高須城日記U(秋前編)


(平成十七年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)


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【九月の一/向日葵からコスモスへ】9月1日(木)

 朝、7時30分次男(小5)、8時10分長男(高3)とそれぞれ新学期で元気に登校。2学期といえば、もう秋である。私にとってスポーツの秋、読書の秋、食欲の秋、そして実りの秋である。色々季節毎に表現はあるものだ。手紙やハガキにおいても、文の初め9月は「初秋の候」「新涼の候」になる。季節の花も同じだ。
 八月を代表する花は向日葵で、九月は?と、調べてみるとコスモスだと書いてある。でも、このコスモス、北海道は今が見頃しかし、おおよそ全国的に10月が見頃だと書いてあり、向日葵が今現在、満開の処もある。(まあ、いいか)
 先月27日に行った高須町への自己満足の行軍だが、靭帯にまだ痛みがあるものの、筋肉痛はほぼ解消された。一昨日、某中学校(もういいか!明道中学校で作業服でハチマキ姿(新学期を前に校舎内外の清掃中)の田中先生が
「いゃー、土曜日はお疲れ様でした。足は大丈夫ですか。でも凄かったですよ。で・・・あれは、夏の特別企画でしたから今度は、秋バージョンを考えないといけませんね」と、催促された。(やはり、止めればよかった)
 しかし、昔から誉められると嬉しくすぐに舞い上がる私、
「そーですね。もちろん何か考えましょう」と、思わず答えてしまった。
 春(田植え)にFBCの川島&大島アナ「機会があれば、高須町までサイクリングしませんか?秋なんかいいですよ。景色が違って見えて、感動するはずです」と言った事を思い出したが、時間的におそらく無理だろう。でも少し、筋肉痛を我慢しながら番組を進行する2人も見てみたい気もするが。(若いから大丈夫か・・・でも、もう1回誘ってみよう)
 3日前に衆議院選挙が公示され、市内では選挙カーが大きな声でそれぞれの候補者が支持を求めている。投票前日まではこれが続くのだが、時折静けさを求めたくなるのは本音。高須町にも当然候補者は行くだろうが、市内中心部ほどはうるさくないだろう・・・つい、こんな事を考えてしまう。(高須町の皆さんすみません)
 8月30日付けの福井新聞に、「日本の棚田百選」に数えられている高浜町日引の稲刈りをする写真が掲載されていた。この時期どこの田でも稲刈りをする光景がみられるが、やはり棚田はどこか風情がある。もちろん棚田で作業する農家の方は大型コンバインが入らず大変だろうが、昔ながらの農業を感じることができる。この記事の中で取材を受けたご夫婦(ご主人80歳、奥様78歳)は「昔はすべて鎌を使った手刈りで時間がかかった。田植えも今より遅かったが、刈り取りが十月まで続くこともあった」と苦労話。「ずっと守ってきたから愛着がある。生きている限り続けたい」と言う。
 先祖代々より受け継いできた大切な土地、生まれ育った土地、嫁に嫁いできた土地、不作や豊作で泣き笑い、それぞれの思いや愛情がある土地。日本全国の農家の皆さんにとって同じ思いがあるだろう。後継者問題により高齢化が進む農家が多いが、農業経営を豊かなものにし少しでも問題を解消してもらいたい。
 「棚田百選」には入っていないが、おそらく「棚田百一選」(私が推薦)に入る高須町でも同様のことが考えられるだろう。高齢化率44.8%(福井新聞7/19・中山間地の新計画より)で、山の上まで棚田がある高須町。条件的に良いか悪いかと言われると、後者ですと言うしかない。しかし、町全体で植木自治会長を中心に真剣に活性化を図っている。もちろん当事者ではない私が実状を知らないで生意気な事は言えないが、大好きな高須町は、私たちの永遠の癒しの里であってほしい。


△男の酒のつまみ・・・31
 新鮮な秋刀魚(さんま)を頂いた。「刺身でも美味しいよ」と言われたが、やはりここはシンプルに塩焼きにしたい。だが、日頃はガスで焼く魚だが、今日は※七輪を使うことにした。炭は金網に乗せ、ガス火で熾す。外でうちわで煽りながら焼けば、どこか風情がある。近所の猫が多少集まってくるが、「秋刀魚は目黒だよなあ」なんて言いながら無視。炭で焼けばやはり出来上がりの味が違う。面倒なことは確かだが、焼きあがった秋刀魚に醤油をかけた時の音ジュッ・・・この音だけで酒がすすむ。
※七輪(しちりん)の語源
空気穴が7つあったから名がついた説と、七厘の安さの炭で火が熾せたからなどの説がある。


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【九月の二/もう少しだよ!】9月3日(土)

 福井市中心部を流れる足羽川。その堤防を珍しく散歩していると、すすきが早くも顔を見せている。まだまだ大きくはないが、秋が少し漂う季節となりつつある。
 さて、この高須城日記に時折登場する某中学校の田中先生だが、前回(【九月の一】)の日記の中で、とうとう彼の勤務する学校名を「明道(めいどう)中学校」と暴露してしまった。かねてより田中先生は「住まいが清水町(【五月の三】)で、中学校の理科の教員(【五月の四】)で、田中というのは私しかいませんから、おそらく誰だかわかりますよ」と言っていた。学校名を明かすことで先生に迷惑?が掛かることを心配して伏せておいたのだが、どうも日記を書く上でやり難い私だった。
 同様に、この高須町のホームページ上でも高須城小学校の可愛い3人(全校児童)をもっと紹介したいのだが、最近の個人情報保護法案だか、規制だか何だかを考えると少しためらってしまう。何でも悪用する者が多くいる今の世の中、特に子供の事には気を使わなければならない。
 その田中先生が勤務する明道中学校だが、勿論私の母校で、長男(高3)も卒業し、次男(小5)も再来年には入学する。
 少し紹介すると、明道中学校は自啓・互啓・明朗の校訓のもと「オープン明道」をキャッチフレーズに中学校として地域密着を心掛けている。JR福井駅前の中心部から広範囲の校区を持つ。校区内には裁判所・県庁・県警本部・市役所などの主要施設や多くの文化・体育施設がある。近隣には、北陸高校や藤島高校、福井大学、春山小学校がある。校区の、順化小(次男が通う)と春山小からは全校児童、そして宝永小・松本小・明新小の一部の児童(住所が校区内)がこの明道中学校に通うことになる。県内外からの保護者の転勤などによる生徒も多く受け入れ、古くから伝統のある学校として有名である。私たちの通っていた頃は県内一のマンモス校で、昭和30年代には2,100人を超える時期もあった。昭和60年に藤島中学校が新設されて、居住地区により離別した生徒もいたが大規模校は変わりなかった。その後の市内中心部のドーナツ化現象や少子化に伴い、現在は生徒数600人前後となっている。
 その母校である明道中学校を卒業してから1度だけクラスの同窓会で訪れたことがあるものの、足が遠のいていた私だが、長男の入学(平成12年)を期に再びお邪魔することとなった。勿論、PTA関係での話だが、補導委員長(12年度)、PTA会長(13・14年度)、学校評議委員(15・16・17年度)として、父子でお世話になっている。
 あっ、そうそう今年の春の話だが文部科学省スクールミーティングが県内で唯一、明道中学校で開かれた。文科省からは、何を質問してもスラスラ完璧に答える若いキャリア組が3人。福井県教委から、そして市教委からも幹部の職員の方々、明道中学校からも校長や教頭をはじめ教員の代表、学校評議員が参加した。私も田中先生もこの会議に参加したのだが、論議されている「ゆとりの教育」、そしてこれからの「学校教育のあり方」など熱の入った会議となった。
 しかし、ここで面白い話がある。その文科省の若いエリート官僚だが、福井出身と言う。会議進行中に気付いたのだが、いつもの元気がなく発言も無い静かな田中先生、校長先生に遠慮してるのかと思っていた。後で聞いたのだが、その若い官僚は何と田中先生の教え子だったらしい。やり難いのは当たり前か、少し田中先生に同情してしまった。でも逆に、その教え子の立派に成長した姿を見て嬉しかったのかもね。
 そんな明道中学校に昨日も伺った。職員室には忙しそうな多くの先生達、そして大きな声で入室してくる多くの生徒達。新学期が始まり、授業時間の静寂と休み時間の元気な生徒の声が学び舎に響いている。私たちのころは、職員室に行くのは何か悪い事を行い先生に叱られる時か、クラス委員(級長)だけだったような気もするが・・・。(私だけだろうか・・・)
 そんな光景を見ているのだが、本日の学校に来た用件は仕事(本業)と、ついでに田中先生(高須町のH・P関連)に会いに来たためだ。(ついでは失礼でした!)
 ところで、いつも職員玄関から校舎内に入るのだが、その都度思う事がある。数年前の大阪でのあの事件以来、関係者以外の校内立ち入りはどこの学校でも厳しくなったが、それはこの明道中学校においても例外ではない。玄関にはモニターカメラ付きのインターホンが設置されている。部外者は必ず、ここで用件を伝えてから入ることとなる。
 実は数年前の話だが、長男が在校当時の時忘れ物を届けに行ったことがあった。いつもは妻が行くのだが、たまたま私が行くことになり、生徒玄関で長男の下足箱を探していた。忘れ物を教室まで届けるのは嫌がるだろうと思い、下足箱に置こうとした。だが、長男の生徒番号の下足箱がなかなか見つからない。あちこちと生徒玄関付近を探し回っていた時だった。
 突然、「何してるんですか!何の用ですか!」と、大きな声が遠くから聞えた。驚きその方向を見ると、仁王立ちの男性職員がいる。その時の私の服装は、ぼろぼろに汚れたジーンズとポロシャツ、しかも生徒玄関は節電で暗くなっていた。横に来たその職員に「子供が忘れ物をしまして、下駄箱を探しているのですが、見つからなくて」と答えた。新人の職員らしいが「職員室で許可をもらいましたか?困るんです勝手に中に入ってこられては!」と、また怒られる。
「すいません」と、誤りかけた時、廊下の奥から「あっ会長さん!こんにちは」と優しい天の声。それはベテランの女先生だった。その「会長さん・・・」の言葉に若い職員は「えっ・・・PTA会長さん・で・す・か・」と、きまりの悪そうな様子。その後にその職員は「私が休み時間に教室までお届けします」と言ってバツが悪そうに廊下を駆けて行った。PTA会長として、スーツ姿を見慣れている学校職員、汚れた服装だから判断したわけではないだろうが、しかし、この若い職員の対応は決して間違ってはいない。どちらかと言えば、許可を取らず校舎内に入った私が悪い。学校の安全管理は確実なものだと確信した出来事だった。
 また、その年の事だったが、学校近くで郊外学習(写生)をしていた数人の1年生の女子生徒がいた。たまたま仕事がその近所であり、その姿を見た私は車の中から絵をかく様子を見ていた。暫くして「上手く書けてるよ!」と誉め微笑んだ。不思議そうな、いや、明らかに怪訝な顔をしている女子生徒たち。私は「多分、入学したばかりの1年生のこの子たちは私が会長と知らないだろうな」と思いながら店に帰った。
 その10分後、学校から携帯に電話あった。校長先生からで、その内容は「会長さん、今、学校近くで不審人物が現れました」との事。よくよくその話を聞くと、どうも私らしい。校長にその話をすると安心されたのか大笑いだったが、その女の子たちの行動、不審な人物に遇ったらすぐに学校や先生に連絡するという教えを忠実に守っている。これは正しい事だ。何も言わずただ「上手く書けてるね」と車の中で笑っていれば、誰だって不審者に見られるはずだ。我が身を振り返ると、自分たちの中学時代のPTA会長は誰だったかなんて覚えていない。
 今となれば、いずれも笑い話だが当時はかなりショックだった事を覚えている。反省の連続だった。
 また、高須町と関係ないことをと延々と書いているとお叱りを受けそうなので、話を変えますが・・・。
 今月予定の高須町の棚田での稲刈りを前に、次男の通う順化小学校でも今日「稲刈り体験」を行った。これは5年生が対象と言う。前にもこの日記で紹介したが、ちょうど5年生は社会科で稲作りを勉強している。そこで、実家に田を持つ保護者の計らいで今回の体験学習となった。親子での参加ももちろんOKだ。「自然の中でお米に触れる!」が今回の趣旨。
 次男も当然参加した。しかし、夕方帰宅するや開口一番
「お父さん、高須の稲刈りはいつなの?」と聞く。
「今月だと思うけど、・・・もう少しだよ」と答えた。
「早く高須町に行きたいね」と言う次男だが、稲刈りがしたいのか、佐々木さんのお子さんや高須城の子たちと遊びたいのか・・・。


△男の酒のつまみ・・・32
 ジャガイモを薄く切り天日干し。水分が抜けたところで胡麻油で揚げる。揚げたらすぐに塩をふる。意外といけますよ。


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【九月の三/茗荷と台風と・・・】9月6日(火)

 今月末に予定されている、高須町の棚田の刈取りを目前に遂に大型台風14号が来てしまった。正午現在、九州に上陸しつつ広い範囲で被害が出ている。今後、日本海を北上するが福井県も暴風域に入る。今年に入り、幾度か台風が日本に接近したが福井県を通過し被害をもたらした事はなかった。
 次男の小学校からも緊急連絡で状況により、下校時間を早めるかもしれないと電話があった。
 玄関を出て南の空を見上げると、どんよりとしたグレーの空。「この空を見てると、気持ちまで滅入るな」と呟いてしまう。
 ふと玄関の戸の脇を見ると、ビニールの袋が置いてあった。中を見ると、サツマイモと沢山の茗荷が入っていた。「誰だろう?・・・」台風も心配だが、この嬉しいお裾分けも気になった。
 まずは台風だ。そこで高須町の佐々木さんに電話をかけた。私達オーナーの棚田も、もちろん気にはなるが、これは台風による被害が極力最小限で終わるようにと無事を願うしかない。しかし、遅植えのコシヒカリだから、同じく高須町の皆さんの稲刈りもまだだったはずで、私は心配になっていた。ご自分達の田畑だけでも大変なのに、棚田オーナーの管理もして頂いてる高須町の皆さん、さぞこの台風の進路に頭を痛めているだろう。
 以下、佐々木さんとの電話での会話。
「佐々木さん、もう稲刈り終わったの?」
「まだ終わってないよ」
「まだなの。台風心配だね、刈取り前なのに・・・」
「ほやって・・・、来んでもいいのに・・・」
「オーナーは月末の25日が予定かな?」
「ほーやの、それくらいかの。まだ案内来てないの?」
「まだ来てないよ。そろそろかなって思うけど」
「そろそろ、市役所から来るやろ」
いつもと変わらない佐々木さんの声だった。そこで・・・
「ところで佐々木さん、朝、うちの玄関に茗荷(みょうが)置かなかった?」
「分かったか、茗荷好きなんやろ」
「有り難うね。家族中大好きだから」
「いやいや」
 茗荷は本当に嬉しいが、台風の件は農家の皆さんも私達棚田オーナーも心配でならない。
 先日、アメリカ南部に超大型ハリケーン「カトリーナ」が直撃した。このハリケーンによる被害は過去に類を見ないものだったと言う。被害を受けたニューオリンズ市の市長によると死者、行方不明者が推定で4,000人から5,000人だろうと言う。有名な観光地は跡形も無く、複旧には数年を費やすだろうと言われている。アメリカ政府や州の対応が問題視されているが、人種問題や貧富の格差があるこの地域、略奪や暴行などが起こり警察も手が付けられないと報道されている。昨日は略奪を行った4人に対し軍警察が発砲した。
 ここで注目したいのは、この超大型ハリケーンが直撃する前だが、日本でも各マスメディアで注目されていた。私も航空自衛隊で「ウェザー教育」を受けたことがあるが、このハリケーンの天気図を見ただけで、事前にその規模がそして被害がある程度予想できた。
 だが実際には、多くの米国民が「大丈夫だろう」と危機感が薄れていた事は事実。警報をしたという当局と聞いていないという被害者。当局の対応の遅れもあり、州兵・軍隊も災害派遣に行くものの数が足りない。イラクに多くの軍隊を派兵していることが、ここで問題となる。つまりブッシュ政権そのものに非難が浴びせられることになった。
 阪神淡路の地震でも当時の政府(村山首相)の対応の遅れが問題となった。しかし、商店などへの略奪等が記事になることはなかった。多くのボランティアや国内外の協力そして被害者自らの努力により復興を成し遂げた。今回のアメリカ南部も、人種を忘れ、貧富の差を忘れ、皆が心を一つにして一日も早い復興をしてほしい。それが出来た時、過去の問題が少しでも無くなり人々に笑顔が生まれてくるだろう。
 さて台風14号だが、福井県に近付くのが明日7日。風と雨が刈取り前の稲にどれほどの影響を及ぼすか心配だが、被害が無いように心から祈ることにした。
 また、この日記をご覧の皆さんも今後のニュースなどに注意して下さい。


△男の酒のつまみ・・・33
 市販のチーズ(安い物でOK)がオツなつまみになる。
 チーズを厚さ5ミリ程度に切る。味付け海苔を巻いて食べてもいいのだが、ここは味付けのりにチーズをのせ、本日のポイントブラックぺッパー(あらびき)を少々ふりかける。今までに無い新感覚の味だ。是非、お試しを。

 あっ、佐々木さんからの茗荷だが、シンプルにお味噌汁と酢の物にしていただきました。ごちそうさまでした。


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【九月の四/台風で休校に・・棚田は・・】9月7日(水)

 昨夜、福井市内でも風が強く吹き出した。台風が福井県を横切るのは、明日のお昼にかけてという。横で眠る次男も先ほどまで「もう、台風が来たの!」と風の音に驚いた様子。福井県内のほとんどの小中高では、早々と昨日のうちに休校を決定した。日中に福井に台風が来るというのは久しぶりのような気がする。テレビの台風情報を見ながら、佐々木さんから頂いた茗荷の天麩羅で軽く1杯(不謹慎でした)。午後11時過ぎ、風が幾度も雨戸をたたく。
 朝4時、ふと目が覚めると静けさを感じた。昨夜までの風は今のところ吹いていない。テレビで台風情報を見ると、現在中国地方(島根県)の日本海を北上している。九州・四国では大規模な被害がでている。死者7名行方不明者13名。
 画面から流れるその被害状況を見ると、昨年の福井豪雨を思い出す。多くの家が床上や床下浸水している。中には完全に水没している家もある。非難勧告や自主避難により多くの方が自宅を後にしている。ある気象予報士が「この台風14号は、アメリカを襲ったカトリーヌよりも規模は大きい」と語っていた。少し速度は早まってはいるものの、ゆっくりと北上(北北東へ)している台風、この速度の遅さと海水の温度の高いことが被害を拡大している原因だ。
 朝6時、思い出したように風が吹き出した。まだ勢力は衰えていないらしい。ここで福井県内の台風情報が入る。「福井県内は暴風域には入らないものの、最大で20Mの風が吹く」と言う。多少の安堵感はあるが、まだ注意が必要だ。
 ここで気になるのは、高須町の棚田の様子。昨日、田中先生と明道中学校で話をした。「オーナーの皆さんは、棚田の状況が気になるはず。だから、台風が過ぎた後に高須町へ行きます。その情報をホームページで流しましょう。これもホームページを作った目的の一つですから、活用しましょう!」と話すと、「そうですね、出来ればデジカメで撮れればいいですね。棚田・・・被害がないといいんですけど」と、心配してくれる田中先生。
 夕方にはお馴染みFBC「夕方いちばんプラス1」を見ていると、川島アナが「いやー、お米作りをしていると、やはり台風の状況が気になりますね。でも、だからと言って田畑の様子を見に行くのは止めて下さい!」と私の行動を予知してるかのようなコメント。(謹んで注意いたします)
 横で見ていた妻も「わざわざ行かなくても、佐々木さんに電話して棚田の様子を聞いたらいいのに」と、冷静なお言葉。でも、やはり自分の目で確認したい。高須町の地元の皆さんはもちろん、ご自分たちの田畑と棚田オーナーの田も見回って下さることだろう。だからこそ、少しでも高須町のお役に立たなければいけない。そして、強い風と雨による棚田の稲の状況を少しでも早く、オーナーの皆さんにこのホームページにおいてお知らせするようにしたい。
 そんなことを真剣に考えている横で、起きたばかりの次男は休校をいいことに、朝から一人ゲームで盛り上がっている。
 8時、足羽川横の道路には、桜の小枝が強風により折れて通勤の車の流れを止めている。落ち葉やゴミ、何故か新聞紙が風に舞っている。暴風域には入らないと言っていたのに、風は強まりつつある。
 9時、台風は福井県沖を進んでいる。今のところ雨は降らず、雲の隙間から青空が顔を見せている。風も少し弱く感じられる。
 10時、台風は石川県輪島沖にある。ニュースでは、死者9名、行方不明者14名、負傷者は全国で90名と言う。山口県岩国市の有名な錦帯橋の橋脚が一部流されたとの報道。台風が通過した後には、必ずその爪あとが残る。
 11時30分、県内版のニュースで大本山永平寺の五葉松(ごようのまつ)が折れ、回廊が損壊した。また、刈取り前の稲がいたるところで倒れているとコメントがあった。高須町の棚田は大丈夫だろうか。まだ、南からの強風が吹いている。
 13時、まだ風が強く吹いている。近くで何かあったのか、救急車がサイレンを鳴らしている。忘れていたが、衆議院候補者の選挙カーも走っている。全国では台風の被害が相次いでいるのに、神奈川県藤沢市では、登校中の中学生に白い粉をかけて逃走するという事件が起こった。66人の中学生が目や喉に軽い痛みを出しているらしい。卑劣なイタズラだ。
 14時、台風は・・・えっ、まだ輪島沖。遅い・・・。
 そんな事を考えていると、電話が鳴った。次男の英語塾の先生からだ。「残念ですが、本日の塾はこのお天気ですから、お休みさせていただきます」との連絡。次男に伝えると「たぶん休みだと思ってたよ」と、どことなく嬉しそうな返事。
 風が少しでもおさまれば、高須町に行こうと用意にかかる。
 15時、風もおさまりつつある。今だとばかり、高須町へ向かう。車で走るは、あの自画自賛の走破コース、もうすでに稲刈りを終えた田もあり、まだこれからの田もある。木米町のあのお婆ちゃんのコシヒカリも無事みたいだ。ゴルフ場の所で横風に車が煽りを受けた。高須城小学校の横に来た。職員室に灯が見えるものの、やはり休校みたいだ。
 棚田に着いた。少しの稲が横になっているものの、大丈夫な棚田の稲達と案山子。なんだか嬉しくなる。
 

「さすが、高須のお米だ!」と一人納得。ここでFBCの川島さんに電話をした。「げんき米・・・大丈夫ですよ。まあ少し横になっている稲もありますが、全然平気です」と報告。「あ、そうですか。心配で金曜日にでも高須へ行こうと思っていたんですよ。よかった」と、嬉しそうな声。夕方いちばんプラス1の本番前の忙しい時間帯での電話なので切ろうとした時、川島アナから「筋肉痛大丈夫ですか?」と、切り出された。こまめにホームページを見てくれていたんだと、嬉しくなった。
 帰路、植木自治会長のお宅にお邪魔した。「お米が心配で来たんですよ」と言うと、植木さん「こんな風では、全然大丈夫だよ!」と力強いお言葉で返された。いつでも元気な植木さんと少しの雑談後、降り出した小雨の中、高須町を離れた。棚田のお米の台風にも負けない「生きる」強さに感動した日となった。


△男の酒のつまみ・・・34
 お酒を飲む時、たまに甘い物を欲しくなる時がある。チョコレートもいいが、今日は卵を使う。白菜(葉の部分)をみじん切り、ボールに卵2個(人数分×2)と白菜、砂糖を少し多め、塩少々でかき混ぜる。フライパンにバターでオムレツ風に。


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【九月の五/二度あることは・・・】9月8日(木)

 全国に被害をもたらした台風14号も北海道を通過し、ようやく温帯低気圧になった。県内では刈取り前のお米が、そして収穫前の栗や梨が被害にあった。青森県では、あのリンゴ台風の再来かと、早めの収穫作業となった。
 高須町の棚田の稲は、私達の心配を何するものぞと、案山子達と共に元気に秋の風に靡いていた。
 先月の高須町までの18キロの行軍で痛めた靭帯もあの日からサポーターで固定していて、治りつつある。だが、こんな時に限って何かが起きる。まず、痛めた方の足をかばっているのに、その足を廊下の柱の角につま先をぶつけた。さらに、店のシャッターを開ける時、慌てて頭をぶつけた。こんな時によく言うのは、「二度あることは三度ある」と言うから気をつけていた。
 そんな時、携帯の着信音が鳴る。いやな予感がした。予感は的中した。電話の相手は、またあの幼なじみの同級生(【7月の一】で登場)からだった。どうやら【九月の二】を見ての話らしい。いつもの早口福井弁でそれは始まった。
「おーい、元気か?。あのーお、こないだのお前が明道のPTA会長やってたって話、本当か?」(やはり、この話か)
「まあな」
「やっぱり。いやー、実は前に誰かからその話を聞いたことがあるんやけど、まさかぁーって思ってたんや、あれ本当やったんや」(うるさい!)
「2年だけ、やってたんだけど」
「おー!2年ってホームページに書いてあったな。ほやけど、会長やろ・・・。他に誰もいなかったんか?」(こいつ!)
「その言い方だと俺が会長したらあかんっていう事か?まあ今さら言うても遅いけど」
「ほや、大体お前な明道中学のPTA会長いうたら、格式の高いものや。伝統を重んじる明道やぞ」(誰よりも理解してる)
(しかし、こいつの言うのも当たってる。確かに、歴代の会長は大物ばかり。それに、私の前後の会長は大会社の若き社長だ。)
「だから?何・・・何が言いたいんや」
「いや、別に。そやけど母校の会長って遣り甲斐があったやろ。藤田でも」(お前に何がわかる!)
「お前なあ・・・!」
「ほやけどPTA言うたら、若いお母さんがほとんどやろ?」(これか・・・こいつの聞きたかった事は!)
「まあな」
「それでか・・・それが会長してた理由か。美人いたか?」(美人かどうかは関係ない。やる気と能力の問題だ。そりゃ、確かに美人はたくさんいたが、黙ってよう!)
「お前、何考えてるんや!」
「いや、でもな羨ましかったんや、実は・・・」
「中々出来へんぞ会長は・・・いい経験したな」
「実は、色々と活動してたんは知ってるんや。お前、新聞に載ってたもんな」(ほーお、新聞読んでたのか!)
「ああ・・・。お前に誉めて貰うと後味が悪いけどな」
「そう言うなよ。まあ、頑張ったから、ご苦労さんって事や」
「ところで、最近のあれ(高須城日記)なんや?」
「おれは、あん時言うたやろ。真面目でいくか、お笑いでいくかって」
「確かに面白いものもあるにはある、だけど中途半端や」
「何とかせいや!それから、俺の事を書くなら書いてもいいけど、ギャラを払えよ!1回登場に付き水割り1杯な、それでいいから」(お前の方が高いボトルをキープしてる!)
「お前なあ・・・」
「そやけど台風で被害なくて良かったな・・・」(うん!)
「ああ・・」
「高須のコシヒカリ美味しいんやろ。楽しみにしてるぞ!」(こいつ、本当はお米が目的か?お前もオーナーになれ!)
「何でやねん!」
「ああ・・、言い忘れるとこやった。あの、高須まで走ったやつ、本当に車使わずに行ったんか!どうせヤラセやろ!」(こいつ、今すぐここまで来い!)
「いや、本当に自分で行ったよ」
「ほんまか?明道のあの田中先生に頼んで、黙っててくれって言ったんちゃうの?」(本気で怒るぞ!)
「あのなあ、そんな事して何のメリットがあるんや!」
「まあ・・・、俺はどっちでもいいけどな」(だったら言うな!)
「ハハハ・・・。ほんじゃ・・・またな。片町で会おう!」(誰が会ってやるもんか!)
また、言いたいことだけ言って切った。この同級生の電話の後、私は必ずため息が出る。
 しかし、彼の言うことは本当の事だ。実は、PTA会長になった時、同じ様な事を複数の人から言われた事があった。
 隣家の娘さん(明道中卒業生)は、「お兄ちゃん、PTA会長だって!ふーん、会長って、もっと立派な人がなるんだと思っていたな」と、こんな感じだ。
 また、近所の者からは「会長になったんやて。頑張ってな。だけど、他にいい人がいなかったんか?」と、言う具合だ。
 以前にも、高須の植木自治会長からも別の意味で言われた事があった。
「藤田さんは知っているだろうが、昔から福井では順化・明道・藤島はエリートコースと言われてたものだ!」
 順化小学校は市内のど真ん中の歴史ある伝統校で、明道中学校は皆、郡部の子供たちが憧れていて、越境入学してまでも通いたかった学校、藤島高校は勿論、県内随一の進学校だからと、言う意味だ。今こんな事を話すと、「今は違う」と言われるかもしれない。この3校は福井の人であれば誰でも知っているもんだと思っていた。(自惚れが強いかな)
 いつだったか、佐々木さんの次男に聞いたことがあった。
「うちの子、順化小学校なんだよ」
しかし、その返答は「順化なんて知らん!」と、あっさり返された。
 考えてみると私自身も失礼な話だが数年前まで高須城小学校は勿論、高須町の場所さえ知らずにいた。県内でも市内でも知らない場所や初めて聞く名前の学校は時折ある。その地元の人にとっては、失礼な話である。その方の生まれ育った土地の事を知らないと言うのは同じ福井人として恥ずかしい話。子供なら言い訳も利くが大人には利かない。まだまだ郷土の事を勉強しなくてはならない。同じ福井でも、言葉が判らない事もあるしアクセントも違う。私にとって、「福井を知る」その第一歩が高須町だ。この5年間で高須町を知り、名前さえ聞いたことがなかった、伝説の武将、畑時能(はたときよし)も知ることができた。そして何よりも友人が出来た。
「人間、生まれた時から死ぬ時まで勉強だ!」誰が言った言葉かは知らないが、まさしくその通り。この秋、私は「勉学の秋」になるだろう・・・・・たぶん。


△男の酒のつまみ・・・35
 お酒を飲む時、たまに漬物類が食べたくなる。だから、FBC夕方いちばんプラス1の川島アナの漬物紀行?だったか、あのコーナーも大好きだ。
 糠漬け・浅漬けと何でもいいが、今日は茄子を使う。ヘタを取り、茄子を半分に切る。後は、薄くスライスする。ボールに茄子を入れ、塩を軽く1つまみ。(茄子1本に1つまみの塩)後は、水気が出るまで揉む。茄子はすぐに色が変わるが、仕方ない。揉んだ後、出た水気を捨て、ラップをして冷蔵庫で冷やす。私は、塩気を控えめで醤油を少しかけて食べる。やはり、日本酒に合う。


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【九月の六/慌しい一日】9月11日(日)

 夜明け前から遠くで、近くで雷が鳴っている。耳を塞ぐ仕草で次男は「今の近いね!」「今のは少し遠いね!」と、その轟音の落雷を気にしている。
 今日は、次男が数年前から所属しているカブスカウト(ボーイスカウトの前に属する)のデイキャンプがある。朝8時にJR福井駅に集合というので、その準備に大忙しだ。(前の日から準備すればいいのに!)
 今日一日は雨予報で雨具の用意も念入りにしている。妻もいつものように同行するのだが、何故だか私も車両班(運搬係)で行く事になってしまった。(休みの日なのに!)
 7時50分、JR福井駅で次男を降ろすと、そこにはカブスカウトの制服を着た十数人の小学生の姿がある。どの顔もこの悪天候なのに笑顔だ。そして、この子たちを引率してくれるリーダー(大人)もいて順番に点呼をしている。普段着を見慣れている親にとって子供のカブの制服姿は凛々しく感じられる。その昔の自分自身の航空自衛隊の制服(紺色)が懐かしい。
 JR福井駅も新しくなり、新鮮で白い大きな建物になった。子供達は、ここから電車にて芦原温泉駅まで移動し、徒歩で芦原青年の家を目指す。私達親は、車で先回りし器材等を降ろし待つ事となる。親の集合場所の順化小学校駐車場に行く前に、夫婦で衆議院選挙の投票へ行くことにした。いつもの投票の場合、のんびりと夕方行くのだが、今回は珍しく朝の投票になった。第1投票場の福井市役所へ着くと、まだ朝早いためか静かな館内だ。投票用紙に記入するペンの音が響くような気がする。知人の選管の人に小声で挨拶し妻と急ぎ順化小に移動する。
 集合場所に着くと、ほとんどがお母さんたちで、話しの輪が出来ていた。妻もその輪に入り暫しの井戸端会議。私は車中で煙草をくわえる。(やはり、来なければ良かった!)初めてお会いするお父さんも1人いるが、間が持たない様子。(同じだ!)打ち合わせが終わり、芦原に出発だ。
 車5台での移動となったが、先導は私となる。理由は「藤田君のお父さんは、色々な所を知っているから」だそうだ。(どういう意味だ?まあ、いいか!)どのルートで芦原を目指そうかと考えながらとにかくスタートした。後ろから付いてくるお母さん達の車をミラーで確認しながら、「皆、道を知らないなら、このまま間違えたふりをして高須町まで連れて行こうか!」と考えていた時、助手席の妻が一言「今日は高須じゃなくて寂しいでしょ!」と笑顔。(何故、判る!)
 雨が降りやまず、徒歩の子供たちが少しは心配になるものの、これも経験と一人納得する。北潟湖の湖畔にある「芦原青年の家」には約30分で着いた。大体の場所は知っていたものの、ここに来たのは初めてだ。館内には会議室や食堂、宿泊施設や体育館、プールやグランドまである。当初、屋外での活動を予定していたらしいのだが、雨のためその屋内施設をお借りすることになる。
 リーダーからの指示で体育館にテントを広げた。後で何か子供達が使うと言うのだ。天井を見上げ「この体育館はアスベストを使っているのかな?」と独り言を言う。ふと見るとバスケのリングがある。用具倉庫からボールを取り出しシュートの練習をする。(懐かしい!やはりバスケはいい!)
 午前10時、もちろんまだ子供達は到着していない。私の車に積んである器材を親たちが降ろし、昼食(カレーライス&サンドイッチ&デザート)の準備にかかる。
 この作業は、母親たちが中心となる。手持ち無沙汰の私ともう一人のお父さんはロビーのソファーに座り、ここで自己紹介となった。私より5歳下というお父さんと暫し語り合う。年長をいい事に、何故か話は高須町の事がメインで棚田でのコシヒカリ作りの面白さや、高須町の色々な事をPR。当然、私の事も聞かれた。「藤田さん、お店はどの辺ですか?」「子供が来月誕生日でプレゼントしたいのですが、是非、藤田さんの所で買います」と、キッチリ営業もしてしまった。(さすが!)このお父さん、清水町に住まわれていて佐々木さんと言うお名前だと言う。(田中先生と高須の佐々木さんが脳裏に!)
 雨が降り続き、この施設の周りの木々も鮮やかな緑色を見せてくれている。しばらくすると、「着いたあー!」の声、玄関の方を見ると、子供たちが雨具に身を包み元気な姿がある。疲れた様子の子、笑顔の子、母親を探す子と様々だが、皆無事な様子。施設の玄関先で親も含め全員が集合し、リーダーから行軍の反省事項と諸注意があった。次男はグループの年下の子たちを引率してきたためか、少し疲れた顔。解散後、昼食となるのだが実はこの昼食は今からこの子供たちが作ることとなる。ジャガイモの皮むき、玉葱のスライス、人参、ニンニク、の下ごしらえにかかる次男達。サンドイッチを作るその下のグループの子たち。母親たちの指導はあるものの、自分達で作るのが基本だという。私も得意の料理に少しのお手伝いをしたが、包丁の扱いに苦労する子、玉葱に涙を流す子と見ていると面白い。カメラやデジカメでその姿を絶好の被写体にする母親たち。1時間半後、約60人分のカレーライスだが、どうにか完成した。お味は?・・・これが中々、美味いのだ。
 何度もお代わりをする子、1杯の熱々カレーに時間がかかる子、お喋りに夢中な子、お母さんに甘える子(低学年)。楽しい昼食タイムとなる。
 午後より、体育館にて全員でゲームをするが、どのゲームもカブスカウトに必要な知識や体力を養うものだ。ミニ運動会という表現が適切かな。親も参加しての対抗戦形式もあるが、以外と子供に負けてしまう。
 午後3時、次男達はまた雨の中を徒歩で芦原温泉駅に向かい電車で帰路に着く。体験入隊の子は親達と車で福井へ。
私は自宅付近で妻と運転交代し、自宅にて横になった。妻たちは子供たちの到着を待ち、反省会後の解散となる。  私は、テレビを付け、煙草を一服。別に何もしていないのだが疲れている。楽しみにしていた、
不動さくらかの女子ゴルフを見ていたのだが、ついに睡魔に襲われた。
 目を覚ましたのは、次男と妻が帰宅した6時過ぎ。風呂上りで、さっぱりした様子の次男のバスタオルの音と「お疲れ様、ビール飲む?」の妻の言葉に起こされた。
 実はこの時、「夢」を見ていたのだ。それが・・・、夢の中の場所はFBCのスタジオだが、何故か大島アナ(こしひかり娘)が1人で進行している。「川島アナの韓国ツアーは、まだのはず!」と思いながら大島アナの話を聞くと、「川島さんは本日、選挙関連で取材に行きました。(あっ、今日は選挙だった!。えっ、何で日曜日に夕方いちばんをやっているの?)それで、本日はゲストのキャスターをお願いしています」と、大島アナ。カメラがターンし、確かにそこにはスーツ姿の男性がいる。しかも3人も。よく見ると、田中先生、佐々木さん、それに植木さんの3人が笑顔で並び、手にはニュースだろうか原稿を持っている。(悪夢だ!)「何で、あの3人がスタジオにいるんだあ!」と、パニック状態になったところで目が覚めた。(あくまでも、夢の中の話です)
「疲れている・・・ダメだ・・・あんな夢を見るようじゃ」と妻が置いていったビールに手をかけた時、
「お父さん、高須町はいつ行くの?」と次男の声。
「ああー、みんなスタジオにいるから、誰もいないよ」と訳の分からない返事に、次男も「あーそうなの!」と疲労による思考回路が断線している親子2人の会話。
 この後、お酒を飲みながら選挙速報を見ていたのだが・・・・川島アナが実際に選挙事務所から中継していた。
 さらに某選挙事務所に妻と植木さんが画面に写っていたのは・・・現実か?やはり、悪夢なのだろうか?この瞬間、コップ1杯分のお酒を噴きだしてしまった。
 よく考えてみれば、本日9月11日は4年前のアメリカ同時多発テロが起きた日だ。そして今、「郵政」「造反」「刺客」「新党」で沸いた、選挙の結末に日本列島はその静寂のひと時となっている。そんな時、こんな夢を見る私は不謹慎極まりない。
(ダメだ。早く寝よう!)次回の日記は真面目なものにします。


△男の酒のつまみ・・・36
 アルミホイールを大きめにカット。鳥肉を一口の大きさに切ったものを3個程度用意。しめじ、ねぎ、も同じ長さに切りアルミホイールの上に。少し多めのバターを加え、塩・胡椒をふりかけ、同じ大きさのアルミで蓋をする。
 レンジよりオーブンの方がいい。鳥肉に少し焦げ目が付くくらいが丁度いい。蓋をする前に、お好みで白ワインを少々もいいですよ。


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【九月の七/農業のお勉強?】9月13日(火)

 日本中の関心を浴びた衆議院選挙も自民党の大勝に終わり、これからの小泉首相の本当の意味での政治手腕に国民が注目することになった。福井においても自民党籍の3人が小選挙区で比例区では民主党、国民新党のそれぞれ1名が当選した。5名の議員の方には、国民いや県民の声を聞いて国会の場で活躍して頂きたいものだ。
 さて、もう9月も半ばというのに、残暑というにはまだまだ暑すぎる程の日が続いている。この気象が高須町の棚田のお米にどういう影響を与えるのか、気になるところである。
 確かにここ近年、「異常気象」が原因か?と、思われる事が多く発生している。そこで、今回は「気象と農業」との関係を調べてみることにした。
 「地球温暖化」という言葉は今、普通に口にしているが私達はこの温暖化を真剣に考えなければいけない時期にきている。
 温暖化の原因となっている大気中の二酸化炭素濃度の増加によって、光合成が活発になり、農作物の成長は促進することになる。また逆に、気温の上昇は農作物を早く老化させ、収量の低下を招くと言われている。つまり、気温の上昇は二酸化炭素の肥料効果を大きく上回り、水不足や水害、農作物の発育障害などによる生産物の減少を招くおそれがあるのだ。
 近年の気温の上昇は私達も肌で感じることはできるのだが、21OO年までに低くても1.4度、高ければ5.8度上がると予測されている。これにより、干ばつ被害は世界各国で起き、水不足のため生産量が減ることになる。
 また、気温の上昇お米の収穫にも大きな問題をもたらすことになる。私たちが毎日食べているコシヒカリは日本全国で作られるまでになっているのだが、その収穫量はやはり本州の北中部中心となっている。しかし将来、気温の上昇に伴い北海道でのコシヒカリ栽培が可能になり、その量は確実に増加するとされている。また、その反面では関東・北陸近辺において気象・害虫・水資源が切実な問題となり平均で13%の減収になると予測されている。
 この事はお米ばかりか野菜などにも同じことが言える。気温の上昇は冬場の最低気温も上げる。熱帯や亜熱帯産の水田に生える雑草の種子が越冬し、定着する可能性もある。土壌中の微生物の種類も少なくなり、地力が落ち作物の味や収穫にも影響を与えることになる。
 私たちはこれからの日本の農業を真剣に考えなければならない。今、自分達に出来ること、温暖化を考え、二酸化炭素の排出量を考え、身近で出来ることを少しでもいいから心がけるようにしたい。「日本人の主食はお米だ!」美味しいお米をいつまでも食べるには、地球規模での環境変化が農業にもたらす問題を考えていきたいものだ。
(参考資料・日刊県民福井サンデー大図解・05/05/15付版)


△男の酒のつまみ・・・37
 新潟を代表する名酒「越の寒梅」と舞茸を頂いた。今宵は舞茸づくしとなる。まず、天麩羅だが、これは普通に揚げるがシャキシャキ感が欲しければ、天麩羅粉と水を混ぜる時マヨネーズも混ぜると、不思議にこの食感が得られる。(是非、お試し下さい)
 次に、舞茸の炒め物だが妙に手を加えず、シンプルにそのままで舞茸だけを焼く。出来れば炭火で焼きたい。醤油やポン酢につけると美味しい。
 フライパンにバターを入れ、舞茸が少しシンナリする程度炒める。少量の塩・胡椒のみの味付けで出来上がり。


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【九月の八/秋風に風情が・・・】9月14日(水)

 日々、秋が感じるようになりつつあるが、まだまだ仕事中は半袖のポロシャツで、午前午後と汗で着替える事が多い。
 このところ、新聞各紙の先週末から今週初めの地元版では、稲の刈取りや酒米の刈取り風景が取り上げられている。稲刈りの体験を募集したところ、県内外から多くの参加があり、嬉しい悲鳴になったところもあるようだ。やはり、田舎に癒しを求め、日本古来の手作業での農業を体験したい人々が増えているのは間違いない。
 50歳を期に、また、定年後には自然が多い田舎で農業に夫婦でチャレンジするという従来の都市型人間が増加していると、ある週刊誌に特集で掲載されていた。体験が出来る場所は年々、増えつつあるものの、まだまだ定着型を受け入れる農村は少ないという。
「団塊世代」と最近よく聞くが、高齢化が進むこれからの日本において、都市部より地方の土地・住宅事情が問題となるだろう。自然に恵まれ、治安が良く、ご近所との昔ながらの付き合いができ、お互いが助けあえる。多少の不便さがあっても、少しの田畑があり、夫婦である程度の自給自足ができる、そんな場所が求められているのだ。
 ある新聞で、田舎に移り住んだ59歳の男性は「最初は50歳で会社を辞めようと思った」しかし、家族への責任を考えて、子供が社会人になった56歳の時、定年を4年残して退職したという。「山間部では地主が高齢化し、機械化も難しい。一度、田畑に手が入らなくなると、雨のたびに土砂で埋まったり崩れて湿地が消え、かつての生態系が一変してしまう」という。「現役リタイアしたものにとって、やりがいがある!」とコメントしていた。それぞれ、これからの人生プランを考えた時、自然の中、小鳥の囀り、木の香り、土の匂いのする田舎で暮らす人や暮らしたい人が増えている。
 福井でも農村の現状をみれば、高齢化は避けられない。田畑でも、まったく手の付けられていない所が多くみられる。それには、それなりの理由があるのだろうが、「空いた田畑があるのは、余りいいものではない」と、農家の人は言う。第2の人生で農業を希望する者と、それを受け入れる側の接点には大きな問題点があるが、お互い「日本人の心」をもった歩み寄りによって、農業の未来に光が見えてくるような気がする。
 さて、今回で12回目の放送となったFBC夕方いちばんプラス1「げんき米プロジェクト〜ライススタイル」だが、昨日から川島アナが遅い夏休みで、スタジオには大島アナ(こしひかり娘)が一人で頑張っている。(やはり、正夢か?でも横に変なおじさん達がいなくてよかった! 【九月の六】での私の夢の話)
 今回は日本全国に大きな被害をもたらした、台風14号が去った後に高須町の棚田に向った川島アナ大島アナ。途中の田んぼを見ると、稲が一部倒れているものもある。
「げんき米、大丈夫かな?」と、川島アナ少し心配気味。
「あっ、倒れている!」と、農道から見える田んぼを眺め、不安になる大島アナ。
げんき米の田んぼに着くと、
「あっ!2ヶ所程、倒れてる」の大島アナに、
「いやっ、・・・でも・・・思った程じゃないわ!」と、川島アナがコメント。
 でも、独身の二人が春から苗を育て誰よりも愛情を注いだこの「げんき米」が無事に収穫できるのか、不安を隠せない。いつもより、真剣に1つ1つの稲穂を見ている。そこに、登場のお馴染み智恵子さんと、ん・・・久々の登場の植木さん。
「比較的、これだけで済んだから、全部ピシャーといっても仕方ないのにね!」と、今回の台風を振り返る。でも、稲が倒れているのが心配の川島アナ
「この倒れているのは、大丈夫なんですか?」と、植木さんに聞いた。
「大丈夫、天気がよくなると起きるし収穫には影響ない!!」と、力強い答えが返ってきた。それを聞いた二人は「あーそうですか」「よかったー」と、胸を撫で下ろした。
 ところで今回の台風14号では、県内でも多くの稲が被害を受けたのに、何故
「げんき米」は大丈夫だったのかと質問をした。植木さんは
「うん、それは風の向きが良ったんやろね」と、運にも恵まれたげんき米。ここで川島アナ
「元気だったんだ!げんき米は!」と、ダジャレが出た。
「名前のとおり、げんき米やね!」と、植木さんも応戦した。
 今度は収穫まで秒読み段階の稲穂のチェックをする二人。稲穂を手に取り、状態を植木さんに聞いた。
「この根元の所から綺麗に実が付いてるでしょ。粒がそろっているからだいじょうぶ!」
最後に川島アナが
「収穫したらみんなでバンザイしましょう」と植木さん、智恵子さんと約束する。
 この後、植木さんの案内で待望の高須産の美味しい無花果を食べた二人でした。
 今月末の刈取りまでカウントダウンの今、高須産のコシヒカリは黄金色の稲穂を益々鮮やかにして、棚田オーナーの皆さんと笑顔の再会ができるのを待っています。


△男の酒のつまみ・・・38
 糸こんにゃくを軽く湯通し、あくを抜く。生しらすと共に酢醤油で食べる。ポン酢でもイケル。簡単なつまみでいい。


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【九月の九/高須町を知ってますか?】9月15日(木)

 朝夕、寝室にいると網戸を通して涼しい風が入って来るようになった。つい先日までは、我慢出来ずついエアコンのスイッチを入れていたのにと、夏から秋への季節の流れを感じることができる。
 今月の19日は敬老の日。昨日の新聞で、日本全国の100歳以上の高齢者人数が発表された。9月末時点の集計となるが、25,606人だと言う。昨年より、2,568人上回り過去最高を更新した。このうち女性が85%を占め、2万人を超えたと言う。福井県では、262人(本年度中96人)で、昨年より13人多く、こちらも過去最多を更新した。
 高齢化社会と言われる中、益々お年寄りには元気でいてほしいと思う。私の父も大正13年生まれの80代だが、朝4時前に起床、まず自宅から店までの約1キロをランニング、店を開け、次に順化小学校に移動しラジオ体操に参加、これを終えるとまた自宅までランニングで帰り、そこで朝食となる。父はこの日課をほぼ1年間繰り返している。年々、起床時間が早まっている気もするが、とにかく健康そのものだ。
 先週も富山県で行われた、中部サイクリングラリーに参加し、2泊3日の行程を走破し満足した笑顔で帰宅した。来月開催の全国ラリーが行われる熊本県には「遠いから、今年は止めとく!」と話しているが、まだまだ判らない。
 戦争を経験している父。海軍で数々の大戦に駆逐艦で参戦。敵の魚雷で沈没し多くの戦友を亡くした。7日間漂流し、海に漂う中、敵機の機銃で腕と腰(破片が今もある)と首(首の後ろ部分を貫通)し、それでも生きることを諦めず、ようやくパプアニューギニアの原住民に助けられたと聞かされた。
 数年前には、そのパプアニューギニアに向かい、慰霊碑を立て戦友を偲んだ。また、家の墓の横には海軍の錨のマークが刻まれた慰霊碑がある。今でも、海軍魂が父の心にある。
 父はもとより、数々の惨劇を経験してこられた多くのお年寄りの方には、いつまでも健康でいて頂きたいものだ。
 福井は長寿県として有名になりつつある。四季の美しさ、美味しい水、美味しいお米、美味しい山や海の恵がある。この福井県の良さをこれからも代々受け継いで行かなければならない。
 さて、高須町の棚田の稲刈り25日(日)になった。
 

 昨年も経験したが、思ったより疲れる作業の半日となる。刈取りは鎌を使う手作業で、その刈った稲を今度は藁で束ねなければならない。これが、意外と難しい。この作業で汗が全身ににじむことになる。そして、束ねた稲を地元の方の車に乗せ、少し下りた所にある場所ではさ掛け作業を行う。腰痛と戦う半日となるだろう。(でも、私だけかな?)とにかく、収穫は楽しいものだ。秋晴れを期待したい。
 

 先日の事だが、私の店に修理に来たお客さん(女性30代)が、私に意外な事を質問してきた。
「あのー、タカス町って知ってますか?」と、聞くのだ。
「えっ、タカスって海のですか?それとも、山の?」と聞き返すと、
「山の高須町です」と言う。当然、私は、
「ええ、知ってますよ。でも、どうしてですか?」と、聞くと、
「高須町のホームページで、その中に日記があるでしょ。あの日記が面白いんですが、それを書いているのがこの通り(フェニックス)で藤田さんって日記に書いてあって、もしかしたら、このお店の人じゃないかなと前から思っていたんです」と、その女性。
「あっ、そうですか。私が書いてるんです。有り難うございます」と答えた。
「FBCの番組(夕方いちばんのげんき米)を見ていて、ホームページで探したら高須町を見つけて、それ以来、更新するのを楽しみに待ってるんですよ。1日で朝・昼・夜と見ることもあるんです」と、嬉しい事を言うこの女性。
「そうですか、面白いですか。そろそろ、書くことがマンネリになっているので誰かに代わってもらおうと思っていたんですけど」と言うと、
「大変でしょうね、昨年の倍以上の量ですからね。でも、農業の事とか、知らなかった畑時能とか、勉強になってますよ。だから、ずっと書いて欲しいです」とのお言葉に、俄然やる気の出てきた私でした。
 しばらく、高須町のエピソードを話し、大いに盛り上がった。「いい女性(ひと)だ!」と、修理を終わり見送る私は、愛読者?ファン?に無言のお礼を言った。でも、このページも多分、見るんですよね。スタッフを代表して、本当に有り難うございます。これからも頑張ります!


△男の酒のつまみ・・・39
 そろそろ、大野の里芋が出始める頃となった。我が家族全員が大好きで、頂いたり、買ったりで週に2回は煮ることもある。しかし、この「里芋の煮っころがし」何度やっても大野の主婦の味が出来ない。調理方法を何度聞いたことか。醤油・味醂・砂糖・酒(少々)とシンプルなのだが・・・・・。とにかく味付けの時、少ないダシ汁でしなさいと言われる。何度も鍋を揺すり、焦げ付かないようにする。これを食べれば、福井の秋だ。


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【九月の十/秋の夜長に・・・】9月17日(土)

 早朝に目が覚ました。今日から子供たちは3連休となるが、我が家族はゆっくりと・・・は出来ない。長男(高3)は友達の家でお泊りの勉強?らしい。妻と次男(小5)はカブスカウト行事で夕方から翌日朝まで留守となる。
 その行事とは、「オーバー・ナイト・ハイク」と言って、30キロの道を徒歩で行軍し、体力や精神を鍛えるものだと言う。参加者はもちろん小学生(小5年以下)だが、当然ながら引率するリーダー(大人)や何人かの保護者も同行(徒歩や車両係)する事になる。
 しかし、30キロは口で言うのは簡単だが、車社会の現代人が多い中、実際には大変な距離であることは間違いない。つい先日の日記で書いた、芦原温泉駅から芦原青年の家までの行軍が、この「オーバー・ナイト・ハイク」の予行練習となったわけだが全員無事の完歩を祈りたい。
 実は半月前に妻から、この行軍に参加(徒歩で同行)できないかと打診があったが、親戚の一周忌の法事が大野市内であるため丁重にお断りしたのだ。(参加出来ずに残念!・・内心はホッ!)
 話は戻し、何故早朝に目が覚めたかと言うと、一人で高須山に登ろうと前日から決めていたからだ。目的は・・・ただ、大好きな高須山から大好きな美しい日本海を見たい・・・それだけだ。
 早朝のためか、普段でも交通量の少ない高須町までの道だが、いつにもまして対向車はほとんどなく、短時間で高須町に着いた。高須町に入り高須城小学校を過ぎ棚田へ向かう道に差し掛かると、こんな早朝なのに、町のお婆ちゃんが杖をつきながら坂を登っていた。
 私の車のエンジン音に気がついたのだろうか、道の路肩部分に寄り振り向いた。手ぬぐいで顔は分からないが地元のお婆ちゃん、こんなに朝早く田畑にいくのだろう。運転席からF「おはようございます」と挨拶すると、「・・・・・」無言で頭を下げての挨拶だ。バックミラー越しにお婆ちゃんの姿を確認しながら坂道を登る。
 棚田横の道に来ると、来週に迫った刈取りを待つ稲穂が朝風に漂いながら挨拶をしてくれている。まだ、夜明け過ぎだから辺りは薄暗く、農道の運転はノロノロ運転となる。FBC「げんき米」のたて看板もどうにか読める。
 10分程走ると、車での行き止まりとなりここからは徒歩15分で頂上だ。曲がりくねった山道をゆっくりと道を確認しながら登る。心地よい汗、頂上に着くころには市内も海も壮大な姿を見せてくれていた。日本海を見下ろしながら、柄にもなく深呼吸、とにかく気持ちがいい。
 これで、何度この高須山に登ったことだろうか。本当に私自身のお気に入りの場所となっている。この山に登ると必ず口ずさむ歌がある。昔から時折、歌う青春の思い出の歌だ。
♪@ 遠い旅に出かける時には
      君にだけは手紙(たより)を送ろう
   海を見つめ 孤独に一人
         つらい青春 かみ締めている
   君はきっとわかってくれるさ
    「元気さ」とあるだけの手紙を見て
  (セリフ)
   君は今なにをしてる
  「おやすみ」って空に向って言ったけど
             君に届いたかな
 A 遠い町を訪ねた時には
         君にだけは手紙を残そう
   白く光る 名もない星に
         これでいいかと尋ねたけれど
   君はきっとわかってくれるさ
   「さよなら」とあるだけの手紙を見て
※昔の歌なので歌詞が間違ってたり、1番2番が逆になっているかもしれません。
 この歌は、私の中学3年生当時、テレビドラマ「俺は男だ!」の挿入歌で主人公役の森田健作(青葉高校・剣道部、小林幸二)が歌った「青春の旅」という歌だ。このドラマでは、主題歌の「さらば涙と言おう!」や同じ挿入歌の「友達よ泣くんじゃない!」とヒット曲が数々でたが、私はこの「青春の旅」が大好きで当時から音痴(マジ)ながらよく歌っていた。
 誰もいないこの高須山の頂で、海に向かいこの歌を歌うのが最高に気持ちいい。しばらく、目を閉じ風音を聞きながら、「無」になるのが、いやなれるのがいい。
 朝7時前、自宅に戻ると部屋には礼服が用意されていた。持ち物の確認をする。数珠をよく忘れる私なのだが今日は大丈夫だ。大野には親戚が多いため(父の出身は大野・鳩ヶ湯の手前の打波)、その親戚への届け物も数軒、持って行かなければならない。数日前に福井市内の従兄弟(8歳年上)に電話をし同乗させてもらえることになっている。(これで、お酒が飲める!)
 10時前、自宅まで迎えに来てもらった従兄弟と共に大野に向かう。158号線、美山に入ると木々の緑が綺麗だ。もうすぐ、紅葉を向かえるとより自然の美しさが目を引くことになる。昔の懐かしい話をしながら大野に近づく。煙草を数年前に止めた従兄弟、当然禁煙車だ。(失敗だ!大野に着くまで我慢我慢)
 まず、大野市中挟の親戚に寄る。両親から預かった品物を渡す。この親戚の叔父さんも法事に出席だが、すでに出かけていた。後を追うように私達も法事がある大野市篠座の親戚に向かう。
 すでに、多くの親戚の人達がお茶を飲みながら待っていた。
 挨拶を済ませながら、仏壇にお参りする。法事が始まるまでの少しの時間、私は一人の男性を探していた。一年前の葬儀の時、知り合った奈良県の中学校の先生だ。(従兄弟のお嫁さんの兄)この先生とは、遠い親戚になるのだが、その時が初対面で、偶然葬儀後の食事の時に隣席になり色々と会話をした。
「お仕事は何してるのですか?」
「奈良県の田舎の方で、中学校の教員をしてます」
「中学校の先生ですか。大変ですね。私も福井市内にある明道中学校というところで、PTA会長をしていました。今は学校評議委員をやってます」
 ここで、お酒を注ぎにきた叔母が・・・
「えっ、幸ちゃん・・・明道の会長さんしてたの?」「明道いうたら、福井でも名門校で凄い有名な学校なんですよ」と、この先生に話してくれた。
 この後、二人の会話は弾んだ。
 これが縁で当時、明道中学校が取り組んでいた研究資料(文科省・学力向上フロンティア事業研究主題「確かな学力」を培う学びの創造)を後日、送ったことがあり、同じ中学校の教師として「大変すばらしく、大いに参考になる資料です」と、電話をもらい喜ばれたことがあった。実はこの資料を送付する時、勿論明道中学校の許可を貰い、私個人で送付しようとしたのだが、明道中学校が「今回のフロンティア事業で、県内外からも多くの先生方が本校に見学にお越しになりました。是非、お役に立てて頂けるのなら」と、学校側で送付してくれた。この1つの資料が縁で、福井と奈良の中学校同士が交流を持つ切っ掛けになれば、素晴らしいと思った。
 残念ながらその先生は今回、来られてはいなかった。先生の住む奈良県からこの大野までは車で約6時間以上はゆうにかかると聞いていた。先生という職業は多忙であるというのは、田中先生を含む明道中学校の先生方を見ていても分かる。
「今度会ったらとことん飲もう!」
「今の中学生に何が必要か、話ましょう!」と約束していたのだが、残念だ。
 法事が始まりお経が響く中、正座をする。いつも思うことだが、この正座は「今日は何分もつだろう?」と考える。法事でのお経は約1時間、到底フルにはもたない。・・・・・
 20分後、やはり足の痺れでダウンとなる。情けない話だ。同席の年配の皆さんは平然と正座のままだ。「足を怪我しているので、崩させてもらいます」と言い訳した私。
 正午、法事を終え場所を移動しての昼食となる。今さらながら、こういう席で毎回思うのは、お顔は知っているが、どこのどういう親戚になるのか、今さら聞くのも恥ずかしく、そんな親戚の方も多い。左横でウーロン茶を飲む従兄弟(同乗させてもらった従兄弟)に一応、気を使いながら注がれるままにお酒がすすむ私。右隣は子供の時から私を可愛がってくれた叔母の従兄弟だと言う。お互い、お酒を注ぎ合いながら自己紹介をする。また、何人かの人に高須町の事をPRし、約3時間の大野の時を過ごした。
 自宅に帰ると、妻と次男は30キロ行軍に出かける所だった。「どこから、どこまで歩くの?」と、妻に聞くと「永平寺有料道路(美山側)から、松岡を経て福井大学医学部・県立大学を通り、大和田から中央公園まで」と、言う。「頑張って!」と送り出す私は、今から明日朝までの独身貴族に顔がニヤリ。法事後のお酒がまだ残ってはいるが・・・「飲もう!」と、つまみと焼酎と氷を用意する。
 誰もいない2階、手には、私のお気に入りのビデオテープ2本「レッド・オクトーバーを追え」(旧ソ連の大型原子力潜水艦がアメリカに亡命するストーリー)「誰にでも秘密がある」(韓国映画でイ・ビョンホン、チェ・ジウが共演したコミカルな話題作)がある。 どちらを見ようか悩んでいた。しかしここはやはり、大好きな「レッド・オクトーバーを追え」に決めた。もう、何十回いや、百回は見ただろう。
「ゆっくりと好きなビデオでも見るか!」と、リモコンを取りスイッチを入れようとした時、妻からの1枚のメモが目に入った。「8時前・フジ・学問の秋スペシャル・日本の歴史・録画お願い!」のメモ。「えー!面倒くさいなあー」「隣の部屋で録画しよう」と独り言を言いながら、焼酎の水割りを飲む。
 録画の時間が近づき、隣の部屋の録画タイマーを確認したものの、「どんな内容か、最初だけ見よう」と自分の部屋のテレビも同じチャンネルにした。(これが、間違いだった!)
 歴史年表を元に邪馬台国の昔から、太平洋戦争終結までのターニングポイントを楽しく教えるこの番組だが、結局・・・・・最後まで見てしまった。しかも、録画を終えたテープを隣の部屋から持ち、再び最初から最後まで見てしまった。「いい歴史の勉強になった!次男に見せよう!」と僅かばかりの独身貴族の秋の夜長だった。(妻の策略か?)
 家族がいないと、ついつい煙草の吸いすぎになってしまった。部屋の空気を入れ替えようと、窓を開けるとそこには思わずため息がでるような月があった。美しい「待宵の月」だ。
 明日18日は「中秋の名月」、予期せぬ事が色々起きるこの世の中で、暫し家族全員で秋の夜空を見上げるのも、おつなものですね。


△男の酒のつまみ・・・40
 シーチキンの缶詰を使う。余分な汁を除き、中皿にシーチキンを取り出す。玉葱を薄くスライスし、水にさらす。
 水をよく切りシーチキンの上に盛る。花かつおをその上にかけ出来上がり。醤油をかけ食べる。お好みでマヨネーズもいけますよ。


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【九月の十一/暑さ寒さも彼岸まで】9月21日(水)

 25日に稲刈りが行われる高須町の棚田。ほとんどの稲穂がたわわに実り重たそうに頭を傾けている。まるで「もういいよ!」と言っているかのように、黄金色の実を膨らませている。この棚田一面を見ていると、秋が感じられる。
 さて、昨日夕方のお馴染みFBC「夕方いちばんプラス1」での中で、先週遅い夏休みを終え、元気に現場復帰した川島アナが「いよいよ、げんき米も今週末には刈取りを向かえます」と、コメントしていた。「なんか、早かったですね(過ぎてみれば田植えから稲刈りを向えるまで)と、7日に19歳?の誕生日を迎えた、大島アナ(こしひかり娘)。今年の高須町の棚田オーナー39組の中で、おそらく1番数多く高須町に通い(あっ、私と田中先生と同じくらいかな?)、どのオーナーより色々な米作りに関して体験してきた2人。
 春先の種まき・育苗から田おこし・あぜ作り。そして夏場のイノシシ対策とチャレンジしてきた。番組の企画だとしても真剣に取り組む川島アナ&大島アナの姿は、撮影に携わった地元高須町の皆さんや逆取材をした私達The Yamazatoスタッフは、その「仕事への情熱」そして「真面目さ」を見ていました。プライベートでも時折、棚田を訪れ稲の成長する様を観察し、また台風後の棚田の様子を心配し、稲を手に取る2人は、まるで初めての赤ちゃんを育てる若夫婦のようでした。(ゴメン!二人とも独身同士でしたね!・・・公式には?!)
 スタジオの話に戻り、「手鎌での作業だから、あの広い私達の棚田(10月8日から10日開催、「大和田げんき祭り」10/8(土)に、高須産のコシヒカリをおにぎりして振る舞うというイベントのため通常の3倍の広さがある)、私達だけで大丈夫ですかね?」と少し不安な様子。大島アナも「そうですね、お手伝いお願いします!」と、カメラに向かい応援要請(災害派遣要請は西川知事を通してね!)をした。
※日曜日に川島アナは、(「川島秀成アナウンサーと行く、韓国ツアー」11/17から19までの説明会がある)一時会社へ戻るため。
 昨年の経験では、稲刈りをしそれを藁にて2束を(はさ掛けするため)クロスする。この作業を繰り返す。稲刈り後、この藁で括った稲束を地元の軽トラに乗せ、棚田途中にあるはさ掛け場所に移し、地元の方と共に干さなければならない。
 昨年は、稲刈り作業だけで大量の汗をかき、腰痛になった覚えがある。だから、2人の棚田の場合は大変な時間と労力を考えなければならないことになるだろう。勿論、地元の皆さんの応援はあるだろうが、「オーナーの皆さんも、もし余裕がありましたらお手伝いをお願いします。」(すみません)
 今日、親戚から新米(ハナエチゼン)を頂いた。早速、夕飯にて味わった。普段、高須産のコシヒカリばかり食べている我が家族、新米を黙って食べてもらった。無言の父と母(味音痴か?)妻は「水の量が多かったかな?」と、いつもと少し違う味に気が付いた。長男(高3)「・・・・・」で、誰よりもお代わりをしている。(お前は、質より量か!)
 家族は誰一人気が付かない食卓となった。しかし、まさかと言う人物が口を開いた、次男(小5)だ。食事を終え、ご馳走様の後だった。「お父さん・・・やっぱり新米は美味しいね!」と言った。驚いた私は「お前、違いがわかるのか?」と聞くと、「だって、お米の袋(空袋)があったもん!」と次男。目ざとい男だ。(さすが、同じA型同士)
 正直、コシヒカリハナエチゼンのこの2種類のお米、真剣に味わわなければ、その違いは素人には判らない。でも、私個人的には高須産のコシヒカリが最高なんです。
 話は今朝になるが、前日の学校帰りから「お父さん、明日の朝、5時30分に必ず起こしてね!絶対ね!」と言う次男。理由を聞けば、福井市小学校連合体育大会があり、その開催の有無をFBCにて放送されると言うのだ。
 そして今朝、次男を起こしテレビを点けると、「本日の福井市・・・・・予定通り開催されます」と放送された。それを見て次男は「ふ・・・ん、あるんだ」と一言、また眠りについた。
 そして夕方、少し日焼けし下校してきた次男の第一声は「お父さん、○○君と○○君に会ったよ!」と、嬉しそうな顔。つまり、高須城小学校の佐々木さんの次男(小6)と同じく5年生に会ったというのだ。「よかったね!」と言うと「うん!」と久々の再会?に本当に満面の笑顔だった。
 この福井市小学校連合体育大会も今回で54回目だという。福井市内の44校の5・6年生、4,900人が参加したらしいが、その大勢の中でお互いを見つけ会えたのは凄いこと。
 でも、よく考えれば、日曜日に会えるのに・・まあ、いいか!
 稲刈りが近づき、日曜日の天気予報が気になるのだが今のところ晴れ予報。高須町の稲刈りが楽しみなオーナー2年目の親子です。


△男の酒のつまみ・・・41(番外・・・自衛隊編)
 私が以前、航空自衛隊のエリート自衛官(自分で言うな!)だったことは、この高須城日記でもお話しました。北海道奥尻島に勤務していた時のこと、自衛隊の基地の中にも夜間(6時から9時まで)に飲み屋(スナック系)がある。
 その飲み屋の経営者が代わり、初日の事。後輩達(バスケット部員)を引きつれ、長い廊下を歩き別棟(散髪屋・娯楽室などがある棟)のそのお店に入った。勿論、私達がその店の第1号のお客だった。50代のご夫婦が新オーナーで自己紹介した。
※制服及び作業服の着用時は胸にネームプレートがあり、所属先や名前が確認できるが、ジャージ等で来た場合確認できないから。また、自己紹介するのは、自衛隊の場合、もちろん現金でもいいのだがほとんどの隊員が給料日払いのため「○○隊の○○班の○○です」と、顔と名前を覚えて貰うため。もちろん、サインはしますよ。
 店の内装は以前と変わらず、しかし、メニューが新しくなっていた。ここで、全員の目が釘づけになるメニューがあった。「たこ焼き」だった。何故かと言うと、この奥尻島にはお好み焼きとかたこ焼きなどのファーストフード店がなく若い隊員達はこの味に餓えていたのである。
 口火を切ったのは私だった。「俺、たこ焼き2人前ね!」注文を書くご夫婦。初めての自衛隊の中で、初めてのお客で相当緊張していたはず。そして、次から次に隊員達から注文が・・・「自分も、たこ焼き1人前にするであります!」「私も同じであります!」「自分は2人前、頂きます!」と、13人全員が30人前以上のたこ焼きの注文となった。これに驚いた様子のご夫婦、すぐさま厨房に2人で入りたこ焼き作りとなった。
 私達は日本酒(個人ごとキープ・一升瓶)を飲みながら、次のバスケの試合の作戦を練っていた。私のフォーメィション理論を聞く後輩達だが、頭の中は全員が久々のそして懐かしいたこ焼きであったはず。私もそうだった。
 ここで、もう1人がお店に入って来た。私以外、全員が起立し敬礼する。(脱帽時、及び両手が塞がっている場合は頭を下げての敬礼となる)バスケ部の監督だ。(防衛大学出の超エリート幹部自衛官)「おう、ご苦労さん!・・・楽にして」の言葉で「はい!」と着席する後輩達。しかし、座っても姿勢は崩せない。「おい!楽にしろや、酒が不味くなるから!」の私の言葉で、ようやく少しの緊張感が癒える。
「藤田さんは何を注文したの?」と監督から聞かれた。「私達、全員がたこ焼きを頼みました」「監督は何にします?今厨房はスクランブル状態(航空自衛隊の国籍不明機による領空侵犯で緊急発進し、緊張状態)だから、同じもんにしないと!」の私の言葉で、やはりたこ焼き2人前をオーダーした監督。しかし、これだけのたこ焼きの注文だから、それなりの大きな鉄板が無くてはこなせない、いやあるはずがない。つまり出来上がるまで相当の時間がかかるはず。
「おい!出来るまで、時間かかるだろうから、廊下で腕立て伏せ、各自100回な!」の私の命令に「はい!」と後輩達。(あくまでも、イジメではありません!訓練です!)
 監督と私「すすきの(札幌市)にいいお店あるらしいですよ!」「へー、函館の大門にも出来たんですよ」などとつまらない会話をしていると、「お待たせしました!」と、ようやく・・・待ちに待ったたこ焼きが出来て来た。廊下では「44・・45・・46・・」と号令をかけ腕立て伏せを行う後輩達の声が聞えてくる。
 しかし、出てきたたこ焼きに唖然・・・呆然となる監督と私。「えっ、どうしよう・・・」「これ・・・たこ焼き・・・だよな!」「監督・・・こんなの・・・あり!」「いや、なし!」
 つまり、普通の たこ焼きではなく、出てきたものは、タコの足をブツ切りし、それを5個串刺しにし塩・胡椒で味付け、炭火で焼いたものが、目の前にあった。しかも・・・大量に。
 ようやく、「はぁー!はぁー!」と腕立て伏せを終え店内に戻った汗だくの後輩達だったが、しばらく無言で・・このたこ焼きを見つめ・・・やはり唖然と・・・立っていた。
 これだけ多くの蛸の足を仕入れしていた新オーナーも凄いと思ったが、残さず食べた私と監督以外の後輩達もさすがだった。これから1ヶ月後、たこ焼きはメニューから消えてた。・・・・でも、この蛸焼きは本当は美味しいですよ。


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【九月の十二/高須の棚田は豊作の舞い】9月25日(日)

 いよいよ高須町の棚田の収穫の日が来た。昨晩、佐々木さんからの電話で、「明日の稲刈りは、午前中でケリをつけよう!」と話があった。理由は今日の午後から佐々木さんは、会社の人の結婚式があると言う。
 本当に佐々木さんは忙しい人だ。朝から夜遅くまで会社勤め、たまの休みには自分の田畑で農作業と棚田オーナーの田の管理にと見回りをしている。もちろん、高須町の皆さんも同様なのだが、一日ゆっくりとしていたという話を聞いたことがない。とにかく、私は明日に備え体力を温存し、体調を整えなければならない。(稲刈り作業は大変な重労働!)
 しかし・・・何故か、高ぶる心を抑えられず、お酒の力を借りてのいつも通りの時間で遅い就寝となった。(おいおい!毎日飲んでいるのに!)
 朝4時前、まずは寝室の窓から本日のお天気のチェック。まだ夜明け前で空の様子を見ることは出来ないが、今のところ雨は降っていない。次に高須町のホームページを見る。アクセス数がもう18万件になっていた。
 春(4月1日開設)に立ち上げた時には、植木さん、佐々木さん、田中先生それに私の4人は、この反響は当然予想していなかった。
 田植え時(5月15日)約12,000件、草取り(7月10日)約30,000件、そして、昨日約180,OOO件という経過だ。棚田オーナー以外の方も多くの方がこのページを見て頂いてる。「えっ、もう18万件に!」と驚いた。
 この時、自宅のシャッターが上がる。父が店に行くのだが、今日は日曜日で店は休みのはず。そうか!どこかでサイクリング大会があると前日、話していたのを思い出した。ほんとに元気な大正生まれである。頭が下がる。よく、近所の人から「お父さんは真面目なのにね!」と、昔から言われたものだ。(大きなお世話である!)
 昨晩から、風が強く吹いているが、太平洋上の台風の影響なのだろうか。昨日の降水確率30%の予報は外れて欲しいものだ。やはり、刈取りは秋晴れの空の下でしたいものだ。
 7時30分、田中先生を迎えに清水町(丹生郡)へ行く。清水町も来年からは、いわゆる市町村合併で福井市となる。福井市と大野市の間にある自然の郷美山(みやま)町も水仙や越前かにで有名な越廼(こしの)村も同じだ。
 私の自宅から田中先生のお宅までは、約15分。のどかで自然が多く高須町に似た部分もある。それにしても、昨年から何かある度に、いや、何もなくても田中先生には貴重な休みなのに高須町に同行してもらっている。今日も、刈取りやはさ掛けの様子などをホームページに掲載するのが目的で高須町に来て頂くのだが、本当に熱心な先生だ。
 田中先生を乗せ、高須町へ向かう。途中やはり、小雨が降り出した。「誰が雨男なのか?」と、草取りと案山子作りの日と同じ事を言いながら、ワイパーがふき取る雨粒を恨めしそうに見る二人。そうそう、次男と妻はカブスカウトから進級?したボーイスカウトの行事で本日、不参加である。
 8時過ぎ、高須町の棚田に着くとまだ受付開始前だというのにもう、多くのオーナーの皆さんが来られていた。やはり、収穫の日で皆さん気合十分でやる気満々である。
 オーナー行事の度に顔見知りになる方々が出来るのは、人生において素晴らしい財産になる。オーナー相互での「お早うございます!」「久しぶり!」「雨が止めばいいですね!」は、もう、お馴染みとなっている。「あぜ道インタビュー」でお世話になった、油井さん、中村さんご夫妻も笑顔で来られていた。(ほんとに、仲がいいご夫婦だ。羨ましい!)
 9時、植木さんの挨拶で収穫日の一日は始まった。「今年は過去にない良い品質で豊作です!」と、植木さんの言葉に棚田オーナー一同から「おー!」と喜びの声が出る。はさ掛けを行う為、刈取り後の藁での結び方を習い、それぞれの棚田へと、いざ出陣!のオーナー達。
 

 私の棚田には、佐々木さん(今日は先生と呼ばせて頂きます)と、佐々木さんの次男(高須城小学校)が応援に、そして高須城日記今回初登場!、佐々木さんの会社の先輩の高島さんも駆けつけて下さった。高島さんとは、今年の春から3回程お会いしたのだが、とても気さくで優しい方だ。この高島さんも高須町の魅力に引き込まれた一人である。
 

 まだ小雨が時折降る中、鎌を持ち4人による稲刈りが始まった。田中先生は他の棚田へデジカメを持ち、飛び回って取材をしている。
 たわわに実った稲穂、下の株を左手で掴み右手の鎌でザクリと刈る。4株×2で藁で束ねる、この作業の繰り返しだ。佐々木さんは見事に藁を扱っている。しかし「こんな事、今はせんでのう!、ほとんどが機械刈りやで・・・」と、言うがやはり私から見れば、上手である。佐々木さんの次男(小6)は、鎌で切る専門となっている。「おい、藁で束ねてくれ!」と私が言うと「出来んもん・・・したことないもん!」と、この調子。ここで、さすが父親の佐々木さん「おい!、こうやるんや、よう見とけ!」と生きた親子の現場教育となった。
 高島さんはその佐々木さん親子のやり取りを微笑ましく見ながら黙々と刈っている。
 20分程経っただろうか、何やら女性の大きな声がこの棚田に響いている。隣の棚田だ!大島アナの声だ!こしひかり娘は取材をしながらだろうか、カメラマンを従え頑張っている様子が伺える。「すいません!」「あっ、有り難うございます」「そうなんですか!」「ゴメンナサイ!」それにしても、よく通る大きな声だ。(さすがアナウンサー!)
 

 気が付くと、小雨が上がっていた。周りの棚田の様子を見ると、どの棚田も家族で楽しそうに収穫を満喫しているようである。ここで、私の元に一人の女性が来た。「すいません。高須のホームページを書いている方ですよね?」と、聞かれた。何か、クレームかなと心配になる。そう言えば、最近の高須城日記は少しおふざけが多いから・・・かな。(真面目に書いております!)
「あのー、ホームページのアドレスを教えて下さい。見たことが無いので!」と、女性。「有り難うございます」と、ほっ・・・とした私。いつのまにかデジカメを鎌に持ち替えていた田中先生にお願いし、女性にメモを渡して頂いた。
 稲刈りが半分程終わった頃、隣の田から唄が聞えてきた。春の田植えの時と同じで地元の高久さんの美声が高須の棚田を包んでいる。いつの間にか会社から戻った川島アナもこの高久さんの美声に鎌の動きも快調の様子。
「俺たちも何か歌いますか?・・・。正調、江差追分なんかどうですか?」と、私が言うと・・・なんの反応もない佐々木さん、高島さん、田中先生。黙々と稲を刈っていて相手にしてくれない。誰か「いいですね」と言ってほしかった。(実は江差追分は知らない!)
 刈取りも後少し、いつの間にかいなくなった佐々木さんの次男。(まあ、いいか)
 腰を曲げている時間が長いため、腰を伸ばす回数が増えてきた中年組の4人。私たちの棚田を見下ろす所には黄色の薄いジャンパー(雨着)の植木さんが棚田全体を見渡すように立っている。「植木さーん!お疲れさまです」と挨拶をすると、「今年はいい穂が付いているよ。収穫も多いよ」と嬉しそう。
 高須町棚田オーナー制度の4年目の今年、可愛い孫を見るように笑顔の植木さんである。私達の準備とか、また色々な事でご自分の田植えが相当遅れた植木さん、当然収穫はまだである。棚田オーナー委員会の代表として春から12月の大収穫祭まで心労が耐えない植木さん。心から「有り難うございます」と言わなければならない。そして、高須町の皆さんにも感謝しなければならない。
 稲刈りが終った。「お疲れさまです!」と4人はここで記念写真を撮る。(カメラマンは田中先生)

 隣の田では市農政企画課の皆さんもお手伝いして「ほっ!」と一息の皆さんが、あぜ道で休憩している。田中先生がすかさずカメラを向けて、ここでも記念撮影。どの顔からも微笑みがこぼれている。
 

 FBCの棚田(私達の3倍の面積)の様子を見れば、まだ半分が残っている。地元の皆さんも総力を上げての応援だ。私たちは、佐々木さんの軽トラに束ねた稲を乗せ、はさ掛けの場所に移動する。
 どの棚田も大収穫の為かはさ掛けの場所も手狭の様子。でもお互いマナーのいいオーナー同士、地元の方の指示もありルールを守り綺麗に掛けていく。どのオーナーの皆さんも家族で協力しながら、また地元の皆さんの応援もあり手渡しで作業している。これから約2週間で美味しい高須産のコシヒカリが私達の目や口を楽しませてくれる。
 

 午後1時過ぎ、高須山への農道は、はさ掛け作業の車と帰路に着くオーナーの車で大渋滞となった。でも、クラクションを鳴らす車は・・・当然・・・1台もありません。
 この渋滞を利用して助手席から飛び降り、前方に見えたFBCのはさ掛け現場の風景を撮る田中先生。横には現場監督の植木さんが的確な指示を出している。

 ようやく、車も少しづつ流れ始めた。佐々木さんは結婚式(披露宴)の出席の為自宅へ、高島さんも笑顔で帰宅、田中先生を送った後私も自宅へ、午後2時だった。
 雨と汗、そして少しの全身筋肉痛が心地よい。佐々木さん親子、高島さん、田中先生、お疲れさまでした。そして、有り難うございました。
 夕方、疲れた体をお風呂とマッサージ・チェアでほぐした。うとうとと、気持ちよく浅い眠りに入りかかったところに、ドタバタと廊下を駆ける音。次男だ。心地よい気持ちになっている私の耳元に次男は質問してきた。
「ねえ、お父さん。日本の台風は数字の順番で1号2号と言うけど、何でアメリカのハリケーンは女の人の名前を付けてるの?」と。
誰がこの名前を付けているかは知らないが、アメリカのハリケーンはABCの順番が決まりだ。つまり・・・
   A・・・
   B・・・
    ↓
   K・・・カトリーナ
   L・・・リタ
と言う具合だ。ここで一応納得した様子の次男だが、まだ疑問が残っているのは分かる。親としてすぐにでも調べてあげたいのだが、今日は勘弁してもらおう。
「ごめんね!」夜になり益々、筋肉痛が増してきた49歳の父親だった。
「皆さん・・・お・や・す・み・な・さ・い!」


△男の酒のつまみ・・・42(番外・・・自衛隊編第2弾!)
 北海道は梅雨がないと言われていて、夏も短いのは皆さんご存知の通り。昔、青函連絡船で青森から函館に着くと真夏の8月であっても、何故かヒヤリと感じられた。
 その8月、奥尻島でも短い期間海水浴できる。想像以上の冷たい海水で、本州(※内地)の人には経験が無いはず。
※北海道の人は内地の人といい、沖縄では本土と言う。  航空自衛隊の私たちではあるが、この短い夏を利用して水泳訓練は行う。しかし、海上自衛隊のように遠泳中心ではなくどちらかと言うと、海上保安庁のように潜ることを行う。(海猿か!)これには理由がある。この奥尻島は勿論、魚介類が美味しくて有名であるが、取り分けウニ(馬糞ウニ)が有名なのである。
 ある日、水泳訓練という名目で海岸に来た私は、一人大きなゴムの浮き輪にお尻を入れ、手漕ぎで沖へと進む。私は、水泳は得意ではあるがこの日は日光浴状態でいた。共に来た、この他の後輩たちは、私の指示を待っている。「潜水開始、1分前。この当たりは海底までおよそ7mある。全員が海底に脚をつけたら、ゆっくりと息を吐きながら海面まで上昇するように。(ここまでは、よい訓練の話だ!)ただし、海底に足を付けた時、万が一、万が一鮑が足にくっついた場合は、仕方ないので持って上がるように。以上だ!」(密漁か?)「それでは、潜水開始。健闘を祈る!」で全員が潜り始めた。さすが、航空自衛隊の隊員の中でもより運動神経抜群のメンバー達、果敢に冷たい海中に消えて行く。時間差はあるものの浮かび上がった隊員たちは、私のところに寄ってくる。
「先輩!自分の不注意で足に鮑がくっつきました。すみません!」「自分も鮑が2個、足にひっいて離れません!」と全員が鮑の海中攻撃?(ありえない!)に嬉しい様子。見る見る私のお腹の上には多くの鮑が増えていった。ここで、その鮑を見ていると「食べたい!」と思うのが・・・私だけだろうか?
「1つだけ・・・」と親指で殻から身を取り出し海水で洗い食べてみる。「美味しい!」(当たり前だ!)1つ食べると、もう1つ・・・となる。
 このあと、真面目に訓練?を実施し、海面に上昇する後輩隊員たちと、海中ですれ違う鮑の空殻が幾たびもすれ違っていた!
 しばらくすると、遠くから漁船の音が聞えてきた。見る見る私たちに近づいてくる。密漁監視の地元漁協の船だ。今まで潜っていた隊員たちは、各々水泳の泳法で泳いでいる。(何て機転が利く隊員たちか!)この時、その船から拡声器で声がした。「藤田さん!ここらはあまり大きな鮑はいないんでないかい!」「もう100mほど沖に行くといいのがあるっしょや!」と、地元の知り合いの漁師の声。バレバレだった。
 夕方、後輩の隊員たちとその漁師たちでジンギスカンと鮑をたらふく食べたのだった。
 その数日後、町の飲み屋でその漁師から笑顔でこう言われた。「藤田さん、漁協の密猟者のブラックリストに藤田さんの名前を書いておいたからね。いいっしょや!別に気にせんでもいいからね!・・・・・冗談だがね!」(おいおい!)
 奥尻島の鮑は小さいが美味しい事で評判、とにかく密漁者が後を絶たない。(お前も同じだ!)
 でも、一番新鮮な食べ方での鮑は、最高に美味しいんです。
※ちなみに私達が鮑を採っていた区域は遊泳区域で密漁ではありません。本当です!


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【九月の十三/稲刈り後の棚田は・・・】9月27日(火)

 高須町での稲刈りも無事に終わり、そして何よりも高須産コシヒカリが大豊作だったことが私達を喜ばせてくれた。刈取りから2日経った今、身体には少しの筋肉痛(特に内股が痛い)が残るものの、新鮮な高須産のお米を思えばこれくらいは我慢が出来る。
 昨日のFBC「夕方いちばんプラス1」の冒頭も、川島&大島アナのコメントはこの稲刈りの話題から切り出された。
「いやー、今月は3連休が2回もあったのに、何故か身体がだるく感じますね!」
「そうですね、なんなんでしょうね?」
「その理由は、昨日とうとうげんき米を収穫することができました」
「稲刈りをやってきました。お米も豊作でよかったですね」
「私はもっと、稲刈りをやりたかったんです!」と、疲れが少し残り、しかし若さ溢れる両アナウンサー。
 地元、高須町の皆さんの応援があったにせよ、あの広い面積での稲刈り作業、やはり若いというのは素晴らしいですね。
人一倍いや3倍分頑張った2人だから、苦労が実ったんですね。お疲れ様でした。
 そして、本日放送の「げんき米プロジェクト〜ライススタイル」第13回目では、その日曜日の稲刈りの模様が放送された。題して「収穫の喜びを初体験」です。
 まずは、鎌の種類を紹介した。今回、稲刈りで使用する鎌は「のこぎりがま」「草刈がま」と比べると、歯先のギザギザが多いのが特徴。早速、稲刈りに取り掛かる二人だが、稲刈り初体験の川島アナ、持参の鎌を使いまずは1株を切ってみる。「わー、よく切れる!」と、少し感動!そして、快調に稲を刈り取っていくのだが、傍で見ていた植木さんから刈取る時の左手がおかしいと指摘される。つまり、稲を掴む時、順手か逆手かと言うことなのだ。「稲の持ち方で、稲刈りが初めてかどうかわかる!」と、植木さん。
※稲刈りの注意点「親指を上に向けて持たないと、手を鎌で切ってしまうから」
「いやー、全然知らなかったなー」と、勉強になった様子の川島アナ。次にその切り取った稲の束を藁で束ねていくのだが、これがまた難しい。地元の方がすると実に簡単に見えるのだが、実際自分でやってみると、これが上手くいかないのだ。この藁で縛るのは「はさがけ」しやすくするために行うのだが、緩く縛ると、バラバラに稲が解けてしまうからはさ掛けが出来ない。だから、この作業は重要なのだ。
 大島アナ(こしひかり娘)もお馴染み地元の先生、智恵子さんさよ子さんに手ほどきを受けながら、藁で稲を束ねてみた。
「うん、上等や」と智恵子さんの誉め言葉に満面の笑み。「よかったー!」と嬉しがるのだが、この後にオチがあった。
「本当に頭がいいんやわ!」の智恵子さんの言葉に、微妙に嬉しがる大島アナ「えっ!」と聞き直した。「頭がいい」と再度、智恵子さん。本当に喜んだ大島アナだが、この「頭」とは大島アナのではなく、稲のの事を言っているのだ。 つまり、藁の束ね方を教えてもらい、すぐに大島アナが覚えたので「頭がいい」と、勘違いしたこしひかり娘だった。
 照れ笑いする大島アナだが、放送を見ていた私も、あの現場で「頭がいい」と言われたら、やっぱり大島アナと同じ勘違いをしてると思う。(福井弁の高須の女性と、新潟産のこしひかり娘の言葉の勘違いでした。同じ北陸なのにね!)
「げんき米」の田んぼは稲刈り開始2時間経過。そろそろ疲れが出てきた様子。ここで、高久さんの自慢の喉を聞きたいと川島アナ。そして「祝い船」は川島アナのタイトル紹介で始まった。(演歌の花道か!)
 それにしても唄の上手い高久さんだが、この時、隣の田んぼで稲刈りしながら聞いていた私と佐々木さんと高島さん、それに田中先生もこの高久さんの美声に酔いしれていた。佐々木さん曰く「高久さんの唄は、昔から有名だから!」なんだそうです。
 そして、いよいよ最後の1株になった「げんき米」の田んぼ、ペアでの作業となった。川島アナが稲を持ち大島アナが鎌で切った。そして、収穫の喜びを手伝ってくれた地元の皆さんと「万歳!」で締め括った。
 植木さんからは「川島さんたちほど田んぼ(高須町)に通った人はいない」と言われた2人、この収穫の日にこの5ヶ月間を振り返り、さぞ感慨無量だったことだろう。
 この後行われた「はさ掛け」は、次週放送予定だそうです。お楽しみに・・・。
 稲刈り後の棚田を見回すと、黄金色の稲穂が無くなり株だけが残っている。言葉的にはどうかな・・・と思うけれど、「つわものどもの夢の跡」が浮んだ私だった。変かな・・・。
 さて話しは変わり、数日前からパソコンの前に座り「ん・・・無い!」「ん・・・ダメだ!」と、何やら検索で調べている次男(小5)だが、どうやら学校の宿題が原因らしい。宿題にはなるべく自分でさせるのが我が藤田家の家訓だが、(そんな家訓は初耳だ!)
とうとう、「お父さん、明日図書館に連れてって!」と言い出した次男。「何を調べているの?」と聞くと、「再生について・・・」と言う次男。「再生?・・・リサイクルについて?」と聞き直すと、「うん・・・昔の再生・・・」と、イマイチ中身が理解出来ない。とにかく、中途半端な間違った事は教えられないし、図書館に行っても膨大な本の数の中から、その答えを見つけ出すことに自身がない。(要するに、図書館に余り行ったことがないのだ!)そこで、「ここは、田中先生にお願いしよう!」と、勝手に決め付けてしまった。
 午後3時20分、明道中学校職員室。田中先生にFD(高須城日記の原稿入り)を届けに来た私だが、気の弱い私だからなかなか頼めない。(誰が気が弱いって!)
 教頭先生や顔馴染みの先生方に得意の愛想を振りまきながら次男の件を小声で頼んでみた。普段でも多忙な先生たち、とりわけ田中先生はPTAも担当していて忙しい。今日も夕方からPTAの役員会があるという。(懐かしい!)しかし、「夜遅くなってもよろしいですか?」と・・・好・感・触。(ナレーションの木村か!)
「すみませんね、先生」
「いえいえ、お役にたてるのなら」とこんな会話が続いた。
 下校してきた次男に、この事を話すと「よかった!」と嬉しそう。「質問をまとめておけよ!」と私の言葉に「うん!」と答える。とりあえずホッとした、人頼みの親子だった。
 夜9時30分、携帯が鳴る。「すみません!今、役員会が終わりました。それで・・・再生の内容をもう少し詳しく教えて下さい」と、田中先生。次男と電話を代わると「はい・・・うん・・・はい・・・すいません」と、こんな調子の次男。
 電話での会話が終わり「それで、田中先生は今から来てくれるの?」と聞くと、「うん」と言う次男。自分の宿題用のノートと教科書を持ち、玄関横にある応接間に行き田中先生を待つ。15分後、自宅に来て頂いた田中先生と次男のマン・ツー・マンの勉強会は、それを終えた後の次男の満足そうな表情が物語っていた。
 再来年、田中先生の勤務する明道中学校に入学する次男だが、その時まで、異動しないでいてほしいと思う私だった。そうそう、高須町の佐々木さんは「田中先生。高須城小学校に来て!」と、言っていたっけ。
 とにかく、田中先生には公私ともお世話になっている私だった。


△男の酒のつまみ・・・43(番外・・・自衛隊編第3弾!)
 奥尻島の短い夏の日、オフで砂浜が見える道路をランニングしていた私だが、海水浴をしている先輩を見つけた。何故かその横には、見知らぬ若い女性(今ならギャル)が2人。しかも、先輩と楽しそうに話している。「地元(奥尻)の子じゃないな」と気になった私は、急ぎ砂浜へ。
「先輩!」と呼ぶと「おー、藤田!」と笑顔で振り返った。どうやら、この女性2人は函館からの観光客で女子大生らしく、それを数分前に先輩がナンパしたらしいのだ。しかし、妻帯者で子供が2人いるこの先輩。しかも前方約20mの波打ち際にその子供たちが砂遊びをしている。しばらく先輩と女子大生の会話を聞いていると、先輩は歳をごまかし、独身と嘘をついている様子。そして「ねえ・・・今晩、暇だったら飲みにいかない?」と誘った直後、事件?は起こった。
 波打ち際で遊んでいた先輩の子供が、砂遊びに飽きたのか「お父さん・・・お父さん・・・」と、こちらに向かい手を振っている。「バレた!」と私が思ったその時だった。先輩は、当たりを見回し首を傾げ「どこの子だろう・・・?」と、他人の振りでこう言った。(何ていう父親だ!)
 しかし、この女子大生に嘘がばれるのは時間の問題だろうと思った瞬間、その先輩は自分の方から子供たちの元へ向ったのだ。しかも、少し離れた所にいる我が子に聞こえないように「親と逸れたのかな?心配だから俺が聞いてくる!」と、歩きだした。「わあーやさしいんだぁー」と、感激した様子の女子大生2人。
 子供と先輩の会話は、こちらには聞えない。その夜、奥尻の飲み屋に私と先輩、そして女子大生2人の姿があった。(いいんでないかい!)
 酒のつまみと関係ない話をしてしまったが、実は私の人生で釣りを教えて貰ったのがこの先輩なのだ。(陸(おか)釣りではなく、勿論魚を釣る方です!)
 奥尻島はもちろん周りは海、ホッケイカなど色々釣れたが私はタナゴが大好きだった。小さい魚でも引きの強さがあり、糸のうなる音が今でも耳に残っている。「タナゴ」福井でもタナゴと言うのか勉強不足で分からないが、このタナゴを油で素揚げして食べる。最高に美味しい。
 また、この先輩に渓流釣りにも連れてってもらったのだが、「岩魚」をその場で食べる、それが一番の贅沢だった。林の中から若竹を切り、串を作る。釣れた岩魚は腹から内臓を取り除き、川水で洗う。竹串に刺し、全体に持参の塩を手のひらで付ける。火を熾し遠火でじっくりと焼く。先輩と私、岩魚が焼けるまで持参の日本酒「北の誉」で乾杯となる。あっという間に空になる一升瓶、2本目に・・・至福の一時だった。


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【九月の十四/《祝》北陸農政局々長賞受賞】9月28日(水)

 朝、いつものように新聞を広げた。天気予報・スポーツ・政治経済・テレビ覧と順番に目を通して行く。3紙を購読しているのだが、何故か今日最初に見た、福井新聞に手が行った。何かを見過ごした気がしていた。毎日、朝は簡単に見る程度で、夜に一面一面ゆっくりと読むのが私の新聞の楽しみ方だ。気になる所があれば、切り抜き保存している。
 慌ただしい朝、福井新聞をもう一度見た。さほど大きくはないが、確かに高須町の文字が書いてあった。その瞬間「おー、やったー!」と声を上げてしまった。その声を聞き、驚いた様子の登校前の次男「お父さん、どうしたの?何かあったの?」と、聞く。「うん、高須町が表彰を受けるんだよ」と、答える。妻も「何の表彰なの?」と聞く。「春、ほら、運動会で植木さんが言ってた、あれだよ!」の私の答えに「後で詳しく聞くわ」と次男を送りに行ってしまった。
 ここでその記事を見逃した方に高須町関連の所を抜粋して報告します。(9/28付、福井新聞)
 北陸農政局は二十七日、管内四県の本年度農政功績者と農山漁村における豊かなむらづくり優良団体を発表した。本県からは、豊かなむらづくり優良団体の局長賞に福井市高須町高須集落活性化モデル推進協議会(植木正義会長)が選ばれた。高須集落活性化モデル推進協議会は、中山間地域等直接支払交付金制度を活用して設立。棚田オーナー制度を導入しその保全に尽力。育苗乾燥施設の整備を進める一方、新たなブランド品作りを目指しイチジクのポット栽培に意欲的に取り組んでいる。(終)
 実は春先に植木さんから、高須町がこの賞の選考対象になった事を聞いていた。しかし、勉強不足か内容的に今いちピンとこない私だった。「それは、いい事ですね。もし、選ばれたら凄いですよ!」と、訳も分からず言っていた。  しかし、現実に大きなその賞を高須町は獲得した。高須町の住民でない私が口にする事ではないかもしれないが、この賞は、植木さんや高須町の皆さんの大きな活力になる事は間違いないはず。今までの皆さんの苦労がここで花開いたようですね。The Yanazatoスタッフとして、また棚田オーナーとして心よりお祝い申し上げます。本当に高須町の皆さん、おめでとうございます


△男の酒のつまみ・・・44(番外・・・自衛隊編第4弾!)
 このコーナーもそろそろ真面目バージョンに戻そうと考えていた時、友人から「あれ、いいね!」「笑ったよ!」と、中々好評の様子。また、「面白いから暫らく続けて!」と複数の読者の皆さんから投稿があり、今回も奥尻島バージョンで書きます。(ゴメンナサイね!)
 北海道奥尻島、この島に行くには函館からの直行便の飛行機か、函館━江差と電車に揺られ、その江差からフェリーで奥尻へ行くことは以前の日記【八月の二】でも書いた。また、夏場だけだったか瀬棚からも奥尻までのフェリーがあった。(今は分かりません)
 そのフェリーが着くのは奥尻港だが、その奥尻島の反対側に幌内(ほろない)という集落がある。何もない集落だがここには、温泉があり温泉マニアや釣り客の間では有名な所だった。
 そこには、旅館や民宿が数件あった。最初、この幌内に先輩に連れて行かれのだが、日本海に夕日が沈む美しい光景を見て、一度でこの地に惹かれた私だった。
 しかし、航空自衛隊の自衛官はオフ(休日)であっても非常呼集(緊急な場合、基地に戻る事)や、常に24時間体制での緊張感があるため、交通の便が悪く、島の裏側にあるこの幌内には、休みの日といえどもなかなか訪れることはできなかった。この時の私たちの勤務状態は3クルー制(3交代で24時間体制)、つまり、
 ナイトーナイトースタンバイーデイーデイーオフ
 夜勤―夜勤―待機―日勤―日勤―休み、の繰り返しで一年間行われていた。勿論、お正月やお盆も関係ない。休暇を取るのが1年で1回程度であり、まして奥尻島から出て札幌や函館など日数のかかる長期休暇はほとんど取れなかった。だから、休みと言えば、町に借りた下宿でノンビリと過ごすのが当たり前だった。(必ず所在を明確にが自衛官の原則!携帯電話などない時代だった!)
 そんなある日、幌内にある民宿のオバチャン(過去2回日帰りでお世話になった)から基地の私に電話が入った。
「藤田さん、今週の土日は勤務なの?もし休みだったら、おいで」と、言うことだった。
「おばちゃん、休みは休みなんだけどバスケットの練習があるから、無理かもしれないよ」と答えた。
「あーそう、残念や!」と、余りにも落胆した声のおばちゃん。
「おばちゃん、何かあったの?」と聞くと、
「土曜日に札幌からOLの若いお客さんが2人くるんだけど、始めて奥尻に来るみたいで、こんな辺鄙で何も無いところだから、藤田さんが来て何か面白い話でもしてもらって寛いでもらおうかなって考えたんやけど」と言うのだ。(俺は漫才師か!)
 しかし、困っている人を見過ごすことは自衛官として許されない(行く気満々!)
「おばちゃん、休みを取って行こうか?」
「いやあー、無理しなくてもいいよ」
「いやいや、おばちゃんが困るんだったら俺行くよ」と会話が続く。結局、その土日まで興奮した夜をすごした私だった。(何を考えている!)
 週末になり勤務を終えた私は基地からバス(基地専用のバス)で下の町(基地はカムイ山の上にある)へ、直に下宿にて着替えて、嘘の理由で先輩の車を借り、途中寿司屋でお土産用として5人前(大奮発!)を買い、一路幌内に向かった。
 この時の迅速な行動は、自衛隊の非常時よりも凄かった。幌内に着き、車を止めおばちゃんの民宿が見える50m程手前、砂浜に腰を下ろし海を見つめる2人の女性がいた。(横顔しか見えなFいが、「可愛い!」
 一応、気にしながらも見て見ぬ振りをしながら私は民宿へ。
「おばちゃん、来たよ!」
「藤田さん、ありがとね。忙しいのにね」と、恐縮するおばちゃん。
「いやいや」多分この時私は、自分でも分からないが顔はニヤついていたはず。
「ご飯だよー」とのおばちゃんの声に砂浜から戻った2人のOL。この時、初めて顔を見た。(マジ可愛い!)
 しかし、そこはエリート航空自衛官の私(もう、いいって!)冷静沈着の振りで
「あっ、どうも。お客さんがいらしたんですか?知らなかったなあー」と、切り出した。
「こんにちは」と挨拶をする2人。食事まではお互い無言の状態だった。
「藤田さん、ビール?日本酒のロック?どっちにする」のおばちゃんの問いに
「私は余り、飲めませんから!」(酒豪で有名だろ!)の答えに、ただ笑っているおばちゃん。
 夕食が始まり、しばらくすると1人の女性が口を開いてきた。
「藤田さんは、地元(奥尻)の方ですか?」これがはじまりだった。
「いえ、東京です!」(本当かよ!)私も聞いてみた。
「2人はどちらから来られたのですか?」
「札幌です」(知っている!)
「藤田さんは、ここで何のお仕事をしてるのですか?」
「それは・・・教えることはできません!」(ミステリアスでいい・・・作戦開始だ!何の?)
 こんな会話から始まり1時間後、お互いにお酒が入り話が盛り上がっていた。私の笑い話しに大声で笑うOLとおばちゃん。ここで、玄関の戸が開いた。
 この民宿の3件横隣の若い漁師が、採れたての魚介類をざる一杯に持って来たのだ。美味しい鮑やウニにこの2人のOLもお酒のペースが速くなっていた。漁 漁師の兄ちゃんも加わり4人で囲炉裏を囲み楽しい飲み会は続いた。まあ、最後には私が航空自衛官であることを正直に話したのだが、「素敵なお仕事ですね!でも、怪我しないようにしてくださいね!」と優しい言葉のOLだった。(仕事の内容は話す事は出来ない)
 夜12時頃だったか、お酒も相当飲みもうお開きにしようとした頃、私が「砂浜で夜風に打たれてきます!」と外に出た。後を追うように私の横で飲んでいた女性も私の横で海を見てる。(作戦成功!だから何の?)
「海が綺麗ですね!」(夜中で海など見えない!)
「はい!」
「少し歩きますか?」(暗い砂浜のどこを歩くのだ!)
「はい!」
歩き出したこの時、私の手に彼女は手をつないできた。
「お仕事、大変なんでしょう?」と聞かれる。
「ええ、いつ死ぬか分かりませんから!」(おいおい!そんな事は絶対ない!)
「えっ!」
「あっ、そうだ!ここの温泉入りました?」
「いえ、まだです」
「とても気持ちいいんですよ!」
「じゃ、後で2人(友達と)で行きます」
「私も酔い覚ましに行きます」(何を期待している?)
2人の夜中の散歩はこんな感じで約1時間続いた。(この間、何があったか・・・言えません)
 民宿に戻り、タオルを持ち急ぎ温泉に向かった。(ここの温泉は深夜には混浴「共同浴場」になっていた。現在は知りません!)
 白いタオルが黄色く染まる、温泉の成分がなんだったか忘れたが気持ちのいい温泉だった。私が入浴して暫くしてこの温泉の戸が開いた。耳を澄ませる私。足音は1人だった。「彼女か!」期待した。
 温泉の戸が空いた。薄暗い温泉の内部は情緒がある。気を利かせ入り口に背を向けた私。優しくお湯を汲み身体を洗う音。(いいね)無言の彼女。「恥ずかしいのかな!」ゆっくりと身体を彼女に向けた。
「あら・・藤田さんかえ・・・」薄暗く湯煙の中、お湯の中にいたのは民宿のおばちゃんだった。「・・・・・」。酔いが完全に冷めた私だった。この後、脱衣所の横にある、畳のところで横になっていたが、いつしか寝てしまった私。
 しばらくして身体を揺すられて起きた。
「風邪ひきますよ!」彼女だった。
「お風呂は?」と聞いた。
「ほんとに気持ちよかったです!」と彼女。
「もう入ったの?」
「はい、藤田さんがいるから来たのに、寝てるんだもん・・・」
「・・・・・」
「帰りましょう」
 こんな幌内の一夜だった。(この時の彼女とは、この後・・・内緒です)
 さて酒のつまみの話しだが、今回はこの幌内の朝の味噌汁?を是非紹介したい。朝、昨日の漁師が持ってきた物が具になるのだが、岩のりウニが入っていて朝から贅沢な一品。しかし、この味はおそらく一生忘れる事はないだろう。あのOLさんも、もういいお母さんになっただろう・・・。幌内のおばちゃん元気かな・・・。

※文中でも書きましたが、国防という任務のため、陸・海・空の全自衛隊の隊員は24時間緊張状態の中、日々懸命に勤務しております。私のこの文中の内容は全てあくまで個人の休みの中でのでき事です。(内緒にしてね!)


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【十月の一/高須山は色あざやか】10月2日(日)

 小雨の中で行われた稲刈り、はさ掛けから一週間が過ぎた。棚田へ続く道には、脱穀を待つ穂が路肩にまるで壁のように干されている。最近では機械乾燥が多くなり、このような自然の中での天日干し乾燥は少なくなったと言うが、この日本古来の風情はどこか情緒があるものだ。このはさ掛け、実は地滑りなどの自然災害を防ぐのにも役に立つとも言われている。
 優しく手のひらの上に穂を置き、そっと匂いを嗅いでみる。土の匂い?お米の匂い?が鼻をくすぐるようだ。
 珍しく大渋滞となった一週間前のこの農道、今は誰の車も通らない。ゆっくりと棚田へ向かうと、小鳥が刈取られた後の稲株の上に乗り遊んでいる。ふと、下の畑を見ると、色とりどりの花が咲いている。はさ掛けの時には、気がつかなかったが、栽培用の花だろうか。菊の香りが棚田に吹く風に乗り、私の元まで届いている。
 

 そして、高須のいたるところには白い花が咲き乱れている。蕎麦の花だ。秋から初冬にかけて新蕎麦の季節と言われている。蕎麦大好きの私にとっては、これもまた嬉しい季節が近づきつつある。地元、高須町の佐々木さんと昨年から約束している事がある。それは佐々木さんの畑でとれた新蕎麦を機械で粉にするのではなく、石臼で挽き、そして蕎麦を打ち、おろし蕎麦で食べようと言っていた。「一度、やってみようよ!」と春に私が言うと、「時間がかかっても、石臼での方がいいよね!」と、佐々木さん。
 2人はこの時点でやる気満々だった。しかし、呑気な2人は必ず何かを忘れている。「ところで、石臼はあるの?」と、佐々木さん。農家だから佐々木さんの家には必ず石臼があると決め付けていた。勿論、我が藤田家には無く「あるわけないじゃん!」と、私。
「そう言えば、田中先生が石臼持っているって聞いた事あるよ、以前どこかの中学校の生徒と一緒に蕎麦打ちしたらしく、その時使ったって!」と、私が言うと「じゃ、借りよう。決まりね!」と佐々木さん。ここでもまた、困った時の田中先生頼みになった。(ゴメンナサイ!田中先生)
「で・・・、誰が蕎麦を打つの?俺は出来ないよ」
「俺は一応真似事は出来るよ!」
「小西(鷹巣交番)さんに頼もうよ!」
「決まりね!」
 こんなやり取りの中年の2人だった。おそらく12月頃にこの、新蕎麦&飲み会を行うだろうが空気の美味しいこの高須町で食べる蕎麦は最高だろうと、今から楽しみである。(まあ、何を食べても美味しいのだが!)
 今日、高須町に来たのは、植木さん、佐々木さん、そして田中先生の4人でホームページの打ち合わせを行う予定だったのだが、翌週に変更になり時間を持て余した私は、やはりこの高須町に一人で来てしまったのだ。今年に入り何度目だろうか、この高須町に来たのは。(数えきれない!)何度来てもここは癒される場所だ。心が和むと言うか、落ち着くのだ。
 前回の日記で高須町が北陸農政局の局長賞に選ばれたことは書いたが、その表彰式は今月、金沢市であると言う。「豊かなむらづくり」の団体には北陸4県で4団体が選ばれた。福井県はここ高須町。新潟県からは上越市坊金(ぼうがね)集落、富山県は魚津市松倉(まつくら)地区中山間地域連絡協議会、そして石川県は羽咋郡宝達志水町所司原(しょしはら)村づくり推進協議会だ。私自身、高須町以外のこの3団体は初めて聞く団体名で、どんな所かまたどんな活動をしてるのかインターネットにて調べてみることにした。
 新潟県上越市の坊金は高須町と同じように山の中腹にある集落。杉が有名らしく、25mの高さの大杉がこの地のご神木のように書かれていた。この坊金の集落そのものの情報は調べることはできなかったが、のどかで森林浴が満喫できそうな地である。
 富山県魚津市松倉は、有名なのは松倉城跡である。こちらも高須町と同じで、南北朝の砦としてこの城で幾多の戦いがあったと言う。標高430mのこの地に当時、富山県最大の山城が築かれた。また、ここ松倉は魚津漆器でも有名である。
 石川県の所司原は能登半島のほぼ中央にあり、山深いこの所司原では棚田で作られる有機特栽米が有名。戸数は高須町より若干少ないが、村一丸となって過疎化や高齢者問題に取り組んでいると言う。今回の北陸農政局の「豊かなむらづくり」優良団体では、ここ所司原が農水大臣賞を受賞することになったが、独自のホームページの内容も充実しており益々将来に向けて、明るい道が見えているようだ。
 私はこの4団体をみて共通しているのは、いずれも山々に囲まれ交通の不便さを感じながらも、故郷を賢明に守り、愛し、そして未来を見据える探究心の元、村人全員の団結力と調和が見えるような気がする。


△男の酒のつまみ・・・45(番外・・・自衛隊編第5弾!)
 最近、この文中にて北海道奥尻島の思い出を書いていると、島の人たちは元気かなと思うようになった。昭和58年3月、島を離れてから勿論、一度も訪れたことはなく、奥尻を襲ったあの津波以来、電話をかけていない。「元気かな?」と思いながらホームページで奥尻島を検索すると、島のシンボル「鍋釣岩」(高さ18mの中が空洞になっている大岩)が目の前に映し出された。懐かしい。この鍋釣岩は島の東側にあり、当時の私の下宿から歩いて10分程の所にある。大きな空洞の中に朝日が昇る光景は、感動を覚えたものだった。
 勇気を出して電話をかけてみることにした。しかし、航空自衛隊の基地はあるものの、当時の隊員は転勤等でいるはずもなく、地元の知人に電話をかけてみることにした。「覚えているだろうか?知らないと言われたら、すぐに電話を切ろう!」と、思いながら番号を押す。呼び出し音が鳴り少しの緊張が・・・「はい○○です」女性の声だった。「○○ちゃん、いますか」「はい、お待ち下さい」・・・「はい・・・」(20年振りだ!)「俺・・・分かる?」「ん・・・その声、聞き覚えあるな、誰だっけ?」「藤田でーす、覚えてる?」「おう!久しぶり・・・元気か?」「元気だよ!」
20数年の歳月が流れ、奥尻と福井でこんな会話から始まった。とにかく懐かしい。彼は私が下宿していた家の前で書籍や日用雑荷を扱うお店を経営していた。私は、自衛隊のオフの日になると、よく彼の店に行き遊んでいた。そして、お酒もよく飲んだ。
 この電話で、当時お世話になっていた下宿のおばちゃんが今も健在だそうだが別の事情で家には居られない、また昨年、ここの長男が亡くなったことを知った。病死だったそうだ。(よく、ギターを教えてもらったのに!)
「今でも時々、飲み屋に行くと藤田君の噂が出てくるよ」
「えっ、嘘!」
「○○○のマスターが藤田元気かなって気にしてたよ!」(マジ、嬉しかった!)
 当時の懐かしい話で青春の思い出が甦った私だった。
 この後、さらにその飲み屋のマスターに電話をしたのだが、心が弾み今すぐにでも奥尻に行きたくなった私だった。このマスターが経営するお店は奥尻の中心部の繁華街(そんなに広くはないが、福井の片町を想像して下さい。自衛隊の基地がある町は飲み屋が多い)の川沿いにある。お店に入ると、キープしてあるボトルが直に出てくる。そして、この店の特徴はなんと言っても付け出しにある。普通のお店だと小鉢につまみ類が入っているのだが、ここは違う。新鮮な魚が丸ごと一匹出てくるのだ。例えば、秋刀魚の塩焼きとか、北海道を代表する魚?ホッケを焼いて、そのまま私たちの目の前にどーんと出てくる。これがまた美味しくてタマラナイのだ。電話で話しをしたマスターだがこの丸ごとの魚は今でも変わらないと言っていた。「なんもだー、今でもだー!」
 このホッケと言う魚、ほとんどの方は焼き魚にして食べるはず。しかし、奥尻でのある日お刺身にして食べたことがある。知人の漁師が「美味しいよ!」と、言うので私も「じゃ、頂きます!」と初挑戦になった。これが美味しいのだ。
 まぐろ&はまちの中間の味(表現的に解説し難い!)とでも想像してください。とにかく、美味しくて箸の勢いが止まらない私だった。それを見ていた漁師が口を開いた。「よう食べるわ!」「えっ!、何で?」「俺たちは生では食べないよ。この魚は!」「嘘!何で!何で!」と聞いた。「このホッケは何でもエサにして食べる魚。だから、当たるからよう食わんよ!」と言うのだ。「騙された!」「いやいや、これは新鮮だから大丈夫さ。藤田なら大丈夫!」(どういう意味だ!)
 漁師でもほとんど生では食べないこのホッケだが、本当に美味しかったのには間違いない。この漁師には、いつも驚かされる。
 そう、こんな事もあった。朝4時頃にイカ釣りの漁を終え、その足で私の下宿に来るのだ。当然私は熟睡中。そこにピンポン!とチャイムが鳴る。自衛隊の非常呼集(訓練)かと思い、飛び起き制服に着替える私。基地に向かう為、玄関に飛び出すとこの漁師が獲れたてイカを手にぶら下げて立っている。「おはよう!今、釣ってきたから食え!」と、こんな調子。「今、何時だと思ってるの?」と言い返すと「もう、朝だ!」と言い返される。「朝からイカ食えるか!」と言うと「食えるさ、藤田なら」と、ズカズカと台所に行き、イカを調理するのだ。結局、朝日が昇る頃、私はイカの刺身を食べることに。その横で漁師は「サムライ」(奥尻では日本酒にライムを入れて飲むもの)を飲み、ソファで気持ちよさそうに眠っている。
 こんなことが日常茶飯事で、お陰でこの奥尻島にいる間に私は、イカ・海老・蟹が嫌いになってしまった。(食べ過ぎには注意だ!)
 奥尻での酒のつまみ、やはり新鮮な魚介類が一番だろう。生でも焼いても、煮ても美味しい。酒を覚えた奥尻で料理も覚え、そして人の温かさも覚えた私だった。


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【十月の二/話題満載!高須町】10月4日(火)

 10月1日(土)付の福井新聞で、連載第3弾・福井の棚田、米作り体験記「あふれる喜び、収穫の秋、実感」が掲載された。これは、福井新聞社の社員お二人のご家族が高須町で私たち棚田オーナーと同じように米作りを行い、それを体験記として同紙面に紹介しているのだ。
5月21日付 春編 「街育ちが泥まみれ」
7月16日付 夏編 「穂の赤ちゃん、成長に目細め」
に続き、今回で第3弾となった。この紙面を読んでいて思うのだが、さすがプロ、表現力というか言葉が適切というか素晴らしい文になっている。私もこの高須城日記でいつも思うのだが、自分の国語力の無さに愕然となる。「俺は、藤田さんらしくて自由でいいと思うよ!」(高須町・佐々木さん)「さすがです!素晴らしいです!」(いつも誉めてくれる、田中先生)の言葉にのせられて、マイペースで気の向くままに書いている。「これでいいのか!」と悩むのだが「これでいいのだ!」と言う自分がいる。(自己満足で御免なさい!)
 この紙面の中に登場の先生(地元のインストラクター)佐々木きくをさんはお馴染み、佐々木さんのお母上である。いつも佐々木さんのお宅へお邪魔している我が藤田家だが、何度か佐々木さんのお母上と会話をしたことがある。だが、いつも同時通訳が必要になり、佐々木さんにお願いしている。
 実に元気のよいお母上だ、毎日田畑に出かけられている。昨年の豪雨の後も田んぼに入った泥や石、そして倒れた竹や木などを時間があれば一人で退かしていた。(頭が下がります)
 さて、話題は福井新聞から福井放送(FBC)にと移るが・・・まあ、今年の高須町は最高にマスコミに取り上げられた一年だったと言えよう。この4年目に入った高須町の棚田オーナー制度だが、春の田植えでは県内各報道機関が取材で賑わい収穫を迎えた秋には「北陸農政局々長賞」受賞と嬉しいニュースが飛び込んできた。福井新聞では冒頭でも紹介したように季節毎に連載があり、「棚田と言えば、高須町!」(少しおおげさでした)を読者に紹介して頂いた。
 そして、高須町一番の話題はなんと言ってもFBCの夕方いちばん「げんき米プロジェクト〜ライススタイル」だろう。このホームページの中でも度々書かせて頂いてるのだが、昨年と比較して日記を書くことが増えたのは、この川島アナ大島アナの登場が最大の理由と言える。ありきたりの日記になりがちの私の事、この二人が話題を提供してくれたのは、間違いない。夕方いちばんのコーナーの中でも「げんき米」は人気の看板コーナーになっていると聞いた。(誰から?)
 人気のコーナーになる裏側には、川島&大島アナの視聴者に見えぬ努力があるからだろう。放送時間数分に編集されるこのコーナーだが、毎回数時間の泥と汗にまみれた二人の姿が高須町の棚田にあった。普通の作業を行うだけでも大変なのに、それに加えて撮影とインタビューを行う二人。もちろん撮影スタッフの協力や地元・高須町の応援もあるが、実際の米作りは川島&大島アナが全てを行っている。
 これから先、脱穀と精米、そして本番の大和田げんき祭り10/8(土)には高須産のコシヒカリをおにぎりしてお客さんに振舞うと言うのだが、食べた人から「美味しいです!」と言われた時に、この二人のアナウンサーの努力が報われる気がする。
 さて、その「げんき米」だが本日第14話が放送された。スタジオには昨日から大島アナ(こしひかり娘)が一人で奮闘している。川島アナは11月のツアーの事前調査の為か韓国に行っている。
 先週の稲刈りから、その後に行われたはさがけ作業が写された。題して「おいしいお米へ・はさがけ」だ。
 稲刈りを終え、藁で束ねた稲を軽トラに乗せた二人。棚田からはさがけの場所へと移動した。ここで、「はさがけ」の説明があった。(はさに刈取った稲を掛け、天日で乾燥する。この意味は、余分な水分がなくなりカビが生えにくくなり、この作業により、美味しいお米になると言うのだ。)
 そして、もう一つ大切な事があった。よく刈取った稲を見ると、黄金色の稲穂の中に、まだ緑色の稲穂がある。地元の田渕さんの説明によれば、はさがけの1週間や2週間で「この青いのが、はさがけの間に実る」と言うのだ。(なるほど!)
 はさに稲束を掛けていく二人、息の合った手渡し作業が続く。「もう、お米の匂いがする!」と川島アナ。地元のあの唄で有名な高久さん「おいしい匂いやろ!」と返答した。
 ここで大島アナ、ある疑問を持った。このはさがけで「お米はどうなるのか?」と思ったのだ。すかさず地元の先生が答えた「自然と乾かすことにより、お米がより美味しくなる」と言うのだ。「普通(機械)の乾燥によるものとは、この天日乾燥とでは、全然違う!」そうなのだ。
 はさがけ作業もほぼ終わりに近づき、今度は落穂拾いをする大島アナ、お米1粒の大切さをこの米作りで再確認したようですね。落穂をまとめて再び藁で結び、最後の一束を大島アナからハシゴの上にいる川島アナへ・・・。お疲れさまでした!


△男の酒のつまみ・・・46(番外・・・自衛隊編第6弾!)
 前回のこのコーナーで奥尻島に電話をかけ、懐かしさに酔いしれた私だったが、その奥尻も20年の時間と共に変化があったという。昔、よく行きつけにしていた「どんぐり」というスナックがあった。美人の若い独身のママがいた。
 そこの店での話だが、もう何十年前になるだろうか?。カウンターで後輩2人と飲んでいた私。後ろのボックスには地元の青年らしき若者が3人いた。私たちはいつものようにバスケの話で、後ろの若者は何やら深刻な話をしていた。
 よく聞くと野球の話をしているようだ。「お前、どうするんだ!」「俺、本当は巨人に行きたいんだ!」たしか、こんな内容の話しだった。私は、その会話を小耳にはさみ「ふん!漁師が何をバカな話をしているんだ!」と思っていた。しかし、そんな話を延々と続けている、地元の若者3人。よくある喧嘩だけは避けようと無視をした。
 その数ヶ月後だった、新聞を読んでいた私は驚くことになった。スポーツ面で、あの時の若者1人が大きく報道されていた。「佐藤義則、日大。阪急ドラフト1位指名に・・・」と、いう内容だった。この佐藤義則氏はここ奥尻の出身で函館有斗高校から日本大学へ行き阪急のエースとして長年活躍した有名な選手だ。今は現役を引退しているが、あの星野監督の元で阪神のコーチをしていた。
 まさかその時、そんな選手が後ろの席にいようとは思わない私だった。サインしてもらえば・・・(もう遅い!)
 そのお店「どんぐり」でよくママが出してくれたのがキトビロ(アイヌネギの一種)を酢味噌で食べるのだが、これが疲れによく利く疲労回復の食べ物だった。「仕事やバスケットで疲れているから、藤田さんこれ食べなさい」とママが出してくれたのだが、あの味は今も忘れられない。そして、美人のママも・・・。


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【十月の三/米作りの魔術師】10月6日(木)

 昨日夜の放送番組で、所ジョージが司会を務める「笑ってコラえて興奮版、地球上の不思議な所で大あばれスペシャル!!」(日テレ系)での話。世界最高地でコシヒカリ作りに生涯を捧げている日本人が紹介された。
 私はこの時、何人かの友人と電話をしながら見ていたので全内容は把握していないのだが、是非、皆さんにこの人の稲作に取り組む人生を紹介したい。
 この人は近藤とおるさんといって大正15年生まれで出身は米処の新潟県だと言う。農業高校を卒業した後、県の農業試験所に長く勤めていた。
 しかし55歳の時、家族を説き伏せ一人、海外での協力隊に入り、その後ネパールの秘境ムスタンに移住したのだ。青春の時、折りしも太平洋戦争の中、多くの友人を戦争で亡くし、その慰霊を込めてなのか自分が出来る作物を貧困の地で作ることを一生の心と意を決したと言う。
「果樹園の魔術師!」が、この時の近藤さんの呼び名だと言う。秘境ムスタンは標高2,700mの高地にある。寒暖の差が激しく、当然この地では稲作は出来ないものとされていた。ましてや、見渡す限りの荒れ果てた大地、自給自足を願う地元住民もその困難な農業に誰もが諦めていた。1978年、この地に近藤さんが訪れた。「どうにかして、この地で米作りが出来ないものか」と、考えた。
 しかし、荒れた大地は米作りには適しようもない。土地を耕したものの、土の栄養分が無く、まずは堆肥づくりからの作業となる。ヤギを放牧するための草を生やすために3年の月日がかかる。4年目、やっと稲を植えるものの育たない。思考錯誤で6年目の秋、ようやく穂が実った。しかし、その翌日実っていた穂が無くなっている。ラバが食べてしまったのだ。
 1988年、近藤さん77歳の時、8年目で念願の「世界一美味しいお米、コシヒカリ」作りに成功したのだ。この地ならではのアイデアで、米作りをビニールシートで行い、寒暖の差を考え、石を両脇に積み、水抜きをしない、そんなやり方だったという。「米作りに命をかけた」近藤さん。「果樹園の魔術師」から「米作りの魔術師」になった瞬間だった。
 この近藤さんだが、米作りの他にも色々とこのムスタンの地で活動をしている。子供たちのために学校を建て、現在16校にもなったという。また、無医村だったこの地に医師を置くなど現地への貢献は並大抵のことではない。全く頭が下がる。この近藤さんだが、日本に帰国する時には必ず、現地の米作りに従事する人達を集め、自家製の梅干でおにぎりを振舞うという。秘境においての米作りの苦労話しに、感動を覚えた私だった。  そう言えば、おにぎりを振舞うで思いだしたがFBC「げんき米」も、もうすぐおにぎりになる。だが、私達より早く脱穀と精米をしなければならないはず。いつするのだろうと思っていた矢先のことだった、昨日の夕方、つまり夕方いちばんプラス1の本番前に川島アナから電話があった。(何というタイミングだ!)「明日、高須町に行きます!」韓国帰りの川島アナ、少しハングル訛りだった。(そんな事はない!)とにかく、元気な川島アナに当日(10/8)の事など聞き、電話を切ったのだった。  大和田げんき祭り(10/8・9・10)の初日、午前11時から、限定500食のおにぎりが振舞われる。川島アナと大島アナのこの春から頑張って作られた高須産のコシヒカリがいよいよ登場となる。絶対美味しいはず。そして、川島アナと大島アナの笑顔がプラスされれば日本一のおにぎりになるでしょう。このイベントには当然、高須町の皆さんも駆けつけます。そして、この様子を次回のこの日記でお知らせします。お楽しみに!

△男の酒のつまみ・・・47(番外・・・自衛隊編第7弾!)
 函館山からの夜景は有名だが、たまの休暇で奥尻島から離れ函館を訪れた。私は元町から坂道を登ったホテル函館山(函館山の中腹)を常宿にしていた。ホテルの窓から見える夜景が私のお気に入りだった。当時、汽笛と共に青函連絡船が函館港に入港してくる様子がライトアップされていて綺麗だった。
 この休暇は実はある女性(函館市在住)に逢うためだった。この時、私は26歳で彼女は卒業間近の高校3年生だった。(援助交際ではありません、念のため!)
 この2ケ月前、私達の航空自衛隊のバスケットの試合を友達と見に来ていた彼女と偶然?知り合い、「じゃ、機会があれば函館で会いましょう!」と約束していたのだ。
 函館には何度か訪れていたのだが、詳しくは知らない私、待ち合わせは函館駅にした。彼女は函館の女子高の陸上部でインターハイにも出場したらしい。で・・・美人だった。(やっぱり!下心が・・・)
 彼女に函館市内を案内してもらい、楽しい時間を過ごしていた。偶然だったが、彼女の家とホテル函館山は歩いて5分程度。夕方になり、お腹が減った私は「夕食でも?」と彼女を誘った。「母が、この近くでお蕎麦屋さんで働いているから、そこでもいいですか?」と言われ、蕎麦好きの私は当然OKで、元町にあるその蕎麦屋に向った。彼女のお母さんに逢う事に少しの緊張があったのだが、蕎麦を食べられる事の方がそれを上まわった私だった。
 店に入ると、彼女と私を少し強張った表情で見つめる彼女のお母さんがいた。「あんた、何してるの?お父さんカンカンに怒っているんだよ!」とお母さんの一言。私は挨拶をすると、丁寧に挨拶するお母さんだったが、蕎麦を注文する状況ではなかった。「すぐに、あんた帰りなさい!」とお母さんの言葉に二人は店を出たのだった。
 暗く落ち込む彼女。何故、彼女のお父さんが怒っているかは、朝に家を出る彼女が言った言葉が原因だった。
「どこに行くの?」「今日は高校の友達(つまり女子高だから女性となる)とサイカデパート(函館の有名なデパート)に行くの」が、その朝の彼女とお父さんの会話だった。しかし、偶然にも私と彼女が歩いている姿を彼女のお兄さんが見つけたらしく、嘘を付いた彼女を家族中が怒っていると言うのだ。歩いていても無口の彼女。「俺・・・家に行こうか!、俺がお父さんに謝るよ!」と私が言うと、「はい、でも」とうつむく彼女。彼女を宥めながら歩く私も、内心ドキドキだった。
 彼女の家の前に着き勇気を出して玄関の戸を開けた。「帰りました!」と彼女。「ごめんください!」と私。
 正面にはイスに座り、お酒を飲みながら憮然と私を睨むお父さんがいた。その横には、彼女の兄と弟。玄関で一歩も動けず数分が経った。
「ごめんなさい!お父さん」と泣きながら謝る彼女。
「すみません、私が悪いんです」と私。この間、お父さんは無言で何杯か飲んでいた。それから、また数分が過ぎた。ここで、ようやくお父さんが重い口を開いた。
「そこ、あずましいから、こっちにくればいっしょや!」(言葉が理解出来なかった)
「えっ!」
「ここに来い!」
「はい」靴を脱ぎ、お父さんの前に立った。(殴られるのかな?)
「そこ、座れ!」
「はい!」次の瞬間だった。
「これさ飲め!」と、ビールのジョッキグラスの大が私の前に置かれた。お父さんの手で並々に注がれる日本酒。
「飲め!」(完全に命令だ!)(何故お酒を勧めるのか疑問を持ちながらも覚悟を決めた)
「はい」(一息で飲んだ)
「ほー!飲めるんでないかい」と、また並々注がれた。連続3杯だった。まだ、泣いている彼女。無言の兄と弟。
「あんた、航空自衛隊だって!」
「はい」(私達が家につく前に、蕎麦屋のお母さんから電話があったらしい)
「俺は、昔・・・陸上自衛隊に少しいたんだあ。航空って言えばエリートしょや!」
「いや、そんな事はないです」(少しの緊張も解けていない)
 この後、10杯ぐらいは飲んだだろう。しかし、全く酔える状況ではなく意識はしっかりとしていた。ここで再びお父さんが口を開いた。
「さっき、母さんから電話があったさ、で、うちの子だけが帰って来るか、それともあんたと2人で来るか、どっちかなって思っていたっけ、2人できたもんな、おめえの勇気を見て、許してやるべ!」(この言葉を聞き、少し酔いが回ってきた)
「○○、つまみさ造れ!」(彼女泣きながら台所に)
「出はどこだ?」
「福井です」
「歳はいくつだ?」
「26です」
 こんな会話が続いた。当然、一升瓶は2本目に突入していた。(最初に彼女が作ったつまみは「イカ素麺」)
 暫くして、お母さんが蕎麦屋から帰ってきた。何故か笑顔だった。
「あらぁー、なんも出してないんけー」とテーブルの上をみた。
「今、つまみさ用意するから、ゆっくりとしてくといいさー」(どうやら、ご両親に気にいられたようだが、気が抜けない)
 ここで、お父さんから驚くような質問があった。
「おめぇ、○○の事どう思ってるのさ?」(ついに来たか!)
この質問には、どう答えるべきか。私の答えに注目する彼女とその家族の熱い視線が私を突き刺していた。(今日が初めてのデートなのに)
「○○さんの事を大切に思っています!」(一番無難な答えかな)
「おー、そうか」(喜ぶお父さん)
「今日、泊まってけ!」(嘘!)
「いや、ホテルに荷物があるので」
「キャンセルすればいいっしょや!」(この後、ホテルに荷物を取りに行ったのは、彼女の兄と弟だった)
(この間、新鮮な毛蟹やホタテの刺身をご馳走になったが、先ほどからストーブ(北海道では一年中ストーブを出している家が多い)の上のアルミで包まれた丸いものが気になっていた)
「あれは、何ですか?」
「あれかー、男爵だー、食べてみるかい?」
「はい」(ホカホカの男爵芋にバターが塗られた)
「美味しいです!」
「あたりまえだー」ここでたしか、3本目に突入していた。(奥尻で酒を鍛えておいてよかった!)
「藤田さんさ、やたら酒さ強いんでないかい?」(今頃言うな!)
「ところで、銃剣道、何段よ?」
「えっ、一応3段です!」
「俺は2段だったもんなー、それは強いんでないかい」
「いえ、そんな事はないです」
「またまた謙遜しちゃってー」
※(銃剣道とは昔からの武術で、自衛隊は全隊員が必修する。国体種目にもなっている。しかし、航空自衛隊の3段所有者と陸上自衛隊の3段とでは雲泥の差がある。つまり、私たち航空は余り練習することなく昇段試験があるのだが、陸上の場合は、特に普通科連隊の隊員たちは毎日数時間の練習をしている。以前、航空自衛隊の銃剣道大会上位入賞者が陸自の入隊数ヶ月の新隊員に完敗した事もある)
 お父さんの横にはお母さんが、私の横には彼女がいた。(この状況はなんなんだ!)
「俺は藤田さんさ気に入った!これからも娘をよろしくなあ」と、お父さん。
「ほんと、○○の事お願いします!」と、お母さんが頭を下げた。
「いえ、こちらこそお願い致します」と、私が頭を下げると、同じく頭を下げる彼女。(この時、私に付き合ってる彼女がいなくてよかった)
「やっぱあー、標準語だもんなあー、都会の人は」
「いえ」
 最後にざる蕎麦をご馳走になった。(お店で食べられず、彼女がお母さんに頼んだらしい)風呂に入り、ビールをまたご馳走になった。
「さあ、もう寝るか!」のお父さんの言葉に家族が立ち上がった。
「藤田さんは○○の部屋で寝ればいいっしょや」(彼女の部屋で)
「いや、それは」
「なんもだー、遠慮することはないべさー、今さら」(今さらって、今日初めてなのに!)
「いやー、しかし」(どうしよう!と戸惑いと、少しの期待が・・・でも、・・・)
「こっちだよ」と彼女の部屋に案内された。
「今日はごめんね!でも、嬉しかったよ」と彼女の言葉。(もう、どうにでもなれーの私だった)
一つ布団が引かれた部屋。彼女は?・・・・・・・・・・。
「おやすみ」と電気が消された。
彼女は兄弟の部屋に行き寝たのだった。(そうだよな!)
 この時から数年、休暇の度に彼女やご家族にお世話になった私だった。函館の朝市(函館駅近く)は有名で福井では見られない魚介類が多い。勿論、新鮮で美味しいのだが、朝市の中にある数件の食堂には絶品の食べ物が多い。海鮮丼(イクラ・うに・いか・ほたて)は最高の「美味いんでないかい!」そして、タラバガニ焼きガ二も最高なんです。


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【十月の四/「げんき米」イベント前日】10月7日(金)

 昨日、朝から身体がだるいと感じていた。実は、FBC夕方いちばんプラス1「げんき米プロジェクト〜ライススタイル」での川島大島アナにとって高須町最後の作業になる脱穀・精米のため、私も取材に棚田へ行こうと思っていた。だが、平日のため、地元佐々木さんは女性社員の多い会社へ、田中先生は私の可愛い後輩達が待つ明道中学校で授業を。ということは最後に自営業の私しか残らないことになる。「私が行きますよ!」と、前日に力強く田中先生と佐々木さんに言っていた私だった。
 朝8時過ぎ、車に乗り出かけようとした時だった。運転席に座ったとたん、目まいがした。「えっ!・・・何・・・」もしかしてと思い、部屋に帰り体温計で熱を計ると38.5度だった。しかし、取材が・・・どうしても、高須町に行こうと思っているのだが、どうにも身体が動かない。川島アナには「じゃ明日、高須町で!」と約束し、電話を切った手前、言い訳が出来ない。(大島アナとの約束だったら命がけで行ったかも!いや、そんな事はない!)
 でも、もし途中で事故でも・・・と考えたら断念するしかなかった。(川島&大島アナ、ゴメンなさい!佐々木さん&田中先生・・・は、いいか!)
「鬼のかく乱」、と言うのか熱が下がらず午後5時前、うつろな私は布団の中でテレビのスイッチを入れた。夕方いちばんプラス1が始まった。「本番30分前に帰って来ました」と、川島アナ。「先程まで、高須町で脱穀と精米をしてきたんですよ!」と、大島アナ。疲れた表情も見せず進行する二人だった。(若いというのは素晴らしい!)
 高須町 The Yamazatoスタッフとして、「げんき米」が放送される時は必ず新聞のテレビ欄で確認して、ビデオをセットしておくのだが、それは突然だった。番組の後半に川島アナが「今日の作業の様子をご覧に入れます」と高須町での二人の様子が映しだされたのだった。普段ならいち早く録画スイッチを押すのだが、熱のためか身体が動かず、どうすることも出来ない私だった。「放送するなら言ってよ!」と、ひとり言を言いながら、放送を見ていた。(佐々木さんも田中先生も録画はしてなかったそうだ。やっぱりね!)
 そして今日の朝、佐々木さんと田中先生から相次いで電話があった。
「昨日は・・・?」
「ごめん・・・風邪でいけなかった!」
「身体、大丈夫ですか?」
「どうにか・・・熱が下がったよ」
「よかったです!」二人との会話はこんな内容だった。(本当に心配してるの?)
 午後4時、FBC本社前駐車場。私は会社にいるはずの川島アナに電話をした。少しのノイズの後に
「はい、川島です!」相変わらず、元気な声だ。
「藤田です。今、どこにいます?」と聞くと
「今、高須町に向かってます!」
「なんで?」
「棚田の看板(FBCげんき米の田んぼ)をはずしに行くんです!」
「大島アナは?」
「一緒です!」
「あっ、そう」
「じゃ、※例の物を受付に置いておくからね」
「すみません!」
「じゃ、明日ね」と、電話を切った。
※例の物とは、次回のこの日記でお見せします。皆さんも見たことがあるものですよ!
 ここFBCの駐車場は明日からの大和田げんき祭りの準備でテントが並び、多くのトラックが搬入している。社員だろうかスタッフだろうか、忙しそうに飛び回っている。明日には、大勢の人達が川島&大島アナが精魂込めて育てた、高須産コシヒカリのおにぎりを食べに来場するだろう。お客さんの「美味しいね!」を期待しましょうね!
 明日は、必ずこのイベントを激写します。お楽しみに!


△男の酒のつまみ・・・48(番外・・・自衛隊編第8弾!)
 奥尻島に来て何年目かの夏の日の事だった。航空自衛隊の基地の体育館で私たちはバスケットの練習をしていた。1ヶ月後に行われる、北海道大会地区予選に向けかなり熱の入った練習だった。
 スタート組とサブ組に分かれて試合をしていたとき、体育館のドアが開いた。そして、そのドアから大きな身体の子達がぞろぞろと入ってきたのだ。
 今でもはっきりと覚えているのは、その時丁度入り口の逆サイドのコートからファーストブレイク(速攻)で私がレイアップシュートをし、勢い余ってその大きな集団の先頭の人の足を踏んでしまったのだ。「あっ、ごめんね!」「いえ」これが彼らとの最初の会話だった。とにかく、身体のデカイ男の子達が約25名。「何じゃ、この子たちは?」と、興味があったものの練習中であったためそこまでだった。
 昼食時、隊員食堂で食事中にそれは分かった。
 食堂に現れたその集団、他の隊員達の後順番にトレイを持ち昼食のおかずなどを取っている。改めて彼らを見ると、やはり大きな子たちだ。この時、私の横に来た後輩が教えてくれた。
「先輩!彼らは日本体育大学のバスケット部らしいですよ。しかも1軍だそうです」
 よく見ると何人かはバスケットの専門誌で見たことのある有名な選手がいる。つまり彼らはバスケ界のエリート集団で将来の全日本候補という事になる。後から聞いたのだが、この日体大バスケ部は当時部員が350名いて、1軍から7軍まであり、しかも2軍からは2軍のA,2軍のBとなっているそうだ。だから、今ここにいる選手はとんでもない能力を持った選手ばかりなのだ。
 その選手がどうしてここにいるのかと言えば、この基地で約半月間の合宿を行うためだ。当時、奥尻高校か奥尻中学に小池先生(北海道BB協会)という有名な先生がおられて、その小池先生がこの奥尻での合宿を進めたらしいのだ。
 当然、その日から私は選手たちと友達になった。清水監督の指導の元、ハードな練習が行われていた。主将の小堺君はこの時、外国でのユニバーシアードに参加でいないものの、とにかくその身体能力を見てると、同じ人間とは思えない子たちだった。この合宿中、よく話しをする友人が3人できた。1人はマネージャーの渡辺君、そして野口幸治君、最後の1人は内海知秀君だ。バスケが好きで詳しい人なら「えっ!」と驚く名前だろう。 その他にも、その後全日本で活躍した陸川大塚瀬戸斉藤といた。
 野口君は神奈川県の相模工大附属高校出身で高校界の天才サウスポーシューターと言われた子で、インターハイ等で1試合平均30点以上の得点を取るアウトサイドのシューターだった。よく、その専門誌で表紙を飾った有名な選手だ。日体大卒業後は名門・松下電器に入った。
 内海君は高校バスケット界の名門、あの秋田能代工業高校の出身で、しかも主将としてインターハイ・国体・選抜の3冠を獲得した選手。つまり、超エリートなのだ。大学卒業後は、こちらも名門、日本鉱業に入りそして全日本の中心選手として長く活躍した。そして、引退後は札幌大学のコーチを経験し、後は皆さん知っている通りでジャパンエナジーの監督(現)と昨年まで全日本女子の監督をしていた。
 例え話しで言うなら、野球好きの少年の目の前に長嶋がいるようなものだった。(この例えは少し古いかな?)
 仕事時間の許す限り、彼らと行動する私だったが、その練習を見ているととても同じバスケットをしているとは思えなかった。レベルが違うのは当たり前で、そう次元が違うが適切な言葉だろう。
 夜になると、同じ基地内の別棟の宿舎に彼らを訪ね、親交を深めて行った。そんなある日、
「明日、西尾コーチが来ます!」と、渡辺マネージャー。
「えっ!西尾さんって、あの西尾さん?」と、聞き返した。
 西尾さんとは、彼らの先輩で日体大から日本鋼管でプレーし、この年から母校の新コーチになるというのだ。
   翌日、その西尾さんが来られたのだが、「うちの子達が大変お世話になっているそうで、有り難うございます」と、西尾さんが在籍していた日本鋼管のユニホームの下のトランクス(NKKのマーク入り)を頂いたときには、完全に舞い上がっていた私だった。(このトランクスは今でも私の宝!)
 そんな奥尻での彼らの合宿が残り僅かとなったある日だった。彼らの練習を町の皆さんに見てもらおうと、奥尻小学校で公開練習が行われた。当然、私も同行していたのだが、その町の人達から「自衛隊さんと試合をしたらいいのに!」「藤田さん、試合をして!」と、こんな事を要求された。この話しを聞いて、清水監督までもが「藤田さん、やろうか!」と余裕の笑顔。しかし、これは・・・
 とんでもない話だった。確かに、私たちもバスケットをしているものの彼らとの差は歴然としている。巨人と少年野球チームが真剣に試合をするようなものだった。(そこまではないか!)
 しかし、言い訳が得意の私。実はこの2日前、彼らの練習に参加していた私はパスカットに行った際に右手薬指を骨折していたのだ。(身長差があり、頭の上でパスされていたので強引にカットに!)
「そうだね!、でも主将の私がこの状態だから試合になんないよ。本当は試合をしたいんだけどね!」と、地元奥尻の女の子たちに言い訳。それを笑いながら聞いている清水監督だった。(結局、試合せず!・・・助かった!)
 まともに試合をしていたら、20010のスコア・・・10点・・・取れたかな?
 奥尻での合宿も終わりに近づき、彼らとの別れが後わずかとなったある日、野口君と内海君、それに渡辺マネを私の下宿に招待した。そこで、ちゃんこ鍋をご馳走したのだ。ちゃんこ鍋には奥尻の新鮮な魚貝類が入り、もちろんお肉も、「美味しいです!」と内海君。この時、内海君は自分のプレーに悩んでいたらしくお酒も影響して泣き始めたのだった。それを「内海!シュートというのはなあ・・・・」と、偉そうに教え込む私。(お前は何者なんだ!)楽しい一時だった。レベルが違うとはいえ、同じバスケを愛するもの同士だった。この後、当時日体大バスケ部々員が愛唱歌として歌っていた故・河島英吾(彼もバスケの選手だった)「酒と涙と男と女」を皆で歌った。
 その後、埼玉県内にある基地に短期出張した際には必ず日体大を訪れた私。福井に帰ってからも、日本リーグが福井で行われた時は、野口君(当時松下電器)と福井駅で待ち合わせし北の庄のスナックで飲んだり、電話をしたりしていた。内海君も日本鉱業の試合が福井であった際、会う約束をしていたのだが、その前に試合か練習であごを骨折し、慈恵医大に入院して会えなかった。しかし、私が明道中学校のPTA会長をしている時に女子バスケ部が内海君が監督を務める、ジャパンエナジーのクリニックに参加、お世話になったのだった。
 また、機会があればあの時の「ちゃんこ鍋」したいと思う私だった。


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【十月の五/「げんき米」は大盛況!】10月8日(土)

 朝9時55分、私は田中先生の車の後部座席にいる。どこに行くかと言えば、本日はあのFBC「げんき米」がおにぎりとなって500食分、振舞われるので田中先生とこのホームページ用に取材に行くのだ。川島秀成アナ大島さやかアナ(本日はフルネームで!)がこの数ヶ月、泥と汗と涙(涙はないか?)で育てた「げんき米」がようやく、おにぎりとなってのお披露目になる日。その可愛い我が子を送り出す川島アナと大島アナを取材しようというのだ。
 今春、二人が初めて訪れた福井市高須町。それは田んぼ探しから始まった。植木さんとの交渉で田んぼが決定し、育苗から田起こし、あぜ作りと進みそして田植えに。
 

泥だらけになり足が抜けない大島アナ、転倒する取材カメラマン。佐々木さんの次男(高須城小6年)と何故か田植えの競争をする川島アナ。
 

梅雨が過ぎ、草取りなのに稲も取ってしまった大島アナ。その様子を「信じられない!」顔で見つめる川島アナ。
 

案山子コンクールでは4位の賞品の大根を嬉しそうに手に持つ二人の笑顔。台風通過後、稲の情況が心配になり棚田に駆けつけた二人。

そして、あの広い田んぼの沢山の黄金色の稲穂を愛情込めて収穫し、息の合った手渡しではさ掛けをした二人。この「げんき米」には、二人の米作りのドラマが数々あった。
 

川島アナと大島アナにとって、この「げんき米」は本当に手塩にかけて育てた可愛い我が子であり、サポートした植木さんたち高須町の皆さんにとって「げんき米」目の中に入れても痛くない可愛い孫の心境だろう。その高須町の皆さんも今日このFBCに駆けつけると聞いている。
 そうそう、田中先生の車の後部座席にいる私なのだが、何故後部座席に座っているかは、助手席には可愛い田中先生のお嬢さまが座っているからだ。私とは初対面ではあるが、この中年のおじさんの質問に「はい、はい」と丁寧に答える様子はさすが、田中先生のお子さんだ。楽しい3人での会話がFBCまでの時間を短くした。
 FBC福井放送本社ビルに着くと、もう多くの人が来場していた。小雨まじりの今日の天気だが、「関係ないよ!」とばかり、親子連れや恋人同士、そしてこのイベントに家族全員で来たかの幾つもの温かい輪があった。
 おにぎりが配られるのは本社ロビーと聞いていた。私たち3人はまずそのロビーに向かった。見学をする大勢の人達を見ながらロビーに着いたのは10時15分だった。ここにもたくさんの人がいる。
「どこで、おにぎり配るんだろう?」と辺りを捜すと、テーブルが一つ置いてあった。そして、その上にあの棚田にあった川島アナ大島アナ力作の長嶋読売巨人軍終身名誉監督の案山子がある。
 

そして、昨日私が届けた皆さんご存知の「おにぎりを食べようとしている」二人の写真パネルが置いてあった。
 おにぎりを配るのは11時からだが、すでにもう何人かの人がそのテーブルの前に並んでいる。その様子を見て「おにぎり、何時からですか?」と、私に聞く女性もいた。そして瞬く間にその列は長くなっていった。

その時だった「み・な・さ・ん、本日はお足元の悪い中・・・」と、大島アナの声がした。声はすれども姿は見えず・・・それほど多くの人だかりだった。
「500食で足りるのだろうか?」と、心配になる私と田中先生。その横には人混みに戸惑いながら、日テレのマスコット(着ぐるみ)「可愛い!」とデジカメを向けている田中先生のお嬢さんがいる。

 ここでようやく大島アナと目が会い、挨拶をしたのだが、そこは美人人気アナ、次から次へと携帯のカメラでの写真をせがまれる大島アナだった。川島アナも登場し、ここロビーは一気にヒートアイランド?いやヒートアップとなった。写真握手写真握手が続いている。「大変だな!アナウンサーは・・・」と感じた。
 二人のこの日のいでたちは、そう高須町の棚田と同じ姿だ。つまりオーバーオールだ。
 おにぎりを配るテーブルの後ろにはあの棚田にあった「げんき米の田んぼ」の看板も登場した。私はFBCのスタッフに「この看板の上に、このパネル(二人の写真)を乗せましょう!」とアドバイス。「そうですね、その方がいいですよね!」とスタッフ。
 11時、おにぎりが配られ始めた。「ありがとうございます!」「お待たせいたしました!」と、丁寧に1人1人に言葉をかけながら、おにぎりを手渡しする笑顔の川島アナ大島アナ。この間も写真や握手を求められていた。
 

 この時、二人の後ろに見覚えのある顔が並んだ。植木さんたち高須町の皆さんだ。人混みに驚く顔もあった。おにぎりがこんなにも盛況なことに目を細める植木さん。
 あっという間だった。500食のおにぎり・・・・・・・。
「先生、何分でした?」「藤田さん、今、11時13分ですよ!」「13分で・・・!」それは、驚きの光景だった。この人気はやはり凄い!
 この様子を最初から最後まで見ていた、私と田中先生のお嬢さん。そして、「これでどうだ!・・・ダメか!」「今がチャンスだ!あっ・・・人が横切った・・・惜しい!」と、ここでもデジカメで飛び回る田中先生。
 ようやく落ち着いた時、大島アナはマイク片手に取材に行く。おそらく「おにぎりのお味はいかがでしたか?」のインタビューだろう。
 11時30分過ぎ、戻ってきた大島アナを加え、川島アナと高須町の皆さんとで記念写真。どの顔もやり遂げた充実した笑顔のいい表情だ。次に、植木さん智恵子さんに両アナからインタビューを。
  

そして、最後に本当に頑張った二人だけでのツー・ショット。でも、何か・・・変!いや・・・何か足りない。
 ここで、やはり「おにぎりだ!」と二人におにぎりを渡した私。春と秋、おにぎりを持つ川島秀成アナ大島さやかアナの写真は、いかがでした。いい表情でしょう。
 

 本当にお疲れさまでした。頑張ったね!
 川島アナが韓国から帰国して、少し落ち着いた時(来月)にこの高須町での米作りの想い出を、また取材させてもらいます。
 お酒を飲みながらね・・・。


△男の酒のつまみ・・・49(番外・・・自衛隊編第9弾!)
 以前のこの日記でも書いたのだが、北海道は美味しい食材の宝庫だ。この奥尻島でもそれは同じだが、休みの時仲間たちと食べるのは一年を通じて、おそらくジンギスカンが一番多いだろう。ラム&マトンは羊の肉。
 この奥尻の下宿の近所の石川精肉店にも必ずこの肉は大量にあった。何故なら、若い自衛隊員が食べるその肉の量は半端なもんじゃなかった。一人1Kとまではいかないものの、それに近い量は食べていた。だからこの石川精肉店で「マトン5キロとラム5キロね!」と、注文することはまれではなかった。もちろん、野菜なども多種で大量に食べる。そしてビール&日本酒も半端な本数じゃない。陸上自衛隊と違い、余り身体を使わないはずの私達(航空)のはずだがそこは食べ盛りの隊員だった。
 海が見える防波堤でのジンギスカン「たまには島から出たいね!」と海の向こうを見つめる私達。しばらくすると匂いを嗅ぎつけ、地元の友人や漁を終えた漁師たち、そして下校したての奥尻高校の女子高生が加わり大宴会状態になる。漁師が持ち込んだ新鮮なイカや鮑はもちろん美味しいのは当然だが、人数が増えればお肉は足りなくなる。また、お肉を買いに行く。お金が足りなくなると「オマケだよ、藤田さん!」と美人の娘さん。
 こんな事が日常茶飯事の楽しい&美味しい奥尻島だった。


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【十月の六/秋の高須町も最高!】10月9日(日)

 昨日のFBC本社「大和田げんき祭り」での、高須町産「げんき米」のおにぎり500食も大盛況で、その日、会場に招かれていた植木さんや高須町の皆さんも感激されていた。混雑の中で取材を敢行した私も田中先生もそのスタート(1食目)からゴール(500食目)までを見ていて、その約40分間は、なにか熱くなるものを感じていた。私たちでもそうなのだから、頑張って米作りを体験した川島アナ大島アナは、おにぎりを配り終えた瞬間、我々以上に感動していたはず。その一部始終を仕事の為来られなかった佐々木さん(高須町The Yamazatoスタッフ)に電話で伝えると、「ほーけー!そんなに凄かったんけー!」と、このFBC本社でその様子を見れなかった事を残念がっていた。
 次に、私はその配られた高須町産コシヒカリ「げんき米」のおにぎりのお味はどうだったのかが気になって、私も大島アナ(こしひかり娘)に負けじとインタビューに行く事にした。FBC本社前駐車場のイベント会場の中にある、屋台村テント内で食べていた何人かの人に聞いてみた。「ほんと美味しいです!」(40代女性)「コシヒカリ100%ですよね。これって!やっぱりブレンド米とは全然違う!」(30代女性)「マジ、うまいっす!大島さんと握手したっす!」(男子高校生)「美味しいですよ。お米がいいんですね」(70代女性)「うん、おいしいよ。ラーメンもおいしいよ!」(5歳・男子幼稚園児)と、皆さん口を揃えて美味しいと好評だった。(勿論、高須町をPR!)そして最後にこの500人の列に頼んで並んでもらった、田中先生のお嬢さんと田中先生にも聞いた。お嬢さんは「とても美味しいです!川島さんと大島さんが頑張って作ったお米だから、美味しいのは当たりまえですね!」田中先生は帰宅してから食べたようで「冷めてはいたんですが、それでも美味しかったです。高須町の水と土、そして地元の皆さんの心がこもったものですから。そして、川島さんと大島さんの愛情がこのおにぎりに、たっぷり入っていますね!」と、田中先生さわやか親子の感想だった。(女の子がいるといいね、先生!うちは男の子2人だから!)
 本社ロビーを後にした私達3人だが、この後テント村の中にある「麺めん祭り」に向かった。5箇所のご当地らーめん(北海道・上川ピリ辛味噌/富山・黒醤油/博多・とんこつ/米沢・そんぴん/飛騨高山・昔ながらの中華そば)があったのだが、お目当てのラーメンは3人ともが「飛騨高山らーめん」と意見が一致。私は数年前に高山に会合で行って際にこの味が好きになった。田中先生のお嬢さんは、美容と健康を考えるお年頃、「油っこくないあっさり味が好き!」との理由だった。で、田中先生は「ん・・・2人と同じでいいです!」だった。(なんじゃー、そりゃー!)
 ちなみにこの後、田中先生親子の微笑ましいエピソードがあったので、ご紹介したい。  ラーメンを食べ終え、帰ろうとした私達3人だったが、テント村の最後の所でスローペースになった先生のお嬢さん、何か直視している。その視線の先は・・・日テレのマスコットのぬいぐるみ「ズーミン!」?だった。そう言えば、本社ロビーでデジカメでこの着ぐるみを写していたお嬢さん。好きなのかな?でも、先生と私に気使い通り過ぎようとした。その様子に気が付いた先生、お父さんの顔になった。「あれ、欲しいの?」「ん・ん・・いいの!」「ちょっと待ってなさい!」と先生そのテントに逆戻りした。少し嬉しそうなお嬢さんの顔。
 しかし、それを待っている間、「これ、しようかな!」と、目の前のダーツのテントに行く。後ろで見ていた私。2本のダーツを放ち、グルグル回る的に当てるのだ。その的には1等・2等・3等・・・と書いてある。つまり、その何等かの景品が貰えるのだが・・・緊張の1投目、「2等でーす!、おめでとうございます!」と係員。続いて最後の1投を放った。確かに先ほどよりは的の回転速度は少し遅くなってはいたのだが、・・・「凄―い!おめでとう、1等でーす!」と、大声を出す係員。見ていた私も驚いた。(やるな!この子は!誰に似たんだ!)そして、景品を選ぶお嬢さんだが、何と・・・ここでも、ぬいぐるみをGET!
 嬉しそうなお嬢さんだが、このダーツの様子を田中先生は見ていない。「お父さんは、まだですか?」「まだ、あっちのテントに買いに行ったままだよ!」「じゃ、見てきます!」と、駆けて行った。1分後、二人寄り添う親子がこちらに来た。「この、ぬいぐるみどうしたの?」「ここで、GETしたの!」「おー、お前やるなー!」と、楽しそうな親子だった。田中先生の手にはマスコットが、そしてお嬢さんの手にもぬいぐるみが・・・3連休とは言え、何かとあわただしい日々、少しの時間であったが楽しめたかな!
 そうそう、その日テレのマスコットだが田中先生は何故か2個購入していた。「これ、藤田さんの息子さんに・・・」と、私の次男にプレゼントして頂いたのだ。(すいません先生!)
 家に帰り、何かを忘れていた事に気がついた。「そうだ、私だけおにぎりを食べていない!」(川島アナに「藤田さんも食べて下さい」と、言われたのだが列に並んでいたお客さんに遠慮していたのだ!失敗した)
 そして本日、高須町での脱穀の日・・・だったのだが、前日の雨で、中止となった。(前日、FBCにて植木さんから「明日は中止だよ!」と、聞いていた)そこで急遽、高須町での高須町The Yamazatoスタッフ会議を開くことになった。午前中、地元の運動会参加の田中先生も連日の同行となった。
 午後3時前、高須町の佐々木さんのお宅に着いた。家の中にはテレビゲームをしている佐々木さんの次男(小6)がいた。
 我が藤田家の次男はこの3連休、ボーイスカウトのキャンプに参加しているため、ここ高須町に来られず少し寂しそうな佐々木さんの次男。お姉ちゃん(高1)も長男(中1)もそれぞれ部活や試合のため不在だった。
 佐々木さんと田中先生と私、久しぶりのゆっくりとした時間を設けることが出来た。それぞれが、ここ数ヶ月忙しく話は電話ばかりだった。3人は佐々木さん宅の応接間で足を伸ばしてのお茶となった。(年寄りの集まりか!)
 しかし、しばらくするとせっかくの晴天なので佐々木さんの案内で、今まで高須町でも知らなかった場所に行くことにした。佐々木さんの軽トラに揺られ、踏み入れた事もない登り坂を走る。「へー、こんな所があったんだ」と、その美しい景色に感動する私と田中先生。「ここからの景色もいいもんでしょう!」と微笑む佐々木さん。

 今まで、高須山山頂からや棚田から見ていた景色だったが、同じ高須町でも少し足を延ばすと全く違う眺めを味わうことができる。「綺麗ですね!」田中先生はすかさずレンズを覗きこむ。車でも1速でやっと登れる坂道だが、そこにはキチンと整備された田畑がある。高須町に通い始めて約4年、まだまだ、この高須町でも知らない所は多くあるものだと思った瞬間だった。
 再び軽トラに揺られ佐々木さんのお宅に戻ると、佐々木さんの会社の先輩、高島さん【九月の十二】に登場!)が待っておられた。
 高島さんはこの日、「大和田げんき祭り」に行っていたそうで、FBCのスタジオブースの川島&大島アナのあの写真を見て、「あれは、いい写真だね!」と微笑んでいた。そして、高須町の魅力に引き込まれた高島さんも我がThe Yamazayoスタッフの一員となったのだった。(だんだん増やしていこう、高須町の輪・・・輪!)
 4時研修会館、この4人に御大・植木さんを加え会議が始まった。まず、この12日に金沢で表彰式がある植木さん、当然この授与の瞬間を写真に収めたい私達スタッフだったが、全員が時間がなく金沢まで行けない。「FBCが取材に来てくれるらしいよ!」と植木さんから聞き、直にその日、休日の川島アナに私は電話をした。事情を話すと「はい、分かりました。静止画でいいんですね!」と、快く了解してもらった。(有り難うございます)「今、高須町で植木さんたちと会議してるんです」と、言うと「皆さんに宜しくお伝え下さい!、有り難うございました」と、丁寧な川島アナだった。
 さて、会議は続いているのだがその内容は・・・「秘密」
 でも、少しだけ・・・高須町の旬の特産物をこれからこのホームページ上でお知らせし、皆さんに超特別価格にて喜んで頂こうという企画・・・。(近日発表させて頂きます。お楽しみに!)
 会議も3時間近くになり、少し小腹が空いて来た私達、そこに植木さんがタイミングよく高須町産の無花果(いちじく)を出して頂いた。高島さんと田中先生は初めて口にするのだが「美味しい!美味しい!」の連発となった。何故か疲れが出てきた私、無花果をみて石榴(ざくろ)を連想していた。(今日は早く寝よう!)
 最後に植木さんから、こんな言葉を頂いた。「今年、この高須町は過去にない賑わいがあった。最高の年だった」と、ご満悦の様子。まずは、過去にない多くの参加者で賑わった棚田オーナー制度。地元、高須町の皆さんの管理のもと願いが通じての大豊作の年となった。次に、FBC「げんき米プロジェクト〜ライススタイル」で大きく放送に取り上げて頂いた。そして2番目は、福井新聞紙面で高須町の棚田を県内にアピールして頂いた。最後に、このホームページを立ち上げた私達。植木さん佐々木さんの高須町在住のお二人に、部外者の私と田中先生が加わり、高須町の公式ホームページとして、県内外から少しずつではあるが反響を頂いた。
 この全てが上手く絡み合い、高須町の今後の活性化に繋がる足掛かりとなった。
 植木さんのお話の中で心に打たれる言葉があった。
「今年の高須町で何が変わったか?と聞かれたら、それは、町のお年寄りがオーナーさんと一緒に棚田に入り、またテレビ局や新聞社が随時報道してくれることによって、みんなが元気になった。それが一番嬉しい事や!お年寄りが元気になると、相乗効果で若いもんも元気になる、だからいいんや!」
 これから、オーナーの皆さんの棚田で取れたお米の脱穀そして引渡しがある。まだまだ、高須町の皆さんにお世話にならなければならないが、宜しくお願い致します。


△男の酒のつまみ・・・50(番外・・・自衛隊編第10弾!)
 奥尻島の私がお世話になっていた下宿だが。6畳1間で簡単な台所があった。休みの日はほとんどが町の食堂で外食だった。後輩が遊びにきたり、町の友人が訪ねて来ると鍋やジンギスカンで盛り上がったものだった。
 そんな下宿での日々だったが、唯一不満を洩らすなら朝8時前が私はいやだった。休みの日の前日は必ず、深夜まで町の飲み屋に浸かっていた私、当然朝は熟睡しているのだが、何故か私の下宿の前がうるさいのだ。
 原因は下宿の前にあるスクールバスの停留場だ。この時間になるとバスを待つ高校生たちが集合してきて、暫し賑やかな場所になる。特に女子高生の悲鳴に似たかん高い声が私の耳に突き刺さって来るのだ。「頼むから寝かせてくれ!静かにしてよ!」と、言いたいのだが、そこは地元の皆さんにお世話になっている自衛隊で、言えるはずもない。
 そんなある日、徹夜で勉強(昇任試験のため)していた私だが、余りにうるさい話し声に少し頭にきていた。そこで、部屋のステレオ(オーディオ)で目いっぱいボリュームを上げ、レコードをかけた。曲はたしか、松山千春や石川優子、それに内藤やすこだった。曲の開始とともに静かになる高校生たち。効果的面だった・・・
 と言えたのは、2日間だけだった。なんとこの高校生たち、1曲が終わるとリクエストをしてきたのだ。お互い顔の見えない者同士だが、「次は千春の季節の中でをお願いします!」と、こんな調子。「お前らは、ハガキを書かないリスナーか!」と文句を言いながら、そのリクエストに答える私だった。(男子高校生のリクエストは無視!)
 そんな私と高校生のやり取りだったが、勿論、自衛隊の勤務の日は下宿には不在の私。ある日、勤務を終え基地から下宿に戻った時だった。部屋の鍵を開けると、ドアの隙間から入れたのか大量の手紙があったのだ。その手紙を読むと、「いつも朝にこのバス停で曲を聞くのが楽しみです」とか「今度、○○の○○の曲をかけて下さい」の内容だった。で・・・それに答えた私。
 そんなやり取りが始まり約半年が過ぎようとしていたある日の事、とうとうその高校生集団に私の顔を見せなければならない日がきた。冬、北海道では水道の凍結防止を必ずしているのだが、何故か下宿の水道は凍ってしまった。トイレに行けない私、大家さんの玄関には一度外に出なければならない。バスが来るまでは我慢しようとしたのだが、もう我慢の限界に達っしていた。部屋のドアを開け、一目散に大家さんの所までダッシュした。部屋のドアの前には40人ほどの高校生たちがいた。いきなりドアが開いたので驚きを隠せない高校生たち。「ごめん!どいて!」の私の言葉に「はい!」「えっ!」の声が聞えた。
 それから・・・健全なお友達となった私と高校生たち。バスケの話や、北海道以外の都府県の事などを聞かせたりと、交流を深めたのだった。
 休みの日の夜、下宿のドアを叩く音。何人かの高校生が立っていた。手には新聞紙で包んだ何かがあった。中には、それぞれの家庭の晩御飯のおかずのお裾分けがあった。つぶ貝の甘辛煮えいのひれウニの塩辛とおかずと言うよりもつまみそのものだった。でも、これが「なまら、美味いんでないかい!」・・・・・でした。


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【十月の七/「来年も米作りしてね!」】10月10日(月)

 渋滞が続くこの道は、・・・「大和田げんき祭り」に向かう車の列で動かない。一昨日よりも天気がよいためか人の出が確実に多い。私と妻が向かうのは・・・何故かFBCだが、その駐車場には満杯で入れない。周りの臨時駐車場も同じく満杯の様子。遠くの駐車場に車を入れ歩く人が大勢いる。「歩きたくない!」そんな思いで、再びFBCの入り口にトライした。窓を開け、交通整理の女性に「制作部に用事があるので!」と言った私。「じゃ、どうぞ!」とようやく中に入れてもらった。(ごめんなさい!でも、嘘じゃないから!)
 ここFBC本社内も見学の人が多く、歩くのに時間がかかる。プラス1キャスターの遠藤真奈見アナも見学者に笑顔で応対している。(生の方が綺麗だ!私と同じさそり座だからか!関係ないね!)遠藤アナについつい見とれていると横を歩く妻が「ほーぉ!」と何か不機嫌な様子。ごまかすようにブース内のげんき米の川島アナ大島アナのツーショットの写真を見て「あった!あった!」と叫んだ。
 スタジオ前や、あの「げんき米」でのおにぎりで混雑したロビーにも川島アナ大島アナの姿はない。「忙しいのかな!」と思いながらふと横を見ると、女子アナがいた。「えっーと、誰だったかな、この子は?」と考えた。「そうだ、中嶋智子アナだ!」と思い出す。そこで、「これ、川島アナに渡してください!」と紙袋を渡した。すると中嶋アナ可愛い声「おそれいります、どちら様でしょうか?」と、聞いた。(テロリストと間違えられたかな?)別に緊張したのではないが「高須町の藤田といいます!」と答えてしまった。(いつから高須町の住民になったのだ!)横で笑う妻。とりあえず、目的が終わりまた屋外駐車場内のテント村に妻と行った。
 ラーメンは食べなかったものの、家で待つ長男(高3)にとワシントンホテルのステーキ丼と、妻は広島風お好み焼き。私は焼き鳥を買った。それにしても、凄い人出だった。後でニュースの中で言っていたのだが、この「大和田げんき祭り」は3日間で8万人(過去最高)を超えていたらしい。
 ところで、川島アナに渡した紙袋の中身は・・・内緒です!
 午後3時過ぎ、自宅で訪ねてきた友人と話をしていると、携帯電話が鳴った。元気な声で「川島です。先ほどは有り難うございます。今まで、今日放送分の編集をしていたもので、お電話が遅れました」と、丁寧な挨拶だった。
 電話の後、新聞を広げると「夕方いちばんプラス1・げんき米のおにぎり」と、書いてある。「今日あるのか」と直にビデオをセットした。「と言う事は、今日でげんき米は最後になるのかな?」と、ひとり言。(寂しい気持ち!)目の前にいる友人に高須町での経緯を話すと「ふーん、藤田が米作りねー、似合わないなー」と、言いだした。
 夕方5時前、おそらく最後の放送になるだろう「げんき米プロジェクト・ライススタイル(第15話)」を見るため、テレビの前にいる。(何故だか、今日は正座している!)
 今日の放送は、10月6日の高須町での脱穀から8日のFBC本社でのおにぎりを振舞うまでが放送された。
 まず、高須町ではさから稲束を下ろす作業だ。好天に恵まれた高須町での作業、黄金色の稲穂がより輝いて眩しく見える。稲を乾燥させるためのはさ掛けから10日が経ち、いよいよお米になるまでの大詰の段階、コンバインを使い脱穀をする。これも昔は木製の道具を使っていたが、今はこのコンバインで実と藁に簡単に分けることができる。しかし、まだもみがついているため、次の作業はもみすり機を使い「玄米」にする。機械のなかった時代、これもまた大変な手作業をしていたことだろう。川島アナ大島アナも機械化の現代に感謝している様子だ。(手作業で体験してほしかった!)
 高須町のコシヒカリの出来ばえはどうだろう?と心配な二人。どの棚田オーナーより早く、その米の品質を知ることになった。JA福井市西部営農センター営農指導員の高橋貞喜さんが専用の機械で「げんき米」のチェックをする。この機械にお米を入れると、その品質が数字によって表されるのだ。そして、二人が覗き込むと・・・整粒米が全体の70%以上で一等米となるのだが・・・はたして・・・
「米の粒は大きいです!」と、高橋さん。機械の表示も70,9%の数値を表し「やったー!」とガッツポーズの川島アナ。「味も見た目も一等米ですね!」「よかったー!」の連呼となった。横で見ていた植木さんも確信していたかのように「良い、お米やわ、これは!」と笑みを浮かべて、若い二人の春からの頑張りを労っている様子だった。
 そして10月8日、「げんき米」「おにぎり」となり心待ちしていた二人の元へ運ばれて来た。FBCの応接室には植木さんや高須町の皆さんもいち早くその「おにぎり」の味を知ろうと待っていた。試食用の「おにぎり」で、その味を確かめた。まずは植木さん一口おにぎりを食べてみた。「うん、美味しい!」と、植木さん。お馴染み、智恵子さんも「米粒が大きい!」とそのおにぎりを見る。「うまい!」「美味しい!」との声に、川島&大島アナ「これで、自信を持って今日皆さんに配れます!」と、安堵した。
 11時から、限定500食の「げんき米のおにぎり」のその盛況さは、先日のこの日記でも紹介したのだが、放送の中に「来年もお米作りして下さい!」とお客さんからの励ましの言葉に嬉しそうな表情をしていた二人だった。でも、その返答に「はい、頑張ります!」と言った、大島アナだが・・・本当に来年もチャレンジするといいのにね。(高須町のみなさんも、私達棚田オーナーも期待してますよ!)
 現場にいた高須町の皆さんも、感動の一日でした。改めてお疲れ様でした。川島アナ、そして大島アナ高須町での7ヶ月間の思い出を締めくくった今「コシヒカリは福井の誇り!」を最後のコメントにした二人でした。いい笑顔、素敵な笑顔でしたよ。


△男の酒のつまみ・・・51(番外・・・自衛隊編第11弾!)
 ある年の夏、青森県三沢市にある航空自衛隊三沢基地に短期出張していた私。ここ三沢基地は途轍もなくデカイ基地なのだ。何故大きいかと言うと、この基地に中には第3航空団があり、つまり航空機が離発着する滑走路があるからだ。それに米軍も同じ基地内にあり、加えて民間の飛行場もある。
 一度、基地の外周をランニングしようとしたのだが途中で諦めたことを覚えている。(それほど広大な敷地なのだ!)基地のゲート(門)自衛隊用米軍用が専用としてあり、外出していた場合、その広さのため三沢市内からタクシーで基地内に入ることもできる。(身分証明書提示)
 米軍の敷地内には小・中・高がありボーリング場や図書館など多くの施設がある。家族用に住宅もある。(これがまた大きい)芝生の中に1戸建住宅・・・(さすが米軍、ここが日本だということを忘れさせてくれる)
 私たちが狭い建物の中で懸命に仕事をしているその数十メートル先の芝生の上では、ビキニの母親と同じくビキニの高校生が日光浴をしている。その横で非番の父親がこれでもかと大きなステーキを網の上で焼いている。こんな光景は・・・当たり前だった。BX(売店)も米軍のものは大きい。売店というよりはスーパーマーケットの方が適切な言葉だろう。(スーパーは別にある)
 勿論、我々自衛隊員も許可があればこの売店に入ることは出来るのだが、煙草や雑誌等は購入できない。(買いたかった・・・アメリカ版の○○○・ボーイ!)(失礼!)
 ここの米軍バスケチームのメンバーと仲良くなった私がこのメンバーのお宅にある日招待された。(勿論、基地の中)当時、私が好きだったUCLA(大学)ロサンゼルス・レイカーズ(プロ)のバスケの話題で盛り上がった。
 食事となり、期待通り芝生でのステーキのバーベキューとなった。1枚が約500グラムだろう、それが人数より4倍の枚数が用意してあった。「よーし、食べるぞ!」と、憧れていたこのステーキに少し興奮していた。
 ところが、この肉は国産牛ではなくアメリカから直に米軍に入ってくる肉だった。日本の肉と比べ極めがない。繊維質も大きく・・・つまり、あまり美味くないのだ。確かに、国産牛と比べると値段は想像以上に安いのだが如何せん不味い!しかし、お構いなしと言うか味音痴と言うか、バクバク食べている米軍の軍人たち。身体もデカイがその食欲も凄い。1枚のステーキに梃子摺った私に1人の軍曹が話かけてきた。通訳すると「ミスター・藤田。余り食べませんね、それではバスケットの試合、私達には勝てませんよ。もっと、食べなさい!」と、・・・流暢な日本語だった。(ごめん!)
 そこで、この軍人が家族に電話をして奥さんが1本の瓶をわざわざ私のために持って来てくれた。当時、この瓶もその中身も知るはずはなく、ステーキにかけたその味が不気味だった。(マリファナ系だったらどうしよう・・と真剣に悩んだ私だった)
 一口食べると・・・甘い・・・でも・・・美味しいのだ。つまり、彼はマリファナ系ではなくカナダ系アメリカ人で、カナダの人の多くは食事の時、必ずメイプルシロップを用意し、どんな食材でもかけると言うのだ。野菜でも肉でも。初めてのこのメイプルシロップだったが、この大味のステーキには合う。そのお陰で500グラムのステーキを計5枚たいらげた私だった。この他にも網の上では青森産のホタテ(貝つき)などを焼き、夜遅くまで楽しい一時を過ごしたのだ。
 2日後、バスケの親善試合だが、78対108で・・・完敗となった。私のポイントは・・・12点で通常の半分となった。原因は私の体重が5キロ増加したことだ。
 つまり・・・彼らの作戦にまんまとはめられた、私だった。(でも・・・自分が悪いのだ)
 青森にもこの他、沢山の美味しいものがある。有名なのは大間のマグロだが、この当時は勿論、高級すぎて口にすることもなく(今でもだ!)、新鮮手頃と言う意味では「ホヤ」がいい!この「ホヤ」別名「海のパイナップル」というのだが、人により好き嫌いがある。グロテスクな見た目のホヤだが海から上がったばかりの新鮮なものは、本当に美味しいのだ。そうそう、「ホヤ」は福井でも有名で、皆さん口にすることが多い・・・「ホヤって・・・!」(大変、失礼しました!)

※ここで全国のThe Yamazatoファンの皆様にワンポイント講座・・・福井では「そうだ」「その通りだ」という意味(相手の言っていることに同意するときなど)に、「ほや」という方言を使います。決して、海に棲む原索動物のことではありません。ちなみに福井弁で「ほやほや」なら、「そうだ、そうだ」と言っていることになります。


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【十月の八/絹の手触りコシヒカリ】10月14日(金)

「今日、夕方から雨か!」天気予報を見ていた私は得意のひとり言。(最近、多くなってきた。年のせい!)
 高須町のはさ掛けから約3週間、思わぬ脱穀前の雨のためで稲が乾燥しきらず、この間2度の延期があった。福井市農政企画課の本多さんから「すみません度々、14日の金曜日になりました。植木さんのOKが下りないもので!」と、電話をいただいた。私は植木さんの顔が浮んだ。おそらく、真剣な眼差しで穂を見つめ「まだ、だめだ!」と、脱穀の頃合いを計らっているのだろうと想像できる。
 その植木さんのGO!が出て、本日14日脱穀を向かえた。
 朝8時過ぎ、高須町に向かった。この半年で色々なことがあった高須町、そんな事を思い出しながらの楽しいドライブだ。予定より早く高須町のはさ掛け場についたのだが、地元の皆さんはもう順番にオーナーの稲をはさから降ろし、脱穀している。
 

 丁度、私の稲がコンバインにかけられていた。「おはようございます。お疲れさまです」と挨拶すると、笑顔で答えてくれる高須町の皆さん。佐々木さんのお母上や、智恵子さんの姿も見られる。オーナーが春に手書きした看板を確認しながら丁寧な作業が続いている。
 コンバインにかけられた稲は、もみは大きな袋に、そしては皆さんの手により束ねられていく。
 

「藤田さんの終わったよ!」と、声をかけられた。本日、平日(佐々木さん&田中先生は不在)のためデジカメ撮影は私の担当となっている。撮影に夢中になり、自分での稲穂の作業が出来ず、地元の皆さんにまたお世話になってしまった。「有り難うございます!」と、お礼を言った。

 私のもみが入った袋が軽トラに乗せられ坂道を下って行く。その後を追う私。次は「もみすり」をするのだが昨年は1箇所でのもみすりだったが、今年はオーナー数が多く2箇所での作業となった。朝一番の作業のためか、まだ機械は動いていない。農家の皆さんはこんな大きな機械も1台1台個人で所有しているのかと感心した私だった。私の「もみすり」作業現場は、おそらく初めてお会いする方の倉庫前で行われる。「お早うございます。宜しくお願いします」と、挨拶。ここでも笑顔で「いやいや、ご苦労様」と返された。
 私の袋の他には、3人のオーナーの袋があった。それぞれ袋の上には看板が置かれている。
 

 機械が動きだした。袋からもみを投入口に入れると、大きな音とともに2方向に分かれて行く。1つは「もみがら」、そして「玄米」だ。昨年も佐々木さんのお宅で見学した際、この機械が作動している時だが、近くにいると細かいもみがらが舞ってくる。それが顔や腕に付き、痒さを感じてくるのだ。時折「玄米」を手に取りチェックする地元の皆さん。最後まで真剣に対応して頂いている。この様子もデジカメで撮影していた私だが「これ、飲んで!」と、缶コーヒーを頂いた。「すいません」と、恐縮する。本来なら私が飲み物などを用意しなければならないのに、逆になっている。ここ、高須町では度々ある地元の皆さんの心優しいオモテナシだ。
 しばらくすると、何人かのオーナーの皆さんが来られていた。皆さん、自分のお米が楽しみな様子で、どの顔も笑顔だ。
 市農政企画課の本多さんも2箇所の「もみすり」現場を何往復し、忙しい様子。オーナーの皆さんの応対をし、メモを取りながら、お米の重さも計り、順番に作業している。大変そうなので私も少しお手伝い!
 玄米が入った袋を運び、来られたオーナーの皆さんと暫し歓談(オーナーの中には、私が地元・高須町だと思っておられた方もいた)ここでも、ホームページの談義となって、「あれ、見てますよ。面白く拝見しています!」や、「大変でしょう、毎回書くの!でも、あの日記は笑いました!」と、それぞれ好評を頂いた。(自画自賛ですみません!)
 午前11時、大きな袋(玄米40キロ)を乗せ高須町を離れた。途中、コイン精米所にて精米にする。「玄米」から「白米」になっていく。機械から袋に流れていく白米を手ですくうと、温もりを感じる。「美しい!絹の糸の白さだ!」
 藤田家の晩御飯、全員で高須産コシヒカリを食べた。「うん、美味い!」(82歳・父)「全然違うわー!」(77歳・母)「今年のも美味しいね!」(44歳・妻)「・・・・・」(18歳・長男)「やっぱり高須のは、美味しいね!」(11歳・次男)の藤田家でした。
 ちなみに私は・・・この日も晩酌で・・・「川島大島アナげんき米」のビデオを最初から見ながら、この半年を懐かしんだ。晩酌の最後に、おにぎりを妻に頼んだ。そしてその味は・・・「どえりゃー美味いんでなも・・・」(名古屋生まれか!)


△男の酒のつまみ・・・52(番外・・・自衛隊編第12弾!)
 奥尻島にあるこの航空自衛隊の基地には約200人の隊員が24時間体制(交代)で勤務している。食事は朝・昼・夜の3回(当たりまえだ!)だが、夜勤者には夜食が付く。夜勤者は早めの夕食を取り、それぞれの勤務場所に向かう時、夜食を受け取ることになっている。夜食は袋のラーメンと味付け海苔が多い。夜勤時、交代交代で食べることになる。
 一般の人からみて、自衛隊さんはどんなものを食べているの?とよく聞かれた。美味しいとは言えないもののカロリー的には十分な献立が用意されている。勿論、食事を担当しているのも専門の航空自衛官である。全国各地にある基地では、それぞれその地方ならではのメニューがある。ここ、奥尻島では魚を使う料理(焼き魚&煮魚)が多く出されていた。しかし、その美味しいはずの魚も頻繁に登場すると、飽きられてくる。(学校の給食を想像して!)
 しかし、そんなメニューが続く中、我々隊員が喜ぶ日がある。それは、基地に一般の見学者が来る日だ。もちろん、昼食しか食べないがその時のメニューは少し豪華?なものになる。たまにしかない、楽しみな日だった。
 しかし、これが災い?を呼ぶ。私達と同様に並び、トレイにおかずを順番に取る見学者の皆さんだが、驚いている様子。お互いが何か小声で話している。「自衛隊はいつもこんな贅沢なメニューなんだ!」とか「これは、良すぎるよ。毎日こんな美味しいのを食べているんだ!」と、こんな話が聞えてくる。「おい、おい、皆さんが来られているから、歓迎を込めてのメニューなんですよ!」とも言えない調理担当の隊員たち。その横では、黙って箸を動かす隊員たち。(年1回あるか無いかの美味しい食事で無言状態)見学者から質問される隊員も多いが、食事時間も交代制(勤務者がいるため)で行うため、早く食べなけなければならないので十分に応対が出来ない。これも見学者にとって自衛隊のマイナスイメージとなる。
 見学者の広報担当隊員が随行しているのだが、多くの見学者一人一人の質問は対応出来ず、食事中の私達への質問になるのは当然である。
 しかし、見学者のそんなイメージも私達隊員の毅然とした態度と行動でマイナスからプラスになっていく。「さすが、自衛隊さんだね!」「キビキビしている!」「礼儀正しい!」そんな声が聞えていた。
 当時(昭和55年頃)の1人自衛隊員の3食(朝・昼・夜)の食事費用は、確か約350円だった。
 夜食で貰うラーメンだが、ラーメンばかりも飽きる。たまにはヤキソバでもと思うのだが、それは無い。そこでラーメンをヤキソバに無理矢理した私。少なめのお湯で麺を茹で、茹で上がったところでお湯を切り、袋入りの粉末スープを半分ふりかけ混ぜる。最後にウースターソースを好みでかけて混ぜる。以外と美味い!


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【十月の九/高須町に赤とんぼの舞】10月16日(日)

 秋晴れの日曜日の午後、爽やかな風が吹いている。今日はのんびりと・・・しかし、何故か私は明道中学校の職員室に来ている。田中先生と高須町ホームページの原稿内容の確認をするためだが、その回りには休日なのに何人かの先生が仕事をしている。教員の指導力不足とかその資質とか言われる中、私の母校の先生たちは、懸命に仕事をしていると感心させられた。(さすが、明道中学校!頑張れ、先生!)
 さて、本日午後4時から高須町でThe Yamazatoスタッフ会議がある。先週に続きあるのだが、明日からいよいよ販売される高須産コシヒカリ(1袋・玄米30K)についての最終打ち合わせがあるのだ。他県の幾つかのコシヒカリもリサーチしてのこの高須町棚田米は、私達消費者にとって嬉しい価格となった。(30K・1万円税込み)
 植木さんや高須町の皆さんが愛情込めて育てたこのコシヒカリは最高のお米である。そんな大切なお米を限定200袋もこのホームページThe Yamazatoファンの皆様に感謝を込めて出して頂くことになったのだ。
 田中先生を乗せ、高須町に向かう。車中では田中先生が植木さんに本日プレゼントする、FBC福井放送川島アナ大島アナの評判のあのおにぎりの写真を大きく伸ばしパネルにしたものを、傷が付かないように大事な抱えている。想い返せば、この写真を撮ったのは春、初めて高須町の棚田で私達が逆取材をと二人に初めて会った時だった。放送用の撮影が終わり、私がマイクを向け動画のインタビューだった。その時、ついでに記念撮影と思いその朝、自宅で私が作った高須産のコシヒカリ(焼きたらこ入り)のおにぎりを二人に渡し食べてもらう瞬間の写真だった。(撮影・田中先生)その何気ない写真だが、天候に恵まれ、高須の棚田から見える美しい景色、そして二人の飾らない表情と、全てがマッチして最高の出来となり、先日の「大和田げんき祭り」の3日間、FBCのおにぎり会場でも、その翌日からスタジオブース内でも飾られていた。

「本当にいい写真だわ!」「これは、最高の写真ですね!」「二人の表情が何とも言えず、いい!」と、多くの皆さんから嬉しいコメントを頂いた。植木さんからも「あの写真は今年の高須町の想い出として残しておきたい!」のお話を受け今回のプレゼントとなったのだ。
 私と田中先生はいつものように学校のことPTAのこと高須町のことなど話ながら、八月に私が走った高須町へのあの坂道に差し掛かかった。
「藤田さん、この道を走ったんですね!」と、田中先生。
「うん、まあ走ったというか歩いたというか」と、思い出した私。
山々の緑は、もうじき紅葉を向かえようとしている。
「まだ、紅葉には時間がかかりそうですね?」と、田中先生。
「あっ、市内でも紅葉の有名な処がありますよ!」と、私。
「えっ、どこですか?」
「光陽(こうよう)中学校!」
「・・・・」
そんな会話をしながら、30分後に高須町の佐々木さん宅に着いた。玄関を開け「ごめんください!」と言うと返事がない佐々木宅。留守なわけはないはずで、再び呼びかけた私。すると佐々木さんの前のお宅の奥さんが呼びかけてくれた。「佐々木さんは横の田んぼにいるよ」いつも親切な高須町の皆さんだ。耳を澄ますとトラクターのエンジン音が聞えていた。
 自宅横の田んぼに行くと、佐々木さんはトラクターに乗り稲刈り後の田んぼを掘り返していた。外周から内周へゆっくりと後ろの土を確認しながらの作業だ。私と田中先生に気づいた佐々木さん、エンジンを止めた。

 だが「もう30分ぐらいで終わるから、やってまうわ!」と、再び作業となる。煙草を吸いながら見学の私。横では「いい被写体だ!」とデジカメを取り出した田中先生。佐々木さんの作業を撮るため土手を走り回っている。
 ふと気が付くと、稲刈り後の切り株から緑の稲のようなものが伸びていた。よく見ると、その先端には穂が付いているようだ。「えっ!あれは何?」と先生に質問した。ここでさすが理科の先生、「あっ、これはですね」と個人授業が始まった。

「これは、刈り取られた後でも稲の根は生きているので、すぐに切り株から茎を伸ばして、その先に穂をつけたものですよ」と、田中先生。「へー、知らなかったー」の私の言葉に笑っていた。いつの間にか横に来ていた、佐々木さんの次男(小6)に、その稲を指差し「あれ、取って来て!」と、頼んだ。トラクターにより田んぼ中央部に残り僅かのその稲を、佐々木さんの次男はホップ・ステップ・ジャンプで往復してきた。「先生、これ撮って!俺みたいに知らない人いるかも」と、言うと田中先生「そうですね」とデジカメを構えた。(でも、私だけが知らなかったかも!)
 佐々木さんの作業が続く中、私達二人は佐々木さんの家の周りを散策していた。「これは、何?これは?」の私の問いに丁寧に解説する田中先生。注意深く観察すると色々なものがこの高須の中に生きている。「ゆず」「もう少しだよ!」と言わんばかりに沢山の実を付けている。

 少し高台から佐々木さんの作業を見ると、たくさんの「赤とんぼ」秋の舞を風の中、披露している。「もう秋なんだなあ」と改めて四季を感じた私だった。
 佐々木さんの作業も終わり(急がせてしまったかな!)いつものように応接間にてお茶をご馳走になった。暫くすると佐々木さんの先輩、高島さんも登場し高須町The Yamazatoスタッフ4人が顔を揃えたのだ。植木さんへの最終報告に最終確認をする4人。高須町がこれから皆さんにお届けする「旬」のものが期待して頂けるようにと、真剣に打ち合わせする4つの顔がある。高須町ならではの特産品、題して「高須町からの旬のまごころ便」とでも言おうか。
 午後4時が近づき、佐々木さん宅から車2台で移動する。いつもの研修センターでの会議だが、途中立ち話をしている植木さんを発見、窓をあけ「お疲れさまです!」と挨拶する。「ご苦労さん!」と、笑顔の植木さん。植木さんの到着を待ち、研修センターに入る。まず、川島大島アナのパネルを渡した。思わず笑みがこぼれる植木さん「何度見ても、いい写真やわー」と嬉しそう。高島さんも「この二人の笑顔が爽やかですね」と続いた。そして佐々木さんも「・・・俺もこれ欲しいわ。大島さんの部分だけでいいから!」と中年親父の本音が出た。(俺も同じだ!)
 会議が始まり、報告を聞く植木さん「うん!うん!」と頷いている。ふと、床の間を見ると先日金沢市で授与した賞状が置かれていた。高須町の財産がまた一つ増えた。「おめでとうございます」と改めて祝辞を言うと「うん!有り難う」と、目尻にシワの植木さんだった。

「では、明日17日よりホームページで開始します!」「宜しくね!」で会議を終えた。午後7時30分だった。
研修センターを出た5人だが、思わず足を止めた。夜空の月が綺麗だった。秋の夜、中年5人がその眺めに観賞した時だった。(似合わないのは、分かってます!)


△男の酒のつまみ・・・53(読者投稿編・・・第1稿)
 今回、メールにて投稿されたものを紹介します。投稿してくれたのは、福井大学工学部大学院のペンネーム「じゅんさい大好きナマハゲ君!」からのものです。遠く故郷、秋田県のつまみだそうです。
「ごぼうとたらのこいり」
材料・・・ごぼう・人参・蒟蒻・タラのコ(生)
@ 全部の材料を食べやすい大きさに切ります。
A ごぼうと蒟蒻は軽く茹でてください。
B ごぼう・蒟蒻・人参を炒め(ごま油がお勧め!)、最後にタラのコを入れて軽く混ぜます。
 味付けは、砂糖・味醂・酒・醤油等でお好みの味にして下さい。七味などでピリカラにしても美味しいです。

投稿、有り難うございました。秋田県も美味しいものが沢山ありますね。また、教えて下さい。
これからも、このコーナーに皆さんの美味しい投稿をお待ちしています。


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【十月の十/皇太子さまが目の前に!】10月22日(土)

 昨日の夜、次男(順化小5)が高須町の佐々木さんの次男(高須城小6)に電話をしていた。どうやらその会話の中身は、私と田中先生(明道中)が先週、佐々木さんのお宅をお邪魔した際、玄関先で佐々木さんの次男が高須町で掘りおこした珍しい石?を手にしていたのだが、「これ、直くんに・・・」と次男にプレゼントしてくれた。最近、高須町にとんとご無沙汰の我が次男(ボーイスカウトの行事の為)、その石のお礼を兼ねての久しぶりの次男同士の会話だった。その会話だが・・・(次男の声だけ!)
「もしもし、○○○!。石、ありがとう」(おい、1年先輩を呼び捨てかい!)
「今度、高須町に行ったら、また遊ぼうな!」(だから、相手は年上だ!遊んで下さい・・・だろ!)
「んじゃな・・・!」(最後までタメ口かよ!)
 電話の後、当然の事ながら父親として次男に説教をする。以前も高須町の佐々木さん宅にて、佐々木さんの長男(中1)と次男は「直くん」と呼ぶのだが、我が次男は「○○○!」と呼び捨て状態となっていた。親しき仲にも礼儀あり!を昏々と説いた私だった。
 その次男だが、本日は早朝より起床している。いつもの土曜日なら熟睡している午前6時。そんな朝早く、電話が鳴る。
「順化小学校ですが、今日予定通り踊ります!」と、担任の先生からだった。「踊る?」と疑問に頭を傾げた私だったが、最近、次男が自宅で何やら不思議な振りをしていたのを思い出した。それを何度も何度も繰り返していた次男。「順化公民館で老人会の、いつもの出し物か何かか?」と、気にも止めなかった。
 珍しく、新しい赤のTシャツを着て鏡の前で髪のセットをしている次男だが、いつもとは少し様子が違う。かなり緊張している。その時、テレビで「本日の、国民文化祭のオープニングパレードは予定通り行われます!」の放送が入る。次男の視線はテレビに。「これか!」と次男に聞くと、頷く次男。
 第20回・国民文化祭ふくい2005で、そのオープニングとして順化・春山・宝永の3小学校の全5年生が合同でダンスを踊ると言うのだ。しかも、恐れ多くも皇太子殿下の前でのダンスという。場所は合同庁舎前(フェニクッス通り)で午前中に踊るらしい。妻もビデオの用意をし、念入りに化粧をしている。自分が写る分けでも無いのに、と思いながら窓を開け空を見る。今にも雨が降り出しそうな具合だが、多くの参加者が楽しみにしているこのイベントは、今から中止は出来ないだろう。
 次男が近所のクラスメイトと集合場所に出発した。後を追うように妻も出かけた。その直後、激しい雨が降り出した。
 雨の中、民謡・YOSAKOI・南米の民族ダンス等色々な踊りで詰め掛けた多くの人々も拍手で激励する。次男達のダンスは福井ならではの「恐竜ダンス」と紹介があった。頭には恐竜の頭?かつら?を被り、3校色違いのTシャツで可愛く登場した。付き添いの先生も子供達も雨の中、透明のカッパを着ての踊りとなった。正面のボックスには皇太子殿下が笑顔でそのダンスを見られている。時間にして数分のダンスだったがギャラリーからは大きな拍手が巻き起こった。 大任を終えた児童たちは、「ホッ!」とした表情でお互いの肩を叩きあって安堵の笑顔。
 この「恐竜ダンス」の後、皇太子殿下は御退席されて、この国民文化祭の開会式の会場、サンドーム福井に向かわれた。
 子供達にとっては貴重ないい経験になった事だろう。おそらく、皇族の方にお会いするのは初めての事だったはずで、何かしら不思議な思いをした私だった。もう四十年も前の事、私が次男と同じ年の頃、福井国体があり、そこで初めて皇族を目にした事があった。古い人間なのか、昭和生まれと言うのか、皇族を見ると頭を擡げ直視を避けてしまう。私の親や祖父母たちは、必ず部屋の壁に昭和天皇ご夫妻や今上天皇ご夫妻のお写真が掲げてあった。週一のテレビ「皇室アルバム」は、正座で手を合わせ見ていた母親がいた。(今も健在です!)
 正午過ぎ、解散後少し疲れた次男が帰宅してきた。開口一番「皇太子さんが、目の前にいたよ!」と、嬉しそう。ここでも「いたよ!じゃなくて、居られたとかいらしただよ」と、言葉の教育。しかし、「今の子は、これでいいのかな」とも感じられる。小学校5年生の次男だが、国語教育というよりは昔と違い、余りにも本を読むことが少ない現代っ子。いわゆる「活字離れ」である。中学生までの読書の多い少ないで、その子の長い人生での国語の読解力が決まるとさえ言われている。言葉使いの大切さ、読み書きの大切さ、本の読解力、その全てを学校に委ねず、親として教えることも多いはずである。(子供と一緒にクレヨンしんちゃんを見て楽しんでる親では、説得力はないか!)
 藤田家の夕飯時、高須産の新米コシヒカリが白く輝いている。最近の我が家族は、この美味しいコシヒカリの味になれてしまっている。もくもくとそのご飯を口にする6人。「たまにはスーパーのブレンド米でも食べさせるか!」と。思う私だった。
 そして夕食後、妻が撮った今日の次男のビデオが写しだされた。その映像だが、さすが皇太子さま側(合同庁舎側)は警備が厳しいのか仁愛高校側より子供達を撮っている。つまり、子供たちの後ろが映った内容だ。しかも、失礼にも皇太子さまの顔が上下にぶれていた。原因は雨と寒さのためかな、と思ったのだが違うところにその原因はあった。そのビデオに入った音声・・・同様にその「恐竜ダンス」を踊る可愛い我が子を撮ろうと、母親たちがビデオやデジカメを構えるのだが、その数十人の会話が入っている。「押さないで!」「あっ、見えない!」「踊る時だけ、カッパを脱げばいいのに!」「先生が邪魔!うちの子が見えない!」「ねえ、皇太子さまだけなの?雅子さまは来てないの?」と、多くの音声というか雑音(失礼!)が入っているのだ。男親なら無言でカメラを構えると思うのだが、さすが母親たちは2つ3つの事を重ねて行う。混雑した会場、「我が子が一番!」の母親たち、しかも順化・春山・宝永の3校ものお母さんたちが一挙にカメラを構えたのだから・・・仕方ないか!妻が言うには、やはり警備が厳しいと言うのだ。「ほんと、警備・・・SP・・・多くて近づけなかった!」(誰に近づくつもりだったのか!)
 ビデオには、雨にも負けず元気いっぱい踊りを披露する子供たちが映り、失礼ながらも時折だが皇太子殿下のご尊顔が見えている。母はやはり椅子の上にて、おちょきん(福井弁で正座の事を言う!)で見ているのだが「あっ!皇太子さま!」と感激していた。
 そうそう、朝だが田中先生から電話があり「今日、お天気が好ければ高須町に行うと思っていたんですが、残念です!」と、お誘いがあった。1年前,私の強引な誘いが原因で高須町の虜になってしまった田中先生だが、最近の言動を見ていると、先生も在職している明道中学校から高須城小学校に転勤するのではないかと少々心配になった、秋の一日だった。


△男の酒のつまみ・・・54(読者投稿編・・・第2稿)
 本日は京都在住のペンネーム・清水からは飛び降りないさん、からの投稿です。
 秋になると山菜、特にキノコが美味しいのですが、今は毒きのこが多くあり、本当に見分けがつかないほどです。
 先日も近くの山に入り、松茸は残念ながら見つからずシメジをどうにか採ることができました。「香り松茸、味しめじ」と言いますが、もしこのつまみが初めてでしたら載せて下さい。
シメジのあさりの酒蒸し
 シメジを洗う時は、直接流水で洗わず、濡れふきんなどで汚れを落とす。あさりは半日ほど水にて砂を吐かします。昆布を少し、鍋(浅いもの)に入れ、その上にあさりと日本酒を入れる。日本酒が煮立つ少し前にシメジをいれその時、塩を一つまみふる。中火から弱火にし、3分でOKです。

投稿有り難うございました。京都には京野菜や漬物などこれから美味しい季節になりますね。福井から京都への鯖街道は昔から有名ですが、これをご縁に、これからもどしどし投稿しておくれやす・・・。


高須城日記U(秋後編)に続く


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