高須城日記V(早春編)


(平成十八年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)





【三月の一/高須町にまた勲章が!】3月1日(木)

 私がまだ幼かった頃、「ねえ、どうして一年は365日と366日があるの?」と、父や母に質問していた。4年に一度訪れる閏年、その閏年を聞くとまたまた「じゃぁ、2月29日に生まれた人はどうなるの?誕生日のお祝いは4年に1回だけなの?」と、こんな事を不思議なくらいしつこく聞いていたのを記憶している(私だけかな?)
 4年間で一つだけ歳が増える???なんて馬鹿な事を考えながら「じゃぁ、8歳の子は2歳だね!」と、自分で変に理解していたから笑ってしまうものだ。
 2月29日生まれ、戸籍上では3月1日生まれとなるらしいのだが、4年に一度のその日に誕生する確立は相当にあると言うのだ(そりゃそうだ!)
 ・・・暦の上で一年の日数や月数が平年よりも多い事。暦の上の季節と実際の季節とのずれを調節するもの。太陽暦では一年を365日とし、地球の公転周期365日5時間48分46秒との差を四年に1回、二月を1日多くして29日とすることで調節する(辞林より)
 さて、今年ももう三月に入りいよいよ高須町も少しずつ活気をおびてきた。雪の無かった今年の冬、例年よりは多少行動範囲が広くなっていた高須町の皆さんだが、呑気な私から見れば「何しに行くの?」と言ってしまいそうなくらい、毎日田んぼにと勢力的に通勤???されていたのだ。
 そんな高須町の道で車を走らせていた私だが、顔馴染みとなったお婆ちゃんに挨拶すると「藤田さんけ?今日は何処いきなさるんや?」と、質問された。「ちょっと、棚田の写真を撮りに・・・」と、答えると「学校(高須城小学校)が無くなるんで・・・寂しい話やのう・・・」と、突然話が変わり、やはりこの町のシンボルであった小学校の休校問題は寂しい影を落としているようだ(私もです!)。一つの町に一つの学校として長い歴史の中に人々を育んできた高須城小学校、その最後の卒業式は・・・今月16日に行われる。
 時の流れの中で多くの子供たちが学び、泣き笑い、思い出をこの木造校舎のひとつひとつに残してきた高須町の子供たちにとって、その学び舎から子供の笑い声や歌声が無くなることは無念の一言だろう。
 いつか高須町植木御大が私に話してくれた「この学校は昔から私たち住民にとって、高須町の高須城小学校ではなく、高須城小学校あっての高須町なんだ!」と。
 おそらく最後の卒業生となる答辞を読む光くん(6年生)と、最後の在校生として送辞を読む岬ちゃん(5年生)のそれぞれの思いが高須町の皆さんの心を打つものになるだろう。16日の卒業式には高須町の皆さんも出席されると聞いている。そして地元放送局新聞各社も取材に訪れると石村校長先生から伺っている。巣立つ光くん(棗中学校へ進学)岬ちゃん(棗小学校に転校)と共に、一人一人の母校を懐かしむ思いや募る思いが・・・この日、高須町の歴史の1ページとなるのだ。
 何か・・・小学校の休校問題で悲しいムードになってきた私だが、今度は高須町明るい話題を書くことにした。それは昨日の新聞紙面に高須町が表彰されたことが掲載されていたのだ。
 詳しく紹介すると、2月27日JA福井市農協会館において「元気なふるさと福井の農業」推進大会が開かれた。この大会には県内の認定農業者や集落営農組織の代表者、県や市そして町から約500人が参加したのだ。そしてこの大会で〔福井県農林漁業賞・活性化部門〕高須集落活性化モデル推進協議会が受賞したのだ(おめでとうございます!)
 昨年も北陸農政局長賞を受賞した高須町だが、二年続けての今回のこの受賞は、高須町の皆さんの日頃の努力が認められた嬉しい話題となったのだった。


△男の酒のつまみ・・・227
 菜の花と生ハムサラダ!
 今が旬の菜の花は色々と調理法があるのだが、ここは新鮮素材を生かしてサラダにしたい。
 菜の花は軽くボイル(塩少々)し、茹で上がり時に少しの醤油で軽く混ぜる。
 生ハムは食べやすい大きさにちぎり、後はお好みのドレッシングで頂く。白ゴマをお忘れなく!
「美味い!これぞ・・・春ですよ!」


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【三月の二/高須山道に可愛いメッセージ!】3月3日(土)

 今年は早い春の到来と少し浮かれ気分だった私だが、ここ数日の天気図を見ていると・・・何やら冬型の天気図になりかけていて、どうやら「雪!」予報となっている。この雪予報には「もう、今年は降らないから!」と、ノーマルタイヤに交換していた「嘘???」と、がっくり肩を落とし何か一人でブツブツ文句を言っている。妻と車・・・だが、妻が洗車をすれば必ず翌日は・・・・雨が降り、遠くへ車で出かけると必ずそこは・・・嵐となっていた(日頃の行ないだよ!)
 実際問題として、北陸地方の人間は生まれてから慣れているはずのなのだが、たまの雪となれば・・・話は別となり、転びはしないが積雪時の歩きはそれなりの重心移動を心がけ・・・運転中はそれなりに、ノロノロ運転で車間距離を空けることになるのだ(当然か?!)。まあ、どちらにしろ心が春模様に突入し始めていただけに、この雪予報には寒の戻り・・・ならぬ、心戻りが必要になってきた。
 そんな事を考えながら朝一番、いつものようにコーヒーを飲みながら新聞を開いていたのだが、目に飛び込んで来たのは・・・・何やら見慣れた四人の顔が写った写真だった。
「ん・・・何で???」と、朝早い為か頭の回転が今一働いていない私(いつもの事だよ!)。記事を読まずにその四人の写真ばかり見つめていたのだ。
「これは・・・光くんで、岬ちゃんで・・・これが畑先生と・・・藤川先生だよな!何で?」と、まだまだ理解不能状態の私だった(起きろ!)
 あくびを一つ、そしてコーヒーを一口、めがねをかけ、煙草に火を点けた。ようやく目が覚めた私はここでその記事に集中することができたのだ(ん・・・遅い!)
《3月3日付、福井新聞》
 見出しは・・・道しるべに思い出託し「来月休校・高須城小(福井)」最後の児童・高山君、天谷さん〔地元登山道に看板設置〕と、なっていた。
 古里の山に永遠の思い出を・・・。全校児童がたった二人で、本年度いっぱいで休校になる福井市高須城小学校(高須町)の児童が地元の山の道しるべを作り二日、登山道に設置した。学校や周囲の自然への思いを看板に託し、二人は最後の卒業式、修了式を迎える。
 児童は、高山光君(六年)と天谷岬さん(五年)。同町のシンボルでもある高須山(標高四三八b)は、見晴らしもよく、中腹にある同校を拠点にした気軽なハイキングスポットとして静かな人気がある。同校からは四十分ほどで頂上にたどりつくことができる。
 登山道には現在、十年前ほどに同校児童が作った道しるべがあるが、損傷が激しく文字も見えにくくなっていた。休校を前に形に残る思い出をつくろうと、児童と担任の藤川純一教頭が相談し、道しるべの取り付けを決定。一月下旬から図工や総合的学習の時間を使って製作に励んできた。
 作製した道しるべは十八枚。縦十五a、横四十aの木製で「お疲れ様 山頂です」「下山道 気をつけて」など、矢印や行き先のほかに思いやりの言葉も添えた。裏には「二〇〇七年三月 高須城小学校」の文字と二人の名前を刻んだ。
 この日二人は、藤川教頭らとともに山に登り、頂上付近や分岐点などに計十枚をしっかりと取り付けた。
 天谷さんは「作るのは大変だったけれど、立ててみると作ったかいがあった」と笑顔。高山君は「初めて来た人の役に立ってくれればいいな」と話していた。
 残りは順次設置し、最後の数枚は十六日の卒業式と二十三日の修了式で町民に披露してから、集落内に取り付ける。
 同校は、同町のみを校区とする全国でも珍しい学校だったが、過疎化の影響で新年度は児童が一人となるため、休校が決まった。(終)
 高須山(子供たちは城山・じょうやま・と呼んでいる)光君岬ちゃん道しるべが・・・・。それほど高くはない高須山だが、いざ登ってみればこれが意外に足に堪えるのだ(運動不足だよ!)
 今年元旦ご来光をと寒さの中、田中先生デジカメ持参で登ったのだが、途中の美しい景色に足を止めた(本当は休憩です!)ものだが、今度はその道しるべと出逢うのが楽しみになってきた。18本の可愛いい「道しるべ」・・・今度はそのひとつひとつを取材しなければ・・・・ね!田中先生!


△男の酒のつまみ・・・228
 ウインナーの白菜包み!
 簡単レシピの紹介です。ウインナーソーセージにあら挽き胡椒を少しふりかけ、これを白菜半分で包み爪楊枝で白菜が広がらないようにさす。これを約3分ボイルする。後はゴマダレポン酢かお好みのドレッシングで食べるだけ!そのままでもOKです!かぶりつくと・・・白菜の甘みが美味しく・・・中のウインナーの歯応えが・・・たまりません!


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【三月の三/寒の戻りに・・・!】3月6日(火)

 昨晩の深酒が残っていた。「気持ち・・・悪い!」と、布団の中で浅い眠りの私だったのだが、何やら外ではカン・ドン・キン・・・と、金属音タイヤの音が私の耳に入ってきた。まだ・・・瞼は閉じたままの私だが、それでも頭は徐々に活動をしていた。「ん・・・隣のおんちゃんが雪で、またまたタイヤ交換か?ご苦労様です!」と、独り言を言いながら・・・活動し始めた頭を再び休憩中へと戻した私(起きろよ!)
 しばらくすると隣の部屋から、そして下の台所からテレビの音が聞こえている。「うるさいな・・・ボリュームを小さくしてくれよ!」なんて言いながら布団をすっぽり被った私。
「起きて!もう七時半ですよ」妻の声で・・・仕方なく起床となった私。ふらつく足で隣のリビングに移動し、炬燵の中に肩まで入った。妻が入れてくれたコーヒーを飲みながらテレビの気象情報を見ていた。
「雪・・・積もった?」と、妻に聞くと
「うん!ノーマルタイヤでは危ないわ!」と、答えた妻。そこで
「朝早くから、隣のおんちゃんがタイヤ交換していたな!もう少し静かにしてくれればなぁ!」と、私が話すと
「うるさくてごめんね!交換していたのは・・・私!」と、妻(この後、約10分・・・沈黙の時を過ごしていた夫婦!)。  しばらくぶりの降雪に、市内の道路では車は徐行運転となり、その横を逞しく高校生が自転車を走らせている(危ないよ!)ガソリンスタンドではタイヤ交換待ちか、何台もの車がスタンバイしている。
 粉雪?ささめ雪?空からハラハラと雪が舞い落ちている。そんな中、私の前を母校(明道中学校)の生徒たちが通学して行く。三年生男子が二人・・・歴史の話をしながら歩いている。そう・・・今日から県立高校の入試が始まるのだ。少し、厚手のコートを纏い・・・マフラーを首に・・・口にはマスクで風邪予防(頑張れよ!!風邪ひくなよ!)
 毎年平均倍率・・・1.0?倍の高校入試だが、県内少子化となっても募集定員がそれに伴うため変わらない。行きたい高校に行かせれば・・・なんて思うのだが、合格の発表まではハラハラ・ドキドキ落ち着かない受験生とその家族なのだ。あっ!中学の先生達もですよね(ねっ田中先生!)
 雪は・・・どうやら大雪とはならないみたいで、お昼過ぎには青空が見えていた。住宅街の狭い道には、まだまだ雪が積もっているのだが、環状線などの幅が広い道路などでは、すでに雪はタイヤの熱や融雪装置などで消えつつある。
「今日は・・・暇(仕事)だな!」と、次第に強まる風に呑気にテレビに気をとられていた私。そんな時、店の電話が鳴ったのだ。「修理を頼みたいのですが!」と、年配の男性からの電話だった。古くからのお得意様だが・・・そのお宅は、海岸沿いの福井市・鮎川町だった。
 心配な雪だが、時々思い出したように降ってくる。店の車はノーマル・タイヤで、タイヤ交換をすべきかいなか迷っていた私(早く、交換しろ!)
 しかし、「大丈夫!・・・だろ???」と、雪道運転が大好きな私は、タイヤ交換を悩みつつも「面倒くさい!」が優先して・・・そのまま鮎川町まで車を走らせたのだ。
「何とかなるさ!」と、車のスリップをも考えながら途中何箇所かで「やばい・・・!」と、強くハンドルを握った事もあったのだが40分後には無事に目的地の鮎川町に到着したのだった。
 冬の日本海は風の強さからか、白い波が強く岩肌に打ち寄せていた。途中の堤防では何人かの漁師さんだろうか頭ににぎりタオルで口には煙草を咥えながら海を見つめていた(やっぱり・・・絵になるな!)「この風では漁はできないよ!」と、通りすがりに素人の私が偉そうに独り言。
 鮎川滞在5分・・・再び車を市内中心部へと走らせた。鮎川から鷹巣まで来ると、そこは高須町への分岐点。「ついでに高須に行くか!」と、余計な事を思い付いた私。だが、この数分後には止む無く高須行きを断念することになっていた。その高須町までの坂道・・・雪が・・・多いのだ。車はカーブの度に見事にスリップしていた(おいおい!)
 通行量が少なく、道幅の狭いこの道を利用して、私は雪だまりにタイヤをつっこみながら数回の切替しで方向転換に成功した。昨年末から今年、例年より雪は少ないものの雪が降れば生活道路として毎日この道を使う、高須町の皆さんや小学校の先生方、また、郵便局の配達員さんや新聞配達&宅配便の人は大変だろうな・・・なんて他人の事を心配しつつ、車中から高須山の頂雪景色を見ていた私だった。
 雪が降れば、大好きな高須町へと通う回数は減る私、出来ればこの寒の戻りの雪は続かないで欲しいと心から願うものだ。


△男の酒のつまみ・・・229
 厚揚げと小松菜の煮物!
 厚揚げを八等分(一口代)に切り、小松菜は茎と葉に分けて切る。鍋に水・お酒・味醂を入れ、次に厚揚げを入れて中火で煮る。一度沸湯したら醤油で味を決める(少し甘めが美味しいですよ!)。味が決まれば、弱火にして小松菜の茎を入れ5分後にを入れる。揚げに味が浸み込めば出来上がり。この煮物は茄子を入れてもいいですね!今宵は・・・熱燗ですね!


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【三月の四/新人記者は、高須町が大好き!】3月10日(土)

 まだまだ天気図冬型が続いていて、多少の降雪は予想されるのだが・・・新聞各紙はすでに「桜の開花予想」が載っている。「今年は、早い?・・・遅い?」と、毎年のように短い桜花時期を心配するのだが、卒業式から入学式までの間は美しいピンクの花は咲かせていて欲しいと想う私(卒業式と入学式には桜が似合うからね!)
 来週にはその卒業式が相次ぐ福井市内の小中学校、私が学校評議員として卒業式に参加させて頂く母校の明道中学校は15日(木)で、次男(もうすぐ中学生!)が通う順化小学校高須町高須城小学校は翌16日(金)の予定となっている。旅立ち・・・巣立ちとして表現される卒業式だが、最近では学校毎に色々な工夫がされるようだ。涙が似合う卒業式、「いい卒業式だったね!」と、一生記憶に残る式で卒業生を送り出すのもいいですよね。
 その卒業間近の次男だが、下校の度に学校からの荷物が増えている。大きな紙袋を抱えながら「これは・・・あれ!これは・・・あの時!」と、ひとつひとつが思いで深い大切な小学校生活の品のようだ(いつまでも、大切にね!)
 そのひとつひとつの品物を自分の部屋で飾っている次男だが、部屋のハンガーには中学生として毎日着るだろう学生服が掛かっている。少し大き目の学生服だがしばらくは違和感のある学生服姿に戸惑う私になるだろう。
 よく風邪をひき小学校に「休みます!」と、交互に先生に電話をしていた私と妻だが、出来れば皆勤賞?を願う春からの中学校三年間である(やっぱり・・・無理だよね???)
 インフルエンザによる問題のタミフル投与も・・・何事も無く治った次男だったのだが、そのインフルエンザで学校を休んでいた時の二月末の事だが・・・・私がその次男に付き添うため(タミフルを服用)自宅にいると店の母から電話があった。「今、新聞社の人が来て話を聞きたいらしいんだけど・・・どうする?」と母。どうやら高須町に関連して私と次男の話で記事にするらしいのだ。
 数分後、店から自宅に車で来た記者だが若く逞しい身体の持ち主の記者だった。私と次男が高須町の事で新聞社の取材を受けるのは昨年に続き二回目だった。応接間に記者を招き、まずは名刺を頂いた私。地元新聞社社会部のこの記者だが大きな身体からは想像できない笑顔が似合う若者だった。
 コーヒーを飲みながらまずは雑談から始まった。「出身はどこ?」「歳はいくつ?」と、私の方から得意の逆取材。しかし、その質問にもひとつひとつ笑顔で丁寧に答える記者だった。昨年まで同新聞社高須町を何度か取材していた Y記者(現・小浜支局)もそうだったのだが、今風の若者に似合わない真面目な誠実な記者なのだ(誉め過ぎ???)
 私が高須町HPに携わるまでの経緯や、棚田オーナーとしての感想などを取材ノートにメモすると「5分で終わりますから、息子さんとお話したいのですが!」と、話す記者にインフルエンザ三日目の微熱の次男がパジャマ姿で取材を受けた。高須城小学校の二人の児童(光くん岬ちゃん)のこと・・・棚田でのお米作り・・・高須町での自然との触れ合いなど少し緊張しながら話す次男。
 その記者と次男の話も予定の5分で終わり、またまた私と記者での高須町雑談となったのだが・・・ここで私はある事に気づいたのだ、それは「この記者って・・・高須が好きなのでは?」だった。私が「高須町にいると癒される!」と、話すと「そうなんです!あそこ(高須町)に行くと時間が止まっているんです」と、答える記者。「何も無いから、それが逆にいいんだよね!」と、話すと「あの町の全ての自然で十分なんですよ!」と、語る記者だった。
 私の前にいる一人の若者!高須大好き人間がまた一人仲間となった瞬間だった(うんうん!)
「是非、田中先生とお逢いしたいのですが!」と、話す記者に「じゃぁ・・・次回は飲みながら三人で!」と、約束した私に最後まで笑顔を崩さない新人記者にお互い携帯番号を交換してのこの日の別れだった。
 そして本日の夕方、自宅の応接間にその三人がいた。勤務中の記者に学校帰りの田中先生、約束のお酒は飲まないものの、どこまでが取材雑談か区別のつかない三人の会話だが、すべての会話は高須町の事だった(高須町の話は尽きないのです!)
 五十代の田中先生と私にまだまだ若い二十代前半の記者という、傍から見れば不釣り合いの三人だが・・・高須町が取り持つ縁で・・・ひとつになっていた楽しい数時間だった。
「パソコンを前に・・・お二人の写真を!」に、少し照れながらポーズとなった田中先生と私だが、中年男二人の醜い笑顔???にも真剣にシャッターを押す新人記者がいた。
 今回、鷹巣地区(高須町を含む)特集としてその中のひとつに取り上げられる田中先生と私そして次男の取材だったのだが、この取材記事が高須町魅力を多くの読者の皆さんに上手く伝わるように願う私だった(編集してね!)
 高須町・・・大好き仲間がまた一人増えた今回、近々お酒を飲みながら語ろう・・・と、硬い約束で帰路に着いた田中先生新人S記者だった(次回は大宴会だぁ・・・!)


△男の酒のつまみ・・230
 ジンギスカン!
 揚げたてのコロッケ食べたい!と、近所の肉屋に行った私だが、ふとウインドウを見ると福井では珍しい羊肉が売っていた。「おっ!」と、声を上げた私はすかさず「ラムを500とマトンを500!」と、注文した。
 懐かしい北海道時代を思い出し何十年振りのジンギスカンとなったのだった。
 しかし、材料は本場のように揃わずスーパーで人参キャベツモヤシニンニクの芽玉葱を買った。当然、ジンギスカン専用鍋も無くフライパンで帳尻合わせ、タレもスーパーで買う。
 マトン(大人の羊)「臭い・・・!」と、敬遠する人が多いのだが、これが羊肉なのだ。ラム(子羊)の癖の無い柔らかさもやはり美味しい!
 北海道時代、一週間に二回は食べていたジンギスカンに遠い若かりし頃を思い出した私だった。「ビールが旨い!」


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【三月の五/七年連続の・・・卒業式!】3月15日(木)

 朝7時前、少し贅沢?だが私は朝風呂に浸かり身体を清めていた(心も清めろ!)温泉旅館でも宿泊しない限り、朝風呂なんてとてもとても出来はしないのだが、今日は特別な一日なのだ!・・・・そう、平成十八年度明道中学校卒業式の日だからだ。長男が明道中学校を卒業したのは四年前、そして今年のからは次男が入学する。因みに、私が卒業したのは何十年前になるのだろう???昭和45年だったかな???(計算するのも嫌になる!)
 そんな事を湯船に浸かりながら考えていると時計は7時を過ぎていた。慌ててお風呂場から部屋に戻ると妻が礼服を用意していた。新しい下着を着て・・・そのまま鏡の前で御髪のセット、少し伸びた髪に「散髪に行けばよかったかな!」と、遅かりし後悔(毎度の事!)
 ドライヤーで髪を乾かし、ついでに伸びた髪を後ろに梳かす。だが、こんな時に限っていつもの髪型にはならず、少しの焦りとなる中年男。後はポマードで誤魔化すしかないのだ。
 ハンガーからYシャツ・・・そして白のネクタイを取り、そのまま妻の鏡の前でハイ・ポーズ!(なんじゃ、そりゃ!)
 一年間の中で冠婚葬祭と、たまにしか着ない礼服だが・・・これがまた似合うのか?・・・似合わないのか?いずれにせよ最終的には「はい、OK!」と、妻の愛情たっぷり???のチェックを受け車に乗り込んだ。
 学校からの案内には〔8時45分までにお入り下さい〕と、書いてあったのだが、今日は少し早く着きそうな時間となっている(何事も余裕を持って!)
 我が母校、明道中学校・・・いつもの校舎のはずなのだが、どこかこの日はキリリとした雰囲気が漂っている。
 校門を入ると私の前には卒業生の保護者だろうか車の駐車スペースを探している。するとその保護者・・・来賓用の駐車場に車を止めようとしていた(まあ・・・いいか!)。ここでどこからか駐車係のおじさんが現れて「保護者の方は生徒玄関前です!」と、案内した。次に私だが・・・勿論、来賓用の場所へと車を走らせたのだが・・・まあ、礼服を着ていたためすんなりと駐車できたのだ(おじさんの言葉を期待していたのに!)
 車を降り、職員玄関に入ると先生お二人がいる受付があった。「ご苦労様です!」と、先生から挨拶を受けた私。「学校評議員の藤田です、本日はおめでとうございます!」と、挨拶をする。「どうぞ、校長室にお入り下さい!」と、案内された私は「失礼します!」と、校長室に入った。
 だが、やはり少し早い時間のためかその校長室には、まだ一人のご来賓も来られてはいない。ソファーに座り身体温まる昆布茶を頂く。久しぶりのその昆布茶に「美味しい!」と、独り言。すると、「おはよう」と、同じ学校評議員のO氏が来られた。O氏の後、続々と来賓が校長室に入室されてきた。市長代理・市議会議員・校区内小学校の校長や教頭・学校評議員と、ソファーは埋まっていく。
 そして、昨年のこの日もそうだったのだが春山小学校K校長先生との高須城小学校談議に花が咲いた。「私、高須町大好きなんですよ!時間があればいつでも行きたいと思うのですよ」と、K校長先生。実はこのK先生、以前高須城小学校に勤務されていたのだ。「先日、高須城小学校に勤務した皆さんが集い、色々思い出話に時が経つのも忘れました」と、笑顔で話すK先生。この私とK先生の会話に学校評議員のO氏も加わり得々と、高須町の素晴らしさを説明する私とK先生に回りのご来賓の皆さんも・・・・笑顔で聞かれている。
 この時だが、少し離れた椅子に座る小学校の校長先生がじっと私達の高須町の話を聞いておられた。この校長先生だが、実は次男が明日卒業式を行う・・・順化小学校のH校長先生で・・・何と!!!!!高須町のご出身なのだ(世間は狭いですね!)
 私は次男がお世話になっている校長先生にご挨拶をと思って席を立とうとしたのだが・・・・「それでは、お願い致します!」と、いよいよ卒業式の始まる時間となってしまったのだ。校長室を出ると来賓が一列となり卒業式会場となる体育館に歩いて行く。
 体育館の入り口・・・・粛々とした空気があった。私達の目の前には誰も座っていない二百ほどの椅子が並んでいる。話声はおろか物音一つ聞こえてこない体育館内に一礼をしている。入り口で校長先生と教頭先生の挨拶を受け、ここからは教頭先生の案内で対面にある来賓席まで歩いていく。卒業生が座る多くの椅子の前を歩き、ステージ前から来賓席へと歩いて行く。その途中マイク前で・・・この日、式進行を担当する田中先生と笑顔で軽く・・・無言の挨拶。この時、体育館には私達来賓の足音だけが響いていた。
 約二十人の来賓がそれぞれ在校生と卒業生保護者が座る体育館後方の席に一礼後・・・座席についた。
 七年連続となった、私の母校明道中学校の卒業式への参加だが、この時私は体育館内をゆっくりと見回しながら過去卒業式を思い出していたのだった。平成13・14年度の卒業式ではPTA会長として祝辞を読んでいた。この時点(式前)ですでに大いなる緊張に包まれていた事や・・・広い体育館でこの時期ならではの寒さに震えていたことだ(毎年、色々と思い出があるのです!)
 静かな会場・・・・だが、私の座る来賓席の後ろで先ほどから・・・何やら足音が聞こえる。「誰?報道?カメラマン?」と、振り向くと・・・・・地元・新聞社「高須大好き!」S記者だった(取材中!)。当然、この場では話しかける事もなくお互いが無視状態となっていた(明日、高須で会うからね!)
 午前九時「卒業生入場!」と、田中先生の声で今年の卒業式のプロローグとなった。在校生のまるで自衛隊儀仗隊???のようなキリリとした動きは瞬時で椅子に座ったままの90度方向転換で、卒業生を迎え入れる準備が出来た。保護者、来賓、先生方の眼差しは体育館の入り口に注がれている。在校生席の中央につくられたスペースに卒業生が入場してきた。同時に大きな拍手が鳴り始めた。
 少し緊張の顔の卒業生・・・照れくさそうな顔の卒業生ななどで登場した、この日の主役・・・189名の顔だった。卒業生全員が席に座り、いよいよ第六十回・平成十八年度福井市明道中学校卒業式(卒業証書授与式)が始まった。
 開会のことばの後、国歌斉唱校歌斉唱と全員が大きな声で歌うその声は、大きな体育館の天井に反響して心の中を清らかにしてくれる。国歌斉唱に対しては批判的な意見を論じる人たちもいると聞くが、やはり日本人なら・・・いや、この日本の大地に生を受けたなら、国歌を歌うべきだろう。
 卒業証書の授与が始まった。担任の先生が一人一人の名前を大きな声で呼んでいく。その声に応えるように「はい!」と、返事して起立していく卒業生。そして各クラスの代表一名が登壇し校長先生から証書を授与される。
 卒業証書の最後に読まれる「第○○○○○号」の卒業生の累計番号?だが、二万三千台となっていた。「2万か!」と、この明道中学校の長い歴史の中での先輩や後輩たちの卒業生の人数に少し驚いた私だった。「私の番号は何番だったのかな?」と、またまた余計な事を考えながら静かな授与式を見つめていた私だった(確か?1万1千台でした!)
 学校長式辞が始まった。小林校長の女性校長先生ならではの優しい言葉がこの体育館の全員の心を包んでいた。来賓祝辞では市長代理に続いて、私の二代後のPTA会長が一人の卒業生の保護者として、思い出や先生方への感謝の言葉を述べていく。「卒業生全員が、またこの明道中学校に帰れることを望みます。それはクラス会でも・・・先生になって・・・また、PTA会長として・・・」と、語りかけていく。最後に同窓会会長(明道中学校では50歳となった卒業生が担当する)「35年後(卒業生が50歳を迎えたとき)に、ここで全員が会いましょう」と祝辞を締めくくった。
 来賓の紹介となった。約20名の来賓の名前が呼ばれ、一人一人が起立しながら「おめでとうございます」と、卒業生と保護者の向き、一礼する。これが意外と緊張するのだ。私の順番が近づくと・・・咽の具合を小さく確かめるように「うんっ!」と、咳払い。「学校評議員、藤田幸治様」との案内に少しキーが高めの声で「本日は・・おめでとうございます!」と、挨拶した私だった(何で・・・緊張するのかな???)
 祝電の披露では卒業生に関わった、今は他校に転任されている先生方や小学校の恩師からの言葉が卒業生の心を打っていく。〔卒業生を送ることば〕〔卒業生のことば〕は、それぞれの代表がゆっくりとした口調で先輩への感謝の気持ち・励ましの気持ちや、後輩達に託す言葉・お世話になった気持ち・三年間の思い出など話していく。
 この時・・・気が付いたのだが、私の目の前に座る一人の女子卒業生だが・・・近所の子だったのだ。「大きくなったなぁ!もう・・・卒業なのか!」と、その成長ぶりに驚いていた私。まだその子の顔には少しの微笑が見られていた。
 式歌「仰げば尊し」の合唱の後、全員で「旅立ちの日に」の合唱となった。今、全国の学校の卒業式での定番となりつつあるこの「旅立ちの日に」だが・・・やはり・・・いい歌なのだ。
   
♪ 白い光の中に 山なみは萌えて
  遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ
    限り無く青い空に 心ふるわせ
    自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず
  勇気を翼にこめて 希望の風にのり
  このひろい大空に 夢をたくして

  懐かしい友の声 ふとよみがえる
  意味もないいさかいに 泣いたあのとき
   心かよったうれしさに 抱き合った日よ
   みんなすぎたけれど 思いで強く抱いて
  勇気を翼にこめて 希望の風にのり
  このひろい大空に 夢をたくして

※ いま、別れの時
   飛び立とう 未来信じて
  弾む若い力信じて
   このひろい このひろい 大空に
  ※くりかえし

 歌の終盤で歌う・・・在校生と卒業生の歌の掛け合い?の時、卒業生も在校生も・・・・涙があった。そして、それを見ていた私にも・・・・涙が・・・・!(感動しちゃうんです!)
 ハンカチで涙を拭く卒業生たち、これが卒業式なんです!
 卒業式も終わりの時となっていた。全員が心からの拍手で卒業生を見送っている。鳴り止まない拍手が会場を包んでいる。
「感動したね!」「素晴らしい卒業式でした!」「さすが、明道の子たちですね!」と、来賓の皆さんも涙と笑顔で語り合っていた。
 平成12年度から七年連続の参加となった母校の卒業式、だが毎年毎年・・・感動を覚える私だった。
 来賓が退場し、再び校長室で終えたばかりの卒業式の話題に花が咲いた。「私は○○中学校の出身ですが、昔から順化や明道の市内ど真ん中の学校に憧れていました!」と、語る来賓の方。「そうそう、明道中は昔から長髪でしたよね!羨ましかった!」と、笑顔で中学生当時の事を懐かしむ来賓もいた。
 だが、・・・この5分後には・・・校長室の話題は・・・またまた高須町(高須城小学校)となっていたのだ。
 明日はその高須城小学校の最後???の卒業式となる。「一人の卒業式・・・最後の卒業式」と、多くの報道関係者も集まるだろう。勿論、このHPスタッフも取材に行きますよ!でも、また泣いちゃうかも???お楽しみに!


△男の酒のつまみ・・231
 ミニすき焼き!
 何故だか???たまに食べたくなるご馳走の定番すき焼き。つまみ用にと家族を無視しながら一人前の簡単すき焼きとなった。牛肉(何故か、牛肉だけは三人前!)白菜しらたきおふ焼き豆腐長ネギを用意。市販のすき焼きのタレで・・・・一人満足のご馳走に・・・「最高です!」


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【三月の六/131年目の・・・卒業式!】3月16日(金)

 爽やかな透き通るような青空がこの日、福井市内を包んでいた。「いい天気だな、最高の卒業式だな!」と、昨日の明道中学校の卒業式に続き二日連続の礼服??ではなく、普通のスーツ姿で表に出た私は、暫しその青空を眺めていた。
 朝8時過ぎ、父に「昼過ぎには戻るから!」と、伝言し高須町に車を走らせていた(自営業で・・・よかった!)
 この日の我が藤田家、またまた朝からのドタバタ劇が展開していた。何故なら・・・次男も嬉しい小学校の卒業式なのである。妻は当然・・・次男の卒業式への参加となり、薄情な私は家族の冷ややかな目線の中・・・高須城小学校の卒業式の取材(HP)となった。昨年に続き、高須城小学校の卒業式に参加できる私は、アクセルを踏みながら卒業式でどんな感動のドラマが待ち受けているか・・・想像していたのだった(休校による最後?の卒業式だからね!)
 高須町までの道、それは通いなれた道となっていた。車中から見える景色が青空に映え・・・全てが本日とりおこなわれる数々の卒業式を祝福しているように見えていた。
 明治二年開校順化小学校の卒業式、そして、明治九年開校高須城小学校の卒業式と、それぞれ130年を越える長い歴史の中で地域に愛されてきた小学校が、この日同じ空の下で卒業式を迎えるのだ。
 次男と光くん・・・明治からの伝統ある二つの小学校で六年間を過ごした二人、明治・大正・昭和の時代を経て・・・共に平成生まれの卒業生となるこの日だが、今何を思い出として心に刻んでいるのだろうか。
 車は旧・上郷小学校跡地(今は馬術クラブ)横の坂を登りだした。ギアをセカンドにおとし「後・・・13分で高須町だな!」と、独り言の私。時計を見ると・・・もうすぐ次男の順化小学校での卒業式が開始される時間となっている。「おめでとう、話は帰ってから聞くから・・・」と、六年前の入学式からの次男の成長していく顔を思い出し、呟いていた私。
 いつものように対向車も後続車も無く、のんびりと車は高須町に着いた。高須城小学校の卒業式午前十時からと聞いていた。市内中心部の卒業式よりも少し遅い開始となる山間部ならではの卒業式である。
 「別の日だったら、僕も行きたい!」(次男)「私も行きたいのですが・・・ダメですよね?授業があるから!」(明道中・田中先生)こんな二人の言葉を思い出した時、車は小学校の駐車場に到着した。
 高須町の空は・・・青空だった。少し冷たい風が吹いているのだが、それでも高須の町は・・・この日の卒業式を暖かく迎えていた。
 車の助手席から取材ノートとペンを持ち、私は小学校に入っていく。デジカメなのだが・・・それは妻が次男の卒業式に持って行った(そりゃ・・・そうだよな!)
 しかし、数日前に「俺、撮るから!」と、地元・高須町の佐々木さん。この日のカメラマンは佐々木さんにお願いすることになった。
 職員室に入ると石村校長先生藤川教頭先生畑先生出口調理技師さんが笑顔で迎えてくれた。
「本日は・・・・・・」と、言いかけた私だが次の言葉を飲み込む事になっていた。本来なら「おめでとうございます!」となるのだが、休校によるおそらく最後の卒業式、それが「おめでとう・・・」とは言えないからだ。石村校長先生もご理解して下さっていた。「藤田さん、おめでとうの言葉は宜しいのです!」と、優しく語りかけてくれたのだ。
 職員室の椅子に座ると、出口さんが温かいお茶をご馳走してくれた。窓に差し込む日差しが心地よい温かさとなって、私の顔を火照らしてくれている
。  そんな時、学校前には数台の見慣れない車が到着していた。「ん・・・報道関係?」と、私が言うと、「そうです!本日はほとんどの報道が来るそうです」と、藤川先生が話してくれた。坂川優福井市長もこの日この高須城小学校に来校されると聞いていた私、何やら大変な卒業式となりそうな予感の私だった。
 お茶を飲み、廊下に出た私は木造校舎の懐かしい香りを確かめるように歩いていた。木の廊下「パタッ!パタッ!」・・・スリッパとのハーモニーが昭和の時代を思い出させてくれる。卒業式会場体育館???いや・・・講堂の方が似合うだろう。その前に置かれた二つの受付用テーブル(昨年は一つ!)。そのテーブルには〔来賓〕〔報道関係〕〔地元〕とそれぞれ名札が下がっていた。
 再び校舎からグランドに出ると、校舎の屋根には数匹の小鳥が止まっていた。まるで「卒業式は・・・まだかな?」と、聞くかのように囀っていた(君たちは何年生???)
 グランドから道路にでると一台の車が入ってきた。数人の若者がカメラ・マイクと手に持ちながら近くにいた私に挨拶をした。すると「あの・・・高須山はここから見えますか?」と私に尋ねてきた。「高須山・・・?」「はい!」私は駐車場の奥にその記者を誘いながら「ほら・・・あれが」と、高須山を指差した私。すると「綺麗な山ですね!時間があれば今日、登ります!」と、若い記者が話していた。
 次から次にと報道関係の車が駐車場へと入ってきた。FBC(福井放送)・FTB(福井テレビ)・NHK・福井新聞・日刊県民福井・朝日新聞それに福井市広報関係者と凄い人数となっていた。勿論、この報道陣の中にはお馴染み、FBC川島秀成アナウンサーも、福井新聞のあの「高須大好き!」S記者も駆けつけている(何か・・・凄い事になっている!)
 この日は地元・高須町青壮年会の皆さんも仕事を休んで母校、最後の卒業式への参加となっていた。しかし、少しのお手伝いとこの時間は駐車場係を担当して下さっている(ご苦労様です!)
 そんな時、坂道の下から「藤田さ〜ん」と、和服美人が歩いてきた。「ん・・・誰?」と、目を凝らすと・・・岬ちゃんのお母さんだった。初めて見るその和服姿に「綺麗ですね!」と私が話すと「どうせ、着物でしょ?」と、お母さん。「そうそう!」と、私が答え・・・この冗談合戦が私の高須の歴史となっていた(高須町に通いだして・・・すでに5年目か!)
 一人の卒業生光くん、そして見送る一人の在校生岬ちゃん、しかし今日は高須町の皆さん全員参加記念の一日となるのだ。
「ご苦労さんやのう・・・」「式は、もうすぐけ!(卒業式はもう始まるのですか)」「ひでぇ人やの!(凄い人ですね)」と、連れだって地元のお婆ちゃんやお爺ちゃん達も学校の中に入っていく。
 そんな中、学校前の坂道の下から二台の車が近づいて来る。佐々木さん達地元の皆さんが背筋を伸ばし・・・手案内でその車を誘導している。どうやら坂川優福井市長吉田順一教育委員長が来られたようだ。
 車からゆっくりと降りる坂川市長、ドアを閉めると懐かしいような木造校舎を眺め・・・青空と回りの木々・・・緑に映える高須山を確かめるように歩いていた。私は坂川市長に「お疲れさまです!」と、声をかけると「あっ!藤田さん、お父さんにいつもお世話になっています!」と、坂川市長。
 同じ時代(三十年以上前)、北海道で過ごした二人が今、この高須町で記念の卒業式への参加となっていた(おいおい、市長とは立場が違うだろ!失礼だよ!)
 卒業式の時間が近づいていた。私は校舎の中に入り講堂の扉を開けた。決して広くはないその講堂に沢山の椅子が並んでいる。その椅子にはすでに地元の皆さんが座っていた。そして報道関係の皆さんもすでに陣取りを終えスタンバイ・OKのようだ。
 この時、石村校長先生の案内で坂川市長を先頭ご来賓の入場となった。この日のご来賓は十七名となっていた。県会議員・市会議員・鷹巣公民館長歴代校長先生の姿もあった。この春から光くんが通う棗(なつめ)中学校校長先生、勿論・・・同級生の鷹巣郵便局長の上田君、そして鷹巣交番の小西さん、それから植木御大も元気な姿で来賓席に座られた。藤川先生、畑先生もそれぞれマイクの前で準備が整い、岬ちゃんも中央の席に座り・・・後はこの日の主役の登場を待つだけとなっていた。
 まだ、座っていない・・・卒業生、光くんの一つの椅子。その椅子はステージ前に置かれている。光君のお父さんお母さんも少し緊張されているのか微動だにしない。
「卒業生入場!」の案内で、光くんが元気に入ってきた。席に着き・・・報道のカメラの音だけがこの講堂に響いている。
 卒業式の前にスライドビデオによる《高須城小学校のあゆみをふり返る会》が行われた。「131年のあゆみ・地域に愛された高須城小学校」を静かに見つめる会場のみなさんだった。白黒のスライドからカラーのスライド、それはまさしく長い歴史の高須城小学校だった。私の横にはデジカメを持った佐々木さん「あの写真は佐々木さんじゃないの?」「そうかも!」そんな昭和三十年当時の写真もあったのだ。時折、「懐かしいのう」「あれぇ、あれは私やわ!」と、お婆ちゃんたちの声が聞こえていた。畑先生のスライド1枚毎の丁寧な解説も手伝い、131年の長い歴史を振り返るのだが・・・この時・・・この講堂内の時間は止まっていた。
 スライドが終わり、次にビデオによる思い出が映し出された。高須町の棚田の風景や小学校の授業などが・・・あの先生と児童のギターの音色とともに会場内の皆さんの心を打っていた。実はこのビデオだが編集したのは川島アナなのだ。「さすが川島さんやの!」と、佐々木さんが私に囁いている。
 卒業証書授与式前に行われた感動の・・・そして、ちょっぴり寂しい・・・スペシャル企画だった。
 さあ、いよいよ光くん卒業証書が授与される時がきた。報道関係のカメラがステージ横に移動している。国歌斉唱の後、石村和道校長先生から光くん証書が渡された。「おめでとう!」と、校長先生が話すと・・・少し照れたように会釈の光くん。
 この後の学校長式辞では「自然豊かな、このふるさとを愛し・・・ここで生まれ育ったことを生涯の誇りにして欲しい。南北朝時代、この高須山で戦った畑時能(はた・ときよし)のように、くじけない・・・最後まで諦めない気持ちを持って欲しい」と、石村校長先生。
 そして、市教育委員会告辞の後、坂川市長の祝辞となった。坂川市長は、「光くん、卒業おめでとう!」と、笑顔で光くんに語りかけた。そして岬ちゃんにも「二人は高須町にいつも元気を与えてくれました。休校・・・しばらくは新しい児童が入学しないので、おそらく最後の卒業式かもしれません。二人は春から棗小中で新しいお友達と勉強にスポーツに頑張って下さい」と、ゆっくりと語りかけていた。また坂川市長は「これまでこの高須城小学校を守って頂いて感謝します。一つの愛された地域の学校が無くなるのは大変寂しいことです。でも、今日からが高須町の高須町の皆さんの、新たな旅立ちの日なのです」と、高須町の皆さんにも優しい言葉をプレゼントしてくれたのだった。
《送ることば》では、岬ちゃん「光くんは、いつも私にだいじょうぶ・・・だいじょうぶと言って励ましてくれました。いつも元気な光くんは、優しい頼もしい先輩でした」と、感謝の気持ちを光くんに贈ると《別れのことば》光くん「城山(じょうやま)は見ている。今日も明日も見ている。僕はこの高須町で生まれた事やこの高須城小学校で勉強した事を誇りに思います。六年間の思い出は・・・二人で挑戦した創作のガラスコップ作りでした。悲しい事もありました、それは朝倉教頭先生との別れでした。僕はこれからもギターを続けようと思います」と、六年間の思い出をしっかりとした口調で話すと会場からはすすり泣く声が聞こえていた。
 私もこの光くん岬ちゃんの言葉に・・・少し涙がこぼれていた。どこの卒業式にも負けない大きな感動の卒業式だ。
 そして、この後全員での「ふるさと」を斉唱した。ふるさと、まさしく・・・この高須町は・・・ふるさとなのだ。

♪ うさぎ追いし かの山
     こぶな釣りし かの川
  夢は今もめぐりて
     忘れがたき ふるさと

  いかにいます 父母
     つつが無しや 友がき
  雨に風につけても
     思い出ずる ふるさと

  志を果たして
     いつの日にか 帰らん
  山はあおき ふるさと
     水は清き ふるさと

 そして、最後に高須城小学校校歌斉唱となった。会場からは光くんや岬ちゃん、そして先生方と共に、地元の皆さんも加わり大合唱となっていた。小さな講堂から高須の町へ、いや、高須山にも届きそうな大きな歌声となっていた。
「卒業生退場!」・・・光くんは会場の皆さんの温かい拍手の中笑顔で歩いていた。その一歩一歩は・・・光くんの未来に歩むものだ。その後ろ姿を少し寂しそうに見つめる岬ちゃんだが、「光くん、ありがとう!頑張って!」と、メッセージを投げかけていたようだ。
 そして、石村校長先生や藤川教頭先生、畑先生に出口さんも出会った頃から大きく成長したその背中を・・・「逞しくなったな!」と、見つめていたのだった。
 卒業式を終えた講堂には・・・今は誰もいない。そして、今度は校庭から多くの人の歓喜の声が聞こえてきた。花束を手に光くんがたくさんの人に見送られていた。坂川市長・校長先生・教頭先生と順番に握手となった。そして畑先生、出口さんと続き・・・岬ちゃんの番となると、お互い笑顔の照れ笑い。その瞬間をとらえる多くの報道陣と・・・佐々木さん。
 この日の卒業式が終った。だが、校庭ではまだまだマイクの前でインタビューに答える光くんや岬ちゃん、そして先生方の姿があった。私は誰もいない職員室から一人賑やかな校庭を眺めていた。
 感動の卒業式だった。心に残る卒業式だった。誰もが羨む卒業式だった。小さな小学校の大きな大きな卒業式だった。今日の卒業式に参加した全員がいつまでも忘れられない最高の卒業式だった。
 朝、石村校長先生に言いかけた「おめでとう・・・・」の言葉だが・・・・今度は心から「ありがとうございました!」と、言わせて頂きます。
 少し肌寒い風が高須の町に吹いていた。それでも空は綺麗な青空となっていた。まだ、マイクの前でインタビューに答える光くんを見ていた私は・・・・この時、次男の顔を思い出していた(忘れていたのでは・・・ありません!)。今頃、クラスメイトや先生たちと笑顔で記念写真となっているのだろうか?それとも、大勢でどこかで昼食でも食べているのだろうか?
 そんな事を考えていると「早く、次男の顔が見たい!」と、急いで帰路に着いた私だった。帰宅した私に妻がデジカメの中を、次男が卒業証書とアルバムを見せてくれた。「どうだった、卒業式?」と、私が聞くと「光くんの方は・・・?」と、逆に聞く次男。
 お互い・・・もうすぐ中学生、いつまでも仲良くね!岬ちゃんともね!
 高須城小学校・第九十二回卒業式順化小学校・第百十五回卒業式。そしてこの三月、卒業された多くのみなさんご卒業・・・おめでとう!」


△男の酒のつまみ・・232
 広島風お好み焼き!
 巷で評判の広島風お好み焼きに挑戦した。挑戦と言ってもお好み焼き焼きそばのコラボ。
 鉄板で生地をのばし、豚肉キャベツ(多目)天かすを乗せる。そして横のスペースでは焼きそばを焼く。お互いの出来上がりの時間が大切なのだ。お好み焼きに焼きそばを乗せる頃、目玉焼きを開始する。
 全ての具が一つになり・・・後はたっぷりのソースをかけて「いただきます!」となる。
 熱々お好み焼きには・・・冷えたビールが!


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【三月の七/鷹巣地区特集記事・三連発!】3月17日(土)

 一昨日、昨日と昨年に続き二日連続の卒業式への参加となった私だが、まだその感動に酔いしれていた。明道中学校の大規模校ならではの生徒による迫力の式歌は、何度聞いても涙が込み上げてくるのだった。
 また、昨日の高須城小学校の卒業式だが、131年の長い歴史と伝統の匂いのする印象的な卒業式となっていた。卒業生ひとり在校生ひとり、少子化による児童数減で今年度限りでの休校となり、教室から明かりが見えなくなる事になるのだが、いつの日か必ずその学び舎に再び明かりが灯り、子供たちの笑い声が帰って来る事を願いたいものである(信じています!)
 それにしても高須城小学校の卒業式では、おそらく今年度福井県内の学校で挙行された卒業式で、一番多くの報道陣が集合していた(凄かったですよ!)。夕方の各局ニュースでは高須・・・高須・・・高須と、どのチャンネルでも光くん岬ちゃんが登場していた。また、本日の新聞各紙も同様に大きく掲載していたのだった(有難うございます!)
 その卒業式(テレビ&新聞)を見ている次男だが、自分の卒業式から一夜明け・・・「凄いね!高須は・・・」と、何故か笑顔で光くん岬ちゃんを見ているのだ。「羨ましいのか?」と聞いた私に「ぜんぜん!」と、答えた次男・・・「23日の修了式は高須に行こう!」と、私にせがむのだった。
 そうそう・・・高須城小学校の卒業式当日、どの取材陣よりも早く小学校に来ていたFBC・川島秀成アナウンサーだが、当然・・・どこの誰よりも高須町への思い入れは一番となっていて・・・・卒業式では感激していたようだ。
 ・・・《げんき米》の田んぼで、一緒に稲刈りをした川島アナ光くん・・・棚田オーナー収穫感謝祭で、真剣な顔で藁縄を編み、正月用しめ飾りを造る川島アナに、横でちょっかいをかける岬ちゃん
・・・高須城小学校の4人光くん岬ちゃん朝倉先生畑先生)の福井市連音でのギター演奏を文化会館まで取材した川島アナだから・・・・構えて撮るデジカメのレンズを通して見えたものは・・・どのカメラマンやどの記者よりも特別だったはずだろう。
 FBC・HPの中の〔川島秀成のぼちやろ〕の中にも書かれていたのだが、実は川島アナが福井に来て初めての卒業式体験?だったみたいで・・・それがまた今回の高須城小学校感動の一日になったとは・・・!
 さてさて・・・・高須城小学校の卒業式に合わせるように、14(水)、15(木)、16(金)と、3日連続福井新聞に嬉しい特集が大きく掲載されていた。
 この特集だが、以前私と田中先生それにインフルエンザにかかっていた次男に取材した「高須大好き!」S記者の特集記事だった。「タ・カ・スを3日連続で取り上げます!」と、話していたS記者に「高須を特集!」と、嬉しさと感謝の気持ちを表していた私だったのだが・・・このS記者が話す「タ・カ・ス!」とは・・・鷹巣地区の事だったのだ(勘違いの・・・私!)
 鷹巣地区とは高須町???を含む14自治会を言うらしいのだが、市内中心部に住む私にすれば高須町鷹巣地区なのか?それとも隣の棗(なつめ)地区なのか?・・・分からないのだ。光くん岬ちゃんが春から通うのは、棗小中学校なのだし・・・昨年に行われた合同文化祭鷹巣地区として参加した高須町、つまり棗も鷹巣地区に含まれるのか?公民館としては鷹巣にも棗にもそれぞれ公民館はあるわけで???(おいおい!今度、植木御大に・・・聞こう!)
 まあ・・・それはそれとして、その〔鷹巣〕特集が掲載された記事、福井新聞「風回廊・新福井市まち巡り」を紹介します。14日(水)には、◆まちのデータ◆として鷹巣地区の紹介がされてあった。
 越前海岸に面する地区。海岸沿いを中心に14自治会で構成。3月1日現在、世帯数637、人口2349人。少子化や若者の流出で年々減少している。
 地名の由来ははっきりしていないが、文献に最初に出てくるのは14世紀半ば、南北朝時代の古文書で「高栖城」と記されている。国重要無形民俗文化財「糸崎の仏舞」、市内最大の「免鳥長山古墳」、市指定無形民俗文化財の「夜網節」、水分神社の奉納相撲など豊かな歴史と伝統文化が残る。
 そして冒頭には・・・福井市内の特定の地域を記者たちが集中的に訪ね、多様な話題を発掘する新しい紙面「風回廊」。第2弾の今回は、日本海に面する風光明美な鷹巣地区を選びました。地区内にある高須城小学校は、全校児童が1人になるため今月で休校になります。長い歴史にいったん幕を下ろしますが、山の中の古く小さな学校は、児童と教師とのふれあいや地域とのかかわりなど、とても大切なしるべを残してくれています。そんな人々のぬくもりや歴史とともに息づく、おおらかさと先進性。新たな息吹を運ぶ福井のオープンテラスを、3日間にわたりご案内します。
 ・・・と書かれてあった。そしてこの日は、タカスサーキット場や海水浴場、そして国民宿舎・鷹巣荘が紹介されていた。
 二日目の15日(木)、この日は浜住町に古くから伝わる「歌剣舞(うたけんぶ)」や、和布(めら)町にある巨大なコンクリート壁で外海と区切られたの入り江「みしょたんぼ」の紹介、糸崎町にある鷹巣味を百三十年継承する醤油醸造場が取り上げられていた。
 そして・・・・《学舎からの贈り物》として、高須城小学校の記事が大きく書かれてあったのだ。
〔みんな家族・共育の原点ここに〕
 福井市北西部の高須山中腹にある高須城小学校。高須町のみを校区とする全国でも珍しい学校で、団塊の世代が子どものころには六十人以上在籍したが、過疎化が進み、本年度の児童はたった二人に。新年度の入学予定者がいないため、この春で休校、百三十一年の歴史にひとまず幕を下ろす。小さな山の学校が残した児童と教師のつながりや、地域に果たした役割を振り返る。
「先生、早く!早く!」。職員室のガラス越しに子どもたちの声が響く。児童二人、養護助教諭と給食調理員を含めて教職員四人の昼休み。晴れた日は皆で、野球のミニゲームをするのが日課だ。「人が少なくても、寂しいと思ったことはないよ」。卒業を間近にした六年生の高山光君と、五年生の天谷岬ちゃんは口をそろえた。
「岬ちゃん、八ページから読んで」「光君、問題解けたかな」。教師と児童、児童同士の距離は常に1b以内。社会科の授業では「源氏物語を書いたのは?」との教師の光君への問いに、隣の席で地理を勉強していた岬ちゃんが「紫式部!」とすかさず答えた。「二人で競争するように勉強するので、授業の進度はほかの学校よりも早い」と、担任の藤川純一教頭(五〇)は話す。
 給食は毎日、一階の和室で全員がそろって食べる。畳に正座し、まさに「食卓を囲む」食事。掃除の時間は総出で床にモップをかける。
 放課後も職員室には二人の姿。帰ったように見せて、またひょっこり顔をのぞかせる。「学校は家のようなもの、われわれは家族です」と藤川教頭。最近では児童生徒の名を「○○さん」と統一して呼ぶ学校が多いが、ここでは「君」「ちゃん」付け。「親しみが自然に出てしまうんです」と藤川教頭は続けた。
 しかし、四月からは皆離れ離れ。光君は棗中に進学し、岬ちゃんは棗小に転校する。「新しい友達ができるのは楽しみだけど、本当はかわりたくない・・・」と打ち明ける岬ちゃん。「教師は、児童が増えればそれだけ目配りするのは大変になるけれど、児童にとっての教師はたった一人。教師が一人一人に目を向け、しっかりと向き合う姿勢は本当に大切だったんですよね」と藤川教頭。長い教師生活の中であらためて再確認したという。
 いじめ、不登校、学級崩壊・・・。現代の学校に渦巻く暗い話題は、ここには不在。石村和道校長(五五)は「児童個人を大切に思い、しっかりと愛情を注ぐことができました」と高須城小での三年間を振り返る。「この学校にはいい意味で『昔ながらの日本』が残っている。一諸に何かをやる、同じ方向を向いて共に歩む。この学校には確かに教育の原点がありました」
・・・と、紹介されてあった(いい文だ!)
 そして、卒業式当日の16日(金)の記事だが、この日は半分が高須関連の記事となっていた。昨日に続き《学舎からの贈り物》では・・・・
〔生活そのもの・住民に絆「再開」誓う〕
「昔も今も、学校行事は町民が総出で応援してきた。そんな微笑ましい光景がもう見られなくなる。どうしたらいいのか誰か教えてくれよ・・・」。児童がたった一人になり、この春から休校となる高須城小の地元、高須町自治会の植木正義会長(七七)の目に、うっすら涙がにじんでいた。
 毎年五月末の休日、学校と町民が合同で行う体育大会。最近は、美しい棚田の復活を試みて二〇〇二年に町が始めた「オーナー棚田制」のオーナーやその家族らも駆けつけ、総勢約百人の声援がグラウンドにこだまする。全校児童が数人とは思えないにぎやかさだ。
 同小は、四十五軒ほどが寄り添う同町だけが校区。毎月の「学校だより」は全戸に配布し、二人の児童が一軒一軒届けて回る。「子どもたちが成長していくのが楽しみでねえ。待ち遠しくもありましたよ」と林トモエさん(八〇)。児童が歌などを発表する音楽会には、仕事の手を止めて聞きに行く町民も多い。
 一方、同小の藤川純一教頭は、毎日の学校の様子を自身のブログに掲載。授業風景や給食のメニュー、児童の絵画や工作などで、町を離れた人や棚田オーナーを含め、ありのままの学校の姿を広く伝えている。
 山あいにある不便さや、児童数が減る寂しさから、なんとか学校を盛り立てよう・・・。町は「オーナー棚田制」のほか、〇六年には二軒の空き家を格安で貸し出し、新しい住民を迎えた。
 住民と棚田オーナーの交流会も活発に開き、のどかで自然豊かな「癒しの里」のファンはどんどん広がっている。棚田オーナーの父親に連れられ度々町を訪ねる藤田直人君(順化小6年)は「街の中ではできない経験がたくさんできて楽しい」と話す。
 地域とともに歩み、常に地域の真ん中にあった学校。しかし、少子化や過疎化の大きな波にはあらがえず、学校は長い歴史をいったん閉じる。市教委は、休校後も祭りや体育大会などでの校舎の使用を認める方針だが、現在同町には乳幼児は一人もおらず、学校再開には厳しい道のりが待ち受けている。「学校があって町がある。高須のみんなにとって高須城小は生活そのものだった。なんとか復活させたい」と植木会長は静かに語った。
 十六日に卒業式を迎える高山光君は「いろんな人にお世話になってここまでなれた。いつかまた、もっとにぎやかな町になって、学校が再開できるように頑張る。きっと大丈夫」と話す。「たとえ一人になっても、僕はこの町に住みたいもん」。地域の愛情がはぐくんだ笑顔がたくましい。
 「いつか学校が帰ってきてもいいように、町が元気にならなければ」と植木会長。町民や「癒しの里」を訪ねるファンたちの胸の片隅に、これからも学校はある。
 二日連続のこの記事だが、「学舎からの贈り物」と題して、高須城小学校休校問題を取り上げてくれたものだった。長い歴史の中で高須町の皆さん愛されてきた小学校から灯りが消えることになった。やはり前途多難ではあるのだが、学校再開を願う気持ちは内外から多く寄せられている。「いつの日か・・・必ず!」その気持ちを忘れないでいて欲しい。
 さて、何か照れくさい気もするのだが、田中先生と私の記事も載ったので紹介します。
〔町外男性が高須町HP〕
 高須山中腹、四十五軒ほどからなる高須町には、充実した公式ホームページがある。同町をこよなく愛す町外の男性二人が運営している
。 『新高須町民』として町のPRに励んでいるのは、藤田幸治さん(五一)と、田中知司さん(五〇)。五年前、藤田さんがPTAの行事で同町を訪れたことから、町民との交流が始まった。
 町の歴史や風景の紹介のほか、藤田さんが町を訪ねた際の出来事をつづった「高須城日記」、町ゆかりの人に魅力を語ってもらう「あぜ道インタビュー」など内容は多彩。
 開設から二年間のアクセス累計は二百三十万件を突破。現在は一日五千件以上のアクセスがあるという人気ぶりだ。
 「ボランティアを募って山道をきれいにしよう」「ホームページを使って農産物の販売はできないか」。二人が顔を合わせると、話題はいつも高須町のこと。藤田さんは「住んでもいない町のことで何でこんなに真剣に考えるのか、自分でもおかしいなと感じてしまうときもある。でも、高須町にぞっこんなんです」とにっこり。田中さんも「高須には普通の田舎にはないものを感じる。町の事を考えたら、不思議と寝る間も惜しくないんですよね」と続けた。
 月十回のペースで更新中。「活気あふれる高須町にしたい」。頼れる応援隊の挑戦は続く。
 少し、いや・・・大いに照れくさいこの記事だが、こんなに誉めてもらったなら、毎日更新しなければ・・・ね!(無理無理!)
 福井新聞の特集として鷹巣地区の中の高須として取り上げてもらった記事の数々、休校問題で暗くなりつつあった高須町の皆さんに、少し明るい話題となったことは間違いない。S記者さん「ありがとう!」でも、今度は七日間特集を・・・・!


△男の酒のつまみ・・233
 牛ヒレステーキ!
 少し残業した仕事帰り、近所の馴染みのスーパーに立ち寄り・・・ぐるっと陳列棚を見て回ると、何故か精肉コーナーに一つのパックがあった。時間が遅いためか嬉しい「3割引き!」のシールが貼ってあった。その商品は、牛ヒレステーキ200グラム
「今夜のつまみはこれだ!」と、買った私。フライパンを熱し、牛肉の両面を焼き、肉のうま味を閉じ込める。味付けはシンプルに塩と胡椒のみ。
 私の好みは・・・レア!晩酌時にナイフでいちいち切るのは面倒なので焼き上がりの時にサイコロ状態にした。
 「いただきま〜す!」ビールを一口!その時「僕にもちょうだい・・・!」と、次男が半分・・・たいらげた!(まあ、いいか!)


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【三月の八/リアルタイム昭和基地!】3月19日(月)

 その気持ち・・・理解出来ない訳ではないのだが、先週金曜日の卒業式以来、のんびりと・・・いや、ダラダラと中学校の入学式(4/6)まで、少し長めの春休みとなっている次男。「もうすぐ中学生なんだから、きっちとしなさい!」「中学一年生の勉強の為に、もう一度小学校の復習を・・・」と、話すのだが、「・・・・・」と、毎日が遅い・・・遅い起床就寝となっているのだ(こいつ・・・大丈夫か?)
 中学生の教科書は入学式時に貰うのだが、こんな事なら少し早めに新しい教科書を分けるのもいいだろう、と思う保護者は私だけではないはずだ(真新しい教科書のインクの匂いは懐かしい!)
 そこで本日、そんな次男を車に乗せ向かった先は・・・入学式前の・・・明道中学校だった(まだ、早いだろ!)
 実は・・・先々週のある日、田中先生から「今度、南極の隊員と明道中学校とで交信します!理科の授業の一環ですが、生徒たちに貴重な体験となるはずです。宜しければ是非、お越し下さい」と、お話があったのだ。
 ここ数年だが、南極から持ち帰った古代?が県内の学校などにお目見えとなり、多くの児童・生徒がそのに閉ざされた数千万年前???いや、数億年前???の神秘に迫る勉強をしたと、報道された事があった(私だったら、部屋を暗くして一人、その氷で贅沢にも日本酒のオン・ザ・ロックと洒落込むのだが!その神秘の氷が融ける音が・・・究極のつまみになる!)
 そして、先月だったか南極にいる越冬隊員チームが三千b以上のボーリングに世界初の偉業に成功し、その掘削した氷に閉ざされた気泡や微生物が地球誕生当時の謎を解明出来るかもとの中継があったのだ(その氷は日本に持ち帰り研究されているらしい)。この時、宇宙飛行士のご存知、毛利衛氏との交信が日本と南極との間で行われたのだ(偶然、テレビで見ていたのです!)
 で・・・今回、何故・・・田中先生南極との交信をするに至ったかの経緯だが、田中先生の教え子が今、越冬隊員として南極にいるらしいのです(凄いね、田中先生。前にも私も参加した文科省のスクール・ミーティングが県内唯一、明道中で開催された時、その文科省の若い担当者〔エリートキャリア〕は・・・田中先生の教え子だったのです!)
 まあ、当然と言えば当然の事かも知れないが、長い教師生活の中で多くの教え子が先生たちの元を巣立っていくわけで、その教え子たちが各方面で立派に成長している姿を見るのは嬉しいものだろう。教師冥利につきる・・・と、言うのかな?(ねえ・・・田中先生!)
 明道中学校に着くと、私と次男は理科室に向った。職員玄関から体育館を横切り・・・すると、何やら体育館のステージでは生徒会選挙候補者の予行練習だろうか、大きな声で中学生ならではのマニフェスト???を演説していた。次男は少し驚いた顔で四月からの先輩達の勇姿を見ていた。
 北校舎、この明道中学校も私が通っていた頃のままで、懐かしい匂いがしていた。「ここに(階段下)野球部の部室があったんだよ!」と、次男に話すと「ふぅ〜ん!」と、次男。
 階段を駆け上がると、「こんにちは!」と、数名の女子生徒が元気な声で挨拶してきた。
 第2理科室、ガラガラとその戸を開けると正面にはすでに田中先生や福井市の広報の職員だろうかテレビモニターの配線を点検していた。邪魔をしてはいけないと私と次男は理科室後方の椅子に座りその様子を見ることにしたのだ。
 しばらくすると理科室には、他の理科の先生方やこの南極との交信を取材するテレビ局や新聞社の報道関係の皆さんが入ってきた。
 カメラをセットするその様子を見ていた次男は「あれは、NHKで、あれは福井テレビだね!」と、カメラに貼ってあるステッカーを確かめている。すると今度は「川島アナウンサーは来ないのかな?」と、私に聞く次男。そこで「川島さんは別の取材らしいよ!」と、曖昧な答えでその場を凌ぐ私。
 そんな時、「一度、向こうを(昭和基地)呼び出してみましょうか?」と、田中先生の声が理科室に響いた。理科室のテレビ画面は・・・この理科室が映っている。そしてそのテレビの上にはカメラが設置されていた。「昭和基地の前田さん・・・前田さん!」と、田中先生が昭和基地を呼んでいる。
すると、「は〜い、こちら昭和基地の前田です。田中先生ですね!」と、画面が昭和基地内部でカメラの前に座る、前田隊員が映された。そして、次には昭和基地の外も映しだされたのだが・・・「ゴーゴー」と、ブリザードだろうか凄いごう音と共に白い吹雪が吹き上げる様子も画面に映る。「凄い、これが南極なんだ!」と、しばし呆然の次男の顔。
 南極日本・・・時差6時間(田中先生から聞きました)
 今の世の中、科学の進歩と共にそれほど驚く事は少なくなっている。ましてや世界のどこの地域とテレビ電話等がつながっても「へえ・・・そうなの!」と、感動は今いちとなりがちである。だが、目の前のモニターに映る南極は・・・別である。神秘の世界、未知の世界、謎の世界と全ての言葉の表現を持ってしても現すことが困難な南極の世界は、男のロマン・・・男心を擽る、そんな世界が目の前にあるのだ。
「南極?」と言えば幼い頃、ペンギン・寒い・映画、南極物語・昭和基地・タロ&ジロ・オーロラ・宗谷ぐらいしか思い付かないものだった(大人の今も同じかな!)。日本が南極で観測を始めて今年で記念の50年、その間には多くの越冬隊員が交代で南極での観測を行ってきたのだが、その観測隊(越冬隊)も現在、第48次となっている。
 だが、南極を語る中で決して忘れてはならない日本人がいる。それは1910年、日本人で初めて南極に到達した白瀬矗〔のぶ〕中佐(陸軍軍人)である。外国から無謀だと笑われるほどの、小さな漁船を改造した船で厚い氷が待ち受ける南極に挑戦したその勇気と志はまさに日本男児である。
 アムンゼンスコットと共に永遠に南極史の中にその名は語り継がれる人物である。当時、その費用4万円を一人で背負い23年かけて返済したらしいのだが、そこまで南極大陸に人生をかけていたかと考えると凄いの一言では済まされない話ですね(今から約100年も前の話ですよ!)
 さて、この理科室二年生の生徒が入ってきた。どの生徒もこれから行われる南極・昭和基地とのTV会議にワクワクしているようで、どの顔も笑顔で席についていた。そんな時、私の横でキョロキョロとしていた次男に「あらっ!今日はお勉強に来たの?」と、笑顔で声をかけて下さった明道中学校小林校長先生、すっかり入学式前に次男は顔を覚えられたようだ(これから、悪い事は出来ない!)
 校舎内に懐かしいチャイムが鳴り・・・5限目の授業が始まった。そして、この北校舎2階の理科室には二年生1クラスの40人ほどと、校長先生に数人の先生方、そして報道陣の皆さんと・・・何故か???私と次男がいる。  テレビの画面には《南極教室・昭和基地▼福井市立明道中学校》と映っていて・・・その下には数匹の愛くるしいペンギンが『もうすぐはじまるよ』・2007年3月19日と、書いてある(因みにこの画面は・・・南極からのものです!)
 席に着いた生徒たちは、これから始まる南極・昭和基地とのテレビ会議授業『南極から地球の自然を学ぶ教室』に期待の表情を輝かしている(次男もだ!)
 そして・・・「南極、昭和基地の前田さん」と、田中先生が呼びかけた。すると画面は変わり・・・「は〜い、こちら昭和基地の前田です。田中先生そして明道中学校のみなさん・・・こんにちは!」と、答えたのだ。ここで、理科室の生徒たちはいつもの授業開始のように・・・しかし、この時間は南極に向かって、全員が「起立!」「お願いします!」と、挨拶した。
 このテレビ会議南極から答えて下さるのはお二人で、一人は先程紹介した田中先生の教え子、福井市出身の通信技術者・前田益彦さんと、氷雪観測担当中澤文男さんだ(このお二人がいるのは、昭和基地内・食堂の特設スタジオです!)
 挨拶が終わると、画面は昭和基地の外を映し出した。画面は・・・白い白いブリザードが吹き荒れていた(視界不良です!)。先程よりも益々・・・風が強くなっているようで、その音がスピーカーから約1万4千キロの距離を越えて聞こえてきた。「おっ〜つ、凄〜い!」と、初めての南極からの生中継に感激の声をあげる生徒たち。
 昭和基地の屋外のカメラは、マイナス何十度の世界を映している。ただ・・・何も見えない、白い白い世界。すると、前田隊員が「今、ブリザード何も見えませんよね。では、同じ角度から晴れた日に撮った画面をお見せします!」と、嬉しいご配慮の南極の皆様。画面は昭和基地の建物とその奥の南極大陸と海(氷)の写真に切り替えられた。「奥の白い大陸が南極大陸です。分かりますか?」と、前田隊員。そうなんです、昭和基地があるのは南極大陸と、勘違いしている人が多いのだが、実は・・・すぐそばの東オングル島昭和基地はあるのです(昭和基地には、観測棟・居住棟等56棟があります!)
 前田隊員中澤隊員からはこの後、越冬隊の活動内容南極の気候などを中学生に分かりやすい言葉で説明してくれた。そして、隊員たちの居住棟(個室)も写真で紹介してくれたのだ。
 ひとつひとつ南極の解説や写真に身を乗り出して注目する生徒たち、南極からのクイズも出題されたり、生徒たちからの質問コーナーにも丁寧に写真や図を使い解説してくれた隊員のお二人だった。
 そして、高感度カメラで撮影された神秘のオーロラが画面に登場すると「綺麗!凄い!」と、歓声が理科室に響いていた。南極の動物や植物を学ぶと、生徒たちはすでに好奇心いっぱいに満たされた顔になっている。
 限られた時間の中で、質問をする生徒たちに・・・答えてくれる南極・昭和基地の前田隊員と中澤隊員(どちらも、真剣です!)
「まだ、時間は大丈夫ですか?もう一つ質問が・・・」と、田中先生が南極側にお願いする・・・「いいですよ!」と、快諾する前田隊員たち。
 南極と福井、当たり前だが・・・南半球ではオリオン座が北半球とは逆に見えるらしい。貴重な時間、許された時間を100%使う田中先生だった。
 その南極とのリアルタイム交信も終わりの時が近づいて来た。理科室の全員が起立して南極の二人の隊員にお礼を言うと・・・・南極のカメラの前には前田&中沢隊員の他に十数人の隊員の皆さんがいて・・・全員が手を振りながらお別れの挨拶となったのだ(感動しましたよ!)
 南極とのテレビ会議が終わると、回りを囲んでいた取材陣が生徒たちにインタビューとなっていた。私は次男に「帰るぞ!」と、話すと「うん!」と、まだまだ興奮冷めやらぬ顔の次男だった。その次男の手には、田中先生から頂いた冬の星座図があり、大事そうに握り締めていた。
 校長先生やまだまだ忙しそうな田中先生にお礼を言いながら理科室を出た私と次男。その次男に感想を聞くと「やっぱり・・・中学校になると、こんな授業があるんだね!凄いや!」と、後半月足らずで始まる中学校生活を楽しみにしているようだ。
 そうそう・・・今回の南極とのテレビ会議だが、田中先生「めったに出来ないものだから、全校生徒を対象にしたらいいんじゃないですか?」と、聞いたのだが「一つ一つを確実に伝え、理解してもらうには小人数(クラス単位)の方が・・・」と、これは南極からの希望だったそうです(なるほどね!)
 帰宅した私と次男、すぐにパソコンにてまたまたオンライン・ゲームを楽しむ次男に「お前な・・・南極に感動したのなら、少しは南極大陸の勉強しろよ!」と、父親として意見を述べさせて頂いた・・・・私(珍しい!)
「お父さん、僕ゲームしてないよ!画面ちゃんと見てよ!」の次男の言葉にパソコン画面を見た私。その画面は・・・・南極大陸・・・だった(こりゃまた・・・失礼致しました!)
「ねえ・・お父さん、南極は日本の面積の37倍だって!」「南極の氷の厚さは富士山より厚いんだね!」と、少しずつ勉強していた次男だった(頑張れよ!)
 田中先生のお陰で親子が貴重な体験をさせて頂くことになった本日、次男は・・・今、ベランダから・・・冬の空(星座)を眺めている。
 ならばと・・・私はオン・座・ロックで晩酌だ!(お〜い!)そして目の前にはビデオ・テープ2本スタンバイ中!(どちらか、決めかねている)南極物語か、ディ・アフター・トモーロー・・・かだ。


△男の酒のつまみ・・234
 独活(ウド)の酢味噌和え!
 新鮮で大きな独活スーパーに並んでいた。キンピラに、身は軽く湯がいて冷水にて冷やし、酢味噌で頂く。
 春の香りが身体中を駆け巡る・・・血が綺麗になるような!


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【三月の九/涙の修了式と、涙の・・・!】3月23日(金)

 積雪も無く冬は過ぎ、春の訪れは当然の如く早いかな?・・・と、思えば突然冬に逆戻りと、何だか季節の衣替えも・・・まだまだ、落ち着かないような日々となっている。そんな不安定な季節に合わせるかのように、「今日は薄着?・・・厚着?」と、毎日ジャンパーを着るか着ないかで体感気温を帳尻合わせの私だが・・・やっぱり風邪を引いたようだ(軟弱者!)。そして、私と同じく風邪気味の人がもう一人!・・・田中先生だった(田中先生は確実に疲労からですね!この時期、先生は忙しいからね!)。  そんな慌ただしい年度末となっていた数日前の夕方だが、珍しく二人が数時間を共有することになった私と田中先生だが(二人で咳とくしゃみ合戦!)、いつものように高須町HPの事(新企画???)で、あれやこれやと話していると(年度末ですから!)田中先生が思い出したように「藤田さん・・・これはあくまでも私の思いなんですが・・・岬ちゃんの卒業式は来年、棗(なつめ)小学校で行われますが・・・・その日の夕方にでも高須城小学校に有志が集まり、特別の卒業式なんて企画したらと思うのですが・・・どうでしょう?」と、語りかけた。休校中高須城小学校での幻?の一年後の卒業式、この事は田中先生と同じように私も考えていた事だったのだ。
〔以下は、あくまでも二人の空想の世界です!〕
 来年のこの時期、棗小学校での卒業式を終えた岬ちゃんを休校になっている高須城小学校に誘うお母さん。
 誰もいないはずの講堂に入った岬ちゃんの目の前には、石村校長先生や藤川教頭先生、そして畑先生や石黒先生が・・・その横には優しい微笑みの出口さんの顔もある。講堂の中央に一つの椅子があり・・・そこに岬ちゃんが座る。すると、「平成19年度・高須城小学校卒業証書授与式を行います」と、声が聞こえてくる。ステージに登壇した岬ちゃんに石村校長先生から幻の最後の卒業証書が渡された。すると、いつの間にかこの講堂には、多くの高須町の皆さんがいて拍手で岬ちゃんの卒業を祝う・・・・と言う説定です!(こんな事を真剣に考えている中年男二人をどう思われますか?)
 別にホームページ上での話題をどうのこうのと言う事ではなく、高須町岬ちゃん(現在、岬ちゃんが最年少です!)に思い出を・・・と、考えていての私と田中先生との言わば思いつきのようなものだった。
「じゃぁ、23日の修了式で、石村校長先生や藤川教頭先生に話してみます」と、田中先生にこの時話した私だった。
 そして昨日、私は高須城小学校に電話をして修了式にお邪魔させていただく事に了解を得たのだった(次男同伴で!)
 十六日に行われた光くん卒業式、何かその時から私の中では高須城小学校の時間が止まったかのような感覚でいたのだが・・・冷静になれば、本日の修了式まで岬ちゃんの授業は毎日あったわけで・・・そんな事を考えると、先生方高須町の皆さんに申し訳なく思う私がいたのだ。
 朝8時過ぎ、春休みの次男(もうすぐ中学生です!)を乗せ、高須町に向け車を走らせた私。朝食用にとおにぎりを数個作り、途中のコンビニでお茶を買う(いつものパターンだ!)
「岬ちゃんの授業の邪魔はするなよ!」と、車の中で何度も次男に念を押していた私。「もちろん!」と、次男が答える。
 車は順調に・・・いや、いつもよりも快調に信号機のない道を(本郷→一王寺線)進んでいた。「やっぱり、この道は車・・・通らないね!」と、助手席の次男はのんびりと春まぢかの周りの美しい景色を見ている。
 自宅から高須町到着までの時間は20分!途中(一王寺)で時計を見ると・・・やはり2分ほど早い到着時間となりそうだった。だが、得てしてこんな時こそ・・・何かが起きるのだ。
 旧・上郷小学校跡地(現・乗馬クラブ)横の坂道を登る私の車だが、何故かその前を一台の工事用大型ダンプが走っている。「こんな狭い道なのに、どこに行くのかな?」と、次男は心配そうにそのダンプに注目していた。「道を間違えたんじゃないかな?」と、私が次男に話した時だった。急ブレーキと共に前を走るダンプが止まり、運転手が降りてきたのだ(私も急ブレーキ!)「やっぱり、ほらね!」と、次男に話した私。ダンプから降りてきたその運転手は私の車に近づき「あの・・・ゴミ処理場はどこでしたっけ?」と、聞くのだ。「たぶんこの道ではなく・・・先程の道を行くのだと思いますよ!」と、答えた私。
 私は林道の狭い道(脇道)に車を止め、この道路付近でUターン出来ないダンプはバックで坂道を下る事になったのだ(ご苦労様です!)
 ところがここから問題が起きたのだ。狭い道に大型のダンプがバック・・・普通なら何の問題もないのだが、中々そのダンプはバック出来ずにいたのだ。「下手な運転だな!」と、そのダンプを見ていたが、どうにもこうにも見ているだけでは済まなくなった私は自分の車から降りて、その徐行状態でバックするダンプの元へ近づいた。そして運転席に向かって「大丈夫ですか?」と聞いたのだ。運転席の男性は私よりも年上のようで・・・額からを流しながら困り果てていたのだ(にっちも・・・さっちも!)
 聞くと、※大型免許を取得したばかりで二日前からこの仕事に就いたと言うのだ。大型ダンプの車幅道幅はほぼ同じで曲がりくねった坂道約300mをバックのままで下るのは新米大型免許取得者には無理なようだ。このままだと、田んぼや測溝に落ちそうと感じた私は「運転・・・代わりましょう!」と、話しかけたのだ。大型免許所有者にとって運転を代わると言うのは・・・プライドを傷つけるものだが、事故を起こすよりはましだと判断した私だった(あっ!一応・・・大型免許は所有していますから!)
「私は、降りて後ろを見ます!」と、私に話す運転手に「大丈夫ですよ!助手席にいて下さい」と、余裕の顔で答えた私(内心はドキドキ!)。ここからは細かいハンドル操作と、アクセル&ブレーキ&クラッチを足で操りながら、サイドミラーと運転席から身を乗り出してのダンプの運転となったのだ。久しぶりの大型車の運転なのだが、意外にもダンプは順調に下っていた。「運転上手いですね!」と驚く運転手に「いや、私も久しぶりなんですよ!」と、答えた私。手には汗をかきながらどうにかこうにか旧・上郷小学校横の道までダンプを移動した私だった。「有難うございます」「気をつけて」と、ダンプを見送り別れたのだが・・・・ここから自分の車まで坂道を徒歩で登らなくてはならない私。予期せぬ運動にまたまた汗をかきながら次男の待つ車まで坂道登山となったのだった(坂道を登ったため・・・足はパンパンです!)
※大型免許・・・改正道交法により6月から大型と普通の間に中型免許が新設される。従来の大型免許は普通免許取得後二年以上経過後、取得可能(勿論、二十歳以上です!)。
 尚、私の大型免許は航空自衛隊時に取得していますが、自衛官の場合、普通免許が無くてもいきなり大型を取得出来ます。ただし・・・・普通の自動車教習場とは異なり、それはそれは厳しい地獄のような(殴られ、蹴られ・・そして連帯責任!)自衛隊基地内の教習場での訓練となります。陸上自衛隊は各地で教習ができますが、航空自衛隊の場合、埼玉・入間基地1ケ所のみでの教習のため、全国の航空自衛隊基地から隊員は順番待ち(まあ、年功序列です!)で仮免までの教習を行います。試験は一般の皆さんと同じです!
 約15分タイムロスとなったのだが、ようやく坂道を登り車に戻ると・・・この時間を利用して車の中でおにぎりを食べていた次男(お前は・・・!)
 大型ダンプから軽自動車の運転となった私だが、どうにも違和感がある運転となっていた。オートマを身体は覚えているはずなのだが・・・遊んでいる左足が・・・あるはずのないクラッチを探していた。また、運転席から見える景色も大型と軽では全く違い・・・まるでパンクしている車に乗っているような感覚になるのだ。
「お父さん・・・カッコよかったよ!」と、次男が私のダンプ運転を誉めてくれた(よ〜し!)
 車は清水平地区の坂道を登り、神社を過ぎようやく高須町までの一本道に入った。「まだ雪はあるかな?」と、私が話すと「うそ・・・もう雪は無いでしょ?」と、次男が言う。曲がりくねった道、その途中には日の当たらない箇所が数箇所あるのだが・・・・やっぱり・・・雪が少し残っていた。「ほら、雪だよ」「あっ!本当だ」こんな会話をしながら車は高須町に入った。
 高須町に入ってすぐだが道路に何人かのお母さん達の姿があった。車を徐行しながら顔を覗くと・・・お馴染み、智恵子さんたちだった(井戸端会議かな?)「こんにちは!」と声をかけると「藤田さんけ?」と、笑顔の智恵子さんたち(やっぱり高須はいい!)
 挨拶も簡単に車は小学校前の駐車場に着いた。私と次男が校庭に入ると、畑先生石村校長先生が笑顔で迎えてくれた。 「こぶ付きですいません!」と、話した私に「いえいえ」と、校長先生。いつものように職員室に入ると、この日は石黒先生(本郷小学校と掛け持ちだそうです!)もおられたのだ。
 お茶を頂きながら、あの卒業式の話に花が咲いていた先生と私たち。しかし、この日の修了式が最後になるのかと思えば何故か寂しい気分になってしまう私だった。
「岬ちゃんは?」と、尋ねると「授業中です!」と、話す畑先生。私はデジカメを持ち階段を静かに登って二階の教室に向かった。高須城小学校、最後の授業を撮りたかった私は、そっと扉を開けた。すると、笑顔で迎えてくれた藤川教頭先生岬ちゃん。すると「あっ、直人君だ!」と、岬ちゃんが声を出した。驚いた私の後ろには次男がいたのだ(邪魔をするな!)「どうぞ・・・どうぞ!」と、藤川先生の言葉にデジカメを構えた私。光くんの卒業以来、マン・ツー・マンでの授業が毎日の高須城小学校だった。
 だがそんな時、・・・・ドタバタ廊下・階段をかける音が聞こえてきた。そしてガラガラと扉を開ける音。光くんだった。後で先生たちから聞いたのだが、光くんは卒業式から後も毎日学校に来ていたらしい(暇だもんね!)。そんな光くんと次男が揃えば・・・静かな授業は無理となる。藤川先生もそんな子ども達を優しい微笑みで見つめていた。
 デジカメで数枚、教室内を撮り再び職員室に戻った私に石村校長先生「今日は修了式の他にあと二つ式を予定しています」と、私に話してくれた。
 そしてこの時、私は職員室の机にある一枚の紙に目を奪われたのだった。そこには「天谷岬」と書いてある《卒業証書》があったのだ(さすが・・・先生!思いは同じだった)。当然だが、一年早い幻の卒業証書授与となる岬ちゃん。容はどうであれ・・・この幻の卒業式に立ち会える私は感激しつつあったのだ。
 あの卒業式は多くの報道陣が駆けつけていたのだが、この日はその報道の姿もなく、ひっそりと粛々と行われそうな修了式・・・でも、それが似合う・・・高須城小学校だ。
 授業が終わり、校舎内では掃除の時間となっていた。講堂にはモップを手に藤川先生岬ちゃんが仲良く掃除をしている。「あっ、そこしたよ!」と、岬ちゃん「そうなの?じゃ・・・ここは?」「そこは・・・まだだよ!」そんな会話の二人だが、何故かそんな楽しそうに掃除をする二人をステージから笑顔で見ている次男がいた(お前も手伝え!)
 木造校舎ならではの温もりがここにはある。「レトロ」なんて言葉が適切だとは言わないが昭和の時代を過ごした私には懐かしい木の香りが子供の頃の記憶を蘇らせてくれる。そして、平成生まれの次男にとってもこの木造校舎は、秘密基地?でも思わせるような宝物がいっぱい詰まった大好きな処であった。
 そんな講堂で久しぶりに次男と二人、バスケをした私。ボールをドリブルすると、木の床から時を越えた音で私を楽しませてくれる。「ナイス、シュート!やっぱりお父さんバスケ上手いね!」と、次男が驚いている。そんな次男も私のパスからあのJOMO&全日本女子監督・内海君と握手した右手でシュートを打っている。つかの間の次男とのシュート勝負・・・だが、私の心は「やっぱり、ここ(この校舎)は残さないと!」そんな思いを強く感じていたのだった。
 午前11時15分、その講堂石村和道校長先生藤川純一教頭先生畑先生石黒先生そして出口調理技師さんが入ってこられた。岬ちゃん・・・何故か卒業した光くんもいる(何故かは失礼でしたね!私も次男も参加していました)
 そして・・・二人の報道関係者も取材で訪れていた。若い男女のカメラマンと音声さん?だろうか・・・(見たことある二人???・・・あっ!明道中学校での南極交信の時にもいたNHKの人だった)
 藤川教頭先生の式進行で修了式が始まった。最初は高須城小学校校歌斉唱だが、「僕・・・知らないよ!」と、私の横で次男が小声で囁いている(当たり前だ!私も知らない)。
 当然だが、NHKの二人と私と次男を除き、全員が大きな声で校歌を歌っている。1番・・・2番と歌い3番に入った時、私は何故か・・・悲しい気持ちに襲われていた。それは、もしかしてこの校歌斉唱は・・・公(おおやけ)には最後なのではないのか?と、思っていたからだった。高須城小学校131年の歴史で、いつからこの校歌が歌われていたのか私の知る由もない話だが、おそらくこれが最後の校歌斉唱となるのだろう。
《福井市高須城小学校校歌》
             作詞 木村 博見
             作曲 松尾 なよ
1. かおりとどめて 城あとの
   たかすの山に かすみ立ち
   九頭竜川は 銀の帯
   ながめ大きく 胸張って
   ひろいこころを やしなおう
2. 外が輪の峰の 松風は
   遠いむかしを ささやいて
   希望の血潮 かきたてる
   うたごえ高く 手をつなぎ
   学ぶしあわせ よろこぼう
3. 自由の空に 弧をえがく
   鷹のつばさは 日にひかり
   雪にかがやく 遠山の
   いただき越えて 行く雲の
   ひろがる夢を そだてよう
 目を閉じてこの校歌の詩を聞いていた私だが、高須の山からの眺望や棚田の風景、そして高須の町の皆さんの顔が瞼の奥に流れていた(いい詩です!)
 校歌斉唱の後、岬ちゃん石村校長先生から修了証が渡された。そして、幻の最後の卒業証書も渡された。先生方は優しい眼差しで岬ちゃんを見ていた。
 
「岬ちゃんは、良く頑張りました。いつも素直に話す良い子でした。通知表も家族全員に見せる元気の良い子でした。岬ちゃんのお父さんも、お母さんもお姉ちゃんもこの高須城小学校の卒業生でした。そして今、131年の伝統と歴史の中で・・・最後の卒業生となる岬ちゃん、いつまでもこの故郷を愛し忘れないでいて下さい。春から棗(なつめ)小学校に通いますが、環境が変わってもみんなと仲良く元気にして下さい」と、石村校長先生からの言葉が岬ちゃんにむけられた。
 私はこの時、横に並ぶ次男と光くんの顔を見たのだが、次男は少し感動・・・光くんは、いつものように笑っていた。
 次に二つ目の式となる、退任式が行われた。長きにわたり調理技師として子ども達に美味しい暖かい給食を作ってこられた出口さん、この春でご定年となるのだ。
 三十年もの間、先生とは違う角度で子どもたちの表情を毎日見つめていた出口さんは、鷹巣荘・西部給食センター・国見小学校に勤めてこられ、最後の四年間をこの高須城小学校で過ごされたのだ。私も一度、出口さんの給食を頂いた事があるのだが、美味しくて・・・温かくて・・・何よりも、愛情いっぱいの心のこもった給食だった(もう一度、食べたかったな!)
 岬ちゃん、そして光くんから花束出口さんに渡された。少し照れたような表情の出口さん「長い調理技師としての勤めの中で、この高須城小学校での四年間は一番の思い出に残る楽しい時間となりました。いつも元気な光くんや岬ちゃんは毎日、美味しい・・・美味しいと言って残さず給食を食べてくれました。本当にありがとう!」と、涙を浮かべていた出口さんだった(出口さん、本当にお疲れ様でした)
 そして、最後となる・・・お別れの会が始まった。ここでは、校長先生をはじめ一人一人が思い出を語るのだ。まずは、岬ちゃんだった。カメラを意識してか少し照れたような顔でステージ前に立った岬ちゃん高須城小学校での思い出を頭の中でよみがえらせ「私はこの小学校に通えて本当によかったです。学校が休校で寂しいですが、これからも頑張ります」と、力強く話したのだった。
 次は、藤川純一教頭先生の番なのだが・・・・この時、すでに涙腺が弱くなっていた藤川先生、昨年九月の赴任から光くん岬ちゃんの担任としての思い出を語りだしたのだが、涙声で切々と話す藤川先生には私ももらい泣き状態となっていた。「本当に二人には助けられました。この小学校に来れた事は私の教師人生には大きな大きな思い出です!」と、話された。
 予期せぬ(失礼!)藤川先生に・・・次の畑先生もすでに涙を浮かべていた。光くん岬ちゃんの顔を優しく見つめ「初めて来た学校が・・・ここでよかった。二人に会えて本当によかった」と、最後には声を詰まらせていた畑先生だった。
 最後は石黒先生の番だが、5年間この高須城小学校に通われたのだ。つまり、光くん岬ちゃんの入学当時から知っている先生なのだ。「光くん、岬ちゃん、あれから身長も伸びたね!五年の月日は、あっという間だったけれど一諸に遊んだ事はいつまでも忘れません。これからも中学生として、また、転校しても元気で頑張って下さい」と、話したのだ。
 講堂にいる全員が感動に包まれていた。涙が止まらない先生方。福井で一番小さな小学校だが、一番大きい大きい愛情がある学校が、この高須城小学校なのだ。カメラとマイクを向けていたNHKの二人も取材中なのだが、心から感動していたようだ。そして横の次男も・・・・!
 この後、校庭に場所を移し記念撮影となった。当然カメラマンは・・・私となった。レンズを覗く私に、石村校長先生藤川教頭先生畑先生石黒先生出口さん、そして光くん岬ちゃんは・・・輝いて見えていた。
 それぞれ離れ離れになるのだが、全員の心はいつまでもこの高須町小さな木造校舎に残っているはずだ。高須の町が育んだ優しい心・・・温かい心は、いつまでも続くはず。
 出来ることならまた再びこの校舎子どもたちの声が響く日が来ることを願う私だった。
 帰宅後、「感動したよ、お父さん!」と、話す次男だがその次男のこれからにも今日一日の出来事は大きな思い出となるのだろう。


△男の酒のつまみ・・235
 健康第一・・酢のもの!
 今が旬?だろうか、こうなごを酢味で頂く。は生でもボイルでもどちらでもいい。それぞれ単品でも十分なのだが、そこは少し贅沢感を味わいたい私。生わかめも加え簡単つまみとなる。この日の酢は、すし酢を使うのだが・・・そのままでは甘く濃いすし酢。少し水でのばしながら好みの味にする。
「健康にいいね・・・酢のものは!」と、中年おじさんならではの今宵の晩酌だ!


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【三月の十/春は先生達の異動の季節!】3月26日(月)

「桜前線・・・只今、福井県上空を通過中!」なんて叫びたくなるように、日毎に桜の花もそろそろ満開モードのようで、そんな美しい桜がある毎日自宅近くの足羽川堤防を眺めている私だが、この時期になるとこの近辺は、その桜の美しさに引き寄せられるように、多くの人々が集まり予期せぬ交通渋滞になることがあるのだ。
 日本の桜100選の中のひとつである、この足羽川桜回廊には地元・福井の人もデジカメや写メールでその美しい桜ピンクを記念に写すのだが(毎年見ているのに・・・やっぱり綺麗!)、県外からも多くの桜ファン???がこの足羽川に訪れるのだ。被写体である桜並木の絶好のカメラアングルポジションをと、自家用車や観光バスがあちらこちらと道路を縦横無尽に横断するのである(危ないです!)
 桜の美しさに惹かれると、車はアクセルよりもブレーキに足を置くのは当然となり、そうなるとついついの路上駐車は当たり前で・・・対面の足羽川堤防には臨時の駐車場があるものの「ちょっとだけ!」の路駐の車が多くなるのである(まあ・・・仕方ないかな???)
 さて昨日の事だが・・・・のんびりと日曜日を布団の中で過ごしていた私に「行ってきます!」と、妻のお出かけの挨拶の声が聞こえきた(黙って行けよ、寝てるのに!)。 またまた、綱引きの大会へと出かけて行った妻だが、そんな妻が出かけて行くと・・・静かな我が家・・・となっていた。
 次男は昨日から少年自然の家にて二泊三日で子ども会リーダー研修会???へ参加でおらず、つかの間の・・・独身気分となったのだ。となれば・・・鬼のいぬ間にと、善からぬ事を考えるのは・・・何故だろう?
 妻が乗った車のエンジンの音が遠ざかると、私は寝床からムクッ!と起きだし・・・部屋に閉じこもった。そして、溜まりに溜まった趣味関係のビデオの整理を始めたのだった(変な?ビデオではありませんから!・・・念のために)
 タイトルが付いていないビデオを並べ、1本ずつ巻戻しをして再生する。「このビデオは、何を録画したんだっけ!」と、「あっ、これは教育関係だな!」「これは、農業改革だったな!」「これは、日テレのものまねだな!」なんて独り言を言いながら、これはこれで楽しい時間を過ごしていた私だった。しばらくすると小腹が減り、朝だというのにカップ麺で済ますことにした私はお湯を入れ、麺をすすりながら・・・ビデオの作業を続けていたのだった。
 ビデオは順番に積み重ねながら残り少なくなった麺を箸ですくった時だった。ドン・・・と軽い揺れが身体に伝わった。「あっ・・・地震だ!」と、感じたのだが別に気にも止めずに麺をすすろうとしていると・・・・部屋の中はグラグラと揺れだしたのだ。「おっ!少し・・・大きいな!」と、縦揺れ・・・横揺れの感覚に、いつの間にか箸も止まっていた私。時間にして30秒以上は揺れただろうか、気がつくと整理済みの積み重ねていたビデオテープは・・・崩れていた(当然だ!)
 テレビ画面をビデオモードからノーマルに直すと、石川県能登半島近郊の日本海が震源と速報があった。「近いな!福井は震度3か!」と、確認するとまたまたビデオの整理にかかった私だった(呑気な奴!)
 お昼近くになると、テレビでは地震による石川県能登半島の門前町和倉温泉などの被害状況が伝えられてきた。中継されている画面にはいくつもの家屋が倒壊されている。それは私の予想外の被害となっていた。輪島塗りで有名なこの地方だが、そんな伝統工芸に被害はなかっただろうか?また、ここの地区にも高須町と同じような棚田があるのだが、春の田植えは大丈夫だろうか?と、画面を見つめながら心配していた私だった。
 そんな時、携帯電話が鳴ったのだが・・・田中先生だった。「地震・・・大きかったですね!高須の道は大丈夫ですかね?」と、こちらは復旧中の高須町の市道を心配する田中先生だ(そうそう高須町も自然災害は多いのです!)。電話で地震の事や高須町の事、そしてHPの事などを話し電話を切った私だが・・・・この数日、田中先生の異動の有無が何よりも心配だったのだ。
 毎年、この三月末は先生たち教職員の異動の時期となる。これは新聞などにも大きく公表され「あの先生は、あの学校か!」と、知り合いの先生の異動が大いに気になる時期なのだ。
 昨年から「来年はおそらく、転勤でしょう」と、話していた田中先生が、明道中学校に赴任されたのは6年前の話である。数年前より〔七年〕を一つの規準とする教育委員会の方針があり、昔のように長いベテラン教師がいなくなる・・・そんな理不尽?な事になっているのです(やはり、各学校には一人か二人は十年近くのベテラン教師は必要です!・・・『これは私の見解です!』)
「先生、もう一年ふんばって!」と、田中先生を明道中学校に引き止めたい私だったのだが、その理由は3つあり???あくまでも個人的希望なのである(やっぱり!)
一つ目の理由は、次男が明道中学校入学までいて欲しい。
二つ目は、田中先生が他校へ転任すれば高須町HPで今までのようにご無理はさせられない。
そして、三つ目だが・・・田中先生が明道中学校に必要なベテランの先生だからである。
 順化小学校を卒業した次男も、田中先生の異動の件については大いに気にしているようで
「ねえ、お父さん田中先生転校しないよね?」
「先生は転校とはいわないよ!異動と言うんだよ」
「大丈夫かな?」
「さあ・・・ね?」と、こんな調子の会話がこのところの親子の会話だった。
で、肝心な田中先生の異動だが、無事な事に異動の辞令は無く、胸を撫で下ろした私たち親子となったのだった。
 田中先生が明道中学校に赴任された年に、私はPTA会長の一年目であり、それ以来何かとお世話になっていたのだが急速に親交を深めたのは、長男が卒業して私が学校評議員となり・・・そうそう高須町のホームページ開設の件でパソコンに詳しいと評判の田中先生に相談したのがそもそものきっかけだったと記憶している。
「先生、少しご相談というかお知恵を拝借したい件があるのですが」と、職員室の田中先生に話しかけたのを今でも鮮明に覚えている。「私で出来る事でしたら」と、快く相談に乗って下さった田中先生を、この数日後・・・誘拐する?ように車に乗せ、高須町へと連れて行ったのは三年前の秋だった。
「ここが高須町です!」「わあ・・・凄く好い所ですね!」こんな会話が田中先生の高須町の日だった。その日以来、高須大好きになってしまった田中先生は、デジカメ撮影や取材など、この高須町公式HPに関して誰よりも中心的な存在となって活躍していただいたのだった。
「もし、田中先生にめぐり会わなければ高須町のHPは存在しなかったよ!」と、植木御大佐々木さんも話していた(同感です!)。HPの他にも、資料やパネル等も田中先生がほとんど一人で作成して下さり、田中先生には頭が上がらない私であった。
 そんな田中先生がこの高須城日記に初登場したのは平成17年の四月の一だった。「某中学校の先生!」と、田中先生を文中で紹介した私だったのだが、いつしか検索で、「某中学の・・・」で田中先生を探せるようになっていた。
 そして、いつの間にか「明道中学校の理科の田中先生!」と・・・・個人情報保護も無視していた私となっていた。
 高須町の一年で、「田中先生の姿が見えないと寂しい!」なんて声も聞かれるほど、地元の奥様方に人気の田中先生だが、その勢いはFBC川島アナウンサーと二分するくらいだ。棚田を飛び回り、オーナーの皆さんの表情をパチリと撮影する田中先生は、すでに高須町棚田オーナー制度に欠かせない存在なのだ。
 田中先生の異動は最低でも一年先となったのだが、今年もまた二人で高須町にお邪魔するのが今から楽しみになっている私だった。
 休校となった高須城小学校石村和道校長先生は、県の教育研究所の課長に栄転され、また、藤川純一教頭先生本郷小学校(近くだ!)の教頭先生として活躍されます。
 でも・・・まだまだお二人の心は、高須町らしいですよ!


△男の酒のつまみ・・236
 味噌ホルモン!
 コレステロールが気になるのだが、何故か食べたくなるホルモン!色々な種類がスーパーに売られているが味付け味噌ホルモンが私のお気に入り。野菜(キャベツ・ニラ)も一緒にフライパンで炒め・・・味噌風味が何ともお酒を勧めるのだ!

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【三月の十一/別れの・・・時!】3月31日(土)

 桜の花が咲き乱れ息を呑むほどの美しさが今、足羽川堤防や足羽山にある(ちょっと、おおげさかな!)。しかし、言葉で表現の出来ぬほどの美しさを本当に輝かせているのも事実だ。
 だが、この桜の花が咲いたら咲いたで「僕の入学式まで咲いているといいのになあ・・・」と、来月六日に明道中学校での入学式を控えている次男は、毎日の天気予報を食い入るようにチェックしている(気持ちは分かる!)。
 桜が満開となれば、何故だかが降り・・・が吹き、短い桜の花の命が尊くなるのもこの時期ならではの人の心理となるのだ。
 さて昨日の事だが、私は高須町へ・・・いや高須城小学校へとデジカメを持ち石村校長先生たちの離任の様子を取材しようと考えていたのだ。
 何故なら・・・三月十六日光くん卒業式、そして二十三日岬ちゃんのあの修了式とお別れの会と続いた高須城小学校だったのだが、先生方は昨日の三十日までが勤務となっていたからだ。そこで、先生方が最後に高須城小学校を離れるその様子を記念に撮影しようと準備をしていた私だが、結局それも叶わない事となったのだ。
 それは、同じように明道中学校の離任式後、転任される先生方も私の所に挨拶に来られるからなのだ。普通ならば、高須町を優先する私なのだが今回の明道中学校の離任される先生方は私がPTA会長時代からお世話になった先生方や、長男が中学時代に担任して頂いた先生、それに部活でご指導頂いた先生達だったからだ。
 車二台で私の店に離任の挨拶に来られた先生たち、どのお顔も色々な思い出があった先生の顔ばかりだった。「お世話になりました!」「いえ、私たちこそ藤田さんにはお世話になりました!」と、硬い握手で別れの時となった。この時、入学を控えた次男も私の横にいたのだが、ひとりの先生が次男の手を取り「藤田君・・・明道を頼むよ!」と、声をかけてくれた時は、少し涙腺が弱くなっていた私だった。
「また、どこかで!」と、二度と会えないわけでもないのだが・・・・それでも何故か悲しくなる先生方との別れの瞬間だった。
 出会いと別れ・・・長い人生には必ず何度かあるのだが、出来れば別れの時は・・・味わいたくない私だった。
 そして、同じ頃・・・・高須城小学校でも・・・・石村和道校長先生、藤川純一教頭先生、畑先生が高須城小学校の校舎の灯りを消し・・・慣れ親しんだ小学校を後にしたのだ。
 おそらく、玄関の鍵を閉め校庭から門に歩くと、先生方は思い出がいっぱい詰まった木造校舎に向かい深々と一礼をしたことだろう(ああ・・・取材したかった!)
「あれ(修了式当日)から私の中では・・・時が止まっているんです!」と、藤川先生がメールでその心境を私に話してくれた。それは石村校長先生畑先生も同じだろう。
 長い教師生活にはその年その年で数々の想い出があるのだろうが、やはり高須城小学校の先生方は今年離任される県内多くのどの先生方よりも、その思いは誰よりも大きく心に残るものだったことだろう。
「初めての学校がこの高須城小学校で私は幸せでした!」と、涙を流していた畑先生だが・・・これからの長い教師生活を考えれば逆にこれからが茨の道となるかもしれない。それほど高須城小学校は誰からみても最高の学校だったと言えるからだ。
 そして石村校長先生も休校が決定した昨年秋以降から、何か悲しい表情が見え隠れしていたと、私は感じていた。だが、子どもの前ではそんな顔は見せず、黙々と毎日の経営責任者としての校長業務と、また、高須町の皆さんとの間で休校検討委員会を設け、休校以降の学校の在り方など、その準備をされていたのだった。
 年度末、この時期・・・卒業・・・転勤・・・離任・・・と様々な容で、人はそれぞれ悲しい瞬間を迎えるのだが、そんな事を経験しながら・・・人はまた少し大きくなるのかもしれない。
 そして、私のこの高須城日記も今年度の最後の日記を書き終えようとしている。過去二年間、くだらない内容ばかりで読者の皆様にご迷惑をおかけしてばかりでしたが、それはそれで私自身楽しい日々を過ごさせて頂きました。
 来年度につきましてはこの高須城日記がどのような容でこのHPに登場するかはまだ分かりませんが、新しい著者になりましても変わらぬご愛顧を頂ますよう心からお願い申し上げます。
「本当に二年間、有難うございました!」
福井市・藤田幸治


△男の酒のつまみ・・237
 高須町産で満腹気分!
 つまみ?とは言えないのだが、「貴方は、お酒を飲む前にご飯を食べないから・・・これ食べて!」と、お盆にのせてきた妻(珍しい・・・明日は雪かな?)
 そのお盆の上にあったものは、高須町産コシヒカリ「げんき米」のおにぎりが2個と、こちらも高須町産の大根で漬けた沢庵だ。勿論、漬物のげんき米のものだ。
 温かいおにぎりの中身は大好物の・・・たら子で、一口ほおばると何故か川島アナ大島アナに初めて会った高須町の棚田を思い出す私。
沢庵の味も・・・少ししょっぱくなっているのだが、これはこれで美味しいものだ。「やっぱり、高須町の味は最高です!」


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