高須城日記V(夏前編)


(平成十八年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)


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【六月の一/高須町でもクールビズ?!】6月1日(木)

 この何日かだが、を思わせるような暑い日が続いている。「寒いよりも暑い方がいい!」私はこの日朝、自宅を出る前には半袖のシャツを選んでいた(ヤング!)
 かねてからお気に入りだった薄ブルーと白・オレンジのストライプのシャツ。「コーディネートはこーでねーと!」と、ダジャレを言うと「ハイハイ!」と、妻と次男の冷たい視線。(ほっといてくれ!)
 そうそう、本日6月1日からは「衣替え」となり、学生諸君やサラリーマンは白のシャツがメインとなる。永田町でも小泉首相はじめ、多くの議員先生がノーネクタイで公務をこなしていた。「クールビズ!」昨年、小池百合子環境大臣が発したこの言葉、2年目の今年は益々日本中に浸透しそうだ。
 さて、自宅を出た私だが・・・右足の踵から足首にかけてテーピングをしていた。月曜日の朝から歩行の度に右足に割れるような痛さを感じていたのだが、原因が・・・思いだせず。「時間が空けば、医者に行くよ!」と、妻に言っていたのだった。
 午後から私の向かう先は、福井県庁だった。昨年の秋に「ふくいコシヒカリ大賞」の応募にと、高須町の選考書類を届けて以来の県庁だった。(何故か、近所なのにここに来ると県庁・・・いや、緊張する!・・・すいません!)
「こしひかり」の時は、畜産課にお邪魔したのだが本日は、環境政策課に向かっている。そう、「みんなのかんきょう」の原稿を担当の坂本さんに届けるのだ。
 お堀の橋を渡り、地下駐車場へ入ると・・・この日は満車状態でグルグルと何回も同じ道を回り空きスペースを探していた。ようやくそのスペースを見つけたのだが、どうみてもそこは県の公用車のスペースだった。躊躇いながらも「まあ・・・いいか!どうせ、直ぐに用事は終わるから」と、自分の車を駐車したのだった。(ほんとはダメです!)
 エレベーターの前に立ちボタンを押した私は「あっ!環境政策課って・・・何階だろう?」と、再び正面に戻り案内ボードを見たのだった。「4階か!」と、この時エレベーターのドアが開く音。痛い足を引きずりながら急ぎドアに向かったのだが・・・ドアが閉まる直前にギリギリ滑り込みセーフ。
「よし!」と、喜んだ瞬間だった。ドアが閉まる瞬間に痛い右足が挟まれてしまい「お〜っ!」と、声を上げた(誰もいなくてよかった!)。誰も悪くないやり場のない痛さを一人エレベーターの中で噛み締めていた。(自業自得だ!)
 環境政策課のドアを開け少し緊張しながら中に入ると、職員の皆さんはデスクにむかいい忙しくお仕事中。その服装は白・・・一色だった。「やはり・・・クールビズか!」と独り言。「すいません・・・坂本さん・・・は」と、私が言うと「はい!」と、席と立った坂本さん。「高須町の原稿を・・」と持参した原稿などを坂本さんに渡すと「わざわざ有難うございます。ホームページ拝見していますよ!」と、嬉しいお言葉。そして、坂本さんから意外なお話をお聞きしたのだった。「私、高須町が大好きなんです。良い所ですよね高須町は。以前、自転車(マウンテン・バイク)で登ったこともありまして・・・」と、坂本さん。「そうですか、有難うございます。これからも高須町を宜しくお願いします!」と、植木御大に替わりお礼を言ったのだった。(高須町のファンはここにもいましたよ!)この時、私は坂本さんのお話に嬉しさの余り、足の痛さを忘れていたのだった。
 再びエレベーターに乗り地下駐車場に行くと・・・・係員の方と職員(公用車)の方が私の車の前で話していた。公用車が戻って来ていたのだった。「やばい!」と、急ぎ走り出した私(足に激痛が・・・!)「すいません!今・・出ます!」と、私が言うと「やっぱり・・・藤田さんか!」と職員が微笑んだ。その職員だが・・・私の店のお客さんだった。
「足・・・どうしたんですか?」と、不規則に歩く私の足に気付いた職員に「ちょっとね!」と、私。すると、「また、片町で悪い事したんでしょう?」と、職員(ほっとけ!)
 車を急ぎ移動し、駐車場を出た私は店に戻ろうとしたのだが、足の痛さは・・・益々・・・酷くなっていた(やばい!)「医者に・・・行くか!」と、近所の外科に向かう事にした私だった。
 病院の受付。「どうされました?」と、40代の白衣の天使?!。「足が・・・!」と、私が言いかけると「保険証は・・・?」と、聞く(人の話を聞け!)「あっ!忘れました・・・明日にでも持って来ます」と、私が言うと「藤田・・・幸治さん・・・ですよね!月替わりですから、必ずお持ち下さい!」と看護婦さん・・・今は、看護師さん?。(近所で正体がバレバレだった!)
 診察室・・・顔馴染みの先生。「久しぶりですね。どうされました?」と、笑顔の先生。「足が・・・」と、テーピングを巻いた足を先生に見せると「また、片町で悪い事でもしたんですか?」と、先生(おいおい、先生もか!)。
 理由を話しレントゲン室で撮影となった私。若い女性レントゲン技師が台の上に横たわった私に「はい、写しますから・・・・動かないで下さいね!」の言葉に「優しくしてね!」と、私が冗談を言うと、ガラスの向こうで・・・無視されていた。(おい、笑えよ!)
 診察結果・・・「踵の骨に少し亀裂がありますね」だった。この暑くなる時期にギブスはもうこりごりの私。数年前に左足の靭帯損傷でギブスをして嫌気を経験していたのだ(だって・・・痒い!)「先生!テーピングでお願いします。自分でも出来ますから!」と、私が嘆願すると「ん・・・・・無理をしないで下さいね!大事な箇所ですから」と、先生(助かった!)。処置としては、シップ&包帯でその上から固定用サポーター(取り外し可能)をはめた(もう・・・痒い!)「おだいじに・・・!」と、看護師に見送られ病院を出た。
 夕方、下校してきた次男(小6)が、「お父さん、高須の稲は大きくなったかな?」と、突然言い出した。「少しは延びたんじゃない!」と、私が言うと「見にいこうよ!」と、お願いされていまった(可愛い子どもの願いに・・・弱い!)「じゃ、ついでに棚田の写真でも撮るか!」と、思った私。
 足の痛さもあるがアクセルを踏むのには、余り支障がなく高須町に車を走らせたのだった。高須町に入ると、お昼の暑さもここでは少しの涼しさとなっていた。人影もまばらな高須町。いつもの、のどかな景色だった。農作業を終えて自宅に帰る途中のお婆ちゃんとすれ違った。「ご苦労様です!」と、言葉をかけると「は〜い」と、驚いたような顔で返事が返ってきた。
 棚田からは綺麗な福井平野の景色が望める夕方の高須町。「九頭竜川の左の白い建物って・・・あれだよね!」と、次男。「そう、あれだよ!」と、私。(名前が出てこない!「ゆりの里」です!)
「お父さん・・・大きくなってるよ!」と、あぜ道をかけ降りマイ田んぼに向かった次男。小6だと言うのにまだまだ稲を見て喜んでいる次男に「写真を撮るか!」と車のデジカメを・・・・自宅に忘れていた私だった。(何しに来たんだろう!)
 高須町を後に自宅に戻る途中、携帯が鳴った。田中先生からだった。「7時頃に川島さんが明道中に来られるのですが、藤田さんも是非に」とのお誘いだった。明日から川島アナは東京へ・・・出張だった。しかし、私は「先生、やはり足がダメなので・・・」と、お断りし、川島アナへの伝言を田中先生にお願いをして電話を切ったのだった。
 夜8時過ぎ、再び田中先生から電話があった。そして、その内容だが・・・「藤田さん、川島さん今、帰られたのですが・・・川島さんも右足が肉離れだそうですよ!」と、田中先生。「はあ〜っ!」と、驚いた私。「じゃ、明日からの出張が大変じゃないですか?でも、・・・何で・・・肉離れに?」と、聞くと「何でも・・・高須城小学校で子どもたちと野球をしていて、その時に肉離れになったとか・・・」「そうですか!」「で・・・川島さんに、実は藤田さんも右足を怪我してるんです・・って言ったら、えっ!って驚いてましたよ!」と、田中先生(私と川島アナの右足の怪我、何かがある!)。川島アナ、明日からの東京・・・無理せずに頑張って取材に飛び回ってね!
 世の中「クール・ビズ」だと言うのに、右足が「ホット!」と、なっている高須町関係者?20才違いの男二人・・・だった。


△男の酒のつまみ・・・127
 エリンギの炭火焼き  スーパーで最近少し安いエリンギ。意外と何にでも調理出来る食材だ。しかし、私は炭火で焼くのが一番・・・好きだ。少し、焦げ目が付いたところで、アツアツのエリンギを裂き・・・醤油と山葵で頂く。このエリンギのシャキシャキ感がいいのだ。マヨネーズ&醤油でも美味しいです。焼肉のタレでもOK!


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【六月の二/ひとりの日曜日】6月4日(日)

 昨日の午後だが、私と田中先生の間で携帯電話やらメールやらと忙しくやり取りをしていたのだった。その内容は、当然この高須町のH・Pについてなのだ。「ここを、こうしましょう!」「いや、そこはこんな感じで・・・!」と、70万件を超えたアクセス数に嬉しいミニ会議となっていた。私の担当するこの「高須城日記」も三年目(実際は二年目)に入り、そろそろネタも尽きてきた(いや、まだまだ!)「これは、高須城日記じゃなくて、藤田家日記だろう!」のご批判も(友人からの忠告!)・・・有難く・・・無視!しかしながら、「早く、次の日記作成者を探さなくては!」と、思い悩む夕方となっていた。
 さて、久しぶりの完全休養日の日曜日となった本日だが・・・妻と次男(小6)は、昨日の午後から長男の住む(四月から)名古屋へ行っている。足の亀裂骨折で無理が出来ない私は、一人留守番となっていた。(たまの一人もいいもんだ!ウキウキ!)それにしても、足の痛さは中々、収まらずよって、私の行動範囲は限られている(2階の自室と寝室、それに横のリビングの往復だけ!あっ、トイレもだ!)。料理好きな私も、昨日からは近所の蕎麦屋からの出前やカップ麺がほとんどで・・・これもまた、懐かしい独身時代を思い出す事となっている。
 昨日の夜の事だが、こんな時にかかってくる、片町からの友人による「夜のお誘い!」だが、・・・丁重にお断りとなっている(本当は・・・行きたい!)
 足の怪我以来、恒例となっていた早朝ジョギングもお休みが続き、何故か足の筋肉も中だるみの感じがしている。
 朝6時過ぎ、テレビを付けるとニュース特報「秋田県藤里町での小1男児事件」が大きな進展を見せていた。「33才の女性を任意で・・・」のスクープに「やっぱり!」と、頭の中でこの事件を整理した私だった。事件発覚後から「怪しいんじゃない!」と、言われてきた近所の女性(1ヶ月前に水死した小4女児の母親)だが、その反面では「まさか?」と言う声もあったのだ。
 しかし、秋田県警能代警察署はその母親に任意であるが同行を求めたのだ。実家と自宅には警察による家宅捜査、逮捕を確実にするための物的証拠を挙げなければならない。目撃情報のあった「白い車」・・・男児に付着していた髪の毛と黒の繊維、このどれかが同一ならば犯人逮捕の有力な証拠となるのだ。眠気も完全に覚め、テレビの前から動く事が出来ない私(足が痛いのもある!)。この事件の進展の続報を待っていた。定時のニュースでは実家から自家用車で警察に向かう女性が映り、警察署に入る場面が報じられている。勿論、任意である為、顔にはモザイクがある。
 そして、「※任意同行」のため、ここからは時間との勝負となる警察だった。
※任意同行・・・任意同行には、職務質問のための任意同行(警職法2条2項)と、捜査(取調べ・198条1項)がある。この場合、近隣の警察署や交番などに出頭するように求めるのだが、捜査のための任意同行の場合は、被疑者は逮捕状態ではないので、拒否しまた、同行後いつの場合でも退去出来るのである。
 警察署内の取り調べ室では、担当刑事による事件関連の質問が開始されているはず。また、その一方では被疑者の弁護士による拘留時間の警察との問答が始まるのである。事件後、おそらくタイヤ痕や付着物など多くの証拠物を科研において調べあげている警察は、家宅捜査などによる押収物の中に犯人確証となる物を見つけるか、取調べにおいて被疑者が自白に応じるかが注目される事になった。「時間の問題だろう!」と、思う反面で「もし、違っていたら!」と、この朝のニュースを見ていた日本国中の人が感じていただろう。
 その後、なかなか続報が入らない中、私はスポーツ新聞を読みながら一人優雅に・・・いや、一人寂しくコーヒーを飲んでいた。すると、テレビから聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。・・・・・FBC川島秀成アナウンサーだった。この番組は「おはようふくい730」(日曜朝7時30分)だった。録画とは知りながらも「川島アナ、肉離れは大丈夫かな?」と、心配の私(お前もだ!)。新聞のテレビ欄を見ると、今朝の放送内容は「高校教育」と、書いてある。そう言えば、FBC川島アナのコラムには「高校生と話す事が好き!」と、書いてあった。
 まず、勝山高校からスタートした川島アナ。全国的にも強豪のバトミントン部を紹介した。続いては古くから進学校として知られる武生高校(少人数学級)を訪ねた。足羽高校では中国語&英語を紹介、川島アナも自ら生徒の中に入り、流暢の英会話を披露したのだった。最後には、中高一環教育の嶺南、美方高校に行き、全国屈指のボート部を紹介したのだった。県内にはそれぞれ独自のカラーを持つ高校が増えてきた近年、自らその校風特色を発信して中学生の進路として誘わなければならない。川島アナは何人かの高校生にインタビューしていたのだが・・・女子高校生が多いと感じたのは・・・私だけだろうか。(まあ・・・いいか!)
 正午近く、どの局ニュースでも秋田の事件を報道している。しかし、まだ「逮捕!」の言葉は出てこない。被疑者が警察署に入り、事情聴取が始まって6時間が経つ。任意同行から逮捕へ。被疑者から容疑者へと変わるのは、いつの事となるのかテレビからまだまだ目が離せない私。
 そんな時、携帯電話が鳴った。発信者は・・・名古屋にいる妻からだった。
「もしもし」と、私が出ると
「もしもし、お父さん。僕だけど・・・」と、次男からだった。
「今ね・・・動物園にいるんだけど・・・孔雀が羽を広げてね、凄く・・・綺麗なんだ!」と、興奮している様子の次男。 「そう!・・・東山動物園に来ているのか?」と、聞くと
「うん!ライオン・・・キリン・・・熊・・・ペンギンがいるんだよ!」と、次男。
「そう、よかったね!」(動物園だから当たり前だ!)と、私。
「それでね、さっきモルモットを両手の上に乗せたんだよ、・・・可愛いかったよ!」と、興奮は収まらない様子の次男だった。  東山動物園・・・・・今から十数年前、長男がまだ幼い頃だが私と妻、そして長男とで行った名古屋の東山動物園。その時、動物を見る妻と長男をよそに、私は近くを歩くある女性に目を奪われていた。それは、女優の故・高峰三枝子(平成2年5月27日永眠)だった。大女優の風格と言うのだろうか貫禄がその歩く姿にはオーラがあった。大きな帽子、少し大きめのサングラスをかけ悠然と公園内を歩いていたのだった。
 電話の向こうからは、次男の嬉しそうな声が聞こえてくる。
「あのさ・・・動物を触ってもいいけど・・・ちゃんと手を洗いなさいよ!」と、私。動物園の動物だから大丈夫だろうが、万が一、感染して病気などにならないとも限らない事を心配した私。「あんまり・・・触るなよ!」と、次男に言ったのだった。「うん!・・・でも可愛いいよ!」と、私の言葉を聞いているのかいないのかの次男。「じゃあね!」と、電話を切ってしまった。
 同じA型の私と次男。(妻と長男はB型虫嫌いの私に似ず、どういう訳か臆する事なく何でも触る次男だが・・・それはそれで・・・いいことだろう!高須町でもを見て立ち止まる私を他所に、そのを捕まえようとする次男(誰に似たのか?)。次男からの電話だが、何時に帰るのか聞く事を忘れていたのだった。(まあ・・・いいか!)
 秋田の事件もその後、進展が見られずテレビ新聞を交互に見ていた私だった。すると、どの新聞(3紙)にも同じ話題が掲載されていた。「渦中の六本木ヒルズで田植え」(中日スポーツ)「ヒルズ族親子、コシヒカリ田植え」(日刊県民福井)「ヒルズに響く田植えの歓声」(福井新聞)だった。
 ふくいを代表するお米「コシヒカリ」が記念すべき生誕50年を迎えた今年、東京の話題のスポットとなっている六本木ヒルズの中の一棟、「けやき坂コンプレックス」(商業棟)の屋上で、3千株コシヒカリがこのヒルズの住民家族やテナント従業員、や近隣住民の手によって植えられたのだ。「きっと、川島アナも取材に行ってるだろうなあ!」なんて思いながらこの記事を読んでいた私だった。(東京の有名なビルの屋上での田植えを生で見たい!)
 夜7時、ニュースでは秋田の事件が報道されているものの、逮捕には至らず、事情聴衆も12時間が経っていた。未だ、被疑者からは自白はなく、拘留処置がどうなるかが注目されている。自室のテレビを2面にして、ニュースと「巨人西武」で楽しんでいると、携帯が鳴った。妻の携帯からだが再び次男の声がした「お父さん・・・今・・・養老。ここでラーメンを食べて帰るから!」と言い、切れてしまった。
「俺の晩飯は?・・・」と、今度はこちらから携帯を鳴らした。「お母さんに福井に着いたら、コンビニでお弁当を買って来るように言って!」「うん、わかった!」通話時間16秒の福井、岐阜間だった。
 8時、最近気に入りの大河「功名が辻!」を見る。いよいよ来週に迫る「本能寺の変」信長光秀秀吉家康のそれぞれの思いが面白い。主人公である千代一豊の揺れる心情も面白い。大石静の脚本が人気のこの大河ドラマだが、私は一つ不満がある。それは小りん(長澤まさみ)が先々週で取りあえず終了した事だ(毎週・・・見たい!)。そうそう、この大河ドラマだが田中先生のお嬢様(高1)「大好き!」と、毎週欠かさず見ているらしい。
 9時過ぎ、「行列の・・・」を見ていると、次男から電話があった。「今・・・北鯖江・・・ッーッー!」(トンネルだ!)
 一日だけだが次男の顔を見ないと寂しいものだ。もうすぐ帰宅するそんな次男は名古屋での疲れでおそらく「バタンキュー」と、なるだろう。
 今日一日、テレビ漬けの私だったが、本日のメインとなるジーコ・ジャパンの試合を見ている。そんな時、下の玄関の開く音、そして廊下を走る音、階段を駆け上がる音に耳を取られていた。「次男だ!」5秒後「お父さん・・・ただいま!」と元気な声。「お風呂・・・入るね!」と、言い残し消えていった。しばらくすると妻が部屋に入ってきて「はい、お弁当・・・これで・・・いい?」と、カツ丼を差し出した。「サンキュー!」と、サッカーを見ながら遅い夕食となった私。妻はコーヒーを飲みながら長男の名古屋での生活や学校での事などを話している。(・・・・・聞いてるよ!)
 そして12時前、「逮捕!」の報道が伝えられた。17時間の長い長い・・・任意同行から・・・の逮捕劇だった。しかし、容疑は「死体遺棄」「殺人」ではなかった。疑問が多いこの事件、「動機は?」。そして、一月前の容疑者の女児の水死の謎など、不可解な事の多い事件である。この事件発覚後から警察もそしてマスコミ各社もマークしていた33歳のこの容疑者。誰もが想像した、いや、想像したくなかった結末の時をむかえる事となったのだった。
 深夜、次男の顔を見ようと部屋の戸を開けた私。スヤスヤと寝息をたてる次男だが、余程疲れたのだろう頭と足が逆になっていた(寝相が悪い!)。妻も運転で疲れたのか、すでに寝ている(寝顔は・・・言えない!)
 寝る前に、妻と次男が名古屋に持参したデジカメの中身を見ようとした私。次男が感動した孔雀が綺麗に写っている。

次々と東山動物園での多くの動物たちと笑顔の次男が見られる。
 そして、次の瞬間だった。大きな蛇を肩に乗せた次男がいた(嘘!)。次に、小さな蛇を腕に絡ませる次男の姿も。
 

「最悪・・・!」と、呟いた私だが「これも経験かな」と、その勇気に・・・親として・・・少し・・・誇らしくなっていた。(私には無理・・・!)


△男の酒のつまみ・・・128
 一寸そらまめの素揚げ!
 最近と言うか以前から気になっていた「一寸そらまめ」だが実は食したことがない私。「今が旬!」との言葉に、「じゃ、食べないと」と、なっていた。「スナック感覚でどうぞ!」と、聞いた事があるのだが、この一寸そらまめはビタミン・鉄分・食物繊維などが含まれ健康食品としても注目を浴びている。サラダ油でカラッ!と・・・・ビールに最高!
 

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【六月の三/どうなってるの・・・!】6月7日(水)

 梅雨前のこの時期、日本独特と言うのだろうか北陸特有の気候と言うのだろうか、何ともジメジメした毎日で「今日も、蒸し暑いですね!」と、挨拶する日々が続いている。このジメジメした天気は、そのまま国内外の色々なニュースでも同じ事となっている。ホントに「モヤモヤ」と、気持ちが暗くなる事ばかり事件が続いているのだ。
 前回の日記でもその一日を追った、秋田県での事件。犯行の動機については、容疑者からはまだ明白な内容は出てはいないものの、それでも「おそらく!」と・・・では個人による、にわか推理が話題の種となっている。しかし、いずれにしても犯行までに及んだ容疑者の心理が我々には不可解で不透明な部分が多すぎる日本中に波紋をよんだ事件である。小1男児への殺人事件への関与、それと、水死事故となっている容疑者の小4女児。
 この二つの事件事故の全ての幕が降りない事には、この藤里町や近隣の市町でも安心して子どもたちは遊べないだろうし、その生活にも影響する。秋田地検や警察の一日も速い全容解明が急務とされる。後書きにはなってしまったが、被害にあわれた豪憲君とご遺族の皆様には心からのご冥福を祈ります。
 次に、「日本の恥!」と、まで言われた洋画家の盗作問題。文科省の文部科学大臣賞の授与以前に、この盗作疑惑に誰も気付かなかったのかも問題となっている。テレビに登場したある美術専門家だが「国内でも有名、無名の画家は沢山いる!だから作品は数多く存在する。その一つ一つは知ることは出来ない。ましてや、海外の画家の作品となれば・・・」と、コメントしていた。「なるほど!」と、思うところだが、この疑惑の洋画家W氏の名前は、私は当然知らないのだが、その世界では有名な洋画家だと言う。
 しかし、盗作されたイタリアの画家の作品と比較して見ても、素人の私でも判る「模写&盗作」作品。作家や音楽家、そして画家などはよく新しい作品時には行き詰まると聞いたことがあるが、それなら新作の完成を遅らせればよい事。それでも出来なければ、プロの看板を下ろせばよい事だろう(それが・・・プロ!)。真似をしてまで・・・しかも、その作品をにしてしまう事は許せない事だ。
 3件目は、村上ファンドの事になる。ライブドアの堀江氏、そして今回の村上氏と「時代の寵児!」と、言われたヒルズ族の二人。その「ヒルズ族の兄貴分」と言われ、「投資のプロ」とまで持て囃された村上氏。
 釈明?謝罪?会見での「皆さんが私の事を嫌いになったのは、多分・・・私が儲け過ぎたからでしょう!」と、謝罪会見とは思えない強気のコメントをしていた。灘高・東大・官僚(旧・通産省)と誰もが羨むエリートコースを歩んできた村上氏。人様からお預かりしたお金で投資(株)し、大きな利益を生み、そして還元してきた。
 才覚と言うのだろうか、われわれ個人の商い人が到底想像も付かない億単位のお金を動かすこの業界の人達。その中でも「村上氏に任せれば、儲かるのだ!」と、言われ続けてきた。今回の阪神電鉄問題が大事となり益々、人の気持ちを逆撫でしてしまい、逆風に晒される事になっていた。そんな時に発覚した、株取引の基本中の基本である証取法の初歩、インサイダー取引問題(ライブドアとニッポン放送株問題の前での情報!)
 堀江氏そして今回の村上氏と、誰もが注目をしていた人物がお金に纏わる事件に関与していたのだが、今後、両氏にはどのような人生が待っているのか注目したいところ。私が心配するような事ではないが、まだまだ若い両氏・・・この事件で闇の中に埋もれる事にはなって欲しくは無いものだ。
 そして、スポーツ界からは「今度こそ、初優勝か?」と、期待された女子ゴルフ宮里藍選手だ。アメリカツアー11戦目の今回、2日目終了時点で通産10アンダーの単独首位に立ち、最終日にはそのまま逃げ切りかと誰もが期待したのだった。昨年までの国内ツアーだったら、当然優勝しただろうが、やはり世界は違う。短いパットが入らず調子を崩したラウンドとなってしまった。13位・・・全米挑戦一年目として、早くも来期のシード権は確保した藍ちゃんだが、来週から始まるメジャー戦・全米女子プロでの活躍を祈りたいものだ。
 この他にも、高校生が犠牲となったエレベーターでの事故、昨日、死刑判決となった記憶に新しい、一昨年の奈良市小1女児殺害事件での被告の「人間性のかけらもない!」とまで言われた残虐性、佐賀県の小5男児を交通事故の後、林道に放置した殺人未遂事件など「酷い」と言う事件が多すぎるのだ。
 何か暗くなる話題ばかりを書いてしまったのだが、「やった〜!すご〜い!」と、叫びたくなるほどの明るい話題はないものか。数日後に始まる、ドイツでのワールド・カップのジーコジャパン初戦、オーストラリア戦の勝利でその溜まりに溜まった憂さを晴らしたいものだが、おそらくハラハラドキドキのテレビ観戦となるだろう。
 そうそう、こんな時に癒してくれるのは・・・動物しかない。二足で立つレッサーパンダで人気者となった風太クンがパパになった。昨年、お見合い&結婚したらしいのだが、この度、愛でたく2児?のパパとなった風太クン。その2匹の愛らしい姿は・・・ホノボノとなるものだ。
 また昨日だが、私が居た北海道奥尻島の沖合いで海上保安庁の飛行機が、助けを求め、手を振る複数の人影を発見した。 すぐに救助活動を実施しようと近づくと・・・トドだったのだ。海面から飛行機を見て手ヒレを振るしぐさが、「助けて!」の動作に見えたのだと、笑いながら言うパイロット。
 何か「個人のぼやき!」と、なってしまった今回だが・・・明るい話題が・・・思わず微笑んでしまうものが待ち焦がれる・・・・今の日本である。


△男の酒のつまみ・・・129
 ぶり大根!
 魚好きの私だが特に鰤は・・・大好き。シンプルなツマミとなる鰤大根を食べたくなった。切り身の鰤をだし・醤油・味醂少し薄めに味付け大根と煮る。あくは丁寧に取る。大根が柔らかくなったらOK!鰤と大根をお皿へ・・・・煮汁に砂糖と醤油を少し加え、甘目に煮立たせる。トロトロとなれば出来上がり・・・鰤にかけて・・・いただく。


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【六月の四/あの魚沼の棚田は・・・今!】6月8日(木)

 最近だが、好奇心を持つ年頃の次男(小6)がよく色々な事を私に質問してくるようになった。勉強の事(少しだけ!)、ニュースから伝わる時事問題(判り易く教える!)、スポーツの事(大得意分野!)、そして男子小学生ならではの悩み?とでも言うのか最近、少しづつだがおマセになってきた次男、髪型から服装への自分ならではの拘りがあるようだ。朝、登校前には鏡の前に立ち、髪型(寝癖)を直す次男、そんな次男に私は「お父さんは小6の時、爺ちゃんのポマードを塗って順化に行ってたよ」と、言うと「えっ、ポマードって?」と、聞き返された。(知らないのか!)
 すると次男は「ポマードって髪の毛につける物だったの・・・」と、不思議そうな顔。「何で?」と、私が聞くと「だって、ポマードって、妖怪の中に出てくる口裂け女を退治する時に・・・ポマード・ポマード・ポマードって、3回言うんだけど何かの合言葉だと思ってた!」と、次男。ポマードの意味が判り何故か笑っていたのだった。(今どきの小学生は妖怪話が話題なのか?)
 テレビゲームカードゲーム、パソコンを開けばまたまたオンライン・ゲームと、ゲームとなっている今の子どもたち、このままで良いのだろうかと、ついつい昭和の自分が子ども時代を思い出してしまう。「時代が違う!」と、言ってしまえばそれまでだが、昭和30年生まれの私にとっては嘆かわしくもあり、羨ましくもある今の子どもたち。
 小学校低学年では、学校帰りに町内の「こども会」の仲間と共に、家に帰らずそのまま公園で野球ばかりしていた。いわゆる三角ベース野球だ。大人になった今、改めてその公園(三秀公園)を見れば狭いものだが、当時は広く感じホームラン(道路まで玉が飛ぶ)が出たら皆なで大騒ぎしていたものだった。夕方、遅くまで公園で遊んでいると、母親たちが順番に公園まで来て「晩御飯だよ!」とか「いつまで、遊んでいるの。早く帰りなさい!宿題もしないで」「もう、塾の時間だよ!」と、こんな調子だった。
 高度経済成長期と言われた時代、昭和35,6年になると、皇太子殿下(天皇陛下)のご成婚を期に「テレビジョン」なるものが少しづつ普及してきたのだ。街頭テレビ!・・・電気屋さんか、お金持ちの子の家でしか見ることのないテレビジョンに・・・感動していた。まだまだ各家庭に、テレビもお風呂もなかった時代でもあった。銭湯に行けばラジオ「君の名は・・・」が流れていて、この時間ばかりは女性のお風呂は空の状態だったと記憶している(たぶん!)。そんな我が家にも東京オリンピックに合わせてテレビが来た。勿論、白黒だった。スイッチを入れてから画面に映るまで・・・何秒かかっただろう。当時は「テレビの中に誰かがいる!」と、皆で言ったものだ。我が家では「民放は見たらダメ!」と言われ、NHK「新・日本紀行」だけが私の許された番組だった。
 それでも共働き(自営業)の両親が居ない自宅で、「忍者部隊月光」「ハリマオ」「エイトマン!」「ひょっこりひょうたん島」「サンダーバード」「巨人の星」(年代不順)と、見ていたものだ。中学生になると「学園ドラマ」が多くなり、「俺は男だ!」などを親に隠れて見たものだ。11PMもね!)
 このような話を次男にすると、「そうなの、大変な時代だったんだね!」と、笑われてしまった。「テレビっ子!」と、言われた時代だった。テレビから伝わる全ての物が新鮮に思えていた。(今も変わらない!)
 今朝の事だが、まだまだ痛みが残る右足を庇いながら、朝刊を取りに外へ出た。電線に数羽の小鳥が囀り、梅雨が近いと思わせる、なま暖かい風が吹いている。庭には私の母と次男で育てたイチゴが数個、赤い実を付けている。部屋に戻り新聞を開くと、・・・・嫌な事件の続報が書いてある。「はあ〜」と、溜息をつくしかない連日の記事。最後にテレビ欄に目を向けると「棚田」の文字が飛び込んで来た。(最近、農業関係の活字には敏感なんです!)
 NHKの朝の番組、「生活ほっとモーニング」(08:35)での中で紹介された。私は店に行く前に慌てて録画予約をして出掛けたのだった。
 その棚田だが、・・・・一昨年の※中越地震で多大の被害に遭われた新潟県小千谷(おじや)棚田だった。
※中越地震 2004年10月23日17時56分、M6.8の地震が発生し、その後も震度6強を超える余震が継続した。
 二年前の地震により壊滅的な被害を受けた棚田。その棚田では、日本一と美味しいと言われている「魚沼産コシヒカリ」が地震の前まで、作られていたのである。「もう、だめだ!」「二度と、米は作れない!」と、農家の人々は口々に声を揃えていた。多くの家屋も崩壊や損壊となり、農家の皆さんはプレハブ住宅生活を余儀なくされていた。当然、棚田は崩壊状態となりあぜ道はおろか農道までもが元の姿をとどめないものであった。そして・・・農機具までもが。それはまさに「魚沼産コシヒカリの危機!」そのものだった。
 これは、あの地震から約20ヶ月、復興しつつある棚田を追った番組だった。タイトルは、「よみがえれ〜コシヒカリの棚田」
「荒れ果てた棚田の復興に手を貸してほしい!」この悲痛な叫びに、全国から有志が集まった。しかし、それは想像を絶する作業の連続だった。まずは、崩れた土砂などを取り除く事から始まった。天災、そして自然の恐ろしさを誰もが思いながらの作業だった。農道は地震により崩れ、重機は入れず人の手による作業となっていた。それでも、少しづつではあるが棚田は元の姿を見せてきた。しかし、ここであの記録的な大雪(豪雪)に見舞われた。棚田は2メートルの雪の下に埋もれたのだった。
 春、雪解け後の棚田に行くと・・・・再び土砂崩れが起きていた。つまり、修復作業は振り出しに戻ってしまったのだ。 「仕方ない!」「落ちて来る物はしょうがない!」そんな農家の人達。しかし、田植えまでは2週間しかないのだ。
 地震後、全国から集まった復興を願うボランティアの人々。そんな中に「私の力でよかったら、どうぞ使って下さい!」と、昨年の9月、奈良県からこの地に移住してきた人がいた。
 五藤忠雄さん(63歳)、五藤さんは「残りの人生の全てを棚田の復興に賭ける!」と、4年前から空き家になっていた古民家を借りた。昔ながらの大きな古民家、自分で住むだけでは無く、全国から集まるボランティアの人達の憩いの場所にもしたいと願っていた。「10人でも20人でも平気ですよ、ここだったら。皆で反省会をしたり、ミーティングをしたり・・・そんな場で・・・いいんじゃないですか」と、五藤さん。
 そんな五藤さんだがこの小千谷に来る前には、奈良県で運送業をしていた。8年前に離婚し、それ以来一人の生活となっていた。しかし、農業とは全く無縁の五藤さん、二人の子ども、そして孫にも恵まれた。「体力には自信がある。この身体が健康なうちに何かをやりたい・・・!」と、考えていた。奈良県の自宅の壁には「俺はこのままで終わりたくない!」と、書かれた紙が貼ってあった。
 そんな時、五藤さんの目に飛び込んで来たのが、地震で崩壊した棚田の姿だった。高齢化が進む地元だけでは、復興は難しく「誰かの手助けが欲しい!」と、呼びかける声に心を動かされたと言うのだ。「あそこに行けば、俺の力(能力)が発揮できる!」「小千谷の棚田は、ひとめぼれした彼女のようなもの!」と、その瞬間に思ったと五藤さん。 奈良県から小千谷に移住した五藤さん。地元の皆さんの歓迎を受けた。そして、住まいの古民家の軒先には「棚田交流の家」と、看板が吊るされた
。  五藤さんはまず、米作りを辞めようとする地元農家の人達と話をした。60年間米作りをしてきたお婆ちゃん。その棚田も・・・土砂崩れ・・・農業用水も枯れていた。「どうすることも・・・ならない!」と、諦めるお婆ちゃん。そしてこのお婆ちゃんには、この棚田を守る後継者がいないのだ。「大事な大事な財産だけどね!」と、棚田を見つめるお婆ちゃん。「気持ちで、負けないで下さい」と、五藤さん。「いつか必ず私達の手で復興しましょう!」と、約束したのだった。
 この小千谷地区でも比較的、被害の少なかった平野部ではコシヒカリの収穫がされていた。その稲刈り作業を見つめる五藤さん。米作りの基本を学ぶ為、見学に来ていたのだった。
 先生役は地元農家の谷口玲太郎さん(68)。実はこの谷口さんは、棚田の復興を全国に呼びかけた、中心人物だったのだ。いずれ迎える棚田での収穫に備え、コンバインの動かし方を五藤さんに教える谷口さん。「やっぱり、センスがあるね!」と、コンバインを操る五藤さんを見て笑う谷口さん。「これは戦力になりますよ。わざわざ奈良から来てもらって・・・」と、期待している。
 そして、次は乾燥機の使い方だった。最高級魚沼産コシヒカリは棚田により乾燥の仕方を微妙に変えるのだと言う。だから、この乾燥機の使い方が美味しいお米への決め手になると言うのだ。谷口さんは今までの経験や知識の全てを惜しむことなく五藤さんに教えている。しかし・・・「いや〜解らん・・・難しい・・・」と、五藤さん。コンバインでは合格点だったのだが。この乾燥機の操作では頭を傾げていた。
 しかし、ほとんどの農作業をこの一年で覚えなければならない五藤さん、「忙しい谷口さんから少しでも多く学びたい!」と、意気込んでいた。
 10月下旬、この日訪れた東京や埼玉からきた20人。五藤さんたち「交流の会」のメンバーは本格的に棚田の修復に取り組んでいた。
 一年間放置された棚田は、草に覆われ見る影もなかった。借りてきた機械で草を刈り、また、手作業で土砂を取り除いていく。草を刈ってみると、そこには新たな被害が現れてきた。長さ数メートルの亀裂だった。そこで、土を入れ水平に直す作業が始まった。粘土質の土は一輪車一回分で数十キロの重さがあると言う。何回も何回もその一輪車で運ぶ作業が続く。運んだ土は鍬で細かく均し、水平にしていく。一枚の田んぼを修復するのに五日、延べ50人の修復作業となったのだ。
 そんなボランティアの人達に、地元農家の人達から昼食の差し入れがあった。魚沼産コシヒカリを使ったおにぎりおいなりだった。「美味しい!」と、喜ぶメンバー。しかし、その目には「来年は、自分たちで作ったコシヒカリを食べたい!」と、自分が修復している棚田が映っていたのだった。
 これから益々、大変な作業が続く棚田の修復、水路の確保や田んぼを水平にする作業が待ち受けている。「棚田を守ると言う事は、地域を守る事!」「自分たちの日本人としての心を育んできたのは・・・美しい田園風景だ!」と、この日のゲスト・新潟県出身の女優、星野知子さんが言っていた。まさにその通りだと私も思っていた。
 冬・・・五藤さんにとって始めてとなる雪国での冬だった。しかも豪雪となった昨年、古民家の雪降ろしは初体験「疲れるわ・・・!」と、思わず悲鳴が。しかし、「この雪をのりきれば、正真正銘の小千谷の市民になる!」と、力強い言葉があった。「この雪は俺を試してる!」と、笑顔の五藤さん。
 実は五藤さん、農作業が出来ないこの冬には、以前していた運送業をやろうとしていたのだった。しかし、この豪雪で毎日が雪降ろしの日々。しかも道路は雪で車は使えず、「早く、雪が溶けて欲しい!」と願いながら、蓄えを切り崩す冬となっていた。
 五月上旬。遅い雪融け・・・となった。「棚田の様子が心配」と、いち早く棚田には五藤さんと、先生役の谷口さんの姿があった。不安は的中していた。雪融けと共に大量の土砂が棚田になだれ込んでいたのだった。「想像以上だ!」と、嘆く五藤さんと谷口さん。地震で緩んでいた地盤が、雪の重さに耐え切れなくなって出来た土砂崩れだった。
 ボランティアが汗まみれで頑張った棚田だから悔しい思いが尚更募る五藤さん。だが、目の前に迫った田植えまでには、もう一度複旧をするしかないのだ。直ぐに、全国の仲間に緊急事態の一報が伝えられた。すると、急な呼び出しにもかかわらず仲間が集まってきた。そして、重機やスコップを手に再び棚田の修復へと向かった。
 被害は土砂崩ればかりではなく、一部田んぼが傾いていたのだった。予想以上のこの冬の被害だった。長い雨季に閉ざされる小千谷の気候・・・限られた田植えの時期の為に全員が複旧に尽力したのだった。「棚田を守るためには、毎年どこかここか直しながらやって行かなければならない」と、五藤さんは言う。そして、「それはキツイ事だけれども、意義がある事だ!根気よく、自然の悪戯に負けないようにしなければならない。心、引き締めて頑張るしかない!」と再び口を開いた。しかし、肝心の水路もダメージを受けていた。
 そこで、五藤さん達は新たな取水口を作る事になった。今後の事を考え、少々の事ではダメージを受けないようと、パイプを埋め込み何とか作業を終えたのだった。
 しかし、五藤さんにはもう一つ気になる事があったのだ。それは、農機具小屋が崩壊し、米作りを諦めたあの60年のベテランお婆ちゃんだった。市の災害複旧でどうにか棚田までの道は直っていたお婆ちゃんの棚田。しかし、農機具を失った為に「今年も田植えは出来ない!」と言うのだ。地震の後の大雪で益々被害が大きくなった御婆ちゃんの十枚の棚田。どれも水路は崩れ田植えは出来る状態になってはいなかった。五藤さんは「どれか、一つでも田植えの出来る田んぼはないか?」と、歩きだした。そして、ようやく一枚の田んぼを見つけた五藤さん。脇にはちゃんと水路が流れていたのだった。「いい土や〜!」と、五藤さん。これが日本一と言われる魚沼の先代から受け継がれた良質の土だった。
 田植えの前にそのお婆ちゃんの棚田に五藤さんたちメンバーが集合した。まずは倒木の除去や草刈りから作業は行われた。作業中、ふと見ると昔使われていた長いホースが見つかった。「これだ!」と、このホースを水引きに利用することにしたメンバー。勢いよく田んぼに流れる水に笑顔になるのだった。しかし、またしても問題が・・・・。この水だが、棚田の上から順番に流れてきた水ではないため、水温が低すぎるのだった。五藤さんは「冷たい水は稲には良くない!」と、言っていた谷口さんの言葉をこの時、思い出していた。
 そこで、メンバーたちは新たな水路を作り出した。つまり、長めの水路を作る事により水温が上がると考えたからだ。小千谷の農家に受け継がれてきた知恵が生きたのだった。そして、たっぷりと日の光を浴びた水が・・・米作りを諦めていた・・・お婆ちゃんの田んぼに・・・流れていった。
 この後、トラクターを運転し土を生き帰らせた五藤さん「これで、お婆ちゃん・・・田植えができる」と、笑顔を見せていた。
 5月27日、いよいよ田植えの日が来た。この日は全国から会のメンバー20人が参加した。そして、全員でコシヒカリの苗を手に棚田に向かった。この日を迎えるまでの苦労、五藤さんにとって・・・念願の田植えの日だった。
 ズボンの裾を捲くり「よし!」と、掛け声をかけ田んぼに入った。しかし・・・五藤さん・・・田植えは初体験だった。 しかも、手植えではなく・・・田植え機(一輪歩行型)での田植えだった。「斜めになってるよ!」「真すぐ行って!」「右のレバーを引いて!」「バックして!」と、メンバー達から声が飛ぶ。棚田は真四角ではない為、手植えの作業もある。ここはメンバー達が担当した。先生役の谷口さんの指導で1本づつ丁寧に植えていくメンバー達。慣れない田んぼ・・・足が抜けず、尻もちを付く女性の姿もあった。でも・・・みんな・・・笑顔だった。五藤さんも手植えとなった。「たくさん実ってくれよ!」と、願いを込めて植えていく。
 久しぶりに青々しい苗と多くの笑い声が棚田に響いていた。田植えを終えたメンバーからは「ドロドロした感触がいい!」「やっと、ここまで来たんだ。これまでの苦労を思い出すと喜びが・・・みんなでやった事が報われる!」と、嬉しそうに話している。
 田植えを終えたメンバー達、しかし次に・・・・そう、あのお婆ちゃんの田んぼに向かった。五藤さん、メンバーにお婆ちゃんを紹介した。「よろしく、お願いします!」と、笑顔のそして照れくさそうのお婆ちゃん。
 あいにく降り出した雨・・・五藤さんの田植え機は泥にはまってしまった。メンバー達が駆け寄り田植え機を引き上げる。その中には・・・お婆ちゃんの姿もあった。
「お婆ちゃん・・・元気やなあ〜。田んぼの中から引っ張り出すんだから・・・」と、五藤さん。「ハハハッ・・・」と、笑い声のお婆ちゃん。
 雨足は強くなってきた。それでもメンバーは誰一人、手を止める事はなかった。お婆ちゃんも懐かしそうに・・・慣れた手付きで苗を植えて行く。「懐かしいね・・・何年振りやろか」と、お婆ちゃん。ホントに嬉しそうな表情だ。「よっしゃ〜、バンザイ〜」の五藤さんの声。どしゃ降りの中・・・・田植えは終わった。
「ありがとの・・・」と、メンバー達にお礼を言うお婆ちゃん・・・心からの・・・笑顔が溢れていた。「お婆ちゃんとの約束・・・少しだけ果たせたような気がする」と、雨と汗でずぶ濡れの五藤さんだった。
 あの中越地震から・・・長い時間が流れたような気がする。でも・・・今年の秋、この小千谷の棚田に何年振りかの稲穂が実る。よみがえる・・・魚沼のコシヒカリの一歩だった。
 この番組をビデオで見た私は・・・泣いていた。そして横でも次男が・・・泣いていた。高須の棚田が・・・恋しくなっていた親子二人だった。


△男の酒のつまみ・・・130
 ピリ辛ウィンナーの生ハムまき!
 最近・・・いや、昔からお肉屋さんやスーパーで見かける、ピリ辛ウィンナー。単品で食べると、確かに・・・辛い!
 そこで、生ハムの上にスライスチーズ(半分)を用意し、焼いたウィンナーに巻く。レタス巻きも美味しいです!ここは冷たいビールで・・・!


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【六月の五/高須城小学校は・・・大忙し!】6月9日(金)

 今朝、テレビを付けると「全国的に雨模様のお天気で・・・梅雨入りが・・・」と、アナウンサーや気象予報士が天気図を見ながら話していた。いよいよ、梅雨の時期かと少しジメジメ?と気持ちが滅入ってしまう私だった。当然、福井も本日・・・雨となっていた。市内中心部の朝、「自転車の傘差しは禁止!」と、言われているが、何故か高校生やオバちゃんたちは平然とその行為をしている朝だった。(だって濡れちゃうからね!)
 店に着き、本日の私の予定を見ると、その雨のお陰か?出張修理が1件となっており・・・しかも、そのお宅は福井市西部だった。「おっ!ラッキー」と、思わず呟いてしまった私。父に「修理の後、高須町の田んぼの写真を撮影してくるから!」と、言い残し店を出たのだった。助手席には、今度は忘れていない・・・デジカメがある。(忘れ物はない!)
 15分で修理を終え、高須町へと車を走らせた。小雨がフロントガラスを濡らしている。いつもの道、本郷小学校周辺の田んぼの稲は、まだまだ成長期の可愛いい苗だがその小雨に濡れて一段と美しいとなっていた。
 高須町へ入る最後の坂、何やら数台の車と何人かの話し合う人達がいた。徐行で通り過ぎると、植木御大と市の職員だった。植木御大、本日もお元気そうな笑顔で「今日は何やの?」と、私に問いかけてきた。「ちょっと、棚田の写真を!」と、私が言うと「ほうか〜」と、見送ってくれたのだった。
 佐々木さんの自宅前で再び徐行・・・車庫を見た私。当然、佐々木さん(お仕事中!)の車は無く、「そうだよな!」と、笑いながら呟く私。車は高須城小学校の前を過ぎ、棚田へと続く坂道を登って行く。
 棚田が見えてきた。すると、どの棚田にもイノシシ避けの電線が張り巡らせてあった(高須町の皆さん・・・有難うございます!)FBC「げんき米」の田んぼの前に車を止め、その横にある自分の田んぼに向かった。雨により少しぬかるんでいるものの、あぜ道は頑丈なもの。少し痛い右足を庇いながら電線を跨ぎ、苗に近づいた。「どの角度が綺麗に写るかな?」と、太陽との加減でその苗を捉えた。デジカメズームに・・・
 すると、液晶画面に「バッテリー切れ!充電を・・・・」と、表示された。「えっ!嘘!」と、誰もいない棚田で声を上げた私。「俺は・・・何しに来たんだ!」と、思わず小雨の空を見上げていた。先週、妻と次男(小6)の名古屋への一泊二日。その時からデジカメの充電はしてはいなかった。「チェックしておくべきだった」と、自分で自分を・・・反省していた。(こんなもんだ!)
 先月のオーナーの皆さんとの田植え、まだそれから1ヶ月足らず。数センチだろうか・・・元気な「げんき米」の苗は育っている。こんな幼い苗が秋には黄金の実を齎す事になるのだ。オーナーとして三年目だと言うのに、やはりこの苗の成長過程には感心してしまうものだ。
 そんな事をあぜ道に佇みながら考えていると、私の足元にこれも幼いが一匹。田植えの時、おたまじゃくしが田んぼに泳いでいた・・・・「お前は・・・あの時の!」なんて少しセンチになっていた私だった。
 20分程が過ぎただろうか、私は車に乗り棚田を後にした。携帯電話の表示で時間を確認すると、11時10分だった。私は、田中先生に連絡を取ろうと高須城小学校の駐車場に車を止めた。車から降り、携帯をかけるのだが・・・・無理!
 ふと、小学校を見ると職員室と校舎2階教室だけに灯りが見えた。「石村校長先生はお留守かな!」と、職員室を見ると朝倉教頭先生のお姿があった。私は、先日の高須町体育祭のお礼をと職員室に足を近づけた。この時、校舎の2階からは授業中なのか先生の声がした為、私はそっと近づいた(不審人物か!)
 すると、職員室の窓が開き朝倉教頭先生が笑顔で声をかけて下さった。「先日は、有難うございました」「こちらこそ、お世話になりました」「藤田さん、どうぞ職員室にお入り下さい」「・・・・そうですか、じゃ・・・ちょっとお邪魔します!」こんな、朝倉教頭先生との挨拶だった(忙しい先生の邪魔をするな!)
 玄関から廊下を歩き職員室へ向かう。懐かしい校舎の匂い。「昔はみんなこんな校舎だったなあ〜」と、いつお邪魔しても思う高須城小学校だった。「お邪魔します」と、職員室の戸を開けた。職員室には教頭先生と畑先生がおられた。「どうぞ、お掛け下さい」との、教頭先生のお言葉に椅子に座った私。畑先生から美味しいコーヒーを頂いた(遠慮しろ!)
「今日・・・石村校長先生は?」と、私が聞くと「今、授業中です」と、教頭先生。校長先生自らの授業・・・これが、高須城小学校のほのぼのとした校風なのか(いいな!)
 私は教頭先生、そして若くて美人(可愛い!)畑先生と高須城小学校の児童(二人)の事や、先生の事などを色々聞いたのだった。そうそうこの美人の畑先生だが・・・先日の体育祭で気が付いたのだが、何と身長が174センチ(チェ・ジュウと同じだ!)だと言うのだ。これは学生時代に何かスポーツをしていたな?・・・と、聞いた私(バスケだったら話が合う!)。すると・・・「はい!バレーボールをやってました!」と、先生。「ああっ・・・そうですか!」(話は終わってしまった!)
 しばらくすると、授業を終えた石村校長先生が職員室に戻られてきた。「先生、お邪魔しています」と、言うと「あっ、藤田さん・・・ようこそ」と、笑顔の校長先生。すると、「藤田さん、実は今度・・・※ケーブルテレビでこの小学校が放送されるんですよ」と、校長先生。「えっ!そうなんですか!」と、驚いた私。すると、教頭先生がそのFCTVさんが置いていったという収録されたディスクをパソコンで見せてくれた。15分程に収録された映像だが、高須城小学校の児童や先生達の和やかな光景が映っている。ギターの練習(連音)や校庭での全員野球は羨ましくなるものだ。
【FCTV(29ch)にて「集まれ!ふくいっ子」6/10より07:30・09:30・12:30・14:30・16:30・19:30・21:30の7回放送。但し、競輪開催時は変更あり】
 そして、校長先生は一冊の冊子を私に見せてくれた。「藤田さん・・・これ見て下さい」と、出された冊子は初めて見るものだった。「これ、創刊号なんですよ!」と、校長先生。その創刊号だが「りすのす」と、いうものだった。私が驚いたのはその表紙だった。「これ・・・この小学校の校庭ですよね!」と、私が言うと「そうなんですよ」と、校長先生。
 そして、ページを捲ると・・・・「特集!あの頃の自分にタイムスリップ」(のどかな風景の中にある小学校を訪れて、昔懐かしい思い出が蘇る、体験をしてきました。)と、書かれてあった。
 更にページを捲った私だが、何と・・・10ページにも及ぶ特集として、高須城小学校が紹介されていたのだった。
 二人の女性が高須城小学校を訪ね、児童や先生達と触れ合いの時間を過ごした事がこの中で記されていた。「小学生の頃、わたしはどんな女の子だっただろう」時どき、ふと思うことがある。もう二度と戻れないあの頃・・・、今では訪ねる機会も少なくなってしまった小学校へ私たちは出かけた。一体、どんな思い出が蘇ってくるのだろう。あなたもほんの少しだけ、擬似タイムスリップ、してみようよ。と、見出しの下に書かれてあった。(いいね!いいね!)
 私はまるで自分の母校が紹介されたような嬉しさにかられ、その文章に惹きこまれていった。
・・・・・・・・全文を紹介します・・・・・・・・・
「ふたりの児童が通う高須城小学校へ」
〜使いこまれた校舎や遊具たちにふれて〜
 今回訪れたのは、福井市の中心部から北西に約25km、高須山の中腹に位置する「福井市高須城小学校」。周りを緑豊かな山々に囲まれ、のどかな棚田の風景の中に建つ小学校は、今にも何か楽しいことが始まりそうな雰囲気が漂う。まるでからくり時計のような学校だ。ほととぎすとカエルのハーモニーをバックコーラスに、瓦屋根の校舎と一周100mもないグランドが、「ようこそ」って私たちを迎えてくれた・・・ような気がする。色褪せた木の廊下を通り教室をのぞくと、小学生の頃先生の目を盗んで落書きをした黒板や机、音楽の時間に使ったタンバリンや木琴、今ではすっかり無縁になってしまった顕微鏡などがなつかしく目にとびこんできた。なんだかわくわくしてきたぞ。
〜出会ったふたりはギターを弾く小学生!?〜
 現在高須城小学校には、5年生の岬ちゃんと6年生の光くんが通っている。校舎に入って間もなく、音楽室でギターを弾くふたりの姿を発見した。「えっ、ピアニカでもなく、縦笛でもなく、ギター!?」小学校の音楽室にクラシックギターがあることにもびっくり。ふたりは1年ほど前から先生にギターを習い始め、6月の連合音楽会で小野リサの「星の散歩」を披露するとか。ちょっと照れくさそうに、でも大人顔負けのポーズでボサノバを奏でる姿が「う〜ん、お洒落」。
 ギター初心者の私も見よう見まねでギターを抱えて、一緒に混じってみたりして・・・。ちょっと遅れた自己紹介の後、私たちはすぐに打ち解けた。ここに流れる心地いい空気感がそうさせてくれたんだと思う。
「共に創る時間と遊びのアイデア」
〜3時間目の体育、体を使いコミュニケーション〜
 今日の授業は「きょうそう」がテーマだ。先生に促されて私たちも参加。メンバーは、岬ちゃんと光くんに教頭先生と私たち、そしてスタッフも入って計8人。
 ストレッチの後、2チームに分かれて3種目の競技を行う。チーム全員が手をつなぎ輪になり風船を落さないように運んだり、目を閉じて後ろ向きの状態から先生の合図でとっさに振り向きふたりの間に置かれた赤玉をとったり、空気ボールをお尻で押し出したり・・・。
 最初はなんだか運動会みたい・・・なんて思っていたけれど、気がつくとみんな必死の形相でやっているから笑えちゃう。全力でぶつかってくる子どもたちのペースにいつのまにか、まんまとはまってしまったみたいだ。あとで先生が、今日の「きょうそう」とは「競争」ではなく、「共創」だと教えてくれた。自分と、今日ここに集まった仲間がいて始めて共に創ることができた。みんなが一生懸命頑張ったからできた授業だったんだよって。
〜手加減なしも高須城ルールのひとつ!?〜
 休み時間のドッチボール。外野はなしで、2回当ったら抜けるというのが高須城ルールだ。小さい体育館と少ない人数で、どうしたら楽しくゲームができるか。ここで育ってきた子どもたちはみんな、こうやって知恵を使って学んでいったんだろうな・・・なんて思っていると、光くんの容赦ない高速ボールがビュンビュン飛んでくる。大勢でできる楽しさや嬉しさがボールに乗り移ったみたい。これに対し、ムキになって投げ返す大人気ない大人たち!
「昔も今も変わらない、給食の味は食本来の味」
〜出来立ての給食が食べられる至福の時間〜
♪いっただきま〜す。
 光くんに好きな授業を聞くと「体育」という答えが返ってきた。「じゃあ、給食とどっちが好き?」なんて意地悪な質問をしたら「う〜ん、それはかなり難しいなあ」と逃げられてしまった。小学生のとき、私は給食の時間が一番好きだった。今でも機械があれば食べたいと思っている大の給食好き・・・だったりする。なんと今日は特別に、ふたりと一緒に給食を食べさせてもらうことになった。運動をしたので、お腹がペコペコだ。
 調理室の横にある畳の部屋で給食を食べるから、毎日出来立ての温かいご飯が食べられる。なんて素敵な給食なの!
〜調理師さんに聞いた、知らなかった給食の話〜
♪どうぞ、めしあがれ。
 給食の後、高須城小学校で給食を作っている調理技師の出口さんに話を伺った
―毎日、給食を作られていてどんなときが嬉しいですか。
 やはり、空っぽの食器が戻ってきたのを見たときですね。残っていると、具合が悪いのかなとか嫌いなのかなと、いろいろ心配になります。
―給食の献立は出口さんが決められているのですか。
 献立は栄養士さんが作るので、私は調理だけです。でも、作るといっても家で作るような感覚とは全く違うんですよ。材料はすべて鮮度や品質等をチェックします。たまに、じゃがいもが傷んでいたりすると不良として記録しますし・・・
。  料理一つひとつに対しても、調理開始時刻や温度や保冷時間などを細かく記録しておかないといけないんです。結構厳しいんですよ。
―高須城小学校の給食の良さってありますか。
 直接子どもたちの声を聞くことができるのがいいですね。それから、パットに入れて運ぶことがないので、揚げ物などがパリッとして美味しいと思いますよ。
―最後に、給食作りで日々心がけていることを教えて下さい。
 ただ、作るだけではなく、味つけを自分なりに工夫して、毎日美味しく食べてもらえるようにと思っています。
 久しぶりの給食はなつかしくて、私の知っている「給食の味」だった。それは、化学調味料やインスタント食品を一切使わない、食べ物本来の味なんだと思う。出口さんは話の中で、給食が栄養面や衛生面はもちろんのこと、食品や調理管理、検査といった面でも細心の注意が払われていることを教えてくれた。私たちが食べていた10年以上前の給食も、今の栄養士さんや調理師さんをはじめ多くの人たちのおかげで、安心して食べることができる。給食ってすごいぞ。
「大切な忘れものを見つけた夢の時間」
〜校長先生も参加する遊びや掃除の時間〜
「私たちの仕事はこうして子どもたちと遊ぶことなんです」と笑顔で話す石村校長先生。ここでは校長先生も休み時間の野球や掃除に参加する。1塁は木、2塁はサッカーゴール、3塁は鉄棒。塁の付近に打者より早くボールを投げればアウトになるという、ドッチボール同様高須城ならではのオリジナルルールだ。光くんが投げたボールを教頭先生が打って、それを追いかける校長先生。「いいんです、いいんです」と言って、先生は何度も場外ホームランを取りに行ってくれた。私の持っていた校長先生のイメージとは違って、すごく親しみやすくて子どもたちに近い存在だ。
 昼休みの後の掃除も、全員で体育館と廊下の掃除をした。モップには1本ずつみんなの名前が入っている。もちろん校長先生のも。
〜家族のような学校で出会った小学生の自分〜
「何しに来たの?」「どうして?」疑問に思ったことはすぐに質問してくる岬ちゃん、率先して積極的に行動する光くん、意外に!?野球が上手な校長先生、ギターが趣味なんて格好よすぎる教頭先生、子どもたちのアイドル!?畑先生、そして毎日美味しい給食を作ってくれる出口さん。みんな私たちを笑顔で迎え入れてくれ、「またいつでも遊びに来て下さいね」と声をかけてくれた。卒業生でもないのに、児童のひとりになったような気持ちにさせてくれた高須城小学校は、子どもたちと先生がまるでひとつの家族のような、そんな温かさを感じる学校だ。
 子どもたちと過ごした時間は、まるで本当に小学生時代にタイムスリップしたみたいだった。そして思い出したあの頃の自分。私も光くんと同じ体育と給食が大好きだった。でも岬ちゃんと違って人見知りするタイプだったなあって。
あなたはどんな小学生だった?(おわり)
「りすのす」県内の美容室や雑貨店などに配布するフリーのタウン誌で女性を中心に人気上昇中!約4万部を発行している。《なお、高須城日記内への掲載につきましては発行元の株式会社エクシート様のご了解をいただいております。ご協力ありがとうございます。》
・・・・と、若い女性ならではの優しい文章に「いいね!」と、職員室で夢中になり読破していた私だった。(感動した!)
 その時だった、小学校前の道をワンボックスカーが棚田の方に通り過ぎて行った。「ん・・・今のは?」と、ある人物を想像していた私だった。
 石村校長先生や朝倉教頭先生、そして畑先生と、給食の出口さんの先生方と、児童2人のこの高須城小学校は居心地が良くついつい時間を忘れてしまいそうになっている私だった。「お邪魔しました!」と、学校を後にした。そして、あのワンボックスカーの後を追ったのだった。
 棚田の手前、昨年秋のはさがけをした場所に止まっていたワンボックスカー・・・私の車に気付くと、手を挙げたのは・・・川島アナだった。そう、この日は「高須城ものがたり」の撮影日だったのだ。地元のおばちゃんと川島アナ、それにカメラマンの3人が小雨の中、ジャガイモを植えた畑にいたのだった。
「足・・・大丈夫?」と、私が聞くと「もう、大丈夫です!」と、川島アナ(やっぱり・・・若い人は治りが早い!)。東京帰りの川島アナ、疲れも見せず次回放送に向けて番組作りに頑張っていたのだった。「私たち、昼食の後に小学校におじゃまして連音の練習風景を覗きます!」と、川島アナ。私も同行しようかなと考えたのだが・・・止める事にしたのだった。この決断?が・・・よかったのだった。
 高須町を後にした私、助手席にはバッテリー切れのデジカメと・・・小学校で校長先生から頂いた「りすのす」が一冊。
 正午過ぎ、自宅に戻り軽めの昼食を済ませた私。お昼休みを利用して高須城日記の原稿を整理し始めたその時だった、パソコン横の電話が鳴ったのだ。電話は順化小学校の先生からで、次男の体調が悪いので迎えに来て欲しいとの内容だった。「よかった!」と、あの時、高須町で川島アナに同行してれば30分以上の時間がかかっていたはず。何か不思議なものを感じた私だった。
 順化小学校の職員玄関に着くと、次男に二人の先生が付き添っていて下さっていた。保健の先生と、高須城小学校の石村校長先生の奥様(順化小学校勤務)だった。「今まで高須城小学校にいたんですよ!」と、私が話すと「そうなんですか!」と、優しい笑顔の奥様だった。「すいません、ご迷惑をおかけして」と、次男がお世話になったことにお礼を言い学校を出たのだった。車の助手席に次男を乗せ自宅に戻った私だが・・・次男の体調は・・・微熱が少し・・・だった。
「お前・・・身体を鍛えろよ!お父さんと朝・・・走るか?」と私が言うと「うん・・・お父さんの足が治ったらね!」と、次男(自分の足の事・・・忘れていた!)。
 ほんの数時間の間に2校の小学校にお邪魔した私。高須城小学校は色々の取材や連音の練習で大忙し・・・順化小学校は次男の件で大慌て・・・となっていた(変な一日!)
 そうそう、この創刊号の「りすのす」だが何故、高須城小学校を特集として取り上げたかだが・・・「ある器材を高須城小学校でお借りした際、余りに良い雰囲気の学校だったから、是非に取材したいと思ったんです!」と、電話で答えてくれた、スタッフの女性でした(わかる、わかる)


△男の酒のつまみ・・・131
 たこ焼き!?
 妻がスーパー帰りにたこ焼きを買ってきた(珍しい!)。晩酌のつまみに・・・たこ焼き?と考えたのだが、いざ食べてみると・・・意外に・・・いける。
 大阪では、お好み焼きがオカズになるそうだから、たこ焼きをつまみにしても、おかしくはないはず!熱々ホクホクのたこ焼きも・・・美味しいものだ。因みに、Aコープ日光店内のたこ焼きは私のお気に入りの味です!(美味しいですよ!)


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【六月の六/「げんき米」がお江戸に参上!】6月10日(土)

 朝、目が覚めると何やら隣のリビングで笑い声が聞こえてくる。枕元の時計を見ると、まだ5時前だった。「馬鹿な!」気のせいと思い、再び目を閉じると・・・やはり・・・微かに笑い声がする。布団から起き出した私はそのリビングのドアを開けると、次男(小6)がパソコンの前に陣取り、最近人気のオンラインゲームをしていた(おい、おい!)。昨日、体調不良で学校を早退した次男・・・もう治ったのか?
「おはよう」と、次男。
「おう!おはよう」と、私。
しかし、
「おはよう・・・じゃないよ、朝早くからゲームしてるんじゃないよ!」と、怒った私(親として当然!)。 「うん!」と、言いながらキーボードを打つのを止める次男だが、
「でも、いつもお父さんやお母さんがパソコン使ってるから・・・僕の使う時間ないんだもん・・・」と、次男(確かに!)
「早く目が覚めたから、いいかなって思ったんだ!」と、落ち込む次男。
その姿を見ていると何だか可哀想に思った私は
「じゃ、9時までね」と、ゲームを許したのだった(やっぱり親バカ!)
 長男の時もそうだったのだが、このオンラインゲームを見ていると、ゲームそのものよりもいつの間にかそのキーボードを打つ指の早くなった事に驚く私(子どもは早い!)。
「まあ・・・いいか!」と、いつものようにコーヒーを飲みながらその次男の姿を見ていた私の朝だった。
 土曜日、パソコンで遊ぶ次男は当然学校が休みである。しかし、自営業の私は関係ない。福井市内、鯖江、美山とお客様のお宅に修理に出かける。しかし、いつもより少し車のスピードは速くなっていた。それは・・・夕方からのある番組を生で見なければならないからだ。
 その番組とは勿論、FBC「イケてる福井」(17:OO〜17:45)なのだが、本日の放送は川島秀成アナウンサー東京にて福井のコシヒカリをPRすると事前に聞いていたからだ。
 その福井のコシヒカリだが・・・・実は、高須産コシヒカリ「げんき米」が、何と・・・・・東京の皆さんに初お披露目となったのであった。(やった〜!凄いぞ!)
 そして先月、高須町の植木御大や佐々木さん、それに田中先生と私、そして川島アナの5人が試行錯誤して完成させた「げんき米」チラシもそのPRを兼ねて箱根の山を越えたのだった。

 夕方4時50分、テレビの前には私と次男が座っている。放送時間は分かっているものの、何度も新聞のテレビ欄で確認してしまう私。「お父さんがOKって言ったら、録画ボタンを押せよ!」「ラジャー!」と、似た者親子。
 そして・・・番組は始まった。「イケてる福井」《コシヒカリ生誕50年で知名度アップへ!》のタイトルだった。
 冒頭から川島アナ、やってくれました。あの高須町の田植えの時、被っていたあの・・・農作業用フードで登場したのだった。

 しかもその場所とは・・・日本テレビ本社(汐留)の17階の社員食堂だった。普段は社員しか利用できないこの社員食堂だが、この日は一般の見学者も利用できるのだ。その訳は・・・日本全国から「こだわりの食材!」を集めたイベントを開催していたからだった。で・・・その中に福井県を代表して高須産コシヒカリ「げんき米」が参上したのだった。(いいぞ!)
 その川島アナ、食事をしている皆さんにインタビューをした。「コシヒカリって、どこで生まれたお米か知ってますか?」だった。すると「えっ〜新潟ですか?」(名古屋・女性)と、答えた。川島アナは「実は福井で生まれたお米なんです!」と説明すると「そうなんですか!」「すご〜い!」と、意外な答えに驚きの表情を見せる女性たち。
 別の席の皆さんに同じ質問をしていく川島アナだったが、「新潟ですか!」「福井県なんです!」と、くり返されたのだった。やはり・・・コシヒカリ新潟のイメージがあるのですね!
 この番組の司会を務めるのは、「ごはん大好き!」伊藤裕樹アナウンサーと、「味にこだわり!」の野田美佳子アナウンサー(お久しぶりです!)だった。スタジオの両アナの前にはお茶碗に入った炊きたてのコシヒカリ(げんき米!)があった。
「美味しそうですね!・・・艶がありますよね!」と、口にした伊藤アナ・・・「うん、美味しい!」と満足そうな顔。
そして、この日はもう一つ、ごはんが入ったお茶碗が用意されていた。
「こちらも食べてみてください!」と、野田アナ。
「うん、こちらもコシヒカリですね!」と、伊藤アナ。
この二つ目のごはんだが・・・あの新潟県魚沼産のコシヒカリだった。
「あっ!あの有名な・・・初めて食べました!」と、伊藤アナ。
「ブランド力がありますよね!」と、野田アナが紹介したのだった。
そこで、野田アナは食べ比べた伊藤アナに
「味の方はどうですか?」と、聞いてみた。すると
「いや〜変わらないですよ!」と、伊藤アナは言うのだった。
私も以前、魚沼産コシヒカリ(高級品)を食べたのだが・・・・思い込み(高価なものは美味しい!)による部分が多々あった事を思い出していた。
 福井を代表するコシヒカリが生まれて今年で50年。その節目の年に、この番組はコシヒカリに纏わる農業の色々な物を取り上げようというものだった(さすが〜FBC!)
 福井県農業試験場での400人(県内外)による田植え風景が映しだされていた。この福井県農業試験場こそコシヒカリが生まれた所、「農林22号」「農林1号」がかけあわされて出来たものが、コシヒカリなのだ。開発したのは故・石墨慶一郎技師だった。昭和23年の福井地震を逃れ、昭和31年に誕生したコシヒカリだが、その道のりは石墨技師と仲間の研究グループによる、並々ならぬ努力が実を結んだものだった。
 しかし当時、この生まれたコシヒカリは必ずしも「これだ!」と、言うものではなかったというのだ。イモチ病に強い早稲品種改良に取り組んでいた彼らは、このコシヒカリ(イモチ病に弱く、早稲ではない)をどうしようかと悩んでいたらしい。このコシヒカリは、米質が良く、熟色が優れていたのだった。
 そこで、捨てる寸前で彼らは「もう一年・・・見てみよう!」と、残したのが最初だったと言うのだ。つまり、その時捨てられていれば今のコシヒカリは・・・・生まれていなかったのだ。
 コシヒカリの名前は「越の国に光り輝く」と、願いを込めて命名され、その後、新潟県や千葉県で奨励品種として作付され、全国に広がり栽培される事になったのだ。コシヒカリの特徴だが、炊いたご飯は味があり、光沢そして強い粘りがある。これが消費者に喜ばれるらしい。そして、北から南まで日本の気候に合い、寒さに強く広い地域で栽培でき、しかも良質のお米が出来るのが、このコシヒカリの特徴なのだ。昭和54年には、栽培面積日本一となり現在でも全国43都道府県で栽培され、日本一は変わらない。
 全国シェアでは、コシヒカリ38%、ひとめぼれ11%、ヒノヒカリ10%、あきたこまち9%、キヌヒカリ3%、その他29%となっていて、全体の80%がコシヒカリの関連品種となっている(凄いんでないかい!)
 福井県内でのコシヒカリの作付面積だが、1万9600ha(東京ドーム4千個分)で、全国10位(昨年)となっている。また、お米全体の作付面積は減少傾向にあるのだが、昨年の県内の水稲作付の割合は、コシヒカリ69,4%となっている。
「病気に弱い!倒れやすい!」と、言われたこのコシヒカリだが、生みの苦しみ・・・そして農家の皆さんの育ての苦しみが「日本一のお米!」と、言われるゆえんなのだ。
 そして、先に紹介した福井県農業試験場では、更にこのコシヒカリを超える品種を目指しているのだと言う。それは、「イモチ病」に抵抗性のある品種を研究しているのだが、その研究内容とは、10年の歳月を費やし約5千もの品種を交配させ、その中から1〜3本の品種を選定するらしいのだ。
 一昨年の「イクヒカリ」(コシヒカリのひ孫もこのような研究者の努力の中から生まれた。しかし、「まだまだ改良しなくてはならない部分が多くある!」と、技術者は言うのだ(ご苦労様です。そしてこれからも頑張って下さい!)・・・・。  場面は変わり、再び東京汐留・・・日本テレビ前。
「♪ひさしぶりに手をひいて・・・」(「東京だよ、おっかさん」歌、島倉千代子)を歌いながら登場した・・・川島アナ。 「ほら・・・ここが、汐留・・・日本テレビだよ!」と紹介した(本日の川島アナ・・・ハイテンション!)
 日テレ17階の社員食堂では、《日テレECOウィークエンド》として『ロハスなフードコート』を開催していた。
「身体に優しい食材!」を用いたエコ食堂では、人気番組のズームインスーパーから「ズーミンの卵」と言うライスコロッケや、世界一受けたい授業からは「頭の良くなる?!野菜たっぷりカレー」などが出されていた。そしてこのいずれもが「げんき米」を使用しているのだ。
 再びその味の感想を聞く川島アナ。「美味しいです。もちもちした感じで・・・」(女性)「甘みがあるね!」(男性)と、すこぶる好評の様子。しかし、コシヒカリが福井県で生まれたことを川島アナが言うと・・・・やはり「新潟じゃないの?」「新潟はお米の産地だから・・・」と、答えが返ってきたのだった(もっとPRしないとね!)
 次に、前にこの日記で紹介した六本木ヒルズでの田植えが紹介された。セレブ族と言われる皆さんが田植えの初体験となったのだ。この田植えに用いられた苗だが「コシヒカリ生誕50年!」にちなみ、50年前のコシヒカリの原種の直系だった。県の農業試験場でこの日の為に大切に育てられた苗を参加した皆さんは丁寧に1本ずつ植えて行った。そして、田植えを終えた皆さんに「げんき米」おにぎりが川島アナからふるまわれたのだった。そのお味の感想は・・・・・・「美味しいですね!」(飲食関係・女性)と、好・感・触
 川島アナはこの飲食店関係の女性に「福井のコシヒカリをお願いしますよ!」と、PRしたのだった。そして、続けて早乙女姿の女性には高須町棚田の写真パネルを数枚見せ「こんな所で美味しいコシヒカリが穫れるんですよ!」と、高須町の棚田もPRしてくれたのだった。
  

 このパネルだが、川島アナが東京に立つ前に、明道中学校の職員室「是非、持って行きたいんです!」と、田中先生に制作を依頼したものだった。因みに、写真は地元高須町の佐々木さんと田中先生、それに私が撮影したものだった(嬉しいような、恥ずかしいような・・・!川島アナ・・・ありがとう!)
 そして、次に川島アナが訪ねたのは目黒区にある愛米家本舗(あいまいやほんぽ)だった。実はこのお店を経営するご夫婦は・・・お米アドバイザーとして有名な方だった。このお店の扱うお米は、全国各地から厳選したお米だけというもので、販売方法も玄米から自家精米してのお客様に渡すというのだ。また、お客様がその各地のお米の味を分かり易くするために、多くの種類のおにぎりも販売しているのだった。
 この日、この愛米家本舗では「本日は福井県こしひかり使用!」と、ポスターを貼り「げんき米」おにぎりを店先で販売してくれたのだ。
 店主の愛米家本舗代表、高柳良三さんは「新潟県のこしひかりと、福井県のこしひかりを用意して、もし、目隠し状態でお客さんに食べてもらえば・・・五分と五分で戦えると思うんですよ!」と、嬉しいコメントをくださった。「イメージですかね?」と、川島アナが聞くと「知名度ですよね!」と、高柳さん。そして「東京の人は新潟・魚沼産のコシヒカリがダントツに上だと思い込んでいる!・・・かってに思い込んでいるんですよ!」と、話してくれた。そして、この店に置いてある「指定登録、あきた白神農協産 秋田 あきたこまち提携販売店」と、書かれた立派な木彫りの看板を見せてくれた。つまり、このような看板がある事により消費者は、市場に確かなお米が出ているのだという証になると言うのだ。
 これは、紀州・備長炭でも三重の松坂牛でもこのような看板が契約店に置かれていて、消費者の食の証の一つになっていることからも分かる。「福井県○○産○○米!という確かなものが求められている。そして、ここから問屋や小売店とつながりが出来れば市場が自ずと出来るはず!」と、高柳さんは言うのだ。さらに「福井産のコシヒカリをもっと食べてもらえば、ある日突然、お米は新潟だけじゃないわよね・・・と言う意見も出てくるかもしれない!」と、話すのだった。お米のプロである高柳さんが「新潟には負けてない!」と言ってくれた「福井のコシヒカリ」の味、後は・・・・だけですよね。
 とにかく、福井県コシヒカリブランド米として有名な新潟魚沼産に負けないように・・・川島アナは東京で孤軍奮闘で頑張ってくれました。お疲れ様でした。(新潟出身のこしひかり娘・大島さやかアナ・・・ごめんなさい!)
 福井県福井市高須町棚田でとれたコシヒカリ「げんき米」が、東京に進出第一歩の記念日となったのだった。


△男の酒のつまみ・・・132
 冷た〜い、ところてん!
 この時期になると少し冷たいものが恋しくなるのだが、酒のつまみとして、「ところてん」がお勧めの一品となる。ツルツルしたそののど越しが・・・たまらなく・・いい。


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【六月の七/寝れば・・・よかった!】6月12日(月)

 人間は歳を取ると、早起きになると言うのだが、まさしくその言葉通りになっている私。毎日、5時前には必ず・・・いや、一度は目を覚ます事となっている。高須町の佐々木さん「いや〜最近、早く起きるんやわ!」と、同じ50歳の中年男性の嬉しいような、悲しいような悩みの一つとなっている。2週間前の怪我で右足踵を亀裂骨折して以来、恒例の早朝ジョギングは中止となっているものの、じっとしてはいられない性分で、「動いていけませんよ!」と、医者から言われる程・・・・何故か動きたくなるものである。車の運転でも、アクセルを踏む度に少しの激痛を感じる私、「あっ、痛い!」と、口に出すと助手席の次男(小6)「お父さん・・・大丈夫?」と、可愛い言葉を投げかけてくれる(有難う!)。それに比べ、妻は「じっとしてれば!」と、冷たい一言で片づける(ふん・・・だ!)
 そんなこんなの今朝の事、いつもより早く4時過ぎに起床した私。自室のテレビの前に座りスィッチを入れた。昨日の夜だが、妻に「ワールド・カップの前に何か嬉しいニュースが日本に飛び込んでくるかも!」と、話していた私。それはジーコ・ジャパンの対オーストラリア(夜10時)を前に、アメリカで行われている女子ゴルフの全米女子プロ選手権で我らが宮里藍選手がメジャー優勝するかも知れないという事だった。4日間のこの大会、3日目までのプレーを終えて藍ちゃんは7アンダーで首位タイにいたのだ。暗い話題が続くこの日本で、もし藍ちゃんが優勝すれば・・・この優勝は日本中が待ち望んでいる嬉しく明るいニュースとなるはずだ。スポーツ大好きな私としては、いつもの調子で「生で観たい・・・テレビでも!」と、早起きとなっていたのだ。
 妻も次男も当然・・・まだ・・・熟睡中だ。下で寝る私の父(82歳)だが、普段なら4時前に起床して店を開けに行くのだが、昨日行われた福井市民サイクリング大会で少し疲れた為か、まだまだ起き出した音は、この2階に聞こえてこない。そうそう、そのサイクリング大会で父は坂川優・福井市長(協会会長)の代理で挨拶をしなければと・・・前日遅くまで何やら挨拶の文句を考えていた事も・・・遅い起床の原因なのか(一応・・・親父は副会長です!)
「ボコボコ」と、コーヒーがいい香りをたてている。眠気覚ましにと、ブラックで飲む。テレビの画面(多重)では全仏テニスやら海外ニュースやらと画面半分の局が放送している。
 4時半、父が起き・・・廊下を歩く音が聞こえる。車庫のシャッターが開き、自転車のスタンドを蹴る音がする。ぺダルを扱ぐ音・・・カーブでのブレーキ音・・・遠ざかる音。暫くすると、バイク音が近づいてきた。新聞配達の方だった。「キィーッ!カッシャン!」バイクのブレーキ音とポストへの新聞の投函音。いつもの変わらない朝の音だった。
 5時。「待ってました!」と、ゴルフの中継が始まった。気になる藍ちゃんの順位は・・・スコアを1つ伸ばし8アンダーでまだ首位タイと健闘している。「よし!」と、気合が入る私(何で?)
 今年春からアメリカで転戦している藍ちゃんだが、その12戦目のこのメジャーでの最終日最終組は何とも頼もしく感じられる。ついこの間まで東北高校の生徒だったのに、もう21歳となる日が近い藍ちゃん女王アニカ・ソレンスタム(スエーデン)、カリー・ウェブ(アメリカ)、16歳のミッシェル・ウィー(アメリカ)と、強豪は多い。そして実力派揃いの韓国勢は手強い存在となるはずだ。
 先週に続き、2週連続での最終組となった藍ちゃん。その先週は最終日でトップから13位に後退してしまった。アメリカの渡り、この最終日のスコアメイクが課題となっている藍ちゃんは、このメジャーで問題の最終日をどうまとめるかが見所である。8アンダーからスコアは動かない。下位にいた優勝候補と言われている選手は軒並みスコアを伸ばしている(やばい!)
 藍ちゃんのスコアが伸びない要素にパー5でバーディーが取れない事が理由としてあげられる。大型の外国選手のようにセカンドでグリーンを捉え、イーグルチャンスとはいかなくても、確実に3打でピン側に寄せ、バーディーを取りたいのだが逆にスコアを落している藍ちゃん。「あ〜あっ!」と、溜息が漏れてしまう。
 イン(後半)に入り、11番の問題のパー5でまたまたボギーとなった藍ちゃん。首位とは3打差の5アンダーまでスコアを落としてしまった。「やはり・・・今日もダメか!」と、私も諦めムードとなった。しかし、首位に立つ選手がスコアを伸ばせない・・・いや、落す選手まで出ている。これがメジャー大会のプレッシャーなのか。首位は8アンダーとスコアは動いていない。そして藍ちゃんのチャージが始まった。
 13番(パー4)、16番(パー4)バーディーを取り、首位と1打差まで迫ってきた。残り2ホール「よし・・・頑張れ!」と、私も自分のゴルフバックからテーラーメードのドライバーを取り出し、強く握り締めていた(何で!)「あと一つ!」と、首位に返り咲きをこの時、心から願っていた。
 解説者も話に熱が入る。「連続バーディーで逆転・・・しかし、後1つでも・・・プレーオフまで行けば!」と、興奮している。
 しかし、・・・・続く17番(パー3)でボギーを叩いてしまった藍ちゃん。万事休す!となった瞬間だった。最終18番で意地のバーディーを取ったものの、首位とは1打及ばず7アンダー3位タイでこの大会を終えたのだった。優勝は、カリー・ウェブ(01年のこの大会優勝者)とのプレーオフを制した韓国の朴(パク)セリ(98,02年のこの大会優勝者)だった。
「あ〜ぁ!惜しかった」と、再び溜息を漏らした私だが、宮里藍選手の大健闘に心から拍手を送っていたのだった。この大会を終えて、藍ちゃん賞金ランキング15位となり、ここまでのそのトータル獲得賞金は、308,994ドルとなった。これを日本円に直すと(嫌らしい!)35,534,310円(1ドル・115円で計算)となる。(う〜ん凄い!たった五ヶ月間で・・・!)
 2月の開幕戦(SBSオープン)48位から、12試合を終え予選落ちとなったのは1試合(ミケロプ・ウルトラオープン)だけと、今のところ安定感がある藍ちゃんである。
 2週間後には、これもメジャーとなる全米女子オープンが始まるが、是非・・優勝を目指して・・・ほしい!(お願い!)
 日本のゴルフ界(男女)において、アメリカで優勝したプロ選手は沢山いる。古くは、中村寅吉(正式にはカナダカップ)・・青木功・・・樋口久子・・岡本綾子・・小林浩美・・福島晃子・・そして、丸ちゃんこと丸山茂樹だ。だが、メジャー優勝となると現・女子プロゴルフ協会会長の樋口久子さんの一人だけとなる。しかも、1977年のこの全米女子プロ選手権という29年前の古い話となる。だから、この宮里藍ちゃんには・・・日本中のゴルフ関係者やファンが期待しているのだ。
 ところで、この宮里藍ちゃんなのだが昨日のプレー終了後にアメリカの放送局からインタビューを受けていた。しかも、通訳なしでだ。「もう、あなたには3回目のインタビューですから大丈夫ですね・・・通訳なしで?」と、藍ちゃんにマイクを向けた。そして、確実な・・・英語で・・・笑顔で答える・・・藍ちゃんがいた。日本の放送局(司会者・解説者)もこのインタビューの様子を黙って聞いている。その受け答えが・・・凄い!専属キャディーが英語の先生役と聞いていたのだが、僅か半年間でこれほどまでに英会話を習得している藍ちゃんに再び脱帽となった私だった。
 ワクワクと早起きして・・期待してテレビ中継を見ていた私だったが、「しょうがないや!」と、少し遅い出勤なっていた。一番悔しい思いをしているのは藍ちゃん本人のはずと、分かりながらも・・・何か胸の奥に暗い影が立ち込めていたのだった。夜の大一番となるワールド・カップのジーコ・ジャパンに期待して仕事をしていた私だった。
 お昼、明道中学校の田中先生との電話でも「先生、今日のサッカーは是非、見ないと!」と、頭の中はドイツで共に戦うサポーターのようになっていた(スポーツバカ!)
 夜7時、リビングにてニュースを見ていた私に次男が話しかけてきた。「お父さん・・・今日は・・・飲まないの?」と、いつもこの時間には晩酌している私だから、その異様な光景?に何故か不思議そうな次男の顔。続いて暫くして妻が「飲まないの?」と、次男と同じ言葉を投げかけてきた。
「後から・・・!」と、私の言葉に全てを悟った妻と次男。そう、晩酌の時間を日本戦の開始時間(10時)に合わせていた私(楽しみなんだもん!)
 9時半、台所で晩酌のつまみを用意していた私。妻と次男は・・・お風呂となっていた(おい、おい!)。リビングのいつもの席に陣取り、「さあ〜、いつでもOK!」と、準備万端の私。テレビスポーツ中継(夜の部)「今度は!」と、胸を膨らましていたのだった。
 10時、いよいよ対オーストラリア戦が始まった。「もし、途中で寝てしまったら必ず起こしてね・・・お願い!」と、私とテレビ中継を一緒に見るのを楽しみにしていた次男だが、この時すでに・・・自室で・・・爆睡中!妻も「日本が勝つのが・・・楽しみだね!」と、話していたのに「貴方といると、煙草の煙が・・・・!」と、捨て台詞を残し、寝室のテレビで見ている(いいさ!)
 氷・・・レモンスライス・・・焼酎・・・水の順番で、いつものように晩酌開始。だが、国歌斉唱までは飲まない私。この日の競技場では歌はなく国歌だけが流れていた。それでも私はその場に正座し敬礼でその時間を過ごしていた(さすが・・・元・航空自衛官!)
 そしてキックオフ・・・日本中が注目する試合が始まった。
 誰もが日本の勝利を信じている試合だ。開始早々、オーストラリアの激しい足元へのスライディングが目に付いた。「これは・・・!」と、少し嫌な予感。ボールコントロールのパス回しが日本チームの要となるため、激しいこのディフェンスは正確なパスとはならないからだ。「大丈夫か?」と、心配しながら見ていた私。どう見ても多く感じるオーストラリアチームのファールだが、主審は日本選手のファールを取っている。ドキドキ・・・ドキドキと自分の鼓動が聞こえそうな私だ。しかし前半26分、ついに歓喜の瞬間がきた。中村俊介のパスが相手キーパーの頭上を超え、そのままゴールとなったのだ。「やった〜・・・いいぞ!」と、声をあげた。しかし、今のプレーは日本の反則なのではと疑っていた。だが主審は「ゴール」を認めた。「変なの!」と、主審の目を疑う私だが、タナボタの1点に「よし!」と、ガッツポーズだった。この時までは誰もが「楽勝・・・!」と、疑わなかっただろう。
 そして問題の後半、坪井の足の痙攣で選手交代のジーコ監督。「えっ・・・何で交代なの!」と、首を傾げた私。疲れの見え出してきたフォワードの高原&柳沢を下げ、元気な大黒&巻、玉田そして小笠原&稲本を出せばいいのにと考えていた。そして、小野の交代で・・・「何で・・・?」と、再びジーコ監督の起用が分からなくなっていたのだった。「攻撃なのか守備なのか?」そして、残り10分で・・・・悲劇は起ってしまった。屈辱の3点
 誰もが・・・唖然・・・となっていただろう。この試合で負けたのは選手では無く・・・名将ヒディング監督初陣ジーコ監督だった(寝れば・・・よかった!)
 朝早くからのゴルフ中継と、夜遅くのサッカーまでスポーツ中継に一日歓喜していた私だが、今一・・・もやもや気分となっていた。それでも・・・・次の勝利を信じてますよ!藍ちゃん・・・そして・・・サムライ・ブルーの選手たち


△男の酒のつまみ・・・133
 豚の角煮!
 たまに食べたくなるこってり系!豚バラ肉を紐で縛りお湯で約1時間・・・グツグツと。余分な油が出ますよ。
 次に、その豚肉を食べやすい大きさに切る。タレは酒・味醂・醤油それに黒酢(少々)を鍋の肉が隠れるぐらい入れる。生姜ネギ、あれば八角を入れ蓋をして中火で煮る。汁が無くなる頃が食べごろですよ!カラシをつけてお召し上がり・・・下さいネ!「まいう・・・!」


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【六月の八/川島アナは、夏野菜作り!】6月14日(水)

 早朝5時、久しぶりにジョギング・・・いや、散歩にと自宅を出た。右足にはまだ少しの痛みが残るのだが、強めのテーピングとその上から固定用サポーターをしている私。何日ぶりだろう、やはり朝は気持ちが良いものだ。いつものコースをゆっくりと歩く私。いつもこのコースですれ違う人。「おはよう!」「おはようございます!」と、まるで何か数年ぶりに会ったような変な感覚になっている。
 生温かい風が吹く足羽川の堤防「梅雨が近いな!」と、呟いてしまう。そんな時、いつも犬を連れて散歩しているおばちゃんが私に声をかけてくれた。
「お兄ちゃん・・・足・・どうしたの?」と、おばちゃん。
「あっ、おはようございます。足ですか・・・ちょっと・・・ドイツでサッカーをしまして、怪我を・・・」と、ジーコ・ジャパンへのあてつけのような冗談を言った私。すると
「え〜っ!ドイツで、暫くお兄ちゃん見なかったものね。お大事にね!」と、マジなおばちゃん(冗談が通じなかった!)
「嘘、嘘!」と、おばちゃんに正直な怪我の理由を言うと
「なんや〜!お兄ちゃん、マジメな顔して言うんやから・・・信じちゃった!」と、おばちゃん。この時、おばちゃんに紐で引かれていたは・・・私のその右足を舐めていたのだった(おい!おい!)
 ゆっくりと・・・ゆっくりと・・・歩いていた。部活の早朝練習だろうか?男子高校生が自転車で私を追い抜いていった。「懐かしいなあ〜」と、私の高校生時代を思い出していた。バスケにのめり込んでいた、あの頃。誰もいない体育館で授業開始のチャイムが鳴るまで何百本もシュート練習をしていた私。「シュ!」という音がバスケのリングネットを揺らす。「ダンダン・・・」と、コートにボールの音が響く。あれから何年経ったのだろう?(35年だ!)
 体育館の隅でタオルを手に私が練習を終えるのを毎日待っていた下級生の女子(自慢話か!)。大学出で採用されたばかりの女性の先生、「藤田君・・・体育の先生になったら!きっと女子生徒からモテるよ!」と、話してくれた(またまた自慢話かよ!)
 当時のバスケット部の顧問の先生・・・今は某高校の校長先生だ(今度、会いに行きます!)「藤田はシュートが上手いな!」と、誉めてくれた。
 県大会の抽選で2回戦は北陸高校となった時、「棄権しようか?」と、冗談を言った先生(冗談じゃなかったかも!)。 106対19・・・で、負けた。しかも北陸はレギュラーメンバーじゃなかった。そんな事を・・・遠ざかる高校生の後ろ姿を見ながら思い出していた朝の散歩の私だった。
 水曜日・・・と言えば、FBC「げんき米プロジェクト・高須城ものがたりの放送日だ。先週の金曜日、高須町の畑で収録していた川島秀成アナウンサーの登場だ。今回で早くも7回目の放送となる「高須城ものがたり」
過去の放送はというと・・・・
第一話 4月12日 〜「種もお目ざめです」の巻〜
第二話 4月19日 〜「げんき米、2年目のジンクスは」の巻〜(タイトルがなかったので多分、こんな感じ!川島アナ?)
第三話 4月26日 〜「畑さんとはたけで農作業」の巻〜
第四話 5月10日 〜「チエコさんはコシヒカリの先輩」の巻〜
第五話 5月17日 〜「素早く楽しくきれいに田植え!」の巻〜
第六話 5月31日 〜「長寿の秘訣は『運動会』?の巻〜
でした。
 そして、本日の放送は・・・〜「野菜も『相性』が大切の巻〜だった。棚田の「げんき米」田植えから約1月。すくすくと育っている。今年から野菜作りを始めた川島アナ、先月植えたジャガイモの他に何やら他の野菜もと考えていた。そこで、閃いた夏野菜・・・どこかでを大量に買い込んできたのだった。
 訪れたのは高須町の一軒のお宅。「こんにちは!」と、声をかけた。すると一人のおばちゃんが出てきたのだが、何とそのおばちゃんは寝巻き姿だった。「夏野菜の植え方を教えて下さい!」と、話す川島アナにおばちゃん「こんな寝巻き着てるから・・・」と、恥ずかしそう。
 川島アナの手には夏野菜の苗が入っている。「これ、何の野菜か分かりますか?」と、おばちゃんに聞いてみた。「ほりゃ、分かるわの!」と、農家の意地のおばちゃん。「これは茄子、これはキュウリ!」と、当てていく。「凄い!」と、おばちゃんを誉める川島アナだが・・・(農家のおばちゃんに失礼では!)
 そこで、川島アナ今度は白い花の付いたを見せたのだった。「これ・・・何だか・・・分かる?」と、川島アナ(何故か、得意顔!)。そこに現れたもう一人のおばちゃんも加わり・・・「菊菜か??」と少し自信なさそうに声にした。ここで川島アナは種明かし「これはね・・・ハーブです!」と、教えたのだった。すると、「そんなもんは知らん!」「そんなもんは作らんわ!」と、笑顔で応戦するおばちゃん二人だった。
 今からこの夏野菜で植える事をおばちゃんたちに話す川島アナに後からきたおばちゃんが、「私、行ってあげる!」と、臨時のインストラクターになってくれた(さすが、高須町のおばちゃん・・・優しい!)。そして、このおばちゃんだが・・・何と、お馴染み智恵子さんのお姉さんで・・・木村まさゑさんだったのだ(いやはや!)
 そして、川島アナとまさゑさんはあのジャガイモを植えたに来たのだった。では、先月植えたジャガイモが早くも大きく育っていた。「おう・・・ジャガイモの花が咲いてる!」と、驚いた様子の川島アナ「凄〜い!」と感激していた。鍬を持ち出した川島アナは、持ち込んだを植えようとを掘り出した。そして・・・まずはトマトから植えたのだった。トマトは根を軽く押して土になじませる)
 続いては、茄子なのだが・・・川島アナの買ってきた1本の苗を見てまさゑさん「哀れな茄子やね〜」と、言い出した。「哀れですか!」と、川島アナが不思議そうな顔をした。その茄子だが・・・葉が2枚しかなかった事にまさゑさん「哀れやね〜」と言ったのだった。「失敗だったかな〜、お店で適当に買ったんです。88円だったんです!」と、川島アナの言い訳。
 しかし、そんな茄子も当然無駄には出来ない川島アナ、にそのを植えて行く。するとまさゑさん農家ならではの知恵を川島アナに伝授した。トマト茄子は、あまり仲が良くないらしい!」と、言うのだ。つまり、この二つは相性が悪い為、近くに植えないほうが良いという事だったのだ。(そうなんだ、知らなかった!勉強になりますね)
 川島アナは、まさゑさんの教え通りに少し離れて茄子を植えていく。ここでその茄子を見ながら「やっぱり・・・哀れなやわ・・・失敗した!」と、口にした川島アナ。気を取り直し、ピーマン・・・きゅうり(漬物用らしい!)と植えていく。その他にも漬物の時に欠かせない「たかのつめ」「コリアンダー」も植えたのだった。
 全てのを植えた川島アナは「いつ頃、収穫できますかね?」と、まさゑさんに尋ねた。「そうやね、8月ごろかね!」と、答えたまさゑさんだった。
 川島アナの今年の高須町での農作業は「げんき米」「野菜作り」と、楽しみがたくさんありますね。梅雨恵みの雨が降り・・・その後のでは陽が燦燦と・・・高須の大地にふりそそぐ(きっと豊作になりますよ、川島アナ!)
 この日の放送は、先週の金曜日に収録したものだったが、その時、現場にいた私は収録後も真剣に野菜作りのノウハウまさゑさんに尋ねる川島アナの姿を見ていた。自分の畑で苗を植えた後、小雨のふる中まさゑさんの畑に移動して、あれやこれやと質問の嵐となっていた川島アナは・・・とても素敵な・・・高須町若者になったようでしたよ!
 ところで、川島アナのこの夏野菜の収穫後の狙いは・・・「高須の野菜たっぷりカレー!」を作る事らしい。(川島アナ・・・ご馳走してね!by・・スタッフ一同)


△男の酒のつまみ・・・134
 鮎の塩焼き!
 県内の川、その嶺南の川から鮎解禁のたよりが届いてきている。解禁となれば・・・食べたくなるのが、食いしん坊の私。知人(鮎釣り名人)から無理を言って鮎を数匹、分けてもらった。まだまだ小ぶりの若鮎だが・・・天麩羅よりも塩焼きで食べたくなる。高須町の佐々木さんから以前に頂いたを作り、その片方の先をナイフで削って尖らせた。美味しいものは手間暇も必要なのだ。鮎は包丁で腹を割き、内臓を綺麗に取り除く。この後水洗いした鮎を竹串に刺し、塩をふる遠火で時間をかけて・・・じっくりと・・・焼く!パリッとした皮とホクホクの実の味が、たまらなく季節感を味あわせてくれる。


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【六月の九/梅雨入りと強風!】6月15日(木)

 昨日夜半からの強風と共に、福井県内も梅雨入りとなった。昨年は27日だった梅雨入りだが、この強風とこの雨は「まるで台風のようだね!」と、登校前に玄関先で次男(小6)が話していた(本当に・・・そうだ!)。傘を持ち、「行ってきま〜す」と、出かけた次男だが2、3歩先に進んだ所で私の所に逆戻りしてきた。
「忘れものか?」と、私が聞くと
「ねえ〜お父さん・・・ツユって・・・何で・・・梅雨って言うの?」と聞いてきたのだ。
梅雨の意味か?」と、私が聞きなおすと
「うん!」と言う次男。
「じゃ・・・学校から帰ってきたら教えてあげるね!今・・・時間無いだろ!」と、言った私。
「じゃ・・・帰って来たらね!」と、再び私に背を向けての登校となったのだった。
 私は次男の姿が見えなくなると急いでパソコンで「梅雨」を検索したのだった(だって・・・いい加減な事を、教えられない・・・でしょう!)
《語源由来辞典から》
「梅雨」・・・梅雨とは、六月から七月中旬にかけて、朝鮮南部・長江下流域から、北海道を除く日本列島に見られる雨期。五月雨(さみだれ)
「梅雨の語源・由来」・・・梅雨は、中国から「梅雨(ばいう)」として伝わり、江戸時代頃より「つゆ」と呼ばれるようになった。「日本歳時記」には「此の月淫雨ふるこれを梅雨(つゆ)と名づく」とある。
 中国では、黴(かび)の生えやすい時期の雨という意味で、元々「黴雨(ばいう)」と呼ばれていたが、カビでは語感が悪いため、同じ「ばい」で季節に合った「梅」の字を使い「梅雨」になったとする説。また、「梅の熟す時期の雨」という意味で、元々「梅雨」と呼ばれていた説がある。
 日本で「つゆ」と呼ばれるようになった由来は、「露(つゆ)」からと考えられるが、梅の実が熟し潰れる時期であることから、「潰ゆ(つゆ)」と関連付ける説もあり、梅雨の語源は未詳部分が多い。(おわり)
 で・・・一応・・・プリントアウトした私。「あいつ(次男)が下校してくるまでに暗記しておこう!」と、考えていた朝だった。
 福井市内フェニックス通り、通勤途中の会社員もOLも強風に煽られながら歩いて行く。高校生たちも「わっ!」と傘の柄を押さえて歩いて行く。店先でそんな人達を見ている私だが、「この風では傘は無理だろう!」と、普段から傘を差さない私はついつい呟いてしまう。
「梅雨入り」という言葉を聞くと、何故か心がそして気持ちが滅入るものである。当然、雨が降る日が多くなるこの時期だが、農作物にとっては恵みの雨となるはずだ(降り過ぎないようにね!)高須町の棚田ではが大きく育つ頃となるのだが、雨風に負けないようにスクスク育つ事を願う今朝の私だった。
 そうそう、この梅雨に合わせた訳ではないだろうが、ジャイアンツも長く暗い8連敗となっている。いつの間にか阪神、中日に抜かれての現在3位。まだまだ先は長いペナントレースではどのチームも好不調の波はあるものだが、それでもファンは心配である(高橋・小久保、早く復帰してくれ!)。原監督・・・今が辛抱・・・辛抱・・・の時ですよ!
 夕方、修理の帰りだが私の車は裁判所前の交差点で信号待ちをしていた。ふとサイドミラーを見ると、次男と友達6人(男4人女2人)が放課後の連合音楽会の練習を終えて下校してくる姿が映っていた。すると、次男の友達一人が私の車に気が付いたのだ。「あっ!直くんのお父さんだ・・・」その友達が口にすると、次男は一目散に車に駆け込んできた。次男の後ろには友達全員がいた。助手席には次男、後部座席には同級生の男の子3人が座った。
 この時だった・・・信号が変わり先頭車両の私の車は、急いで残りの女の子二人を乗せようとしたのだが、「お前らは・・・歩いて帰れ!」と、後部座席の男の子がドアを閉めたのだった。「えっ〜!」と、少々怒りムードの女の子二人の顔。「可哀想に・・・」と、私が呟くと「だって、あいつら・・・家・・・近いんですよ!」と、私に話すのだった(君たちの家も・・・近い!)
 信号が変わり約15秒の停車時間、後ろのどの車からもクラクションは聞こえてこなかった(有難う!)。バックミラーで後ろの車の運転席を見ると、女性ドライバーが取り残された女の子を見て笑っていた。
 片町・・・呉服町と順番に同級生を降ろして行く。「有難うございました!」と、大きな元気な声でお礼を言う次男のクラスメイト達。「ほんじゃなぁ!また、明日!」と、次男と別れの挨拶。ハンドルを握りながら、私も小学生の頃はこんな風だったかなと、思い出していたのだった。
 自宅までの2分間・・・次男と私は無言の時を車の中で過ごしていた。私は頭の中で「こいつ・・・まさか・・・朝の事を・・・忘れているんじゃ・・・ないだろうな!」と、考えていた。すると「お父さん・・・今日は変なお天気だったね!」と、次男が口を開いた。「おう!」と、私(きた!)。しかし、その後の言葉が次男の口から出てこない(おい!「梅雨」の事は聞かないのか!)
 仕方なく「まあ〜、こんな天気が梅雨の特徴だからね!」と、私の方から切り出したのだ。「ふ〜ん」と、窓の外を見ている次男(やっぱり・・・こいつ・・・忘れているな!)。私はこんな事を考えながら、プリントアウトした「梅雨」の意味を頭の中で復唱していたのだった(次男の「お父さんは何でも知っているね!」の言葉が聞きたかったのだ!)
 しかし、いつまで経っても質問してこない次男にとうとう私が切り出した。
「あのさ・・・朝、「梅雨」の事を聞いていただろう?」と、私。すると、次男は
「あっ・・・あれね。学校で先生に聞いたから・・・もう・・・いいよ!」と、次男。
「あっ・・・・そうなの、それは・・・よかったね!」と、言うしかなかった私だった(チッキショウー!「小梅太夫」風!)
 福井県内の梅雨入りの日の一日・・・私の心も・・・完全に梅雨入りになっていた!


△男の酒のつまみ・・・135
 レタスきゅうりカニカマのサラダ!
 レタスを手でちぎり、きゅうりは薄くスライス、カニカマも手でちぎる。この3つをボールに入れ、軽めの塩・胡椒リンゴ酢(無ければすし酢や普通のでもよい!)を好みの分量(少しずつ)を入れ軽く混ぜる。この時、必ず味見する。最後にマヨネーズで再び混ぜて出来上がり!あっさり感が・・・いいですよ!


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【六月の十/パソコンが・・・壊れた!?】6月18日(日)

 ドイツで開催されているワールド・カップも序盤、各組上位2チーム争いをめぐり、激しい予選の試合が続いている。オランダ、アルゼンチンそして優勝候補のブラジルと順当にその強さを見せ付けている。この大会を最後に引退を決意したジダン率いるフランスは・・・試合を見ていると何かがおかしいような気がする(私だけかな?)。アジア勢にも奮闘してもらいたいところだが、今のところはやはり韓国だけが勢いを感じさせている。また、地元ドイツは自国開催の条件の良さを生かして勝っている。ポーランドとの因縁の試合の後、サポーターによる暴動で多くの逮捕者がでたのだが、過去の両国の歴史を振り返れば、これは仕方のない事だろう。
 そして、本日の夜には対クロアチア戦を迎えるジーコ・ジャパン。クロアチアも初戦でブラジルに敗れているために、まさに生き残りをかけた大一番となる試合だ。その運命の日となる大切な戦いなのだが、私は今イチ・・・少し冷めた感じで応援しなければ、万がイチ負けた時を考えた場合には悲惨な事となるだろう(だって・・・初戦のオーストラリア戦が・・・)。そんな事を目覚めの朝考えていた私だった。
 そんな本日、6月18日は・・・「父の日」であり・・・私の母の77歳の誕生日となった。朝8時半、私と妻と次男が「お誕生日・・・おめでとう!」と、台所で家事をしている母に言葉を贈ると「この歳になると、何もおめでたくないわ!」と、返事がきた。それでも、どこか嬉しそうな母の顔(そりゃ、可愛い孫に「おめでとう」と、言われたらね!)。  昭和四年生まれの母は、私が小学生から中学生にかけて、体調を崩してよく入退院をくり返していたのだが、昔のその心配も何処へやら・・・最近では近所のスポーツクラブに毎日通い、プール何やら?(他の会員さんとの会話!)で健康的な毎日を過ごしている。
 とにかく、話好きの母だがそれが唯一のストレス解消となっているようだ。そんな母が買い物に訪れる馴染みのスーパーだが、「今日は重たくなるから来て!」と私に荷物(買い物)を持たせる日があるのだ。母と二人でのスーパーは・・・少し・・・照れるものがある。店内に入ると母は、近所のお母さんたちと挨拶や雑談やらで時間が長くなる。
 そんな母から買い物レシピの書いてある紙を取り上げ、一人で店内をウロウロ買い物となる私。「食パン・・・2個と・・・」と、カゴに入れると「藤田さんのパンは、その横のパンやわ!」と、声がかかる。振り向くと、レジのおばちゃんだった。「そう・・そう・・そのパン!」と、指示?が飛ぶ。すると、「藤田さんとこはお兄ちゃんが今、名古屋へ行っているから5人家族でしょう・・・だから・・・そのパンでいいのよ!」と、レジのもう一人の女性(ここのスーパーの従業員は我が家の家族構成を知っている。・・・・おふくろ・・・だ!)
 買い物が終わり、レジにての清算も・・・簡単には終わらない母。レジの女性とあれやこれやと雑談が始まる事となる。例えレジで後ろにお客さんが並んでいようと母には関係ない。レジの女性の方も・・・毎度の事!という顔だった。そんな母だが、いつまでも元気でいて欲しいものだ。
 藤田家の日曜日の朝。父はカメラを片手にサイクリング・コースの下見にと、福井の観光地や名所にと出かけて行った。近く、福井で中部サイクリング・ラリー(毎年、各県持ち回り)が開催されるため、そのコースの道路状況や休憩ポイントなどもチェックするのだと大忙しの様子。サイクリング協会の副会長として、「俺が先頭に立ってやらないと・・責任がある!」と、さすが・・・大正生まれの男だ。
 続けて次男も・・・ボーイスカウトの行事で出かけて行った。次男も本日・・・サイクリングのようだ。「どこまで、行くの?」と、尋ねたのだが「・・・・聞いていない!」と、いつもの調子の次男。水筒とおにぎり2個を鞄に積め、ヘルメットをかぶり・・・・さっそうと・・・ペダルを扱いで出かけて行った(ヘルメットが・・・似合わない!)
 午前中、妻と母は台所で掃除となっていた。「何で?」と、私が聞くと「この時期・・・掃除をしないと、食中毒が心配だからね!この前もニュースで、個人の家庭で食中毒があったって言ってたから・・・」と、話す母。「貴方は・・・大丈夫だけど!」と、妻(どうゆう意味だ!)。まあ、の仲が良いのはいいことだが・・・・。
 そんな二人を無視して、私はパソコンの前に座っていた。キーボードの横には、煙草と灰皿。そして挽き立ての香りがするコーヒーがある。「今度のテーマは何がいいかな?」と、キーを叩く私。実は、この高須城日記の更新(新)を、夕方までには完成しなくてはいけない理由があったのだ。それは、この日の夕方に、田中先生高須町の佐々木さんが私の家に来るからだ。それは、スタッフ会議!・・・でもなく。飲み会!・・・でもない。
 2週間ほど前になるのだが、高須町の佐々木さんパソコンが壊れたと、私は連絡を受けていた。高須町のホーム・ページの中枢である佐々木さんのパソコンが使えないということは一・大・事と、その連絡を受けて考えていた私と田中先生だった。「ウイルスなの?それとも・・・本体そのもの?」と佐々木さんに聞いた私。「ん・・・・わからん!」と、佐々木さん(仕方がない・・・壊れた物は直すしかないのだ!)
「もし・・・ダメだったら・・・新しいのを買うしかない!」と、言う諦めモードの佐々木さん。そこで「じゃ・・・ダメもとで、田中先生に見てもらったら!」と、話していた私だった(壊すなら・・・完璧に壊す・・・私!)
 そのパソコンを本日の夕方に佐々木さんは私の自宅へ持ってくる運びとなっていたのだった。私が佐々木さんからパソコンを受け取り、多忙の為本日受け渡しが出来ない田中先生に明日にでも明道中学校に持参しようと考えていたのだ。すると、「じゃ、佐々木さんが来られる時間に何とか私も行きます!」と、田中先生からの電話(だったら・・・直でも!まあ、いいか!)
 パソコンがこの世に生まれて何年が経つのだろう。「こんなもん、難しいから・・・俺はやらない!」と、言っていたおじさん世代も、いつの間にか「面白いな!」と、その魅力に取り付かれているようだ。私もワープロからどうにかこうにかパソコンで文章を打ち出したのは・・・何年前になるだろう。今現在、パソコンの便利さに家族全員が(父母以外)重宝している我が藤田家となっている。
 だからこそ、このパソコンが壊れたり、ウィルスにやられたりすると・・・・当然の事、困る事になるのだ。先月に行われた高須町の体育祭の朝、田中先生のパソコンも一時的に異常をきたした。そして、2週間前の佐々木さんのパソコン。「大変だな!」と、他人事のように感じていた私だったのだが・・・・それは、金曜日(3日前)の朝に突然・・・来たのだった。
 朝7時45分、前日から少しずつ書いていた高須城日記【六月の九】を、打ち終えてFDにコピーをした私。コピー完了の合図の後、ついつい打ち終えたその日記を消した私。確認の為、FDを再びパソコンに挿入した・・その時だった、「ガァーガ・・ガー」とパソコンが異常音を出したのだ。「えっ!嘘〜」と、唖然の私。パソコンの電源を切らないように操作するのだが、その異常音は続いている。そこでFDを取り出したのだがまだまだ音は聞こえている。
 しかし、問題なのは・・・打ち終えた日記がどうなっているかだった。マイコンピュターでFDを開いてみると・・・その日記は容(かたち)を変えていたのだった。「えっ〜・・・もう・・同じものは・・・打てない!」(正式には・・・打つ気が起こらない!)の私。そこで・・・電話をする事にしたのだった。電話の相手は・・・勿論・・・田中先生。しかし、田中先生は学校で授業中かも?・・・と、とりあえずパソコン横の電話でかけてみた私。
 すると・・・「おはようございます!」と、田中先生の声(天使の声だった!)
「先生・・今、時間大丈夫ですか?」と、私。
「はい、どうされました?」と、田中先生。
「いや、パソコンが・・・・」と、この一連の話を田中先生に話すと
「じゃ、このようにして下さい。まず・・」と、適切な操作を優しく教えだした田中先生。
「わかりました、やってみます!」
「まだ、時間大丈夫ですから、またお電話下さい!」と、たわいもない私の日記の一件で朝から大騒動の日となっていたのだ。
「上手く、直ってくれ!」と、焦りながらも田中先生の指示通りに操作をする私。その横では「朝から・・・大変ね!」と、妻がパタパタと化粧をしている(お〜い!)。田中先生・・・曰く、「FDが原因だと思います!」
 そのFDの中の容(かたち)の崩れた日記をどうにかパソコンのドキュメントに写すことに成功した私。ここから、崩れた容を元に戻す作業が始まった。仕事の合間・・・昼食時間と、作業は続いた。途中、幾度も田中先生から「どのような感じですか?」と、激励の電話が入る。夕方、どうにか作業は終了したのだが、本当に冷や汗ものの一日となったのだった。
 そして、次の日(土曜日)の事。その田中先生からの電話で「うちのパソコンが・・・少し・・・」と、今度は田中先生の番になっていた。(田中先生は、事無きを得た!)
 田中先生・・・佐々木さん・・・・・・田中先生の順番なのか?魔のパソコン・トライアングルなのか?
 話は戻り、夕方の藤田家応接間。田中先生と佐々木さんと私の3人はその壊れた佐々木さんのパソコンを囲んでいた。電源を入れ、とりあえずパソコンを起動させてみた。「どうですか?先生!」と、心配そうな佐々木さん。「ん・・・まあ、何とかなりそうですよ!」と、笑顔の田中先生。少し安堵の佐々木さんになっていた。
 この日、佐々木さん田中先生お嬢さん二人の通う藤島高校はオープンスクールで、お嬢さん二人は学校にいたのだった。2年生の佐々木さん、そして1年生の田中さんと女の子を持つ父親は大変だ。「娘から電話があれば、迎えに行きます!」佐々木さん田中先生。男の子二人の私には羨ましい限りの父親としての心配事があるのだろう。
 そんな時、ほぼ同時に2つの着信音が鳴った。「終わったか?じゃ・・・迎えに行くわ!」と、佐々木さん。「今、藤田さんのお宅だから、すぐに迎えに行くよ!」と、田中先生。二人とも父親の顔になっていた。
 PTA繋がりで縁を持った3人。そんな3人が高須町の魅力に引き込まれての友人となったのだが、人生はおかしいものである。おそらくこの関係は家族を巻き込んで永遠に続くのだろうか?と、大事な?お嬢さんを迎えに行く、佐々木さんと田中先生の後ろ姿を玄関で見送りながら思う私だった。
 しばらくすると、次男がボーイスカウトのサイクリングを終えて疲れた顔で帰宅してきた。その顔は日に焼け少し逞しく感じられた。「それで・・・どこ行ってきたの?」と、聞くと「佐々木君のとこ!」と次男。「えっ!佐々木君?」と、聞き返した私。「佐々木君って、高須じゃないよ!ボーイの佐々木君だよ!」と、次男。そして、次男の一言「考えてみてよ、お父さん。サイクリングで高須町に行くわけないでしょ!あの急な坂があるのに・・・」でした。少し生意気な口を利くようになった次男だが、「男の子はそれぐらいじゃないと!」と、思う私の日曜日の夕方となっていた(でも、女の子はいいなあ〜!)
 夜10時。いよいよ運命の試合が始まった。次男は疲れた顔で寝ていた。テレビの前では私と妻が「あっ〜何で?」と、プレー毎に大きな声を出していた。川口のナイスセーブによってクロアチアのPKは得点と成らなかった。後半、柳沢のシュートミス、この時点で「今日もダメ!」と、確信していた私。このメンバーが今の日本のベストメンバーなのだからと諦める私。しかし、後半の終了近くでの走れない選手の姿は・・・見たくなかった。0−0。これで最後のブラジル戦に望みをかけるジーコ・ジャパン「まあ、ダメだろう!」と妻に口にした私だったが、それでも心の中で神風が吹くことを祈るサムライ・ブルーサポーターの私だった。


△男の酒のつまみ・・・136
 アスパラモヤシ豚肉塩・胡椒炒め!
 豚バラ肉をフライパンでよく炒める。グリーンアスパラ(芯が残るぐらい軽く湯がく)を斜め(一口大)に切り、もやしは冷水に漬けて用意する。豚肉に火が通ったらアスパラもフライパンの中に。塩・胡椒を少し多めで味付けする。最後に水切りしたモヤシを入れて、フライパンを2・3度振れば出来上がり。これもお好みの味付けで・・・! 

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【六月の十一/団塊の世代は、今・・・!】6月20日(火)

 梅雨入りとなった十五日以降、雨も降らず夏を思わせるような暑い日が続いている。そして、本日は30度を超える蒸し暑さとなり、学校でプール学習がある次男(小6)が少し羨ましくなっている。大きな被害が出ていた沖縄では、梅雨明けの知らせも届き避難されていた住民の方も、少しの心配を取り除く事ができたことだろう。
そんな今朝の新聞で、また小学生が死亡する事故が書かれてあった。団地近くのある工場で遊んでいた小学生(4年男児)が、電動扉に頭などを挟まれたのだ。時間は工場が無人となる6時20分。近所では、この電動扉で遊ぶ子どもたちの姿がよく見かけられていたという話しである。電動扉のスイッチは自由に触ることが出来て、開閉ギリギリの通り抜けが遊びだったと言うのだ。
最近このような事故が多いのだ。つい先日も次男にエレベーター防火シャッターの事故を話して注意を促したばかりなのだが、子どもたちが楽しく遊ぶその裏側には常に危険が伴うことを大人の私たちが把握しておかなければならないだろう。
 ますます子どもたちの遊び場がなくなっていくのだが、公園遊具の不具合等で事故が起こり、また、一連の不審人物の出没により安心して遊ぶことが出来なくなっているのが現状なのだ。それでは何が安全か・・・となれば、家でテレビゲームとなってしまうのだ。
 そんな中、近所の公園では夕方、幼い子が数人遊ぶ姿が見られた。勿論、何人かの保護者が付き添っていたのだが、公園内を駆け回り遊具を使い色々な遊び方を工夫する子どもたち。楽しそうに遊ぶ姿、これこそが本来の子どもの姿なのだと感じられた。
 さて、先日のテレビでの話だが、私が子どもの頃「憧れの人」と、なっていた若大将こと加山雄三がある番組で語っていた。若大将シリーズ作品の中でも人気のあった「エレキの若大将」(昭和40年)だが、その撮影中に加山雄三は怒っていたとコメントしていたのだ。「あんな、馬鹿げたシーンはないですよ!」と、その映画を振り返っていたのだ。
 その問題のシーンだが、恋人の澄子(星由里子)と離ればなれとなった若大将が恋人を想う歌を作った。その歌こそ大ヒットとなった「君といつまでも」なのだが、湖畔でギターを爪弾く若大将の所へ駆け寄る星由里子。すると、「君の事を想いながら作った曲なんだ、聴いてくれる」と、歌いだした若大将。♪ふたりを・・・夕闇が・・と歌っていく。ところが、1番の半ばからだが、初めて聞いたはずの恋人が若大将と共に歌い出したのだ。
「映画だから・・・いいんじゃない!」と、言われればそれまでなのだが何か変なシーンと当時、映画館で思った記憶がある。実はそのシーンこそ、加山雄三が監督と喧嘩したシーンだったと、言うのだ(やっぱり!)。そして、私の記憶ではこの映画での最初のシーンがおかしいのだ。
 自室でギターを弾く若大将。それを覗く近所の蕎麦屋の出前持ちのたけし(寺内タケシ)「これが、エレキギターですか?一度弾いてみたかったんです!」と、手にしたタケシ。ところが初めて弾いたその腕前は、凄すぎる上手さだった(そんな、馬鹿な!)。まあ、エレキの神様・寺内タケシの出演だからそんなシーンも面白いと思うのだが、何故か変!
 しかし、加山雄三が人気シリーズと言われた作品の中でそんな事が起こっていたとは、誰も想像しなかったですね。
 そんな若大将と呼ばれていた加山雄三も、1937年生まれ73歳(いつまでも若い!)。その加山雄三と私の中間である世代、つまり「※団塊世代」と呼ばれている皆さんが、ここ数年だが色々な形で取り上げられている。
※《団塊世代》・・・第二次世界大戦直後の1947年から49年までの3年間に第一次ベビーブームで生まれた人たちの世代をいう。約683万人がいるとされ、他の世代と比較すると、2〜5割多いというのだ。
「※2007年問題!」と、マスコミで大きく取り扱われ、何か肩身の狭くなるようなそんな感じの記事さえあるのだ(日本の経済を支えてくれた方々なのに!)
※《2007問題》・・・2007年から2010年にかけて、団塊世代が定年を迎えることになる。「リタイヤメント・バブル」と呼ばれ、この2007年から日本の人口が初めて減少する年になる。これは、日本の高齢化社会に拍車をかけることになり、日本経済の今後を占う意味でも大きな問題とされている。
 そんな団塊の世代と言われる皆さんだが、その定年後の去就が今、注目されている。「ゆっくりと、夫婦で年金暮らし」「暖かい沖縄の島で、のんびりと・・・」「長男夫婦の孫の世話を・・・」と、定年後はゆとりの生活と言う声が聞かれる。
 また、それとは逆に「第二の人生のスタート!新しい職場を今から探しています!」「年金では苦しい!やはり過去の経験を生かせる仕事を!」「退職金で小さなお店でも始めます!」と、新たな人生の意欲を見せている人も多くいる。少子高齢化が益々進むこの日本の未来予想図は・・・・・。
 私の親しくして頂いてる男性も来年の3月で定年を迎えるのだが、その定年後には・・・「夢がある!」と、話してくれた。退職金はほとんどが住宅ローンで消えてしまう。子ども二人はすでに独立していてそれぞれ市内近郊に家庭をもうけている。孫も3人いて「おじいちゃん・・・おばあちゃん」と、呼んでくれている。「孫の顔を見るのが、一番の楽しみなんだ!」と、ゆるんだ笑顔ではなしてくれた。
 その男性だが、大学卒業後すぐに大手企業に就職しマジメ一筋で仕事をこなし、今現在、管理職にある。5年前、「何か趣味を・・・」と、始めた蕎麦の手打ち。月2ペースで市内の蕎麦道場(日曜日)に通い始めたのだ。最初は「夫婦で楽しむだけ、妻が旨い!と、言ってくれるのが嬉しくて!」と、当時を振り返って話してくれた。
 蕎麦打ちの腕前も上がり、2年後には週末に、子ども夫婦が集い蕎麦をふるまった。「美味しい!」「すごい〜コシがある!」と、その子ども夫婦の評判も上々だった。そして昨年末の大晦日の事、子ども夫婦と孫全員が一同に会して新年を迎えようと手打ちの年越し蕎麦を食べていた時だった。孫の一人が「じいちゃんの蕎麦は美味しいから・・大好き!毎日でも食べたいな!じいちゃん・・・お蕎麦屋さんだったらいいのに!」と、口にしたのだ。
 目から鱗が?・・・この時の孫の一言が、それまで考えもしなかった「蕎麦屋!」の道を開いてくれたのだと言うのだ。趣味から始めた蕎麦打ちが第二の人生の道となりつつある男性。「簡単に蕎麦屋と言うけれど、商売はそんな甘いものでは無い・・・でも、一度の人生だからね・・・チャレンジしないと!」と、話してくれた。実はこの男性が通っていた蕎麦道場からは定年後に蕎麦屋を開店した先輩が数人いるらしいのだ。必ずしもその経営は楽とは言えないらしいのだが、それでも皆さんは前向きに頑張っているらしい。
 60歳・・・「まだまだ若い!」と、言われる男盛り。管理職から転身、第二の人生で蕎麦屋のご主人を夢見ている。「妻の理解が全て!」と、話してくれた。現在の住まいをリフォームし厨房と囲炉裏付きの客室を考えているらしい。
「なるべく安くとは考えていたけれど・・・見積もりは想像以上になったよ!」と、頭をかいていた。来年の春には開店する新しい蕎麦屋。ご主人と奥様の二人の店。少し余裕が出来れば、郊外で畑を借りて蕎麦を育てたいと語るその男性の顔は「団塊の世代」と、呼ばれている顔ではなく、その瞳からは「炎の世代」と、言うべきものが感じられていた。
 グリーン・ツーリズムが新聞やテレビで話題になり、都市部から農村に移り住む人達が増えつつある。高齢化に悩む農村事情に明るい兆しとなりつつある話題となっている。70代・80代がほとんどの村に、50・60代のご夫婦が仲間入り。
 受け入れ農業の指導にあたる近所の農家のおじさんは「なんか、こっちも若くなったような気がするんやわ!」と、毎日が楽しそう。大きな古民家を買い、毎年少しずつ手直ししていくと言う新規入居者のご夫婦。「お米や野菜を作り、うまく生産出来るようになれば、この古民家で民宿をしたい!」と、夢を話す。
 長寿国となったこの日本。人それぞれ、長い人生がある。「幸せだったな!」と、振り返れる人生にしたいものである。
 夕方、下校してきた次男。
「今日は暑かったからプール気持ちよかったろ!」と、話しかけた私。すると、
「今日はプールに入らなかったよ!」と、次男。
「何で?」と、聞いた私。
「・・・・・」無言の次男。
「体調でも悪かったのか?」と、聞き返した。すると、
「判子を押すの忘れた!」と、次男。
 つまり、プール学習の朝には保護者の「プールOKですよ!」の同意の印鑑を押さなければならないのだが、次男はその同意書の書類を私達に見せるのを忘れていたのだ。「お前は〜!」と、少しおかんむりの私の顔に「ごめんなさい!」と、俯(うつむ)く次男。
 次男のこれからの長い人生はどうなるのか?「団塊世代」の皆さんの心配よりも、こちらの方が大いに心配な私だった。


△男の酒のつまみ・・・137
 水蕗薄揚げ煮!
 高須町の佐々木さんから新鮮な水蕗を頂いた。一晩水に漬けたその水蕗を3センチぐらいに切り、薄揚げ(刻んだもの)と炊く。水蕗を鍋に入れ、ダシ&醤油&味醂で味を整え、最後に薄揚げを弱火で!


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【六月の十二/今日は・・・夏至だよね!】6月21日(水)

 昨晩のこと、
「お父さん、明日は夏至だよね?」と、私に聞く次男(小6)
「えっ!」と、暦(カレンダー)を見ると・・・書いてない。
そんな私の姿を見ながら次男は
「夏至は一年で一番お昼が長く、夜が短いんだよね!」と、次男。
「そうだよ!」と、答えた私。ここで私は
「じゃ、夏至の反対は?」と、質問してみた。
「うんと・・・冬至!」と、次男。
「ファイナルアンサー?」
「ファイナルアンサー!」
「正解!」と、またまた馬鹿親子の会話となっていた。
 しかし、そんな次男の顔に赤い斑点が少しあることに気づいた私。
「お前・・・どうしたんだ・・・それ?」と、聞いてみた。
「うん、何か身体中が痒いんだ!」と、答えた次男。 直ぐに服を脱がせてみると・・・・その赤い斑点はほぼ全身に広がっていたのだった。
「おい、おい・・・これは大変だ!」と、妻に言うと
「アレルギーかな?それとも・・・まさか水疱瘡・・・でも、幼稚園の時に水疱瘡は終わったはず!」と、頭を傾げる妻。次男のその痒みは見ているこちらにも何故か伝わってくる。
「可哀想だけど・・かいたらダメだよ!我慢しなさい」と、冷静な妻。
「原因が何なのか、分からない事には・・・薬も塗れないね」と、パソコンの医学検索や分厚い「家庭の医学百科」で調べる私と妻。で・・・結局、素人判断は良くないという結論になり(当たりまえだ!)、今朝、登校を遅らせて皮膚科に行ったのだった。
 その医者による診断なのだが、アレルギーでもなく・・・当然、水疱瘡でもなく・・・・・庭の木に発生した毛虫(「チャドクガ」と呼ばれるガの幼虫)によるものだった。医者の話によると、この毛虫には毒針があり、それに触れると発疹と激しい痒みが起こるというのだ。また、この毒針は風などによって飛ばされることもあると言うのだ。
 携帯が鳴り、病院から出た妻の連絡を受けた私は店から自宅に戻り、庭の木を調べてみる事にしたのだが、・・・・そこは・・・虫嫌いで有名な私。遠くから・・・ゆっくりと・・・ゆっくりと近づいたのだった(出来れば・・・近づきたくなかった!)
 庭の金木犀、その木には無数?(恐らく!)毛虫がいたのだった。「わっ!」と、悲鳴を上げた私。「これは・・・ダメ!」と、素早い判断をしたのだった(どちらにしても私には無理な話!相手がでは!)。そこで、「どうしようか?」と、私は無い頭を捻ってみた。
 取り合えず自室に戻り、パソコンにて「害虫駆除」を検索してみたのだった。すると、噴霧器を使い専用の薬を散布すると出てきたのだ。ホームセンターでその薬や噴霧器を購入して駆除することも考えた私だったが・・・肝心な・・・その木に近づけるかどうかが問題と・・・・自己判断!
 そこで私は、次男のボーイスカウトの仲間のお父さんで、昨年の【九月の六/慌しい一日】芦原までの行軍で知り合った旧・清水町の佐々木さん(造園業)に電話したのだった。すると、佐々木さんは「それはお困りでしょう。お昼にでも伺います!」と、言ってくれたのだった(やったあ〜!)
 そのお昼になり、2dトラックで駆けつけてくれた佐々木さんは、荷台に積まれていた大型噴霧器を使い、庭の木・屋根・塀・とまいて行く。「藤田さんは、近づかない方がいいですよ!」と、佐々木さん(よかった!)
「今年は例年より、多いんですよ!」と、その毛虫を駆除していく。そして、最後に庭全体と近くの道路付近まで薬をまいて下さって、約10分の作業は終わった。
 私はその薬をまき終わった後、やっとの事でその毛虫に近づいたのだった。すると「触る事は勿論、二〜三日は近づかないで下さいね!」と、佐々木さん。薬のまかれた木にはウヨウヨ毛虫がいたのだった(最悪!)。次男が「痒い、痒い!」と言う原因となったこの毛虫だが、ようやくこれで一安心となった(佐々木さん、有難うございます!)
 因みに、この時佐々木さんのご両親も作業に来て頂いたのだが、私が「虫ダメなんです!」と、言うと「うちの息子もダメなんです!」と、佐々木さんのお母さん(え〜っ、嘘!)
 時ならぬ、毛虫駆除となったお昼休み・・・妻にメールでその経緯を知らせると「あっ、そう・・・ありがとう!」でした(おい、おい!)
 この日の昼食のメニューは・・・毛虫が脳裏から離れず、食べれませんでした。あしからず。それにしても、あんなに小さい毛虫が原因になるとは、怖いものだと改めて痛感した私となった(やっぱり・・・は・・・嫌いだ!)
 夕方、下校してきた次男。まだ、痒みの残るその身体は可哀想に思うのだが、何故か本人は・・・問題のに近づこうとしている。「おい、こら!」と、一渇すると「毛虫が可哀想!」と、木の根元に死骸?となっている毛虫の幼虫を見ているのだ。
 そんな次男もその後、痒い身体で塾と順化小学校のスポーツ教室に出かけ、夜8時前に帰宅してきた。「まだ、痒いのか?」と、聞くと「うん!」と、答える次男。食後に医者からの薬を飲んでいる。「ゴックン」と一気に水と共に飲み干す次男だが「お父さん・・・庭の毛虫、全部死んだのかな?」と、まだ自分の痒みや発疹の原因となった毛虫を心配している(お前は〜!)。どうやら、私とは別の意味で毛虫が頭から離れないらしい次男。そんな次男に私は頭を切り替えるべく、朝に話していた「夏至」の話をしたのだった。
「あのさ、夏至って日本じゃニュースなんかで今日は夏至です!って言うだけなんだけど、北欧では夏至の祭りがあるんだって!」と、私。
「夏至のお祭り?」と、不思議そうな次男の顔。
「そうなんだ、北欧にフィンランドって国があるんだけど、その国では12月のクリスマスと6月の夏至の時のお祭りが、大きなお祭りなんだって。クリスマスは暗い時のお祭りで・・・夏至のお祭りは、明るい時のお祭りなんだよ。それで、この夏至のお祭りの時には、太陽が一晩中地平線上に浮かんでいて、凄く綺麗なんだそうだよ!」と、話した私。
「そうなんだ、・・・何か、想像しただけで綺麗そうだね!」と、次男が話した。
「日本でも鳥取県や栃木県でも、夏至祭りがあるんだって!」と、続けて話す私に
「じゃ・・・高須町でも夏至のお祭りしたら・・・いいのにね!」と、次男(何で、ここで高須町が出てくるんだよ!)
「おい、高須町は関係ないだろ!」と、私が答えると痒みを我慢して微笑む次男だった(よし!高須町が出たら毛虫を忘れてるな)。  夜9時過ぎ、歯磨きを終え就寝前の次男だが・・・晩酌をしていた私の所へ来た次男。すると、
「お父さん、下の仏間に一緒に来て!お願い」と、言い出した。
「仏間に何の用事?」と、聞くと
「お仏壇で毛虫たちの供養をしたいんだ!」と、次男が言い出した(こいつ、忘れていなかった!)
 この後、私と次男は仏間の部屋へ行き、数珠を手に毛虫への黙祷となった夏至の夜だった(なんで〜!?)


△男の酒のつまみ・・・138
 甘えびの空揚げ!
 福井の代表的な味覚の一つである、甘えび蟹シーズンが終われば甘えびの漁となる。勿論、そのまま殻を剥き刺身で食べるのもいいのだが、本日は少しを空揚げにしてみる。殻を剥き、空揚げ粉をまぶしカラッと揚げる!ここは冷たいビールがお勧め・・・です!


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【六月の十三/無事でよかった!】6月22日(木)

 梅雨だというのに意外と言うか、しばらく好天が続く日となっていたのだが、ここに来てようやく「梅雨」らしい雨模様の日となってきた。「六月・・・水無月」田んぼを引く季節だということから六月を水の月を意味する「水無月」と、呼ぶらしい(新聞に書いてありました!)
 大騒ぎとなった我が家の毛虫騒動から一夜明け、まだまだ次男(小6)発疹痒みも治まる気配を見せてはない(そう、簡単にはね!)。この大騒動になった一件について、授業を終えた田中先生に電話で話したところ、さすが理科の先生毛虫(「チャドクガ」の幼虫)の怖さを詳しく解説してくれた。
 それにしても何故、次男だけが毛虫の被害にと・・・考えた私。私の両親、つまり父や母は毎日のように庭に行き来しているのだが全く無事の様子。それは私も妻も同じこと。では何故、次男がと推察したところ、よく妻が次男の部屋(2階庭側)の空気を入れ替える為に窓を開けるのだ。屋根の高さ以上になっている庭の木から、その毛虫が屋根に移り、直接か風で毛虫の毒針が次男の身体に付着したらしいのだ(おそらくネ!)
 可愛い次男を苦しめた憎き毛虫・・・なのだが、次男は今朝もお仏壇に手を合わせ毛虫さん・・・ごめんね!」と、お参りして学校に行った。寂しそうに「全部、死んだのかな?」と、言う次男だが、虫嫌いの私としては「1匹でも生きていたらどうしよう!」と、次男と真逆の心配をしている始末(虫好きと・・・虫嫌いのコンビ!)
 さて、20日の午後だが小泉首相の記者会見においてイラク南部(サマーワ)に駐留している陸上自衛隊(JGSDF)の撤収を発表した。2年5ヶ月の長い期間の復興支援活動で陸上自衛隊の隊員は現地にて、道路の補修・学校及び診療所の建設・電力供給・上下水道の整備など、安全面でまだまだ不安な状況が続く中、多くの業績を残してきた。一部マスコミや野党議員からの▼不適切な報道や発言(自衛隊は成果を挙げていない!)があったのだが、航空自衛隊(JASDF)出身の私としては彼らの成果に対しては敬意を表したくなるのだ。現地イラクの高温の中、またそれ以上に危険が伴う中で彼らは日の丸を胸に志を果たしたと言える。
「自衛官がイラクへ!」と、その2年半前に決定した時、私は「とにかく無事に帰国してくれ!」と、願っていた。当時も現在でもイラク国内の安全は保障できない状況下にある。民間人約3万人、米軍戦死者約2千5百人の尊い命の犠牲者が出ているイラク国内。その中で宿営地への迫撃砲や、陸自車両への爆弾等で一部被害があったものの、一人の犠牲者も出さなかった事は胸を撫で下ろす。
 現在イラクに駐留している陸上自衛隊第10次となる復興支援群が駐留している。第1次の自衛官がイラクの土を踏んで以来、延べ6千人弱の隊員が命の保障が無い中で、イラク復興に貢献してきたのだ。一般人から自衛官(特別職国家公務員)へとなる時には、国に対して誓約書を書くのだが平和が当たり前となっている今の日本で、自らの意思もあった隊員もいただろうが、「命令!」の二文字で戦火の国に赴いた彼らにはOBとして心から誇りに思うのである(もし、私が現役の自衛官だったら・・・・当然、イラクに行きます!)
 今後、イラクからの撤収作業には約1ヶ月が必要となるらしく、まだまだ彼らが日本に帰国するまで安心は出来ない。また、イラクだけに目が向けられているのだが、中東のゴラン高原にも43名陸自隊員が輸送などの後方支援業務で派遣されていることを忘れてはならない。
 しかし、まだ私の心を悩ます事があるのだ。それは、日米関係の問題で残留する事になった航空自衛隊が、何か思いもよらぬ活動範囲となりつつあるようだ。非戦闘地域を活動地域としてきたイラクの自衛隊。中型輸送機(イラクの自衛隊機はプロペラ機・C−130H)は、たとえ高度飛行でも発見されやすく、その安全面は当然低くなるのである。米軍飛行機が携帯式地対空ミサイルにより犠牲になった事がある。自衛隊機が高度飛行の場合・・・地上からの国の選別が分かりにくく、低空飛行では携帯式地対空ミサイル等が発射された場合、その対処に時間が無い事になる。
(今回、イラク支援をしている自衛隊輸送機は飛行機本体のを従来のと変えている。また、携帯式地対空ミサイルに対応するために「フレア」と呼ばれるミサイルを撹乱するものを搭載している。このフレアとは、エンジンの熱源追尾式のミサイルが飛行機に接近した場合、ダミーとなる照明弾のようなものを空中にばらまくシステムなのだ。想像が付かない方の為に、簡単に言うと・・・線香花火のような感じで飛行機から照明弾が四方八方に飛び散るものです!わかりますか?!)とにかく、残留することになった3機航空自衛隊機とそのクルー全員が、一日も早く無事に日本にテイクオンすることを願いたい!
▼ここで先に述べた自衛隊に対しての冷たい発言なのだが、イラク国内での自衛隊派遣に対して、イラク国民の雇用問題が取り上げられた。当初、イラクサマーワでは「自衛隊が来れば、我々の働く場所が出来る!」と、サマーワ人は喜び自衛隊を待ち望んでいた。当然、その逆な人もいた「イラクはイラク人で守る!」と、思う人も。イラクは想像以上に噂が早く広まる所みたいで、その自衛隊到着後の動向にサマーワ人は固唾を呑んでいたらしい。だが、そのイラクの国内事情は自衛隊の想像以上で、中々雇用面でサマーワ人の願い通りにはならなかった。「俺たちに仕事を!」が広まり自衛隊に対しての感情も余り良いものとは言えない時期が続いたのだ。それを取り上げる、日本の一部マスコミと野党議員。
 しかし、外国軍に守られながらも着実に復興作業を確実にこなして成果を挙げていく自衛隊に対して、「彼らは、イラクの為に、誠意を持って復興の努力をしている!」との声が出てきたのだ。そして2年前の4月の事件だった。自衛隊宿営地のそばに迫撃砲が打ち込まれた事があった。
 すると「自衛隊は帰るのか?」という懸念が瞬く間にサマーワに広まった。時を同じくして、140人前後のサマーワの老若男女がデモ隊を結成し、「日本の支援に感謝する!」と、宿営地に詰め掛けたのだ。「帰らないで!」と、懇願する人々。そして、自衛隊滞在を願う署名活動が僅か二日間で1,500人も集まったのだ。
 再び迫撃砲が打ち込まれるとデモ隊が「日本の宿営地を守ろう!」と、やってきたのだ。「申し訳ない!あの行為は一部のならず者の行為で、イラク国民の意思ではない。だから、どうか帰らないで欲しい!」と、陳情された事もあったのだ。
 前代未聞のデモにイギリス&アメリカ軍も驚いてと言うのだ。この事により、その後は迫撃砲などの行為もおさまったという。自衛隊に対してのイラク国民の感情は上向きになっていたのだが、こんな話は多々あるのだが・・・日本のマスコミは・・・・・ほとんど報道しないのだ(残念!)
 さて、次男の身体も心配なのだが私は一昨日のニュースの中で、小学校6年生の男子児童が山中で行方不明になった事に気を病んでいた。この事件は、校外学習か何かで山登りをしていた児童がその山中で一人行方不明となったのだ。当然、引率の先生などもいたのだろうが、どこの山道でも多くの人数を把握する事は難しいものだ。地元の山岳会や警察など多くの皆さんが山に入り捜索をしたのだが児童は見当たらない。日没となり、この日の捜索は終えざるえない。
 しかし、駆けつけた児童の家族は引き続き捜索したらしい(親として当然ですよね!気持ちが痛いほど理解できます!)。この時期の山は寒暖の差がある。児童の服装はどんな服装だったのかと、心配になる私。また、児童の精神状態も気になる一つだ。一人の山の中、「心細いだろう!・・・怖いだろう!」と、推察した。「とにかく・・・無事に!」と、願った。パソコンで遊ぶ私の次男と同じ小学校6年生・・・まだまだ、子供である。この児童の親の気持ちを考えると、胸が苦しくなる私であった。  翌日、「無事・・・保護!」のニュースからの一報が飛び込んできた。「よかった・・・とにかく・・・よかった!」と、胸を撫でおろした。どういう経緯でこのような行方不明にまでなったかも知りたいところだが、たまに起こる類似した事故?原因究明を明確に行い、それをこのような立場で指導する全国の先生たちや引率者に説明してもらいたいものだ。
 さて、明日未明には日本ブラジルの試合が行われる。朝4時のキックオフなので、今(夜9時半)から寝ることに決め込んだ私。「ブラジルには勝てるわけがない!」と、心の中で思っていても「もしかして!」と、思う心がどこかにあるものだ。世界王者のブラジルと日本がワールド・カップで試合をするのは初めての事だが、先取点を日本が取れば面白い展開になるだろう。宮本が出場できない日本のディフェンス陣の「点をやらない!」と、言う強い気持ちと、おそらくツートップのメンバーを入れ替えてくるだろうフォア−ド陣の「必ず点を取る!」という、がむしゃらな気持ちでフルの90分を戦ってもらいたいものだ。(私は玉田&大黒でスタートしてもらいたい!)
 世界が見ているこの試合、恥ずかしい試合だけはして欲しくないのだが、また、「惜しかった!」と後で言う試合も何故か見たくないものだ。ここは勝ちにこだわった試合を期待したい。「頑張れ、青き戦士たちよ!」


△男の酒のつまみ・・・139
 コーンバター!
 缶詰の粒コーン、缶から取り出し水切りをする。フライパンにバターをひき、まんべんなくフライパンに広がせる。コーンを入れ中火で・・・バターが無くなれば再びバターを入れる。炒めると言うよりはバターで蒸す感覚で・・・!焦げないようにフライパンを振ることが大切です。最後に塩をひとつまみ・・・ふる!


高須城日記V(夏中編)に続く


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