昔の小池地区

昭和31年頃の願教寺山・よも太郎山、右下集落が下小池地区(今の小池公園)です
デグラ・ソウザェモン・ロクザェモン・キュウダュウ・ツギョモン・ワルダニの6軒
上駐車場付近にはキスケの1軒、奥平地区にはモサ・イソウェモンの2軒ありました
昭和36年の北美濃地震で萱家は壊れ小池を後にしました。
他にはイッタイ・スケゴロウ・ヨシハチが住んでいたそうです。

昭和36年夏の北美濃地震発生で壊れた萱家、その後は蔵で生活して
いたそうです。

東北(デグラ山)から南西方面の小池集落を撮ったようです、中上の
杉3本に小池神社があり、村人がお参りしたそうです。

小池神社に御供え物をし酒を酌み交わしたそうです、現在は大野市内
の山王神社に移し毎年5月15日に山祭りとしてお参りします。

地震が起きる前の打波小中学校小池分校です、冬の池は氷で覆われ
割れないことからサッカーベースボールで遊びました。
現在は公園になっており、池はカモが子育てし、やがて飛び立ちます。

左が新校舎、洗濯物を干してあるのが旧校舎で閉鎖されていました。
小池公園の入口で、舗装されていませんが昔と同じ道です。

学校の1階部分は降り続いた雪で埋まっています、親子総出の雪おろし、大屋根から飛
び降りても大丈夫ですが、雪の中に埋まってしまい出るのが大変でした。

地震の翌年に、萱家はつぶれ小池地区は廃墟の村となりました。


・どの様な生活をしていたか紹介します

電気は水力発電でした。
今の小池公園下のえんてい左側に木で水
路を作り発電機に水を取り入れて、発電し
ていました、作動には一週間交代で子供た
ちが、夕方うす暗くなると水路のゴミを取り
除き水が発電機に入るよう見回りし、朝に
は切りに行きました。
発電小屋、機械自体の写真はありません
が、機械等あれば夜の小池公園も今は明る
いはずです。
機械一式は当時で30万円と聞いています。

山のあちこちで窯を造り、を焼いては町へ
売りに行き生活していました、当時は村人た
ちが協力して窯造りしたと聞きます。
今見かける炭窯とは違いますが、硬い木は
良い炭が出来たようです。
他には、オウレン・黄はだ剥ぎ・ワサビ・ナメ
コ売りがあったそうです。

日照時間が短かく米は実らないため昭和25
年頃まではヒエ・アワ・麦を主食にしていまし
た、今ではダイエット食として重宝されていま
すが、当時は仕方なく食べていたのでしょう
ね。
ヒエは今でも公園内で見かけますが。

それにしても、女性は20才代だと思います
が美人ですね、今から50年前の写真です。

おばあちゃんとお嫁さんがきび引きをしています、きび団子になったのかなー。
右は炭俵を編んでいるところです、子供をあやしながらの作業が当たり前だったので
しょうね。

長老から若い人まで火鉢を囲んでの会議
村をどうしていこうかの議題だったかもしれ
ないですね、持ち回りで月に一度は開いて
いたそうです。

山祭には笠踊り、歌に太鼓に三味線で夜が
更けるまで代わる代わる踊ったそうです笠
踊りを出来る人が少なくなりましたが、今の
うちに引き継いで行かないと絶えてしまうか
も。

村の男総出で山へ狩りに行きました、成果はうさぎだったようです。
タンパク元として皮を剥ぐのは子供の仕事でした、当時は冠札があったか疑問ですが
熊撃ち用の丸い玉と散弾玉があり、一連式だったそうです。

入学式の様子、当時生徒は8人、成績も一番か二番でした?今は
皆立派な大人に成っているでしょうね。


当時の遊びと言えば、主に釣り・サッカーベースボール・バレーボール、冬は
    スキーでした、花火をしていますが大学生たちは歩いて来たのかな。
原木なめこを缶
詰にしています
右の女性2人は
町から雇った人
たちです。

娘たちがヒエの穂を刈っています
山の斜面にあるようですが、楽しそうですね

かんこ踊りは大野市で保存され、毎年お盆に六軒通りで踊られていま
す、正式には笠をかぶるのが本当だそうです、石川県の白峰地区でも
踊ります。

出作り小屋として利用されていた学校は一冬でハケラが折れました。
当時は5〜6mの雪が降ったそうです。
今では少なくても4m程度は降ると思われます。


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