高須城日記W(夏前編)


(平成十九年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)


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【六月の一/忘れていたビデオには・・・!】6月1日(金)

「もう・・・六月なの?・・・早いね!」と言いながら、部屋の壁にあるカレンダーを捲った妻。私は・・・晩酌&テレビ、次男はパソコン(またまたゲーム!)をしながら、そんな妻を見ていた(呑気な家族だ!)
 妻の後ろ姿を見ながら私はあの昨年の大晦日から元旦にかけて田中先生と登頂に成功した冬、厳寒?高須山(そんなに・・・大げさなものでも!)での、山頂からの声も出ないほどの・・・美しく感動したご来光からすでに半年が過ぎたのかと、思い出していた私であった。「風がたまらなく冷たかった!」と、想いだしていた私。それでもどこか気持ちの良い風だった(あの時・・・二人とも声は出ていた!「寒い!」と)
 一月からこの六月まで、我が家で大きな変化?と言えば、まず第一には次男が小学生から中学生になった事になるだろう。ご近所の皆さんから「もう中学生なの?早いわね!」なんて・・・やはり他人の子供の成長は早く想うものらしい。
 そして・・・第二と言えば・・・・?思い当たらない!!!(まあ・・・いいか!)。相変わらずの毎日が続き、仕事に・・・高須町HPに・・・晩酌にと毎日同じような日々を繰り返している私なのだった(それが一番かも!)
 夜8時・自宅二階リビング、私は今日もテレビを観ながら晩酌中・・・妻は、その私の後ろでルル(猫)と遊んでいる。 隣の部屋からはガタゴト・・・ガタゴトハムスターが遊ぶ音が聞こえてくる(昨年の夏、高須町の岬ちゃん家から頂いたハムスターです!元気ですよ!)
 そして次男は・・・・宿題を終え、先程・・・定位置のパソコンの前に座っていた。「9時までだぞ!」(時間を決めています!)と、声をかけると「うん!」と答える次男(でも、飲み過ぎで・・・ついつい私が居眠りしていると・・・延長している次男!・・・「おいっ!」)
 番組中のCMの時間、テレビの横にある数台の機器(WOWOW・スカパー・ケーブル・そしてビデオ2台・DVD)の多さには「何とかならないものか!」と、長年のテレビで楽しんできた人生が想い浮かばれるものだった(テレビっ子ですから!)
 そんな時、1本のラベルの貼っていないテープ(VHS)が眼に飛びこんできた。「あれっ?」と声を出した私、つい数週間前にテープの整理をしたはずだった私だが、やり残しがあったのかと・・・その何が録画されているかわからないテープにしばらく気を取られていたのだった。
 すると、パソコンに夢中だった次男が話だした。「そのテープは、お父さんが高須の田植えの夜に録画予約していたものだよ!お父さん、始まる(録画番組)前に疲れて寝ちゃっていたけど」と、言うのだった。そして、とじゃれて遊んでいた妻も「そうそう貴方あの時、何か大切な番組があるからって・・・・誰もさわるな!って言ってたじゃない」と、言い出したのだ。「大切な・・・番組?田植えの日の夜?」と、全く覚えがない・・・いや、思い出せない私だったのだ。
「何を録画したんだろう?」そんな事を数メートル先に置かれてあるそのビデオテープを睨みながら考えていた私に「ほらっ!あの時、棚田で川島アナウンサーがお父さんに絶対見てって言ってたじゃない!それで、おとうさんが川島さんに必ず見るからって約束してたじゃない」と、次男が記憶を甦らすような回答を出してくれたのだった。
「あっ!そうだった・・・思い出した」と、大きな声を出した私だが・・・妻と次男は平然と・・・は驚いてベランダへ・・・隣の部屋のハムスターのガタゴトの音は、その瞬間、聞こえなくなっていたのだった(皆さんにご迷惑をかけます!)
「必ず今晩見て下さいね!」と、田植えの時、隣の田んぼから川島アナに言われたその番組が録画されたビデオテープだが、それは私にとって・・・・感慨深い・・・大切な番組だったのだ。
「全国放送ですから!」と、川島アナから教えてもらったその番組は、毎週日曜日深夜放送される〔NNNドキュメント'07〕だった。「嘘!これの全国放送で・・・・!」と、少し興奮気味の私だった。
 番組の冒頭では・・・いきなり「♪私の〜お墓の前で・・・泣かないでください・・・」と、数人の中年男性が歌いだした。それは田植えをしながら・・・また、可愛いいお孫さんを抱きながら・・・そして趣味の絵を描きながらと、それぞれ違う場所での《♪千の風になって》を口ずさむものだった。
 この男性たち・・・実は福井市にある60歳以上の男性で結成されたコーラスグループのメンバーだったのだ。毎週火曜日・・・福井市郊外の田んぼの真ん中にある県立音楽堂。そこに熟年男性たち約70人が集合する。練習が始まるまで、皆が熱心に楽譜を覗き込んでいた。
 昨年1月に結成された、平均年齢74歳男性合唱団〔ゴールデンエイジふくい〕のメンバー達だ。楽譜が読めなくても構わない・・・歌が下手でもいい・・・大きな声で、気持ち良く歌う・・・そんなコーラスグループ、そのメンバーになる条件だが・・・・60歳以上であることが、唯一の条件らしい(なんかいいね!)
 一年前から歌いだしたと言うこの《♪千の風になって》は・・・どうやらこのコーラスグループの十八番(おはこ)らしい。「歌に乗せて伝えたい想いが、ひとりひとりにあった・・・」と、ナレーションが語った。
『わたしの千の風』〈伝えたい、この歌を・・・〉が、この番組のタイトルだった。そして、私が心を震わせた瞬間があったのだが・・・さきほど番組冒頭のメンバーの中で絵を書いていた優しそうな男性がいた。その絵には・・・楽しそうに仲間同士だろうか歌い・・・語り合っている四人が描かれていた(どこか、哀愁がある絵でしたよ!)。そしてその絵の上には「お酒も飲まないで四人で歌ったね!コーヒーとお菓子で・・・」と、書かれてあった。
「兄さん・・・家は僕が継ぐよ!」と、言ってくれた弟の心・・・・(ナレーション)
 その絵を描く・・・コーラスグループのメンバーの一人が朝倉精道さん(67歳)だった。そう昨年の夏、突然お亡くなりなられた、高須城小学校・朝倉俊彦教頭先生(当時)お兄様なのだ。このお兄様だが昔は中学校の美術の先生だった。退職後はご自宅で独自の作風で作品作りに精を出されている。
 そんなお兄様が「♪千の風になって・・・」を歌う時、必ず想い浮かべるのは・・・弟・俊彦さんなのだ。代々続く実家のお寺を継いだ弟・俊彦さんは昨年五十四歳の若さで永眠された。可愛いい弟の俊彦さんが生まれたのは兄・精道さんが中学生の時だった。当時、兄は幼い弟のめんどうを良く見て好きな本を読み聞かせていた。いつも兄を追いかけていた弟は・・・いつしか教員となった兄の後ろ姿を見ながら、自らもその教員の道へと飛び込んで行ったのだった。
「あれは、私が教員になった時だったか・・・弟に先生は楽しいぞ!と、言ったことがある」と、当時を振り返る兄・精道さん。「たぶん、そんな私の話を聞いて自分も先生になる!と、決めたんじゃないかな?」と、優しい笑顔で語るのだった。
 そんな兄・精道さんが37歳の時だった、病気がちだった父から「寺を継いで欲しい!」と、言われたのだった。この時、離れた土地で生活していた精道さんは悩んだと言うのだ。
「お寺を継ぐ!」と、腹を括り・・・妻を説得し・・・子供たちの転校届けも用意した時、弟の俊彦さん「兄さんは大変だから・・・僕が継ぐよ!」と、言い出したのだった。
 この時、弟・俊彦さんはまだまだ新米の教員二年目、そして同時に多くの檀家を抱える家業のお寺も継いだのだった。
 画面は変わり・・・・高須城小学校が映しだされた。昨年の六月の映像だった。そして、教室で光くん岬ちゃんにギターを指導する在りし日の・・・・・・・朝倉先生がいた(曲は・・・「♪星に願いを」・・・だった!)
「突然の事で・・・信じられなかった!今まで病気らしい病気はしたことは無いはず」と、昨年の弟・俊彦さんの突然死を振り返る兄・精道さん。「何でも、一生懸命になる弟だった!兄弟の中で一番真面目な子だったから。それが色んな面で負担になっていたのかもしれない!」と、精道さんの目には少し涙が見えていた。
 冒頭の四人の絵・・・それは朝倉家の仲の良い兄弟四人の絵だったのだ。兄弟四人が大好きな音楽・・・大好きな歌、「たまに兄弟が集まると、いつか兄弟でコーラスでもやろうか?!・・・」なんて話していたらしいのだ。
 一番下・・・末っ子だった朝倉俊彦先生を想いながら兄の精道さんは「♪千の風になって・・・」を歌う。それはいつまでも変わらぬ兄弟愛を確かめるように・・・・。「兄弟の中で・・・一番人柄が良かったんです・・・弟は!」と、言葉を噛み締めていた精道さん。13歳離れた兄弟は、昔は本を読み聞かせ・・・そして、今は歌を聞かせている。天国にいる優しい笑顔の俊彦さんに届くように・・・・!
 昨年の高須城日記【七月の四/それは・・・突然の別れ!】で、故・朝倉俊彦先生の訃報をお伝えして一年が過ぎようとしている。来月、七月十二日が一周忌となる。先生が愛した高須城小学校は休校となり、光くんは中学生(棗中学)に岬ちゃんも毎日元気で棗小学校に通っている。
 この一年で色々な事があった高須町・・・・それでも変わらないのは朝倉先生が好きだった高須山(じょうやま)には今日も爽やかな風が吹いている。千の風になって・・・・!
 改めまして朝倉先生のご冥福を心からお祈りします。


△男の酒のつまみ・・・252
 とび魚の塩焼き!
 新鮮なとび魚を頂いた。「お刺身でも・・・」と、考えた私だが・・・やはり塩焼きが一番となった。強火とまではいかない炭火でじっくりと焼く。冷酒との相性は抜群です!


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【六月の二/祝・インターハイ出場!】6月4日(月)

 六月に入ったばかりだと言うのに、何だか蒸し暑い日が続いている。仕事中だが少し動いただけなのに・・・半袖ポロシャツの背中にじわりとが流れてくる(夏はどうなる?)
 昔から「汗かきだね!」なんて当時の彼女から言われた記憶があるのだが・・・これは長年続けてきたバスケットボールなどスポーツによる運動効果による発汗作用のお陰だろうか???・・・それとも毎晩のお酒が原因だろうか???
 さてさて昨日の夜のことだが、いつものように晩酌しながらテレビ&朝読んだ新聞の二度読みと落ち着きのない私が新聞のある一箇所に目を奪われていたのだ。
「ほう・・・やったね!県で3位か・・・頑張ってるな!」と、新聞の片隅に書かれてあるスポーツ欄を見て微笑んでいた私だった。その記事だが・・・福井県の高校体育大会でのソフトテニス競技の成績が書かれたものだった。
〔女子〕準決勝・・・山本・田中(武生)4−1藤田・佐々木(藤島)と書かれていた記事の・・・・残念ながら負けた藤島高校佐々木とは・・・そう、高須町の佐々木さんお嬢さんなのだ。文武両道と言う言葉は最近では珍しく余り使う事の無くなりつつあるように思うのだが、県内随一の進学校に在学し大学進学の為、深夜まで猛勉強をしながら3年生となった今も部活を続けている佐々木さんのお嬢さんにかねてより敬意を感じていた私だったのだ。
 昔は藤島高校のスポーツ活動と言えば進学のため2年生の夏までと決められていたものだが、時代の流れか・・・最近では個人の意思も認められているらしい。
 当然この時期に行われる、この県の高校体育大会は3年生にとっては高校最後の大会となるのもで優勝となれば、憧れのインターハイ(高校総体)へのキップを手にできる事となるのだ。
「もう少しだったな!惜しいな!」と、優勝まであと一歩の成績に佐々木さんのお嬢さんの顔を思いだしていたこの時の私だった(思い出すな!!!)
 それでも「頑張ったね!3位でも凄いよ」と、携帯からメールを発信した私に・・・・即座に思いもよらぬ返事が届いたのだった。「インターハイやよ・・・!」と、着信画面に刻まれたその文字に・・・「嘘!」「本当に!」「凄い!」と、連呼していた私だった。
 そして再びメールで「おめでとう!」「アリガトウ!」と、短い文字で交換していた私たちだった。
 当然、明道中学校田中先生にもこの出来事を伝えた私だが・・・田中先生も「凄いですね!春の休校で寂しくなりつつある高須町にこんな嬉しいニュースが出来たなんて・・・」と、心から佐々木さんのお嬢さんのインターハイ出場の快挙を喜んでいた(同じ気持ちです!)
「佐々木さん、嬉しいだろうな」なんて父親である佐々木さんの笑顔も想像しながら・・・・その記念の新聞記事を丁寧に切り抜き《高須町関連ファイル》に貼った私は、しばらく我がことのように心の中で拍手を繰り返していたのだった。
 そして「これは・・・お祝いしなければ!」と、また宴会好きな私の心に火がついていたのだった(おいおい!)


△男の酒のつまみ・・・253
 明太子!
 昔からたら子明太子が大好きな私なのだが、九州・博多の有名な明太子をまたまた友人から頂いた。「これは日本酒に最高のつまみだ!」と、早速・・・晩酌となった私。辛さと風味がたまらなく・・・・日本酒(冷酒)に合う明太子は刻んだほう葉と共に今宵少しずつ頂いた。「ご馳走様です!」


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【六月の三/げんき米PがDVDに・・・!】6月6日(水)

 このところ、何気ない毎日が風のように過ぎて行く(完全なパクリだ!中村雅俊から文句が来るぞ!!!)
 街中の人の流れや、車の流れが・・・・当たり前の光景になっている。歩く人たちが手にしている何十いや、何百もの携帯電話の着信音までもがこの福井駅前において、賑わいの一つになりつつあるようである。
 生まれた時から遊び場として馴染んできたこの駅前の町並みだが、時代と共に少しずつ様子が変わってきた。
 店の後ろに建つワシントンホテルだが、昔は佐佳枝廼社があり・・・・その鳥居の前(繊協ビル前)には多くの店や住まいが立ち並ぶ御屋形町があり通称・仲見世(なかみせ)と呼ばれた一角があった。
 そうそう明道中学校の通学路には今はフェニックスプラザがあるのだが・・・昔は市場(現・大和田)があり、朝早くから多くの仲買人や問屋さん、そして小売商の人が行き来して野菜や魚をリヤカーや車に積み込んでいたのもだった。何だかそんな昔の頃をふと思い出すと懐かしく感じるものである(君は・・・年寄りか!)
 そんな市内中心部から・・・やっぱりお気に入りの場所、高須町の事は私の心を癒してくれる。別に妄想癖があるわけじゃないのだが、時間があれば「今頃・・・心地よい風が吹いているだろうなぁ・・・」とか「皆さん、田んぼや畑に精を出しているだろうなぁ」と、ついつい考えてしまうのである。
 今春、高須城小学校の休校により少し寂しい想いの高須町の皆さんだが、棚田行事の時にはそんな顔を微塵も見せず私たちオーナー参加者に明るく応対してくれている。そんな高須町の皆さんに何か明るい話題でもないものかと、頭を捻っていた私だが、意外にもそれは植木御大のご自宅にお邪魔した際に発見したのだった。
 植木御大宅の応接間にあった段ボール箱、その箱の中には同じラベルのDVDがあり・・・「ん!何だろう?」と、ついつい興味を注がれた私だった。「植木さん、これって・・・まさか?」と、植木御大の顔を見ると「できたんや!」と、嬉しそうに答えた御大が顔をほころばせたのだった。
 私はそのDVDを一つ手に取り・・・まじまじと眺めたのだった。少し大げさかもしれないがその時私の手は微かに震えていた(そりゃぁ・・・大げさかも!)
 ラベルには〔げんき米プロジェクト・高須城ものがたり〕《おいしいコシヒカリができるまで》と書かれていた。
「ついに・・・できたんですね!植木さん」と、私が話すと「そうや・・・ついにできたんや。みんなのお陰や!」と、答えてくれた御大だった。
 実はFBCげんき米プロジェクトが放送された一昨年の春だったのだが、その年の夏から秋の事だったのだが、この放送を子どもたちの教育資料にできないかと・・・ビデオかDVDに纏めたいと植木御大が話していたのだった。
 FBC福井放送の協力を得てついに完成したこのDVDには植木御大高須町棚田オーナー委員会のみなさんの優しい心が詰まっているものだった。
 福井市内の小中学校すべてに無料配布されたというこのDVDは必ず子供たちに農業に対する教育の入り口となるのだろう。


△男の酒のつまみ・・・254
 ウニ・くらげ???
 私が子供の頃から何気なく食べていたものの一つにオレンジ色のウニくらげがあった。「くらげ??」と、こどもの時に不可解に疑問視していたものだが、ついついその美味しさにその疑問もどこかに吹き飛んでいた。
 そして今日、スーパーの海産物コーナーの棚にそれはあった。「懐かしい!」と、当然買い物籠に入れた私。そんなに量は入っていないのだが・・・それはそれでいいのだ。
「今夜はこれで決まり!」と、小鉢にそのウニくらげを盛り・・・・箸で少しずつ口で味わう。ウニの美味しさとくらげのコリコリとした食感「うん!昔のままだ」と変わらぬその味に何故か昭和の懐かしい時代が思いだされた。日本酒に最高のつまみとなり・・・今夜は深酒となりそうだ!(毎晩の事だ!)


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【六月の四/此処は・・・・何処?】6月14日(木)

 今年の福井の梅雨もやはりジメジメとしている(もう梅雨入りしたのかな?)。しかし、例年より少し暑く感じているのは私だけだろうか。高須町の棚田での田植えから数週間が過ぎ、これからの時期は降雨量日照不足とかが心配になり秋には見事に頭も垂れる稲穂だが、それでも台風が多い九月ぐらいまでは「どれだけ苗が成長したのかな?」と、私もオーナーの皆さんも気になるところだ。
 そこで、ついでとばかりそのまだまだ幼い棚田の苗の様子を見に行こうと車を高須町に向けていた私(ついでで高須町に行くな!)
 小雨の中、棚田へ向かう高須町の道。そして必ず徐行してしまう高須城小学校の前、「誰かいるかな?校舎に灯りはついていないかな?」なんて、ついつい車の中から目を凝らしてしまう私だった。当然のことながら校舎には人影もなく、ただ校庭を覆いつくすように伸びた雑草が・・・「ここは春から・・・休校だよ!」と言うことを現実に物語っていた(何だか・・・寂しいですね!)。  学校前から棚田に着くと、小雨の影響なのか少し爽やかな風が私の頬に感じられていた。「やっぱり、ここはいいなぁ!」と、誰もいない棚田で両手を挙げて・・・深呼吸!そして、後ろを振り返ると、高須山が綺麗な姿を見せてくれていた。そんな時、その高須山人影が見えた。「嘘!雨だと言うのに登る人はいないだろう・・・!」と、見間違いの私(何か嫌な予感!)
「まさか・・・お盆でもないのに、畑時能(はた・ときよし)が室町時代から舞い降りたかな?」と、妙な事を考えていた私だった(おいおい!稲川淳二は夏オンリーだよ!)
 棚田のあぜ道に腰を屈め次男や私が植えた可愛い苗を見ていると時の経つのも忘れ、先程まで目の前にうっすらと見えていた高須山もこの時すでに視界から消えていた。夕方から夜になり誰もいない棚田には時折・・・優しい風が吹きつけていた。木々の葉が揺れ、その葉音や草の音が私の耳には何か別の音に聞こえてくる(少し怖いかも!)
 虫嫌い!蛇嫌い!の私にとって暗闇のあぜ道はすでに限界となっていた(君は自衛隊出身だろ!!!)「イノシシならいいさ!でも蛇だったらアウト!」(普通は逆!)と、訳のわからない事を言いながら足元に注意しながら車に戻った私。車の時計はすでに8時前となっていた。
 まだまだ霧雨のような弱い雨が目の前でワイパーと格闘していた。暗闇の中、徐行しながら棚田から高須町集落センターに下りてきた。
「まだ、誰も来ていない!」と、集落センターの灯りを確認しながら駐車場に車を止めた。夜の高須町に何の用事???と皆さん不思議な想いをされているのだろうが、実は今から地元高須町の皆さんとある会合を持つことになっているのだ。
 実は今から10日ほど前だったか、仕事中の私の携帯電話が鳴った(そりゃ・・・鳴るだろう!)。発信者を見ると何と・・・植木御大からだったのだ(直ぐに出ないと!)
 慌てて電話に出た私に御大から少し嬉しいそして驚く言葉が耳に飛び込んで来たのだった。
「学校(高須城小学校)が休校になり・・・今年はどうしようかと考えていたんだが・・・運動会の開催を!藤田さんはどう思う?」と、植木御大がゆっくりとした口調で語って下さったのだ。
 この時、私の頭には偶然にも時を同じくして同じ事を尋ねられた、数週間前のある二人の言葉が思いだされていた。一人は棚田オーナーの方で「今年は、学校が休校になり運動会は無いですよね?毎年楽しみにしていたんですけど!」と、お電話を頂いたのだ。そして、もう一人は「お父さん・・・高須の運動会、今年はやらないのかな?寂しいな!」と、何度も尋ねてきた・・・・次男だった。
 そんな事もあり・・・「植木さん・・・やりましょうよ、運動会を!」と、即座に答えた私だった。明治から131年存続した学校、地元の皆さんに親しみ愛され続けてきた学校、何か事ある毎に町の皆さんが集まってきた学校がこの春から休校となり・・・・高須町の大きな大きな柱が無くなってしまったようにも感じられる今年だから・・・だからこそ地元の皆さんに少しでも活力となるように、笑顔になってもらいたい・・・そして「今年もいつもと同じだよ!」と、感じて頂きたい・・・そんな想いが私にはあったのだった。
 御大からの電話、その数日後「運動会を開催するよ!」と、再び嬉しい電話を頂いた。ついつい「有難うございます!」と、答えた私だった。そしてこの後、植木御大から「藤田さんも運動会の準備実行委員になって欲しい!」との要請を受けた私、その初の運動会準備委員会がこの日集落センターで開催されるのだ(少し・・・緊張です!)
 車を駐車場に止め、筆記用具やここ数年の高須町関連資料と携帯電話、それに最近必ず必要とする眼鏡(老眼かな?)を手に持ち、集落センターの前に歩いた私。灯りの無い神社と集落センターの前に一人佇む私だが、大の大人が何だか心細くなっていた。
「時間を間違えたかな?それとも日にちを間違えたかな?」と、あれやこれやと暫くの間悩んでいると、駐車場の向こうから足音が聞こえてきたのだ。勿論、この暗闇では姿は見えず・・・・ただ、コツコツと靴音のみ近づいてくるのだ。「まさか、畑時能(はた・ときよし)の亡霊?」何てまたまた嫌な事を考えていると「お待たせしました!」と、聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ(よかった!)。声の持ち主は、高須町青壮年会長の畑さんで・・・あっ!やっぱり・・・繋がりか!(高須町は「畑」の姓は多いのです!)
   畑さんが集落センターの鍵を開け、ようやく待ちわびた灯りがともった。畳に座り、畑さんと世間話をしていると地元の婦人会の代表の方や青壮年会の皆さん、そして自治会の代表の方・・・そして・・・植木御大の登場となったのだ。
 畑さんの司会で運動会の段取りや競技内容など順次決定していく。しかし、やはり高須城小学校の休校は・・・この運動会開催にも大きな問題となっていたのだった。昨年までなら小学校の先生方に頼っていた部分が大部分だったため、競技に使用する道具の有無など全く分からないのだ(小学校の鍵は高須町には無いのです!)
 そこで会議中に何度も学校の備品等に一番詳しい藤川教頭先生石黒さん(お二人とも元・高須城小学校の先生で現在は本郷小学校に勤務されています!)に携帯電話で確認していた私だった(夜だと言うのにお二人とも親切に答えてくれました!)
 会議は続き、校庭の伸びきった雑草の草刈はいつ作業するのか、また、数ヶ月使用していない学校の下水道(トイレ)などの状況はどうなのか、運動会の景品の買出しはいつ行うのか・・・などなど、やはり運動会の主催者側は大変な労力が伴うものだ。
 ふと、時計を見ると9時を過ぎていた。来週にまた最後の打ち合わせをする事にしてこの日の会合を終えた。
 集落センターを出ると、小雨はまだやまず・・・加えて高須町をすっぽりと覆いつくしていた。街灯などのない山道の帰路は少し心配となっていた私だが、この時は躊躇することもなく、あの一年前のゴルフ場からの道路崩落以後、お気に入りの清水平への近道を選んだ私だった。
 この道のカーブの場所そしてカーブの深さはほぼ全て私の頭にインプットされていた(本当に?!)。しかし暗闇に小雨、そして濃霧が狭い山道を消していた。私は「徐行・・・徐行」と、独り言を言いながら視界数メートルの山道に挑戦していた。この道では対向車はまず来ない!だから少しスピードを上げるかと、アクセルを踏んだ瞬間だった。
 目の前に対向車のライトが飛び込んできた。急ブレーキをかけ路肩ギリギリ(横はすぐ崖!)に寄る。「こんな時間に誰だ?高須の人か?」何てブツブツ言いながら対向車をやり過ごすと・・・・その車は仕事帰りの佐々木さんの車だった(おそらく?)。普段ならお互い車を止め、窓を開け「今、帰りか?」「ほやって!」「今まで集落センターで運動会の会合!」「ほうか・・・大変やの、お疲れさん!」などと挨拶の一つや二つ交わすのだが・・・・今はそんな余裕は無い。おそらく佐々木さんも目の前に現れた私の車に驚いたはず(お互い様か???)
 佐々木さんの車をバックミラーで見ていた私だが、その佐々木さんの車は直ぐに霧の中に消えていった。またまた車を走らせた私だが、視界は益々ひどくなるばかり、「こんな所で事故(転落)でも起こしたら、携帯は通じないし・・・大変な事になる!」と、再び徐行状態となっていた(悪戦苦闘でした・・・この時は!)
 15分程走った頃、自衛隊出身者なら地理方位感覚は一般人より優れていると言う変な自意識過剰も手伝い「もうすぐあの一軒屋がある場所だ、そこまで走れば問題無い!」と、この時の私は安易に考えていた。
「もうすぐ・・・もうすぐ!左手に民家の灯りが見えるはず」そんな事を言いながらすでに10分は走っていた私だった。
 すると目の前の道路が突然狭くなってきた。「あれっ!こんな処にこんな垂れ枝があったっけ?」と、不思議に感じていた。益々狭くなる道路・・・・左手にあるはずの民家も見えてこない。しかし、「いつもより、ゆっくりと走ってきたからまだだよな!」と、自分に言い聞かせていた私。それでも一抹の不安も当然のことながら・・・・あった。
 見覚えの無い木々が両脇に続いていた。その時「ここは・・・どこ?」「完全に道を間違えたな!」と、思った瞬間だった。そして目の前に〔中平〕の案内標識が車のライトに照らされ見えた。
 小雨・濃霧により視界が悪いとは言え、道を間違えた自分に腹が立っていた(意外にも変なプライドが・・・!)。狭い道・・・・そんな中で車を方向転換した。切り返し5回。今度は来た道を逆走するのだが、一度無くした自信は目の前のこの道を・・・この時間を恐怖なものとしていた。
 ようやく道標となる一軒屋の民家がうっすらと右手下に見えてきた。すると・・・どうやらお留守のようでその民家からは灯りが毀れていなかったのだ。航行する船舶が灯台を頼りにする心境が良く理解出来た(???)瞬間だった。
 民家を過ぎ、その横にある白山神社に軽く会釈をし安堵の中・・・車は旧・上郷小学校跡地(現・馬術クラブ)を目指した。ここに来ると、小雨はあるものの霧は弱くなっていた。
 いつもなら自宅から高須町まで20分の道のりを・・・・1時間近くかかったドライブとなったのだ。
 帰宅後、携帯電話で田中先生にその話をすると「いやぁ、ご無事でよかったです!あの道は夜間は怖いですからね、ましてや濃霧ですから」と、心から心配してくれたのだった(本当に優しい先生です!)
 そして、今度は風呂上りのに話すと、濡れた髪をバスタオルで拭きながら「そうなの!大変ね!・・・・・・」でした(他に言葉は無いのか!)。夫婦生活も二十五年経つと・・・こんなものなのか!
 それにしても、今宵は妙な事ばかり起きたものだ。明日は朝一番でお仏壇にお参りしなければ・・・・ね!そうそう・・・畑時能さんのためにもね!


△男の酒のつまみ・・・255
 ゴーヤの空揚げ!
 最近ではどこのスーパーでも見かけられる沖縄の代表とされる野菜ゴーヤ。その苦さがたまらない・・・と意外にもゴーヤファンは多いのだ。
 そのゴーヤを使った料理と言えばゴーヤチャンプルが有名なのだが、やはりゴーヤは苦手だ!と言う人にお勧めしたいのが、空揚げなのだ。勿論、中の実?を綺麗に取り除き厚さ2ミリ程度の薄切りで切っていく。
 後はサラダ油(中温)1分程度揚げる。油切りをしたらをふりOK!
 これから迎える夏に冷えたビールの最高の一品となる。


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