高須城日記V(秋前編)


(平成十八年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)





【九月の一/高須山に初登頂?!】9月3日(日)

 親にとって長い夏休みもようやく終わり、「何か・・・変な感じ?!」と口にするほど、初めての経験となった始業式のない学校へと再び登校している次男(小6)、小学生として最後の夏休みを大いに満喫していた。夏休みに行った石川県・熊本県・東京都のそれぞれの楽しかった思い出が写真やお土産と共に次男の部屋に飾られている。
 今年度からの2学期制導入により福井市内のほとんどの中学校では8月29日からが授業開始となった。だが、次男たちの小学校はと言うと・・・・今まで通りの9月1日となっている。それぞれ学校週5日制により、減らされた授業時間を穴埋めするための文科省の策なのだが、子どもたちも保護者も・・・・何か少しの違和感を持つ9月となっている。
 そんな日曜日の朝、私の携帯が鳴った。時計を見るとまだ7時を少し過ぎたばかりだった。「誰だろう・・・?」と、電話を取ると田中先生だった。「おはようございます!」と、田中先生の元気な声。「先生・・・どうしたんですか?」と、聞いた私だったが「藤田さん、今日は良いお天気です!行きましょう!」と、嬉しいデートのお誘い?!(違う違う!)
 実は以前から私と田中先生とで「高須山からの景色を動画でH・Pに・・・・」と、話していたのだった。四季それぞれの顔を持つ癒しの里・高須町、その高須町の集落や日本海、福井平野や遠く白山連峰が一望できる高須山からの景色を動画でと、その撮影を考えていたのだった。
 だが、この発案者は・・・・植木御大だった。何ヶ月か前植木御大が福井新聞に掲載されたことがあった。【七月の十/植木御大の福井物語】で紹介した、植木御大福井物語のことだ。その記事が掲載された後に私が植木御大と話していた時、「藤田さん、高須山からの写真は数多くあるのだが、ビデオでパノラマ式に撮影できないものか!」と、お話があったのだ。
 と四季折々の高須山からの美しい景色をH・Pで全国の皆様に紹介したい、それが植木御大からの私と田中先生へのお願いだった。「わかりました!」と、いつもの安請け合いをした私だったが、よくよく考えると「冬」はどうしよう?と頭を悩ます問題があった。まあ、積雪のまだ少ない頃に高須山に登れば良い話なのだが、それはそれで・・・・考えてしまう私だったのだ
。  そんな植木御大との話を田中先生に耳打ちしたのは8月の夏休みの事だった(何で・・・耳打ち?!)
「それは・・・いいですね!さすが植木さん」と、田中先生。だが、夏休みでも連日の学校となっていた田中先生、私とのスケジュールが中々会わずにいたのだった。「明日は大丈夫です!」「じゃ・・・明日、行きましょう!」と、約束しても・・・肝心なお天気が悪く・・・延ばし延ばしとなっていたのだった(どうせ撮るなら・・・晴れた日ですよね!)
 公私ともに私よりはるかに忙しい田中先生のお誘いに布団の中にいた私は「行きましょう!」と返事をしての高須山行きとなったのだ。
 8時30分、私は田中先生の車の助手席に座っていた。あれやこれやといつもの如く教育談議やら高須町の話で車中は盛り上がっていた。途中の田んぼではすでに幾つかの箇所で稲刈りが行われている。「もうすっかり秋だな!」「高須町も今日あたり稲刈りですかね?」「そうですね!」そんな会話で車は・・・・高須町を目指していた。
 高須町に入ると、育苗センターには地元の皆さんが何人か集まっていた。「何だろう?」と、興味はあるのだがお邪魔をしてはと車を走らせた。佐々木さんのお宅には・・・車があった。「佐々木さん・・・今日はいるね!」「寄りますか?」「いや、稲刈りでしょう・・・忙しいと悪いからやめましょう!」と、ここでも途中下車はしない。そして、高須城小学校前、「ん・・・石村校長先生の車があるよ!」「寄りますか?」「いや・・・ご迷惑になるからやめましょう!」「そうですね!」と、またまた断念しながらの高須山までの道を急ぐ二人だった。
 高須山・・・今年3回目の登頂となる私(登頂?そんな大げさなもんか!)。これでおそらく過去10回は高須山に登っただろう。高須山へのハイキングは多くの皆さんに人気がありに車を止めて数時間かけて登る人もいれば、登山道ぎりぎりまで車で行き、徒歩15分程度の山道を楽しむ人もいる。この日の私たちは、当然・・・後者の方でカメラなどの重い機材があるためなのだ(麓からは・・・無理!)
 ところで田中先生なのだが、すでに何十回も高須町を訪れているのだが、不思議な事に高須山への登山は初めてなのだ。 「えっ!先生初めてなの?」「はい・・・機会がなかったもんですから!」「そうですか!」と、たわいも無い会話の中凸凹山道を車はゆっくりと走らせる田中先生(新車だからね!)
 高須町の集落から狭い山道を約15分、少し広いスペースが見えてきた。そう・・・車数台分の駐車スペースだ。「ここからは歩きです!」と、私が言うと「はい!」と、何故か初登頂を前に気合の入った田中先生。車を止め、カメラや三脚等の機材を下ろし、いざ出陣となった時だった「あっ!藤田さん・・・少しお時間を下さい!」と、田中先生。「いいですよ!」と、返事をした私は田中先生の動きに注目していた。先ほどまでの半袖シャツから袖に着替え・・・・腰には火を付けた香取線香が入ったケース。頭にはタオルを巻き、完全な登山モードの田中先生(私は・・・普段着なのに!)
 荷物を二分し細い山道を登り出した二人、意外と急な山道に直ぐに息も荒くなっていく。「はあ・・はあ・・」と、お互いの息使いが聞こえてくる(おい・・おい、大丈夫か!)
 それほど重くは無いはずの肩からぶら下げた器材だが、この時ばかりは何十キロにも感じるものだ(歳だよ!)「先生、大丈夫?」「藤田さん・・・大丈夫ですか?」と、中年二人がお互いを励まし合いながら、途中から見える日本海の美しい景色に後押しされての山道となっていた。
 

 登り始めて約10分、途中一度の休憩も持たず二人は高須山の頂きに着いた。「わあ・・・凄い!・・・綺麗です!」と、その頂きからの360度のパノラマに感動している田中先生。暫し、その景色に目を奪われコンパス(文房具)状態の田中先生だった。そんな田中先生を見ながら煙草に火を付けて休憩状態の私(携帯灰皿持参です!)。空には青空の中に白い雲が流れていた。日本海には大きな船や白い帆のヨット、始まったばかりの底引き網の漁船だろうか沖合いに数隻が見えた。「いやぁ・・・・登ってよかったです!」と、汗を拭いながら笑顔の田中先生。「ここからのパノラマを紹介したい植木さんのお気持ちが分かります!」と、頷く先生だった。
 

 カメラ器材をセットし、モニターを覗きながらリモコンでカメラを動かす田中先生。「あっ、あの風車は国見岳ですね。あれは東尋坊と雄島ですね。九頭竜川のあの曲がりがいいですね!荒島岳も見えますね。」と、まるで遠足に来た小学生のようだった田中先生(気持ちは分かる!)
 

 しかし、予定では360度の撮影をと思っていたのだが、山頂付近には何本かの木があり、夏の日本海側の景色を遮っている。「先生・・・あの木・・・邪魔でしたら・・・切りましょうか?」「えっ・・・!」「冗談です!」そんな会話をしながらも撮影は順調に進んで行く。《鷹巣城跡碑》高須町の集落も撮影しながら1時間半の撮影を終えた二人だった。
 

 室町時代から・・・今の平成の時代。長い年月は経つものの、この高須山の頂に築城した畑時能(はた・ときよし)「何故・・この地に城を築いたのか?」そんな畑時能の気持ちが少し判りかけた二人だった(本当に?)
 ビデオ撮影の後も、あちらこちらとデジカメを持ち動き回り景色を堪能している田中先生、そんな田中先生を見ながら私は遠く北海道奥尻島(南西沖地震)に向けて手を合わせていたのだった。そんな私に気づいた田中先生「あっ、奥尻島ですね!」と、目を閉じていた。
 小鳥が囀り・・・足元にはコオロギが飛び跳ねている。空にはゆっくりと白い雲が流れている。遠く日本海沖には小樽航路のフェリーが少しずつ動いている。「気持ちいいなあ〜」「最高です!」そんな当たり前の言葉しか出ない高須山での二人だった。
 再び器材を背負い今度はゆっくりと山道を降りて行く。狭いその山道には沢山の石が転がっている。どんな山でも危険は下山の時にある・・・そんな言葉を思い出し一歩一歩足を踏み出して行く。「この道は昔からあった道でしょうね!」と、田中先生。「そうですね・・・畑時能の築城以前からあった道でしょう!」「この石は最近のものですね!」「城壁跡の石ではないでしょう!」と、高須町の歴史の重さを語りながら・・・蜘蛛の巣を避け・・・を避けながら、中年二人は無事に下山したのだった(だから、そんな大げさな!)
 車で高須町の集落に入ると、棚田には「もうすぐだよ!」と言わんばかりに稲穂が風に揺られている。近くの畑では地元の皆さんが農作業に汗を流している。長閑な高須町の日曜日・・・どうやら地元の皆さんの稲刈りは来週あたりか!
 高須城小学校横、その駐車場にはまだ石村校長先生の車があった。しかも、もう一台車が並んでいた。「日曜なのに何かあるのかな?」と、小学校内の校庭に入った私と田中先生。職員室の窓は開いているのだが先生たちの姿が見えない。
 そんな時「あっ・・・どうぞお入り下さい!」と、校長室の窓から石村校長先生が声をかけて下さった。「こんにちは、じゃ・・・少しだけお邪魔します!」と、玄関から廊下を歩き職員室に向った。すると、校長室から石村校長先生と、その後ろにはもうお一人男性の姿があった。その方は7月に亡くなった朝倉俊彦教頭先生の後任として9月1日付でこの高須城小学校の教頭になられた藤川純一先生だったのだ。
 お互い校長先生の紹介で挨拶をしたのだが、「えっ・・・先生は・・・?」と、見覚えのあるお顔の藤川先生。すると「私、順化地区です!」と話す笑顔の藤川先生「そうですよね!」と私。世間は狭いと言うのだが、この時ばかりはその事を改めて感じてした私だった。つまり、藤川教頭先生は順化小学校・明道中学校で私の一つ下の後輩になり、田中先生とは教員として同期に当たるのだ(なんとまあ・・・!)
 職員室でお茶をご馳走になりながら暫し雑談の四人、長閑な高須町に笑い声が響いていた。「ところで今日は何なんですか?日曜日なのに?」と、校長先生にお聞きした私だったのだが「今日は藤川先生と今後の授業内容などの話が・・・」と、朝倉先生の代わりに児童二人の新担任になる藤川先生への申し送り等のお話と言う校長先生。
 約15分で学校を後にした私と田中先生は佐々木さんのお宅の前を車で徐行していた。「寄りましょうか?」と、田中先生。「いや・・・佐々木さん田んぼで忙しいから!」と、柄にもなく遠慮した私だった(実は、高須山から佐々木さんの携帯に幾度か電話したのだが通じなかったのだ!)
 車は柳原への道を走っていた。すると「藤田さんゴルフ場からの道(崩落箇所)を見に行きませんか?」と、田中先生が言い出したのだ。「何で?」と、私。「今、どんな状況(道路)か見たいんです」と、田中先生。「・・・・・じゃ、行きますか!」と、承諾した私だった。

 ゴルフ場入り口の前、そこには《通行止め》の案内標識があった。さらに崩落現場近くまで足を伸ばしてみると、今日は日曜日で作業は休み。そこには大きなクレーン車が止まっていた。そして、その前の道は大きくけずられていて自然災害の怖さが改めて感じる事ができるものだった。高須町の皆さんの生活道路として一日も早い復旧を望まれるものだ。そんな現場をデジカメで撮影している田中先生「早く復旧するといいですね!」と、話していた。
 

 お昼過ぎ、田中先生と別れ自宅でのんびりとごろ寝をしていた私。妻と次男はボーイスカウトで外出中だった。暇な事もあってか・・・何故だか頭の中は晩酌のつまみを考えていた私。財布を手に近所のスーパーに出かけたのだった。野菜売り場で、ほうれん草・サニーレタスと、買い物カゴに入れた私だが、「ん・・・・!」と、方向転換。先ほど気になっていた10個入りの茗荷(みょうが)のパックを買う事にしたのだ。「今日はこれだな・・・」と、頭の中で茗荷料理を想像していた私。この後、肉・魚と買い自宅に戻ったのだった。
 夕方・・・携帯が鳴った。高須町の佐々木さんからだった。「藤田さん、今・・・家か?」「うん」「近くにいるから待っててね!」
 その電話から10分後、・・・・高須産の大量の茗荷が入った袋を手に佐々木さんが現れたのだった(・・・・・!)


△男の酒のつまみ・・・163
 茗荷天ぷら!
 茗荷(みょうが)と言えば、その料理は酢の物お味噌汁が定番となるのだが、私は天ぷらにするのが一番好きだ。軽く水洗いした茗荷を縦半分に切り、冷たい水で溶いた天ぷら粉で約30秒揚げる。茗荷のシャキシャキ感と風味が最高!でも天つゆでも良い!


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【九月の二/携帯電話が・・・故障中!】9月5日(火)

 九月に入り、まだまだ何かと暗い話題ばかりが続く、嫌な世の中となっている。山口県の国立徳山工業高等専門学校での女子学生が校舎内で殺害された事件には、容疑者とされている所在不明の同級生の安否も大いに気になるところとなっている。昔から逃亡するなら「南へ」と、そんな話があったのだが「いや・・・人ごみの多い大阪方面かも!」と、妻と私の推理合戦の毎日(不謹慎!)。何があったのか、真実を知りたい被害者のご両親や学校関係者、また加害者のご両親や警察関係者。19歳という微妙な年齢による保護法ゆえに捜査が送れているようだが、この少年が生きて真実を語る事と、罪を償う事が被害者の女子学生も同級生として待ち望んでいることだろう。
 また、昨日には岡山市で小学6年生男児同士の校内傷害事件があった。次男と同じ年齢である。今のところ被害者の児童は意識があると報道されていて、胸を撫で下ろすものなのだがこのような事件の低年齢化は益々増えつつある日本は、学校教育家庭教育も改めて考え直す時が来ているようだ(遅いかもね!)
 北海道・稚内市での高校1年生母親刺殺事件も同級生を30万円で殺害を依頼するなど、過去に例を見ない事件となっている。このような事件が連日のように報じられているのだが、何か秋田の彩香ちゃん・豪憲くん殺害事件が忘れ去られるようなそんな世の中になっている。
 さて、先月の半ばの事だが私の愛用の携帯電話が故障した。遠い昔の話なら「別に・・・いいよ。家の電話や公衆電話を使うから!それで十分だよ」と、なるのだろうが最近では常に自分の分身のように持ち歩く携帯電話だから、不意の故障には大騒ぎとなっていた。
 この故障だが、通話が出来ない訳でもなく画面に異常がある訳でもない。では何が故障なのかと言えば発着履歴とアドレスを操作するボタンが稼動しないのだ。仕事関連や友人、高須町関係者、学校関係と私の携帯アドレスには500件のメモリーが入っている。
 今の世の中、ほとんどの人が携帯電話を所持しているわけで、その普及率の増加と共に人が相手の番号を覚える事を忘れている。いや、相手ならまだしもいざ「貴方の番号は?」と、聞かれると「・・・・?」自分の番号さえ思い出せずにいるものだ(携帯の番号は長いからね!)。つまり、私の携帯からはキーの操作上・・・直前に着信あった人しか・・・発信できないのだ(分かります?)
「どうするの、機種変更するの?!」の妻の言葉にも「もったいないよ!」と、何故か似合わない私の言葉。時々、思い出すかのようにキーが動くのだが・・・直ぐにまた動かなくなる。毎日のようにメールをしていた田中先生や友人とも一方通行の日々だ(メールの発信は出来ない!)
 そんなこんなで「仕方ない・・・新しいのを見に行くか・・・!」、近所の携帯ショップを訪れたのは8月の末の事。店内に入るとズラリと並んでいるカラフルな機種。「今日は、カタログでも持って帰るか!」と、決めていた私は陳列棚の新機種を見ながらもカタログを捜していたのだった。
 そんな時、「いらっしゃいませ!」と、横から若い女性の声。「機種変更ですか?」と聞かれた私は「ええ・・・まあ」と、少し無愛想な態度。手に持っていた携帯電話をその店員に見せ「ここが、動かないので・・・」と、説明した。すると、「お困りでしょう!今、お持ちの携帯をお預かりできますか?ポイント(累計)をみますから!」と、すでに私が新機種を買うかの如くの彼女。しかし、一応そのポイントが知りたくて彼女に携帯を渡したのだった。彼女がノートパソコンで調べている間、私は再び陳列棚の新機種携帯を見ることにした。
「ウォ―クマン・ケイタイ・・・耐水・耐衝撃ボディ・・・ミュ―ジック・ケイタイ・・・ワンセグケイタイ」と、本当に最近の携帯電話は進化しているものだと感じていた私。
 今から何十年前だろう、携帯電話の初期の話だが肩から鞄のようにかけた大きな携帯電話があった。そんな大きな携帯電話だが・・・・「おっ!凄い・・・カッコイイ!」と、思ったものだった。その携帯電話も片手サイズコンパクトになり某携帯電話会社モニターとして私が試験的に使い出したのは20年ほど前だった。
 当時はまだまだ携帯電話は高価な物で、普及率は低く携帯電話を持っていると「あっ!携帯電話だ!」と、すれ違う人に言われたものだ。今で言う何かセレブになったかのように市内の公衆電話の前を通りその公衆電話で電話をしている人を見ると用も無いのに携帯電話をこれみよがしにかけたものだった(バカ!でもモニターだからね!)。片町の飲み屋に行き、カウンター席やボックス席に座りホステスから「それって・・・携帯電話ですか?」と、聞かれると「まあね!」と、自慢そうにしていた私(当時、片町は電波の状態は最悪で店の外に出ないと通話できなかった!)
 あれから一度も携帯電話を手放した事がない私、だからこそ突然の故障には困惑していたのだった。陳列棚の新機種、昔の携帯はただ電話をかけるだけの物、今は「これって、必要なの?」と、言いたくなるような機能が多くある。
 そんな事を考えていると「お待たせしました」と、店員の彼女。「ポイントを全部使いますと、こちらの機種ですと3千円ほどで購入できますが・・・」と、言うのだ。彼女が指差す機種は新型ではないものの今年の人気の機種だ。
「そうなの・・・で、色はどんな色が今あるの?」と、聞いた私。「今、在庫は・・・白、ピンク、シルバーですね!」と、彼女。私の過去の携帯電話の色だが・・黒・シルバー・シルバー・黒・シルバー・シルバーだった。そこで過去に使用したことの色が欲しくなった私は「ブルー系の色で、今在庫あるのは?」と、尋ねてみたのだ。
 すると「ブルーですと、こちらの最新機種ですね・・・ワンセグの!」と、答えが返ってきた。彼女が手にしたその携帯だが、スカイブルーの綺麗な色で何やら色々な機能が付いているようだった。「これだと・・幾らなの?」と、聞くと「ポイントをお使いになりますと・・・5千円ほどです」と、言う店員。
「5千円か!」と、悩んだ私だったのだが、この時、妻が数日前に言っていた言葉を思い出したのだった。その言葉とは「私の携帯古いからポイント使って新しいのにしようかな?!」だった。妻と私と長男とは同じ会社(au)の家族割。つまり、誰がポイントを使おうと良い話なのだが、ここは妻の新携帯をと考えた私は累積ポイントを使用するのは止め、実費で購入する事にしてしまったのだ。
「なるべく安くしてね!」と、店員の彼女に話すと「はい、本日までサービス期間ですのでお安くさせて頂きます!」と、嬉しい応対。だが、そこは商人根性の私は「今日は奥さん(社長婦人)はいないの?」と、みえみえの会話をしたのだった。すると「奥様とお知り合いですか?」と、驚いた彼女。「そうだよ!」と、私が言うと「でしたら、もう少しサービスさせて頂きます!」と、少し笑顔の彼女。契約書を広げ説明を始めようと私がカウンターに座った時だった。
「久しぶり!」と、私に声をかけた人物がいた。私が振り向くと、そこには白髪の男性が笑顔で立っていた。この人物は、私の同級生でこの携帯ショップ会社の系列で他メーカーの携帯ショップの役員だった。「おう・・・久しぶりだな!」と、私が言うと「今日は何?機種変更?いつもここに来るの?」と、聞いてきたのだ。「まあね!・・・それにしてもお前のその白髪は・・・・いつから?」と、聞いた私に「いいじゃないか!歳なんだから」と、同級生(同じ歳だろ!)
 しかし、この同級生だが嬉しい言葉を私に対応していた店員の彼女に言ってくれたのだ。「おい!特別サービスしろよ」
「・・・はい!」と、今度は彼女の顔から笑顔が消えていた。
 そんなこんなで通常価格の半額近くにまでなった新機種は私の手の中にある(説明書を読むのが面倒だが!)。これから仕事の時も、食事の時も、寝ている時も私の側にいることになる新しい携帯電話(妻よりも私の近くだ!)
 そうそう、サービスを頼んでくれた同級生だがこの店を出る時に「藤田・・・前はボーダフォンじゃなかったっけ!いつからauになったの?」と、聞くのだ。そこで私は「高須町はauがいいから・・・」と、答えた。「・・・・・・・?」と、不思議そうな顔の同級生だった。
 家に帰り、説明書を見ながら操作法をあれやこれやと携帯電話をいじっていた私。そんな私に妻は「あっ、それってテレビ見れるんだよね」「うん!」「でも・・・どこで見るの?」「・・・・・・?!」(うるさい・・・でも、確かに!)


△男の酒のつまみ・・・164
 獲れたての甘エビ!
 数日前から解禁となった底引き網漁だが、三国港近くの親戚から、新鮮な甘エビをたくさん頂いた。何か工夫をとも思った私だが・・・・ここはやはりそのままで食べることにしたのだ。
 綺麗な赤色をした甘エビ。夕食(晩酌)まで冷蔵庫にて冷やして置く。今日は日本酒のロックだ!醤油は付けず・・・あえてを少し振り・・・口に入れる。最高だ!
 甘エビの頭は・・・八丁味噌味噌汁に!


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【九月の三/祝・親王様ご誕生】9月6日(水)

 この時期になると市内の各学校では何やら児童・生徒・学生たちが忙しそうに動き回っている姿が見られる。小学校では秋の運動会があり、中学校や高校では学校祭が行われるからだ。近くの仁愛女子高校では玄関には風船で造ったカラフルアーチが設置されていて、前を行く人の目を楽しませてくれる。
 また、母校の明道中学校でもこの日・月と学校祭(文化祭・体育祭)が予定されている。この何日か明道中学校を訪ねると、グランドや体育館では生徒達が応援練習や歌の練習だろうか、一生懸命に・・・楽しそうに取り組んでいる。因みに今年の明道中学校学校祭のテーマは『CIRCLE&CIRCLE〜扉〜』となっている。毎年このテーマは生徒達自身が決めているのだが・・・上手く考えるものだと関心してしまう。私達の時代は・・・《天高く・・・》とか《根性・・・》なんて漢字を使ったものだったのだが・・・やはり時代が違うのですかね。
 次男(小6)の通う順化小学校でも明日は運動会が行われる。春は地区の体育祭でこの秋は児童だけでの運動会となる。次男にとって小学生最後の運動会だけに楽しい思い出にと考えているのだが・・・・何やら雲行きが怪しくなっている。
 あれほど好天ばかり続いていた福井の空も、ここに来て雨マークが見られる天気予報となっている。水はけの悪い順化小学校のグランドだけに順延は地区の人は慣れている。しかし、当の児童たちは楽しみにしているようで、次男も「お父さん、雨予報だけど・・・大丈夫かな?!明日、あるよね!」と、心配そうな顔で朝、登校して行った(下校時には、早々と順延決定でした!)
 さて、前回のこの日記で「何かと暗い話題ばかりが続く・・」と、書いた私だったのだが、ようやく日本中、いや日本国民が笑顔になる嬉しいニュースが飛び込んできた。本日の午前中に秋篠宮紀子妃親王殿下をご出産されたのだ。皇室にとって41年ぶりとなる男子のご出産ということで、日本はもとより外国でも大きなニュースとして取り上げられているようだ。
 何千年の歴史と伝統を持つ日本の皇室は、世界のあらゆる国には例を見ないものだ。私の子供の頃には、世界で日本とアフリカのエチオピアの皇室が長きにわたり続いていると教えられたものだったが、何十年か前にそのエチオピアの皇室が追放されてしまい、日本が世界で最古の国となったのだ。
 そんな事からも日本の皇室には、世界各国から注目されていることになる。そして、本日の男子お誕生のニュースにはとらえ方には多少のニュアンスの違いはあるものの、概ね微笑ましく報じた国が多かったようだ。
 ところで、私の父や母は生まれた時代が少し違うためか、過去の天皇のお名前を勉強したのか・・・させられたのか、覚えているのだ。勿論・・・・途中まで!
 そこで、お勉強の時間です。歴代天皇をお勉強しましょう。
   《歴代天皇一覧》          即位年月日
第一代    神武天皇(じんむ)     BC 661.01.01
第二代    綏靖天皇(すいぜい)    BC 581.01.08
第三代    安寧天皇(あんねい)    BC 549.07.03
第四代    懿徳天皇(いとく)     BC 510.02.04
第五代    孝昭天皇(こうしょう)   BC 473.01.09
第六代    孝安天皇(こうあん)    BC 392.01.07
第七代    孝霊天皇(こうれい)    BC 290.01.12
第八代    孝元天皇(こうげん)    BC 214.01.14
第九代    開化天皇(かいか)     BC 158.11.12
第十代    崇神天皇(すじん)     BC 97.01.13
第十一代   垂仁天皇(すいじん)    BC 29.01.02
第十二代  ※景行天皇(けいこう)      71.07.11
  景行天皇には双子がいて第二子が大和武尊(やまとたける)
第十三代   成務天皇(せいむ)       131.01.05
第十四代   仲衰天皇(ちゅうあい)     192.01.11
第十五代   応神天皇(おうじん)      270.01.01
第十六代   仁徳天皇(にんとく)      313.01.03
第十七代   履中天皇(りちゅう)      400.02.01
第十八代   反正天皇(はんぜい)      406.01.02
第十九代   允恭天皇(いんぎょう)     412.12.?
第二十代   安康天皇(あんこう)      453.12.14
第二十一代  雄略天皇(ゆうりゃく)     456.11.13
第二十二代  清寧天皇(せいねい)      480.01.05
第二十三代  顕宗天皇(けんぞう)      485.01.01
第二十四代  仁賢天皇(にんけん)      488.01.05
第二十五代  武烈天皇(ぶれつ)       498.12.?
第二十六代  継体天皇(けいたい)      507.02.04
第二十七代  安閑天皇(あんかん)      531.02.07
第二十八代  宣化天皇(せんか)       535.12.18
第二十九代  欽明天皇(きんめい)      539.12.05
第三十代   敏達天皇(びたつ)       572.04.03
第三十一代 ※用明天皇(ようめい)      585.09.05
       ※聖徳太子の父上
第三十二代  崇峻天皇(すしゅん)      587.08.02
第三十三代  推古天皇(すいこ)       592.12.08
第三十四代  舒明天皇(じょめい)      629.01.04
第三十五代 ※皇極天皇(こうぎょく)     642.01.15
第三十六代  孝徳天皇(こうとく)      645.06.14
第三十七代 ※斉明天皇(さいめい)      655.01.03
         ※同一人物
第三十八代  天智天皇(てんち)       668.01.03
第三十九代  弘文天皇(こうぶん)      671.12.05
第四十代   天武天皇(てんむ)       673.03.27
第四十一代  持統天皇(じとう)       690.01.01
第四十二代  文武天皇(もんむ)       697.08.01
第四十三代  元明天皇(げんめい)      707.07.17
第四十四代  元正天皇(げんせい)      715.09.02
第四十五代  聖武天皇(しょうむ)      724.02.04
第四十六代  孝謙天皇(こうけん)      749.07.02
第四十七代  淳仁天皇(じゅんにん)     758.08.01
第四十八代  称徳天皇(しょうとく)     764.10.09
第四十九代  光仁天皇(こうにん)      770.08.04
第五十代   桓武天皇(かんむ)       781.04.03
第五十一代  平城天皇(へいぜい)      806.03.17
第五十二代  嵯峨天皇(さが)        809.04.01
第五十三代  淳和天皇(じゅんな)      823.04.16
第五十四代  仁明天皇(にんみょう)     833.02.28
第五十五代  文徳天皇(もんとく)      850.03.21
第五十六代  清和天皇(せいわ)       858.08.27
第五十七代  陽成天皇(ようぜい)      876.11.29
第五十八代  光孝天皇(こうこう)      884.02.04
第五十九代  宇多天皇(うだ)        887.08.26
第六十代   醍醐天皇(だいご)       897.07.03
第六十一代  朱雀天皇(すざく)       930.09.22
第六十二代  村上天皇(むらかみ)      946.04.20
第六十三代  冷泉天皇(れいぜい)      967.05.25
第六十四代  円融天皇(えんゆう)      969.08.13
第六十五代  花山天皇(かざん)       984.08.27
第六十六代  一条天皇(いちじょう)     986.06.23
第六十七代  三条天皇(さんじょう)    1011.06.13
第六十八代  後一条天皇(ごいちじょう)  1016.01.29
第六十九代  後朱雀天皇(ごすざく)    1036.04.17
第七十代   後冷泉天皇(ごれいぜい)   1045.01.16
第七十一代  後三条天皇(ごさんじょう)  1068.04.19
第七十二代  白河天皇(しらかわ)     1072.12.08
第七十三代  堀河天皇(ほりかわ)     1086.11.26
第七十四代  鳥羽天皇(とば)       1107.07.19
第七十五代  崇徳天皇(すとく)      1123.01.28
第七十六代  近衛天皇(このえ)      1141.12.07
第七十七代  後白河天皇(ごしらかわ)   1155.07.24
第七十八代  二条天皇(にじょう)     1158.08.11
第七十九代  六条天皇(ろくじょう)    1165.06.25
第八十代   高倉天皇(たかくら)     1168.02.19
第八十一代  安徳天皇(あんとく)     1180.02.21
第八十二代  後鳥羽天皇(ごとば)     1183.08.20
第八十三代  土御門天皇(つちみかど)   1198.01.11
第八十四代  順徳天皇(じゅんとく)    1210.11.25
第八十五代  仲恭天皇(ちゅうきょう)   1221.04.20
第八十六代  後堀河天皇(ごほりかわ)   1221.07.09
第八十七代  四条天皇(しじょう)     1232.10.04
第八十八代  後嵯峨天皇(ごさが)     1242.02.26
第八十九代  後深草天皇(ごふかくさ)   1246.01.29
第九十代   亀山天皇(かめやま)     1259.11.26
第九十一代  後宇多天皇(ごうだ)     1274.01.26
第九十二代  伏見天皇(ふしみ)      1287.10.21
第九十三代  後伏見天皇(ごふしみ)    1298.07.22
第九十四代  後二条天皇(ごにじょう)   1301.01.21
第九十五代  花園天皇(はなぞの)     1308.08.26
第九十六代  後醍醐天皇(ごだいご)    1318.02.26
北朝一代   光厳天皇(こうごん)     1326.07.24
北朝二代   光明天皇(こうめい)     1336.08.15
第九十七代  後村上天皇(ごむらかみ)   1339.08.15
北朝三代   崇光天皇(すこう)      1348.10.27
北朝四代   後光厳天皇(ごこうごん)   1352.08.17
第九十八代  長慶天皇(ちょうけい)    1368.03.?
北朝五代   後円融天皇(ごえんゆう)   1371.03.23
第九十九代  後亀山天皇(ごかめやま)   1383.10.?
第百代    後小松天皇(ごこまつ)    1382.04.11
第百一代   称光天皇(しょうこう)    1412.08.29
第百二代   後花園天皇(ごはなぞの)   1428.07.28
第百三代   後土御門天皇(ごつちみかど) 1464.07.19
第百四代   後柏原天皇(ごかしわばら)  1500.10.25
第百五代   後奈良天皇(ごなら)     1526.04.29
第百六代   正親町天皇(まさちかまち)  1557.10.27
第百七代   後陽成天皇(ごようぜい)   1586.11.07
第百八代   後水尾天皇(ごみずお)    1611.03.27
第百九代   明正天皇(めいしょう)    1629.11.08
第百十代   後光明天皇(ごこうめい)   1643.10.03
第百十一代  後西天皇(ごさい)      1654.11.28
第百十二代  霊元天皇(れいげん)     1663.01.26
第百十三代  東山天皇(ひがしやま)    1687.03.21
第百十四代  中御門天皇(なかみかど)   1709.06.21
第百十五代  桜町天皇(さくらまち)    1735.03.21
第百十六代  桃園天皇(ももぞの)     1747.05.02
第百十七代  後桜町天皇(ごさくらまち)  1762.07.27
第百十八代  後桃園天皇(ごももぞの)   1770.11.24
第百十九代  光格天皇(こうかく)     1779.11.25
第百二十代  仁孝天皇(にんこう)     1817.03.22
第百二十一代 孝明天皇(こうめい)     1846.02.13
第百二十二代 明治天皇(めいじ)      1867.01.09
第百二十三代 大正天皇(たいしょう)    1912.07.30
第百二十四代 昭和天皇(しょうわ)     1926.12.25
第百二十五代 今上天皇           1989.01.07
       赤字は女性天皇
 これが世界最古の日本の歴史なのだ。二千年以上もの伝統を誇るこの皇室が昨年から頻繁に論議されてきた。いわゆる皇室典範改正に関するものだ。「男系女系」に纏わる論議は、第一宮家である秋篠宮家の今回の親王様ご誕生により、先送りとなったかのように論じられているのだが、やはり今だからこそ学識経験者などによる皇室の将来を論じなければならないのでないだろうか。
 古くからの伝統を守るのもいいだろう、しかし、その伝統が危ぶむまれる時が必ず来る。皇室典範が果たしてこれからの皇室に対して、どのような未来の皇室のあり方を導くのか私達日本国民は慎重に見守るべきだろう。
 いずれにせよ、この親王様のご誕生は国民にとって心からお祝いしたい嬉しい知らせとなった。「昔なら、それぞれの家には日の丸が飾られただろう!」と、父は話していた。
 皇位継承順位や経済効果ばかりが話題となっているのだが、この親王様の健やかなるご成長を私は願いたい。
 少子高齢化の中、少しでも歯止めになればと思う秋篠宮妃紀子様のご出産は、新しい命の誕生が全ての人の心の癒しとなる事を物語ってくれたものだ。


△男の酒のつまみ・・・165
 オニオン&ツナ缶の簡単つまみ!
 玉ネギを超薄くスライスし水に漬けて置く。ツナ缶からツナを取り出し小鉢に。その上に、水切りした玉ネギを乗せ鰹ぶしをふる。醤油でもマヨネーズでもOK!


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【九月の四/秋空の下で、運動会!】9月7日(木)

 一昨日からの雨により、楽しみにしていた小学生最後となる秋の運動会が順延となり、少し落ち込んで下校してきた昨日の次男(小6)。順延とはいうものの確実に翌日に・・・とはならないのだが、どういう訳か本日は夏が舞い戻ったかのような快晴となっていた。二日続けてのお弁当作りとなった妻は、朝早くから次男の好きなおかずを小さなお弁当箱に詰め込んでいた。水筒には普段より多めのお茶が入り当然、氷も多めとなっていた。
 「がんばってね!」「負けるなよ!」と、妻と私の声援を受けて登校して行った次男だが、何よりも小学校最後の運動会が開催される事が嬉しそうな後姿だった。
 妻も運動会に向けて数日前からデジカメやら何やら準備をしていたのだったが一日延びた事により、本日は学校に応援には行けず残念そうな表情。基本的には秋の運動会には行かない私なのだが、「貴方・・・行ってね!」の妻の命令口調に思わず「はい!」と、答えてしまったのだ(行きたくない!)
 店から徒歩5分の近くにある我が母校の順化小学校。10時過ぎ、少し遅れてデジカメを手にグラウンドに入った私。早々と児童の廻りには、ホームビデオデジカメを手に可愛い我が子や孫の活躍振りを写そうと多くの保護者やその家族が見えられている(やっぱり女性がほとんどだ!)
 私は、そんな女性陣の後からそっと目立たぬように次男の姿を捜すのだが・・・同じ体操着の児童ばかりで分からず、グランドの隅の人混みに立っていた。そんな時
「藤田さん、ご苦労様です!」と、声が聞こえてきた。声の主は、順化小学校のPTA副会長のM君だった。
「今日・・・運動会が出来てよかったね」と、私が話すと
「はい、どうにか土を入れて・・・朝早くから整備していたんです!」と、役員ならではの苦労話。
「あっ・・・先程、明道中学校の校長先生がご来賓でお見えになられてました。もう帰られましたけど」と、話すM君。
「ところで・・・家の子は・・・どの辺にいる?」と、私が聞くと
「直くんは・・・赤組ですからあそこですね!」と、指さすのだった。
「ありがとう!」と、彼の指差す方向を見ると・・・・ここから一番遠い・・・その応援席。

 私は少しぬかるんだグランドの土を踏みながら次男がいる赤組の応援席まで行くことにしたのだった。途中、「あっ、直くんのお父さんだ!」「直くんは・・・あっちだよ!」と、顔見知りの近所の低学年(君たちはジャニーズ事務所か?!)
 次男がいるはずの赤組の応援席・・・だが、次男を捜すのだが・・・いない?この順化小学校の運動会だが、1年生から6年生までを縦割りにしての3チームとなっている。私たちの頃は各学年4クラスあった順化小学校なのだが、やはり市内中心部のドーナツ化現象から今現在の少子化となり、どの学年も1クラスがやっとの状況だ。何年か前、近隣校との合併話も浮上したのだが、そこはやはり伝統ある順化の学び舎、それぞれの諸事情に伴いその話も消えていった。しかし、いずれはおとずれるであろう学校の存続問題、以前の校長先生が春の地区体育祭で挨拶の時話していた「皆さん・・・子供さんをつくって下さい!」が、笑い話から現実味となっている。
 一周300m弱だったか白線がひかれているグランド。その白線の10mほど後に各色の応援席がある。児童は自分たちで教室から椅子を運び前列1年生から順番に・・・後列6年生と4〜5列のスペースとなっていた。当然最後列だろう次男の席だが、やはり何度捜してもいないのだ。しばらくすると、次の競技の場内アナウンスが始まった。低学年の種目だ。まだまだ可愛い低学年の児童が、先生の引率でスタート地点に集合していく。
 そんな時「お父さん!」と次男の声が聞こえた。「来たの?」と、驚いたような次男の顔。「おう!」と、返事をすると、次男は自分の椅子の上に置いてあった水筒を持ち、立て続けに蓋で3杯お茶を飲んだ。「もうお前の競技は終わったのか?」と聞いた私に、短パン後のポケットからプログラムを取り出した次男は「今、この種目だから・・・・あと、4つ後!」と、教えてくれた。

 どうやら、次男たち6年生は同じ色(チーム)の低学年の引率やら各種目の準備やら応援団も含めて、この運動会の中心として忙しくグランド内を飛び回っているようだ。
 ふと、私の後ろから女の子の泣き声がした。後ろを振り向くと1年生の可愛い女の子が私の身体に身を隠すように泣いていたのだ。友だちと喧嘩をしたのか・・・種目で悔しい負け方をしたのか、定かではないが・・・泣いている。「どうしたの?大丈夫?」と、その女の子に聞くと「・・・・」返事は無く、ただ泣いている。私は近くに先生はいないかと捜すのだが、その先生達の多くは次種目の玉入れ競技のためグランド中央に来賓PTA役員と共に集合していた。
 まだ、目に涙を浮かべている女の子、このままだと私が疑われる(俺は不審人物者か?!)と思った時だった。「どうしたの、自分の席に戻ろう!」と、6年生の女子児童。私が「さっきから泣いていたんだ!」と、話すと「ありがとうございます」と、6年生。さすが高学年、しっかりとしていると感心してしまった私だった。泣いている1年生の女の子の肩に両手を置き、宥めるように話しながら自分の席に連れて行く6年生、その後姿はお姉さんと言うより、まるで・・・母親のようにも見えた私だった(女の子は凄い!)
 再び次男と話そうと次男を見ると、先程の席にはおらず、グラウンド中央で玉入れ競技の輪の中で棒の押さえをしていたのだ。そして、次男がいつも遊んでいる同級生も同じように運営全般の係りとしてグランド内を行き来している。これが・・・秋の・・・児童の手作りの運動会なのだ。

 午前11時過ぎ、次男の出場する障害物競走が始まった。ポイントとなるスタート地点、コーナー、ゴール地点にはデジカメを持ったお母さんたちが我が子の奮闘振りを写そうと待ち構えている。私もデジカメを構えながらコーナーに。
「位置について・・・用意・・・ドン!」6年生の女子から順番に4人ずつがスタートしていく。順番を待つ次男は余裕の表情で横の同組みの男子たちと話をしていた。この障害物競走だが、スタートして、まずはハードルを飛び越し、大きい麻袋に両足を入れてのケンケン飛び、次に平均台の上を落ちないようにクリアして、最後に輪投げが成功してのゴールとなるのだ。
 笑顔で走る子、真顔で走る子・・・色々だ。次男のスタートが近づいてきた(私の方が緊張している!)
 号砲とともに次男の組がスタートした。春の区民体育大会では100m走で1位になった次男だが・・・どうやらこの障害物競走は・・・・苦手のようだ。要領の良い子とは異なり一つ一つを確実にクリアしていく次男(勝つ気が無いな!)
 私だったら適当に障害物をこなして行くのだが、次男は真剣に取り組んでいる(親とは大違い!)。で・・・結果は・・・4位(まあ・・・いいか!)
 ゴールした後、罰が悪そうに私の顔を見ている次男が・・・可愛い。春に行われた高須城小学校での運動会と比べて、地元ならではの特色ある種目は無いものの順化らしい運動会が続いていく。外野席の保護者の皆さんもこの日ばかりはおとなしく各種目を見守っている(春は大騒ぎだ!)
 夕方、帰宅した次男の顔は・・・真黒に日焼けしていた(砂埃もある!)。小学生最後となる運動会は、一日の順延となったものの無事、終了した。「お父さんが来たから、緊張したよ!」と、今さらの言い訳。「でも・・・楽しかったよ!」と、笑顔で話す次男は、そのままお風呂に入って行った。
 風呂あがり・・・あの高須町の岬ちゃんのお宅で頂いた、2匹のハムスターと遊ぶ次男。そんな次男の姿を見ていると、まだまだ子供に感じてくる。身長&体重は少しずつだが伸びたり増えたりしているようだが、それでも親の目からは幼さが残る次男。だが、半年後には真新しい学生服(明道中学校)を着る次男にはご誕生した親王様ではないが、健やかに育って欲しいものだ。


△男の酒のつまみ・・・166
 藻ずく酢!
 親戚から・・・何故か塩藻ずくを頂いた。「貴方・・・お願い!」と、妻が言う(まあ・・・我が家で藻ずくを一番食べているのは、私だからね!)。保存の為に大目の塩に包まれている藻ずく。まずは塩抜きから始めた。氷水に少量の塩を含め塩抜きだ。約1時間ほど漬けたのだが・・・まだまだ塩辛い藻ずく。この後、真水にて約30分、ここでようやく塩分が消えた。
 シンプルに酢で食べるのだが、次男が好きなすし酢(ミツカン)を水で薄め甘めの味付け。薄く刻んだキュウリを上に乗せ、冷たく頂く。喉越しが・・・最高!


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【九月の五/真夜中のLOVE・SONG!】9月16日(土)

♪『何気ない毎日が・・・風のように過ぎて行く・・・』
 何十年か前に流行った中村雅俊の唄だが、改めて考えてみると、ここ数年の私は平々凡々と毎日を生活している(考えてみなくても・・・同じだ!)
 テレビや新聞での情報に驚き・・・喜び、俗に言う50代の変化の無い、中年生活となっている。「子供の成長だけが・・・が楽しみ!」と、良く聞く話だが本当にそんな毎日のような気がする。
「男は幾つになっても20代!」と、昔の人が言ったかどうかは知らないが、気だけはまだまだ・・・ヤング!と、なっている(今どき・・・ヤング?!)
 妻、次男それに私と三人で仲良くテレビを観ていると、「あの娘(こ)誰?」と、最近CMに頻繁に出ている若い美人女優の名前を私に聞く妻。
 私があえて無視をしていると、再び妻が「ねえ・・・誰?」と聞いてくる。最後に必ず言われるであろう妻の言葉が判るだけに・・・答えたくない私。
 そして、またまた「ねえ・・・誰?。知らないの・・・珍しい!」と、妻の問いかけに「知らないの!」と、言われて無性に頭にくる性格の私はついに「・・・・沢尻エリカ!」と、答えたのだった。「なんだ・・・やっぱり知ってたのね!貴方は若い娘の名前を本当によく知ってるんだから!」と妻(期待通りの答えだ!大きなお世話だ!)
「何で・・・そんなに覚えられるの・・・若い娘だけ?」と、言う妻だが、「・・・・・・」覚えてしまうのだから、仕方ない!雑学知識だけは何故だか昔から自信のある私だが、こと学校の勉強になると・・・・不思議だが、覚えが悪くなる。
 中学生の頃だったか担任の先生が「藤田君は先生になりなさい!」と、言われた事があった。そして、高校の時もいろんな先生方から「君は、教師にむいているね!」と、お言葉を頂いたものだった。「じゃ・・・仁愛女子高校の体育の先生にでも」と、不謹慎にも考えたことがあった私だが・・・今、現在考えてみると・・・先生にならなくてよかったと真面目に思う私(私が先生じゃ・・・ね!)
 明道中学校のお馴染み、田中先生高須城小学校石村校長先生を普段から良く観察していれば・・・やはりお二人のように私生活から真面目でなくてはいけないのだ(当然!)。だから私のように私生活からして問題児は教壇に上がる資格は・・・無いと言う事になるのだ。
 そんな事をぼんやりと自室で考えながらパソコンのキーボードを叩いていると、深夜のテレビから懐かしい唄が流れてきた。私は思わずパソコンからテレビに目を移した。そのテレビは深夜の映画から聞こえてきた曲で、尾崎豊《OH・ MY・LITTLE・GIRL》だった。優しくそして心に響く独特の尾崎豊の声・・・それは、改めて私の全身に鳥肌が立つくらいに感動する歌声だった。
♪こんなにも 騒がしい街並みに たたずむ君は
 とても小さく とっても寒がりで 泣きむしな女の子さ
 街角のLove Song 口ずさんで
         ちょっぴりぼくに微笑みながら
 凍えたからだ そっとすりよせて
         君は口ずけせがむんだ(1番途中まで)
 せつないくらいの尾崎豊の声に「何の・・・映画だ?」と、テレビ画面に釘づけになった私。その画面にはまだ若い、伊藤英明仲間由紀恵の二人が主演の映画だった。「LoveSong」と、言うこの映画は5年前のものだった。
 女子高校生役の仲間とレコード店員役の伊藤が、尾崎豊のレコードを貸し借りするところからこの物語が始まったのだが・・・数日後、そのレコードを返しに行った仲間だが、その時・・・伊藤は友人達と自分の好きなレコードを集めた店を出すために東京に上京してしまったのだった。伊藤の事が気になる仲間は・・・借りたままの尾崎のレコードの事もあって2年後、高校3年の夏休みの終わりに東京に探しに行くことにしたのだった。
 しかし、そのレコード店はすでに無く、伊藤の友人達を頼りに・・・伊藤の消息を聞きにまわるのだった。レコード店を閉店にした伊藤はその後、深夜のビルの清掃や警備員をしていた。好きなレコードもステレオさえも押入れにしまい、ただ孤独な生活を送っていたのだった。そんな伊藤に少しづつ近づいて行く仲間
 友人(津田寛治)から尾崎豊のコンサートのチケットを1枚だけ譲り受けた伊藤。そして同じようにチケットを手に入れた仲間「尾崎のコンサートに行けば・・・会えるかもしれない?!」。だが・・・伊藤はコンサートには行かなかった。残り少ない夏休み・・・家出同然の仲間の東京での時間は限られている。
 そして、遂に伊藤のアパートを探し当てた仲間は・・・何故かノックもせず・・・部屋の前に2年前に借りた尾崎のレコードを置いてきたのだった。アパート近くの十字路、「逢いたいけど・・・逢えない」そんな仲間の心の中。
 そこに自転車に乗った伊藤仲間の横を過ぎて行く。それを見送る仲間・・・・。
 アパートの前に佇み置かれてある尾崎のレコードを手にする伊藤。そして辺りを捜す。結局二人は言葉を交わさず・・・仲間は帰路の電車に!
 こんなストーリーの映画だったのだが、説明が下手で御免なさい!深夜3時近く・・・私はこの映画で・・・泣いていた。 めったに邦画では泣くことのなかった私だったが・・泣いていた!(歳をとると・・・単純なストーリーでも泣くんですよね!)
 そんな時、映画ではないがノックもせずにドアを開ける音がした。・・・・妻だった。「なんで泣いているの?バカじゃないの!そんな映画で泣く歳でもないでしょ!」と、妻(大きなお世話だ!)。  連休初日の土曜日の深夜、正式には日曜日だが・・・台風の影響で窓の外は、雨音と少しの風音が聞こえている。
 次男(小6)は部屋で熟睡中・・・ではなく、この日ボーイスカウトの行事(オーバーナイト・ウォーク)で福井市の中央公園を夕方に出発し、三国まで約45キロの行程を歩いている。今頃どの辺りを歩いているのか、また、雨に打たれながらで親としては多少の心配もあるのだが・・・「頑張れ!」と、家の中から応援したい。
「稲刈り・・・もうすぐだね!」と、楽しみな次男だが、高須町での稲刈りがメインなのか佐々木さん宅で遊ぶのがメインなのか・・・?!(まあ、いいか!)


△男の酒のつまみ・・・167
 烏賊(イカ)リングのケチャップ和え!
 何気なくケーブルテレビを見ていると、福井の漁村の奥様達の料理教室が映し出されていた。海ならではの烏賊を使った料理が3品。烏賊飯烏賊のカラシ和え、そして私が「おっ!これは挑戦してみないと」となる烏賊リングのケチャップ和えが紹介された。
 烏賊を輪切りに・・・塩を軽くふり・・・片栗粉と青海苔でコロモに。油で揚げ・・・揚げた烏賊をボールの中でケチャップにて混ぜる。意外と美味しい!


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【九月の六/歩け歩け、僕らは元気?!】9月19日(火)

 このところ全国各地で、飲酒運転による事故が相次いでいる。先月の福岡市職員による事故以来、新聞やテレビのワイドショーでは毎日のように取り上げているのだが・・・後を絶たないのだ。特に公務員やまさかの警察官などの飲酒運転などもあり、どこのお役所でも厳しい処分を課す気配となっている。「自分だけは、飲んでも大丈夫!」と言う、過信が無くならないのが飲酒運転の怖いところだ。
 そして今回、その同乗者やお酒を飲ました飲食店までもが罪となる厳しいが、当たり前の状況となった。車社会のこの日本で約何割の人が通勤などで車を使用しているのだろう。当然、お酒を飲む日は車では通勤しない事は当たり前、急の飲み会の場合では、代行運転業者などを用いるのが社会人としての常識だろう。都会・田舎の差はあるだろうが駐車料金や代行運転(タクシー)の料金が高いから「もったいない!」のその認識が・・・・その料金以上、いやお金では済まされない社会的制裁を受ける事になるのだ。
 誘惑・・・飲酒・・・運転・・・事故・・・恐怖・・・逃亡!・・・この一連の短時間の行為が長い楽しいはずの人生を、重く暗い人生を背負ってしまう事になるのだ。
「飲んだら・・・乗らない!」こんな飲酒運転撲滅の標語が流行ったのは・・・・もう何年前になるだろうか?いつの間にか忘れ去られたような気もするこの標語だが、今一度、免許所持者全員が心に刻まなければならない時に来ているようだ。
 先日だが、友人達と片町のある飲み屋にいたのだが、そこの飲み屋のご主人も何人かの従業員たちも・・・・ピリピリムードとなっていて、常連さんは勿論、初めて来た団体さんなどの自家用車の有無などを常に確認していた。沖縄のある飲み屋では車の鍵を来店直後に預かり、代行運転が来たことを確認してから鍵を返すと、ニュースでやっていた。どこの飲み屋でも飲酒運転を無くす・・・ある意味でのサービスを一丸となって取り入れていく必要になっている。
「今日は車じゃないから大丈夫・・・自転車だから!」と、こんな人も多いようだが・・・この自転車もやはり飲酒運転となるのだ。とにかく、自分の人生を・・・いや事故を起こせば他人をも巻き込んでしまう危険運転となる飲酒運転、自分だけではなく家族など多くの人の人生が台無しになる事を考えなくてはならない(勿論、私も・・・気を付けます!)
 さて、前回の日記の中で少し書いた次男(小6)たちボーイスカウトオーバーナイトハイクだが、それほど福井に影響がなかった台風が日本海に抜ける時、次男たちは少しの雨・風の中、徹夜での歩きで翌朝にはゴール三国に到着したのだった。
 このオーバーナイトハイクは、毎年1回この時期に連休を利用して行う恒例行事となっていて、子どもたちの体力面・精神面そして団結力を養うのに欠かせない行事となっている。中学生以下小学5年生まで十数人の子どもたちが幾つかのグループに分かれ、それぞれ違ったコースをリーダー(中学生)と共に渡された地図を見ながらポイントを通過し、休憩を取りながら決められた時間内に同じゴールを目指すと言うものだ。
 16日(土)夕方福井市中央公園を出発した次男たち。この次男たちのリーダーはF君と言って明道中学校の2年生だ。(明道中学校の生徒だから・・・安心、安心!)
 スタートしたF君以下次男を含む6名のグループは、雨具を着て足羽川堤防沿いに地図を確認しながら旧・清水町の中継ポイントを目指した。後で次男から聞いたのだが「田中先生の近所の橋を通ったよ!」と、夜間の道を覚えていたのだ。
 全てがリーダーの判断の中で行われるこのオーバーナイトハイクは、声を掛け合い励まし合いながら、雨と風そして暗い夜道を筋肉痛と靴ずれと闘いながら歩くのだ。最初の頃は笑顔で話していたメンバーだったが、中盤以降にはその笑顔も消え、それぞれが下を向き無口状態。ただ、先頭を歩くリーダーのF君の後をついて行くだけになっていた。
 高須町近く本郷小学校旧・上郷小学校跡地を横目に団員たちは気力を絞り一歩一歩前に足を踏み出して行く。「せめて、雨がやんでくれれば!」と、団員たちも同行しているボーイの関係者も、そして保護者も願っていた(妻と私は、自宅にて一応・・・心配していた)
 次男が歩いている夜中だが「明日は休みだからいいけど、疲れて来週からの学校は大丈夫かな?」「雨に濡れて、熱が出ないといいけど!」と、妻が心配そうに話していた。「それが良い思い出になるんだよ!みんなで歩き通してゴールする事が自信に繋がるんだよ!」と、私が話すと「でも、心配!」と、母親ならではの顔の妻(心配性!)
 そこで、私が航空自衛隊教育隊(山口県防府市)時代での一泊二日行軍や、重い土嚢を背負いの50キロ行軍などの事を話すと「あの子は自衛官じゃないから・・・!」と、ごもっとものご意見の妻(そんなに・・・怒らなくても!)
 17日(日)早朝4時、まだ小雨が降る夜明け前に妻は車で三国に出かけた。この妻の三国行きだが、次男を心配のあまりの行為では無く、ゴールしてくる団員たちの朝食作りや身体のケアをするために出掛けて行ったのだ。小学生や中学生がメインのボーイだから、やはりいずれの行事にも保護者のバックアップが必要なのだ。
「たぶん・・・お昼前には帰るから、お風呂の用意をしておいてね!あの子、雨に濡れているから」と、妻は私にそんな言葉を残して静かな住宅街の中、けたたましいエンジン音を残して三国に行った(お前は・・・暴走族か?!)
「三国に行ったら・・・朝市で何か干物でも買って来て!出来れば・・・鯖の干物ね!」と、妻に頼んだ私だったが「朝市って・・・やってるの?」と、心細い返事の妻(おいおい!)。妻が出かけ・・・しばらくすると夜が明けてきた。睡魔に襲われていた私だったが、やはり次男が心配だったのか無理をして次男の顔を見るまでは・・・と、最近録画した韓国映画「恋する神父」(韓国の人気俳優、クウォン・サンウと可愛い女優ハ・ジウォンの面白い映画ですよ!)を見て時間を潰す事にしたのだった。
 しかし・・・やはり睡魔には勝てず・・・寝てしまった私は、7時半過ぎの妻から電話で起きたのだった。
「無事に着いたよ。写メール送ったから!」と、妻。その送られてきた写メールには笑顔でゴールした次男の姿あった。しかし、これも妻から後で聞いた話だが、三国のゴールで関係者は今か今かと心配になって団員たちを待っていた。そこに遠くから歩いてくる集団の姿があった。何と一番乗りは次男たちのグループだった。歓喜の保護者たちだが、そのグループが近づくにつれ声がなくなっていたと言う。それは、やはり徹夜での疲労が団員たちを襲い・・・もうすぐゴールだと言うのに全員には笑顔がなかったと言うのだ。
 

 それでも関係者や保護者はデジカメ携帯(写メール)をゴールする子どもたちに向けた。妻の次男に向けたのだが笑顔が無い。そこで妻は次男に「お父さんに頼まれているから、笑いなさい!」と、言ったらしい。作り笑いでポーズを取る次男だが「どうせまた、高須城日記で使うんでしょう。お父さんの事だから!」と、鋭いご推察の次男。そしてこの後順番に他のグループも元気?!にゴールしたのだった。

 12時前、再び妻からの電話。「今、武道館横の通り、後・・・10分ぐらいで家に着くから、お風呂沸いている?」と、妻。「うん・・・沸いているよ・・・少し温くなったけど!」と、私(お風呂の事を忘れていた!)。急ぎ風呂桶を洗い、お湯を貯めた私。
 風呂桶にお湯が半分くらいになった時、次男が帰宅してきた。
「お帰り!」「只今・・・疲れたよ、お父さん!」と、その顔からは生気が消えていた(大丈夫か?!)
「すぐ、お風呂に入りなさい!」「うん!」
 そのお風呂の後、次男はベッドで爆睡となっていた。余程疲れたのだろう大きな寝息を立てている次男。そんな次男の足を触った私は筋肉から来る熱を感じていた。「熱を出さなければいいのだが」そんな事を願いながらの夜だった。
 翌日18日、次男は・・・38度を超える熱を出していた(やっぱり!)「祝日でよかった!」と、妻は言うのだがこの熱は一日で治まるかどうか?!そんな次男を心配しながら新聞を開くと次男たちのオーバーナイトハイクの記事が掲載されていた。福井新聞だったのだが、記者も途中まで同行したのか、していないのか?!
《『夜通し歩き結束確認』・ボーイスカウト福井第2団》
 ボーイスカウト福井第2団のメンバーが16日夕から17日朝にかけて夜通しで歩く「オーバーナイトハイク」に挑んだ。雨の中、小学5年から中学2年の約20人が福井市から坂井市三国町までの長い距離を歩き抜いた。
 団員が気持ちを一つにして、目的を達成する喜びを知ってほしいと、20年以上前から行っている。小学5年から中学2年までのボーイ隊と中学2年のグリンバー隊は、福井市中央公園を午後5時に出発。幹線道を歩き、同市竹生町公民館や上郷小跡地前、本郷公民館前などを通り、三国温泉「ゆあぽ〜と」までの約42.5キロを歩いた。小学5年のカブ隊4人も同市更毛町集落センターからの約30キロを頑張って歩いた。ボーイ隊のF君(明道中学校2年)やS君(清水北小6年)は「足が張ってつらいけど、みんなで声を掛け合って歩きたい」と話していた。
 出発時、歌を歌いながら歩いていたメンバーも、足の疲れと眠気で次第に無口に。時折激しい雨で泣き言を言いながら歩く子どももいたが、足を引きずりながら翌朝8時過ぎにはゴールした。
 この記事と共に掲載してあった写真だが、夜に雨具を着用して清水畑付近を歩く次男たちが写っていた。次男たち小学生を真ん中に先頭と最後尾を中学生が歩いていた(いい写真だが・・・この時点で・・・すでに疲れた顔をしている!)
 今朝(19日)、やはりと言うか中々起きてこない次男だが・・・熱は38度弱で・・・学校は・・・休みとなった(ああ・・・なんのこっちゃ!)
 ところで、あの日三国に行くならと、妻に頼んだ干物だが、やっぱり手ぶらで帰宅した妻。「朝市なんて、やってなかったよ!」と妻。「あっ・・・そうなの!」と答えた私だが・・・「三国の鮮魚店を探して買って来い!」と、・・・・心の中、大声で叫んでいた(とても言えない!)


△男の酒のつまみ・・・168
 舞茸のバター焼き!
 新潟産天然舞茸を頂いた。近頃では大量生産が当たり前の舞茸が多いのだが、この舞茸は本当に希少な舞茸だ。
 鍋がいいかな?とも考えたのだが、舞茸本来の味を生かすため・・・何故かバター焼きにした私。フライパンに少量のバターを溶かし、舞茸を軽く炒める。塩・胡椒も少量。「美味しい!」今夜は・・・何故か・・・踊りたい気分に!


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【九月の七/忘れていたもの!】9月20日(水)

 涼しいのか・・・暑いのか・・・まだまだ夏とも秋とも言えない日々が続いている(もう秋だよ!)。半袖の人も長袖の人も市内を歩いている。9月も後わずか、もうすぐ10月だと言うのにまだ夏気分の私の一日が続いている。
 前回、ボーイスカウトオーバーナイトハイクで頑張った次男だが・・・あの日から本日まで発熱腹痛とで学校を休んでいる。
 朝、「今日は学校に行けるか?」と、次男の部屋に行くのだが、ベッドの中で元気の無い次男の姿がある。「まだ・・・下痢なのか?」「うん!」「じゃ、学校に行く前に病院に行こうか?」「うん!」こんな会話の朝だった。
「貴方、電話してね!・・・お願い」と、妻に頼まれ順化小学校に次男の事を電話した私。だが、やっぱり母校なのに学校に電話は緊張する私。病院から学校に行けない場合、再び連絡しなくてはならず、気の重い朝だった(簡単な事なのに!)
 次男を車に乗せ、近所の医者へ行く。「財布は持ったし、煙草はポケットだし・・・忘れ物は無いな!」と、私が呟くと「煙草は関係ないでしょ!」と、次男(うるさい!)
 だが・・・何か忘れているような・・・「あっ、保険証だ!」と、気がついた時には車はすでに病院前。ご近所で顔馴染みを口実に、後で保険証を持参する事で受付を終え、待合室のソファで次男と二人順番を待っていた。
 9時からの診察開始、今は8時50分。すでに8人ほどがこの待合室で名前を呼ばれる時を待っている。サラリーマン風の若い男性、失礼だが老婦人が7人だった。小学6年生になった次男、そんな次男を試すかのように一人で受付、症状などを自分で説明させた私だった。ソファに座り、受付で出された体温計を脇に挟んでいる次男。そんな次男だったが「僕以外はお年寄りばかりだね!」と、小声で言った(俺も年寄りか?!・・・失礼な!)。次男の体温は37度2分
 9時を過ぎると、受付順に内科・外科にと呼ばれて行く。
「藤田さ〜ん!」と、看護婦さん?!いや、看護士さんの声がした。私はそのままソファに、次男だけを診察室に行かせたのだった。勿論・・・禁煙の待合室。新聞でもと横に置いてある新聞を手にした時だった。「藤田さん・・・藤田君のお父さん・・・診察室にお入りください!」と、声がした。
「はい!」と、私。診察室に入ると深刻な表情の先生と緊張気味の次男がいた。すると「何か・・変なものでも食べましたか?」と、私に聞く先生。
 当然、あのオーバーナイトハイクからの疲労による発熱からの腹痛と考えていた私は「えっ?」と、無言の状態だった。机の上にあるカレンダーでボーイスカウトの行事を説明した次男だったのだが、一日ずれて説明していた次男。次男の説明だとオーバーナイトハイクに行く日には腹痛に襲われていた事になるのだ。
 私が改めて先生に説明すると「そうですか・・・でも、一応検査をしますから!」と、厳しい口調(ついでに、脳波の検査も!)
 次男と私は約20分の診察を終え、再び待合室のソファに座った。そして私は「お前、しっかりと先生に話さないといけないよ。自分の事なんだから!」と、次男に言った。すると、次男は「ごめんなさい!」と半泣き状態(別に泣かなくても!)。ここで何やら・・・視線を感じた私。診察を終えたお年寄り数人が・・・こちらを見ているのだ(いや・・・これは・・・躾です!)。こんな視線の中・・・薬を待つのだが、意外と時間がかかるその時間(早く薬を・・・!)
 15分後、ようやく「藤田さ〜ん」と、呼ぶ声で薬の説明と清算を終え、急ぎ足で病院を出た私と次男。車に乗り煙草に火を点けた私だが、またまた・・・何かを忘れたような気がしていた。そうだ医者に次男の学校への登校をどうするか、その事を聞き忘れたのだった。助手席の次男だが、ランドセルを背負ってはいるのだが・・・まだ、お腹を押さえている。「今日だけ・・・休むか?」と、聞くと「うん!」と、素早い返事。
 自宅に次男を連れて帰り、「おとなしく・・・寝ていなさい!」と、一言。私は仕事に戻ったのだった。配達が続きお昼近くになった時、「あっ!順化に電話しないと!」と、次男の学校に再び電話しなくてはならない事を思い出した私だった。携帯から・・・順化小学校へ(またまた、緊張!)。
「はい、おはようございます!順化小学校、石村です」と、爽やかな女性の声。そう、高須城小学校の石村校長先生の奥様だった。「あっ・・・6年生の藤田です!」と、私が話すと石村先生「どうですかお身体は?」と、昨日から休んでいる次男の症状を心配して下さっている(有難うございます!)。次男の医者での診察内容と学校を休ませる事を伝えると「お大事に!」と、本当に優しい石村先生だった。
「お茶かスポーツドリンクを飲ませて下さい」これが、医者からの私への注文だった。そんな次男にと近所のコンビニに立ち寄り、スポーツドリンクを少し多めに買った。
 レジにて清算待ちをしていると何か・・・右横の陳列棚に・・・変な物があるのだ。「ん・・・これは?!」と、頭の中を整理した私。「漫画の中の物が・・・目の前にある・・・何で?!」
 その私の視線の先には・・・《チョコビ》があるのだ。このチョコビなのだが、漫画クレヨンしんちゃんの中に出てくる主人公・野原しんのすけ大好物?なのだ。「へえ〜っ!マジで発売したんだ」と、意外にも感動してしまった私。べットで横になっている次男を喜ばせようと・・・このチョコビを買うことにいたのだった(おいおい!親バカ)
 自宅に帰り、次男の部屋に入るとベッドで横になりながら教科書を読んでいた次男。(少し感心!)そんな次男に袋から取り出したチョコビを自慢げに見せた私。「ほら、チョコビだよ!」その反応は?「あっ・・・それって・・・前からあったよ!」と、無反応な次男(買わなければよかった!)
 この次男の言葉に少し不機嫌になった私は「じゃ・・要らないね?」と、言うと「食べるよ!・・・有難う」と、次男。「お腹が治ったら・・・食べなさい」と、固い約束をしたのだが・・・多分、この約束は守られないだろう。

 次男の発熱&腹痛は、やはり親として心配してしまうものだ。小学校6年生といえども・・・まだまだ子供。ベッドで横になり少し苦しげに眠る姿を見ていると、やはり可哀想になってしまうものだ(早く・・・治せよ!)
 さて、本当に物忘れが激しくなってきている最近の私だが、春以来・・・高須町に関する事で・・・忘れ物があったような・・・なかったような、妙な気分でここ何ヶ月を過ごしていたのだ。勿論、重要な事でもないはずで・・・だから、逆にモヤモヤとした気分だったのだ。「植木御大から頼まれた高須山からの動画は撮影したし・・・げんき米の事でもないし!」と、その忘れている事を思い出せない自分を腹立たしく思っていたのだった。
 しかし、変な所からその内容を思い出す事となったのだった。数日前の早朝、ゴミ出しに自宅を出た時だった。近所のご主人が家庭菜園に水をやっていた。「お早うございます!」と、私。「おはよう!」と、そのご主人。「今日は何の日だった?」と、聞かれ「はい・・・もやせないゴミです!」答えた私。
 このご主人だが以前、県庁の管理職だった方で今は定年を期に好きな花や野菜を庭で育てているのだった。ゴミ捨てに向かいながら私は「県庁?・・・ん?・・・高須町?」と、頭の中で忘れていたものを紐解いていた。その時は突然に来た。「あっ!グラフふくいだ!」
 春、高須町での田植えの時の事。多くの取材が来ていたのだったが、新聞社・放送局に混じって県の広報誌である「グラフふくい」の担当者の方が来ていたのだった。新聞社の記事は新聞で・・・放送局は、テレビでとそれぞれ高須町の田植え風景を楽しんでいたのだったが、失礼のもこの《グラフふくい》の事をすっかり忘れていたのだった。人は勝手なもので・・・思い出したら思い出したで・・・そのグラフふくいを見たくなる。ただ、県の広報誌グラフふくいはコンビニに売っているわけでもなく公民館や病院などの公共施設に置かれてあると聞いたことがあった。それに5月に高須町で取材したものだから・・・おそらく6月号あたりに掲載されたと思われる(今はもう9月の終わりだ!)
 そこで、ゴミ出しの帰りに水やりをする先程のご主人にこのグラフふくいの事を聞いてみたのだった。すると「あっ、そう言えば高須町の田植えの事が載っていたね!確か、6月号か7月号だったかな?」と、ご存知の様子。一冊都合つけて頂けるかと聞いてみた私。「いいですよ!広報課に知り合いがいるから頼んでみるよ!」と、ご返事を頂いたのだった。
 そして昨日の事、そのご主人から私に《グラフふくい・6月号》が届いたのだった。しかも、掲載されていた高須町のページの部分を別に3枚カラーコピーまでしていただいたのだった(有難うございます!)
《グラフふくい》県政リポート『エコ・グリーンツーリズムで福井の魅力を満喫』
 都市圏に住む団塊の世代を中心に、スローライフを求めて、田舎暮らしを希望する人が増えています。県では、そうした方々に福井を訪れてもらうため、エコ・グリーンツーリズムを推進。体験メニューの整備や農家民宿の開設などを支援しています。
○リポート1
 福井ならではの自然、文化、人とふれあう体験メニューづくり。
 観光地を駆け足でめぐる旅行とは異なり、農山村にゆっくりと滞在し、自然や田舎の暮らしを体感する旅行へのニーズ が高まっています。これを受け、県では福井ならではの海・山・里の自然を活かし、様々な自然体験や交流の機会を提供 する「福井型エコ・グリーンツーリズム」の取り組みを推進中。県内各地で体験メニューづくりや拠点施設の整備などが進められています。
 そんな取り組みの一つに、オーナー農園があります。福井市高須町では、5年前から集落の棚田でオーナー制度を実施。毎年、全国から集まったオーナーたちが、季節ごとの稲作体験を楽しんでいます。5月14日には、地元農家の指導のもと、今年の田植え体験が行われました。高須城山棚田オーナー委員会の代表・植木正義さんは、「毎年来てくれる方も増え、地元住民との間に家族のような交流が生まれています。地域全体がにぎやかになりました」と笑顔。エコ・グリーンツーリズムは、地域の活性化にもつながっています。(終)
 いいですねえ・・・!さすが福井県の伝統ある広報誌。同じページに掲載されている西川福井県知事のコメントも紹介します。
「都会では、田舎暮らしや自然体験を楽しむエコ・グリーンツーリズムの人気が高まっています。私も時間を見つけては家庭菜園を楽しんでいます。確かに、自然の中で土に触れると心が安らぎ、リフレッシュできます。こうした体験を求める風潮は、海・山・里の自然やおいしい食べ物に恵まれた本県にとって、都会の人を呼び込む絶好の機会と言えるでしょう。県では、エコ・グリーンツーリズムに取り組む地域の方々を応援しています。皆さんの積極的な取り組みをお願いします。」
 さて、春以来ですが忘れていた事もどうにか思い出すことが出来て、少し晴々とした気分の私。でも、また同じように忘れる事が増えて行くのでしょうね!これからは(歳かな!)


△男の酒のつまみ・・・169
 鳥野菜鍋!
 夜になると少し涼しい秋模様。そこで「まだ鍋は暑いよ!」との妻の文句を無視しながら、久しぶりの鳥野菜鍋を作った。材料はある物で・・・鶏肉長葱しらたき白菜舞茸だ。鍋に水をはり・・・昆布を1枚。水の時から鶏肉を入れだしを出す。味付けはスーパーで売られている鳥野菜用味噌。私は、この具の中におでんに用いる牛すじも入れる。最後はうどんで締める。


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【九月の八/川島アナは、コシヒカリのルーツのお勉強!】9月21日(木)

 早いもので九月も後わずかとなり、いよいよ高須町の棚田での今年の「げんき米」収穫の時が近づいてきた。今年のげんき米のお味はどうだろう?と、楽しみな私だが、何故か最近少し体重が増加傾向となっている(食べすぎだよ!)
 読書の秋・スポーツの秋・・・そして、食欲の秋と言うけれどまさしく夏過ぎから食べ物全てが美味しく感じられ、食欲が大いにあり過ぎる毎日となっている(気を付けねば!中年太りは戻らないから・・・・ね!)
 そんなこんなで、食べて増えたものは・・・スポーツで減らしたいと、早朝のジョギングの距離を5キロほど長くしたのは5日前のこと。自宅から足羽川堤防・・・足羽山・・・運動公園・・・足羽川堤防と軽めのジョギングコースだ(軽めでは無い!)
 つまり、今までのコースに足羽山でのアップダウンを追加した私だが、これがまた足に効くのだ。ゆっくりと愛宕坂付近から登り、自然史博物館横、動物園前、そしてあの陥没があった西墓地横を下り、運動公園へと走るのだ(マジ・・・しんどい!)。正式に計測したわけではないのだが、おそらく全10キロジョギングコースだろう。足羽山を登り切った頃には汗が噴出し、それでも心地良い秋風が火照った身体を癒してくれる(気持ちいいですよ!)
 足羽山を下り、TUTAYAのある交差点を左折しみどり図書館横を通り運動公園の外周2周する。この運動公園外周にはジョギングする人、犬を連れて散歩する人、そしてマラソン大会に参加するのか・・・それらしい人が朝のひと時をそれぞれ楽しんでいる。ただ、足羽川堤防での顔馴染みの皆さんとは違い、誰も声をかける事は無く、無言で黙々と走っているのだ(皆さん・・・真剣です!)
 自分の今のレベルに合わせてジョギングしているつもりの私だが、それでも呼吸は速くなっている。「今日は1周だけにしようかな?」と、いつも1周目を周回している時に思い悩むのだが・・・ついついスタート・ゴール地点の運動公園正面に辿り着くと、また1歩を踏み出す私。
 そんなこの運動公園で、昨日は次男たちの福井市小学校連合体育大会陸上競技場で行われた。前日まで発熱&腹痛でベッドの中だった次男も、当日の早朝(6時過ぎ)のクラスメイトからの電話で・・・・体操服に着替えお弁当&水筒を持ち、元気に登校して行った。
「無理するなよ!」と、私の言葉にも「大丈夫!たぶん50メートル走だけだから!」と、意外にも余裕の表情の次男。
 そんな次男に「高須城小学校の光くんや岬ちゃんに逢えたらいいね!それに石村校長先生にお会いしたら、ちゃんと挨拶するんだよ!」と、次男に伝えた私(広い会場だから、会えるかどうか?)
 8時過ぎ、「県立病院まで乗せて行って!」と母に頼まれた私はさくら通りを東に向うと、途中で次男たちを乗せた大型バスとすれ違った。「そうか、運動公園だからバスでの移動か?」と、何か違和感の私。
 私たちの時(小・中)は運動公園ではなく・・・幾久の競技場だった。つまり、今の福井県立歴史博物館(大宮2)の場所で行われていたのだ。当然、近くということもあり・・・当時は順化小学校明道中学校時代も全員が徒歩での移動だったと記憶している。
「懐かしいなあ・・・」なんて考えながら朝の渋滞に車は進まず、自宅から県立病院まで片道20分もかかってしまった(少しイライラ!)。毎日こんな渋滞に巻き込まれてマイカー通勤する人は大変なはず、何とかならないものか!
 夕方、次男が下校してきたのだが結局、高須城小学校のみんなには会えなかったらしく・・・・50メートル走も2位だったとか(まあ・・・病み上がりだからね!)
 さて、昨日水曜日の夕方と言えば何週間ぶりの「げんき米プロジェクト・高須城ものがたりが放送された。しかし、この日の朝からテレビ欄で放送を知っていたのに、番組を見逃してしまった私。その理由は、仕事ではなく・・・女子高校生とコンビニでお買い物に夢中で・・・完璧に忘れていた私(だって・・・!)。気が付いた時にはすでに終了していて、携帯電話でこの番組のファンだという友人に連絡を取り、録画してあったテープを借りる事になったのだ(初めて見逃した!ごめんね・・・川島アナ)
 今回で13話目の高須城ものがたり〜コシヒカリは奇跡の米?!の巻〜だった。
 川島アナはいつもの高須町?・・・ではなく、この日訪れたのは何と・・・福井県農業試験場だった。福井でコシヒカリが誕生して今年で記念すべき50年を迎えるのだが、そんな記念の年に川島アナはコシヒカリの誕生秘話を探ろうと、コシヒカリの聖地!この県の農業試験場にやって来たのだった。さっそく場長の堀内久満氏と場内にある田んぼ脇を歩く川島アナ。
 まずその堀内氏からコシヒカリの家系図を見せてもらった川島アナ、「母親が農林22号、父親が農林1号でそこに生まれてきたのがコシヒカリ!お父さんとお母さんの良い所をとって出来てきたのが美味しいコシヒカリ!」と、勉強した。ただ、当時の農業試験場の皆さんは何度も何度も試行錯誤を繰り返し・・・色んな品種を改良して育てたのだった。そんな事を「育種(いくしゅ)」と言うのだ。「福井は、夏は暑く・・・地下水が豊富な所、そんな事から非常に根ぐされがおきやすかった。そこに生まれたコシヒカリは、その福井の気候風土にあっていて、根ぐされが起きないものだった」と、堀内氏。コシヒカリの生みの親として知られる故・石墨慶一郎博士の事なども勉強した川島アナ。※【六月の六/「げんき米」がお江戸に参上!】内のコシヒカリの説明と重複するため控えさせて頂きます。)
「一つの品種は10年ぐらい!」と、堀内場長の話だが全国に人気のコシヒカリはすでに50年もの人気ブランドとなっている。ハナエチゼンイクヒカリもそんなコシヒカリと同じようになって欲しい!と話しておられた。
 しかし、農業試験場では米の品種改良はまだまだ続いてる。「コシヒカリを超える品種を出す事が夢!」と、研究員は話す(大変なお仕事ですが・・・頑張って下さい!)
 私たちが毎日食べているお米、そのお米が世に出るまでには多くの人の苦労が影にはあったのです。
 今回、高須町から離れコシヒカリなどの勉強をした川島アナだったが、益々お米作りに熱が入りそうですね!
 今度の日曜日には、いよいよ高須町の棚田稲刈りが予定されている。「げんき米」の豊作を願う私だが・・・今年は・・・いい感じの予感がする!(楽しみですね!)


△男の酒のつまみ・・・170
 韓国風ナムル!
 スーパーで韓国フェアをやっていた。当然キムチ韓国海苔、それに韓国麺などが大半を占めていた。
 ふと見ると私の大好きなナムルが直売されていた。「新鮮なうちにどうぞ!」と、美人の売り子さんに勧められ・・・当然、購入した私。
 大豆もやし&ぜんまい&ほうれん草&大根の四品。お酒のつまみには最高です。カムサムハムニダ!


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【九月の九/豊作の唄・棚田は黄金色!】9月24日(日)

 高須町の棚田オーナーに参加して三年目の収穫の朝が来た。昨年は小雨の中での稲刈りだったが・・・窓の外は、どうやらその雨の心配は無さそうな秋晴れの一日となりそうだ。昨年の稲刈りにはボーイスカウトの行事で不参加だった次男(小6)もこの日は早朝より起床となり、「よし!」と、何故か気合を入れている(珍しい!)
 少し早いのだが7時には次男を乗せ、家を出た私。棚田オーナーの皆さんへの配布物のコピーにと武道館近くのコンビニに寄った。いつもなら人がさほどいないはずの時間帯のはずだが、この日は女子高生か・・・女子大生だろうか10人ほどのジャージ姿のうら若き乙女のグループがこのコンビニで買い物をしていた。おそらく武道館で何か大会でもあるのか?(今日は何か・・・いい感じ!)
 私がコピーをしている間、次男は買い物カゴを持ち色々と陳列棚の間を行ったり来たり(何を買おうと言うのだ?!)。結局・・・ペットボトルのお茶(私)「午後の紅茶」(次男)を買っただけでコンビニを後にした二人。高須町を目指して車を走らせた。
「お父さん、いつもの道(ゴルフ場横)って・・・まだ、通れないの?」と、助手席の次男が美味しそうに「午後の紅茶」を飲みながら私に話しかけてきた。「うん・・・まだだよ!」と、私が答えると「じゃ・・・どの道から行くの?」と再び次男。「今日は・・・近道するよ」と、私が言うと助手席の次男は身を乗り出して辺りを伺っている。(高須町までの近道は【十月の一】で、お知らせします!)
 8時前、私の車は高須町に入った。佐々木さんのお宅の前で車を止めると、丁度佐々木さんは軽トラに草刈機を積んで棚田に向うところだった。「おはよう!」「早いの!」そんな簡単な挨拶を済ませ二台の車は棚田へと坂を登って行く。
 棚田にはまだオーナーの皆さんの姿も無く、佐々木さんや地元の皆さんが棚田周辺の草刈を始めていた。「キイーン・キイーン」と、草刈機の音が棚田に響く。オーナーの皆さんが田んぼに入りやすいようにと、地元の皆さんの優しい気遣いなのだ(いつもすみません!)
 次男は助手席で携帯ゲーム機と格闘していた。私は車から降り棚田へと歩いた。川島秀成アナウンサーFBC「げんき米」の看板横からあぜ道を下り自分の田んぼに行く。黄金色に実のついた穂は大きく首を垂れている。途中に数箇所だが集団で稲が倒れているのだが・・・しっかりと実は付いている(今年は・・・豊作だ!)

 私はデジカメを取り出し記念の1枚を収めた。ふと空を見上げると秋空高須山が美しい景色となって私の目を癒してくれていた。そして、福井平野も九頭竜川も・・・遠くの勝山・大野方面の山々も視界に捕らえられる。すみきった本当に綺麗な景色がここ高須山中腹から望むことができる。「田中先生・・・残念だろうな!」と、本日所要でここに来ることが出来ない田中先生を思った私。田中先生なら「うわっ、最高の景色です!」と、デジカメ片手に飛び回っていたはず(たぶん!)

 再び車に戻った私は次男と「戦の前の・・・腹ごしらえ!」となった。朝、妻が作ってくれた高須産コシヒカリおにぎり(中身は・・・タラコ!)「しっかりと食べておけよ!」と私が言うと「うん!」と、まだあのボーイスカウトでのオーバーナイトハイク以来、少し元気のない次男。それでもおにぎり2個を食べ水筒の冷たい麦茶で喉を潤した次男。
 そんな時、正面から川島アナの車が駐車場に入ってきた。川島アナは私の車の横に駐車すると・・・・衣装替えとなっていた(すっかりお馴染みになったね・・・川島アナ!)
 8時30分を過ぎると、オーナーの皆さんも続々と棚田横の坂道を車で登って来られていた。地元の皆さんもテントを張り、受付の準備が整った。私はコンビニでコピーした配布物と以前に福井県環境課から頂いた《みんなのかんきょう》それぞれ50部を受付に置き、オーナーの皆さんにお配りして頂くように受付担当地元の奥様にお願いした。
 福井市農政企画課の皆さんも県農水部の皆さんも受付付近にて既に顔馴染みになっているオーナーの皆さんと笑顔で挨拶を交わしている。そして、駐車場前には地元のインストラクターおばあちゃん達も腰を下ろしてこの日の作戦会議?を始めている。
 私が受付近くにてデジカメを構えていると、一人のオーナー(奥様)がその《みんなのかんきょう》を手にして「このみんなのかんきょうを北海道の親戚に送ったんです!」そして「私・・・これを読んで環境会員になったんですよ!」と、笑顔で話しておられた(有難うございます!)
 こんな話で談笑していた私は、ふと棚田の方を見るとFBC棚田中央あたりになにやら稲穂の中に大きな布(きれ)が浮かんでいる。「なんだろう?!」と近づいた私だが・・・
 FBCカメラマンもその布を撮影している。するとその時、「みなさ〜ん!」川島アナが田んぼの中から登場した。これはおそらく《げんき米プロジェクト・高須城ものがたりのオープニング用の撮影なのか、川島アナは数回この田んぼの中に出没?!していた(大変ですね!)

 9時になると、いよいよ棚田オーナーや関係者の皆さんも揃い、この日の開会式が始まった。もう、すっかりお馴染みとなった市農政企画課藤田さん(美人ですよ!)の司会で稲刈りの段取り・・・そして植木御大・・・ではなく、この日は地元の田渕さんの挨拶・・・そして、県農水部杉本さんパネルを使い、刈取りから乾燥・脱穀などの今と昔の違いをわかり易く説明してくれたのだ(このパネル、頂きました!次男の順化小学校で社会の時間《日本の農業・5年》で使用させて頂きます!)「大きな乾燥機とは違いオーナーの皆さんは、はさ掛けによる太陽による自然乾燥ですから、お米は大変美味しいですよ!」と、杉本さん。そんな杉本さんの言葉にオーナーの皆さんは笑顔で頷いていた。
  

 さあ、オーナーの皆さんの手には、いよいよ今年の高須産コシヒカリ「げんき米」稲刈りが始まった。お年寄りから子どもの参加者総勢120人の稲刈りだ。どこからか「今年は豊作だ!」と早くも声が上がった。私も次男も自分の田んぼの中に足を入れたのだが、改めてそのたわわに実った重たい稲穂を見ると過去2年間で一番の良さのような気がする。「さあ・・・始めるぞ!」と、次男に声をかけると「もう・・・刈ってるよ!」と次男。
 いつもなら私の田んぼには佐々木さんが応援のはずだが、この日佐々木さんは他のオーナーの田んぼに助っ人となっていた。それでも「藤田さん・・・ゆっくりとやってての!」と言って終わり次第駆けつけるからと佐々木さん。隣の川島アナの田んぼは広く、おそらく午後に入るまで終わらないはず。「のんびり・・・やるか!」と、鎌を握った。それでも稲刈りを始めると、ついついペースが速くなる私。10分も過ぎると額から汗が流れてきた。お隣の田んぼのご主人から「速いですね!ベテランだ!」と、声をかけられると、益々・・・そのペースは加速する私(お調子者ですから!)

 秋空からは少しだが暑い日差しが棚田に降り注いでいる。白い雲も緩やかに流れていく。稲を数株刈り、それをクロスさせ藁で括る。はさ掛けのためにしっかりとその藁で結ばなくてはならない。次男の方を見ると・・・刈るだけで結んでいない。「おい!・・・その藁で括れよ!」と、言うと「後で・・・まとめて!」と、言う次男(こいつ、藁で結ぶのが苦手なんだな!)
 棚田の上の方から賑やかな子どもの笑い声が聞こえてくる。少し稲刈りに飽きたのか数人の子どもたちがあぜ道を走っている(長閑な光景だ)
 田んぼの端と端から私と次男が稲を刈っていく。そう30分ほど過ぎた頃だったか次男の進み具合を見ようと顔を上げた私だったが・・・次男の姿が・・・ない(逃げたか!)
 受付テント辺りを歩いている次男・・・車にお茶を取りに行ったのだった(ナイス!お父さんも喉が渇いていたんだ!)
 田んぼの約三分の一が終わった頃、「ご苦労様です!」と、遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。田中先生だった。
「先生・・・今、何時?」「はい、10時半過ぎです!」そんな会話の後・・・田中先生は棚田のあちらこちらとデジカメを片手に飛び回っていたのだった(やっぱりね!)
 私のポロシャツは既に汗で濡れ、半袖で稲刈りを行っているためか腕が稲穂にすれて少し痒くなっていた。次男は靴を脱ぎ泥だらけの裸足で鎌を振っている(まだ藁で束ねていない!)
 私の横の田んぼのご夫婦だが、仲良くマイペースで稲刈りを楽しんでいた。私は「どちらからですか?」と、お聞きした。「市内の文京です!」と、ご主人。その後少し雑談したのだが・・・何と・・・私の先輩(明道中学校)だったのだ。
 撮影を終えた田中先生を紹介すると、今度はその奥様が田中先生を見て不思議そうな顔。(以前・・・何かの会合で同席だったらしいのだ!不思議なご縁ですね)
 11時を過ぎる頃になると「終わった!」と、あちらこちらで声が聞こえてきた。そして、長い縄で束ねた株を再び縛り肩に乗せ、あぜ道を歩いて行くオーナーの皆さんの姿が見られる。これからはその刈り取った物を地元のトラックに乗せはさ掛けの場所に移動するのだ。どのオーナーの皆さんも汗をかきながら笑顔であぜ道を往復している。この頃、私の田んぼは・・・まだ半分が残っていた(おいおい!)
 

 太もも・・ふくらはぎ・・・腰、と筋肉が少しの悲鳴!あぜ道に上がり少し休憩と煙草を咥えた。隣の川島アナの田んぼも・・・まだまだ・・・残っていた(のんびりやろう川島アナ!)
 タオルで汗を拭い再び鎌を手にした私。ふと気が付くと地元のおばちゃんが私の田んぼの中で手伝いをして下さっていた。「すいません!・・有難うございます」と、声をかけると「・・・・・・」恥ずかしそうに頷くおばちゃん。次には田中先生デジカメからに変えて応援してくれた。
「藤田さん、ここの株は良い株ですね!」と、良質なげんき米を誉めてくれる(疲れていて・・・分からない!)
 そんな時「高久さん・・・豊作の唄をお願いします!」と、川島アナの声がした。何度かこの高須の棚田に響いた地元・高久さんの美声・・・・その高久さんの歌声が秋風に乗り棚田に響くと・・・オーナーの皆さんも鎌を持つ手を暫し止め、その唄声に耳を傾けていた。

 筋肉痛も・・・限界に来ていた私。あれほど速いペースで刈り取っていた前半だったが・・・完全にスローダウン状態。そんな時、年末のしめ縄作りの先生の畑さん「藤田さん、遅いの・・・どうしたんやの・・・ベテランが!」と、笑いながら私の田んぼに助っ人に!そしてこの後、数人の地元の奥様達が田んぼに入ると・・・あれよあれよという間に稲穂も残りわずかとなっていった(さすがプロの技!速い!)

 ここで私の田んぼの3倍の面積があるお隣の川島アナの田んぼを見ると・・・・すでに終わっていた(嘘!)
「何で・・・何で・・速いの!?」と疑問に思った私だったが・・・「川島アナ若いから!」との答えで納得したのだった(あの高久さんの唄の前後に・・・機械の音が聞こえたような・・・聞こえなかったような!?まあ・・・いいか!)
 12時過ぎ、皆さんの応援の中でようやく私の田んぼには刈られた株だけが残った。「終わった!」と、噴出す汗を心地良く感じた私。

 この後、畑さん田中先生が藁で束ね私と次男が稲穂を肩に背負いあぜ道を往復した。
 田渕さんの軽トラではさ掛け場所へ移動した私たちは、田渕さんの軽快な手つきに見とれながら次から次へと手渡しで株を渡していく。こんな時「あっ・・・解けた」と次男の声。「これ・・・僕のだ!」と、自分の束ね方が緩いのを反省する次男(いい経験だ!)
 この頃になると昨年も見られたように棚田の道は帰路に付くオーナーの車やはさ掛けの軽トラで・・・通行止め状態となっていた。だけど誰も文句は言わず・・・黙ってその作業を見ている。私のはさ掛けが終わる頃、川島アナの軽トラが近づいてきた。地元の皆さん、そして私も次男も少しお手伝いとなった。
 高須山中腹はさ掛け場所、何箇所もあるそのはさ掛け場所には順番に黄金色の稲穂が干されていく。「晴れが続くといいね!」と、どこかでオーナーの声がした。籾摺り・脱穀までの日々・・・その天候状態によりお米の味が違うと言う。
「今年のお米は・・・最高やわ!」と、多くの地元の皆さんが話している。そんな最高のお米が棚田で育ったのだからこのはさ掛け期間も太陽の恵みが降り注いで欲しいものだ。
 午後3時前、次男と私は帰路の車の中にいた。助手席には疲れて眠る次男の顔。足も腕も泥が付いている。その次男の横には朝用意した冷たいお茶が入った水筒が2本。しかし、水筒の中は・・・・空だった。「帰って・・・冷たいビールが飲みたい!」そんな事を考えながら高須町を後にした私だった。皆様、お疲れ様でした。


△男の酒のつまみ・・・171
 茄子味噌田楽!
「これ、持っていきねの!」と、佐々木さんのお宅で新鮮な茄子を頂いた。その茄子を軽く水洗いし、半分に切る。次に表面に飾り包丁をそれぞれ斜めに交差する。油で素揚げにするのだが箸がすっと通るくらいが頃合。味噌は市販でも良いが「白味噌」がお勧め。味噌少量の水味醂砂糖は味をみながら入れる。細火で混ぜながら味を整えていく。時間があれば、茄子を焼くのもお勧めですよ!


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【九月の十/川島アナ、二年目の収穫は?】9月27日(水)

 日曜日の高須町での収穫から三日目、どうにか稲刈り作業の筋肉痛も和らいできた。歳だと言うのか、どうしても慣れない姿勢での作業の場合、翌日や翌々日には身体の節々が悲鳴を上げている私である(情けない!)
 毎年、この秋の稲刈り作業の後に思うことなのだが、昔の農家の皆さんはご苦労なさったことだろう。農業機械が無い時代、春の田おこし田植えから、秋の稲刈りと一つ一つを手作業で行ってきた(想像しただけで・・・頭が下がります!)農業近代化に伴い、様々な農機具が開発され販売されてきたのだが、高価なその農業機械も農家の皆さんの身体の負担を考慮すれば・・・安いと判断せざるをえない。
 高須町のような棚田がメイン小規模な田んぼが続く農地では、その機械を持ちえない箇所も多いわけで、やはり人の手による昔ながらの農業が、私たちに「これが農業だ!」と、思い起こさせてくれるのだ(本当に、勉強になります!)
 さて、その高須町での日曜日だが、はさ掛け作業が終った後、現場に落ちていた稲穂を1本持ち帰った次男(小6)。  その稲穂を私の両親に見せ、その後には何故か豊作の報告なのかお仏壇にお供えをしたのだ。両手を合わせ「今年もお陰様で高須町のげんき米は豊作でした。有難うございました」と、呟く次男には・・・・少し精神面の成長が見ることができた(来年からは・・・中学生だもの!)
 26日付けの新聞だったか、天皇陛下皇居内(生物学御研究所)田んぼにてお稲刈り(2日間)をなさったようで、その記事とお写真が掲載されていた。天皇陛下も春のお田植え(5月16日・17日)からこの秋のお稲刈りまでと、毎年の慣例行事として手作業でなさっているようで、やはりお米作りが「日本人の歴史(心)」だと言うことが、この事からも伺える。
 水曜日・・・・と言えば・・・・FBC「げんき米プロジェクト・高須城ものがたりが夕方、放送された。先週は見逃してしまい、少し反省した私だったが本日は準備万端でのテレビの前でその放送を見たのだ。今回の放送は、先日行われた稲刈りの模様が映し出されていた。第14話《〜女神様は川島アナがお好き?!の巻〜》です。
「問題です」と、始まった(今期・・2回目!)今回の冒頭だが、げんき米田んぼの中に隠れていた川島アナ・・・「みなさ〜ん、・・・こんなに黄金色になりました!」と両手を広げて登場した(ちゃめっけ・・・たっぷり!)
「戌年は豊作の年!」と、昔から農家では語り継がれているそうで・・・・げんき米田んぼも、たわわにその稲穂がこうべを垂れていた。春から色々とお世話になった地元・高須町の皆さんとその収穫(刈取り)の時を迎えることになった川島アナ・・・気合充分な本日。
「さあ・・いくぞ!」と、鎌を持つのだが、地元の皆さんの稲刈り作業の・・・速いこと。あっと言う間にザクザクと先に進んでいる。しかし、その前に心配な事がある川島アナ、それは今年のお米の出来だった。「今年はどうですか?」と、智恵子さんに聞くと「いけぇ粒やのぅ〜!」と、太鼓判を押された。
「どうして、こんなに良い出来なのか?」と、少し嬉しくなった川島アナ、地元の皆さんに聞いてみた。「普段の行いが良いからですかね?」と、川島アナが言うと「川島さん・・・毎日、田んぼを見に来るから!」と、その真剣さが神様に通じたと地元インストラクター。そして「田んぼは女の神様です!」との話を聞いた川島アナ・・・すかさず「じゃ・・・その神様は僕の事を好きになったんじゃないですかね!」と、大胆発言。そして「その女神様って・・・美人なんですかね?」と、質問したのだが「お化けみたいな顔してる!」と、唄の上手な高久さん(ここの田んぼは毎年、楽しそうです!)
 ここまでインタビューもあり、手よりも口を動かしている川島アナだったが・・・どうやら久しぶりの作業で、刈り取った稲株を束ねるやり方を・・・忘れてしまったみたい。そこで、地元の皆さんにご指導願うと・・・すこしずつ思い出してきた(難しいですからね!)。
 ここで助っ人・・・登場!地元高須城小学校6年高山光くんだ。マイ鎌を持参してげんき米田んぼにやってきた光くんだが・・・どうやら・・・農作業は・・・少し苦手!
 そこで、光くんも地元のお年寄りたちから稲刈りのコツを伝授されることになった(これって・・・大切な事です!)

 大先輩から作業を教えてもらう光くん・・・教える方も真剣なら。当然、教えて頂いている光くんも・・・真剣だ。要領を覚えると、さすがに呑み込みが速いDNA(高須産)を持つ光くん・・・次から次へと稲を刈り・・・束ねて行く。
 稲刈りも残りわずかとなった時、川島アナ高久さんへの唄のお願いとなった。唄は何故か「♪矢切の渡し」だった。 この時・・・画面にはデジカメを持つ田中先生が映っていた。そして隣の田んぼでは・・・私が映っていたのだが・・・とても疲れた表情で・・・恥ずかしい!
 稲刈りを終了した川島アナ、刈り取った稲を纏めていると、「私たちの田んぼより・・・良い米やわ!」と、満点の評価地元の皆さんから頂いて・・・またまた嬉しそう。
 この後、はさ掛け作業を終えこの日の全工程を終了したのだった。再び、げんき米田んぼあぜ道に腰を下ろした、川島アナと地元の皆さん、そして光くん「お疲れ様でした!」の後、全員で万歳三唱となりました。
 さあ・・・この日から高須町の棚田のあちらこちらのはさ場では太陽の恵みを受けて、乾燥していく黄金色の稲穂がとても綺麗な光景となっている。

 天気予報も来月8日(脱穀・もみすり)までは昨年と比較しても良いお天気が続きそうで・・・これは今年の「げんき米」は期待出来そうですね!


△男の酒のつまみ・・・172
 甘えびのイタリア風カルパッチョ!
 新鮮な甘エビ(三国港産直)と、越前みずなを使い簡単カルパッチョ?!を作る。甘エビは頭の部分を取り、尾の部分も綺麗に取る。少し大きなお皿に甘エビをランダムに置き・・・上には刻んだ越前みずなを乗せる。冷蔵庫で冷やし食卓に運んでからイタリアンドレッシングをかけ出来上がり!(これは・・・ボーノ!)


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【九月の十一/戦後生まれの総理大臣!】9月28日(木)

 朝夕、秋を感じさせてくれる爽やかな、そして少し涼しい風が福井の町を包んでくれている。足羽川では護岸工事現場への車の出入りが多いため、ゆっくりと見ることは出来ないのだが、ススキがその秋風に気持ちよさそうに揺れている。
 穏やかな秋の日が続き、高須町では刈り取った稲穂はさ場でのんびりと日光浴と洒落込んでいるようだ。高須山の中腹に位置する高須町、そんな高須町だが同じ福井市なのに朝夕では「涼しいね!」と言う言葉よりも「冷え込んで来たね!」が、田んぼや畑に向う地元の皆さんの今の挨拶となっている。
 高須山から見る景色・・・もうすぐ美しい紅葉の色ずく季節となる。市内中心部で車の渋滞や人混みを見慣れている私には、そんな高須町ののんびりとした・・・穏やかな風が吹く、この季節が一番心を癒してくれる。
 先月、田中先生と高須山からの景色を動画で撮影するため老体に鞭を打ちながら登った登山道でも、その時・・・その場でしか見ることができない美しい景色が私たち二人を癒し楽しませてくれた。
 あれは何年前の秋の事だったか、高須町に入った高須城小学校前四つ辻に立っていたことがあった。車を佐々木さんのお宅の前に止め、その四つ辻に立ち時計を見た。回りには誰もいない。煙草を何本吸っただろう・・・私がその場所に立って約一時間・・・ようやく棚田方面から一台の車が降りてきたのだ(それまで・・・誰にも会わず!)
「ここって・・・人が住んでいるの?!」と、言いたくなるような高須町の一日。そんな高須町がいつの間にか大好きになっていた私。清んだ空気・・・爽やかな匂い・・・そして、何よりも、人の優しさがこの高須町にはある。「美しい日本!」少しタイムスリップしたような昭和の匂いがまだこの高須町にはあるのだ(最高です・・・高須町は!)
 さて、今週初めから何かとざわついていた永田町周辺も26日(火)に、衆参両院本会議で安倍晋三(52)自民党総裁が第九十代五十七人目首相に選出された。当然の事ながら初めての戦後生まれ若き首相の誕生となった。
「末は博士か大臣か?!」と、その土地土地の神童の行く末を楽しみにしていた・・・こんな言葉。市会議員・県会議員と、地道に足場を固めながら国会議員となった政治家は昔の姿?!議員秘書から国会の場といきなり公の人となる事は珍しくない世の中となっている。しかし、医者の子は医者!政治家の子は政治家!など「蛙の子は蛙!」と言う、祖父や父の地盤をそのまま受け継ぐ世襲(2代〜3代)政治家が益々増えてきているこの日本は・・・このままでよいのだろうか?!与党自民党では約100名が世襲議員で衆議院全体では約3割近くが世襲議員となっている。
「志(こころざし)」を持ち、中央政界を目指す若者は減りつつある、また政治離れと言う全く政治等に無関心な若者が多くいる。「今の日本は平和過ぎる!」と、変な意味ではないが戦争を経験している方はそんな言葉を口にする。
 口の悪い野党議員は新総理を「温室育ちのおぼっちゃま!」などと、皮肉を言っているようだが、小泉前総理の進めてきた構造改革路線を継承するであろう新総理の爽やか路線に対して、何を打ち出して来るのか見ものである。
 戦後生まれの若い総理として、これからの数々の難題をどう打破していくのか、楽しみに見守りたいのだが、今の日本にはそんな時間が本当にあるのだろうか(あるある!)
 憲法改正・教育基本法改正・拉致問題・経済問題・アジア外交・靖国問題・少子化&高齢化問題・皇室問題・年金問題と、この他にも指折数えれば足の指を借りても足りないほどだ(足りないね!)
 安倍新総理を補佐する各大臣や5人の首相補佐官には各々の部署にて最大の勉強&努力それにアクションを期待したい。
 そうそう、その補佐官の一人になられた山谷えりこさんだが・・・・自慢するわけではないのだが・・・順化小&明道中私の先輩となるのだ(凄い・・・自慢!)
 この山谷先輩は東京のご出身で幼い時、お父さんのお仕事(FBC)の関係で福井に来られたのだ。私たちの年代なら聞いた事がある名前・・・あの有名な山谷しんぺいさん(パーソナリティー)だ。つまり川島アナウンサーの大先輩なのだ(懐かしいでしょう!私も新聞で先日知りました!)
 そんなこんなで安倍新総理にも山谷先輩にも在任期間中はしっかりと国政を頑張って頂きたいと思う(頑張れ!)
 問題となっている課題が山積している現状の中で、多くの国民が期待している新内閣には次回に参議院選挙までにある程度の答えを出さなくてはならないのだが、与野党協力できるものは党派を超えて日本の未来ある将来のため真剣な議論を持ち我々国民が頷く道に導いてもらいたいものだ。
 それにしても自分の歳と首相の年齢が近いというのも何か不思議な気のするもの。某番組の男性アナウンサーが話していたのだが「総理大臣とPTA会長は、歳上の人がなるものと思っていた!」と、笑いながらコメントしていた。
 改めてその事を考えてみると・・・・「なるほど!」と私も頷いてしまったのだ。総理大臣は当然の事ながら領域外の話だが・・・PTA会長は・・・経験済み!
 地方の選挙などで立候補者などの経歴に○○○PTA会長・・・と書いてあるのが目立つのだが、やはり会長経験者は、次には市町村の議員となるパーセンテージが多いらしい。
 PTA会長は名誉職と誰かが言っていたのだが、会長経験者は次の名誉を求めるものなのか?
 私も数年前に明道中学校のPTA会長になった時、ある地元の名士の方から「明道中学校の会長になったら、次は市会議員だね!」と、言われた事がある(そんな馬鹿な、ね!)
 他の人ならまだしも、PTAの諸問題だけでも対処出来ないのに・・・・それ以上の大きな事項など・・・とてもとても!色んな分野の知識を頭に入れないといけないはずの議員の皆さんは・・・やはり・・・凄いと関心してしまう。それが国会議員や大臣、総理大臣ともなれば、想像をはるかに超えるもの。
 質問されて「それは・・・知りません!」とは言えない。大臣就任時には各省庁でかなりの時間を勉強の時間として寝る間を惜しんで頭に叩き込むらしいのだが、それでも国会議員となった以上は、一度はなりたい大臣職。専門分野ならまだしも・・・知識不足の分野の大臣にでもなったら・・・答弁はあやふやになり兼ねない。
 まあ、私がこんな事を心配してもしょうがない話。おそらく小泉前総理に近い高支持率がでるであろう安倍新総理アメリカのブッシュ大統領やお隣、韓国のノムヒョン大統領の低支持率だけは真似てほしくはないものだ。


△男の酒のつまみ・・・173
 厚揚げとぜんまいの甘煮!
 厚揚げを四角でも三角でも八等分(膨れるので小さめに!)に切る。スーパーの袋入りのぜんまいと厚揚げを鍋に入れ、だし醤油味醂(砂糖少々)中火で煮る。味付けはそのご家庭のお好みで!


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【九月の十二/テレビ寺子屋30年!】9月29日(金)

 高須町無農薬特別栽培米としての新米コシヒカリ「げんき米」を食べられるのが、いよいよ後2週間に迫ってきた(楽しみですね!)
 そこで毎年、この時期になると我が家の台所の米櫃(こめびつ)は、高須町から運ばれるその新米にあわせて・・・調整となるのだ。古米新米を米櫃の中でブレンド?!させたくないのが当然の心理。そこで数週間前から炊飯時には米櫃の蓋を開けながら「あと・・・何回分?」と、微調整(おいおい!)
 昨年もこの同じ頃、1ケ月前から家族全員が新米を楽しみにしていたのだが・・・天候不順ではさ掛けの期間が多少延び、我が家の米櫃は・・・空っぽとなっていた(情けない!)
 そこで急いでお米(5キロ)を買いにスーパーに走ったものの、やはり・・・高須産のお米とは比較にならないそのお味! 家族全員・・・無言で食べていた(そりゃ・・・そうだ!)。
 当日には高須町での籾すり・脱穀後、私と次男(小6)は帰路途中にあるコイン精米所に行き、玄米を綺麗な白米へと変えていく。私は玄米投入口で一粒の漏れがないようチェックし、次男は大きな袋に糠(ぬか)を入れていく(漬物用で〜す!あっ・・・来春、筍を茹でるのにも!)
 田植え・・・草刈り・・・稲刈り(はさ掛け)・・・籾摺り(脱穀)と、春から秋の米作りを経験した次男は、最後の過程をこの精米所で見ることになる。
 時間にして・・・10分足らずだが、そんな精米の時間の中、次男は玄米から白米になるのが見たいらしく、何回でも精米機の小窓を覗き、また、白米となって出て来るその少し温かいお米を小さな手のひらに乗せ・・・感動している。
 子どもの頃のこのような経験・体験は・・・大人になっても覚えているものである。三年目の高須町でのお米作りや自然との触れ合いが次男にとってかけがえのない貴重なものになるだろう(必ずね!)
「野菜嫌い!」の子どもが増えている今、「食育」が大事とされている。親が嫌いな食べ物は食卓には並ばない・・・では、この「食育」にはならない。一つだけでもいいから、親と子が同じ食物を育てることから始めることにより、共通の話題、共通の心が育つのではないだろうか。
 小学6年生となった次男、この小学生最後の年にボーイスカウトでの色々な経験や熊本市との交流事業参加など多くの友を作り多くの知識を学んだ。次男が経験・体験する一つ一つが、子どもの成長していく上で大きな財産となるものだ。失敗や成功を経験し、時にはそれを繰り返し・・・笑ったり泣いたり・・・そんな事が、これからの人生の基盤となっていく。時には生意気な言葉を言い・・・時には素直な態度を示す、元気な姿もあれば・・・風邪などでベッドの中で顔を歪める姿もある。そんな日々が・・・子どもの大切な成長となる。
 さて、こんな風に子どもは勉強の毎日となっているのだが、我々大人はと言うと・・・・どうだろう?!
「五十の手習い」と言う言葉があったが、「今さら・・・」と不精な気持ちが先に立つ、いわゆる日々ノンビリとした日常となっている(私だけかな?!)。毎度の新聞・テレビで情報を集め、その覚えたての知識をまるで昔から勉強でもしていたかのように自慢げに口にする(あっ・・・私だ!)。
 テレビでのクイズ番組などがいい例だ。答えが解かれば問題が途中なのに答えを言い・・・知らない難しい問題だと、聞こえなかったの如く無言になる(あっ・・・これも私だ!)
 そんな私にとって近年での一番となるお気に入りの勉強?!の番組となっているのが「テレビ寺子屋」である。この番組は親として・・・いや・・・人間として、深く勉強になる番組であるのだ。福井では福井テレビで毎週日曜日早朝5時30分から放送されている(少し早い!)
 今や教育のバイブル的存在となっているこの番組だが、元はと言えば静岡県内のローカル番組だったのだ。1976年、テレビ静岡のワイドショーの中の一つのコーナーとして始まったのが最初だったと言うのだ。今から30年前の話である。母親の子育て家庭の在り方、また、その教育法として話題を呼び翌1977年には30分番組として全国16局がネット放送することになった。
誰でも一度はこの「テレビ寺子屋」は見たことがあるか、番組の事を聞いた事があるはずである(おそらく!)。私も何度か・・・過去に見たことはあったのだが・・・ただ、正直・・・興味は無く・・・早朝ということもありボーッ!と見ていた記憶があった。
 この高須城日記の中で以前に書いた事があったのだが、平成13年の冬の話、順化地区体協新年会の帰り「2次会に行こう!」と、男3人が片町のバーに行く事になった。その時のメンバーだが・・・全員が当然の事だが順化地区の男で、一人は明道中学校PTA会長(私の前の会長)で、もう一人が福井県PTA連合会会長明道中学校副会長、そして私(当時は明道中学校PTAの補導委員長だった。以前から仲良しの3人、飲み屋にも数多く行っていた。ところがこの日は少々事情が違っていたのだ。バーのカウンターに腰を下ろした私達3人だが、私以外の2人は真剣な表情教育論議となっている(私は・・・ホステス?と論議中?!)
 この時、この二人の話の中に「テレビ寺子屋」の話題が登場していたのだ。「あの番組はいいね!」「特に、吉岡たすく先生の話は、全ての保護者に聞かせたいね!」と、こんな感じの二人の会話。この後、教育基本法がどうのこうのと・・・横に座る私には・・・異次元の話だった事を記憶している(この時まで、私は全くPTAに関心がなかった!)
 その二人の会話は熱くなる一方で・・・「PTAとは?」「学校の在り方とは?」と、益々・・・私に興味の無い話になっていた。この時、私は「何か悪い宗教にでも入信したのでは?!」と、その教育&PTA絡みの二人の変貌ぶりに驚いていたのだった。
 PTAに関心が無い私!・・・が、何故この時明道中学校PTA補導委員長だったのか?とその訳だが、長男の中学入学時数ヶ月前、この友人の県P連会長から電話があり「今度、明道中学校の会長になるのが○○氏だから、協力して!」と、お願いされ・・・母校と言うこともあり、また、友人が会長になると聞かされ「じゃ・・・1年だけ!」と、引き受けたのだった(これが・・・長い長い・・・PTA&学校評議員の始まりとなってしまった!今年で6期目です!)
 PTAの総括的な事は何も知らず、また、勉強する気も無い私は、ただ「1年だけだから!」と、軽い気持ち。しかし、補導委員長として10名ほどの委員(保護者)をまとめなければいけなく、学校の安全管理や生徒の登下校時の問題点(安全面)、それに全国各地で起きている、児童・生徒・学生が巻き込まれている事件・事故などを新聞からファイルし、それを明道中学校の校区内状況と比較し、「子どもたちを守る!」事だけを考えていたのだった。
「一年間、どうせやるなら・・・悔いなく!」と、自己満足の中で取り組んだ、生まれて始めてのPTA役員、だが、この歳まで子育て&学校関係の全てを妻任せにしていた私には・・・大きな問題があったのだ。
 それは・・・「子どもの心」だった。ついつい親と言うものは自分の願望の世界の中で子育てをしてしまう。私がバスケの選手だったから当たり前のように長男・次男もバスケを習わした。暇があれば道路でドリブルを教え、夜になると鏡になる窓に向けてのシュートフォームの修正。こんな事が私には「子育て」として自己満足となっていたのだ。子どもの気持ちも考えずに!
 そんな私を「子育てって・・・そうなんだ!」と、導いてくれたのが、いつかあの二人が話していた「テレビ寺子屋」だったのだ。故・吉岡たすく先生やいろんな分野の先生が解かり易く子育てに関してを話してくれる。福井県大野市出身のタレント、清水国明氏なども得意分野の「自然の中での子育て!」と、題して登場した。大山のぶ代(声優)・アグネス・チャン(タレント)など御馴染みの人も先生となり独自の子育て論を話してくれた。
 番組が始まって今年で30年、記念の1500回放送も先日には話題になっていた。地方のローカル番組の1コーナーから、今では全国的な番組となった「テレビ寺子屋」は、これからも子育てをする親にとって見るバイブルとして益々回を重ねて欲しいものだ。
 あっ!・・・「1年だけ!」の、そんな私が翌年には明道中学校PTA会長に就任してしまったのだが、それには少し理由があったのだ。補導委員長として学校を代表して福井市PTA連合会の会合に出た時だったのだが、当時も不審人物についての対応策を話していた。
 そんな時、私が「近隣校で情報を密に!」と話したところ、ある小学校の会長が「とにかく・・・自分の校区から不審者が出て行けばいいんだ!」と、自分さえよければそれでよいという話をし始めたのだ。「こんな考えを持つ人間がPTA会長なのか?」と、私は腹立たしく思った事を今でも鮮明に覚えている。「何とかしないと!」と思ったのが事実。だがこの時はそんな愚痴を例の二人に酔いながら話した事で忘れていた(だが・・・この二人は覚えていたのだ!)
 話は戻り、片町のバー・・・私がカウンターの中のホステスお互いの未来について語り合っていた(馬鹿!)・・・そんな時、先ほどまで熱い教育論議を戦わせていた二人のベテラン・・・いやプロのPTA男。私に向かい「藤田さん来年・・・明道の会長してや!」と、言い出したのだ。
「えっ?!」と、無言になった私(そりゃ・・・そうだ!)。福井市内でも明道中学校と言えば・・・別格な・・・伝統校「いくら母校でも私みたいな人間が会長なんて・・・」と、判断していた。
 この後もお酒を勧めながら「頼むわ!」「お願い!」と、押しの二人。
 こうして伝統ある明道中学校PTA会長は・・・冬の片町の・・・バーで・・・決まったのだった(これ・・本当の話です!)
「じゃ・・・1年だけ!」と、またまた安請け合いした私。私を会長に押し上げたこの二人は続けて副会長・監査として残留してもらい、無知な私の教育係として・・・相談にのってもらったのだ。
 しかし、後で良く考えてみれば二人とも明道中学校に子どもがいるなら・・・「お前がしろよ!」「続けてやれば!」と、言えばよかったのだ(今さら・・・遅い!)
 会長1年目、極度の緊張の中スタートしたPTAだったのだが、そこは母校と言うことで先生方との連携と、美人揃いのお母さん方の役員さんとで「どうせやるなら、楽しくやろう!」と、平成13年の桜満開の春だった。
 あの問題となっていた近隣校との情報交換も、私の意見に賛同してくれた、近隣校(附属中・附属小・灯明寺中・進明中・春山小・順化小・松本小・宝永小・明新小)各会長及び補導担当役員先生が明道中学校での会議に参加してくれたのだった。
 翌年・・・何故か二年目となっていた会長職東海・北陸PTA大会(岐阜・高山、石川・加賀)日本PTA全国大会(秋田・秋田、埼玉・さいたま)にも参加出来、数多くの会議で知識を深めることができた。この2年のPTAでの経験が私にとって大きな貴重な人生上での勉強となったことは言うまでもない。
 そして、一番肝心な事・・・かも知れないが、この2年目会長時に当時、高須城小学校PTA会長だった佐々木さんに出会え、この高須町を知ることが出来た事だった。PTAに携わっていなければ、今頃「高須町って・・・どこ?」と、なっていただろう。
 話が色々な所に飛んでしまい申し訳ないのだが(いつもの事だ!)、平日福井放送を・・・日曜日の早朝だけ福井テレビ「テレビ寺子屋」を!(ねっ・・・川島アナ!)


△男の酒のつまみ・・・174
 牡蠣レモン仕立て!
 お隣、石川県輪島の知人からクール宅急便にて「牡蠣」が届いた。これは新鮮なうちに生で食べたいものだ。そこで殻を小刀で開き(難しい!)レモン汁を数滴・・・「日本人に生まれてよかった〜」


高須城日記V(秋中編)に続く


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