高須城日記U(新春編)


(平成十七年度・棚田オーナー/福井市 藤田幸治)


高須城日記Uのトップに戻る





【一月の一/謹賀新年・戌年男の舞】1月1日(日)

 皆様、新年明けましておめでとうございます。私の平成十八年書き初め・・・ならぬ、打ち初めの高須城日記ですが本年も宜しくお願い致します。
 この時ぞとばかり掃除に追われた大晦日でしたが、何とか無事に新年を迎えることが出来ました。それにしても、洗車だの家の内外の掃除と普段から掃除をしてるつもりでも、想像以上に汚れは溜まっているもの。居間のテレビ画面を拭いた次男などは「わっ!真黒だ」と、手のテッシュを見て驚いていた。
「原因は・・・お父さんの煙草だよ!」と、話すと「じゃ、煙草を止めたら!」と、注意をされた。家族6人が店や自宅と奔走しての恒例の大掃除だが、この時ばかりは母や妻の指示に従い「はい、はい」と、動かなければならない。それでも、隙をみて長めの休憩を取る私。
 次男に注意されたその煙草で一休みなのだが、テレビを付けるとこしひかり娘(大島アナ)が映っていた。25ch(北陸朝日放送)での番組で爆笑問題が司会だったのだが、系列の女子アナが多く出演していて、クイズ形式で優勝者を決定すると言う。最初の組に登場した大島アナだが、この日は余り目立たず騒がずで・・・予選落ちだった。(でも、何故ハブヌンチャクなのか?・・・あっ!問題の一つで、沖縄の有名なカラオケ店主がショーをするのだが、あるヌンチャクを使い凄く危険なショーでお客さんを冷や冷やドキドキさせると言う。さて、そのヌンチャクの先には何が付いているのか?・・・が問題で・・・答えは「鎌」です)
 珍しく、御淑やかな大島アナを見てしまった私だが、楽しみにしていた「高校サッカー」を次に見た。丸岡高校対佐賀東だった。前半の良い時間に先制点を挙げた丸岡だったが、ディフェンスの甘さが気にかかっていた。後半、その予感が的中して同点になり、PK対決で負けてしまった。小阪教頭先生最後の大会で気負う選手たちだったのだが、国立競技場まで勝ち進めなかったのは、残念だった。そして、その丸岡高校のベンチ情報を伝えていたのは、川島アナだった。茨城県出身の川島アナだが、関東(丸岡高校の試合は千葉県・市原臨海競技場)で開催されているこの大会だから暫しの帰省となるのか、福井にトンボ帰りになるのか、どちらにしてもアナウンサーは大変な仕事である。
 夕方、大掃除を終え妻と次男で今年最後となるお買い物に出かけた。どこの売り場でも混雑している。食品売り場は特にすごい人で、正月用おせちコーナーには品定めしている人で賑わっている。我が藤田家は、数年前から大晦日の夜は手巻き寿司で元日の夜はすき焼きとなる。勿論、おせち料理はあるのだが時代なのか長男も次男も余り食べない。特に、お雑煮となると「僕、お餅2つ!」「僕は、1つ!」と、少ない。どうしても、美味しい白米(高須産こしひかり・げんき米)がいいようだ。
 とにかく、手巻き寿司用のお刺身各種とすき焼き用お肉を買うのだが、あれやこれやと(どれにしようか)迷うのだ。
 最近、私のつまみの影響で刺身類が大好きになった次男、これまで手巻き寿司となると、「僕はシーチキン巻き!」オンリーだったのだが、バリエーションが増え刺身を選ぶのにも参加するようになった。大量の刺身類や蛸や蟹を買い、次は牛肉(すき焼き用)を買う。これは、私の担当で・・・約2キロの高級和牛?を購入した。(年に数回だから、いいか!)
 スーパーで大量に食材を買い、家に戻ると父が玄関で正月用しめ飾りを付けていた。そう、次男が高須町で作ったあのしめ飾りである。昨年から店と自宅では高須町のしめ飾りが付けられるのだが、その形が珍しいのかご近所の方から「どこで買ったの?」と、よく聞かれるのだ。「僕が作ったんだよ!」と、説明する次男だがやはり嬉しそうな顔だ。
 夜になるとようやくいつもの落ち着きをみせる、我が家族だが、手巻き寿司を食べながら「紅白」(父&母)「格闘系」(長男)「ドラえもん」(次男)「紅白&格闘系」(私&妻)と別々になる。五木ひろし「命」の父と母はその登場となる深夜まで就寝を我慢するところとなる。私は新聞の紅白登場順を見ながら、お気に入りの歌手の所だけを見る事にしている。
 2画面での落ち着きのないテレビ鑑賞だが・・・幸田来未曙VSボビーの時間だけはノーマルで見ていた。
 除夜の鐘が遠くで聞こえ、新年を迎えたところで次男を連れ、近所の神社に参拝に行く。何人かの参拝客が来ていたのだが、皆さんいつもより長い参拝となっている気がした。次男と私も家族の健康や高須棚田の豊作を願いながら、手を合わせた。そして、横にある「おみくじ」を引くと・・・次男は「大吉」、私は「中吉」だった。そう言えば、今年が年男となる次男(12歳)だが、横に並ぶと少しづつではあるのだが身長が伸びているような気がしている。いつかは、その身長は追いこされるのだが、早く抜いてほしいような、まだまだ抜いてほしくないような複雑な心境である。
 深夜1時前、新年の参拝から帰宅した次男だが「もう寝なさい!」の私の言葉に素直に聞く。何故なら、明日朝には祖父母から「お年玉」が貰えるからだ。余程期待しているのか嬉しいのか、その表現を変な舞で表している。これが今の小学生だろうか。自分が小学生の頃、千円を貰えれば飛び上がるほど嬉しかったのに、今は一万円と十倍になっている。
 元日・・・朝、食卓には父と母、それに妻と私。長男と次男はまだまだ初夢の中なのだろう。父と私は正月ならではの熱燗で初酒となる。つまみは、おせちの中の紅白の蒲鉾・いくら・きんぴら・海老で、ついつい飲みすぎてしまう。お雑煮を食べた頃だが、やはり朝からのお酒は眠りを誘う。
 元旦の駅伝(実業団)を見ながら暫し仮眠となった私。妻は新聞のチラシを見ながら、明日の福袋をどこで買うのか迷っている様子だ。(毎年の事!)遅く起きた、長男と次男はお年玉を大事そうに抱え、満面の笑みを浮かべながら何回も袋の中を見ている。(これも、毎年の事!)「無駄使いするなよ!」と、私の言葉にも「うん!」と軽く返事をする次男だが、どうやら明日、そのお年玉でゲームソフトを買う事に決めているようだ。(今年もゲームか・・・!)
 昨年末から大雪となったこの冬だが、珍しくこの元日には晴れていて、雪たちも雲の中のコタツで正月気分となっているようだ。
 新年を迎え、家族の健康と店の繁栄、そして高須町での豊作を願った私だが、人生の折り返しとなる五十を過ぎ、新たなる目標(内緒!)を誓う平成十八年元日となった。


△男の酒のつまみ・・・79
 正月となると、七草粥までどうにも胃が重くなる食べ物が続くのだが、時々あっさりとしたものが欲しくなる。
 サラダ感覚で、レタス・薄くスライスしたキュウリ・トマト・それに蒲鉾を少し炒めたものを食べる。ドレッシングは簡単にポン酢とサラダ油を1:1で混ぜたものでOK!材料はお好きなものを・・・でも、あっさり感を忘れずに・・・。





【一月の二/ふくい食育元年!】1月5日(木)

 この正月三が日を、のんびりと過ごした私。テレビの前と食卓の往復がメインで、後は寝て過ごした。特に正月恒例の大好きな「箱根駅伝」(2・3日)を満喫した。応援していた駒沢大学五連覇は意外の結末となり、予想もしていなかった亜細亜大学初優勝となった。この伝統の箱根駅伝だが、やはり今年もドラマがあった。今大会は駒沢大・順天堂大・東海大・日本大・日体大と優勝候補が戦前の予想だった。しかし、エースはいないものの総合力の駒沢大が優勝と誰もが思っていたに違いなかった。
 往路の5区で昨年の快走を再び見せた、順大の今井選手(坂登りのスペシャリスト)はやはり凄いと言うべきで、その順大が往路優勝で駒沢大が2位で好位置に付けていた。「やはり、駒沢か!」と感じていた。
 翌日、30秒差のスタートで順大・駒沢と復路をスタートして行く。いつ駒沢が追いつくのかと期待しながら見ていたのだがその差は縮まらない。そして、私が「駒沢はダメだ!」と思った瞬間が来た。それは6区で駒沢の選手が給水の水を頭・足とかけた瞬間だった。実は、この箱根駅伝の回想の番組が年末にあった。その中で、確か駒沢のOBが「あの行為は、今でも何故あんな事をしたのか、解らない!」と、言ったものだが、それは給水でやはり水を足にかけた行為だったのだ。
 1月の箱根路、風は冷たく選手が感じる体感温度を下回る事は明白である。「無意識のうちに水をかけた!」とOBが語っていたが、その行為を同じ駒沢の選手がしてしまったのだ。
 この直後、筋肉が硬直し足が動かなくなった駒沢大は大きな差を取られてしまう事となった。それでも、今回のドラマとなった平塚―戸塚間(21.5キロ)で順大の難波選手の脱水症状の間、駒沢が抜き返し8区までは1位となっていた。私もレース(自転車のロード)で経験があるが、この脱水症状は突然襲って来るのだ。足は動かずどうする事も出来ない。慌てて給水するのだが、一度止まりかけた足は回復することはないのだ。「チャンスだ、行け!駒沢!」と、叫ぶ私の横で涙を見せながら、その順大選手を応援する妻。「頑張れ!頑張れ!もう少し!」と泣いている。
 実況(中継車)のアナウンサーも涙声になっていた。主将として、4年生最後の箱根の駅伝として、襷にかけるチームも思いを感じながら1歩1歩と次の選手が待つ中継所まで意識が朦朧としながら足を動かす。
 おそらく、この中継を見ていた視聴者は感動を覚えたことだろう。6区での給水問題では冷たい風が吹いていた、だが8区では気温10度、そして予想以上に日が差していた。スポーツには筋書きのないドラマがある・・・だから、面白い。
 さて、新年に入り元日、3日と新聞各紙の特色として農業や食育が多く取り上げられていた。こしひかりが誕生して今年で50年、全国でも長寿の県と有名になった我が故郷・福井県、その福井の食文化が私たちに大切なものを今・・・
 いや昔から与えてくれていた。それを、当たり前のように考えもせず口にしていた。贅沢とは程遠い食生活をしていた私の両親の時代、高度経済成長の中、欲しいもの食べたいものはある程度与えられていた私たちの子供時代、そして今・・・その親が自分の子供に食べさす食品は、どうだろうかと真剣に考えてみたことがあるだろうか。安全?産地?品質?など余り考えてはいないのが正直なところではないだろうか。
 この日本は今、世界のありとあらゆる食が入ってきている。世界一とも言われるその食の宝庫の日本、必ずしも安全と言える食の流通は無いような気がする。BSE牛肉問題も誰を信じて購入すればいいのか疑問を持つ。食料自給率約40%のこの日本、私たち日本人の食糧を賄う外国産だが、その農地面積は日本の農地の約2.5倍にもなると言うのだ。野菜・肉・魚と輸入される日本の食の安全面は、本当に大丈夫なのか?、また、今後それはどうなっていくのか?、そんな事を考えると、やはり少しでも自分たちで作る事をしなければならないだろう。少しでもいいから自分たちで・・・。
 今、休耕地が年々増えつつある。遊ばせた土地、つまり土壌は再び生き返らせるには大変な労力がいる。いや、一度死に掛けた土地を生き返らせる事は、出来ないとも言える。
「農業をやろう!」とは言わない。「農業に少しでも、携わろう!」と、言いたい。高齢化&過疎化に悩む農業、だが、その経験豊富な先生(農業従事者)に今その経験を学ぶ必要があるのではないだろうか。近年、農業分野に参加するという企業が増えてきた。「土地を遊ばせたくない」「これからは農業新時代です!」と、企業のコメント。利益重視だった大手企業が農業に参入する時代が来ている。大都会のビルの地下で米作りが行われていたり、同じように想像もつかないビルのスペースで野菜が育てられている。
 真すぐなキュウリ、虫食いがないキャベツや白菜・・・こんな野菜が今、あたり前のようにスーパーに並べられている。これは、私たちが見た目でそんな野菜を買うからで、そのような野菜しか売れないからだろう。しかし、曲がったキュウリ・虫食いの痕が残るキャベツや白菜が本当の農家の野菜ではないだろうか。太陽の下で農家の皆さんの手塩にかけて育てられた野菜が本来の昔からの日本の野菜の姿である。見た目重視よりも、安全な野菜を今私たちの子供に教えなければならない。
 食育の大切さを私たちが再発見する時がきている。「ふくい食育元年」と、言うべき時がきた。少しでもいいから食を勉強し次世代に繋げていかなければならないだろう。


△男の酒のつまみ・・・80
 セロリが大好きな私だが、そのほとんどがマヨネーズを付けて食べる。今回は少し風変わりの食べ方を紹介しよう。マヨネーズをベースにマスタード、和風ドレッシングを3:1:1でよくかき混ぜる。ドレッシングはお好みの物を・・・イタリアンでも青しそでもOK!





【一月の三/高須町は今年も熱い!】1月6日(金)

 新年早々、この北陸地方には新たな寒波が来ている。特に新潟県津南町では屋根雪などが道路に壁のように積まれ、その移動にも新たな雪にも苦慮しているようだ。一部では自衛隊の災害派遣が発動されたと言う。これからが雪本番となる日本海側、少しでも雪が降らない事を祈りつつ、新潟と同じように私達も雪対策を考慮しなければならないだろう。
 さて、昨年の高須町は色々な意味で多くの賑わいを見せた一年だった。過去最高の棚田オーナー参加者の皆さんで賑わい、北陸農政局の局長賞を頂き、またFBC福井放送(げんき米プロジェクト・ライススタイル)福井新聞(四季バージョン)や報道各社のお陰で、一躍有名になった年だった。
 そんな年の翌年は、どうしてもトーンダウンしてしまうものだ。昨年末の事だが、「来年はどうしよう!」「地道にホームページで頑張ろう!」と、スタッフみんなで話していたのだった。しかし、そんな我々の心配も新年早々に吹き飛ぶ嬉しい記事が新聞に掲載された。昨年のこの日記【十二月の十二】の中で紹介した、読売新聞の取材が1月5日付で、さらに、本日付の福井新聞で同じく高須町が大きく取り上げられていた。この二日続けての紙面の掲載には、田中先生も「これは・・・凄いです!今年も、高須町は賑わいますよ!」と、興奮していた。で・・・高須町の佐々木さんはと言うと「ほう・・・!」と、こちらは意外にも冷静な様子。  では、この紙面を見過ごした方に全文を紹介します。
(読売新聞・1月5日付)
【すこやか福井】・・・食育の現場から(農業体験)
「棚田貸し、山菜採りも」
 福井市西部の山あいにある高須町。海抜約200bのこの地区の山肌には、棚田が広がる。昼夜の寒暖を生かした米作りが盛んな地区だ。47世帯164人のうち、高齢者世帯が6割超。そんな小さな地区の取り組みが、いま、注目されている。過疎に悩む同地区は、2000年、耕作されなくなった水田に着目。60〜70歳代を中心にした住民16人が、「高須城山棚田オーナー」制度をスタートさせた。オーナーには、100平方bの水田を貸し、田植えから稲刈りまでを体験してもらう。同地区の山林を、山菜採りなどにも開放している。
「よう来たのぉ」「おじいちゃん、おばあちゃん、元気やったか」昨年12月11日、同町の集落センター。約50人が参加した収穫感謝祭。地区住民と同市内や関西などのオーナーの家族らは、約3か月ぶりに顔を合わせ、弾んだ声であいさつを交わした。感謝祭では、地区のお年寄りの指導で、都会っ子たちが手でわらをもみながらしめ縄を作り、棚田でとれた米で作ったぼたもちなどを食べた。
「米はどうやってできるかを知り、おいしい高須の農作物を食べてほしい」。区長の植木正義さん(76)は、そう願う。
 05年4月に開設したホームページは、37万件以上のアクセス。そんな影響もあり、始めた4年前は約20組だったのだが、昨年は37組121人が、オーナーに参加した。
福井市大手、藤田幸治さん(50)は、二男直人君(11)らと一緒に04年から参加している。田植えではぬるぬるとした泥の感触に心地良さを感じ、稲刈りでは黄金色の稲穂が実った稲を運び、育った半年間の重みを学んだ。
「米を作るのがすごい大変なことだとわかった。食べ物を無駄にしてはダメだと思った。学校や家でできないことがたくさんあって楽しかった」。直人君は、野菜などの好き嫌いも少なくなった。農業体験は親や地区住民にも変化を与えた。
「初めは興味本位だったが、大切なものが学べる宝の山と感じるようになった。子どもは、日常では得られない苦労や困難を経験し、食べ物を大切にする心や観察力がついてきた」。 藤田さんは、これからも続けるつもりだ。
 植木さんも「有名になることで化粧をしたり、元気になったり。地区の年寄りが変わった」。棚田オーナーを始めて以降、運動会や食事会などにも地域外の子どもたちを招き、自家製の作物を使った料理を振る舞い、交流も盛んになった。食を考え、地区の活性化や、人が足を踏み入れる里山保全にも一役買い、「一石三鳥」の効果が出てきた。
 植木さんの構想は膨らむ。「短期でも長期でも滞在できる施設を作り、最終的には住んでもらいたい。衣食住の3要素を忘れたら、人間形成にならん。本来の食の姿を取り戻すためにも力を入れたい」

 県内全体の耕作放棄地は05年で16万3507eと、10年前(7万1000e)と比べ、2.3倍に増加。全農地の4%を占める。販売農家の従事者数は05年で、7万9685人と10年前(10万5023人)から24%も減少。後継者不足は農業生産にも影響を与え、深刻な問題だ。
 体験農業事業の立ち上げに携わり、グリ−ンツーリズムに詳しい拓殖大北海道短大の橋本信教授は「農業体験で食べている元がわかる。農業と無縁の食生活を見直し、食と命の大切さを理解するきっかけになり、心身も豊かにする。子どもが農家の応援団になり、農業に携わる人も出てくるだろう」と話している。

(福井新聞・1月6日付)
高齢化集落に活気もう一度
「高須町へ移住して」子どものいる家庭、大歓迎
一軒家、田畑 格安で提供
 住民の高齢化と過疎に悩む福井市高須町は、人口を増やして活性化を図ろうと集落内に移住する人の募集をスタートさせた。一軒家や田畑を格安で提供するなど、集落を挙げて受け入れ準備を整えている。

 高須城山の中腹にある高須町では、現在四十七戸約百五十人が暮らしている。六十五歳以上が六割以上を占め、高齢化が深刻な問題。「自分が元気なうちはいいが、将来はどうなるか分からず不安」という声が上がっていた。昨年から住民でつくる「村づくり推進委員会」で今後の方向性を議論した結果、「自分たちの代で集落をなくしてしまうのはいけない」という意見が強く、地域内に五軒ある空き家や田畑を活用し、移住希望者を募ることに決めた。
 住宅は集落内にある一軒家を月に一万円前後で提供。田畑の貸し出しはそれぞれの希望に応じて対応し、広さに制限は設けない。農業を本格的に始めたいという人はもちろん、土日だけでも農業をしたいという人には地元農家の生産組合が管理を支援する。高須町に住みたい人は誰でも歓迎するという。
 昨年末には、四年前から始めた棚田オーナー制度の利用者から「集落内の畑を貸してほしい」という申し出があるなど、集落の魅力をPRしてきた推進委員会の狙いが徐々に浸透し始めている。
 植木正義委員長(76)は「まずは廃校の危機にある小学校の存続が目標なので、子どものいる家庭は大歓迎。若い力を取り入れ、もう一度活気のある高須町を取り戻したい」と話している。(終)

 高齢化&過疎化に悩むのは全国でも多くある。少子化に伴い人口も減少傾向にある現在、農村ばかりか町や市、県単位でもその対策に乗り出している。高須町にある高須城小学校も何度も言うようだが、全校児童3人で今春(4月)には2名(6年・5年)となる。しかも、新入生の予定は無く、存続の危機は高須町住民の悩みとなっている。「子どもの笑い声が響く町」は住民の願いである。団塊世代が今、農業に取り組むという話は多く聞くようになってきた。また、若い農業従事者も増えつつある。高須町の美味しいお米を守るのは先人たちの願いと今、高須町でその農業を継承してきた住民の皆さんの思いであろう。
 新たな一歩、高須町の未来への幕開け、植木御大を中心に高須町の皆さんは明るく前向きに今年も農作業に取り組む事だろう。
 雪がうず高く積まれた高須町の道路脇、田畑も一面の銀世界。だがその雪は春の訪れと共に融け、高須山の清らかな水となり田畑の土に新しい息吹きをもたらす。


△男の酒のつまみ・・・81
 私は子どもの頃から、どうゆう訳か銀杏の入ったがんもどきが好きだった。中を箸で開き、銀杏があると嬉しくて好んで食べていた。スーパーでそのガンモを探した。ようやく見つけた。家に帰りおでんダシでガンモに味付けする。和がらしを付けて頂く・・・最高!





【一月の四/七草粥に正月忘れ】1月7日(土)

 毎日の新聞やニュースで見る、冬型の天気図もほとほと飽きて嫌になりつつある。暫しの曇り空をみては除雪をするのだが、気温が低く凍りついた雪の下はスコップの先が曲がるほどである。除雪をすれば汗をかき、洗濯物が増え、ストーブの前は臨時の物干し場になる。これが冬の福井であろうか。
 正月から一週間が過ぎ、幾分増えたであろう体重もこの毎日の除雪作業により戻りつつある。お餅を食べ過ぎ重く感じる胃も、そろそろ正月忘れをしなくてはならない。そんなこの時期、日本の伝統との言うべき正月過ぎの「七草粥」は、この時期有難いと言えるだろう。
 春の七草(1月7日)セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七つは私でもどうにか覚えている。しかし、余り食べない「秋の七草」は・・・言えない。そこで、辞書で調べてみると、秋に咲く代表的な7種の草花とあり、ハギ・ススキ・クズ・ナデシコ・オミナエシ・フジバカマ・キキョウとある。毎年クイズや、常識問題として話題になる「七草」だが、・・・正直言うと、よく知らないのである。私の母に聞くと「そんなもんは、昔はそこらへんに、生えていたからどこにでもあった!」と、簡単に言う。しかし、農家の皆さんはともかく、スーパーのパック売りが当たり前の私たちには、一度でいいから自前で揃えてみたい・・・が、願望である。高須町だったら全て揃うであろう。そんな七草を少しお勉強してみよう。
 七草を1月7日にお粥にして食べるという習慣は、江戸時代に広まったそうで、この七草はその時代や土地によって多くなったり逆に少なくなった時もあったそうです。では、どうして七草を食べるのかと言えば、年頭にあたって豊年を祈願し「今年一年、家族みんなが元気で健やかに暮らせるように」と、願う事から始まったそうです。
 では、どうしてお粥かと言えば、七草は早春にいち早く芽吹くことから邪気を払うと言われ、無病息災を祈り七草のお粥を食べたと言われています。昔はまな板の上でその草をたたく回数も決まっていたそうです。七草はいわば日本のハーブで、胃腸に負担がかからないようにお粥にして食べることになったそうです。
 では、本当に七草にはどんな栄養や効果があるのかと調べてみると・・・・。
【セリ】
 鉄分が多く含まれ、増血作用がある。
【ナズナ】
 熱を下げ、また、お通じにも良い作用がある。
【ハコベラ】
 タンパク質が比較的多く含まれ、ミネラルや栄養が多くあり、昔から薬草として重宝されてきた。
【スズナ・スズシロ】
 ビタミンがたっぷりで、ジアスターゼが消化を促進する。
【ゴギョウ】
 吐き気や痔、解熱効果がある。
【ホトケノザ】
 歯痛効果がある。
 以上のように言われていますが、この七草の効能についてはその土地により異なる伝承があるため、保証はできないらしいです。
 それでは、秋の七草は・・・と言えば、春の七草が薬膳として食べるに対して、秋は見て楽しむものと言われています。勿論、クズ・オミナエシ・フジバカマ・キキョウなどの葉や根は食用や薬として用いることもできるそうです。
「春の七草は身体を癒し・・・秋の七草は心を癒す・・・」
先人たちは身近にある自然の宝と、上手に暮らしていたのですね!


△男の酒のつまみ・・・82
 本日はつまみ・・・ではなく、その七草粥を作ります。
 七草を軽く茹で、水にさらし、硬く絞り、細かく刻みます。炊飯器はお粥炊き、七草は炊き上がる直前に入れるのがベスト!お好みの塩加減で味を整えて下さい。
 今年の旧暦に、七草粥を食べるのもいいもんですよ!
 2006年は2月4日(土)だと思いますが、一度調べて下さいね!





【一月の五/雪の始業式】1月10日(火)

 お正月のおまけ?と言うか2連休となった昨日。毎年の事だが成人式は何故か天気が・・・今回は、まあまあ・・・いいか。(でも足元が悪く、晴れ着の女の子が可哀想!)
 明日から3学期(始業式)が始まるわけだが、我が家の長男も二男も意外とのんびりと構えている。特に二男だが、順化小学校の3人のクラスメイトを招き、TVゲームや雪合戦だの大はしゃぎしている。「子供は風の子!」と、言ったのは私達の子供時代までだったろうか、外での遊びも寒さを少し感じると、家の中に入りゲームで遊ぶ事になる。
 夕方、その友達のお父さんが迎えにきたのだが、何故か疲れた顔をしている。新年の挨拶を交わして、世間話をしていると「実は、勝山の親戚で除雪の手伝いをしてきたんです。勝山の雪は半端じゃないですよ!」と、言うのだ。福井市内でも連日の雪の対処に身体が限界状態なのに、奥越となれば想像以上だろう。屋根に積もる雪だが、下ろしてもまた、翌朝には積もっている。屋根の軋む音、屋根雪が落ちる音にも敏感になり夜も熟睡できない高齢者宅が多くあると言う。
 そして、「おれおれ詐欺!」ではないが、新手の犯罪がニュースになった。その高齢者宅を狙った「雪降ろし詐欺!」だ。よくこんな事を次から次と考えるものだと逆に関心してしまうのだが、当然この行為は許されるものではない。弱者を狙う犯罪、これも地域ぐるみで防犯しなくてはならない。
 高須町も当然、高齢者が多いのだが雪対策は大丈夫なのか、少し心配してしまう。以前、佐々木さんに「冬はどうなるの?」と、聞いた事があった。「道路は意外と早く除雪されるよ!」と、言うのだが問題は高須町の民家の屋根雪はどうなのか、おそらく地域ぐるみで協力して実施しているのだろう。足羽川にある何箇所かの雪捨て場も例年にない高さになり、すでに桜並木の堤防の高さとなっている。時々、それを見に行く二男だが「凄い高さになっているよ!」と、興奮気味だ。
 今月、来月の雪本番だが積雪が少ない事を祈るしかないが、時折ある気温の上昇による雪崩(表層・全層)融雪洪水も心配しなくてはならない。
 さて本日、いよいよ新学期(3学期)が始まった。雪が降る中、登校していく長男と二男だが、心なしかいつもより厚着で家を出て行った。このところ、マイナスとなっている気温は身体の芯から底冷えが感じられる。
 午前11時、始業式が終わった頃に今年初めて明道中学校を訪れた。3年生は高校受験が目前で心なしかピリピリムードが漂う校内だ。職員玄関から職員室に向かうと途中の校長室から校長先生が出てこられた。お互い頭を45度?に下げ、新年のご挨拶となった。昨年度に進明中学校から赴任された江岸校長先生だが、この3月には定年退職となられる。在校1年と寂しい限りだが、そのやさしいお人柄にはいつも心を癒された私だ。
 職員室に入ると、田中先生が白衣(理科の実験用)を着て忙しそうにしていた。そして、他の先生方もいつにも増してピリピリ感がある。受験前のこの時期、毎年のことだが関係ない私も何故か背筋を伸ばすようになる。約5分ほどだが田中先生と会話をして学校を後にした。
 夕方、始業式の後から昨日に続き二男と遊ぶ友人たちだが、こちらはまだまだお気楽ムードで外や室内で元気に遊び回っている。4月には6年生となるのだが、この子たち全員が明道中学校に進学し部活や勉強などで成長していくだろう。
 高須城の3人の児童もそうなのだが、環境は違うものの同じ福井っ子!いつまでも仲良く元気でいてほしいと思う私だが、大いなる未来に向けて羽ばたく姿を・・・「輝け!飛べ!」と願う。


△男の酒のつまみ・・・83
 本場・韓国のキムチを友人から頂いた。辛さはさほど感じないのだが、やはり美味しい。もちろんそのままたべてもいいのだが、キムチ鍋をした。豚肉と豆腐、冷蔵庫にある野菜を加え・・・そして大根を薄く切ったものを入れた。シンプルだが身体が熱くなるほど美味しい。





【一月の六/我が家もインフルエンザ】1月15日(日)

 この時期になると毎年の事だが風邪が流行り、新聞紙上を賑わす。インフルエンザも猛威を振るい、学年閉鎖や休校などになる学校もちらほらと出てくるのがこの頃だ。
 新年に家族全員が元気で・・・と、お参りをしたのだが、まず最初に、昨日から大正13年生まれの父がダウンした。日頃から健康そのものとご近所から言われているのだが、年に1回は寝込むことになる。今回も戦争当時のマラリアが原因か?と思っていたのだが、医者に行くと「インフルエンザです!」と言われ何やら驚いて帰宅してきた。薬を飲みお粥を食べ、そして大きなマスクをし布団の中に入った父。
 ここで心配なのは子供たちにうつらないかなのだが、我が家族は毎年、仲良く順番にその風邪などをひいていくのだ。しかも以外に男が・・・弱い!女性陣の身体の強い事に驚くのだが、今回は少し違った内容になった。
 父の後、インフルエンザになったのは、妻だった。微熱だが身体の節々が痛いと言っていた。念のために病院に行ったのだが、点滴を受けての帰宅で・・・やはりインフルエンザだった。妻も大きなマスクをし寝室に隔離状態となった。父と妻「お粥2人前!」と、なった。その様子を見ている長男も二男も学校から帰ると自らうがいと手洗いをしている。(いつもしていないのに!)
「タミフル」が昨年末と今年、大きな話題になっていたが、これほどインフルエンザが流行れば、何とかしてほしい気持ちになる。そうそう、FBCの川島アナも田中先生も風邪で非常に辛いと言っていた。とにかく、残りの家族がうつらないようにしなければいけないのだが・・・その患者の2人が・・・じっとしていないのだ。おとなしく寝ていてくれればいいのに、あっちこっちと動くのだ。たしかドクターによれば「一週間は安静に・・・!」と、言われていたのに、菌を撒き散らすがごとく動き回っている。
 父はとにかく、じっとしておらず隙をみては起き出し除雪をしている。妻も何やら寝室と居間とを往復し落ち着きが無い。
 そんな本日だが、夕方から町内の新年会があった。普段は店(大手)の方は私が、そして、自宅(照手)の方は母が参加するのだが、その自宅の新年会に私が初参加する事になった。生まれ育った町内だが、初お目見えともなると以外にも緊張するものだ。
 午後6時、自宅から徒歩3分の料理屋で行われた。参加者は・・・全員が私より・・・年上だった。
「藤田さんの息子さんかえ・・・」「やっぱり、若い人はいいのうー」「これからは、若い人にどんどん来てもらわんと」
 こんな言葉で歓迎された私だが、50歳の私を若い人と呼ぶのだから、やはり高齢化はここでも確実に進んでいるようだ。
 町内会長から昨年の収支を聞き、新年会の宴に入った。私を含み男性陣はまずはビールとなった。刺身や蟹でまず空腹を癒した。ここで、一人のおばちゃんから私に質問があった。
「直くんから聞いたけど、お米を作ってるんやて?」と、聞かれたのだ。
「ええ!2年前から高須町で・・・」と、答えた。
どうやら、学校帰りに立ち話で二男から棚田オーナーの事を聞いたらしいのだ。
「どこで・・・?」
「高須町です!」
「鷹巣で・・・」
「いえ、高須です!」
 こんな話の始まりから、延々と30分ほど高須町の説明をしたのだった。気が付けば、他の皆さんも私の話を聞いていた。米作りの楽しさや苦労話?、そして高須町のPRを真剣に聞く町内の皆さんだった。
 約3時間の新年会だったが、9時を過ぎた頃、いささか飲みすぎたようで睡魔が襲ってきた。後で聞いたのだが、昨年の新年会と比較してお酒の量が約2倍だったそうで、取り合えず元は取った私だった。
 子供の頃、母や父が新年会や忘年会に行くと、その料理の残りを持って帰ってくるのが楽しみだったのを思い出した。終宴も近づき、お酒ばかり飲んでいた私の前には手付かずの料理が多くあった。「すいません!パック下さい」と、昔の両親のまねをして、持って帰る事にしたのだった。
 家に帰ると長男と二男が起きていた。インフルエンザの父と妻は就寝で、私の土産を嬉しそうに食べいる。やはり、まだまだ子供の二人、美味しいそうにパク付いている顔は数十年前の私と同じだ。
「お前たち、じいちゃんとお母さんに暫くは近づいたらダメだよ!」と、釘を刺した私。しかし、意外な答えが返ってきた。「うん!でも、さっきまでじいちゃんとチェスをしてたよ!」と、二男。また、長男も「お母さんとビデオ見てたよ!」と、言うのだ。
 この子たちにインフルエンザが遊びに来るのは時間の問題だろう!


△男の酒のつまみ・・・84
 牡蠣(かき)と言えば、広島・・・だが、近海では能登の岩牡蠣が美味しい。新鮮な牡蠣をレモンでもスダチでもいいから絞り、潮の香りと共に頂くと、何とも言えず幸せを感じてしまう。
 今日はその牡蠣(なるべく新鮮なもの!)を使い、お好み焼きをした。材料(具)はシンプルに牡蠣とキャベツのみ。生地を広げ、キャベツをのせ、牡蠣を5個ほど使う。生でも大丈夫だから焼き具合は好みだが、牡蠣のプリプリ感を楽しもう。タレは市販の・・・やはり大阪のものを使うのがいい。





【二月の一/高須町から生放送!】2月1日(水)

 大雪だった昨年末から新年を迎え、心配していた1月も今のところ、さほど降雪はなく雪かきから開放されている。今日2月1日は福井市にとって嬉しい誕生日となった。越廼村・美山町・清水町福井市に合併され、約27万人の県都になった。
 私のように生まれた時から福井市に籍を置いていた人間は、この福井市が大きくなることに嬉しさを単純に喜んでいるのだが、編入された皆さんは複雑な心境を感じる方も多いはず。故郷を愛し、その地名に誇りを感じていた人は多いはず。しかし、合併後は見慣れた景色さえ幾分違ったものに感じるだろう。いずれにせよ、今後の新福井市の未来に大いなる期待をしたいものだ。
 本日正午前だが、福井市の仲間となった田中先生に用事があり、またまた明道中学校を訪れた私だが、職員室に入るとその田中先生は授業中で不在だった。そこで、留守をいいことに田中先生の椅子に座り待つ事にした。古くからの顔馴染みの先生達から「ご苦労様です!」と、声を掛けられ「まだ、いたの?」と、返事する。(いつもの事)事務の先生から、いつものように美味しいお茶を頂きながら、田中先生の机の上にある理科の教科書をパラパラと捲る。「こんな事を昔、習ったのか?」と、懐かしみながらついつい理科の面白さにのめりこみそうになっていた。(もう、遅い。中学生の時のめり込め!)
 そんな時、「藤田さん、給食は如何ですか?」と、教頭先生から声をかけられた。「えっ!・・・いや、いいですよ!」と、とりあえずお断りした。しかし、「いや、是非どうぞ!先生がお一人いないものですから、余るんです」と、事務の先生。「じゃ、お金(給食費)を払います!」と、私。「いえいえ、懐かしい給食試食会のつもりでどうぞ!」と、教頭先生。あまりお断りするのは、如何なものかと給食を頂くことにした私。この時間、授業のない先生たちが全員で給食の準備をしている。そして各先生の机の上にトレイに乗せた給食を運んでいく。私は田中先生と食べようと、授業の終わりまで待つことにした。因みに献立は、魚のフライ・野菜炒め・ご飯・スープ・牛乳・節分用豆・・・だった。
 チャイムが鳴り、授業を終えた先生たちが続々と職員室に戻ってくる。しかし、田中先生は中々戻ってこない。生徒たちに捕まっているのか。約5分後、白衣姿の田中先生が多くの資料(授業用)を抱え戻ってきた。「あっ!藤田さん。お待たせしてすみません」と、笑顔の先生。給食の一件を話し応接用の机で男二人の給食タイムとなった。この給食だがここ7年間年に1回は食べている私。ここ明道中学校ではPTAでの給食試食会が年1回開催され、子供たちがどのような給食を毎日食べているのか保護者が実費で試食する。そして給食センターの先生から栄養などについて試食後説明を受ける。私がPTA会長の時だが、男性は私一人で残りはお母さんたちが数十人。緊張のあまり味は分からなかった記憶がある。しかし、本日は気心の知れた田中先生と食事、高須町の事や世間話やら色々と話ながら箸を進めていた。
 給食を食べ終え、横を見ると各紙新聞が置いてある。何気なく広げてみた。番組欄を見ると・・・「高須町・・・」の文字が目に飛び込んできた。「高須町から生放送!?」と書いてある。すかさず、田中先生に聞いた私。田中先生も驚いた様子で、「えっ!本当ですか。知りませんでした!」と、眼を丸くしている。「私も全く知りませんでした!」と、私。
「げんき米のふるさと・福井市高須町から生放送・囲炉裏と農家の冬の暮らしを再現」と書いてある。そして、「福井市高須町から生放送。いろりを囲みながら煮しめ鍋を味わったり、わら縄を作ったりして農家の冬の暮らしを体験する」・・・と書いてある。
 暫く無言でそのテレビ欄の解説を読んでいた私と田中先生。ここで、後ろから「今日、高須町から生放送ですね!楽しみですね!」との声がした。振り向くと、前任校が高須城小学校の・・・そう字の綺麗なあのK先生だった。ここで田中先生「録画の予約をしていませんよ・・・どうしよう!」と、残念な表情。「じゃ、私がしておきますから!」と、昨年から「げんき米プロジェクト」の番組をテープに録画している私が請け負うことにした。
 ご馳走になった給食のお礼を、教頭先生や事務の先生に言い学校を後にした。1時30分からお客様の修理があり、その後自宅に帰り、ビデオの予約をすることにした。
 午後3時過ぎ、急ぎ自宅に帰りビデオの前に立った私だが、その「げんき米・・・・」の収録したテープが見当たらない。居間・自室・子供部屋のテープの中を探せど見つからない。「こんな時に・・・!」と、いらだつ私。「テープをどこにやった!」と、妻や子供が原因と決め付けていた。(この時、完全に怒っていた!)
 約15分ほど、家中でテープを探したのだが見つけることが出来ず、新しいテープに録画をすることにした。二男が下校してきた。そこで、その二男にテープを知らないかと、尋ねたのだが「僕、知らない!」と、簡単に返された。妻にメールで聞いたのだが、やはり「私はしらない!」と、返信がきた。いらいらしながら、仕事に戻った私だったが・・・・ここでテープがどこにあるか思い出したのだった。
 テープの現在地は・・・高須町の・・・佐々木さん宅だった。昨年末の事、佐々木さんが私の自宅に寄った際、年末放送された「げんき米でのフランス料理」を録画したそのテープを貸してほしいと言われ、テープを渡したのだった。(原因は私だった)歳を取ると物忘れがひどいと言うが、私もどうやらそうらしい。
 夕食後、録画されたテープを見た。いつものオープニング曲からFBC「夕方いちばんプラス1」が始まった。そこに映し出されたのは高須町の風景だった。雪の高須町、一軒の空き家の古民家からだった。その古民家の中には、それらしい衣装を着た川島アナこしひかり娘(大島アナ)植木御大が囲炉裏の前での3ショット。そしてその囲炉裏の中心には大きな鍋があり、その周りにはヤマメか岩魚かが竹串で美味しそうに焼けている。そして、干し柿が吊るされている。(演出がいい!でも高須の川に、その魚・・・いたっけ?・・・まあ、いいか!)
「今日は、福井市の中心部から車で約40分の福井市・高須町からお送りします!」と、川島アナ。 ここでこしひかり娘「福井市高須町と言えば、昨年私たちがお世話になった、げんき米の故郷です!」と、コメント。
 その昨年のげんき米を懐かしく思い返す3人。植木御大は「米作りは、その字のように八十八回手をかけないといけないから大変なんです!」と、何時もながらの重みのある言葉。春・夏・秋の棚田での米作りの苦労を振り返る笑顔の3人だった。
 ここでFBCスタジオからニュース、そして福井駅から中継が入った。この途中で川島アナが「今日2月1日は新しい福井市が誕生した記念すべき日、実はここ高須町も昭和42年に旧川西町から福井市に合併されたのです」と、コメント。
 再び高須町からの中継では、冬の農村の仕事とも言うべきわら縄作りが伝えられた。囲炉裏の片隅でわらをなうのだが、本日の先生役は高須町の高橋忠雄さんだった。わら縄は私も何度か体験しているのだが、中々上手くできない。川島アナも昨年のしめ縄以来の挑戦となった。短時間で長くなう高橋名人「こつは、手に少し湿りをあたえて、手のひらをこすりあわせるだけ・・・」と、言うのだがそこはプロとアマチュアの違いで簡単には出来ない。子供時代から手伝っていたという高橋さんは福井弁で説明しながらどんどん藁をなっていく。それに答えながら同じように藁をなう川島アナ。ここで最近の川島アナだが、少しづつ福井弁になっているような気がしてきた私。茨城生まれの川島アナ、上手く福井弁も使いこなしているようだ。(いや!確実に福井弁になっている!)
 高橋さんの前には、その藁で編んだ荷縄ワラジが置いてある。春からの農作業に備えてこの農閑期には、昔からこのような作業を営んできたのだと言う。そして、高橋さんと川島アナが縄の出来栄えを比べてみたのだった。画面で見てもその違いは明らかで・・・やはり、簡単には出来ない藁縄作業だった。「これじゃ、春から農作業できませんよ。川島さん!」と、大島アナからダメだしを出された川島アナだった。
 囲炉裏は和み(なごみ)となるのだが、その囲炉裏の真ん中に吊るされている鍋の中身は「煮しめ鍋」だった。地元産の多くの具が入り、美味しそうな湯気がカメラを通して感じられる。川島アナにその煮しめを取る大島アナ。「まるで日本昔話のじいさんばあさんのようだ!」と、川島アナ。 「じいさんどうぞ!」「ばあさん有難う!」と、ショートコントの二人。お味は・・・味が滲みていて、最高だったようで、満足の川島アナ。囲炉裏はやはり・・・いい!
 そして、その囲炉裏の前から、駅の江守美穂アナ(福井のチェ・ジウ?)への移動となった。いつも行われる「11リポート・YES?NO?」のコーナーだが、高須町を感じてか・・・本日のテーマは「囲炉裏を囲んだことある?」だった。
 11人へのこのアンケートだが、囲炉裏の経験ありが8人で無いが3人だった。YESの人のコメントとしては、「小さい頃、家にあった。そして座る場所が決まっていた!上座などが決まっていて、自然に礼儀を学んだ!」(59才・主婦)
「囲炉裏は熱ったかいですね!昔は栗を入れたらはじけたり。今は難しい・・・家も広くならないと・・・」(52歳・パート)
続いてNOの人だが「死ぬまでに経験したい!自給自足の田舎暮らし。この間TVを見ていていいなーと思った!」(18歳・女子高校生)・・・と、こんな感じだった。
 私も幼い時、父の実家(大野・内波)に大きな囲炉裏がありそこで煮たり焼いたりして色々のものを食べた経験がある。今の子供たちは中々その囲炉裏自体を目にした事が無く、一度は体験させたいものだ。囲炉裏の周りには和みと風情と人情がある。この季節には家族中で囲炉裏を囲み、を取っていた。だから今、囲炉裏のある家が貴重であり、懐かしく多くの人が求めつつあるのだ。(掘り炬燵もそうだ!)
 「夕方いちばんプラス1」も終わりに近づき、高須町の古民家では・・・何故か、川島アナが高須産の餅米で餅つきをしている。お馴染み、智恵子さんや植木御大の奥様や地元高須町の皆さんも応援に駆けつけ、美味しそうな餅が出来そうである。川島アナも昨年末の棚田オーナーの収穫祭以来であろう餅つきで、一人杵を持ち上げ頑張っている。大島アナは・・・先ほどの囲炉裏の間で・・・暖を取っていた。
 餅米で作った団子(秋田のきりたんぽのようなもの)を手にして解説中。川島アナが精魂込めて突いたそのお餅だが、ここは大根おろしで食べる。これは、「美味しい・・・!」としか言いようがないはず。
 最後はその囲炉裏を囲み、全員でお餅を食べていた。冬の農家・・・そして古民家・・・そして高須町。最高の演出である。ほのぼのとした癒しの空間が画面を通して感じることができた。来年度の高須町での棚田オーナーのPRやグリーンツーリズムも説明しながら高須町からの中継を終えた。 高須町のみなさん、そして川島&大島アナ、お疲れ様でした。
 因みに、この冬の福井を特集しているFBC「夕方いちばんプラス1」の今週だが、一昨日は今庄365スキー場からで、明日は大野の七間通りだそうです。
 最後に本日、2月1日は・・・もう一つ、誕生日があった。私の父である。大正13年生まれの父、先日のインフルエンザもどこに消えたのか、すこぶる元気である。今年も自転車を持ち、どこかにサイクリングに出かけることであろう。四国一周や琵琶湖一周は簡単にやってのける父。国見岳も休まず頂上まで登っていく。(何年か前だが、途中で追い抜かれた!)そんな父・・・いつまでも元気でいて欲しいものだ。


△男の酒のつまみ・・・85
 新鮮な平目の刺身を買ってきた私。好きなエンガワと薄つくりの平目のお刺身は、ポン酢で頂くことにした。細い葱を平目に乗せ、そして巻く。醤油もいいのだがポン酢も最高に平目の味を引き立てるものだ。





【二月の二/悲しさと嬉しさが・・・】2月7日(火)

 昨年のこの日記【十二月の一/高須町も師走の入り】の中で書いていた、田中先生と私との秘密の徹夜仕事の文があった。日記では「12月中にお知らせします!」と、書いていたのだが、ようやくその中身をお知らせ出来る事になった。
 しかし・・・あまり、嬉しくはない私である。
 昨年の11月末の事、田中先生から1本の電話があった。「藤田さん、コシヒカリのふるさと・福井賞ってご存知ですか?」確か、このような会話から始まったのである。この時、私は別に気にもせず、聞き流していたのだが日を追う毎にそのコシヒカリのふるさと・福井賞が気になっていた。
 このコシヒカリのふるさと・福井賞なのだが2004年から設けられたもので簡単に説明すると、福井県を代表するコシヒカリを用い、企業又は自治体などが独自のPRや開発した商品を一同に集め、それを(自薦・他薦)評価するというものなのである。
 で・・・話は戻り、この話を田中先生から聞き県のホームページなどでこの賞の内容等を調べた私。因みに、昨年のこの賞に輝いたのは、コシヒカリを使いお酒(日本酒)お粥を商品化した企業だった。単純にと言うか、純粋にお米作りは対象にならないのか?と、思いつつこの賞の事を考えると眠れない日々が続いた。
 そして、11月26日(土)【十一月の十二/再びFBC「げんき米」】の日だったのだが、県産業会館のイベントの時、植木御大にこの賞の事を聞いてみたのだ。すると意外な答えが返ってきたのだった。「コシヒカリ・福井賞?・・・頼むわ!・・・応募して!」だった。
 植木御大のこの言葉に・・・「はい!」と、思わず答えてしまった私だが・・・この瞬間から、とてつもない重圧がのしかかることとなった。実は、応募締め切りが11月末日となっており、残り3日ほどしかなく・・・それよりも何よりもプレゼン用に資料を作成しないとならなかったのだ。棚田オーナーとして2年、高須町に通って5年・・・、だが肝心な農業やお米の事は素人の私、またまた眠れない日が続いたのだった。
 そして締め切り前日の夜、ある程度の資料は作ってはいたのだがまだまだ未完成。そこで完成まで田中先生と自宅での資料作りが始まった。高須町のプロフィ−ルや高須町の米作りに関する資料から始まり、棚田の写真、「げんき米」コシヒカリのPR、そしてこのホームページの内容と、それは膨大な資料となっていったのだった。
 私個人の他薦としての応募だが、だからと言っていい加減な事はできなかった。田中先生とあれやこれや問答しながら机の上に積み重なっていく資料の山。その資料を機械を使い綺麗に製本していく田中先生。パソコンのキーボードを打ち、プリンターに出し、誤字等が無いかチェックする。作業は延々と続いた。県庁への提出は明日までだった。「私が余計な事を言ったばかりに、迷惑をおかけします!」と、田中先生。
 だが、私達二人は・・・楽しかったのだ。お世話になっている高須町に何かご恩返しが出来るならと考えていた二人だった。県農業経営支援部田中勲さんにも電話にて資料内容のアドバイスを頂いた。提出資料の中にはFBC川島大島アナの写真が入っているため、念のため川島アナに了解を得なければならなかった。「勿論いいですよ!」と、快い返事が返ってきた。地元、高須町の佐々木さんがいれば簡単な資料作りだったかもしれないのだが、この時期佐々木さんは会社で残業の毎日で申し訳なくて気軽に声を掛けれない。
 素人二人の高須町への愛情だけで、資料はどうにか完成したのだった。「じゃ、明日の午後に県庁に提出します」と、私。「お願いします」と、田中先生。大きな機械を抱え帰宅していく田中先生。その田中先生が車に乗る頃、東の空はうっすらと明るくなっていた。
「少し眠れば」と、妻が言う。しかし、まだ資料に誤りがあるのではと目を通していた私。いつもより少し遅い朝食を取り、出来上がった提出資料を助手席にそっと乗せた。
「早めに県庁に持って行こう!」と、自宅を出た。車で5分、県庁のお堀に架かる橋が見えてきた。ここで、私の頭にある事が過ぎっていた。それは、この資料を高須町の植木御大に見てもらっていない事だった。「一度見てもらはなくては!」と、車を止め携帯電話で植木御大のご自宅に連絡をした。植木御大は運良くご在宅で「じゃ、来て!」だった。そこで、一路車を高須町に向けた私だった。
 小雨が降る中、高須町に入った。高須城小学校を過ぎ、研修センター横を過ぎ、植木御大のご自宅が見えてくるとそのご自宅前では植木御大の奥様が掘り出したばかりの大根を洗っておられた。奥様へ挨拶をすませ玄関にて御大を待った。
 私自身、植木御大のご自宅を訪ねたのは2度目だった。何故か少し緊張していた。暫くすると奥の方から「ご苦労さん!」と声がして御大の登場となった。しかし、風邪気味のご様子でお休みだったようなのか厚着にての挨拶となった。「風邪ですか?すいません、こんな時に!」と、謝る私に「いや、寝るほどじゃないから、かまわんよ!」と、御大。応接間にお邪魔して、資料に目を通して頂く事になった。
 田中先生と私が一応頑張って作成した資料だが、そこはプロ中のプロの御大、「こんなものじゃ、だめだ!」と、お叱りを受けないかと心配していた。黙って資料を読む御大。
 約10分ほど、私にとって重苦しい空気が流れていた。そして・・・「良く出来ている。これは大変だったでしょう」と、徹夜作業の資料内容にお褒めの言葉を頂いた。「こういう文章は難しいのに、本当に良く出来ている。文書規則を知らないと書けないからね!」と、御大の合格を頂いたのだった。
「資料作りにお金かかったやろ!」と、心配する御大だったが、そんな事は問題ではなかった私。(田中先生も同じ)とりあえずこの賞レースに応募し、高須町が参加することで少しでも高須町のPRに貢献出来ることに幸せを感じていた。(これ、本音です!)今年がコシヒカリ生誕50年の記念の年。そこに加工商品ではなく、高須町の清らかな水と美しい棚田で地元の皆さんに愛情一杯に育てられた「げんき米」コシヒカリを見てもらうだけでよかったのだ。嬉しそうに資料に目を通す御大、それだけで私と田中先生の労は報われたような気がしていた。
 約2時間だったか、御大と私の和やかな会話は続いた。県に提出する「げんき米」のサンプルも頂き、また、奥様からお土産に新鮮な白菜や大根も頂き、高須町を後にした。そして、その足で県庁に資料を提出したのだった。
 この審査だが、昨年12月に発表される予定だった。しかし、選考に時間がかかるということで1ヶ月先送りされたのだった。つまり、結果をまた待つことになった私と田中先生。余計にその期待と不安に胸が膨らんでいた。
 そして本日、県庁からメール便が届いた。ドキドキしながら封を開ける。「・・・・・ダメか!」脱力感が全身を襲った。そして次の瞬間、植木御大の顔が浮かび賞に到らなかった申し訳なさが私を覆っていた。確かに「ダメもと!」でと応募したものだが、いざ選考洩れとなると寂しさと悔しさ、そして私自身の能力の無さに腹が立っていた。
「植木御大を始め、高須町に皆さんの顔に泥を塗ってしまった!」と、悔やんだ私。「もう、高須町に行けない!」と、真剣に思ったのだった。そして、この結末を田中先生に報告した。「そうですか、残念です!」と、田中先生も電話の向こうで肩を落としている様子だった。「今日は自棄酒(やけざけ)だ!」と、一人寂しくの晩酌となった。(毎日の事だ!)
 お酒を飲みながら「植木御大にどう、報告しよう!」と、再び悩む私。「なかった事にしようか!応募しなかったことにしようか!」と、つまらない事も考えていた。それは深夜まで続いた。
 一夜明け・・・少しも悔しさから抜けきれないでいた私。それでも、いつものように新聞を捲っていた。順番はいつものように、スポーツ紙・日経・福井・県民福井だ。そして、最後の県民福井の一面から二面を捲った瞬間だった。
「泊まって食べて農家満喫を」この見出しが私の目に飛び込んだのだ。サブタイトルが、「民宿開業、広がる夢」
 それは今、話題となりつつある農家民宿を取り上げていた。越前市や今立町の農家民宿の紹介があり・・・そして、次が・・・・高須町・・・と、記載されていたのだった。「おっ!高須町!」と、思わず声を出した私。そこには、高須町が取り上げられていたのだった。
 紹介すると・・・・・。
 一方、棚田オーナー制度が人気の福井市高須町でも、農家民宿の開業に関心を寄せている。高須集落活性化モデル推進協議会の植木正義代表は「地元で一番大きな古民家を活用する構想がある」と打ち明ける。だだし、今冬の大雪での破損箇所を修理する必要があるため、「すぐにでも開業準備に入りたかったが、今は見合わせている状態」という。
 高須町でも棚田オーナーの多くがリピーターだ。農家民宿は、個々の規模は小さくても数が増えることで、地域活性化につながる可能性を秘めている。県は新年度、グリーンツーリズムと農家民宿開業への支援策を拡充する意向を示しており、その成果が注目される。
と言う内容だった。
 最近、新聞やテレビに頻繁に登場している高須町。ここでも新たな地域の活動として農家民宿を考えている。植木御大の頭の柔らかさは若いと言うべきである。次から次へと発想が出てくるのである。過疎化のハンデを前向きにとらえ、高須町の素晴らしさを、高須町でしか出来ない事を考慮している。
 コシヒカリのふるさと・福井賞の落選を引きずるより、御大を見習い、高須町の活性化に微力ながらお手伝いしなければと思う私だった。


△男の酒のつまみ・・・86
 アスパラを軽く塩で湯通しする。ベーコンをアスパラの本数だけ焼く。焼いたベーコンをアスパラに斜めに巻き、お皿に並べスライスチーズを乗せレンジでチン!





【二月の三/霧の高須町・・・】2月17日(金)

 昨日の夜だった。二男(小5)が「お父さん、ビデオ借りに行こうよ!」と、言い出し馴染みのレンタル屋に出かけた。週末の金曜日ということで、店内は多くのお客で溢れていた。二男はお目当てのコーナーに行き、私も韓国映画のコーナーで足を止めた。しかし、ほとんどがレンタル中で見たいものが無い。二男も残念そうな顔で戻ってきた。「無かった!」と、声のトーンも低め。「じゃ、今度にしようか?」と、店を出ようとした時だった。私の前をある人物が通り過ぎていったのである。
 その人物とは・・・市農政企画課の本多さんだった。「本多さん!」と声を掛けた私。振り向き驚いた顔の本多さん。久しぶりというか今年に入り始めて合ったので何故か懐かしく感じた私だった。レンタルビデオ屋の人ごみの中、通路での挨拶となった。
「そろそろ来月辺り、棚田の募集を開始しようと思います!」と、本多さん。「そうですか、本多さん春に異動がないといいですね!」と、私。ここで本多さんから驚く事を聞かされた。「高須町の神社の事、聞きましたか?」「いえ!どうしたんですか?」「大雪の影響であの横の大木の枝が折れて、神社の屋根を直撃したんです!」「えっ!それは大変ですね」つまり、棚田オーナーが利用させてもらう研修センター横の、あの白山神社の屋根の一部が折れた枝により被害を被ったらしいのだ。
 昨年末の大雪により、県内はもとより日本各地の至る所で被害が出たのだが、高須町もその大雪が原因で被害が出ていたとは、植木御大や高須町の皆さんも頭が痛いでことであろう。それも、町のシンボルとなる神社となればなお更の事である。
 本多さんと別れた後、二男と車で帰路に付く中その被害がどの程度なのか心配になっていた私だった。明日は偶然にも高須町の佐々木さんのお宅に用事があり、ついでと言ってはなんだが神社の様子を見に行こうと決めた私だった。
 翌日、底冷えの朝となっていた。午前9時、車で高須町に向った。旧下郷小学校に着く頃には靄だろうか霧が辺りを包んでいた。車のライトを点け、安全運転とばかり徐行運転で高須町を目指す事になった。ゴルフ場を過ぎる頃にはその霧も直深くなっていた。「霧の高須城!」と、独り言。何か演歌の題名のような感じと一人で笑っていた。福井市内中心部には差ほど見られなくなった雪も、高須町へと続くこの道にはまだまだその両脇の路肩には残雪が見られる。そして、ここでも大雪の影響だろうか、道路上の木々の枝が何箇所か折れ時折車のフロントガラスを擦る。
 益々、霧が濃くなる中で車は高須町に入った。そう言えば、お決まりだが旧下郷小学校を過ぎた頃から、対向車には一台も合ってはいない。この霧の中だからよかったと言えるだろう。
 まず、佐々木さんのお宅に向った。勿論、お留守で佐々木さんと約束していた荷物を運んだ。肌寒く感じられる高須町。
「寒い!」と、急いで車の中に飛び込んだ。次に、気になる白山神社の状況を見ようと研修センターに向かう事にした。
 車から高須城小学校を見ると、霧の中校舎の中から暖かい光が見えた。「3人は真面目に授業をしてるかな?」なんて考えながら坂道を登って行く。研修センターに着き、車を止めた。神社の階段を登ると、その光景に思わず息を呑んだ私だった。神社の屋根の左側が半壊していた。神社の横には、御神木とも言うべき大きな木が並んでいる。こんな大木の枝が折れたら下に建つ神社は被害を受ける。そして、これも雪の影響だろうか石碑も被害を受けていた。暫し、神社の敷地内で佇んだ私。おそらく私以上に高須町の皆さんはこの状況に相当の落胆を余儀なくされたことだろう。しかし、常に前向きの高須町の皆さんだから心配ないだろう。
約15分ほど神社にいただろうか、手足がかじかんできていた。エンジンをかけていた車に乗り、身体を温めた。煙草に火をつけ、一服となった私だが視線に入る神社の屋根の状況に高須町の皆さんの心中を察していた。
 神社を後に、車を走らせた。植木御大のご自宅の前を過ぎ小学校後ろの道に差し掛かると、一人のお婆ちゃんとすれ違った。車の中から頭を下げ挨拶をすると、お婆ちゃんも小さく頭を下げた。いつも優しい高須町の皆さん。こんな霧の中でもどこかで作業するのか大きな荷物を背負っている。
 霧の高須町も何故か風情がある。昨年だったか「あぜ道インタビュー」油井さんのご主人が、「高須町は隠れ里みたいですね!」と、語っておられたが本当にこの霧ですっかり隠れ里になっている高須町。そんな事を考えていると前方から車のライトが見えてきた。今日始めての対向車、お互い安全運転で徐行していた。宅急便の車だった。すれ違いの時、ドライバーマナーでお互い軽く会釈。こんな事も何故か気持ちがいいものだ。
 雪融けは間近か、春の息吹きはもうそこまで来ている。今年も高須町の棚田は賑わいとなるだろう。リピーターのオーナー、そして今年初参加となるオーナーの皆さんもこの道を何度か走ることとなる。今はまだ静けさだけの高須町、春の訪れを待つことにしよう。


△男の酒のつまみ・・・87
 最近、焼酎で晩酌が多い私。「焼酎は二日酔いしない!」と、ついついその量が増えていく。肉類でも魚類でもつまみなら何でもいいのだが、時々食べたくなるのが卵系となる。出し巻き卵茶碗蒸しが恋しくなるのだ。出し巻き卵は簡単に作れるのだが、茶碗蒸しの場合はそうはいかない。出来合いの物を暖めてもいい。卵系は身体を元気にそして暖めてくれる。





【二月の四/マリリンにスティ!】2月21日(火)

 寝不足の日が続く毎日。その原因となっているのは、勿論今イタリア・トリノで開催されている冬季オリンピックだ。スポーツ大好きな私にとって「LIVEで見たい!」が常識となり、深夜興奮の毎日となっている。
 開催前に雪不足が心配されたトリノだが、どうにか人工雪などでその心配も解消された。問題の日本との時差は8時間でトリノの位置は・・・日本で言うならば、北海道の稚内(わっかない)ぐらい。あるニュースで言っていたのだが、この位置関係で雪が確実に降るのは世界中で日本だけだというのだ。
 大会前の事、気になる日本のメダル数として色々な関係者が5個や6個と予想していた。しかし、今のところ状況は非常に厳しく現在までとなっている。代表選手は懸命にベストを尽くしてはいるのだが、結果がどうにもついてこないのである。
 テレビ観戦していても、ついつい「頑張れ!」と、期待してしまうのは皆同じであろう。ジャンプ・スピードスケート・スノーボード・ノルディック複合・クロカン・ボブスレー・リュージュ・スケルトンなど、どの競技も見ていて力が入ってしまうものだ。
 大会も後半となり、このままではメダルは獲得できずに終わるかもと、落胆しそうな声もあるがまだまだ期待の競技がある。日本中が注目するのは、明日未明にSP(ショート・プログラム)がある、そう女子フィギアーだ。村主章江(すぐりふみえ)・荒川静香(あらかわしずか)・安藤美姫(あんどうみき)と出場する。人気者の浅田真央は年齢制限で出場しないものの、近年数々の大会で実績がある3選手だから期待してしまう。女王ロシアのスルツカヤ(べッキーに似ている!)にどこまで迫れるかがポイントになってくる。
 村主の表現力、荒川の安定感・安藤の4回転と見所は多々ある。そして、逆に不安要素もある事も事実。大きな連続技がない村主、足と靴がどこまでセットされたか荒川、そして笑顔で滑ると言う安藤だが記者会見の表情にやはり緊張からか余裕が見られない。4回転は成功してほしいのだが、そのジャンプが悪影響の流れとなることも事実だ。
 しかし、4年に1度のオリンピックは何が起こるかわからない。スルツカヤや対抗馬の日本3選手ばかりではないはず。
 意外なところから意外な選手が飛び出してくるかも知れない。特に欧米の選手には注意しなくてはならない。どちらにしても日本の3選手の美しい氷上の舞いに期待したい。
 そして、今回・・・いや今のところ、意外と言っては選手達に失礼なのだが、女子カーリング日本代表選手が注目を浴びている。今回5人の選手が代表となっているのだが、若い大和撫子たちに人気が集まっている。小野寺歩(おのでらあゆみ)・林弓枝(はやしゆみえ)・目黒萌絵(めぐろもえ)・本橋麻理(もとはしまり)・寺田桜子(てらださくらこ)の4選手だ。欧州や北米とは違い、まだまだ日本では馴染みのないこのカーリングだが、今回ひょんな形で人気がでた。メダル期待種目が相次いでダメになり、中継されたカーリングの試合でこの大和撫子たちが冷静沈着に強豪チームと互角に試合している姿に、テレビの前の視聴者が感動したのだ。
 当然、私もその一人だ。で・・・もう一つの要素があった。セカンド(2番目に投げる)本橋麻理選手(19歳)だ。特別美人と言うのではないのだが(失礼!)、可愛いのだ。
 チーム最年少の本橋選手は、小野寺&林(共にソレトレーク五輪経験者・27歳)の誘いで、北海道から青森にカーリングの拠点を移し、今回のトリノを目指した。青森の短大に通いながら厳しいトレーニングをこなしながらジャパンのユニホームを着たのだ。
 この5選手だが、全員が北海道出身(どさんこ)。所属はチーム青森となっている。日本のカーリングの聖地というべき北海道・常呂町(ところ)から青森に拠点を移したのだ。
 これには青森県カーリング関係者の懐の深さがあったのだが、この話をすると長くなるので止めよう。とにかく、本橋麻理選手のプレーを見ようと中継を見逃せなくなった私。でも・・・私ばかりではなかった。某民放の人気男性アナも「荒川静香や岡崎朋美もいいですが、私個人では本橋麻理選手が好きです!」と、生放送中にコメントした。そして、実況の刈屋アナ(NHK・昔だが福井放送局にいた!)までが、「マリリンのストーンは・・・」と、麻理選手を愛称で呼び出したのだ。一躍、新ヒロインのいやヒロイン達の誕生となった。
 この人気で日本のカーリング人口は確実に増加するはず。実はこの要素は8年前の長野オリンピックでもあったのだ。
 日本男子チームの若きスキップであった敦賀信人に人気が集まったのだ。そしてこの敦賀選手の後輩が今回の小野寺&林であり、ジュニア時代に指導してきたのがマリリン&目黒選手である。重さ20kのストーンを用い、戦略を練るこのカーリング競技には年齢は関係ない。勿論、相当なトレーニングは必要となるが一度は挑戦してみたいものだ。マリリンが個人で教えてくれるならね!)しかしここに問題がある。
 強豪国カナダなどは、どんな小さな町にも必ずカーリング場があるという。そんな国とは比較できないが、日本の場合はスケートリンクを週数回数時間単位で借りて練習する場合がほとんどとなる。専用カーリング場を持つのは北海道や青森など数箇所しかないのだ。氷を維持しなくてはいけないのだから莫大なお金がかかるのも事実。4年後のバンクーバー(カナダ)の時、日本のカーリング人気がどのようになっているのか注目してみたいものだ。そして5人の大和撫子が4年後に今度はメダルを目指して再始動してもらいたい。
 また、カーリングではないのだが私個人で感激する瞬間があった。それは女子クロスカントリーのリレーだった。4人のリレーで行うこの競技で第一走者の福田修子(ふくだのぶこ)選手が、なんと1位で第二走者にタッチしたのだ。おそらく、長い日本のクロカン史上初めての瞬間だったはず。解説者もこの時には感激し涙声になっていた。この数日前に行われた2人で交互にリレーする種目でも夏見円(なつみまどか)選手とのコンビでオリンピック最高位の7位で入賞したのだ。
 クロスカントリーは私も航空自衛隊当時に経験があるのだが、それは陸上自衛隊と違い、お遊び程度のものだった。それでもこの競技の辛さは理解出来る。「辛い!しんどい!もういや!」と、叫びたくなる競技なのだ。この競技も過去に数人だが世界に近いと言われる選手が何人か男女でいたのだが、それでも3位以内には入ることはなかった。しかし福田&夏見選手は外国選手にも負けない身体とバネを持っている。25歳・27歳とまだまだ若い両選手に次回も頑張ってほしいものだ。それに・・・福田&夏見この2人は・・・美形・・・なのだ。(マジです!)特に、夏見選手(JR北海道)は先日、フジテレビ日曜のジャンク・スポーツにも出演していた。(170cmの長身で美形・・・是非、これから注目してくださいね!)
 個人的な話で女子選手ばかり話題にしてしまったのだが、もちろん残されたこれからの競技にも頑張ってもらいたい。特に、男子スラローム(回転)佐々木明(ささきあきら)には、一発を期待したい。コースアウトかメダル圏内かのその彼の滑りには、猪谷千春さん(1956/コルティナダンぺッツォで銀・冬季五輪で日本初のメダル)以来の3位以内を目指してほしい。猪谷・・・海和・千葉・木村と伝統の男子スラローム、ここらで一発をお願いしたいものだ。
 過去日本が獲得したメダルは、金8・銀10・銅13。この大会で1個以上は増やしてほしいと思う。
 またまた、高須町に関係のない事を書いてしまったのだが、以前から私個人で考えていたことがある。高須町までのあの坂道は交通量も少なく、マウンテンバイクやロードなどの自転車のヒルクライム競技に適している。そして冬期の棚田より上の農道?などはノルディックとまではいかないが距離スキーを楽しむコースとして活用できる。奥越のコースまで行かなくとも近場で楽しめるコースがあれば最高である。一度、植木御大に話してみようかな!(却下!と言われるかも)


△男の酒のつまみ・・・88
 近所の居酒屋からどじょうを強引に貰ってきた。ドジョウと言えば、ごぼうと合わせた柳川鍋が有名だが、私はから揚げが大好きなのである。生きているもを調理するのはいささか抵抗があるが、粉にまぶし高温の油で一気に揚げる。大きさにより時間はまちまちだが約1分以内がいいだろう。揚げた後に塩・胡椒を好みでふりかける。 とても美味しいし身体のもいいのです。





【二月の五/足羽川も冬から春へと】2月23日(木)

 二月も終わりに近づき、あれほど街角に積み上げられていた雪もいつしか消えつつある。例年だと、もう1回か2回雪が降るはずなのであるが、それも今のところ無いようだ。近所の子供達とおうはしゃぎしながら造った二男の特大かまくらも、跡形なく消え去っている。
 1月2月と新年会だの・・・飲み会だの続いていた私だが、そのおかげで5キロばかり体重が増えてしまった。そこで少しのダイエットを始めた。スクワット&腹筋&ジョギングと無理をせずこなしている。(でも筋肉痛!)まあ、晩酌の量を減らせば済むことではあるが、そこは・・・出来ない・・・50男!(根性なし!)
 朝、近くの足羽川堤防を軽くジョギングしていると、仲良く散歩中のご夫婦や犬を連れた方々に合う。何日か同じ場所同じ時間ですれ違うようになると、「おはようございます!」と、気軽に挨拶をするようになる。この挨拶も気持ちのいいものである。お互い、おそらくそう遠くではない人同士、名前も知らなければ、ましてやどんな職業かそして年齢さえも想像だけで過ぎていく。それでいいのだ。
 足羽川も2年前の堤防の決壊以降、至る箇所で整備や護岸工事を行っている。それは名所となっている桜並木にも少しばかり影響となっている。美しく咲く桜を保存すべく、どのようにしていくのか私達福井市民は見守っていかなければならない。そんな足羽川も雪が融け、春近くの様子が伺える。鳥たちも春を感じてだろう大きく翼を広げ、気持ちよさそうに羽ばたいている。また、この堤防には色々な植物があるのだが、新芽が春の訪れを知らせてくれる。
 そんな中、ふと目を落とすと花月橋から新明里橋の中間での護岸工事の作業場では十数人の作業員の皆さんが、号令の中気持ちのいいラジオ体操をしている。ヘルメットをかぶり作業服でのラジオ体操、なぜか見ていて嬉しくなる光景である。(自衛隊時代を思い出す!※自衛隊ではラジオ体操はせず、自衛隊体操というのがある。)
 さて昨日の午後だが、明道中学校の校区となる5つの小学校との学校評議員の合同会議が本年度の当番校である順化小学校で行われた。この校区の5小学校だが、順化・春山・宝永・松本・明新の各小学校となっている。以前にもこの日記で書いたのだが、順化と春山は全児童が明道中学校に入学するのだが、宝永・松本・明新の3校はその児童の住所により、一部の区域が明道中学校の校区となる。
 この会議だが昨年度から始められたもので昨年は明道中学校で行われ、毎年持ち回りで実施することになっている。各学校からその評議員と校長が出席し各学校での取り組みを発表し情報交換を行うのだ。評議員の役割とは、ん・・・・ん、簡単に説明すると、学校運営に対しての評価を行い、地域と学校とを密にしていく、これが評議員の大事な役割の一つとなる。
 午後2時過ぎ、少し早く順化小学校に着いた私は職員玄関の戸を開けた。すぐさま一人の女性が職員室から応対に出てこられた。「不審人物と間違われたかな?」と、思った。「明道の藤田です」と、私。「ご苦労様です!」と、先生。
 本日担当となっている山下教頭先生かと思い私は聞いてみた。「教頭先生ですか?」と、お聞きすると「いえ!いつもお世話になっております、石村でございます!」と、先生。「えっ!」と、私。
 一度、電話でしかお話したことのない石村先生だったのだが、いしむら・・・と言えば、そう高須城小学校のご存知、優しい笑顔の石村校長先生奥様だった。初めてお会いする奥様だったが綺麗で品格がある先生だった。そして、私の母校ではあるが順化小学校内をその会議室まで案内をしてくださる事になった。懐かしい母校であるが私自身、体育館や職員室は何度も来ているのだが校舎内は、おそらく長男(高3)の授業参観以来となっている。当然、二男(小5)が在校しているのだが、全て妻任せの状態となっている。石村先生と廊下を歩く。高須町の事や棚田の事、そしてこのホームページの事、高須城小学校の3人の児童と二男の仲など、初めてお会いしたのにその話は弾んでいた。(石村校長先生!ヤキモチ焼かないで下さいね!)
 北校舎から廊下を渡り階段を登り、児童の笑い声が聞きながら南校舎に入った。会議室の戸を開けると、順化小学校の山下教頭先生が会議の準備をしておられた。よく見ると、私が1番乗りで、山下教頭先生と挨拶を交わしながらしばし二男の事で思いがけない、面談となった。会議室の窓からは県庁の城跡やお堀が美しく見える。近所の風景ではあるのだが、別角度から見る景色は、何故か新鮮に見えるものだ。二男はこの時間はまだ授業中。「5年生はどの教室ですか?」と、教頭先生に聞いてみた。「この上の階ですよ!」と、先生。授業風景を見たくなったのだが、ここで順化小学校の林校長が入室してこられた。(授業参観は次の機会にした!)
 定刻が近づき、続々と各学校の評議員や校長が入室してこられた。評議員同士は初対面が多く、また校長先生たちは笑顔で挨拶となっていた。ここで、見覚えのある人物が入ってこられた。長男の順化在校当時の校長先生だった。この順化小学校で定年を迎えられ、今は松本小学校の評議員をしておられるのだ。当番校である順化小学校の林校長先生の挨拶から始まり、各自の自己紹介へと移った。明道中学校からは、江岸校長先生と大島評議員と私の3名の参加。明道中には4名の評議員がいるのだが、近くの大島さんと地元の私の参加となったのだ。この大島さんは、私の約10年前のPTA会長で、その後福井県PTA連合会の会長もされた方なのだ。先日もある番組で対談をしていた。私とは大きく違い、弁が立ち良識を持っておられる。
 約2時間半のこの会議で、各学校の様々な取り組みや意見交換が行われた。(中身は内緒!)しかし、各学校の評議員の方々は凄い肩書きの方ばかりだ。(マジです!)当初の会議時間を少しオーバーして終了したのだが、それでも参加者はまだ話足りないようだった。
 来年度の当番校は宝永小学校であり、次年度も宜しくとの挨拶で終了したのだが・・・この中で、数名の校長先生がこの春に定年を迎えられる。(寂しいものだ!)
 私は素早に会議室を後にした。小走りで廊下や階段を駆け下り職員玄関を後にした。これには原因があったのだ。朝、二男に「一緒に帰るから、駐車場の車の中で待ってなさい!」と、言っていたのだ。少し心配だった私は、駐車場の車をみると、助手席で読書にふける二男の姿があった。最近お気に入りの本を読む二男。(読書はいい!)
「待った?」と聞くと「少しね!」と、答える二男。寒かっただろうと急ぎエンジンをかけると、「藤田さんの下のお子さん?」と、声がした。声の方向をみると、あの元順化小学校長の先生だった。笑顔の先生に親子でご挨拶。「誰なの?」と、二男。「お兄ちゃんの時の校長先生だよ」と、私。「そうなの」と、黄色い帽子を取り再び挨拶する二男。
 帰路、石村先生の事や高須城小学校の事を話ながら次男と車を走らせていく。「今年も、高須の棚田でお米作りするよね!お父さん」と、二男が問いかける。「いいけど、佐々木さんの○○○ちゃんは中学生になるから遊べないよ!」と話すと、少し寂しそうな顔の二男だった。
 そうそう高須の町に嬉しいニュースがある。先日のFBC「夕方いちばんプラス1」で、川島アナ大島アナ(こしひかり娘)が高須町の空き家の古民家から中継したのだが、その古民家に新しい入居者がこの春、訪れるそうだ。若い方のようで高須町の人口が増える事となった。佐々木さんからの電話でこの話を聞いた私だが、電話のむこうの佐々木さんの声も弾んでいた。「グリーンツーリズム!」植木御大のそして高須町の皆さんの努力がまた一つ報われるお話だ。


△男の酒のつまみ・・・89
 最近、「肉より魚!」と、なりつつある私。健康を考えてか、それとも身体が自然とそうなっているのか、50歳になると変化が少しづつ見えてくる。スーパーで「わかさぎ」が売られていた。冬の湖、氷に穴を空け、わかさぎを釣る。そして、すぐに天婦羅。(やってみたい!)
 気分はそんな感じで台所で天婦羅にしてみた。当然、塩で頂く。柔らかい身なのだが、冬の味わいを感じる瞬間となる。





【二月の六/イナバウアーで筋肉痛!】2月24日(金)

 二日前のFBC「夕方いちばんプラス1」でのオープニングで、川島アナがこんなコメントをしていた。「昨日の私の夢の中での話ですが、私、荒川静香選手と村主章枝と一緒に食事していたんです。大変、嬉しい夢だったのですが安藤選手はいなかったんです」と、このオリンピック開催期間中ならではの夢の話。これを聞く大島アナ(こしひかり娘)「そうですか!川島さん。夢でも、よかったですね!」と、いささか冷ややかなコメント。この川島アナの夢が何を意味しているのか?私も期待する女子3選手の氷上の舞が始まろうとしている。
 早朝と言うか、夜中からテレビの前に陣どった私。苦戦が続くと言うか、期待していた種目でメダルに手が届かない日本チーム。でもトリノオリンピックにおける、日本選手第1号のメダル獲得の瞬間とそのドラマの流れを見ようと思っていたからだ。予選(S・P)を終えて、荒川静香3位村主章枝4位安藤美姫8位となっている。メダルに向けて好位置の女子フィギュア陣だが、この大舞台でどのようなエンドレスが待つのか期待に胸を躍らしていた。
 1位サーシャ・コーエン(アメリカ)と2位の女王、スルツカヤ(ロシア)の舞はどうなのか、そして、もう一つの楽しみが私にはあった。S・Pで見たある選手が気になっていた。その選手とは、フィンランドの・・・名前は覚えていないが、17歳の凄い美人の選手だった。過去の女王と呼ばれた、カタリーナ・ビットを、いやそれ以上の美形の選手である。
 フリーの演技を前に、安藤は4回転に全てをかけていたはず。この4回転には、日本国民ならずとも世界中が注目していた、しかし、残念な結果に終ってしまった。順位を15位まで落としてしまったが、まだまだ18歳の安藤だから、ゆっくり身体を休め本来のミキティー・スマイルの演技を期待したい
。  そして最終組は波乱となった。コーエンがまさかの転倒で予想がつかなくなった。荒川と村主はジャンプの変更はあったものの、そつなく安全に演技した。荒川は得点にはならないイナバウアーも短めだったが取り入れ、会場を魅了した。
 村主も得意の感情が入った演技で無難に終える。全ては最終演技者の女王スルツカヤの舞にかかっていた。私はこの時、スルツカヤの優勝、荒川の2位と確信していた。何故ならスルツカヤがミスをするはずがないと思っていたからである
。  筋書きの無いドラマ、まさにそれが現実となった。序盤からどことなくぎこちないスルツカヤの動き。そして、まさかの転倒。この時、荒川に金メダルが移った。コーエンもスルツカヤも普段通り普通に演技していれば、手にしていただろう金メダルだが、神様は悪戯をする。だからスポーツは面白い。4年に1回のオリンピック。この時に最高のコンディションに調整した荒川選手に女神が微笑んだのだった。
 今回のトリノ・オリンピックも残すところ後2日。ショートトラックの数種目と、私がひそかに期待しているアルペン男子のスラローム(回転)があるのだが、もう1つメダルを取ってほしいと思うのである。回転の佐々木とその先輩の皆川には可能性があるはずである。佐々木の一発、そして経験豊富な皆川、そしてそれを見てきた若手の2人にもこの大舞台のオリンピックで将来の為に何かをつかんで欲しい。この4人には次回のバンクーバー(カナダ)でも期待できるからだ。「頑張れ!日本!」
 夕方、二男が下校してきたのだが私に質問してきた。「お父さん、あらかわ選手のイナバウアーって何なの?」と、聞くのだ。自称スポーツ評論家の私「それはね、今から約50年前ぐらいの人の名前で、スケートの女子選手だったんだよ。ジャンプでサルコーとか言うけど、それも最初にした人の名前で、ほらビールマン・スピンてみんなするけどあれも名前だよ!」と、解説したのだ。「ふうん・・・」と、考える二男だったが「で、どんな形なの?」と、聞いてきた。そこで、そのイナバウアーを真似てみた私だったが・・・・。
 5分後、・・・・うつ伏せの私。その二男の手のひらには・・・大量のバンテリンが乗っていた。


△男の酒のつまみ・・・90
 福井の名物の一つに、「小鯛の笹漬け」がある。私の大好きな物の一つである。妻や子供たちはお茶漬けがお気に入りなのだが、私はそのままで少しスライスして、お刺身にする。
 また、アルミの上に乗せ、塩を軽く一つまみふりかけて焼く。でも、ほんのり火が通ったくらいでOK!酢と塩のコラボ味はお酒も進みます。





【二月の七/2月26日は3人の日だね!】2月27日(月)

 もう、2月も終えようとしている。本当に雪が降る気配もなく寒さは幾分あるのだが、日一日と春の訪れが近づいて来ている。高須町の佐々木さんからの電話でも「そろそろ準備が始まるよ!」と、農家の皆さんの一年が開始される時期になった。その高須町の棚田も雪が融け、冬の眠りから春の匂いにつられて、たくさんの息吹きが感じられるようになった。
 昨日の朝の事だが、早朝より妻と二男が慌てて自宅を出て行った。二人ともジャージ姿でスポーツバックを持ち車で出かけて行った。出かけた先は、綱引き大会(平和堂カップ)が行われる体育館。(どこの体育館か聞いていない!)
 綱引きは一応得意としている妻(P・W順化チームの選手)だが、二男は本日の大会に参加するため、この2ヶ月前から週1回の練習をしてきた言わば初陣チームである。妻たちの指導により少しは綱を引く姿勢がそれらしくなってきたと言うものの、本日対戦する他の子供チームは凄い強豪チームと言うのだ。まあ、とにかく頑張る事を願いつつ妻と二男を送り出し、再び眠りに付く事にした私。(連日のオリンピック観戦でダウン寸前!)朝のコーヒーでもと9時過ぎに起き出した私だったが、目の前のカレンダーを見て「あっ!」と声を出してしまった。今日2月26日は、・・・・妻の誕生日だったのだ。(完璧に、忘れていた!)
 結婚22年目、新婚の頃はお互い「お誕生日、おめでとう!」と、言っていたのだが、それも今ではおめでたくない歳になってきた。「早いものだ!もう22年経つのか」と、コーヒーを飲んでいた。
 今から22年前の今日の思い出・・・。やはり日曜日だった。妻と私が付き合いだした間もない頃、誕生日プレゼントを渡そうと前日から用意していた私、翌日の初デートに少し興奮(何で!)していたのか、夜眠れず翌日少しばかり寝過ごしていた。「起きなさい!」と、母の声で起き出した私は1階へと階段を下りた。すると、父と母の顔に涙があった。「どうしたの?」と、聞くと「おばあちゃん、死んだよ!」と、母が言うのだ。祖母の死、老衰だった。病院・自宅・病院・自宅と慌しく往復を重ねた私。自宅には知らせを聞いた親戚が集まりだしていた。お通夜、告別式の段取りと家の中では声が飛び交っていた。そんな中、頭の中で「デートどうしよう!」と、不謹慎とも常識ハズレともいえる私がいた。まだ、携帯電話のない時代だった。
 そんな時、葬儀に使う遺影を写真屋さんで引き伸ばそうと一枚の祖母の写真を親戚から渡された私。「今だ!」とばかり、車で写真屋に行き、待ち時間を利用して妻とのデートの待ち合わせ場所に急いだのだった。
 待ち合わせ場所には妻がいた。車の助手席に乗り込む彼女に「今朝、おばあちゃんが死んだんだ!」と、話した。「えっ!」と、驚く妻。「じゃ、早く帰らないと!」と、妻の言葉に誕生日プレゼントを渡し再び写真屋へ戻った。約2分の初デート。しかも、彼女の誕生日が命日となった22年前だった。(この年の秋に結婚!)
 そんな22年前の事を懐かしく思い出しながら、2杯目のコーヒーを飲んでいた。
 久しぶりのゆっくりとした日曜日の午後だった。妻も二男もまだどこかの体育館。長男(高3)は卒業式(3月1日)を前に友達(彼女?)と出かけていた。
 あくびをしながら、パソコンの前で「高須城日記」をと、キーボードをたたいていた。先日、あぜ道インタビューで川島アナウンサーから「今月は更新が遅いのでは・・・」と、痛い所を付かれた私。川島アナはこの高須町のホームページをよく見ていてくれるのだ。
 どうしても、農閑期には話題が乏しくなり自分中心の事をついつい書いてしまう私。それでもと、キーをたたいていた。
 この高須城日記を打ちながら、韓国映画「マラソン」を見て泣いている私。(これも不謹慎かな!)
 夕方になり、疲れた顔で二男がご帰還してきた。「どうだった?」の私の問いに「・・・・」無言の二男。想像はしていたのだが、後で妻から「全敗だった」と聞かされ、少し可哀想になっていた。妻は3位だった。
 遅ればせの「おめでとう!」と妻に言った。「もう、おめでたくないわ!」と、妻は微笑む。それでも誕生ケーキを美味しそうに口にする妻。その妻以上にケーキを食べる二男と長男。そんな妻の誕生日が過ぎようとしていた。
 そして、9時過ぎに電話が鳴った。それは、悲しい知らせを告げる電話となった。妻の祖母がなくなったのだった。受話器を持ち、顔が硬直する妻。九十九歳だった。急ぎ車を走らせる。2月26日、日曜日。車の中で小さな声で「2月26日は、3人の日だね!」と、二男が呟いた。奇妙に思えた。そして、不思議に感じた。何かが、誰かが、そう導いているのか?
 人間いつかは死ぬものである。それが、年老いてのものなのか、また不慮の事故によるものか。いずれにせよ天命である。
 226と言えば、歴史上で昭和初期の226事件が有名であるが。この平成の世でも我が家では226が忘れる事の出来ない日となった。
 私の祖母も、妻の祖母も明治、大正、昭和の激動の時代を生き抜いてきた。私の祖母も妻の祖母も、その優しい最後の顔にはその波乱であっただろう時代がしわとなって刻まれていた。告別式が終わり、棺に別れ花を手向ける家族。その中で初めてみるご遺体に何度も花を手向け、その都度、手を合わせる二男がいた。
 余談ではあるが、告別式の前の事。一時学校を抜け出してきた二男が私の横にいた。(学校から式場まで徒歩5分)各席の後ろにはセレモニー・ホールのパンフレットがあった。そのパンフを取り出した二男「霊柩車がいくらで、祭壇はいくら、弁当はいくら」と、式会場を見渡しながら計算をしている。「えっ!こんなにかかるの?」と、驚いていた。霊柩車の話でも式場から思い出の地や家などを回って火葬場に行く事を話すと、「じゃ、お父さんは、お店自宅と・・・それに順化小学校明道中学校だね。まだ、あるよ・・・それは、・・・・高須の棚田!」


△男の酒のつまみ・・・91
 春を感じさせるフキノトウがスーパーにあった。思わずそれをカゴに入れた私。このフキノトウは・・・やはり、天婦羅にしたいと思う。春の訪れが春の匂いが私の心をウキウキさせてくれる。今回は抹茶塩でこのフキノトウを頂く。「ん・・・・ん、皆さん春ですよ!」





【三月の一/静寂の高須町】3月1日(水)

 早いもので、もう3月となった。あれほど騒いで(一人で!)眠れぬ夜を過ごしたトリノ・オリンピックも終わり、通常の生活に戻しつつあるのだが、私が原因なのか家族中が夜型となっている。(ついでに、ドイツのワールド・カップまで維持しようか!残り100日!)
 しかし、そうしてもいられない。この3月は色々と忙しい月なのである。それは、この日記をご覧の皆さんも同じであると思う。
 私自身、長男(高3)の卒業式(本日)や学校評議員として母校の明道中学校の卒業式(14日)に出席し、友人の転任等による送別会(飲み会)が相次ぐのである。また、田中先生も同じく明道中学校の諸々の通常業務に加えて卒業式があり、また、同僚の先生の転出がある。佐々木さんも会社内の事やご次男(小6)高須城小学校の卒業式(15日)がある。勿論、高須町の内々の事もあるのだ。(これが一番重要かも!)「春」「別れと出会い」の季節である。形は人それぞれ異なるものの、心に残る思い出の季節が訪れつつある。
 世の中、昨年から耐震偽造だの今回のメール疑惑だの「どうなっている!」と、叫びたくなる事ばかり。特に、このメール問題だが、民主党の対応の不味さが指摘されている。エリートと言われているN議員。東大・UCLA大学院・大蔵省官僚と、その道を歩んで来たのだが自民党特に、小泉政権の足元をすくうべく、幹事長をターゲットにした。「勇み足」で済む事ではないが、耐震偽造でM議員が民主株を大いに上げていただけに残念だ。党首の前原議員も「自民より」と党内でも批判が高まっているだけに、今回のこの問題は素早い解決を望みたいものだ。野党第1党の民主党には、期待をしていただけに尾を引くことにつながらなければと願う。(別に民主党の党員ではないのだが!)
 そうそう、福井市も今現在だが市長選でまあまあ盛り上がっている。清水・美山・越廼の合併により新生・福井市となった27万人の将来を託す新・市長は誰かと期待するのだ。3月5日の開票で新市長が誕生するのだが、市民の期待を裏切らない手腕を振るって、良きリーダーシップを取ってほしいものだ。
 冒頭でも書いたのだが、本日は長男の高校の卒業式。子供の成長は早いものだ。気が付けば学生服を脱ぐ時となった。身長もいつのまにか私を追い抜き、180センチ近くまでなっている。この春から名古屋へ行くのだが、不安と期待とが交差している私と妻。「可愛い子には、旅をさせろ!」の心境には、まだ、至っていない軟弱な私である。
 雨が降る中、卒業式を終えて多くの高校生や付き添いの母親が私の店の前を通って行く。後輩たちから渡されたのか花束を手に、また、卒業証書を手に歩いている。和服姿の母親、ドレスとまではいかないが、少し派手な洋服の母親と、どちらが主役だったのか分からなくなる。
 長男の卒業式も妻も私も出席はしない事にしていた。「来なくていいよ!もう、18なんだから照れくさいよ!」の言葉に以前から決めていたのだ。「親離れ・子離れ」の時期なのか。少しばかり寂しい妻と私。名古屋に行って「どえりゃぁ男になって帰ってきてなも!」(栄で遊ばないように!)
 そんな午後だが、本日何かと忙しい模様。勿論、本業の仕事なのだが、配達が続く日となっていた。雨の中、安全運転を心がけ走る。雨のためか市内は渋滞が至る所で見られる。下荒井(市内中心部から鯖江方面)のお得意さんのお宅へと向かう。旧8号線から住宅街に入ると静かな町並みになる。
 玄関のブザーを押すと、「ご苦労さん、雨の中ごめんね!」と奥様が顔を出す。「いえいえ、有難うございます!」と、挨拶。昔馴染みのこの奥様だが、私の子供時代から良く知っていて、何故か私は少し照れてしまうのだ。「気を付けて帰ってね!」そう話しかけると、奥様は戻る道途中まで見送りしてくれる。一度店に戻り、今度の配達先は福井市の川西だ。こちらも昔からのお得意様だ。店から約20分の道のりだがこちらは意外と車の流れは順調だ。途中、高須町へ行く道と別れそのまま直進する。(何故か、寂しくなる!)
 両脇の風景は誰もいない水田が広がるが、もうすぐ田植えの時期になると緑が当たり一面を覆うことだろう。
 配達先に着くと、子供が玄関で待っていた。嬉しそうに車から降ろすその品物を見ている。後ろではおばあちゃんが孫のその姿を見ている。「遠い所をすいませんね!」と、私に声をかけるおばあちゃん。「いえいえ、近くですよ。いつでも伺いますから」と、私が言うと「ほーけ!」と、今度は福井弁で返された。このお宅でも、私の車の姿が見えなくなるまで見送られた。バック・ミラーで見るそのおばあちゃんとお孫さんの姿が私は微笑ましく思えた。
 先ほど通って来た道を戻る。が・・・ここまで来たならと高須町を目指す私の車。前回は霧の高須町だったが、今日は雨。別に用事はないのだが、ついつい来たくなるから不思議なものだ。高須町の魅力に完璧に引き込まれている私。
 雨の中、高須町をぐるりと一周する。まるで、不審人物だ。もし、この町で事件でもあれば私が疑われる事になるだろうと、変な事を考えてしまう。(事件がなくても、怪しい!)「静寂・・・の高須町!」やはり、ここは和むと言うか癒される町だ。雨のためか誰一人逢うことなく、高須町を後にした。
 夕方、市内を走ると傘をさし自転車に乗るおばちゃんが目に入る。「危ない!」と叫びたくなる。交通ルールは関係ないとばかりに、マイペースで道路を横断していく。暗い街中でふらふらと傘を手に自転車に乗る人は、本当に気をつけなければならない。それは車も本人もだ。
 自宅近く、また同じような女性を見る。狭い道、その女性の後を距離をあけ徐行でついていく。どうやらブレーキが利かないようだ。傘を右手に持ち、当然左手は後ろブレーキ。そのブレーキが利かないのは、すこぶる危険になるのだ。ようやく追い抜ける道になった。追い抜き様、街灯に照らされたその女性の顔を見た。
「・・・・妻だった!」(最悪!)


△男の酒のつまみ・・・92
 河豚(ふぐ)白子は美味だが、中々手に入る事ない。そこで、寒ブリ白子を購入した。鍋で味わうのもいいのだが、新鮮な白子は生、ポン酢でいただく。好き嫌いが多いと言われる白子だが、この食感がたまらなくいい。





【三月の二/春待ち予想図】3月2日(木)

 この時期になると必ずニュースや新聞などで予想されるその年の「桜の開花時期!」(ソメイヨシノ)は、それを聞いている私達にとって長い冬を終え、ようやく訪れる春を感じさせるホノボノとした気持ちにさせてくれるものになる。今年は例年よりも「早い!」と予想された、その桜だが縦に長いこの日本列島、南と北とでは数ヶ月の差ができる。北海道の道産子は、南の桜をテレビで見て「こちらは、まだ雪があるのに!」と言い、北で桜が咲けば沖縄の人は「こちらは、もう海水浴のシーズンだ!」となる。
「桜前線」と同じように田植えの時期も南と北とでは、時期が違うものとなっている。本当に長いこの日本列島、春に限らず四季折々の顔が全国各地で見られる。
 先日、この春の訪れを告げるとされる古都・京都の東大寺二月堂の「お水取り」がテレビに映しだされていた。勇壮なたいまつ(長さ約6メートル)を持ち修行僧が走る。そのたいまつから火の粉が落ちるのだが、その光景は夜ということもあり幻想的なものとなり夜空を焦がす。降りかかる火の粉に参拝者からは歓声が上がる。このニュースを見ていた二男だが「あのお寺、火事にならないの?大丈夫なの?」と、私に質問してきた。「大丈夫だよ!」と答えたものの、私もこのお水取りを毎年見ていて二男と同じ事を考えていた。(レベルは一緒!さすが親子だ!)勇壮なこの行事だが、一度は生で見てみたいものだ。おそらく迫力が全く違うものだろう。
 人は昔から「火」を特別なものと考えてきた。「火」を用いた伝統的な行事は日本各地でも数えきれないほどあるものだ。「火」は時に興奮を覚えたり、またある時は安らぎを感じさせるのもがある。「水」は大地に恵みをもたらし、「火」は人に生を与えてきたと言えよう。少し関係ない話となったが(毎度の事!)この「お水取り」を少し調べてみた。
「お水取り」と多くの人に言われているのだが、正しくは「修二会」(しゅにえ)と言い、十一面観音に悔過(けか)をする作法の事を言う。悔過とは過ちを懺悔して除災招福を祈る事。(即ち、私は必ずしなければならない!)
 この行事は奈良時代から一度の中断もなく毎年続けられていて今回で1255回になると言うから凄いもので歴史上でも大変なものになる。天平勝宝四年(752年)に東大寺開山の良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が始めたと言われている。
 では、何故「お水取り」なのかだが、・・・・恥ずかしい話なのだが、無知というか馬鹿というか私はこの「お水取り」を今まで勘違いしていたのだ。どこかの由緒ある清らかな川か滝かの水を汲み、それを祭ると思っていたのだ。時を同じくする若狭の※「お水送り」と、勘違いするものかもしれない。しかし、この「お水取り」の東大寺二月堂と若狭の「お水送り」は、大変関係深いものなのだ。
※「お水送り」小浜市の天台宗神宮寺の神事で遠敷川「鵜の瀬」で営まれる。東大寺二月堂の建立の際に、修二会に遅れた若狭の遠敷明神が本尊に供える聖水を送ると約束した事が起源とされているらしい。住職が竹筒に入った香水を川に注ぐ。この水が十日間かけて地下を通り、100キロ以上離れた二月堂の若狭井に届くとされている。
 私が勘違いしていた「お水取り」なのだが、私たちの身体には約75%の水がある。「水」は命の源であり、その体内のお水を良化することで身体が浄化されると言う。水は気や波動を吸収しやすい物質で、それが良い方位のお水を取ることで、良い波動となり運気が良くなるとされているらしいのだ。(私も良い方位のお水を飲もう!)
 さて、春を待つ事ばかり書いてきた、ここ数回のこの高須城日記だが、明日は突然の雪予報となっている。「平野部では5センチから10センチの降雪が・・・」と、気象予報士がコメントしていた。
 この時期、毎年のことなのだが車のタイヤの交換時期が問題となってくる。田中先生も昨日「いやぁ、交換しようと考えていたんですが、よかったです!」と、話していた。この3月には、人それぞれタイヤ交換で頭を悩ます事になるのだ。市内中心部の人と、市郊外の人でも、その交換時期は異なるものである。(私はすでにノーマル・タイヤです!)おそらく高須町の佐々木さんは、4月近くまでスノー・タイヤを装着しているはずである。平成18年豪雪と名づけられた今回の大雪だが、明日の雪が「なごり雪」となる事を願ってしまう。(大雪になると、高須町に行けない私だから!)
 そうそう、桜で思い出したのだがもうすぐ中学3年生は高校受験(県立高校3月7/8日)である。母校の後輩達も最後の追い込みで参考書や教科書を手に登下校している姿が見られる。まあ、登下校中の勉強は余り関心しないのだが(危ない)、受験生のこのような姿は胸を熱くする。県内の受験生諸君そして、母校の明道中学校の後輩たち、全ての諸君に「桜が咲く!」事を心から願います。


△男の酒のつまみ・・・93
 つぶ貝の煮付け。この時期、酒のつまみとして私の大好物なのが、このつぶ貝を煮付けたものがある。浜の漁師の皆さんはそれぞれ独自の味付けがあるらしいのだが、私はシンプルにする。醤油・酒・味醂・で基礎を作り、少し濃い目の味付けにするため砂糖で調整する。この貝は余り食べ過ぎると「男は・・・になる!」(言えない!)と、言われるのだが私はかまわずたいらげてしまう。





【三月の三/六十一年前の傷跡!】3月4日(土)

 一昨日の雪予報も(平野部で5〜10センチ)・・・不発?となり、まあ嬉しい誤算となった。確かに朝起きてみると、うっすら路面に雪があったものの驚くほどではなかった。しかし、本当の降雪予報は日中となっていたはず、・・・だが、こちらも心配されたほどではなかった。「気象予報士も大変だな!」と、同情する私。(自分を心配しろ!)
 先月の話だが、私はある新聞の記事の見出しに興味を覚え、それ以来ずっと気になっていたのだった。その記事とは福井新聞(2/22付)「遊歩道・理科年表こぼれ話」の見出しだった。それは大きく「日本で一番高い山は?」と、なっていた。当然その時、「富士山!」と答えを言い切ったものの、私は「どこかで、測量ミスか噴火により富士山が抜かれたのか!まさか、それは無いだろう!」と、単純に推察し、その日は忙しく記事の中身を読まないでいたのだった。しかし、日が立つにつれその記事の事が忘れられないでいた私。本日夜、古新聞探しとなった。(普段は切り抜いていたのに!)
 ようやくその新聞を探しだし、記事をよく読んでみた。そこには懐かしいと言うか、日本の歴史の一部が書いてあった。自慢する訳ではないのだが、私(一応、航空自衛隊出身!)は認識していたことなのだが、戦争後つまり高度経済成長時代を子供として育ってきた私たち以降の年代の者には、「えっ!」と思う内容だろう。
「日本で一番高い山は、富士山じゃなくて新高山となっているのだ。「新高山!」とはどこの山だろうと思う人も多いはず。そこで、この記事をそのままご紹介します。
 初版本(1925年発行・昭和元年)は現在のおよそ三分の一の三百五十nで、値段は一円五十銭だった。八八年に復刻本が出版され、約三千部が売れた。ページをめくると、掲載データは天文や物理の小難しい数字ばかりではない。「本邦の主なラジウム鉱泉」「内外の主な高層建築」「鉄道の最高地点」といった、クイズ番組のネタになるような雑学情報がたくさん盛り込まれている。
 地学部の「本邦ノ高山」という項目に台湾の最高峰「新高山」が入っている。二五年当時は大日本帝国として南樺太(南サハリン)、朝鮮、台湾まで領土を広げた時代。記述では「新高山」の「高サ(m)」は「3962」。富士山(三、七七六b)より高い。「戦前の人たちにとって日本で一番高い山は富士山ではなく新高山だった。自然のデータから、日本は帝国だったんだということが分かってくる」と、評論家の立花隆さんは解説する。
 真珠湾攻撃の開始を告げる有名な暗号「ニイタカヤマノボレ」は、最高峰を極める意味が込められていたのだという。ちなみに、初版本では富士山より高い山が国内に新高山以外にも四つある。当時、富士山は六番目に高い山だった。(以上)
 私はこの長くはない記事を読みながら過去の日本の歴史(大日本帝国時代)を改めて知る事ができたような気がした。「過去の過ち!」の一言で済ますことは出来ない今の日本がある。中国や韓国(朝鮮半島)の反日感情、そしてアジア諸国とのシビアな関係が今、問題となっている。過去の日本の傲慢とも言えるその行いには、「時代がとか・・・戦争だから・・・」で、かたずけられないものがある。
 過去を忘れようとする日本人がいる。過去を知らない日本人がいる。しかし、その過去に長い年月、心の奥底に忘れる事の出来ないアジアの人々がいる事も事実だ。
 そんな記事の事を父に話していた時だった。腕を押さえ苦痛に顔を歪む父がいた。「どうしたの!」と、私。「いやぁ!たいした事はない!」と、父は言うのだが、その顔は尋常ではなかったのだ。父の腕を見ると、皮膚内に小さい突起物があった。それは、今まさに父の皮膚を内から破らんとばかりの状態だった。「何これ!」と、質問した私。「これは、戦争の思い出さ!」と、父。どうやら父は、この身体の中の異常な物体を以前から承知していたらしい。
 16歳で海軍に入り、何隻かの駆逐艦に乗船し数々の大戦を経験してきた父。敵魚雷によりその駆逐艦が沈没し、パプアニューギニア沖を1週間近く漂流、その間、敵偵察機の機銃により腕を打ちぬかれ血が海に漂う。サメが姿を見せ、わずかに生き残った仲間を襲う。意識が遠のくなか小船に人の姿。現地パプアニューギニアの原住民に助けられた父。
 父の首後ろには機銃が貫通した傷、腕にも腰にも弾痕跡がある。腰にはその破片がまだあるのだと言う父。(手術不可能らしい!)
 そんな父の身体には幾多の海戦での傷が、そして体内には痕跡が残っている。父にはその腕の物体が分かっていた。「ガラスだよ!」と、言う父。「ガラス!」と、大声を上げた私。魚雷により駆逐艦が大破した時、船窓のガラスが飛び散り体内に入ったと言うのだ。終戦後、弾やガラスの多くは取り除いたものの、一部は取り切らず体内に残っていたらしい。(61年もの間、ガラスが体内にあり、よく無事にいたものだと逆に感心していた!)
「61年前のガラス!」が、今まさに南方洋上ではなくこの福井にて父と対面しようとしていた。「すぐに医者に行って、取ってもらえば・・・」の私の言葉に頷く父。しかし、5分後だった。父の手にはナイフがあった。自分でそのガラスを取ろうとしている父の姿に驚いた私。「ダメだよ!」と、私。「そうか!」と、父。観念した父は、このあとようやく近所の病院に行く事になったのだ。
 2時間後、腕に包帯を巻いた父が帰宅してきた。「で、ガラスは?」の私の問いに「細かいのが何個かあって病院で処分してもらった!」と答えた父。別にそのガラスを記念にというわけではないのだが、61年前の駆逐艦の船窓の一部を見たかった私。だが父はその61年前ガラスを亡き戦友の面影と共に病院で惜別してきたことだろう。
 日本が辿ってきた60年前の戦争の爪あとが今でも父の身体に残っている。それは、父が亡き戦友と懐かしい話をするまで父の身体に残る事になる。
 今から約20年前、何を思い立ったか突然「パプアニューギニアに慰霊碑を建てに行く!」と、言い出した父。駆逐艦が眠る、戦友が眠る海の見える浜辺に地元の許可を得て建てた慰霊碑。そして、我が藤田家のお墓の横にも海軍の錨のマークが彫りだされたお墓がある。まだ、父の脳裏では戦争が終結してはいないのだろう。「ニイタカヤマノボレ」と共に!


△男の酒のつまみ・・・94
 キムチが好きな私と長男。スーパーでよくそのキムチを買うのだが、最後の汁を「もったいない!」と、思う。(貧乏性!)
 本日、ある試みをした私。生鯖の切り身を朝出がけにそのキムチ汁に漬け込んでみた。(水菜を細かく切ったものも)
 夜、ダメもととその鯖を取り出し焼いてみた。「意外といける!」明太子汁も美味しいらしいのだが手に入ることがなく、ならばキムチ汁でもと試みた私だった。是非一度お試しを、独自の味付けをしても面白いですよ!





【三月の四/愛読書は六法全書!】3月7日(火)

 ここ数日、春を思わせるぽかぽか陽気の日が続いている。確かに朝夕は底冷えとなるものの、秒読み段階で春到来である。そんな事を考えながら朝のジョギングをしていると行き交う人の服装も気のせいか明るい色になっているようだ。また、木々の芽も心なしか少し膨らんでいるかのようだ。
 冬を越え、動物や草花ばかりじゃなく、暖かくなれば人の動きも活発になる。長い冬眠を経て動き出す熊のように、私もあれもこれもと本気モードで行動開始となる時期となった。(遅い!遅すぎる!)
 朝、真剣な眼差しの中学生が店の前を通って行く。そう今日、明日と県立高校の受験があるのだ。いささか緊張モードの子もいる。母校の明道中学の生徒もいれば、他の中学生も見られる。駅前ならではの光景だ。「頑張れ!」心の中でエールを送る。
 本日の午前中の事だが、坂井市のお得意様のお宅に修理に出かけた私。車のフロントガラスにふりそそぐ心地よい日差しに・・・アクビが何度か出てしまう。(安全運転!)
 兼業農家のお得意様のお宅に着き、すぐに修理を開始するのだが、横目に入る田んぼの中のおじいちゃんの行動が気になる私。このお宅の横には、広くひろがる水田があるのだが自宅横のあぜ道から何歩かその水田に入り、土を掴み手のひらにのせ観察している、このお宅のおじいちゃんがいた。
 そんなおじいちゃんの様子が気になり、修理を終えると私はあぜ道に行った。
「何をなさってるのですか?」
「おお!藤田さん。遠い所をありがとの。これけ、これは田んぼの土を見てたんやわ。今年の土の状況をしっかりと把握しとかんといい米ができんのやわ。いい米はいい土に出来るから!」と、おじいちゃん。言葉よりもその顔の真剣さに威厳がある。
 そんなおじいちゃんの顔を見ていると、何故か高須町の植木御大を想像してしまった。(植木御大!しばらくお会いしていないのだがお元気だろうか?)
「ここは、コシヒカリですか?」と私が聞くと、
「ほや、この田んぼがコシヒカリで隣がイクヒカリなんやわ」と、おじいちゃん。
「じゃ、イクヒカリは昨年ぐらいからですか?イクヒカリは冷めても美味しいらしいですね?」と、更に聞くと
「ほやって!」と、笑顔で答える。
「コシヒカリとイクヒカリとでは手間の違いはあるんですか?」と、素人ならではの質問に
「いやぁ!米作りは何でも一緒や、子供を育てるのと同じや!愛情込めて育てれば、いい子に成長してくれるんや」と、プロの基本の回答を頂いた。
 おじいちゃんと私の会話は続いた。私が2年前から高須町の棚田でコシヒカリ作りを体験している事、そして高須町の皆さんとの5年前からの交流などを話した。あぜ道に腰を下ろしながら私の話を聞くおじいちゃん。
「そう言えば11チャンネルで、アナウンサーが何か米作ってたのう!」と、突然おじいちゃんが言い出した。
「そうです!あの撮影した所が高須なんです!」と、私。
 このご近所の農家でも世代交代を期に農業を止めたり、縮小する農家が最近あるらしい。「農家は大変なんやわ!」のおじいちゃんの言葉には、長年の米作りの重みが感じられた。
 気が付くと12時。修理時間10分で、おじいちゃんとの会話が約1時間にもなっていた。(やばい!午後からは・・・)
 挨拶を済ませ、車に乗ろうとした時だった。「これ、荷物になるけど持ってって!」と、おじいちゃんがダンボールを差し出した。中を見ると沢山のほうれん草が入っていた。ハウスで作ったものらしく、その新鮮さが葉のみずみずしさからもわかった。「すいません!ありがとうございます!」と、お礼を言うと「また、話に来ねの!」と、笑顔で送られた。
 急ぎ店に戻り、そして自宅に帰った私。最近お気に入りの連ドラ「風のハルカ!」(NHK)を見ながら軽く昼食を済ませ、着替える。午後からは、明道中学校で評議員会があるのだ。今年度最後の評議員会となる。少し早いのだが青空に誘われて母校に車を走らせた。
 学校に着くと、職員室に向かう。時間まで話そうと田中先生を捜すと・・・いない!「ご苦労様です!」と、江岸校長先生から声をかけられた。「どうぞ、校長室でお休み下さい!」の言葉に校長先生と私とのコーヒータイムとなった。懐かしいこの母校での思い出などを話す私。笑顔で聞く校長先生。
 昨年、赴任されてきた江岸校長先生だがこの春で定年を向かえられる。校長室の壁には、歴代校長の写真が飾られてある。当然、江岸校長先生も飾られる事になるのだが、「長い教員生活の最後がこの明道中学校で幸せです!」と、先輩校長先生の写真を見ながら話しておられた。
 そんな話をしていると、教頭先生が「皆さんお待ちです!」と呼びに来られた。本日の会議は、ここ校長室ではなくホールにての会議である。そして出席者は、校長・教頭・評議員・・・・・3年生の6名となっている。高校入試の日にと思われるでしょうが、この6名はすでに県立高校の合格者なのである。(推薦合格です!)
 ホールに入ると、ロ字状にテーブルが配置されていて、評議員の私達は上座、対面に司会の校長・教頭先生、そしてその両脇に生徒が座っている。つまり、本日のテーマは「生徒と語る会!」なのである。
 少し緊張気味の生徒達6名(男女各3名)。まずは自己紹介から始まった。私たち評議員は過去の経歴を紹介し、生徒達は、出身小学校とこの中学校での部活など、そして進路が決まった高校を紹介した。各自のテーブルの前には、誰のアイデァかミスドのお菓子がある。(誰も口にしない!)
 評議員が生徒達に質問し始めた。中学校生活の思い出・勉強・部活・そして進路(高校)を決めた理由などである。
 さすが、優秀な後輩達。一人一人ゆっくりとハキハキした口調で話していく。
「パソコンが好きだから、プログラマーを目指したい!」
「医学系を目指します!」
「ロボコンに参加して、技術系の仕事を!」
「陸上で全国大会に出れたことで、高校に入ってもう少し上を目指します!」
「オープンスクール(高校)に行き、説明を聞き、自分の将来の役に立つと考え選択しました!」
 私が中学生の頃は進路などは決めていなかった事を思い出し、改めてこの後輩達に関心していた。この時、まだ少しの緊張が見られた生徒達、そこで私は「最近、印象に残った出来事、そして愛読書は?」と、質問してみた。
 ここでは、やはりトリノ・オリンピック荒川静香選手の金メダルが多く・・・(少し、安心!)
 愛読書では、知らない本が4人の生徒から聞かされた。(いずれも、学校の図書室にあるらしい!)そして「ハリー・ポッター」(女子生徒)が登場した。(うん!話が合う!)
 最後に男子生徒(生徒会長)が口にした。「僕は、六法全書です。時間があれば必ず読みます!」と、言い出した。この時、苦笑いの校長先生と教頭先生の顔が印象的だった。私たち評議委員は・・・驚くしかなかった。(唖然!)理由を聞けば、医療系の大学を幼い時から心に決め、必ず役に立つものと六法全書を紐解いていたらしい。(因みに、自分で買ったらしい!)まあ、自慢する訳ではないが、この生徒の出身小学校は順化小学校である。(つまり、後輩である。エッヘン!)
 この後、和やかなムードのなか約2時間、生徒達と私達の会話が続いた。こういう企画もたまにはいいものだ、今時の中学生の様が見られる。後輩達の爽やかな、そして真剣な顔には大きく羽ばたく未来が見える。二男も来年にはこの中学にお世話になるのだが、4年後の成長に期待したいものだ。
 先日のニュースで日・米・中・韓の4ヶ国の高校生比較調査が報道されていた。勉強や進路に関心があると言う質問に対して韓国78%、中国76%、米国54%、に対して日本は29%となっていた。日本の高校生の勉強や進路に対しての意欲の低下が如実に出ている。この後輩達にはそんな高校生にはなってほしくはないものだ。
 さて、意外と静かだった今回の福井市長選挙だが、予想通り坂川優(前・県議会議員)が当選した。順化小学校の先輩である坂川さんには福井市の将来を大いに期待したい。中央とのパイプを使い、この福井市を活性化しなくてはならないだろう。駅前問題も大事な事ではあるが、合併した清水・美山・越廼も含めて長いスパーンでの取り組みを期待したい。
 坂川先輩、そして明道中学校の後輩たち「頑張れ!」


△男の酒のつまみ・・・95
 本日、坂井市で頂いた「ほうれん草」を調理する。まあ、シンプルにおひたし?でも、バター&塩・胡椒炒めでもいいのだが、少しアレンジ?したくなった。生卵をフライパンでスクランブルエッグとカニ玉の中間ぐらいにする。卵はお皿に盛る。ほうれん草は2等分にカットし、むき海老と椎茸を刻んだものを炒める。味付けは簡単に、塩・胡椒・トマトケチャップ・マヨネーズであえる。先ほどの卵の上に盛り付けて出来上がり。少し韓国風に辛くしても美味しいですよ!





【三月の五/メールで嬉しい知らせが!】3月10日(金)

 前回のこの日記の中で、NHKの朝の連ドラ「風のハルカ」に最近はまっていると書いた私だが、時間があれば、朝7時30分からのBSと、8時15分の総合、昼休みの12時45分(再放送)の3回も見てしまう。何故この「風のハルカ」が好きになったのか自分自身でも考えたのだが、別に出演している女優でお気に入りがいる訳でもなく、ストーリーの展開に興味がある訳でもない。では、何故なのか・・・・・。それは、このドラマのロケ地である湯布院(大分県由布市湯布院町)が、そして由布岳(1584m)がいいからである。(どことなく、高須町そして高須城山と重なる気がする!)それと、ドラマの中の湯布院の人たちの人情、それから日替わりで紹介される美味しい食べ物、これも高須町と似ているような気がするのだ。
 そんな感じで今月終わりとなるこの「風のハルカ」を妻と見ているのだが、もう一人、登校前の慌しい時間にテレビの前で見る事になった男がいる。それは、二男(小5)なのだが、こちらは少し違った理由で見ているのだ。それは、このドラマに登場する主人公・水野はるか村川絵梨の友達、木内奈々枝役の水川あさみを見たいからである。水川あさみのファン?なのかと聞いてみたところ「うん!・・・いや!・・・でも、凛凛(りんりん)だから!」と、答えた二男。つまり、フジテレビ月9「西遊記」にこの水川あさみが凛凛役で登場しているからなのだ。
 この「西遊記」だが、今、子供たちというか小学校で話題騒然らしい。休み時間でも登下校の時もこの「西遊記」の話をしているというのだ。まあ、その昔に放送された「西遊記」(昭和53〜54年、堺まさあき・夏目雅子・岸部シロー・西田敏行)の時も、私は毎回の放送を楽しみにしていたものだったから二男たちの気持ちもわかる。
「あっ!」あまり「風のハルカ」や「西遊記」と、他局の事を書いていると、川島アナ大島アナ(こしひかり娘)に失礼なので、この辺で止めておきます。FBC夕方いちばんプラス1・月〜金は、もちろん毎日見てます!)
 さて、ここ数日の事だが、早朝(5時頃)のメールのやり取りが私の日課の始まりとなりつつある。そのメールの相手とは、・・・田中先生だ。私はジョギング中で先生は、おそらくパソコンの前での携帯イジリ!?(歳を取ると、お互い朝が早い!)メールの中身は極秘事項(大した内容ではない!)
 携帯電話を持たないはずの先生が、何故か数日前に新機種の携帯電話を手にしていた。「この携帯電話でもメールが打てる!」(それまでメールはパソコンでやっていた)と、ご満悦な顔で私とアドレス交換となったのだ。(今ごろ、メールで嬉しそう!)
 そんな田中先生がいよいよ携帯電話をご家族にお披露目する事となったのだ。以前から「娘の進学先が決まったら、携帯電話を買う」つもりだったらしく本日、とうとうその日になったのだ。昨日の夕方、私は田中先生に約束していた事があった。「明日の合格発表、メールで知らせてね!心配と言うか気になるから!」と、私。その県立高校の合格発表は午後4時頃になる。
 そして本日、4時過ぎから携帯を手に落ち着かない私。(自分の子供でもないのに・・・でも、心配なのだ!)
 4時半、まだ連絡が来ない。「もしや!まさか!」と、不吉な事を考えてしまう。実は、今年の県立高校入試の問題だが例年より全般的に難しいような気がしていた。入試の翌日にはその問題が新聞で掲載されるのだが、この問題を「やってみるか!」と、中学3年生に戻り果敢に取り組む大人は多いのだ。私も毎年だが、解いている。
 そして、今年は・・・・数学・理科・社会・国語の4教科は半分も出来ず、英語になると「頭が痛い!」と、新聞を放りだしてしまった。ようするに、昔あれほど勉強しただろう中学時代の勉強を忘れている自分に腹が立っていく。(おいおい、中学時代も成績はダメだったよ!)田中先生に入試問題の事を聞いても「今年は、レベルが高いです!」と、コメントしていた。
 教師の前に、一受験生の親として「ハラハラ!ドキドキ!」の心境であろう田中先生。(親としてわかる!)そんな、事を考えながら携帯ばかり見ていた私だった。
 そして、5時になろうとした時だった。メールの着信音が鳴った。(昔懐かしい、サンダーバードが着信音。5・・・4・・・3)そのメールの中身は、「合格!」の嬉しい知らせだった。 そのメールを紹介します。
※「おかげさまで藤島高校に合格しました!」だった。
 そう、田中先生のお嬢様は福井県一の進学校、藤島高校に合格となったのだ(おめでとう!)。つまり、高須町の佐々木さんのお嬢さん(昨年、藤島高校入学)と同じ高校となったのだ。田中先生も佐々木さんも、さすが優秀なお嬢さんたちだ。(うらやましい!)出来れば、二男の家庭教師をお願いしたいものだ。その合格発表だが、どうにも落ち着かない田中先生はその時間に休みを取り、お嬢様と二人で藤島高校へ行ったらしいのだ。母校である田中先生だが、ボードの受験番号を確認するまでをのその様子を想像しただけで、こちらにも緊張感が伝わるようだ。  田中先生からのメールの直後、佐々木さんにも電話で合格のお知らせをした私。仕事中の佐々木さん「そうですか!さすが先生の子供さんだ。頭いいの!」と、喜んでいた。(お互い様だよ!)
 どちらのお嬢様も可愛くて、やはり女の子はいいなとついつい思ってしまう私(我が家は男の子二人)、今からでも女の子が欲しくなってしまう。(どこかで頑張ろうかな!片町辺りで!・・・妻には内緒で!)
 10日(日)は、久しぶりの高須町・佐々木宅にてのスタッフ会議がある。佐々木さん高島さん、そして田中先生と私。それに、おまけで・・・私の二男。(また、テレビゲームかな!)佐々木さんの号令で集合するのだが、何か趣向があるらしいのだ。次回のこの高須城日記はデジカメ撮影を予定しています。高須町の春間近3月の様子をお楽しみに!

※の「合格」メールですが、後でわかったのですが、実は田中先生のお嬢様が打ってくれたのでした。その時、田中先生は車の運転中でした・・・・ニコニコ顔で・・・おそらく。


△男の酒のつまみ・・・96
 スーパーで鯛のお刺身を買った。そのままでもいいのだが、昆布じめにする。昆布はダシ用でもいいが、ここは出来れば高級なもので味付けしたい。北海道に長くいた私は、利尻産か歯舞産がおすすめです。布巾で昆布を濡らし挟むだけでOKです。約1時間程度(冷蔵庫)で美味しくなります。
 鯛に限らず、白身魚は一度挑戦して下さい。高級昆布の違いがわかりますよ!





【三月の六/高須町で蕎麦打ち体験!】3月12日(日)

〜高須城日記通算100話記念〜

 先月の終わりだったか、高須町の佐々木さんから電話があった。「そろそろ、やろか?」と、佐々木さん。「うん!」と、答えた私。この会話だけで何をするのか分かるから不思議なのだが、それが5年の付き合いか。(おかしい中年男!)
 この佐々木さんの「そろそろ、やろか?」とは、数年前から二人で機会があればと構想を練っていたもので、蕎麦石臼(いしうす)で挽き、煉り打ち、そしておろし蕎麦で食べるというものだった。勿論、蕎麦は高須産を使う。
 しかし、この企画には問題があった。肝心の石臼がなかったのだ。昔ならどこの農家や田舎の家にはあったはずの石臼ではあるが、この平成の時代になると「どこかにあるはずなんだけど、もう使わないから・・・」とか、「石臼が欠けていて、使えない!」と、そんな話が多く聞かれる。
 ならば機械(製粉所)でと考えたのだが、「一定(10キロ単位)の量でなくては、機械を通せない!」と、簡単に断わられてしまった。そんな時、「石臼だったら、私の家にありますよ!」と声をかけてくれたのは、なんと田中先生だった。(さすが、先生!何でもある!)
 本来、新蕎麦の時期は秋から初冬となるのだが、昨年末の大雪で順延また順延となり、それぞれのスケジュールの都合もあり、やっと本日開催となった。(そんな、大げさなものか!)週末からは、高須町の佐々木さん、佐々木さんの先輩同僚の高島さん(久しぶりに登場!)、そして、田中先生と私、この4人がそれぞれ役割分担(用意・買出し)を決め本日に備えていた。(これが楽しいのだ!)
 朝8時、車の後ろには大量の買出した物が積んである。それに・・・御馴染み・・・二男(小5)が助手席にいる。(やはり、大きな紙袋を持ち、その中身は・・・ゲームだった!)
 昨日の好天が嘘の様に雨が降り続く中、車は清水町・・・いや、失礼!福井市の・・・田中先生宅に向かう。「また、雨か!」と、一人呟く。このような雨の日に高須町に行く・・・こんな事が、昨年から何度か続いてる気がした。(誰かが雨男だ!・・・私ではない!)そんな事を考えながら、もうすっかり慣れてしまった田中先生宅までの道を車は軽快に走らせた。田中先生との約束の時間は8時半。少し早くの到着となった。(さすが、自衛隊出身。時間厳守と言うか5分前の精神!)
 まだ、先生の姿(いつもは、自宅前で待っている!)はなく暫しご自宅の前の車の中で二男と雑談を交わす事となった。暫くすると先生宅の玄関の戸が開いた。その玄関から出て来られたのは、先生のお母上だった。すばやく車から降りた私、ご挨拶とお孫さんの藤島高校合格のお祝いをとなった。丁寧にその挨拶のお返しを言われるお母上、私の二男を見つけると「はあ〜、お利口そうなぼっちゃまですね!」と、嬉しいお言葉を頂いた。そんな会話をしていると玄関から先生、先生の奥様・・・そして、「合格おめでとう!」のお嬢様が出てこられた。
 実は本日、そのお嬢様が高須町に初登場?初お目見え?・・・いやデビューとなるのだ。福井県bPの進学校、その難関の藤島高校に合格、それよりも大変だったはずの長い受験勉強から解き放たれ、少しの開放感となっている今、「お嬢さんも高須町に!」と、数日前に私から田中先生に話していた。おそらくまだ行ったことのない高須町、そこには佐々木さんのお嬢さん(藤島高校1年)がいる。(本日、在宅と確認!)そんな藤島高校の先輩後輩の意外な所でそして、高須町が取り持つ意外な縁?の初対面を見てみたかった私。(3年前の春、二男と佐々木さんの息子さんたちとの初対面を思い出す!高須城日記T【四月/春蝉の声】にて掲載!)
 田中先生のお譲さんにとって佐々木さんのお嬢さんと話すことが一抹の不安と心細さがあるだろう4月からの高校生活に、少しの解消となる事を願っての事と私は考えていた。
 田中先生とお嬢さんは後部座席に仲良く座り、本日の主役?の石臼はその後ろに乗せ、高須町に向かった。そうそう、私とお嬢さんとは二度目となる(昨年のFBCげんき米のおにぎりイベントが初対面!)のだが、二男とは初めてで我が二男は少しの緊張なのか無言状態の車の中。
 高須町までの通いなれたこの道だが、田中先生はその都度お嬢さんに「ここはどこどこ!ここは何々!」と、その道すがら説明している。(まるで、バスガイドの先生だった!)
 そんな微笑ましい先生親子の会話を聞きながら、これも何度いや、もう数え切れない程、通った高須町までの道を車は走る。坂道にかかると軽トラ(店の車)は少し悲鳴を上げる。そう、おそらく過去最大の積載量となっているはず。運転は私、助手席にはゲームを大事そうにかかえる二男、後部座席には先生と少し薄着のお譲さん(少し心配!)。その後ろにはプロパン(5キロ)・ビール&焼酎&日本酒&ウーロン茶・蕎麦のダシ(おろし蕎麦用)・花かつお(2パック)&かいわれ大根(2パック)。それに先生の石臼&蕎麦打ちセット。
 それに・・・私の資料(高須町のホームページ関連)と、先程だが先生のお母上から頂いたお菓子&オレンジがある。
 ゴルフ場付近になると先生がお嬢さんに口を開く「藤田さん、昨年の夏にこの道を走ったんだよ!凄いだろ!」「うん!凄いね!」と、お嬢さん。(少し、照れる私)車が高須町を見下ろせる所にかかった。南北朝時代の新田義貞(にった・よしさだ)、それに高須町縁の畑時能(はた・ときよし)の話を聞かせた先生。「わあ、凄い!」と、またまたお嬢さん。そんな会話の中に「あれが、犬神家だよ!」と、私。(勿論、冗談だが横溝ファンの私にはそう見えるのだ)そんな楽しい会話の中、車は高須町の佐々木さんのお宅に着いた。
 すると、自宅前にはその佐々木さんの姿があった。おそらく、この雨の中一人で本日の準備をしてたのだろう。(ご苦労様です!)車の中から佐々木さんに挨拶を済ませると、車は何故か佐々木さん宅を過ぎる。
 そう、お嬢さんに見せたい場所があったのだが、それは・・・高須城小学校だった。全校児童3人のこの小学校、15日の卒業式では佐々木さんのご二男が卒業となり在校生は2人となる。(新6年1名・5年1名。新入生なし)
 高須城小学校に着くと「わあ!いい学校です!」と感動しているお嬢さん。雨の為、車中からの見学となったのだが、それでも身を乗り出して小学校を見つめていた。私は棚田も見てほしかったのだが・・・佐々木さんが待っているので今回は見送る事にしたのだ。(おそらくまた、近々高須に来るはずだから?)
 高須城小学校からUターンで佐々木さん宅に戻る。車をバックでお邪魔する(荷物搬入のため!)。車から降りて全員が改めての佐々木さんとの挨拶となった。その佐々木さんだが、私や田中先生との挨拶は・・・短めで・・・お嬢さんの所へ一目散!「合格おめでとう!頑張ったね!」と、今まで見たことのない笑顔を振りまいていた。(うそ〜!)
 春近くの高須町ではあるのだが、車から降りると雨のせいか肌寒いと言うか・・・ん・・ん・・「寒の戻り!」と、表現したほうがいいだろう。とにかく、寒かった。佐々木さんのお宅では、準備がすすめられていた。蕎麦コーナーそして焼肉コーナーの2箇所があった。広い高須町のお宅前だから出きる羨ましいセッティングだった。石臼を降ろし、準備を開始する、この時9時を少し回っていた。
 高須産の蕎麦の実、果たして素人集団で上手く出きるだろうかと、心配していた。しかし、やるしかないのだ。石臼の中に少しずつ蕎麦を入れる。ガリガリと言う感触が手に伝わってくる。この石臼の回す方向は時計とは逆回りとなる左回りなのだ。恐る恐る石臼に固定したL字の木棒を回す。

 しかし、中々出てこない白い粉。ならばもう少し多めにと、蕎麦の実を石臼の穴に入れる。すると、蕎麦ガラとともに白い美しい粉が出てきた。多くはないその白い粉の量だが、とても感動した瞬間だった。この石臼担当は以前から私となっていた(体力面で私となった!)。その粉を見ながら「おう〜!」と、笑顔で声を上げる佐々木さんと田中先生。
 そして、その声につられるように近寄る二男と田中先生のお嬢さん。実はこの時まで、お嬢さんは外にいたのだ(二男はすばやく佐々木さん宅に!)。深夜まで勉強していた佐々木さんのお譲さんは、田中先生のお譲さんとの初対面を前に朝シャンをしていたらしく、暫しデマチ状態だったのだ。(歳頃だもの!)
 そんな中、石臼を回し続ける私。ズボンの裾にも蕎麦の粉と殻が付いていた。「綺麗な粉ですよ!」と、田中先生。「いい粉だね!」と、佐々木さん。茣蓙(ゴザ)の上の石臼回し、作業はまだまだ始まったばかりだった。
 そんな時、本日の先生の登場となった。佐々木さんのお母上だった。私が引くその蕎麦の粉を実ながら「少し、篩(ふるい)にかけてみんと!」と、伝授された。石臼の回りに落ちた殻と粉を両手にすくい篩にかける。すると、パウダー状まではいかないものの綺麗な純白にも見える粉が落ちてきた。すると、佐々木さんのお母上「次(二度目)はゆっくりと回さんと!」と話された。 つまり、一度目は多少早く回してもいい蕎麦殻取り。しかし、蕎麦粉にする大事な石臼回しは心を込めて回せとおっしゃったのだ。よくみると、私の回しが悪いのか殻に白い実が多く付いている。(これは、もう一度石臼にとなる!)
 そんな時、石臼の・・・ガリガリの感触が・・・抵抗が増した。「うん?」と、上を見上げると我が二男が多くの蕎麦の実を手に持ち、石臼の穴の中に入れている。「おいおい!」と、佐々木さんと田中先生。「邪魔するなら帰れ!」と、私。それでも笑顔の二男。(親の威厳なし・・・だった!)
 約1時間程石臼を回し続けただろうか(一人で!)。でも蕎麦の実はまだ半分以上ある。そんな時、高島さんが遅れて登場となった。いつもながら笑顔の高島さん、「お疲れさん!」と、缶コーヒーの入った袋を差し出してくれた。ここで、石臼回しを佐々木さんと交代した私。缶コーヒーと煙草で休憩した。高島さんは「寒いから火を起こすぞ!」と、持参の炭火に火をつけた。まだまだ小さい炎ではあるが、何故か体と心が暖かくなる。
 雨風が強くなる気配の高須町。風で蕎麦粉が飛ばないだろうかと心配になる。すぐ様、ブルーシート&物干し竿で暴風壁を作る4人。家の中ではなく、外での作業。これが・・・いいのだ。これが高須町なのだ。山を見上げれば、靄がかかり風音がこの里村にこだまする。(最高に癒される時!)
 そんな高須町に癒されていた私だが、蕎麦作業は着々と進んでいる。10時過ぎ、ようやく1回目の石臼作業が終わる。しかし、すぐに2度目の工程にかかる。横では佐々木さんのお母上が篩作業。田中先生は私の石臼回しのお手伝い(実入れ)。高島さんは荷物の搬入と焼肉の準備。で、佐々木さんは・・・「それじゃあ・・と!」煙草を咥えこの日、何回目かの動く素振り。(佐々木さんは、蕎麦打ちが待っている!)
 12時近く、ようやく何度かの石臼作業が終わった。「ほんとにいい粉やわ!」と、お母上。今では使われなくなったこの石臼ではあるが、初めて経験した私はその疲れよりも昔の・・・先人たちの知恵に関心していた。(石臼の溝には理由があるのだ。よく考えてある石臼の謎!)
 

 ここからは、佐々木さんの出番となった。秤で水を、そして、つなぎには卵と自然薯と使う。慎重に手の感触を確かめるかのように繊細に粉とつなぎを回す佐々木さん。(初めて見る、真剣な表情!)それを見つめる私たち。その時、みぞれまじりの雨が降っていた。寒さの中、我慢していたトイレをお借りした私。
 二男の姿が見えないのが気になっていたのだが・・・、声のする部屋を開けると、二男はやはりテレビゲームでそれを横で見る佐々木さんの長男(中1)、そして仲良く話す佐々木さんのお嬢さんと田中先生のお嬢さんの藤島高校コンビ!(微笑ましい光景だった)そうそう、佐々木さんの二男は他の高須城小学校の児童と共にこの日、近くのとあるイベントにギターの演奏に招かれたらしい。(昨年の市の連音は最高だった。だから評判いいと聞いていた。村冶佳織(日本を代表する若き美人のギターリスト!)にも聞かせたいものだ)
 そんな子供たちを見て、外に戻ると佐々木さんが蕎麦を全身に力を込めこねていた。しばらくすると蕎麦棒を使い伸ばしていく。「四角く均等に伸ばすのが難しい」と、佐々木さん。まだまだその伸ばす蕎麦は丸の状態だが「それを四角にしないと!」と、外野からヤジを飛ばす私たち。

 そしていよいよ蕎麦切りになった。ここで意外な人が意外な腕を見せたのだった。それは田中先生だった。プロとは言わないまでも蕎麦を細く綺麗に切る先生。それには全員驚いていた。「凄い!」(高島さん)「上手いわ先生!」(佐々木さん)「綺麗な手さばきやわ!」(佐々木さんのお母上)「人間何か取り得がある!」(私)と、それぞれ声を上げる。(失礼!)
 大きな鍋に大量のお湯、大根を卸し、かいわれ大根&花かつお、そして市内蕎麦屋から分けてもらったおろし蕎麦のだし。すべて準備が整った。
 ここで、テーブルにあるビニール袋に入ったものが目に飛び込んできた私。その中身は「蕎麦ではなくて鯖の開き」だった。おそらく一夜干しの鯖だろうか、美味しそうの魅力にかられた私。(高島さんの差し入れ!)「焼いて!」と言わんばかりに炭火がいい状態になっていた。金網にその鯖を置く。すぐに油と共にこおばしい匂いがする。約5分、その鯖は最高の焼き上がりとなった。まだ、蕎麦をこねる佐々木さんに最初の一口「おう!最高!」と、佐々木さん。続いて田中先生と高島さんと口にする。「これは、いいわ!」と身を取り出す。焼き鯖と醤油、最高のコラボだった。この匂いに釣られて家に中にいた子供たちが出てきた。「美味しい!」と感激する。そして、この他にもこの匂いに釣られたものがいた。それは近所の猫たちだった。
 そして、作業開始から3時間。蕎麦の完成となった。いい具合に沸湯した鍋の中に蕎麦を入れる。そして、ざるに取り氷水で洗う。心配された蕎麦は・・・・切れない。まずは茹で上がりを生で味見する。「このままでも、美味しい!」と、田中先生。それは、完璧の蕎麦の出来上がりとなっていた。
 皿に盛り、おろし蕎麦をまずは子供たちに食べさした。「美味しい!」と、連呼する子供たち。どの顔も寒さの中ではあったが笑みがこぼれていた。蕎麦大好きの我が二男「お父さん!これは、今まで食べた中で一番美味しいよ!」と、言う。
 石臼からの蕎麦作り、佐々木さんのお母上の指導の下、全員の頑張りがこの美味しい蕎麦の出来上がりとなったのだ。
 それに、もう一つの隠し味。高須町だから美味しいのだと言えよう。この春に予定している「植木御大との反省会」を前に、一度試してみようと始めた今回の蕎麦道場?は大成功となったのだった。
 ますます肌寒く感じてくる今日の高須町。全員が炭火の回りに集合していた。次は焼肉となる。「ジュウジュウ」と、美味しい音が更なる食欲をそそる。そんな中、ふと見ると佐々木&田中の藤島高校コンビは楽しそうに携帯電話を手に盛り上がっていた。(誘ってよかった!)二男と佐々木家の男の子二人は、ゲームと焼肉場を往復している。

 この後、佐々木さんが用意した地元の「ふきのとう」の天婦羅でしめとなった。高須町の人情、高須町の食材、そして高須町の風土、全てのものを最高の味にしてくれる。そんな、高須町の佐々木さん宅での一日は、笑顔と笑い声が耐えない中、夕方まで続いたのだった。
「高須町、最高!」


△男の酒のつまみ・・・97
 ふきのとうの天婦羅。氷水に天婦羅粉を入れ混ぜる。だまが出来ればOK。ここで一工夫、溶いた天婦羅粉にマヨネーズを入れる。「カラッ!」と揚がりますよ!春の匂いが身体に・・・。





【三月の七/旅立ちの日に・二つの卒業式】3月15日(水)

〜高須城日記通算100話記念(その2)〜

【第一部・明道中学校編】
「寒の戻り」と言う言葉がテレビのどの局のアナウンサーからも聞ける週明けとなった。店近くの中央公園では明日から冬の間木々を雪の重さから守っていた「雪吊り」を取る作業が開始されると聞いた。それに、ほのかに公園内の「梅」のつぼみが膨らんでいる。そんな時の「寒の戻り」となる雪予報は嬉しくはないものだ。
 そして昨日の朝、起きてみれば「え〜っ!」と、驚く積雪になっていた。確かに、前日の天気予報では平野部では15センチから30センチと言ってはいたのだが、前回の事もあり、のん気に構えていた私だった。表に出て、その雪を踏むと「ふわふわ」とした雪。大した事はないと安心するのだが、それでも空から降り止まぬその雪に戸惑いがあったのも事実だった。昨日のFBC夕方いちばんの中で福井のチェ・ジウこと江守美穂気象予報士が言っていたのだが、「積雪37センチ!」昨年末の豪雪の時でさえ、一日の最大積雪は27センチだったとか、だから昨日の30センチの積雪は28年ぶり(3月として)の積雪と解説していた。
 そんな大雪の昨日14日は母校、明道中学校での卒業式があった。雪に慣れている福井県人とは言え、久しぶりに道路に積もるその雪に徐行運転が予想されるため、早めに自宅を出た私。寒さ対策ではないのだが、この時期の卒業式は例年寒く、また、広い体育館内で式が行われるため、礼服とYシャツの間にはホカロンが何枚か挟んである。
 自宅を出て、なるべく通行量の多い道を選ぶ。(雪が少ないのだ!)意外にも大通りには雪は無く、順調に車は流れている。自宅から母校までは約10分。明道中学校近くに来ると卒業生のお母さんたちが、傘を差し雪道を避けながら歩いている。校門を抜けると、この雪の中、数人の先生が駐車場係をしていて下さる。来賓、そして保護者とこの天候では車の数は多いはず。窓を開け、「お早うございます!」と、挨拶をすると、「ご苦労様です、車はいつもの来客用の場所にお止め下さい!」と、元気な返事が返ってきた。職員玄関のすぐ横の場所だった。
 車を止め、玄関に入ると来賓受付がある。私の前にはPTAの役員が数人いた。その中の一人の女性が私を見て、会釈をした。私の会長時代の役員だった。子供さんが連続でこの明道中学校に在校しているのか、長くPTAに携わっていてくれる。受付の順番待ちをと列の後方に並ぼうとした時、教頭先生が「藤田さん、そのまま校長室にお入り下さい!」と、声をかけてくれた。
 校長室に入ると、約10人の来賓の方がおられた。福井市教育委員会の田中利憲教育部長・福井市議会議員・順化小学校の林校長先生・春山小学校の筧校長先生・松本、明新、宝永各小学校の教頭先生。それに明道中学校同窓会副会長とPTA会長。また、私と同じ学校評議委員の皆さんだ。
 校長室のソファーに座り、卒業式ならではの「桜茶」を頂く。(美味しい!)卒業式は午前9時から、暫し雑談で花が咲いている。そんな中、一人緊張気味のPTA会長がいた。初めてとなる卒業式の来賓としての「祝辞」で緊張している様子だった。私の二代あとのPTA会長、ここで少しアドバイスをしたのだった。
「大丈夫!練習のつもりでゆっくりと話して!」と、私。
「はい!ありがとうございます!」と、会長。
「でもステージに上がると、緊張するけどね!」と、私。
「もう〜やめて下さいよ!また、緊張してきました。」と、会長。
(全然アドバイスになっていない!イジメだ!)
そんな和やかムードの校長室だったが、窓の外は雪が降り続いている。
「お時間です!」の声が聞こえる。来賓全員が立ち上がる。
 体育館へと続く廊下で来賓が一列に整列する。服装の乱れや髪の乱れを直しながら体育館の入り口に進む。「ゴーッ!」という音とともに体育館の重い戸が開く。物音一つしない整然とした体育館の中、1・2年の在校生そして卒業生の保護者、先生達がいる。来賓は一礼しながら体育館に入り、壇上下を通り来賓席に付く。この時、この卒業式の式進行を務める田中先生と無言の挨拶となる。(田中先生、2年連続の進行だから余裕あり!)「それにしても、寒い!」
 午前9時、平成17年度第59回・明道中学校の卒業式が始まった。(因みに、私は24回卒業)体育館に響き渡る田中先生の声。(う〜ん!いい声だ!)吹奏楽部の演奏そして全員の拍手の中、卒業生が入ってくる。
 国歌斉唱そして校歌斉唱と続く。懐かしいこの校歌「春の初花心にえがく、若い希望のみなぎるわれら」(卒業生として、一時期忘れていたのだが、さすがに6年連続となる卒業式の参加、完璧に頭の中に入っている!)
 卒業生214名、私達の時代だが県内最大のマンモス校となっていたこの明道中学校も、少子化の波か生徒数が減っている。「寂しいな!」と、呟いてしまう私。
 卒業式での一番の楽しみとなるのは、卒業証書授与の時だ。担任の先生が、大きな声で生徒の名前を呼び上げる。すると、生徒の方も「はい!」と元気な大きな声で返事をし、起立する。その時、生徒一人一人が主役になるのだ。各クラスの代表が登壇し校長先生から卒業証書を受け取る。この間、その生徒の足音だけが広い体育館に響いている。
 式開始から約30分過ぎ、学校長式辞が始まった。長い教員生活で最後の卒業式の式辞を述べられる、江岸校長先生。巻紙を用いず、ゆっくりと生徒一人一人の顔を見渡しながらの言葉となった。卒業する214名の未来、希望そして夢。温かく心打たれる式辞となった。(後で江岸校長先生から伺ったのだが、先生は昔から巻紙を用いず、暗記されて式辞を述べられてきたそうです!・・・凄い!私には到底、出来ない!)
 続いて、来賓祝辞となる。数日前に福井市の新・市長となった坂川優(さかがわ・まさる)市長の代理として、田中利憲福井市教育部長が代読された。しかし、代読の前にはご自分の言葉で卒業生に対して、優しく、そして心強くのメッセージを話された。
 そして、いよいよPTA会長祝辞になった。思い出される4年前の私。(平成13・14年度)自分の事のように緊張していた。「頑張れ!」と心の中でエールを送る。静かに立ち、来賓席そして校長席に対して頭を下げる。次にゆっくりと登壇していく。まずは国旗に一礼し、壇上中央に立つ。「礼!」の田中先生の号令。(ここまでは完璧だ!)
 礼服内より祝辞の巻紙を取り出す。そして、卒業生全体を見渡す。「ふう〜」と深呼吸した会長。(私はこの時点で最高潮の緊張感に襲われていた!)「しっかり!」と、また心の中で願う。以前に友人の元・福井県PTA連合会会長が話していたのだが、「こういうのは慣れ!場数を踏めば誰でも緊張しなくなる!」と、言っていた。しかし、今壇上にいるのは新会長だ。場数はそうないはず、だから「よし!」と、開き直るしかないのだ。緊張とこの広い体育館の中には約千人弱の目、そしてこの寒さ。(足の震えを感じていた私!)
 しかし、そんな私の心配は・・・・・無駄だった。深呼吸の後、卒業生に笑顔で語りかける会長がいた。自分の言葉で、堂々と。「上手い!やるな!いいぞ!」と、安心した私であった。用意した巻紙をほとんど見ず、おそらく相当の練習をしたであろう、暗記している。言葉一つ一つがこの体育館に響いている。そして、約6分間の新会長の祝辞は終わった。(俺より数段、上手だ!)
 そして、最後の来賓祝辞として同窓会代表が担当する。(明道中学校の場合は、50歳となる年代が毎年担当する。つまり、私の代だ。)卒業式前の校長室での事、私と同級生となるこの同窓会会長(同じ順化小学校出身)を探していたのだが、どうやら本日、東京に出張しているらしい。その代理として同窓会副会長が出席しているのだが、お互いに顔をちらちら見ていた。来賓の名簿一覧で名前を確認しているのだが、おそらく卒業(35年前)以来となるはずで、その当時の面影は消え、大いなる変身となっている風貌。声をかけることに躊躇う事になっていた。
 その同窓会副会長の祝辞だが、さすがの話ぶり。緊張する様子もなく笑顔で卒業生(この式のあとには同じ同窓会員となる!)に先輩としての言葉をかけていた。
 卒業式も後半になる。来賓の紹介、そして祝電の披露となる。祝電をゆっくりと読み上げる田中先生。(あっ!その田中先生のお嬢さんも本日、卒業式のはずだ!)
「卒業生を送ることば」そして「卒業生のことば」は、私たち大人が穴があれば入りたくなるくらい、「上手い!」と声を上げるほどのハキハキした口調で述べあっていた。特に、卒業生代表はあの「愛読書は六法全書です!」(【三月の四】)の彼だった。自分で考え自分の言葉でこの学び舎での3年間の思い出を話していく。そして、後輩達への言葉も恩師となる先生達にも心のこもった言葉で話していった。
 式もいよいよ終盤となった。先程から、大きなファンヒーターが数台轟音を上げているのだが、それでも「寒い!」体育館だった。
 式歌合唱「仰げば尊し」。そして全員合唱の「旅立ちの日に」となった。この「旅立ちの日に」だが、埼玉県の影森中学校で作られてから、全国に広まり、今では中学校の50%近くがこの卒業式で歌うそうだ。在校生と卒業生が向かいあい心を込めて最後の合唱となるこの歌を歌う。この頃には多くの生徒の目には涙があった。感動する歌、そして時間である。それを見守る卒業生の保護者、そしてこの卒業生とともに過ごしてきた先生たちの目にも涙があった。(私も泣きそうになっていた!)

 『旅立ちの日に』 小嶋 登

   白い光の中に 山なみは萌えて
   遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ
   限り無く青い空に 心ふるわせ
   自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず
   勇気を翼にこめて 希望の風にのり
   このひろい大空に 夢をたくして

     懐かしい友の声 ふとよみがえる
     意味もないいさかいに 泣いたあのとき
     心かよったうれしさに 抱き合った日よ
     みんなすぎたけれど 思いで強く抱いて
     勇気を翼にこめて 希望の風にのり
     このひろい大空に 夢をたくして

  ※いま、別れの時
   飛び立とう 未来を信じて
   弾む若い力 信じて
   このひろい このひろい 大空に
  ※くりかえし

 この詞を今、紹介させてもらったのだが、それだけでも生徒達の声と顔とそして感動が蘇り、熱いものが込み上げてきてしまう。
 明道中学校の卒業式もそんな感動の中、終わろうとしている。卒業生を大きな拍手で見送る。一人一人の未来は違う、でも自分が志した道に向かって大きく羽ばたいてほしいものだ。
 式が終わり、私たち来賓が退場する。校長室に戻ると、温かいコーヒーが待っていた。どの来賓の方からも「いい卒業式でしたね!」「さすが明道中学校ですね!」とのお言葉を頂いた。
 そんな時、私を見る視線を感じた。その方向に目をやるとあの同窓会副会長だった。「藤田君でしょ!」「はい」「久しぶりやね」「そうだね」と、こんな会話の中、名刺交換となった。でも、よくよく考えてみればこの同窓会副会長は同じクラスになったことはないものの、順化・明道と同じだった。(最近、物忘れがひどい!)
 そんな、35年ぶりの会話をしていると「高須城・・・」と複数の声が聞こえた。その声の主は田中教育部長と春山小学校の筧校長先生だった。田中教育部長が「高須城小学校は明日、卒業式ですよね。今、児童は何人ですかね?」と、筧校長に尋ねた。すると、「少ないですよ!でも、高須城小学校はとてもいい学校ですよ」と、微笑む筧校長先生。
 ここで、当然、私の登場となった。「高須城小学校は6・5・4の3人です!ですから、来年度は2名となります」と、私がその会話の中に入った。そして「いや〜ぁ、高須はいい所ですよ、あのような環境の中だったら、子供たちは伸び伸びと育ちますよ!」と、続けた。ここで、評議員のお一人が私に質問してきた。「藤田さんは何故そんなに詳しいの?」と、言う。
 私と高須町との出会い説明するのだが、それを聞き入る校長室の来賓の皆さん。明道中学校校長室は高須城小学校の話で花が咲いていた。面白いものである。これも何かの縁なのだろうか。(後でわかったのだが、春山小学校の筧校長先生は以前、高須城小学校で教鞭をとっておられたのだ!)
 来賓が学校を出る頃にもまだ雪は降り続いていた。今日一日の雪予報だが、いったいどれだけ積もるのだろうか。
 帰宅後、礼服を脱ぎながら何げなく口ずさんでいた明道中学校の校歌。その時、私に連られて校歌を歌う若者がいた。長男(高校卒業・春から名古屋へ進学)だった。「懐かしいのお父さん!忘れていたよ!」と、長男。そして、この校歌は来年には二男(4月から順化の6年生)が歌う事になる。
 校歌の詩には、その学校が見えると言われる。全然知らない人が、目を閉じて校歌を聞けばその学校や回りの風景が見えると誰かが言っていた。
 それでは、最後にその明道中学校の校歌を書きます。皆さんには、その風景を想像してみて下さい。

 『明道中学校校歌』

一、 春の初花 心にえがく
   若い希望の みなぎるわれら
   足羽の雲も いま清く
   純情燃えて 友を呼ぶ
   栄えの学園 われらが母校

二、   仰げ祖先の 不屈の精神
     雪に嵐に たゆまず進む
     文化を築く この力
     自立を誓う この気風
     享けて幸ある われらが未来

三、 澄んではるかに 北極星は
   夢をささやく 真理を語る
   世界にひらく 友情の
   想よとどけ 歌ひびけ
   永遠の若人 栄えあるわれら

       
【第二部・高須城小学校編】
 一夜明け、目映い日差しが部屋の中に注ぎ込んでいた。昨日の大雪が嘘のような朝となった。それでも積雪37センチとなった雪はまだ路面に少しある。
 約10日ほど前だったろうか、私は高須城小学校に電話をかけていた。それは、本日行われる高須城小学校の卒業式を撮影(H・P用)したかったからだ。高須町のこのホームページを開設して来月で1年になろうとしている。高須町の公式ホームページならば、どうしてもこの卒業式だけは取材しなければならないと思っていた。
 電話の向こうには石村校長先生だった。「そうですか、是非、いらして下さい!」と、快く承諾して頂いた。田中先生は授業があり、地元、佐々木さんは主役・卒業生(二男)の保護者で当然、取材どころではない。ならば、自営業の私がと午前中、休みを取り高須町に向かうことにした。
 卒業式は午前10時からと聞いていた。それでも、道路の残る雪の状況が心配で早めに家を出る事にした。しかし、どんな服装で出かけるか悩んでいた私。「ラフな服装では・・・失礼か。かと言って連日の礼服では・・・おかしい。」で、中間を取って久しぶりのスーツ姿となった。
 穏やかな春の日差しが行き交う車を照らしている。そんな日差しの中、昨日の雪も早めの雪解けとなっていた。いつもの道、多少スリップはするものの、車は廃校となった下郷小学校横から、登り坂に入った。ゴルフ場の除雪車だろうか、両脇に雪を押し出している。有難いものだ。心配された高須町までの雪による道路状況だが、想像よりも少なく感じていた。(でも、市内中心部よりは断然多いのだ!)ゴルフ場を過ぎた辺りで私の遥か前を走る一台の車がいた。すると、その車がみるみる近くなっていった。「私のスピードの出し過ぎか?」と、思ったのだがそうではなかった。その前の車が雪道に不慣れなのか徐行運転というよりもノロノロ運転となっていたのだ。勿論、追い抜くスペースなどは今はこの道にはなく、黙って後方から付いていくしかないのだ。
「まさか、ノーマルタイヤなのか?危険だ!」と、どこかでクラクションを鳴らし警告しようとさえ考えていた私だった。しかし、「まさか!卒業式のご来賓では?」失礼があってはとも思い、私もそのノロノロに付き合う事にしたのだった。
 高須町に入り、前の車はそのまま旧道で登っていく。私は右折で新しい道に入った。町中に入ると「第一村人・発見!」(所さんの番組か!)それは、本日の主役となる佐々木さんの二男だった。「今から学校か?」「うん!」そんな短い会話で私は学校前の駐車場に車を入れた。暖かい!春の風が高須町に吹いていた。そこに、先程私の前を走っていた車が来たのだった。「やはり、来賓か?」とその車を覗き込んだ私。
 すると、ドアが開き携帯電話をかけながら一人の若者が降りてきた。無言状態の携帯、「ここはauしかだめですよ!」と、教えた私。「えっ!本当ですか!」と、若者。この若者だが卒業式を取材しにきた福井新聞社カメラマンだった。
 卒業式までまだ45分以上ある。それにしても、昨日の明道中学校の卒業式とは比べものにならない好天だ。そして、久しぶりでの高須町でのいい天気の私だった。(やはり、私以外の誰かが雨男なのだ!)
 「高須町はいいなあ!」そんな事を改めて思いながら煙草を咥えていると、「第二、第三村人発見!」在校生の二人だ。「おう!元気か?」「はい!」「今日、頑張れよ!」「はい!」と、元気のいい返事が返ってくる。そんな高須城小学校の2人だが、今日の卒業式を終えると全校生徒2名となってしまうのだ。(寂しい!)
 煙草を持参の携帯灰皿に入れると学校の敷地内に入った私。正面に見える職員室には、石村校長先生の姿が見えた。軽く会釈した私。
 すると、校長先生がわざわざ玄関まで出迎えて下さった。「ご苦労様です!どうぞ職員室でお茶でも!」と、言葉をかけて下さる。「いえ!お気づかいなく。本日はカメラマンですから。」と、私。今度は、朝倉教頭先生まで来てお茶のお誘いを頂いた。
 で・・・職員室で、お茶を頂く事になったのだが、昨日の明道中学校の校長室での高須城小学校の話の経緯を石村校長先生にお話しすると「そうですか!明道で・・・筧先生は昔、本校におられましたからね」と、いつもの笑顔の校長先生だった。
 そうそう、校長室に来賓としての植木御大がお見えだと聞き、それならば手短に挨拶をすることになった私。(今年、植木御大に会うのは初めてだった!)「おう!」と、目で答える植木御大だった。
 そんな時、一台の車が止まった。来賓(市長代理)の福井市学校教育課課長の横山さんだった。私がPTA会長時だが、何回も会合でご一緒した方だった。この後、続々と来賓が来られたのだが、何人のご来賓がこられるのかと興味を持った私。(取材です!)
 受付の来賓名簿を覗き込むことにしたのだった。しかし、受付の女性教諭の手で名簿は見えず、しからばと「本日はご来賓、何人ですか?」と、聞いてみた。「はい!10人です」と先生。「えっ!」と、私。(ガ〜ン!明道中学校より多い!)
 そんな事を考えていると体育館?講堂?の中からピアノの音が聞こえてきた。先生の本番前の練習だろうか。「一人の卒業式!」そんな、初めて体験する本日のこの高須城小学校の卒業式に私は期待していたのだった。
 しばらく受付近くの廊下でウロウロしていると、主役のお母様となる佐々木さんの奥様が来られた。「本日はおめでとうございます!」と、声をかけ挨拶した私。(まずは、親しき仲にも礼儀あり・・・だ!)
「ありがとうございます!」と、笑顔の奥様だった。しばらくその廊下で在校生(4年女子)のお母さん、そして佐々木さんの奥様と3人で笑いながら時間まで雑談することになった。(まるで、いつもの棚田の受付だった!)
 そうそう、佐々木さんは仕事でこの卒業式には来れないと言うのだが、実は仕事は当然の理由なのだが、もう一つ理由があるのだ。(それは、後で・・・)
 午前10時、いよいよ平成17年度・高須城小学校の卒業式が始まった。この時、驚いた事があった。それは、この高須城小学校の卒業式だが、今回が第九十一回となっていたのだった。(歴史がある!高須の町、そして高須の人の歴史がこの学校にあるのだ!)
 この式場に入ると、暖かい手作りの会場の匂いがしていた。おそらく、先生そして児童全員で準備したのだろう、花があり綺麗な飾り物が見られた。講堂の中央部には児童の3つの椅子が置かれてある。まず、手前の2つの席に在校生が座った。
 そして、その後方には保護者席。佐々木さんの奥様と私が座った。(夫婦に見えるかな?)ご来賓が来場され、後は主役の登場を待つばかりだ。朝倉教頭先生の式進行の言葉でその卒業式は始まった。
「卒業生入場!」全員が拍手で佐々木君を迎える。「恥ずかしいかな?」と顔を見ると、そんな心配どこ吹く風と言わんばかりに、「堂々!」と入場してきた佐々木君。キリリと口を結び、確かな足取りで席に付いたのだった。この間、新聞社2社のカメラのシャッター音が響いていた。(新聞社2社!これも明道の負け!)

 国歌斉唱、そして校歌斉唱と続き卒業証書授与となった。
 この時だと、その授与の瞬間をカメラで狙う私と新聞社のカメラマン。(さすがプロ!いいポジションは取られてしまった!)

 続いて、石村校長先生の式辞となった。石村先生と佐々木君、その間約2メートルでの爽やかな式辞が始まった。「夢を持ち続けてほしい!」と、笑顔で語りかける校長先生。大リーグで活躍するイチロー選手の小学校時代の夢を話してくれた。

 来賓の祝辞でも横山学校教育課課長は荒川静香選手を取り上げて、金メダルまでの厳しい道のりを佐々木君に語りかけていた。
 そして、高山PTA会長は佐々木君と会話しているかのように、静かに祝辞を述べた。「この高須城小学校を卒業した子は、みんな良い子なんです。でも、何で良い子ばかりかと考えた時、・・・それは、この高須の素晴らしい自然と、ここに住む高須の人たちが温かくて優しいからみんな良い子になるんですね!」と、話した。(その通りだ!)
 失礼な話かもしれないが、大規模校ばかり経験してきた私には、この高須城小学校の卒業式が本当の古き良き時代のものに思えてきていた。(良い式だ!)
「別れのことば」になった。佐々木君そして在校生の二人が思い出を語る。仲良し3人が主役だった。そして、大きく見えた瞬間だった。そのやり取りを優しく見守る先生たちと、来賓の皆さん、そして佐々木さんの奥様。(涙が頬をつたっていた!・・・・私も!)

 新聞社のカメラマンもその瞬間を逃さない。「あっ!私も撮らないと!」と、いつのまにか本当に保護者となっていた私だった。(本当に感動していたんです!)
 来賓席の横山課長、浜田市議会議員、青木公民館長、棗中学校校長、植木御大、鷹巣交番の小西さん、婦人会会長それにPTAのお二人。皆さんが感動の渦に巻き込まれていたはずだった。

 無事、卒業式が終わると、新聞社2社は子供たちへの取材を始めた。ハキハキと答える3人の児童には笑顔があった。それを少し離れて見守る、保護者の皆さん。
 この後、全員での記念撮影を担当した私だったが、ファインダーを覗く私は、出来ることならこの小学校をいつまでも存続させてほしいと願っていた。

 青空の下、佐々木君の見送りが行われた。恥ずかしいのか足早に通り過ぎようとした佐々木君。「やり直し!」の私の言葉に照れくさそうに逆戻り。この後、計3回のお見送りとなったのだった。
「来てよかった!」と、私は思った。仲良しの二男にも見せてやりたいと思った。そう、二男(小5)も今日は順化で卒業式である。そして、来年は卒業である。どこの学校でもそれぞれの卒業式がある。思い出を心に、そして通いなれた学び舎を後にして行く。明道中学校は明道の校風の下、順化小学校は順化の校風の下、そして、高須城小学校は高須城の校風の下で・・・・・。

 『高須城小学校校歌』

一、かおりとどめて 城のあと
  たかすの山に かすみ立ち
  九頭竜川は 銀の帯
  ながめ大きく 胸張って
  ひろいこころを やしなおう

二、  外が輪の峰の 松風は
    遠いむかしを ささやいて
    希望の血潮 かきたてる
    うぶごえ高く 手をつなぎ
    学ぶしあわせ よろこぼう

三、自由のそらに 弧をえがく
  鷹のつばさは 日にひかり
  雪にかがやく 遠山の
  いただき越えて 行く雲の
  広がる夢を そだてよう

 途中でその感動を伝えようと仕事中の佐々木さんに電話をかけた。「よかったよ!涙流したよ!」と私が話すと「ほーか!だから、俺は出れないんだよ!泣いてしまうから!」だって!(泣けばいいじゃん!)
 高須町を出てゴルフ場への坂道にかかった時、一台の車が雪によるスリップが原因か、側溝に前輪を落としていた。ここは、元航空自衛官として見捨てるわけにはいかない。災害派遣?(それは違うだろう!)と車を止めたのだが、ドライバーが見当たらず・・・その場を後にしたのだった。その車の事も気にはなったのだが、・・・・・やはり、高須城小学校の卒業式とその子供たちの笑顔がいつしか私の頭の100%を埋めていた、帰り道だった。


△男の酒のつまみ・・・98
 新鮮なを三枚におろす。身は包丁にて細かく叩く。この時、少しの生姜とネギと、味噌(自家製でも良いが、出来れば甘めの白味噌がいい)を混ぜる。つまり、ナメロ風に・・・。酒には最高のつまみの一品となる。





【三月の八/鯖江で迷子!】3月17日(金)

 あのトリノ・オリンピックでの荒川静香選手の金メダルの感動とカーリング娘達の真剣な表情(でも、やっぱりマリリンがいい!)「スポーツはいいな!」と、興奮もまだ冷めないうちに始まった、第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)だが、どうにもその内容に戸惑いを感じてしまう私。キューバの参加問題、そして組み合わせの不自然さと、投手の投球数制限などが指摘される。しかしながら、「打倒!日本!」と、お隣の韓国の国を挙げての頑張りと、自国開催でありながら自国審判を使うアメリカのお国柄と、各国事情も面白い。そして、緊張の表情の中、プレーする日本代表チームと色々な見所が多いこの大会。来週予定(日本では21日)されている決勝は、いったいどことどこが戦うことになるのか興味深いものとなっている。
 そして、今回のイチローの言動もその話題となっている。「むこう30年は・・・」「人生最大の屈辱の日・・・」と、一人で悪役になりきっているようだが、その言葉すべてにこの大会での彼の誰にも負けない意気込みが感じられる。
 今のところ不利な状況の風が吹く、王ジャパンなのだが神話となる「神風」が吹く事を願ってしまう。 さて、二日続けての卒業式から、今まだ感動さめやらずの日々が続いている。「あの、明道中学校の式歌は何度聞いても泣くね!」「いや〜高須城の卒業式は、よかったよ!」と、妻に言うと「何度も聞いたから!」と、そっけない返事が返ってくる。黙って、何度でも聞いてくれるのは高須大好きの二男だけである。翌日(16日付)に、その高須城小学校の卒業式の様子が掲載された福井新聞と読売新聞も、しっかりと切り抜き、ファイルした。そして、その写真の中の佐々木さんの二男(卒業)や在校生の顔を見て、ニコニコする二男。(何故か、羨ましそう!)
 そんな私だが、明道中学校での卒業式の体育館での寒さが応えたのか、少しの風邪気味となっている。頭が「ぼーっ!」と、しているようだ、(いつもの事!)
 朝、食卓で朝食を食べながら新聞に目を通していると、「今日の鯖江は何時頃に行く?」と、父の声。「あ〜あ!朝一で行くよ!」と、答えた私。この日、今から起きようとしている私自身初めての体験にまだ気づいていなかった。自営業、大正13年の創業で、私で三代目となる私の店。(仕事はCMになるために、このH・Pでは言えません!)まだまだ二代目の父も、そして母も元気で店にいてくれる。おもに私は出張修理や配達で飛び回っている。80を越えた父(大正13年生まれ)、まだまだ元気なのだが、安全を考えてなるべくは運転をさせたくはないと、外回りの日々となっている私だ。(高齢者の事故が多いのだが、父は自分が高齢者とは認めてはいない!)
 で、・・・話は午前9時頃。風邪により少し頭がふらつき気味のままで車にお客様の?を乗せ、配達準備完了となっていた。高校入学のお祝いとして配達するのだが、まずは住所の確認となった。「鯖江市の○○町の○○○○様だけどお前、前に行ったことあるか?確か一度、何年か前に行ったよな!」と、父が言う。「ああ!一度行ったことあるような・・・」と、思考力無し状態の私が答えた。
 車は店を出て、大名町交差点を鯖江方面に、そして幸橋手前を左折し大野方面に。勝見から8号線に抜ける道を選んだ私。「今日は空いてる!」と、道路の車の流れを確認しながら信号待ちも少なく快調に車は進んで行く。
 8号線に入り、何回目かの信号待ちで考えていた事があった。それは「今から行く、配達先だが・・・俺、行ったことあったっけ?」と、なんともいい加減な話だった。車には住宅地図はあるものの、しかし肝心の鯖江の地図は無く、カーナビは当然無く、あるのはお客様の住所の書いてある保証書と、私の携帯電話だった。昔からのお得意様だったのだが、何故かその住所と言うか、そのお宅が思い出せないでいる私。それでも、これは風邪が原因で、近くに行けば思い出すと安心しきっていたのだった。昔から方向感覚や地理に対して抜群の判断力(自分で言うな!)を示してきた私だけに、「大丈夫!」と考えていた。  8号線を南下、ハーモニーホールを過ぎて鯖江市内に入る。道路両脇の田んぼには数日前の残雪が見られる。助手席にあるそのお客様の住所が書いてある保証書を再び見た。「うん!鯖江インター付近だな!」と、アバウトな自己了解。福井新聞社鯖江支局の信号を左折し、いよいよその住所近くとなった。この時まだ私は思っていた「ここに来た事あったっけ!」と。最後の手段として、失礼ながらとお客様に電話でナビをしてもらえばいいのだが、一度伺ったお宅にそれも申し訳なく出来ない。
 そんな事わ考えながら、車は目的地の住所近辺に入った。見渡せば水田が広がり、遠くに住宅地が見える。案内図(地名入り)を見ながら徐行にて車を走らせた。とかろが、この住所は広く、同じ地名ながら○○町の○○とかいてある。そこで、まずはタバコ屋さんに聞いてみた。「あ〜あ!それやったら、次の信号を左に曲がって、次の交差点付近やな!」と、親切なタバコ屋のおじさん。「何だ!近いな!」と、車をおじさんの指示通りに動かした。ところが、「違う!」と、案内表示は違う地名を差していた。車を降り、ご近所の方に聞こうとしたのだが、あいにく降り出した雨で人の気配は無く断念した。ところが前方に交番を発見した私。「困った時は、やっぱりおまわりさんと、勢いよく交番に車を向けた。
「すいません!」と、交番のドアを開けると、・・・返事が無く、・・・つまり巡回か何かで・・・不在だった。(こんなもんだ!)次にその交番の近所のクリーニング店に飛び込んだ私。「すいません!お伺いしたいのですが・・・」と、尋ねると、「私・・・ここのもんじゃないから・・・分かりません!」と、おばさん。
 福井の店を出てから約1時間が過ぎようとしていた。「どこなんだ!」と、迷子状態の自分が恥ずかしくなっていた。そして、とうとう最後の手段となった。「お客様に電話をしよう!」と、携帯電話を手にしたのだった。(恥ずかしい!)
 連絡を取ると、「今、どこですか?○○病院は分かりますか?」と、聞かれた私。「○○病院!ですか?」それは、最初に道を尋ねた、タバコ屋の近所だったのだ。
 再びその病院を目指し、お客様にその病院の前で待ち合わせの約束をしたのだった。(やはり、ここに来た事ないよな!来たことあるなら思い出すはず!)
 5分後、病院前で嬉しい待ち合わせとなり、そこから奥様と共に迷路のような道を抜けてようやくそのご自宅に到着したのだった。「分かりにくい道だったでしょう!」と、笑顔の奥様だった。そして、「前はお父さんが来られたんですよ!」の言葉に唖然とした私だった。(親父か!)
 風邪とは言え、いい加減な状況で店を後にした私だったのだが、人生初めてとなった迷子?に恥ずかしさと後悔が全身を覆っていたのだった。(ん・・・最初に高須町へ一人で行った時も・・・迷子になった・・・覚えがあるような!)
 約2時間弱の鯖江市での観光?から戻り、店にいた親父にこの事を言うと「そうそう!私が行ったことがあった!」と、思い出した。(なんじゃそりゃ!)それに、追い討ちをかける母の言葉「家が分からなかったら、電話かけて家の前で待っててもらえばよかったのに!」(家の前!その家が分からないんだ!)と、呑気な両親だった。やっぱり、親子かな!


△男の酒のつまみ・・・99
 この時期スーパーに入荷される旬の魚として「こうなご」がある。このこうなごは小さい魚ではあるが、栄養満点の魚として知られている。では、その食べ方としては、まずは酢と大根おろし・醤油・・・が、一番シンプルな食べ方だろう。春の山菜の葉の物と天婦羅も美味しいのだが、私としては、このこうなごを甘煮にする。だし汁・醤油・砂糖・味醂・塩、少々で味付けするのだが、身くずれする事が多いので、箸で動かさない事に気を付けたい。少し、濃いめの方が美味しいですよ!





【三月の九/異動の季節!】3月23日(木)

「やったぁ!」と、歓喜の声を上げた一昨日。アマと言うべきなのだろうか強敵キューバを倒し、記念すべき第一回WBCの王者に輝いた王・ジャパンの試合は、野球大好きな私にとって最高の休日の午後となったのだ。(テレビ観戦のため仕事をズル休み!祭日だから、いいか!)「優勝してほしい!」とは、誰もが戦前から期待していたのだが、アメリカ・大リーガー(全員)のメンバーを考えれば、「準優勝でも!いや、ベスト4でも」と、答えを出していた部分も多いにあった。
 ところが、いざ蓋を開ければ韓国の強さや、アメリカの不甲斐無さに驚いていたのも事実だった。番狂わせでメキシコがアメリカに勝ち、予想もしなかった三度の韓国戦を勝ち、決勝へと駒を進めた日本。「神風」は、やはりアメリカでも吹いたのだった。(メキシコには感謝です!)
 決勝戦。チーム一丸で戦うその選手たちのプレーには感動の言葉以上のものを私達は貰った気がする。松坂の怪我(試合前のピッチング練習、ラスト1球直後に首筋を痛める)をおしての登板や、4番・松中の足に故障を抱えながらの全力疾走。川崎の2度のエラーを忘れさせる右手でのホームタッチ(「神の手」と呼ばれたのだが、帰国後にそのホーム突入時での右肘の怪我が判明、開幕戦は欠場)、そしてイチローの気迫のホーム突入など、すべてのプレーに熱くなっていた。
 大リーガーの参加はイチローと大塚の二人だけではあったが、それでも優勝を勝ち取った日本の野球レベルと、その日本を苦しめた韓国の野球はベースボール生誕の国、アメリカでのアジアのチームの質の高さを思い知らせるものだったと言えよう。台湾そして、何年後かの中国も脅威のはず!)まあ、この大会では波乱続きが何度かあったものの、有終の美を飾った我が日本チームに「ありがとう!」と、心から祝福したい。
 そんなシーズン前(ペナント前)の野球熱が覚めやらぬ内に、早いもので、もう弥生三月も終わろうとしている。そして、この頃になるとテレビのCMを賑わす?のは、農機具(トラクターなど)である。ヰセキ・クボタ・ヤンマーなどが登場してくるのだ。そのCMを見ていると「いよいよ始まるな!」と、農業とは直接関係ない私までもが気合を入れるというか、重い腰を上げたくなるような時期となる。高須町の皆さんも当然、長い冬を終えての活動開始となるのだ。(いや、もっと前から始めてる!)
 地元・高須町の佐々木さんが以前に言っていた事を思い出したのだが、「頭の中には、一年中どこかにお米の事を考える脳がある!」と、言っていた事がある。兼業農家だからなお更、お米の状態が気になると言うのだ。仕事(会社)をしていても不意の悪天候によって田んぼの事が心配になると落ち着かなくなるのだというのだ。(さすがだ!)
 それは、佐々木さんだけではなく、他の高須町の皆さんも、そして、どこの農家の皆さんも同じなのだろう。ややおもすると、何気なく口にしている白いご飯だが、その過程になるまでの農家の皆さんの苦労を考えると、仇や疎かには出来ない事は当然の事。先日だが、あるクイズ番組の問題で「お茶碗一杯分のご飯は苗何本分からなるでしょう?」と、出題された。答えは・・・40本。(だから、一粒足りとも無駄には出来ないのだ!)
「お父さん、今年も高須町の棚田でお米作りしようね!」と、笑顔の二男だが高須町での生きた学習は確実にこの子の生活環境へのプラスとなってきている。
 さて、棚田もそろそろ春の訪れを感じているこの時期だが、私にとって落ち着かないこの数日となっている。それは、友人たちの異動の事なのだ。まず、飲み友達2人が大阪と埼玉にこの春に異動となった。2人とも近所の会社のサラリーマンなのだが、またまた、片町が寂しくなってしまう。また、高須町を昨年から何度か取材していた福井新聞のイケメン記者Y君もこの春から小浜支社に異動になったそうだ。
 そして、私が一番気がかりなのは、・・・・田中先生なのだ。今年で6年目を迎える明道中学校での勤務。昔なら「私は13年目です!」とか「まだ、9年です!」と、言った一つの学校に長きに渡り勤務される先生が多くいたのだが、ここ近年には「最高でも7年まで!」と、異動が早くなってきている。私の知人の先生も1年で異動した例があるのだ。だから、内示が出るまで落ち着かないこの時期の先生達。田中先生も「まだまだ、大丈夫です!」とは言うものの、二男の入学(来春)までは田中先生には踏ん張っていてほしい。(お願い!先生)
「残留でも・・・異動でも、分かったら教えてね!」と、私は田中先生にお願いしておいた。もし、田中先生が他校へ異動となれば今までのように「高須町へ行こう!」と頻繁に誘えなくなる。「どこに異動しても高須には行きますから!」と、田中先生の嬉しい言葉であるが、「異動なし!」が確認できるまでは安心できない。
 異動の時期、会社勤めのサラリーマンや公務員の皆さんは毎年の事と慣れてはいると思うのだが、春の訪れと共に去っていくその姿は・・・やはり、寂しいものになる。「ああ!自営業でよかった!」


△男の酒のつまみ・・・100
 お刺身の炙り焼き!普段は冷たく食べるお刺身だが、このところお寿司屋でも人気の炙りに挑戦した。赤身・白身と微かに火を通すと、・・・また、格別の味になる。「うん!いけるんでないかい!」と、思わず声を上げてしまう。出来れば、網焼きがいいですよ。今、スーパーに入荷しているサーモンも美味しいです。でも、カツオのたたきはそのままで・・・。





【三月の十/恋の行方は!・・・B】3月31日(金)

 四月を前に、福井市内では至る所でもう春準備となっている。朝夕はまだまだ、「おう、寒いな!」と、感じるのだが日昼になるとポカポカ陽気となる日々が多くなってきた。
 桜の名所となっている足羽山では、お花見準備で何軒もの茶屋の皆さんが忙しそうに店構えを始め、桜の開花を待っている。そして、桜のトンネルとして有名な足羽川の堤防でもその木々の蕾がほのかに色付きだしているようだ。
 また、県庁のお堀や足羽山の愛宕坂(あたごさか)では夕方になるとライトアップをして、行き交う人の目を楽しませてくれている。(ほんと、綺麗ですよ!)
県庁(福井城跡)のお堀では、会社帰りのサラリーマンやOLが暫し足を止め、その光が映る水面や石垣を眺めている。
 そして、足羽川の堤防も夜桜ボンボリの照明がついて神秘的な美しさを見せている。また、愛宕坂(灯の回廊)では恋人同士や家族連れ、またご夫婦だろうか「幻想的!」「綺麗!」「なんか、いいムードね!」と、声を上げその石畳の坂を手をつなぎゆっくりと登って行く。
 愛宕坂は旧藩時代の古い石段で足羽山から掘り出された笏谷(しゃくだに)石を用い、全120段からなる歴史ある坂である。
 この愛宕坂の途中には幕末の歌人で国学者であった橘曙覧(たちばなのあけみ)記念館があり、心の詩(歌集)に来場者を楽しませてくれるのだ。また、愛宕坂を登りきると足羽神社があり、この中には樹齢360年の美しく咲き誇る「枝垂れ桜」(樹高12m・福井市第一号天然記念物)がある。桜の開花ともなると足羽山での多くの花見客は、その行き帰りには必ずこの枝垂れ桜の下で足を止めるのだ。
 実は、この枝垂れ桜には思い出がある。今から5年前、私が明道中学校のPTA会長になった時の事、新旧会長・新旧校長・新旧庶務とPTA副会長のメンバー10人で懇親会(慰労会)として、この足羽山のお茶屋でお花見をしたのだった。「教育論議」「ゆとり教育」・・・などはこの時は無粋と、お酒と名物の田楽に舌包みを打っていた。桜を眺めながら、少し肌寒く、しかしながらお酒の身体も口も絶好調となっていた。
 夜9時過ぎだったろうか、ほろ酔い気分で「歩いて下りましょう!」と、足羽山から2次会の片町まで徒歩となった。途中の足羽神社から愛宕坂に向かおうとした時、この枝垂れ桜にカメラを向ける初老の男性がいた。三脚を使い、何度もシャッターをきっていた。その時、この枝垂れ桜の美しさに見とれていた、私たちだったが酔いにまかせた誰かが「すいません!明道中学校の者なんですけど、この桜の下で記念に写真を撮って頂けませんか?」と、言い出した。(私だった!)
 別に、その写真を記念にとか考えてもいなかった。ただ、その桜の下で思い出を作りたかっただけだった。すると、「いいですよ、どうぞ!」と、この男性。2枚ほどシャッターをきると、「皆さんとてもいい表情ですね。その中学校はとてもいい学校なんでしょうね!」と、嬉しい言葉を頂いたのだ。この後、全員で「有難うございます!」と、お礼をいい片町へと向かったのだった。(本当に、写真を撮ってもらうだけでよかったのだ。だって、全員酔っていたから!)
 2週間ほど過ぎた頃だったか、PTA(会長初年度)の行事の忙しさに写真の事も忘れていた時、学校に10枚の焼増ししたあの枝垂れ桜の下の記念写真が届けられたのだった。勿論、あの男性なのだが、対応した先生に名前も住所も告げずに写真の入ったその封筒だけを置いて立ち去られたのだった。封筒には何も書かれてなく、困惑していた私。
 この時、校長室で校長先生と対談していた私だったが、その写真を見て「あの時の・・・!」と、すぐにその男性を追いかけ探したのだが、姿が見えずお礼も言えなかったのである。それは、現在も私の唯一の心残りとなっている出来事である。
 あの時、私が「明道中学校」と言ったばかりにご迷惑をかけてしまった初老の男性、でも5年を経た今でも大切にその写真を手帳に挟んでいます。懐かしさと共に・・・・・。
 さて、【十二月の三】以来となる、37歳、あの片町の居酒屋マスター(後輩)のOLとの恋の話なのだが、想像もつかない進展があったのだ。
【前回までのあらすじ】(そんな、大げさな話か!)
 福井市の繁華街・片町のとある居酒屋。そこには37歳独身の真面目だけがとり得のマスターがいた。今まで恋らしい恋の経験なく日々、新しいカクテル作りにその情熱を注いできた。そんなマスターが恋をした。その恋の相手は近くの会社の22歳のOLだった。何度かお客として来店したことがある、彼女だったが、マスターのカウンター越しのひと目惚れとなった。年齢差15歳の恋の結末は・・・。
 先日、友人の送別会の帰りにふと立ち寄った後輩の居酒屋。「いらっしゃいませ!」と、元気な声が聞こえた。いつものようにカウンターを前に席に座った。「おう!」と、私。「先輩、久しぶりですね!」と、マスター。そう、今年になり初めての後輩の店だった。(だって、女の子がいないから!)
 何も言わなくても出てくる、ターキーの水割り。「美味しい!」暫くは、お互い無言でお酒を楽しんでいた。後ろのボックス席には、3人のOLらしきお客がいた。(女の子だ!)
 15分ほど過ぎた頃だったか、
「で・・・、その後どうなの?」と、聞いた私。カウンターの中でグラスを拭く後輩の手が止まった。
「えっ!・・・・何の話ですか?」と、マスター。
「お前、何の話って・・・例の彼女の事だよ!」と、私。
「ああ・・・その話ですか!」と、口を濁すマスター。
「別にどうでもいいんだけど、一応気になってな」と、私が言うと、
「それが、・・・」と、小声になった。
 その瞬間、その彼女が後ろのボックス席にいる3人の中にうちの一人だと気づいた私。
「後ろのあれか?」と、私も小声になっていた。
「・・・はい!」と、返事するマスター。すかさず尋ねてみた私
「どの子?」
「・・・奥の子です!」(振り向いて見てみたい!)
 トイレに行くふりをして席を立った私は、何気ない素振りで彼女を見た。
「うん!可愛い!」(後輩の目は確かだった!タレントで言うと、・・・和希沙也に似ている)でも、これほど可愛いのなら彼氏がいるはずだと考えた私。再びカウンター越しに後輩との密談となった。
「おい!可愛いじゃん」
「はい!」
「彼氏って、いるんじゃないの?」
「分かりません!」
「聞けよ!」
「だめですよ!」
「何で?」
「聞けません!」
「じゃ、俺が聞こうか?」
「えっ!」
「聞こうか?でないと、いつまで経っても進展がないだろ!」
「はい、でも・・・・・!」と、こんな会話がヒソヒソ話で行われたのだ。
 そして、いよいよ私の登場となったのだ。(出しゃばり!)マスターに頼んで、まずは挨拶代わりのドリンクサービス。(やる事が古い!)後ろのボックスでは、「カウンターのお客様からです!」と、マスターの声。「えっ!」「誰?」「まじ!」と、3人の声。そこで、3人のOLに私の説明をするマスター、「私の先輩です!本日何かお祝いがあったとの事で、皆さんにも・・・・」(お祝いはないが、上手い事を言うなぁ!)しばらくすると、「ご馳走様です!」と、彼女たちの声がした。グラスを持ち、何も言わず振り向いて乾杯の真似をした私。(バカか!)
 3分後、(この空白の時間が大切!)私は少し大きな声で(彼女たちに聞こえるように!)マスターに言った。
「なあ、秋吉の焼き鳥食べたくない?」(安上がり!)
「いいですね!」
そして「ねえ、君たちも食べない?焼き鳥?」と、聞いた。
「えっ!・・・どうしよっか?」「私、食べたい!」と、食い付いてきた。
「何、食べたい?」と、即座に質問する私。
「赤・白・純けい・ネギマ・串かつ・・・何でもいいよ?」
迷う彼女たち。「何しよっか!」「お任せします!」「すいません!」との返事。
そこで、私は携帯から「赤・10、白10、・・・・」と、注文する。(市内秋吉各店の電話番号は入力してます!)
 その焼き鳥を10分後取りにいくマスター。この時が大切だった。店の中は、私と彼女たち3人と・・・・奥にはカップルが。(前から居たらしいが、・・・この2人は無視!)
「ねえ、カウンターで飲まない?」と、私。相談する3人。
(普通ならボックス席なのだが、マスターの事を考えカウンターに誘う!)焼き鳥の事がキーポイントとなり、彼女たちはカウンターに移動してきた。そして、重要なのは席なのだが、私の横には関係ない2人の子を座らせ、例の彼女を一番離れた席につかせるのだ。(段取り、成功!)マスターが帰るまでの間だが「福井の子?、いつもここに来るの?」と、質問する私。マスターが帰り、カウンターで焼き鳥を食べる5人。ここでメインの質問をした。「みんな可愛いから彼氏いるでしょ?」と、私。
「・・・ん、1人だけ・・・います!」
「誰?誰?」と、私。
「はい!」と、手を挙げた私の横の子。(マスターの顔を見ればホッ!としている)
「2人はいないの?」
「・・・今は、いません!」
「嘘!こんなに可愛いのに!」(この段階でこの話だけで充分だった!)
 メインの彼女は私から一番遠い席、つまりカウンターのマスターと話をさせるようにしていたのだ。(2人とも、少しではあるが笑顔で話しをしていた)私のセッティングはここまで。後は、後輩であるマスターの勇気に任せなければならない。(少々、頼りないのだが!)「頑張れよ!」
 夜10時過ぎ、私は店を後にした。(50男、酒が弱くなったもんだ!)彼女たちはまだいる。この続きは今度聞こうと、片町をほろ酔い気分で歩いていた。「あっ!秋吉の代金を払うのを忘れていた!まあ、いいか!」(後輩の自腹!)
「少し暖かいかな」と、数日前に思っていたのだが今は底冷えのする冷たい風が吹いている。雪予報が出てチラホラ桜ではなく雪が舞った今日だが、明日は名古屋までのドライブとなっている。「何でかって?」それは次回に報告します。
 千鳥足で自宅に帰る私。まだ咲かない桜並木の下を歩きながら高須町の一年の思い出を振り返っていた。
「皆さん、足羽川でも高須町でも春はそこまで来ていますよ!」


△男の酒のつまみ・・・101
 が出てくる季節となった。昨年は不作の年・・・で今年は期待できそうだ。新鮮な早堀りをアルミホイールで3重巻き。出来れば炭火(弱火がいい)の中で約20分(大きさで時間は違う)。そのままでも、醤油でもいいですよ。春の味に乾杯!


高須城日記Uのトップに戻る