高須町の紹介

高須町の歴史

 そもそも、この高須町に人が住み始めたのは、縄文時代と言われ、弥生時代には稲作が伝えられた。室町時代、南北朝の争い(1336〜1392)に鎌倉幕府(1192〜1333)を倒した後醍醐天皇(南軍)と足利尊氏(北軍)の戦いにて南軍最後の城(鷹巣城)がこの高須山にあり北軍7000人に対し、僅か27人で1年2ヶ月も戦をしたのがこの地である。この時の武将が新田義貞(1301〜1338)の家来であった畑時能(はたときよし)(1299〜1341)である。山頂には城跡として大正時代に石碑が建てられ、現・高須城小学校の名前の由来ともなっている。

 また、室町時代にこの高須町には、日本でも最大級のお寺があったと伝えられている。その大きさは現在の高須町より、上の池の川平(かわら)や仏の平(ひら)まであり、参道が田ノ頭町まで続いていた。その参道の一部は今も残っている。お寺の内部は、立派な伽藍や塔が建ち、また修行僧などの部屋が約三千もあったと言う。しかし、そのお寺の詳細についてなどの資料は残っていない。

 高須町の清慶寺は当時のお寺の一部であり、経塚という石碑がある。この石碑はインド文字の梵字(サンスクリット文字)で「天地風水火」と書かれている。南北朝時代に京より藤原藤房(1295〜1380?/後鳥羽天皇の家臣)がこのお寺に隠住したが、畑時能が高須町に来たことにより争いを避け、他の地に向った。藤原藤房は清慶寺の先祖であり、藤房自身が学問に使用していた石の一部が神社に残されている。

室町時代の終わりに織田信長(1534〜1582)の軍勢により当地の寺が焼きうちにあい、お寺の約95%が焼失した。

高須山々頂からは、福井市内はもとより坂井平野や日本海が一望でき、この地に築城した訳が理解できる。現在、手軽なファミリー・ハイキングコースとしてまた、山菜採りなどで多くの人に利用されているが、山の中にはまだまだ謎に包まれた神秘な処も多くあり、歴史的に貴重な伝説が残る高須町である。

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高須町の概要

 福井市の中心部より北西約20q、東経136度6分36秒、北緯36度39秒に位置する。高須山(標高438M)の中腹に豊かな自然に囲まれた、世帯数46戸の農山村がある。
 町内のほとんどが兼業農家であるが、コシヒカリを中心とした米作りや野菜などはこの地ならではの気候により美味と評判である。

高須町へのアクセス