お腹に赤ちゃんが・・・?」と、家族中・・・期待と不安の毎日となっていたのだった。(数年前に対でハムスターを飼っていた経験があるのだが・・・その時は、一匹の死により・・・もう一匹も数ヶ月で死んでしまったのだ。)
 ハムスターの妊娠期間も・・・当然・・・知らず、そこで一週間前だが、岬ちゃんのお母さんに電話で聞いてみたのだ。すると「それは・・・妊娠しているかもよ!」と、笑い声(何で笑い声?!)
 その電話から毎日・・毎日、私と妻そして次男がゲージの中を注意して見ていたのだった。あっ!このハムスター2匹の名前だが・・・茶色のメスが「チャコちゃん」で白のオスが「シロ」となった(妻が命名しました!)
 相変わらず・・・大柄で食欲旺盛のチャコはイジメなのかジャレているのか、シロの上に重たい身体を乗せて遊んでいる?!私の手のひらに乗せてみると、体重差はかなりある。
「ただの・・・デブかな?」と、次男が心配そうな顔でチャコのお腹を見ていたのだが・・・判らず断念!そんな毎日だった。
 そして、話は戻り・・・次男が登校した後の8時過ぎ。妻がハムスターのゲージを覗くと「あっ!・・・生まれている」と、驚いた声でモーニング・コーヒーと洒落こんでいた私に報告してきた。「嘘!」と、私もゲージを覗き込んだ。
 そこには生まれたばかりの4匹のハム・ジュニアがいた(小指半分ぐらいの大きさです!)。チャコはそのジュニア達の身体を順番に舐めている。「1・・2・・3・・4匹だね!」と、私が言うと「うん、4匹」と、妻も答えた。
 動物の本能と言う言葉が適切なのかどうかは判らないが、チャコは母親としてジュニア達の育児をしている。「誰に教わったわけでもないのに・・・ちゃんと母親してる!」と、妻も私も感激していた。まだ、濃いピンク色のジュニア達「可愛いなあ・・・直(次男)が下校してきたら喜ぶぞ!」と、その表情が目に浮かんでいた私だった。因みに、その時シロ(父親)は・・・離れた所で・・・食事中!でした。
 お昼休み、自宅に昼食で戻った私は昼食の前にハムスターのゲージを覗いてみた。相変わらずシロはゲージの隅でお昼ね中?!そしてチャコはジュニア達をお腹の下に抱え込み・・・ミルクの時間なのか?!
 私が「チャコ・・・頑張ったね!」と、ゲージの蓋を開くとそのチャコが私の所へゆっくりと近づいて来た(ゲージの中に餌はあるのだが・・・ついつい可愛いので、手で餌をやる癖を付けた為・・・蓋を開くと餌だ!と、近づいてくるのだ)
 ヒマワリの種を一つ・・・チャコの口に近づけた。だが、食べないチャコ。「お産の後は・・・食欲が無いのかな?」と、勝手な男の想像でいた私は、ジュニア達を見たのだった。
 今までチャコのお腹の下でミルクの時間だったのか、ジュニア達は一かたまりになっている。生まれたばかりだが、その小さい手や足を小刻みに動かしている。まだ、目は閉じているが・・・離れた母親のチャコを捜しているかのようだ。
 だが・・・この時・・・何か・・・不思議な・・・違和感を感じた私。改めてジュニアの数を数えてみたのだ。「1・・2・・3・・4・・5・・6・・7、嘘!・・7匹!」と、唖然とした私だった。
 つまり、朝4匹の誕生を確認した私と妻だったのだが、その私たちが出かけた後チャコはもう3匹生んだのだった。
 夕方、まだこの事を知らない次男が下校してきた。次男は私の顔を見るなり
「お父さん・・・何で笑っているの?」と、怪訝な顔。
「いや・・・別に!」と、私が言うと
「何か・・・あったの?」と、鋭い指摘の次男。
「おい、宿題と・・・」と、私が言いかけると
「予習・復習でしょう・・・で、・・・その前に手洗いとウガイね!」と、先に言われてしまった(毎日、同じ事を言ってるからね!)。それでも
「ハムに餌をやっておいてね!」と、私が頼むと
「うん!」と、返事の次男。次男はこの後、洗面台で手洗いとウガイを済ませ、トイレへに入る(いつものパターンだ!)。自分の部屋に入り、多くは無い宿題と予習・復習をやったのだろうか?!1時間後にはパソコンの前に座っていた(まだ気づいていない!)。そこで
「ハムちゃんに餌やったのか?」と、私が言うと
「あっ・・・忘れていた!」と、慌ててハムスターのゲージの前に行った次男。そして・・ここからが・・・大騒ぎの時間となったのだった。  何も先入観もなく餌をやりだした次男だったのだが、パソコンの事(オンラインゲーム)が頭にあるのか、チャコとシロに交互に餌をやっていた。そして1分程過ぎた頃だった。
「あっ!・・・生まれているよ・・・お父さん!」と、悲鳴のような声で叫んだ次男(声が大きい!)
「やっと気づいたのか!」と、私が言うと
「お父さん、赤ちゃん生まれたの知ってたの?いつ生まれたの?」と、次男。
「お前が学校に行った後に生まれたんだよ」と、話すと
「何匹生まれたの?」と、ハムの赤ちゃんを数えだした次男だった。 「7匹も生まれたんだね、可愛いね!」と、すっかりパソコンの事も忘れ、ハムスターのゲージの前から動かない次男、チャコの母親ぶりに・・・唖然としていたのだった。
「あのお腹の中に7匹もいたなんて・・・凄いね!」と、チャコの頭を撫でる次男(いい勉強になったね!)
 この後、妻も帰宅し・・・やはりゲージの前から動かない(お〜い!夕飯は?)。私はハムの赤ちゃんが生まれた事を岬ちゃんのお母さんに電話で報告したのだが、ここで驚くハムスターの生態を聞く事になったのだ。
 まず、赤ちゃんには触ってはならない事だった。ハムの嗅覚は鋭く・・・赤ちゃんに人間の匂いがすれば、子どもと言えども噛み殺す事があるらしいのだ。また、オスとメスとを離さなければならないらしいのだ。メスは出産後、赤ちゃんに専念するため近くにオスがいればストレスがたまり喧嘩となるらしいのだ。
 この他にも岬ちゃんのお母さんから注意点を聞き、その事を妻と次男に話した私。
 この1時間後、我が家にもう一つの・・・少し大きいハムスターのお家が運ばれて来た(妻と次男で買いに行った!)。  しかし、その大きなハムスターのケージにはシロが一匹で寂しく移住し、チャコと7匹の赤ちゃんは今までのケージで子育て中!(赤ちゃんが歩きだす2週間後には入れ替え予定!)
 ところでこのハムスターだが、我が家の癒し系として奮闘中なのだが・・・岬ちゃんのお母さんによると「あっ・・・と言う間に・・・増えるよ!」との事。そこで、明日から次男は順化小学校「家に・・・可愛いい、ハムスターいるよ!」と、PR作戦を開始することにしたのだ。さて、今後のハムスター親子はどんな事になるのか・・・お楽しみに!


△男の酒のつまみ・・・176
 豚玉とんかつ!
 とんかつ用ロース豚肉を厚さ2センチに切り、同じ幅で玉ネギも切る(同じ大きさが良い!)。長串で豚肉と玉ネギをさし・・・豚肉には軽く塩・胡椒小麦粉・卵・パン粉の順で低温から油で揚げる。表面に少し色が付いたら・・・そっと裏返し・・・コンガリきつね色が食べごろです。


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【十月の三/高須町に秋風が・・・!】10月7日(土)

 朝夕になるとめっきり肌寒く感じられるようになってきた。朝になるとテレビの天気予報で一日の気温を確かめ、その日の服装を決めている。厚着か?薄着か?・・・少し悩みながらも・・・コーディネートの時間が長くなる秋の朝だ。
 サラリーマンは春・秋用のスーツを着て、OL達は薄手の装い・・・だが、足元は何故かブーツとなっている。男子高校生は学生服で・・・女子高校生は朝夕と昼中の気温差を考えてか薄めのカーディガンを着て登校する。それでも素足で制服なのに・・・ミニ・スカート状態!(アリガトウ!?)
 次男たち小学生は半分が半ズボンで残りが長ズボン、だが上着は薄目のジーンズ素材のジャケットを羽織っている。そんな福井駅前の秋の朝の光景だ。
 先週の事だが、いつも高須町の棚田でお世話になっている福井市役所農政企画課美人の藤田さんからお電話を頂いた。勿論・・・内容は・・・個人的な事・・・では無く高須町の事。ある資料(写真)が私の元にないかと藤田さんから確認の内容だった。珍しく忙しい時間だったのだが、そこは女性に弱い・・・いや、美人に弱い私(何を考えている!)
 仕事も投げ出し、パソコンのスイッチをオンにした。高須町過去3年間のデータ(そんな・・・大げさな!)から該当する資料を探すのだが、こんな時に限って・・・ご要望の資料は無く・・・それでも1部をCDにコピーし、農政企画課まで届ける事にした私だった。
「ご足労願うのも何ですから、メールで送って下さい!」と、藤田さんから言われた私だったが「いや、そちらに伺います!」と、何か魂胆がみえみえの私(何を企んでいる!?)
 わざわざ・・・と、思われるでしょうが、私の店から市役所までは徒歩3分弱(近いのです!)「僕も行く!」と、下校してきた次男を連れて、市役所正面玄関受付の女性に軽く「ご苦労様です!」と・・・いつもの挨拶!ホールを抜け・・・エレベーターを利用する。
 考えてみれば、これで農政企画課に行くのは5回目なのだが、それは高須町棚田オーナーになってからの話。市役所に用事があると言えば、市民課・管財課・学校教育課などが公私的に昔から良くお邪魔していた所だった。
 省エネを考えてだろうか少し薄暗い廊下・・・農政企画課の方向を見ると、昨年まで高須町(棚田オーナー)の担当だった本多さんがおられた(本多さんには、今年も高須町はお世話になっていますよ!)
「ちわ〜す!」と、私(大人なんだからまともな挨拶しろ!)。暗い廊下から現れた私に
「・・・・あっ!藤田さん」と、気づいた本多さん
「今日は・・・どうされたんですか?」と、笑顔で応対してくれた。
「いや・・・高須町の資料の件で、藤田さんに・・・」と、私が話すと
「わざわざ・・・すいません!こちらが伺うのに・・・」と、本多さん。そこで・・・・
「いやぁ〜藤田さんが、持って来いと命令するから!」(笑)
「そうですか!」(笑)
「私・・・そんな事、言っていません!」(怒!)
「早く持って来ないと、藤田さん怖いですから!」(笑)
「そんなぁ〜」・・・・と、三人で冗談合戦となった(忙しい職場で・・・すいません!でも・・・まあ、いいか!)
 同じ藤田同士で・・・中々・・・言いにくいのだが、持参したCDを藤田さんに渡すと、藤田さんはパソコン内に移す作業となった。本多さんと私は、高須町の事や世間話となっていたのだが・・・次男がカウンターの上に置いてある農政企画課関連のパンフを夢中で読んでいる(関心あるのか・・ないのか?!)
 何種類もあるそのパンフだが、紹介すると・・・・
〇健康長寿の里ふくいの元気な農林水産業を支援します《社団法人・ふくい農林水産支援センター》
〇中山間地域等直接支払制度を活用した元気な集落づくり《福井県農林水産部》
〇いきいきファーマー・あなたも認定農業者《全国農業会議所》
〇あなたの生産組織を応援します《福井県生産組織高度化支援センター》
〇地域の農業・農地を担う経営体の育成のために!活用しよう!特定農業法人制度《市町村・農業委員会・農業会議》
〇平成18年度・農林水産研修のご案内《社団法人・ふくい農林水産支援センター》
〇あなたのチャレンジ応援します〜農山漁村の男女共同参画社会の形成をめざして〜《農林水産省経営局女性・就農課》
 農政企画課の仕事内容については、昨年11月「あぜ道インタビュー」課長の舟木正芳氏にお聞きした事あり、改めて説明もないのだが、やはり関連となる仕事を含めると幅広いものとなるのだ(ご苦労様です!)。
※農政企画課のホームページ(http://www.city.fukui.lg.jp/d320/nousei/index.html)もご覧下さい。
 藤田さんから?!藤田さんへ?!(何か妙な感じ!)の用事も終わり・・・そして、次男が見ていたパンフ7件もどういう訳か頂き、農政企画課を後にした私と次男。
 ここで1階の受付に行ったのだった(これが本来の目的だったのです!)。数日前の新聞紙面に福井(291)の景観再発見と見出しに書いてあり、福井の誇れる景観を守り育てるために、市内の眺望できる美しい所を291箇所募集するという内容の記事があったのだ。私は「じゃ・・・高須山からの景色も是非・・・応募しなくては!」と、応募用紙をこの福井市役所の受付に取りに来たかったのだ。「また勝手な事をして!」と、植木御大にお叱りを受けそうだが・・・・まあ・・・応募してからの・・・・事後報告となりそうだ。
 福井の景観(風景・夜景)291点(箇所)選ぶ今回のこの「福井の景観再発見」だが・・・おそらく多くの地域(箇所)が応募してくるだろう。291の中に選ばれる・選ばれない・・・と、大騒ぎする事もない話だが、やはり私としては高須山からの景色を推薦したいものである。写真数点とコメントとを事務局に送り、12月最終審査となるそうなのだが・・・・まあ、宝くじ!みたいな感じで、楽しみに待つ事にしよう(ん?!・・・何か昨年もこの時期にこんな事をしていた気がするのだが・・・・?あっ!コシヒカリ大賞だ)
 でも・・・まだ応募はこれからの話で、高須山からの写真田中先生に選定してもらいコメントは・・・私の担当となる。 まあ、この「福井(291)の景観再発見」の結果は、年末にお知らせします(お楽しみに!)
 さて本日の夕方の話だが、先月に高須城小学校教頭として赴任された藤川先生とお話する機会があった。私と田中先生と三人で片町付近での話だが・・・つまり・・・飲み会だ!
 光君(6年)そして岬ちゃん(5年)二人の新担任として公私共にお忙しい藤川先生。「飲もう!」の私の誘いに1年先輩の私(順化小・明道中)に・・・当然断る事も出来ずに「はい!」と、なったのだった(藤川先生・・・ごめんね!)
 その藤川教頭先生なのだが、着任以来高須城小学校のホームページ(H・P)の内容の素晴らしさに感動されていたのだったのだが、実はこの高須城小学校のH・P・・・ここ数年、更新されていないようで、「これは・・・いけない!」と、H・Pの更新&整備に取り掛かろうとしたのだった。ところが、高須町インターネット回線はひどいもので、データの転送にかなり時間がかかる(そうなんです!)
 そこで藤川先生は高須城小学校の近況「元気な学校!」をブログでお知らせする事にしたのだった(さすが!)。学校の給食やこども達の課外授業、そして高須町の景色・・・そんな日々をパソコンや携帯電話からでも見ることが出来るようにと、こまめに更新している藤川先生だった。※藤川先生のブログはこちらをご覧下さい(http://t-jou-e.cocolog-nifty.com/blog/)。
 こんな話を藤川先生からお聞きした私と田中先生、「それは、素晴らしいですよ!」と、私が言うと、先生たちの間で「パソコンで有名な田中先生!」と、かねてより言われている田中先生の目がキラリと光ったのだった(何か・・・考えている目だ!負けず嫌いの田中先生)
 三人はお酒を飲みながら、高須町の事や学校現場(教育)の事・・・そして何故か国防の事(北朝鮮の不穏な動き)など話しながら、楽しいひと時となっていたのだった。
 飲み会も終わり、それぞれが帰路についた。田中先生は旧・清水町まで・・・当然・・・代行運転での帰宅。藤川先生と私は地元・順化地区で・・・徒歩での帰宅となった。
 ほろ酔いで歩く片町、昔の賑わいも懐かしく感じる私だがこんな地元も大好きで、通りに並ぶお店一軒一軒の歴史を感じながら歩いていた。「あれっ・・・こんなお店・・いつ出来たの?!」「この店も・・・古いね!」なんて、独り言。
 片町から呉服町・・・何故か・・・九十九(つくも)橋に行って見たくなった私。にはこの橋から眺める足羽川堤防桜回廊が綺麗でよく散歩をする私。今はもう秋、誰もいない・・・橋(トアエモアか!)。酔い覚ましにと橋の中央部に行くと、そこには心地良い秋風が吹いていた
「藤川先生、もうお宅に着いたかな?田中先生、まだ車の中だろうなあ?!」なんて考えながら、高須町が縁での三人を「不思議なもんだ!」と笑っていたのだった。
 秋風は確実に涼しさを増して行く。だが、高須町にはまだまだ何か熱い風が吹いている。FBCの川島秀成アナウンサー・・・藤川教頭先生と、高須町新しい風を運んでくれる。
 あっ!そうそう、トアエモアで思い出したのだが、皆さんに嬉しいお知らせが・・・・。八月の高須町の夏祭りでコンサートしてくれた女性グループ《ナナ・イロ》だが、あのフジテレビ「めざうたコンペ」全国一となり、CDデビューが決まったそうです。(オメデトウ!)このH・Pでお知らせして投票して下さった皆さん、有難うございました。
《ナナ・イロ》の二人にも・・・爽やかな秋風が吹いたのですね。嬉しい便りを運んできた秋風が・・・!


△男の酒のつまみ・・・177
 男のビーフシチュー!
 お酒でシチュー?・・・とは、少し掟破りかもしれないが、たまにはそんな事もいいもんだと、お酒のつまみとしてシチューを作ることにした。
 シチュー・・・と言うと何故か女性は、クリームシチューがお好き?と言うか人気があるらしいのだが、やはり男は牛肉入りビーフシチューが大好きなもの。
 スーパーで牛肉の角切り(カレー&シチュー用)を買い、他の材料としては、簡単にジャガイモ玉ネギニンジンシメジと、少なめの材料でOK!
 男の料理は「豪快に!」と、野菜は少し大きめに切る。牛肉は油で表面を炒め・・・すぐに赤ワインで香り包み。後は、普段のシチュー作りのやり方でOK!
 ビールでも日本酒でも焼酎でも・・・意外とシチューとの組み合わせも・・・いいもんですよ!


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【十月の四/おいおい、マジかよ!】10月10日(火)

 先週末に予定されていた高須町での脱穀作業も、昨年同様一週間の延期となり・・・美味しいコシヒカリの新米もお預けとなってしまった(我慢、我慢!)。そんな高須町棚田はさ場に様子を見に行くと、まるでホウキ?!のようになっている乾いた稲束「もう少し・・・待ってね!」と、話かけるように太陽の恵みを浴びていた。美味しいお米となるまでのこの自然の乾燥作業の頃合は地元・高須町の皆さんが毎日その小金色の稲穂を見て判断するのだが・・・ここはプロ(農家)の皆さんにお任せするしかない私達棚田オーナー。高須町の棚田の何箇所かに設けられているはさ場には・・・実り穂が爽やかな風に揺らいでいた。
 先週、7(土)・8(日)・9(月)三連休があったのだが、次男(小6)高須町での作業が中止となった事もあり、二泊三日ボーイスカウトキャンプに出かけて行った。このボーイスカウトの行事となると・・・気になるのはお天気なわけで・・・やはり「雨」となったのだった(雨男だ!)
「えっ〜また・・・雨なの?!」と、少し暗い顔で集合場所に妻と出かけた次男だが、完全なる雨予報の中テントでの二泊をどう乗り切るかが楽しみな私(また・・・学校を休むのか!)。キャンプ場所は旧・清水町の日野川近くと言うのだが行事毎のでは引率のリーダーも付き添いの親も大変だろう(私は・・・行かない!)
 前回のオーバーナイト・ハイク雨、今回も・・・と、まるで雨の降る日を選んで行事をしているような次男たちボーイスカウトのメンバー、たまには一面青空が広がる空の下で気持ちのよいキャンプをして欲しいと願う私だった。
 さて先週3日(火)「北朝鮮が近く核実験か?」と、報道されていたのだが、テレビに登場した多くの北朝鮮&軍事評論家「年内には・・・」「いや、しませんよ!」「アメリカの中間選挙の時かも!」と、概ねこんな予想をしていたのだった(評論家も独自の情報があるらしい)
 で・・・これは信じる・・・信じないは別にして7日(土)に田中先生&藤川先生と私との飲み会の席で「北朝鮮の核実験は近くです!」と、断言していたのは・・・私です(理由は言えないのです!情報元は機秘《トップシークレット》です!)!そんな話をお酒を飲みながらしていた私は真面目に北朝鮮情勢を分析していたのだが、田中先生も藤川先生も「そうですか・・・?」と、今一・・・信用していない顔!(まあ・・・いいか!)
 そして、9日(月)北朝鮮核実験(地下)をやってしまったのだ。国際世論に反する行為として世界の多くの国から非難されることになった北朝鮮。国連安保理の制裁決議も近日中にと噂され、また、日本独自の制裁も確実視される。
「核」・・・地球上、唯一の被爆国である日本には、当然許す事の出来ないこの核実験は、すなわち北朝鮮が核保有国になったと世界に向けて声明することになった実験なのだ。しかもアジアの隣接国の北朝鮮であるからなお更、問題が大きいのである。
 古くから北朝鮮の友好国として中国ロシアも今回の核実験には頭を抱えただろう(中国もロシアも核保有国!)。隣国の韓国そして私たち日本もこの北朝鮮の核の脅威を真剣に考えなければならない。戦後60年が過ぎ、「平和ボケ」と言葉さえ広まりつつある日本。1945年(昭和20年)8月6日広島(ウラン型)、同8月9日長崎(プルトニウム型)・・・私たち日本人は永遠にこの悪夢のような出来事を決して忘れてはならないのだ。
 それでもその戦後以降、確実に核保有国は増えてきた。現在の核保有国はアメリカ(1万800)ロシア(8600)イギリス(200)フランス(350)中国(400)となっている。そして核保有宣言国としてインド(35)パキスタン(50)イスラエル(200)それに疑惑のイランも含まれる。南アフリカのように核を持ちながらも廃棄した国もあるのだが、これ以外にも水面下で核を保有している国があると言われている。
 核爆発装置等を開発し、尚且つ核爆発実験をした国が「核保有国」と定義されている。上記で紹介した国の中でミサイル搭載が容易とされているプルトニウム型を保有しているのは、パキスタン以外の国全てである。
 核バランスとして、世界の核保有国はアメリカ・ロシアを中心に核削減を強調してきた。一時、6万基以上あった核も現在まで約50%の削減となりつつある。しかし、この核を持つ・・・いや、核を持ちたがる国の意図がどこにあるのか考えなければならないのだ。
 北朝鮮が核保有となった時、お隣の韓国でも「北が持つなら、我々も・・・!」と、一部の国民が騒ぎだした。「核に対抗するなら核で・・・」が、当たり前のように言われてきた時代から最近のリビア北朝鮮まで、核実験は論議されながらも多くの国で行われてきた。アメリカフランスは世界から非難されながらも当然の如く実行してきた。最近ではインドパキスタンの対面した国同士が繰り返し行うと言う一触即発の状態もあった。
 地球上から核を廃絶する時が来るのだろうかと誰でも諦めている部分があるのだが、非核三原則を謳うこの日本はいつの時代になろうと「核廃絶!」を、声を揃えて言い続けなければならない。
 北朝鮮の現在置かれている状況?は必ずしも一国家として成り立つものではない。北朝鮮包囲網がここまで来てしまった要因は、当然北朝鮮自ら歩んできた道のりにあるのだが、拉致問題・偽金製造問題・麻薬問題、そして今回の核問題と、益々、世界各国からの圧力は増すばかりの現在、北朝鮮指導者はアメリカ一国を敵視する理由も理解出来ない訳ではないのだが、早く6ケ国協議に復帰し友好国の中国・ロシアの協力の中で解決策を見出さなければならないだろう。
 独裁国家は今の世界では成り立つはずが無く、国民のため将来を考えて最高指導者は決断をして欲しいものだ。
 さて、余りに矛盾した行動の多い北朝鮮をこのH・P内で書いてしまった私だが(似合わない!?)安倍新総理の初の訪問となった中国・韓国の地でのこの核実験は何か意図があるのかと考えてしまったのだった。
 本日新聞休刊日。意外と大きな事件事故はこの新聞休刊日前日にある(本当ですよ!)
 北朝鮮国民に透き通る青空が来るのはいつになるのだろう?・・・あっ!この雨の中、キャンプに行っている次男も心配だが・・・どうやらこちらの天気は回復しそうだ(よかったね!)
 ところで、10月10日?・・・新聞休刊日?・・・ん?・・・あっ!・・・本日、川島アナの誕生日だ!今年で何歳になるんだろう? 30歳?31歳?(まあ、いいか!)「川島アナ・・・お誕生日オメデトウ!」


△男の酒のつまみ・・・178
 やわらか鳥肉蒸し!
 健康的にも鶏肉は重宝されている現在、牛&豚肉と比較してもカロリー的に多くの人に愛されている。オリックス清原肉体改造と鶏肉オンリーで食事するほど、この鶏肉は身体にいいのだ。
 焼いても揚げても美味しい鶏肉だが、まだまだ油分を気にする人は蒸すことをお勧めしたい。皮付きの鶏肉を購入(スーパーで)、軽く塩・胡椒で味付けし、刻んだ玉ネギ長葱数本(5センチ程度)を敷いたお皿の上に。蒸し器でお好きな頃合まで・・・・!
 レモン汁であっさりと食べてもいいのだが、中華風ドレッシングでも和風でも美味しいですよ!


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【十月の五/新米は高須町の香り!】10月14日(土)

 気持ちが踊る?!・・・爽やかな秋晴れとなった今日、私と次男(小6)は車で高須町を目指して午前8時過ぎに家を出た(少し・・早いよ!)。昨年同様一週間の延期となったものの、いよいよ高須産新米コシヒカリとのご対面となる嬉しい日だ。
 春の田植え(5月14日)から丁度・・・5ヶ月、高須町棚田オーナー三年目は、何故か少し自信ありげな余裕の顔で私はハンドルを握っていた。その理由だが、刈り取りの時に手伝って頂いた地元・高須町のおばちゃんたちから「ここの稲は最高だわぁ〜!」「いい大きさに育ってるわぁ〜!」と、太鼓判を押されていたからだった(誉められると・・・弱い!誉められると・・・成長するタイプ!)
 一年目・・・受付横の田んぼが抽選で当たり、少し広めの田んぼだったのだが水はけに問題があり収穫は42キロ
 二年目・・・今年と同じFBC「げんき米」の田んぼ横での38キロ(隣の大島アナの声が大きかった!)。  だが私はその収穫量はどうでも良く、次男がお米一粒の大切さを感じてくれるだけでいいと毎年思っているのだ。高須町の自然の中で、泥だらけになりながら幼い苗を植え・・・そのを踏まないように草を取り・・・腰が痛いと言いながらの刈り取りをする、そんな半年間の農作業の真似事が次男のこれからの長い人生に、貴重な体験になるものと信じているからだった。
 助手席に座る次男は三年目の余裕だろうか、居眠りをしている(こいつ・・・昨晩、遅くまで起きていたな!)。それでも心ははさ場だろうか・・・手には軍手を握り締め、過去の経験が生かされているのか帽子&長袖のシャツを着ている(脱穀&もみすりは・・・痒いからね!)
 高須町に着いたのは9時前だった。市農政企画課からの案内通りに集落センター横の駐車場に車を止め、次男と共にテクテクはさ場まで徒歩となった。歩きながら見る高須山、今日も高須山(城山)秋空と共に私の心を和みの・・・そして癒しの空間へと運んでくれる(気持ちいい・・・!)
「お父さん・・・赤とんぼだよ!」と、次男は何故か嬉しそうにその赤とんぼとかけっこをしている。
 麓の集落から白い軽トラが一台近づいて来た。地元高須町田渕さんだった。「おはようございます!」と、声をかけると「今日は・・・いい天気やの〜」と、車のスピードを落とし笑顔の田渕さん。「今日は忙しい一日ですね・・・宜しくお願いします!」と、私が話すと「ほやって!」と、再び速度を上げた(本当に・・・忙しそうだ!)
 遠ざかる田渕さんの軽トラを目で追うと、一番上のはさ場では、すでに何人かの地元の皆さんが稲束を手渡しではさ場から下ろし、それをコンバインにかけている。澄み切った秋空の下、高須町の棚田にそのコンバインの音が聞こえている。
 そんな時「お父さん、僕のところは何時から?」と、次男が聞いてきた。ふと次男を見るとはさ場の一番上に上り高須町の秋のひと時を満喫しているようだ。「うちは10時からだよ!」と話すと「じゃあ・・・もうすぐだね!」と、何故か次男の横には静止状態の赤とんぼ・・・私にはその次男と赤とんぼが「もうちょっと待っててね!」「うん!」と会話しているように見えた(長閑なひと時だ!)
 私のはさ場の隣は・・・FBCの川島アナだった。確実に私の3倍の量はあるだろうその黄金色げんき米「今年はおにぎりにはしないらしいよ!」と次男に話すと「じゃあ・・どうするの?」と、次男。「今度聞いておくよ!」と、呑気な親子の会話だった。昨年のげんき米FBCフェスタやその他のイベント計1000個おにぎりとなって大好評のうちに瞬く間に完売(無料)となっていた。あれからもう一年、早いものだと秋風に揺れる稲穂を見て感じていた。
 雲が流れている・・・高須山から東の奥越の山並みを見渡すと・・・そこには少し色づいた紅葉の山々があった。私も次男の真似をしてはさ場に上ると、高須城小学校が見えた。勿論、本日土曜日で学校はお休み。そんな学校前の道路を何台かの地元の軽トラが行き来している。集落センター駐車場には市農政企画課藤田さんの姿が見えた。手には本日の段取りを書いた資料だろうか・・・大事そうに持ち誰かと話をしているようだ(お〜い!)
 親子二人・・・はさ場の高い所に腰掛ている。「気持ちいいね!」と、私が話すと「うん、やっぱりここ(高須町)は最高だね!」と次男(同感!)。二人でのんびり秋空を見上げ・・・コマ送りの時の流れを楽しんでいる(こんな事も必要だ!)
 しばらくすると「お父さん・・今、何時?」と再び次男が聞いてきた。携帯電話の画面を見た私「今・・・11時!」と、私が答えると「まだかな?!」と、少し待ちわびた飽きた顔の次男。「ほら、あの上で作業をしているコンバインは早く動かないから(移動)待つしかないね!」と、私が話すと「僕、喉が渇いたから車の所に行ってくる」と、はさ場から下り農道を歩きだした次男。「お父さんにも持ってきて(ペットボトル)」と声をかけると「ラジャー!」と、次男(お前はパイロットか!)
 誰も通らないはさ場、上のはさ場ではコンバインが少しずつだが移動している。そんな時「こんにちは、いいお天気です!」とオーナーの男性が歩いてきた。「これからですか?」と、声をかけると「はい、これからです!今晩(夕食)は新米を楽しみます!」と、笑顔で足取りも軽く上のはさ場に歩いて行った。
 それから10分ぐらい過ぎただろうか、次男が重い足取りで歩いてきた。手には2本のペットボトル。私にお茶のボトルを渡すと次男はまたはさ場の上に上って行く。「まだ?」「まだ!」と、会話も何故か短くなってきた。先ほどまで上のはさ場で作業していたコンバインは・・・次のはさ場に移動していた。朝、このはさ場に来た時持参した煙草も空になり・・・・次男を残し、今度は私が集落センターの駐車場まで歩く事になった。途中のでは地元の皆さん畑仕事をしている。「こんにちは!」「ご苦労様です!」そんな挨拶を何回か繰り返した。
 車に戻り運転席に座った私はエンジンをかけた。車で高須町内何箇所かで行われているもみすり作業を見に行くためだった。2箇所の作業場では地元の皆さん市農政企画課藤田さんや・・・本多さんも忙しそうに動き回っている。邪魔をしてはいけないと私はそのまま次男の待つはさ場に向かった。コンバインはまだ来ておらず・・・相変わらず次男は、はさ場の上で遊んでいた。車を路肩に止め、新しい煙草の封を切った。ふと車内の時計を見ると12時近くになっていた。
 上のはさ場でも・・・下のもみすり場でも、皆さん休まず作業進行中!「これは・・・ただ待つしかない!」と、覚悟を決めた私。だが・・・次男は・・・違った。「お父さん、まだなの!・・・お腹・・・減ったよ!」と、暗い顔。
 本日の作業、午前中で終わると確信していた私はお弁当を持参していなかったのだ。忘れていた昼食の事、次男の「空腹!」の言葉に私もつられて空腹になってきた(どうしよう!?)
 そんな時、一台の軽トラが近づいてきた。私と次男の姿を見つけ速度を落とした車。運転席から顔を出したのは地元の長老・掃部さんだった。その掃部さん「この箇所は、お昼過ぎになるから集落センターで休憩して下さい」と、私に話しかけた(困ったな!)
 とりあえず次男と私は車で集落センターに移動し、午後からの作業の開始を待つ事にしたのだった。
 まだ、誰もいない集落センター、次男はそのセンターの中で何やら畳の間を行ったり来たりと落ちつかない様子(相当・・・空腹な様子だ!)
 そこで、私は佐々木さんのお宅に電話をかけた。おそらくご夫婦ともにお仕事でお留守だろう(長女・長男・次男は部活)と思いながらも電話をかけると「はい、佐々木です」と、高校生のお姉ちゃんの声。「おや・・・いたの?」と、私が驚いた声で聞くと「うん!」と返事するお姉ちゃん。事情を話しカップ麺があるかどうかを聞いたのだが、運悪く「1個しかないよ!」だった。
 そこで、ご迷惑とは思いながらも今度はハムスターを頂いた岬ちゃんのお母さんに電話をかけた。すると「それは、お困りでしょう・・・直に用意しますから!」と、まさしく天使の声の岬ちゃんのお母さん(あつかましい・・・!)。次男を直に岬ちゃんのお宅に向かわせると・・・なんとおにぎりと次男の大好物のウインナーまで付けて下さったのだった(本当に、ありがとうございます!)
 しばらくすると集落センターは午前中の作業を終えた地元の皆さん、それから市農政企画課の皆さんの昼食の場となっていた。賑やかな話し声が飛び交いこのまま宴会に突入か?と間違えるほどの昼食時間となっていた。そんな中、次男はおにぎりとカップ麺ですでに満腹状態。私も農政企画課の皆さんや地元の皆さんたちと冗談を交えながら楽しいひと時を過ごしていた。
 すると集落センターの扉が開き聞き覚えのある爽やかな声が響いてきた。「こんにちは・・・」それはFBC川島秀成アナウンサーだった。川島アナは午後からが脱穀&もみすり作業の予定だったらしくカメラマンと共に少し早めの高須町入りとなっていた。川島アナの登場に集落センターの賑わいは益々増し・・・笑い声が絶えないお昼休みとなっていた。
 午後1時、昼食を終えた私と次男は再びはさ場へと向かった(今度は車で!)。すると、そこにはすでにコンバインが待機していて準備万端の状態。
 次男は地元の皆さんと共にはさ場に上り稲束を下ろして行く。すると、地元の皆さんは慣れた手つきでその稲束を数株づつ束ねてコンバインに送り込んでいく。
 コンバインの横にはが装着されていて脱穀されたが勢いよくその中へと注ぎ込まれていく。コンバインの前方からはがどんどんと地面に落ちていく。今度はそのを数人のおばちゃんたちが用意した少し太めの藁縄で束ねていくのだ。その手つきの早い事(さすが・・・プロだ!)
 次男はその素早い作業を唖然と口を開けて見ていた。何キロぐらい入る袋だろうか・・・我が藤田家の収穫された袋は直に地元の軽トラックに乗せられた。通常ならこのままその袋と共に籾摺り作業場へと同行するのだが・・・この日はそのまま隣の川島アナの作業も手伝う事にした私と次男(テレビに映るかな?!)
 川島アナはいつものようにマイク片手にインタビューと同時進行で作業を進めて行く。次男はまたまたはさ場の上から稲束を下ろし(投げている!)私はそれを拾いコンバイン脱穀作業の地元の方に手渡す役目となっていた(少しカメラを意識!)。さすがに広い田んぼでの収穫になった川島アナのその作業時間は私達の倍以上の時間となっていた。
 川島アナはさ場での収録も終わり町内で行われている籾摺り作業場への移動となった。私の車には次男、そして川島アナとカメラマンが乗っていた。町内2ヶ所で行われているこの日の籾摺り作業は、地元の皆さん・・・そして市農政企画課の皆さんも汗をかきながら籾摺り後の玄米の入っている重たい袋を両手に抱え移動していた(腰を痛めないでね!)
 作業場に着くと「藤田さんの終わっているからね!」と、本多さん。「すいません!」と、その本多さんから指さす方向を見ると重たそうな袋が2つ置いてあった。ここで気になるのが・・・その収穫量だった(やっぱり!)三年目の今年、我が藤田家は・・・・49キロで・・・新記録(自己)となったのだった(満足!・・・満足!)
 午後3時過ぎ、疲れた顔の次男を助手席に乗せ・・・後ろには収穫されたばかりの玄米49キロが置かれ、車は高須町を後にした。「疲れたか?」と次男に聞くと「うん、でも楽しかったよ!」と、高須町大好きならではの次男の答え。
「今晩は・・・新米だね!」と、嬉しそうな次男の顔は長かった高須町での一日を忘れさせてくれる。帰路の途中、コイン精米所(2基設置)に立ち寄る事にしていた私。出がけに用意した100円玉を確認しながらその精米所に車を止めようとすると・・・先客がいた。
 ここでも順番待ちか?と少し諦めムードになった私だったのだが、その先客(中年男性)「隣にもありますよ!」と、声をかけられた(知らなかった!少し離れた所にもう1基)。このコイン精米所だが年間5・6回は訪れているのだが、3基もあるとは思っておらず「あっ!すいません・・・初めて来たものですから!」と、思わずその先客に嘘をついた私だった(子供の前で・・・!)
 袋から玄米を精米機械の投入口に・・・「ゴウ・・・ゴウ」と音がする。空になった袋を直に白米出口?にセットする。100円玉を入れ矢印を上質白米にしてスイッチ・ボタンを押す。すると何とも表現しようのない綺麗な白米が流れてきた。
「わあ・・・綺麗!」と、興奮気味の次男。少し暖かいその白米を何度も何度も触り高須産コシヒカリの出来具合を確認している次男の顔は、少し大人に近づいたような気がした私だった。
 それでも思い出したようにを別の袋に入れだした次男は、「この糠は・・・お漬物や筍の時(茹でる)に使うんだよね!」と、棚田オーナー三年目ならではの知恵も付いていた(よし、よし!)
 このコイン精米所に隣接している農機具販売店、私はそのお店で5キロ用の袋2枚購入した。直にそれぞれの袋に新米を入れ(たぶん5キロ?!)紐を硬く結んだ。
 その新米2袋の行き先だが・・・一つは、名古屋でこの新米の到着を待ちわびている長男(どえりゃぁ〜待っているでなも!・・・名古屋弁?!)。それから・・・もう一つは、次男が夏にお世話になった熊本市ホーム・ステイ先のお宅だった(うまかばってん?!・・・熊本弁?!)
 美味しい高須産コシヒカリの・・・・少しばかりのお裾分けだった(コシヒカリ生誕50年だからね!)
 精米所を出て自宅に帰ったのは、4時前だった(何だか疲れた!)。次男はすぐにお風呂場へ・・・私は、新米を米櫃に・・・・いや、その前に冷たい缶ビールを・・・!
「ご苦労様!大変だったでしょう」と、妻の一言が疲れを癒してくれる。この日の高須町での出来事を妻に話しながら2缶目のビールとなった私。妻は私の話を聞きながら新米を夕食にと研いでいる。
 午後7時・・・食卓の上には美味しそうに炊き上がった新米があった。逸る心を抑えながら私と次男はその新米をお仏壇にお供えする(こういう事も子供への教育です!)
 次男は手を合わせ、無事の収穫(豊作)とお世話になった高須町の皆さんに感謝している。勿論、本日昼食を頂いた岬ちゃんのお母さんにも心からのお礼を・・・。
 さて、その新米のお味だが・・・やっぱり最高です(阿部慎之介か!?)!一粒・・・一粒をゆっくりと噛み締めながら新米を口にしている4人?(父はこの日、静岡県にサイクリングです!元気な大正生まれだ!)
「高須のお米は美味しいね!」(次男)「ほんとに美味しいわ!」(妻)「全然(今までとは)・・・違うわ!」(母)と、三人とも高須産コシヒカリに大満足(おいおい!今までの我が家のお米も・・・高須産なんだけど!)
 夜、この日会えなかった高須町・佐々木さん田中先生新米の報告を電話しながら再び焼酎での晩酌となっていた私。やはり疲れがあったのだろうか・・・酔いが早くなっていた(飲み過ぎだ!)
「美味しい、美味しい!」と、珍しくご飯の御代わりをしていた次男は・・・・すでに爆睡中(お疲れさん!)。その小学6年生の寝顔は・・・まだまだ・・・こども!
 疲れて眠る次男のベッドの下には、乱雑に脱ぎ捨てられたこの日の服があった。「おいおい・・・洗濯機に入れろよ!」と小さな声で文句を言った私だが、・・・・その次男の服には・・・幾つかの・・・が・・・付いていた。
「おやすみ・・・!」


△男の酒のつまみ・・・179
 豚肉のから揚げ!
 少し珍しい豚肉のから揚げに挑戦した。豚バラブロックを一口の大きさに切り、ウイスキーに浸けておく(柔らかく風味が増す!)塩・胡椒で軽く味付け・・・片栗粉をまぶし、後は油で揚げるだけ。一度お試し下さいね!

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【十月の六/教育現場は・・・今!】10月17日(火)

 高須町の棚田での新米コシヒカリ収穫も終わり、何故か少しの虚脱感が身体を覆っている私。今年も何十回だろうか高須町に通ったのだが、それでも高須町には知らない処が多くある。地元・佐々木さん曰く「俺も行ったことない場所があるよ!」と、まだまだ謎に包まれた?未知?の高須町(だから大好きなんです!)。そんな高須町植木御大だが・・・最近、少し体調を崩されたらしく公の場にはしばらくご無沙汰となっていたのだった。「若いもんには・・まだまだ負けない!」と、眼光鋭く(でも瞳の奥には優しさが・・・)日ごろより高須町の将来を考え、そして、あの今年七月の道路崩落箇所の復旧問題では精力的に行政などに働きかけてきた。
 長年、高須町自治会長としてまた棚田オーナー委員会代表として活躍されている植木御大だから、そのお姿が少しでも見られないと・・・寂しいものである。それは私だけの話しではなく、地元・高須町の皆さんは当然だが、高須城小学校石村校長先生藤川教頭先生も、そして畑先生「植木さんには、早く回復して欲しいです!」と、願っておられた。二年目となった、FBCげんき米プロジェクト川島秀成アナウンサー「収録(高須城ものがたり)の時、この棚田に植木さんがおられないと・・・寂しいです!」と、話していた。それは、私も田中先生も同じだった。高須町・・・イコール・・・植木御大だから!
 しかしながら・・・そんな心配も無用とばかり、その植木御大から私達(川島アナ、田中先生&私)に指示が飛んだのだ(待ってました!)。来月の事だが、鷹巣地区?(鷹巣・高須・他)合同文化祭があるらしく、その高須地区展示物の準備(映像&写真)について「用意をしてほしい!」との内容だった。他ならぬ植木御大のご指示には、私も田中先生も、そして川島アナも「はい!すぐに・・・」と、素早い行動なったのだった(嬉しい!)。
 何だか懐かしい気がする。航空自衛隊時代「上官の命令は絶対だ・・・!」「迅速に行動に移せ!」などと言われた事を思い出した私(何十年前の話だ?)明道中学校田中先生も毎日が忙しい教職の中で「植木御大のご指示なら・・・最優先で!」と、何故かその田中先生の顔も嬉しそう・・・。
 この合同文化祭(11月12日)については、またこの高須城日記にて報告します(取材に行きますよ!)
 さて、14日・・・いや15日未明の事、「そろそろ寝ようか!」と、テレビを消そうとした時だった。久しぶりに響く耳を劈く(つんざく)バイクの爆音が聞こえてきた。信号待ちなのかその爆音はしばらく同じ所から動かない(花月橋付近)。アクセルを何度も回して「バオン・バオン」と深夜の住宅街に強烈にそのエンジン音は響いていた。
「暴走族か?久しぶりだな!」なんて思いながら、今度は駅前方向に遠ざかるその爆音を聞いていた。不思議なもので、一度耳にした爆音は・・・中々耳から消えないもの。いつまでも微かに耳の奥に残っているのだ。最近では珍しくなった暴走族?のお出ましに「こんな夜中にご苦労さん!」と、嫌味な言葉を投げかけながら布団に入った私だった。
 そして、翌日の新聞・・・・「オートバイの少年死亡」の見出しが私の目に飛び込んできた。市内春山二丁目の交差点での事故だった。さくら通り呉服町通りが交差する場所での軽乗用車との衝突事故だった。バイクは17歳の少年の二人乗り、ヘルメットはかぶっておらず・・・信号を無視しての衝突事故だと書いてあった(一人は怪我)
 この記事を読んだ私は「あっ!あのバイクだ」と、直感した。「17歳か・・・何で・・・?」と、その若すぎる死に私は疑問を投げかけていたのだった。少年たちのバイクや車の暴走行為は昔からあった。自己表現だろうか自己主張だろうか「俺たちを見てくれ!」と言わんばかりに昼夜を問わず改造バイクなどで走行している。それは人ごみが多ければ多いほどエキサイトな走行となるのだ。
 誰でもカッコつけたい時期がある。新しい洋服を買えばその洋服を!流行の時計を持てばその時計を!バイクを持てばバイクで!・・・車を持てば車となる。それは幼い時、初めて買って貰った自転車を近所の子に見せたがるようなものなのか!?
 この事故直前、パトカーがこのバイクを見つけサイレンを鳴らし停止を求めたらしいのだが、見失いその後300メートル先の場所で事故を起こしている少年たちを見つけたと言うのだ。
「命」・・・誰でも天命はある。しかし自らその天命を早めることは無い。無職と有職者という17歳の少年だが、おそらくこの日、大好きなバイクにまたがり「少し、走ろうか!」と、軽いノリのような気分でアクセルを握った事だろう。まさか事故になるとは思わずに・・・・
 しかし、私はその日からその事故現場で異様な光景を連日見る事になったのだ。事故現場の交差点横・・・多くの花がたむけられていた。そして、友人たちだろうか十数人の若者がその場に座り、少年の死を弔っていた。泣いている少年もいる。手を合わせている少年もいる。それは日中だというのに何時間にもなったらしい(近所の人から聞きました)
 そして夕方の事、またその事故現場を通った私だったが、今度は十人ほどの女子高校生の姿を目にしたのだ。その女子高校生たちも花をたむけ・・・下を向き・・・手を合わせ、その場から離れようとしないのだ。
 おそらくこの少年や女子高校生たちは亡くなった17歳の少年の中学時代の同級生や友達だろう。早すぎるその友人の死を心から追悼していたのだった。
 昨日まで生きていた友が・・・今はいない!これが夢なら早く覚めて欲しい!そんな心境なのだろう。だが、・・・これは現実としてこの若者たちは受け止めなければならない。苦しいだろうが・・・悲しいだろうが、これは現実なのだ。
 17歳の少年の死、これをこの若者たちはいつまでも心の中で見つめて欲しいと私は考えていた。何故ならば・・・この少年の死は、この若者たちが本当の友ならば止められていたからなのだ。もし彼らが「お前・・・危ないから、止めろや!」とか「そんな走りは危険だぞ!」と、真剣に亡くなった少年に話していれば、この死はなかったかもしれないからだ(極論かな?!)
 若い時、危険を承知で無茶をした事は誰にでもあるだろう。それを周りが「止めろ!」と真顔で話してくれるか「凄い!カッコイイ!」とその行為を同調するかの違いだろう。本当の友ならば前者だと私は固く信じている。
 今日もその事故現場には多くの若者がいた。それを見つめる近所の人たち、そして、通り過ぎる車のドライバーたち、また、登下校の小中高校生たち。この事故現場で目撃するその若者たちの姿を見て、何を思うのだろう。ただ、亡くなった少年の友人たちには、この少年の死の意味をいつまでも考え、そして「命の尊さ」を真剣に考えて欲しいと思うのであった。この少年の死を無駄にしないで欲しい。
 ところで、新聞&テレビで信じられない「いじめ」による男子中学生自殺による死が報道されている。先日も北海道で少女がやはり「いじめ」による自殺を報じたばかりだった。だがこの福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒の自殺となる原因が担任教師から始まったと言うから私は驚いたのだった。この担任は生徒を成績順でランク分けし、それを何故かイチゴの品種に例えていたと言うのだ(信じられない!)。また、この担任は「うそつき」「偽善者」などとこの生徒をからかい、いじめとなる行為を増す要素を担任自ら作っていたと言うのだ。
 男子生徒の自殺、その根本となるものは一年前の事だった。中学一年生当時、この生徒がインターネットでいかがわしい内容のページを見ていたらしい。それを見たこの生徒のご両親が心配の余り担任に相談した。ところが、この担任はその生徒の行為をクラスメイトに暴露したのだ。「性」を覚え始める年頃・・・しかし、それは誰にも知られたくないものがある。それは私でも・・・誰でもあっただろう。この担任教師にも。そんな恥ずかしい・・・と、思い間違える年頃の時にクラスで暴露されれば、さぞこの生徒は辛く思い悩んだ事だろう。
 誰でもこんな事はあったはず、授業中に「先生、トイレ!」と、手を上げればクラスメイトから笑いが起こった事もある。授業中に居眠りしてれば、そんな行為を笑われたこともあっただろう。黒板に出題された先生からの問題を、検討違いの答えで返せばそれも笑われただろう。こんな事は毎日とは言わないが・・・一つや二つ、覚えがあるはずだ(私だけかな!)。しかし、そんな行為を・・・出来れば早く忘れて欲しいと思う行為を、担任自らネタにしてからかい、集団いじめとなる原因を誘発したのだ。
 この男子生徒だが、スポーツ(部活)でも活躍していて、また学業も成績上位だったというのだ。13歳、これからどんな未来があるか本人も家族も楽しみにしていただろう。それを幼い命を自らの手により絶つ事になってしまった。
 昔から隠蔽工作が蔓延る(はびこる)学校幹部と教育委員会。今、教育現場では何が起こっているのだろうか?
「安心して子供を預けることのできる学校」は、今は無いのだろうか。「いじめ」・・・これは、今に始まった事では無く、大なり小なり昔からあったものだ。しかし、今そのいじめの質が昔とは違うのだと言う。「いじめの質!?」言葉でのいじめ・・・行為によるいじめ。そのいじめの質が昔と比較して陰湿になっていると言うのだ。
 中学生時代の事、成長期前でまだ背の低い子がいた。そんな同級生をクラスメイトは「チビ!」と呼んだ。太った子には「デブ!」、髪の毛が少しちじれていれば「天然パーマ!」と、からかったものだった。身体的特徴をからかう・・・これも当然「いじめ」となる。自分自身で思い悩んでいる事を、他人から冗談半分にでもからかわれば・・・それは大きな心の問題として自分の中で格闘することになるのだ。しかし、誰に相談してもその身体的特長は直には変わらない。だから、相談できない。自分を上手く表現出来ない子供が今、多くいる。悩み苦しむ事を親にも相談出来ない時代となっているのだ。親子の会話が無い時代だから。真の友人を見つけられない子供は孤独の道を突き進む事になる。
 学校の先生・・・信頼できるはずの先生だから相談する。しかし、その先生は・・・どこまで真剣に考えてくれるのだろう。「理解して欲しい」とは言わない、でも、「悩みや話を聞いて欲しい!」藁をも縋る気持ちで・・・最後の砦となる先生に打ち明ける。だが、その先生の答えが・・・期待はずれとなるものだった時、不幸の結末があるのだ。
 あるテレビ番組での話だが、ゲスト出演していた教育評論家がこんな話をしていた。「現在、学校の先生たちはいっぱいいっぱいの中で毎日仕事をしているんです。でも、本当の先生たちの学校での仕事は、成績を上げることではなく子供と真剣に向き合う事なんです。子供と先生、お互いの信頼関係が成り立たないまま、子供は先生!先生!と呼び、先生は任された担任期間を平穏(問題なく)に終えようとしている。
 クラスの担任となった先生は、クラスを纏めるのが大事な仕事の一つとなる。では、そのクラスを纏めるには子供の人気をある程度得なければならない。そこで、今回の福岡のいじめのようにある一人の生徒をからかい(犠牲)、他の大多数の人気を得ようとしてる先生もいる。あってはならない事が今、学校で起こっている。
 今回の「いじめ」についても文科省が知りえている全国でその実数は正しくはないはず。いじめの数、また、そのいじめによる自殺数は多いはずです。各都道府県また市町村の教育委員会の隠蔽により文科省に正式な数字は報告されてはいないはず!」と、話していた。
 総ての先生ではないが、その先生の大部分は大学卒業と同時に「先生!」と、呼ばれることになる。昭和の時代の田舎では聖職者として「先生様」と、呼ばれていたこともあった。失礼な話だが、ある程度勉強が出来て頭が良く大学に入り教員免許を取れば、先生となる。これが一般社会であればどうだろうか?サラリーマンとなれば平(ひら)から始まり係長・課長・部長と長い年月をかけての出世となる。だが、先生は最初から先生なのだ。
 子供や保護者、また回りの人から若くして「先生」と呼ばれることで何か一段高い処にいるような気分になる。医者・弁護士なども同じである。全ての人とは言わないが、一般常識の無いまま大学生から先生と呼ばれる地位になるのだ。
 最近だが、教員不適格者の話題がある。これは、教えられる子供にとっても・・・その先生にとっても将来を見据えれば必要な事である。
 どこの学校でも「あの先生は・・・!」と、名指しされる先生はいるものだ。例えば、小学校から中学校に入学する時の話だが、誰が担任になるかで新一年生の保護者の間で噂されるのだ。地域(校区内)の学校だからその先生の噂は当然広く情報として保護者間で話題となる。つまり言葉は悪いが、「あたり・はずれ」ということなのだ。「あの先生はいい先生だよ!」「あの先生なの・・・最悪!」と、なるのだ。
 しかし、その噂されている先生はこの事を知るものではなく、保護者と先生との間に最初からある懸念や溝が埋まらないまま1年もしくは2年の担任を受け持つ事になるのだ。このは大きい問題となる。お互い最初から信頼関係が無いのだから、いつまで経っても平行線のままが埋まることはない。「最悪!」と、陰で噂の先生はいつまででも「最悪!」として離任まで噂されることになる。
 以前ある校長先生からこんな話を聞いた事があった。「職員室にいる教員の中で、真剣に子供と向き合える教員は10%だけ。あとの教員はまじめに仕事しているフリをしているだけだ!」と、言うのだ。無論、先生たちの激務は承知しているのだが、だからと言ってフリで子供を教えられても保護者としては納得がいかない事になる。
 真剣に子供と向き合える先生、真剣に子供の事を考えてくれる先生が教員適格者でそれ以外の先生は不適格者?とは言わないが、少しでも先生となった時の「志」を思い出し、信頼出来る先生が増えることが望まれるものだ。
 安部新内閣・・・「教育再生」と言う言葉の中で山谷えり子補佐官や多くの有識者がメンバーになっている。ドラマにもなったあのヤンキー先生こと義家弘介氏もその会議のメンバーに入ると聞いた。だが、会議も大事だが・・・事件は現場で起きている事を忘れないで欲しい!(どこかで聞いたような!)
 親が親として子供の面倒を見られない!先生が先生として子供を真摯に受け止められない!では・・・どうすれば良いのか?!
 家庭・学校・地域が上辺だけの連携ではなく、真剣に議論する時が来ている。「うちの学校は問題ありませんから、大丈夫です!」なんて言葉は必要ない。「常に危険にされされているのは、子供たちなんです。悩み苦しむのは子供たちなんですから。」
 今、私たち大人がしなければならない事、それは真剣に目の前の子供たちの未来を考える事・・・!ここから答えが出てくるはず!


△男の酒のつまみ・・・180
 鳥肉の水炊き!
 鍋に、そしてだし昆布で・・・そのまま2時間鳥肉は食べやすい大きさに切り、最初に入れる。ジャガイモにんじんをその上にいれグツグツと炊く。鳥肉からいいだしが出たところで、好きな野菜やしらたきを加えまた、一煮立ち。秋になるとやはり鍋の季節。恋しくなるものですね!


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【十月の七/今年も豊作のげんき米?】10月18日(水)

 夕方、次男(小6)が笑いながら下校してきた。「お帰り、どうしたの?」と、聞くと「さっきね・・・友達と学校を出てお堀(県庁)の横を歩いていたらね、後ろから『僕たち、気を付けて帰るんだよ!』と、声をかけられたんだ。でさ、驚いて後ろを見たら・・・おまわりさんだったんだ!(大手交番)」と、笑いながら話す次男。
 最近やはり不審人物に対して過敏な子供たち、地域の見守り隊警察官もその子供たちの登下校時間には細心の注意を払っているらしい(皆さん、気をつけましょう!)
 そんな下校後の次男とのやり取りも早めに切り上げ、車に次男を乗せの準備の為に・・・そして水曜日と言えば「げんき米プロジェクト」の録画にと店を出て自宅に帰った二人。「今日の放送は、この間の(脱穀&もみすり)やつだよね?」との次男の質問に「そうだよ!」と、答えた私。帰宅後、うがい&手洗いをしている次男に「早く(塾の)準備しなさい!」と、のんびりしている次男に話ながら私は録画の用意をしていた。
《06・FBCげんき米プロジェクト》と、ラベルの120分テープでの3倍録画・・・まだまだ残りのテープはある。「今日で何回目の放送だったかな?」と、ひとり言を言いながら頭出し(テープ)をしていた私。次男はとその後のスポーツ教室(順化小学校・6時半〜7時半)の準備にと大きなカバンと水筒を用意していた。「今日も、自転車で行くね!」と、話す次男に「そうか、車に気を付けるんだよ!」と、声をかけ送り出した私だった。
 時計は5時を過ぎていた。テレビではFBC『リアルタイムふくい』がすでに始まっていた。この毎週月曜日から金曜日の『リアルタイムふくい』だが・・・・私と次男にとってのこの番組でのお楽しみは、勿論・・・「げんき米プロジェクト・高須城ものがたり」なのだが、もう一つは・・・毎日の「パネルマッチ」なのだ。
 しかし、これがまた・・・中々・・・当たらないのだ。月曜日のフルーツ・・・火曜日のお魚・・・水曜日のお肉・・・木曜日の日用品(ガソリン・灯油など)・・・金曜日の家電製品と、毎日夕方の放送開始過ぎに必ずFAXやメールで応募するのだが、当選したことはない。それは、以前のスーパーからの1万円以内のお買いものの時からの事だ。すでに何十回いや百回以上は応募している次男と私。それでも「いつかは!」と、期待に胸膨らまし応募する(根気よくね!)
 さて、川島秀成アナウンサーの「高須城ものがたり」も今日の放送で15話目となった。昨年のげんき米プロジェクト(全16話)での15話目は、そうそうげんき米おにぎりとなって多くの皆さんに振舞われた放送だった(懐かしい!早いものだ・・・もう、一年経つのか!)
 すっかり高須町の住民?となりつつある川島アナ高須町四年目(棚田オーナー三年目)の私より、高須町に詳しくなっているようだ(川島アナ、おそらく高須町の全住民のお名前を言えるのでは?)
 そんな川島アナ・・・先日、川島アナからの電話の中で「藤田さん、私・・32歳ですから!」と、この高須城日記【十月の四】で私が川島アナの誕生日にふれていたことを見て、話してくれた(早く結婚しないと!でも、お嫁さん候補が多いらしい!)「32歳か・・・いいな!戻りたいものだ、その頃に・・・・」と、独身貴族を羨ましく思う私だが美人?の妻と、可愛い?子供たちを見ていると「29歳で結婚したのは正解だった!」と、自分で言い聞かせる私(ふん・・・だ!)
 またまた話が余談の方向に行きかけたので戻すのだが、今週のげんき米プロジェクト「高須城ものがたり」第15話目〜目が覚めるような輝き!げんき米!の巻〜は、先日14日(土)脱穀籾摺り作業を放送したものだった。
 爽やかな秋晴れ高須町の午後、棚田での稲刈りから三週間いつもの姿ではさ場に登場した川島アナ、自分が干した稲穂の乾燥具合を確かめようと近づくと、そこには地元の湯口道子さんがすでに作業を始めていたのだ。
 太陽の恵みとなる自然乾燥に驚いた川島アナは「わあ〜凄い!これ、ほうきみたいになっちゃって・・・」と、その小金色となった稲穂を優しく手に持ち、三週間前の稲刈りの時と比較していた。すると湯口さん「これは、はさがけやで美味しいやろ!」と、川島アナのお米を誉めた。そして「高須は誉めるとこ無いけど、水もいいしお米は美味しんやざ!・・・イノシシ入るけど!」と、絶妙なコメントをくれた湯口さん
 次にはさ場から下ろした稲束を、コンバイン※脱穀する。※脱穀・・・お米になる籾と「わら」になる茎に分ける作業。
 コンバインでの作業、は袋に入り・・・はコンバインから順番に外に出る。このだが・・・そうそうお正月のしめ飾りに使うので大切に保管されるのだ。
 地元・高須町の皆さんや棚田オーナーの全面協力の中で川島アナはさ場での作業は約1時間で終了した(私と次男も少し・・・お手伝い!)
 大きな袋の中には、脱穀されたばかりのが入っている。「大きな粒やわ!・・・いいお米になるわ!」と、地元の皆さんから太鼓判を押された川島アナ・・・嬉しそうな笑顔。
 現在ではコンバインを使いこの脱穀作業を短時間で終えるものの、「昔は大変だったでしょう?」と川島アナ、高須町の皆さんに質問したのだが・・・「昔はこう・・・」と、当時の人力での作業を思い出して、手と足を使いジェスチャーで説明。「当時は苦しみやったわ!」「今は極楽!」と、遠い昔・・・小学校帰りに必ず手伝わされた事を振り返る地元の皆さんだった(でも・・笑顔!)
 さて、はさ場での脱穀作業も終わり、場所を移動した川島アナ、次は※籾摺り作業となった。※籾摺り・・・「もみがら」を取り除いて「玄米」にする作業。
 この日、町内の農家の納屋で行われた籾摺りだが、大きな機械に先程の袋からを入れる川島アナ。勢いよく出てくる玄米に感激モード!の川島アナは笑顔となっていた。玄米を両手に持ち「このお米・・・どうでしょう?」と、その出来具合をお馴染みの智恵子さんに聞くと「いいお米やわ!」と、その輝くような玄米を誉めてくれたのだ。「これは、最高のランクのお米やわ!」と、再び智恵子さん「特等米!」のお墨付きを頂いた川島アナだった(よかったね!)。
 そして、気になる今年の収穫量は・・・2俵(120kg)だった。ところで、高須産こしひかり「げんき米」は、※特別栽培米として福井県から認定された事を報告しなくてはいけない。※特別栽培米・・・化学肥料や農薬などを基準の半分以下に減らして作られたお米。県が認定する。
 川島アナ2俵の袋には、それぞれその特別栽培米の認定シールが貼られ、この日の作業が終わったのだった。さて、昨年はおにぎりとしてイベントで大人気となった「げんき米」だが、今年は番組視聴者へのプレゼント(10キロ・10名)となった。スタジオでは粕谷アナがそのげんき米の炊きたてを食べている。「一粒一粒がしっかりしています、甘みがあってとても美味しいです!」と、嬉しい評価(そりゃ・・・川島アナの苦労があったからね!)
 無農薬栽培で臨んだ今年のげんき米無農薬ということもあり、昨年より少し収穫量は減ったものの・・・そのお米のお味は最高のものとなったのだった(お疲れ様、川島さん!)
 さて、塾・スポーツ教室を終え帰宅してきた次男だが、夕食そしてお風呂の後に「ビデオ見る!」と、高須城ものがたりを笑顔で鑑賞していた。「あっ、お父さんと僕が映ってる!」と、少し興奮していた次男だったのだが、番組最後のげんき米視聴者プレゼントを見ると「お父さん、応募するの?」と、私に聞いたのだった。「お前なぁ〜応募するはずないだろう!」と、私が答えると「ふ〜ん!」と、不思議な顔の次男(でも、応募したら意外と当たったりしてね!)
 今年の川島アナ高須町棚田でのげんき米二年目も無事豊作に終わり高須町の棚田には少し寂しそうな秋風が吹いている。今年のげんき米プロジェクトではお米の他にも夏野菜作りに挑戦した川島アナ、本当にお疲れ様でした。
 あっ!ところで、この春に棚田に登場したあの合鴨が、その後どうなったのか気になっていた私。「まさか・・・!」と、会う度に川島アナお腹を見ていた私。そこで先日、はさ場で川島アナに聞いたのだが・・・「あの合鴨は今・・・お借りした石川県の農場で元気です!」と、答えが返ってきたのだった(よかった!)


△男の酒のつまみ・・・181
 大根葉のゴマ油炒め!
 この時期になると大根が美味しくなるのだが、先日高須町の佐々木さんから「漬物にでも・・・」と、大根葉を沢山頂いた。そこで、半分は白菜かぶきゅうりとともに漬物に、半分は水洗いの後、3センチぐらいの長さに切り、ゴマ油で炒めた。塩(少々)七味を加えお皿に盛る。最後に白ゴマをふりかけて出来上がり。


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【十月の八/秋の夜長に・・・冬ソナを!】10月21日(土)

 先週の朝の事、早朝ジョギングにと起きだした私は、まだ薄暗く肌寒い外に出ると、東の空下弦の月が浮かんでいた。
「綺麗だなあ〜」と、その月を見ながらストレッチを始めた私だが、こんな月を見ていると思い出す事があるのだ。それは子供時代のテレビドラマ「忍者部隊月光」(おいおい!それかよ!)。まあ・・・このドラマを「そんなの、あったなぁ〜」懐かしいなんて思い出す人は・・・50代前後の人だろう。
 私の子供の頃(昭和30〜40年代)は、まだまだテレビ(白黒)がようやく家庭に一台入った頃で、ガチャガチャ!とチャンネルを回し4波(NHK・教育テレビ・福井放送・福井テレビ(1968〜))を、見ていたのだった。
 誰もいないテレビを独占できる時間、それは学校帰りの夕方までだった。一人で茶の間に座り、当時まだ数少ないアニメや子供向け番組を楽しんでいた。夕方放送されるエイトマン・ハリマオ・サンダーバード・巨人の星と年代は違うものの懐かしいドラマやアニメ。だが、私が一番楽しんだのは「忍者部隊月光」(1964〜1966)だった。
 当時、視聴率40%を超えていたらしいこのドラマ、人類の平和を守る「あけぼの機関」に所属する特殊部隊月光・名月・月影・月輪・三日月(女性)の5人。「拳銃は最後の武器だ!」と、何故か背中に刀を背負っていた(覚えています?)
 朝の月を見ながら・・・そんな子供時代のドラマを思い出した私だが、サンダーバードやこの忍者部隊月光は、今放送しても面白いはず(サンダーバードは時々放送しています!)
 さて、今年に入り相次いで田中先生高須町の佐々木さんパソコン故障になり、不便な日を送っていたのだが、「大変だね!」と、他人毎のように見ていた私についにその時が来てしまったのだ。
 宿題を終えていつものようにオンラインゲームをしていた次男(小6)が、突然・・・中途半端な時間にパソコンの前から立ち上がり・・・自分の部屋へ入って行った。「ん・・・どうしたんだろう?」と、不思議に感じた私だったが、その理由はパソコンにあったのだ。
 高須城日記2話分をパソコンで書いていた私は続きを書こうと電源を入れると・・・起動しないパソコン。「嘘!」と、唖然とした私。「冗談やめてよ!」と、あれやこれやとパソコンをいじりだした(この時、夜の10時!
 しかし、パソコンは正常には起動せず・・・まったく回復の兆しが見えない。「ウィルスでもないし・・・原因はなんだろう?」と、機械オンチの私は妻と二人で悩んでいた。原因を作った次男はすでに就寝中(お〜い!)で、しばらくすると妻も「私・・・寝るわ!」と、寝室に消えて行った(お〜い・・・お前もか!)
 パソコン内にファイルで保存していた高須城日記2話分は、どちらもほぼ完成が見えていて、もう少しとなっていたのだった。当然、これをまた最初から書き直す根性も・・・何を書いていたかの記憶さえも薄れ、いささか自棄(やけ)になっていた私は「こうなったら徹夜パソコンと勝負だ!」と、腹を括ったのだった(この時、午前1時
 壊れたパソコンをいじりながら「何か・・音楽でも聴きながら・・・!」と、考えた私だったが別に聞きたい音楽も無く、深夜のテレビも土曜日だというのにあまり面白い番組がなく(エンタの神様は終っていた)「それじゃ・・・ビデオでも!」とビデオラックの中から長いドラマのビデオを選びだした私。「ヒーロー&グッド・ラック&プライド(共に木村拓哉主演)は、この間・・・見たし」と、中々ビデオを選びきれない私は、「じゃ・・・これでも!」と、久しぶりに「冬のソナタ」を選びデッキに入れたのだった。
 テレビからは懐かしい冬のソナタのあの音楽が流れ始め第一話が始まった。私はテレビを見ることもなく耳で聞きながら、ただパソコンの修理をしていた。
 真夜中3時、コーヒーを何杯飲んだだろう、以前パソコンは・・・起動しない。誰もいない私だけのこの部屋にはテレビからの冬のソナタの音と、起きだしてきた七匹のハムスター(子供)の泣き声が響いていた。
「これは・・・無理かな?」と、半ばパソコンの修理も諦めかけていた私だったのだが、それでも妻と次男が朝起きた時に「直ってるよ!」の言葉を言いたいがため、懸命に努力していたのだが・・・・パソコンは私の意志とは逆な様子。テレビで流れる「冬のソナタ」三話目に突入していた。
 秋の夜長と言うのでもないのだが、「俺は何をしているんだろう?」と思いながら、ついにはパソコンの回復も諦めカップラーメンをすすりながら冬のソナタを見て涙を流していたのだった(なんじゃ・・・そりゃ!)
 あれほど何回も見たはずの冬のソナタも、久しぶりに見ると意外にも引き込まれるもので・・・やはりいいチェ・ジウ。 このドラマのキーポイント?の一つとなっている「ポラリス(北極星)を見ようか!」と、窓を開けた私。テレビから聞こえる「チュンサン!・・・ユジン!」が、どうしても涙を誘うのである。
 パソコンはまだ起動せず・・・「無理かな?!」と、諦めムードの私。「朝一番で田中先生に電話をしよう!」と、やはりここでも田中先生に委ねだした私。睡魔にも襲われパソコンの電源を切ったのは6時前、この時、「冬ソナ」第6話目に突入していた。ここまで来ると完全にパソコンの複旧は諦め、冬ソナに没頭していた私・・・田中先生が起きだす時間までと冬ソナを楽しむことにした(暇人!)
 韓流ブームの原因となったこの冬ソナだが「こんな事はありえないだろう!」「そんな馬鹿な!」と、ついつい独り言を言ってしまうものだが・・・・それでも何故か惹きこまれてしまう。
 朝6時半、田中先生の携帯を鳴らした。「おはようございます!」と、いつもの先生の声。パソコンの事を話すと、「じゃ、夕方お邪魔します!」と、田中先生の嬉しい返事。
 そんな言葉を聞いた私は安堵と徹夜だったためかお昼過ぎまで熟睡となったのだ。だが、就寝の時点で私は田中先生がパソコンを修理に来ることを妻や次男には話していなかった。「お父さん、お昼ご飯だよ!」と、次男の声に「うん!」と起きだした私。キムチチャーハンと卵スープでお腹を満たしていた。食事が終わりパソコンを再び見ようと部屋に行くと、・・・・パソコンが無いのだ。「パソコンは?」と、妻に聞くと「電気屋さん!」との答え。私は直ぐに田中先生に連絡を取り、お詫びとなった。
 今では毎日のように使うパソコンが、使えない不便さを改めて感じている我が家族。退屈のあまり、とうとう冬ソナを最終話まで見てしまった私。
 この日から3日後にパソコンが届いたのだが・・・データは全て消えていた(残念!)


△男の酒のつまみ・・・182
 マグロの焙り焼き!
 スーパーのお刺身コーナーでたまに売られている、マグロの中落ち(赤み・トロ)は、意外とその量のわりには安さが目立つ。本来なら網で・・・と行きたいところだが、簡単にフライパンを熱しマグロの両面を軽く焼く。スダチをかけ刺身醤油で頂きます。


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【十月の九/二十五年ぶりの再会!】10月29日(日)

 秋晴れ日曜日の午後、私は田中先生の車に便乗し北陸自動車道敦賀へと走らせている。ここ数日、体調不良の私(鬼のかく乱!)「私の車で行きましょう!」との田中先生の優しいお言葉に甘え、助手席から穏やかな日本海を楽しんでいた。そしてもう一つ、田中先生の車にはこの日の主役、高須産コシヒカリ30キロも同乗していた。
 この30キロのコシヒカリだが、高須町の棚田で穫れた正真正銘の《福井県指定特別栽培米》である。
 前日(28日)高須町内でお昼休み時間に待ち合わせしていたのは、FBC川島秀成アナウンサーとのコンビ?でお馴染みとなっている人気者の地元・畑智恵子さんだった。少し早めに高須町に着いた私は、高須城小学校手前に車を止め、農作業や畑作業を終え昼食にと戻るであろう智恵子さんを待っていた(本当は、智恵子さんのお宅を知らなかった!だって・・・畑さんが多すぎるから!)
 正午前の30分は・・・やはり・・・驚くくらい誰も通らない高須町の道(まあ・・・いつものことか!)「やっぱり、ここは長閑で良いな!」と、車内で吸う煙草の煙だけが窓の隙間から高須の町に消えていた。
 携帯電話で時刻を見ると正午になった。すると、不思議な事にあれほど人影さえなかった町にあちら・・・こちらと軽トラックが戻ってきたのだ。「へ〜っ」と、まるで会社の休憩時間かのように、にわかに活気づいてきた高須町に私は何だか感心していた。それでも智恵子さんを見過ごさないようにと前を通る車を一台一台と監視中の私(スパイか?!)
 すると、青い軽トラの助手席で笑いながらお喋り中の智恵子さんが私の前を過ぎて行った。「あっ!智恵子さんだ」と、私は車から降りその青い軽トラを追った。30メートル先の道路には智恵子さんがいた。
「智恵子さ〜ん!」と、大きな声で呼ぶと「藤田さん?」と、智恵子さん。「すいません、お昼休みに」と、私が言うと「いやいや」と、やはり笑顔の智恵子さん(畑仕事なのに、きちんと髪がセットしている智恵子さん!おしゃれですね!)
 この後、智恵子さんを乗せ車で移動、お米を受け取ったのだったが・・・この時、驚いた事があったのだ。「シャッターを開けるから前にいて!」と、私に言い残し倉庫に入った智恵子さん、しばらくすると電動シャッターがゆっくり上がり始めた。私は重たい米袋で智恵子さんを煩わせていけないと、そのシャッターが腰の高さまで上がるのを待っていた。倉庫内からは智恵子さんの両足が少し見えていた。シャッターが少しずつ上がるたび智恵子さんの両膝・・・太ももと見えてくる。だが、何故だかその倉庫内の智恵子さんは仁王立ち状態で動かない。「まさか・・・?!」と、私は腰を折り曲げ倉庫内の智恵子さんを見ると・・・・両手に米袋を抱えた智恵子さんの姿が・・・「うっ・・嘘!智恵子さん・・・重たいのに」と、話かけると智恵子さんは笑っていた。
 私のなら最初から30キロの米袋を持つなんて考えないだろう・・・普通の成人男性でも30キロは重いはず。それなのに、智恵子さんは平然といや・・・軽々と米袋を持っていたのだ。さすが、高須町の女性は・・・違う!
 車にお米を乗せ、再び智恵子さんをお宅まで送る私だが、その途中に智恵子さんから面白いお話を聞いたのだ。「藤田さん昨日ね、川島さん(FBC)とおにぎり作って西川知事の所(県庁)まで持って行ったんだよ!緊張したわ〜」と、笑顔で話す智恵子さんだった(あっ!それでパーマか!)
 お米を受け取り高須町内から5分程度走ると・・・・目の前には予想もしない横断者の姿が!・・・だった。「何で・・・ここに亀が?!」と思いながらも、そのの移動を少し待ち、車で轢かないように気をつけながら高須町を後にしたのだった。
 そんな前日の高須町での事を田中先生に話しながら、車は杉津PAを過ぎていた(もう少しで・・敦賀だ!)。では、その高須産コシヒカリを何で敦賀に?・・・と、皆さん思われているはず(商い・・ではありません!)
 理由は・・・10日ほど前のスポーツ新聞の片隅の記事にあったのだ。《10月29日敦賀市総合運動公園体育館JOMO富士通の記事を見た私。「おっ・・・来るのか?!」と、急に心が踊りだしたのだった。
 バスケットボールに興味の無い方には「何のこっちゃ!」の話であり・・・興味にある人には「えっ!・・・マジで!」となる・・・この新聞記事。日本女子バスケ界の今の最高のプレーが見られる試合である。しかも富士通(1位)JOMO(2位)の首位攻防戦の大事なゲームでもあり、また、富士通には畑選手(足羽高校出)が、JOMOには川畑選手(福井商業出)がチームの大黒柱としてプレーしているからなお更、面白いゲームなのだ。
 私もこの高須城日記の中で何度かバスケをプレーしたことが・・・と、書いた事がある。勿論、その腕前は・・・と言うと取り立てて「凄い!」とか「上手い!」と、誇れるものではなく、ただの一プレーヤーだった。身長は小さいし、ドリブルは下手だし・・・よく、ゲガはするしの選手だった。
 でも、・・・シュートパスは誰よりも練習したし自信もあった。そして、バスケット選手の最大の要素!が私にはあった。それは・・・・「顔」だった(お〜い!怒るで・・ほんまに!)。失礼・・・真面目に話すと、最大の要素だがフルに40分コート内を駆け回れる体力だった(・・・たぶん?!)
 そんな私が、しかも引退してすでに23年経とうとしている私が何故、女子の実業団トップチームの試合にお米を持って行くのかは・・・
 JOMOチーム監督であり、全日本女子の監督である内海知秀(うつみ・ともひで)氏二十五年ぶりの再会をし、激励の意味を込めて、コシヒカリ生誕50年の福井のお米(しかも日頃からお世話になっている)高須産コシヒカリを進呈したかったからだ。
 試合の数日前にJOMOのマネジャーに電話をした私、しかし、内海監督はスケジュールがギッシリ状態で本人と話は出来ず・・・「当日、試合前の数分なら何とか時間を作る事が出来るかも?!とりあえずお越し下さい!」と、こんな状況だった。
「内海君とは25年ぶりにもなるのか?」と、懐かしく昔の出来事をこの数日、毎日のように思い返していた私だったが、それはこの高須城日記の昨年【十月の四】の中で男の酒のつまみ番外編で書いていたのだ。

△男の酒のつまみ・・・48(番外・・・自衛隊編第8弾!)
 奥尻島に来て何年目かの夏の日の事だった。航空自衛隊の基地の体育館で私たちはバスケットの練習をしていた。1ヶ月後に行われる、北海道大会地区予選に向けかなり熱の入った練習だった。
 スタート組とサブ組に分かれて試合をしていたとき、体育館のドアが開いた。そして、そのドアから大きな身体の子達がぞろぞろと入ってきたのだ。
 今でもはっきりと覚えているのは、その時丁度入り口の逆サイドのコートからファーストブレイク(速攻)で私がレイアップシュートをし、勢い余ってその大きな集団の先頭の人の足を踏んでしまったのだ。「あっ、ごめんね!」「いえ」これが彼らとの最初の会話だった。とにかく、身体のデカイ男の子達が約25名。「何じゃ、この子たちは?」と、興味があったものの練習中であったためそこまでだった。
 昼食時、隊員食堂で食事中にそれは分かった。
 食堂に現れたその集団、他の隊員達の後順番にトレイを持ち昼食のおかずなどを取っている。改めて彼らを見ると、やはり大きな子たちだ。この時、私の横に来た後輩が教えてくれた。
「先輩!彼らは日本体育大学のバスケット部らしいですよ。しかも1軍だそうです」
 よく見ると何人かはバスケットの専門誌で見たことのある有名な選手がいる。つまり彼らはバスケ界のエリート集団で将来の全日本候補という事になる。後から聞いたのだが、この日体大バスケ部は当時部員が350名いて、1軍から7軍まであり、しかも2軍からは2軍のA,2軍のBとなっているそうだ。だから、今ここにいる選手はとんでもない能力を持った選手ばかりなのだ。
 その選手がどうしてここにいるのかと言えば、この基地で約半月間の合宿を行うためだ。当時、奥尻高校か奥尻中学に小池先生(北海道BB協会)という有名な先生がおられて、その小池先生がこの奥尻での合宿を進めたらしいのだ。
 当然、その日から私は選手たちと友達になった。清水監督の指導の元、ハードな練習が行われていた。主将の小堺君はこの時、外国でのユニバーシアードに参加でいないものの、とにかくその身体能力を見てると、同じ人間とは思えない子たちだった。この合宿中、よく話しをする友人が3人できた。1人はマネージャーの渡辺君、そして野口幸治君、最後の1人は内海知秀君だ。バスケが好きで詳しい人なら「えっ!」と驚く名前だろう。 その他にも、その後全日本で活躍した陸川大塚瀬戸斉藤といた。
 野口君は神奈川県の相模工大附属高校出身で高校界の天才サウスポーシューターと言われた子で、インターハイ等で1試合平均30点以上の得点を取るアウトサイドのシューターだった。よく、その専門誌で表紙を飾った有名な選手だ。日体大卒業後は名門・松下電器に入った。
 内海君は高校バスケット界の名門、あの秋田能代工業高校の出身で、しかも主将としてインターハイ・国体・選抜の3冠を獲得した選手。つまり、超エリートなのだ。大学卒業後は、こちらも名門、日本鉱業に入りそして全日本の中心選手として長く活躍した。そして、引退後は札幌大学のコーチを経験し、後は皆さん知っている通りでジャパンエナジーの監督(現)と昨年まで全日本女子の監督をしていた。
 例え話しで言うなら、野球好きの少年の目の前に長嶋がいるようなものだった。(この例えは少し古いかな?)
 仕事時間の許す限り、彼らと行動する私だったが、その練習を見ているととても同じバスケットをしているとは思えなかった。レベルが違うのは当たり前で、そう次元が違うが適切な言葉だろう。
 夜になると、同じ基地内の別棟の宿舎に彼らを訪ね、親交を深めて行った。そんなある日、
「明日、西尾コーチが来ます!」と、渡辺マネージャー。
「えっ!西尾さんって、あの西尾さん?」と、聞き返した。
 西尾さんとは、彼らの先輩で日体大から日本鋼管でプレーし、この年から母校の新コーチになるというのだ。
   翌日、その西尾さんが来られたのだが、「うちの子達が大変お世話になっているそうで、有り難うございます」と、西尾さんが在籍していた日本鋼管のユニホームの下のトランクス(NKKのマーク入り)を頂いたときには、完全に舞い上がっていた私だった。(このトランクスは今でも私の宝!)
 そんな奥尻での彼らの合宿が残り僅かとなったある日だった。彼らの練習を町の皆さんに見てもらおうと、奥尻小学校で公開練習が行われた。当然、私も同行していたのだが、その町の人達から「自衛隊さんと試合をしたらいいのに!」「藤田さん、試合をして!」と、こんな事を要求された。この話しを聞いて、清水監督までもが「藤田さん、やろうか!」と余裕の笑顔。しかし、これは・・・
 とんでもない話だった。確かに、私たちもバスケットをしているものの彼らとの差は歴然としている。巨人と少年野球チームが真剣に試合をするようなものだった。(そこまではないか!)
 しかし、言い訳が得意の私。実はこの2日前、彼らの練習に参加していた私はパスカットに行った際に右手薬指を骨折していたのだ。(身長差があり、頭の上でパスされていたので強引にカットに!)
「そうだね!、でも主将の私がこの状態だから試合になんないよ。本当は試合をしたいんだけどね!」と、地元奥尻の女の子たちに言い訳。それを笑いながら聞いている清水監督だった。(結局、試合せず!・・・助かった!)
 まともに試合をしていたら、20010のスコア・・・10点・・・取れたかな?
 奥尻での合宿も終わりに近づき、彼らとの別れが後わずかとなったある日、野口君と内海君、それに渡辺マネを私の下宿に招待した。そこで、ちゃんこ鍋をご馳走したのだ。ちゃんこ鍋には奥尻の新鮮な魚貝類が入り、もちろんお肉も、「美味しいです!」と内海君。この時、内海君は自分のプレーに悩んでいたらしくお酒も影響して泣き始めたのだった。それを「内海!シュートというのはなあ・・・・」と、偉そうに教え込む私。(お前は何者なんだ!)楽しい一時だった。レベルが違うとはいえ、同じバスケを愛するもの同士だった。この後、当時日体大バスケ部々員が愛唱歌として歌っていた故・河島英吾(彼もバスケの選手だった)「酒と涙と男と女」を皆で歌った。
 その後、埼玉県内にある基地に短期出張した際には必ず日体大を訪れた私。福井に帰ってからも、日本リーグが福井で行われた時は、野口君(当時松下電器)と福井駅で待ち合わせし北の庄のスナックで飲んだり、電話をしたりしていた。内海君も日本鉱業の試合が福井であった際、会う約束をしていたのだが、その前に試合か練習であごを骨折し、慈恵医大に入院して会えなかった。しかし、私が明道中学校のPTA会長をしている時に女子バスケ部が内海君が監督を務める、ジャパンエナジーのクリニックに参加、お世話になったのだった。
 また、機会があればあの時の「ちゃんこ鍋」したいと思う私だった。

 これが私と内海君・・・いや、内海監督との出会いだった。
 で・・・ここで問題なのは、内海監督が私の事を覚えているかどうかだった(そりゃ・・そうだ!それが肝心!)。冷静に考えて見れば、内海監督はその後、日本リーグの名門・日本鉱業スタープレーヤーとして、また、全日本チーム中心選手として華やかな活躍をしてきた訳で・・・総て、私はその姿をテレビの画面を通して見てきたのだが、内海監督の引退後から今まで「あっ・・内海君とは友達だよ!」と、一方的に思っているのは私の勝手で・・・内海監督の方は「えっ!誰ですか?」と、言うことにもなりかねないのだ。いや、「知らないです!」と、言われる方が確立的に高いのだ。
 敦賀ICに降りたのは2時前だった。この時、私は田中先生に最悪の結末だけは考えておいて欲しいとお願いしていた。つまり、内海監督に面会出来ず・・・直接お米を渡せない事・・・だった。そんな弱気の私に田中先生は「いいじゃないですか・・・ダメだったらダメで!」と、優しい言葉。
 車は金山バイパス方面に向かっていた。途中の信号を左折し広い敷地の東洋紡横を抜けると《敦賀市総合運動公園》の案内標識が見えてきた。そんな時、私の携帯が鳴った。相手はJOMOチーム帯同通訳の古賀さんからだった。「藤田さんですか?今、内海はミーティングに入っております。大事な試合前ですので時間が読めません。失礼ですが、終わりましたらもう一度お電話します」との内容だった。
 この時点で完全に弱気の私がいた。私は田中先生に「先生、敦賀まで付き合せてごめんね!」と、早くも低姿勢の謝り状態。すると田中先生は「いえいえ・・・こんな機会はそうそうありませんから!」と、あくまでも前向きな先生だった(いつもと逆だ!)
 車は敦賀市総合運動公園の敷地内に入った。道の各所では誘導員が駐車場の案内をしているのだが・・・・私たちはお米を積んでいるため「すいません・・・関係者です!」(本当かよ!)と、体育館正面横のスペースに駐車した。そして、体調不良の私に気遣ってか田中先生は、この後お米の運搬もして下さったのだ(感謝です!)
 受付を通り1階ロビーでは、多くのバスケ・ファンや家族連れやバスケの小・中・高選手そして大会関係者でごったがいしていた。さすが日本のトップチームの試合、それぞれファンクラブ入会受付やオリジナル・グッズのコーナーもある。
 そんな中で、私と田中先生はJOMOの受付横にお米を置き、ロビーの片隅で電話を待つことにした。改めてこの状況下で、このロビーに高須産コシヒカリの米袋がドン!と置かれてある光景が可笑しくもある。通り過ぎる何人かの人は「何で、ここにお米があるんだろう?!」と、不思議そうな顔でそのお米を見ている(よしよし、いいPRだ!)。米袋には田中先生特製のシール《福井・高須城山、棚田米》が大きく貼ってあった。
 そんな時、再び私の携帯が鳴った。しかし、その発信者はJOMO古賀さんでは無く・・・知らない携帯番号だった。「はい、藤田です」と、言うと「藤田さんですか?私、中日新聞社敦賀支局の○○です!取材に来ました」と、言うのだ。
 この時まで私は、何日か前に福井の新聞社各社取材依頼をしていた事を忘れていたのだ(わっ・・・どうしよう!)。この記者に現在の私の場所を教えていると、控え室通路からJOMOマネージャーと共に帯同通訳の古賀さんの姿が見えた私(古賀さんの顔は写真で確認していた)
 すると、やはりお米の袋で気づいたのか古賀さん可愛いマネージャー成井さんが私達の所へ近づいてきたのだ。ここは一般常識での名刺交換となった私たち。この時、先ほど電話の記者も横に来ていた。すると、何故か申し訳なさそうな顔の古賀さんが口を開いたのだ(やっぱり、ダメなのか!)
「実は、本日の試合は大変重要な試合でして、試合前は無理かと思います。監督とのお時間は試合後でいかがでしょう?」と、古賀さん。
「全然・・・いいですよ!」と、直ぐに返事した私に古賀さんそして可愛い成井さんが深く頭を下げてくれたのだった(とりあえず・・・胸を撫で下ろした私)。この時、古賀さんからチームのプロフィールを頂いた私は「田中先生、ゆっくりと試合見ましょう!」と、2階席に移動しようとしていた。
 すると「あの〜取材ですけど・・・」と若い記者の声(忘れていた!)。試合開始は3時からで逆算しても終了時間は5時ぐらいになる。つまり、バスケの取材では無く・・・お米の進呈の取材で来たこの若い記者は約2時間・・・時間を無駄にしてしまうのだ。そこで、「写真と記事は帰りに支局に寄るから!」と、私が話すと「じゃ、お願いします!」と、意外にも引き揚げて行ったのだ(まあ、いいか!)
 体育館の2階席は・・・ほぼ満席状態になっていた。コートでは三菱電機東京海上日動の試合(WT)が行われていた。私はまわりを見ながら空いている席を探し最前列に座った。すると田中先生は「藤田さん身体大丈夫ですか?何か飲み物を買ってきます!」と、再び通路に戻って行った(何て・・・優しい・・・先生だ!)
 私はこの2階席から下のベンチ奥の観客席を見ると、そこには黒いスーツ姿の内海君と同じくチームのA・H・Cを務めるトム・ウィスマン氏が試合前の打ち合わせをしていたのだった。「あっ・・・内海だ!」と、二十五年ぶりのその生姿に感動していたのだった。そんな時「藤田さん・・・これ飲んでください」と、暖かい缶コーヒーを手に田中先生が戻ってきた。私はその田中先生に「先生、あれが内海です!」と、指さして教えたのだが・・・少し遠いこの2階席。しかも、田中先生はこのような全日本級のバスケの試合は初めての体験ということもあり、私は1階ベンチ後ろの観客席(特等席)に移動することにしたのだ。
 選手ベンチからわずか数メートルの席に腰を下ろした田中先生と私。そして私の3メートル横にはまだ打ち合わせ中の内海監督トム・ウィスマン、そして先ほど私たちに応対してくれた通訳の古賀さんがいる。先ほどの試合も終わり、いよいよJOMO富士通(Wリーグ)の試合開始が近づいてきた。
 当然、私たちはJOMOの応援となる(そりゃそうだ!)。コートには大きい選手たちがシュート練習をしている。そして私たちの目の前をJOMOセンター山田久美子選手(192センチ)が通り過ぎた。ここで、私は不思議な疑問にかられていた。こういう場合、初めて見ているはずの田中先生から「うわっ・・・大きい!」とか「デカッ!」の驚きの言葉が無いのだ(普通は・・・ある!)
 そこで私は「先生、みんな大きい選手ばかりだから感覚がつかめないでしょう?」と、田中先生に言うと「はい!」との答え。つまり、コート内で練習をしている選手達のほとんどが180センチ以上であるため、大きく感じないのだ。
 ここでJOMOサンフラワーズの選手を紹介します。
 11 川畑 宏美 CF 181センチ
 14 山田久美子 C  192センチ
 53 林 五十美 CF 181センチ
 21 本間 京子 C  180センチ
  4 立川真紗美 GF 171センチ
  1 大神 雄子 G  170センチ
  8 田中 利佳 GF 173センチ
 10 長南真由美 CF 175センチ
  9 新原  茜 G  165センチ
  6 内海 亮子 F  175センチ
 15 諏訪 裕美 C  183センチ
  3 内田しずか CF 180センチ
 13 原田 綾子 C  181センチ
 12 吉田亜沙美 G  165センチ
  7 寺田弥生子 F  176センチ
 昨年度と比較し、アテネオリンピックが終った事もあり主力だった数人の選手が引退や移籍した。そんなことから今年度は新チーム(若手主体)で望んでいるJOMOチーム、だかここまでリーグ2位をキープしているのはさすがだ。私もこんなチームの監督をしてみたいものだ(無理無理!)。このWリーグだが国内トップ※8チームが入り、×4計24試合が1チームの試合数となる。
※Wリーグ・チーム JOMO・トヨタ・デンソー・日立ハイテク・アイシンAW・富士通・日本航空・シャンソン
 さて、この敦賀市総合運動公園体育館もにわかに華やいできた。JOMO富士通の応援団も観客スタンドに陣取り綺麗なポンポンを手に応援合戦している。ひいき選手の応援垂れ幕も何枚か2階席から見え、いよいよ本日のメインの試合開始となる。先ほどまで私の数メートル横で作戦会議をしていた内海監督もベンチ横を行ったり来たりで顔も険しくなってきた。あれから25年・・・お互い・・・歳を取ったものだ。わたしが25歳、内海君はまだ大学4年だった。髪に白いものが目立ち顔にはその年輪のシワもある。
 そんな時、その内海君が私と田中先生の前を歩いてきた。ふと合わせる視線・・・・すると・・・内海監督が軽く頭を下げてくれたのだ(おっ!覚えているのか?!)。しかしこの時は・・・試合数分前で・・・ここまででだった。
 試合前セレモニーとして、福井県出身選手富士通・畑選手JOMO・川畑選手に花束と記念品。両監督にも花束と記念品が贈られた。
 試合が始まった。前の試合(WT)には失礼だが、スピード&迫力が・・・全然違うこのWリーグの選手たち。さすが日本のトップのアスリートだ(だって、この中に何人もの全日本の選手がいる!)。私自身、昔から余り女子バスケには興味はなかったのだが、内海監督札幌大学コーチ(1988〜2001)からJOMO(2001〜)のコーチに就任したときから少しずつ関心を持つようになったのだ(本当です!)。
 試合の事を書くと・・・専門なので話が長くなりそうなので書きませんが、ゲームは一進一退の攻防の中、JOMO惜敗しました。隣でこの試合を見つめる田中先生も試合初観戦だったのだが、満足されたようす。試合中に何回か私にプレーやフォーメーションについて質問をしてきたのだった。
 試合終了後、興奮もまだ冷めぬうちに「さあ、先生本番です!」と、再びロビーお米30キロ袋の所へ戻った二人。ロビーは帰路に着く人の波で溢れかえっていた。それでも選手控え室出口前には色紙やノートを持った女の子たち(小中高のバスケ部)たちが試合終了後のミーティングを終えて選手が出てくるのを待っている(気持ちはわかる!)
 試合が終了して20分は過ぎただろうか、まだまだ会場内はざわついている。体育館出口には選手移動用大型バス数台も見える。先程まで設けられていたファンクラブのコーナーや選手たち大型写真もチーム・サポートの皆さんやコーチの中野さん(元・有名な選手)が皆で手分けして後片付けしている。
 そんな時、「キャア〜」と、選手控え室の方で声がした。どうやらミーティングと着替えを終えた選手たちが出てきたようだ。私の前にもまだまだ100人以上の人はいる。
 そして、内海監督の姿が私と田中先生の正面に見えた。その内海監督だが、キョロキョロと誰かを探しているようだ。 この場合・・・その探している人物は・・・私と言う事になる?!私は自信・・・無くも、少しずつ近づき「内海君!」と、声をかけた。
 すると内海監督「わあ・・・何十年になりますかね?藤田さん・・・お久しぶりです、お元気でしたか?」と、笑顔で握手を交わしてくれたのだ。
「福井におられたのですね?」「懐かしいですよ、本当に!」と、その手はしばらく離さない二人(よかった・・・覚えていてくれた!)
 私は過去の日本リーグ(男子)での事や当時のメンバー(日体大)の事を話し、25年の空白を埋めようとしていた。
 だがこの後、直ぐに移動の内海監督には時間が無い。そこで高須産コシヒカリの説明と「みんなで食べて活力にして!」と、私が話すと「有難うございます、頑張ります!」と、再び握手となった。ここでデジカメで撮影していた田中先生から「すいません、お二人でお米の袋を持ってもらえませんか?」と注文が入った。全日本の監督様にお米を持たせるのは、如何なものかと躊躇した私だが、「いいですよ!」と、内海君
 高須町棚田げんき米を間に「ハイ・ポーズ!」と、なったのだった。来年2月には今度は福井市県営体育館でまた試合がある。「その時、また会おう!」と、約束を交わし約10分の再会劇は終わったのだった。
 慌ただしい25年ぶりの再会だった。内海君手の温もりがまだ私の手のひらにあった。
 考えてみれば、25年前(最後)に会ったときは日本体育大学の体育館だった。身長180センチの彼がガードとしてシューターとしてその後、全日本のユニホームを着て大きなヨーロッパの国の選手と戦い活躍した。それは彼の持つ非凡なテクニックが通用したからだ。彼独自のバスケ理論に現役引退後に大学のコーチなどを経験しながら勉強したバスケ理論がプラスされ、今の全日本女子監督としての地位を築いている。身長・パワー欧米や中国には敵わないとされる日本女子だが、内海監督だったら世界への扉を開けてくれそうな気がしている。
 内海君との再会後、またまた・・・かなりの虚脱感に襲われていた私。田中先生に「先生・・・よかった?」と、聞くと「最高です!」と笑顔の田中先生。体育館を出た二人は徒歩15秒の所に止めてあった田中先生の車に乗り込み、敦賀総合運動公園を後にしたのだった。
 翌日の日刊県民福井にその時写したお米を挟んで笑顔の内海君と私の写真が掲載された。
 ただ、私が高須町で農業を営む藤田幸治さんと紹介されたのだが・・・この記事には私の両親も妻も次男も・・・大笑い!・・・だった(まあ・・・いいか!)


△男の酒のつまみ・・・183
 かまぼこの醤油焼き!
 敦賀といえば海産物となるのだが、北前船の名残がいまだに漂う敦賀には美味しいものが数多くある。最近では敦賀ラーメンも有名になっているらしい。
 本日は、敦賀の特産品の一つ「かまぼこ」を使い簡単つまみを作る。かまぼこ1本分を5ミリの厚さで切り、油を薄く敷いたフライパンで焼く。軽く焦げ目がついたら裏返し、醤油を垂らす。数秒で完成です!お皿に盛り、お好みでマヨネーズ七味を・・・・!


高須城日記V(秋後編)に続く


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