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昭和2年5月16日 佐分利託児所開設
旧大飯郡佐分利村佐畑出身の田中松太郎は東京目黒のクリスチャン教会の設立に参加し、初代牧師としてキリスト教伝道に従事した。しかし、昭和2年4月に、松太郎は妻エツとともに目黒を去って帰郷し、同村石山に託児所を開設した。当時本格的な託児所として、佐分利保育所は福井県下で最初の施設であった。
施設
松太郎は託児所敷地として現在の土地を入手し、元久保の旧家柿本五兵衛氏が所有していた納屋を購入した。納屋といっても、瓦葺の頑丈な木材を使用した頑丈なもので、二階も階下ともに十畳四室ずつの豪壮な建物であった。
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無料通年制
佐分利村には木炭業者が百七十戸もあった。夫婦共に未明から山に入って働くため、子供は家に置きざりにされた。稲作農家もまた、終日、田の畦に幼児を置いて、その泣き声を聞きながら農作業に励んだという。さらに、両親の留守のあいだに、子供のいたずらが原因で起きたとされる火災がいくつも記録されている。そのような状況にあったため、当時の佐分利村村長の中川長一氏は託児所を造っていただくのは大変有難いことだが、村民には保育料を払う家計上の余裕はないだろうとした。それを聞いた田中松太郎は快く、保育料はとりません、無料通年制でやります、と答えた。しかし、言うは易く行うには難い事業であることはもちろんであった。
苦難の経営
両親からは保育料を徴収しない、という方針で始めたものの、当然のことながら、経営は困難をきわめた。田中エツによれば、<無料通年制であるから、開始早々から毎日40名から50名の幼児が集まってきたのは誠に喜ばしいことであったが併し何かでこの経費を賄わねばならぬため田中松太郎は東京に在住していた関係から、毎年上京して、それまで縁故のある三井報恩会、原田積善会、酒井伯爵、飛鳥文吉、田中文蔵、須田孝太郎、添田敬一郎の各位に寄付を頼み、これが経費に充当したのであるが、いつも経営難に陥り、昭和3年1月、警察に届出て、頼母子講(保育講と命名して)会員30名、1人当たり半年に20円総額600円というようなものを組織して、これが5年続いた>そうだ。
第2代所長田中卯一郎が『50周年記念誌』に寄せた「お祝いの言葉』からの抜粋・要約
昭和2年5月12日に 無料通年制による保育所の開所式が挙げられた。妻エツ氏が主任保母となり、懸命に従事した。しかしながら、事業は、2年4年5年と続けられたのが、その苦難たるや筆紙に尽し難いものであった。第一経営上の問題である。保育料は無料であり、その全部は経営者の負担である。誰か使命に生きねば、かかる割りの悪い仕事をする者があるであろうか!さらに村当局者をはじめ村民一般の全く無知に近い無理解である。エツ氏が『愛育』第1巻第4号に寄稿した一文の中に、「私の託児所は無料ですから経営が非常に困難でありますが、村民は少しも考えないのみならず、元牧師をしていたのだから、外国からお金がたくさん来るとか、また儲け仕事にしているかのごとく考えられたのでした。またようはく金を工面して幼児のためスベリ台を造ってやりましたところが、村の人たちは、あんなものを造って子供の着物のお尻が破れて困ると云って喜ばれないような状態でした。創立6年目ごろから村の人たちが理解しはじめて、村から年に3円の補助金を頂戴した。私は、この時程感涙にむせんだことはありませんでした」と語っている。わずか年に3円、否、10円にしても、どこの村、町で、かかる僅少な金を補助金として出しているところがあろうか。しかし、いかなる場合においても、幼児たちは、ここに、新天地楽園を見出し、嬉々として伸びつつあるのであった。遠くは一里離れた村から、幼い子供達が嬉々として集るさまは、誰の目にも涙なくして見られない姿である。しかし、田中松太郎は無理解や経営難ぐらいで(保育事業を)中止するほど意志薄弱な人間でない。事業を放擲するには、あまりにも故郷を愛しすぎていたからだ。また彼をよく知る人々は、彼がいかに精神的活動力のある根強い敗けじ魂の所有者であったか知っておられるはずだ。彼はやりかけたら成し遂げねば止まぬ武士的気概の持ち主であった。それだけに、精神的苦難と努力さは想像に余りあるものだったろう。かかるあいだも、彼は福井県下の教化運動に、あるいは鉄道ミッション講師として、東京目黒における保育所の設立にと東奔西走の活動をしていた。
保育は田中エツが東京の教会で行っていた保育内容をそのまま取り入れたものだった。2回卒園写真にあるように佐分利村の人たちはこの託児所を幼稚園、日曜学校と表現していた。田中エツがオルガンを弾き聖歌の練習、講話、紙芝居をして終わる。その後は自由遊び、お散歩等であった。
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昭和7年9月1日
田中松太郎は佐分利託児所の経営を支えるため幾度となく東京に足を運んでいたが、創立以来5年を経過しやっと経営も軌道に乗っていた。そして以前牧師として勤めた目黒教会に対する恩返しの気持ちで教会の向かい側に友愛目黒保育所を開設したのである。
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昭和9年1月15日 高松宮殿下より御下賜金の光栄に浴す
第2代所長田中卯一郎が『50周年記念誌』に寄せた「お祝いの言葉』からの抜粋
斯くしてなすこと七年即ち、昭和九年一月実に意外であった。それは恐れ畏くも高松宮殿下(有栖川宮記念厚生資金御奨励金御下賜の光栄に浴したことである。このことは彼をして感激感泣せしめたものである。その長男に送りし書の中に、「全く村の光栄だ、身の光栄であり田中家の光栄であり祖父佐々木光太への唯一の土産である。我がなき後も、御高恩に報いねばならん」と其の子を諭したものである。ここに於て一層の保育報国を念願し記念保育所新築を計画し、漸次集まる村内有志の後援並に、三井報恩会、原田積善会の多大なる援助の下に理想的な保育所の新築が完成せられたのである。新築落成式は昭和十年五月挙行せられた。村の有力者は全部参集して我が村の誉として喜んだ。
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| 第1回から第4回までの卒園写真(昭和3年〜6年) |
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| 第5回から第8回までの卒園写真(昭和7年〜10年) |
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| [昭和8年度第7回卒園式・・この年の9年1月に高松宮殿下より御下賜金の光栄に浴したのでこの卒園写真には国旗が掲げられてる。向って左端が創立者田中松太郎そして右端が主任保育士田中エツ。] |
昭和9年1月 この光栄を記念し、請負人大谷石治郎氏に2,735円で請負わしめ、昭和10年4月完成したのである。勿論御下賜金だけで出来そうなことなく、三井報恩会で1,200円、原田積善会で500円、其他東京数名で300円、村内の寄付金約200円で建築と屋外の遊戯施設、屋内の整備、保育用具等を購入し、漸く事業に差支えざるようになった。
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昭和10年5月 新築記念会館落成
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敷地及び建物 |
| [敷 地] |
| 福井県大飯郡大飯町石山第20号字大畑 |
| 14番ノ1 宅地 91坪4合 |
| 27番ノ1 宅地 19坪1合4勺 |
| 27番ノ2 宅地 46坪3合3勺 |
| 14番ノ2 宅地 197坪 |
| [建 物] |
| 木造瓦葺2階建 |
| 1階 37坪2合5勺 |
| 2階 11坪2合5勺 |
| 土間 11坪2合5勺 |

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昭和2年度から9年度までの予算及び決算
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昭和10年11月30日 創立者田中松太郎逝く
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経営者であり創設者である田中松太郎は病気のため他界し、未亡人エツは実家、東京の府中から「亭主が亡くなって血族の一人も居ない所に永住することはむずかしい。今のうちに引上げて東京に帰れ」と勧められるが、「今まで十年間手塩にかけて、暑いにつけ、寒いにつけ、下痢する幼児が日に二人も三人もある、これをきれいに洗って、着物の乾く間、自分の半纒でまとい、冬の弁当は炬燵のやぐらにつるして、お昼暖かい弁当を子供達が広げてよろこぶ姿を生みの親もかなわぬ世話をした子供を捨てて今退くことは何としても情において忍びぬ」と、心は迷いに迷ったが、一大決心をして石にかじりついても、一心を献げて、この事業を完成しようと発奮した。この時経営者所長の名義は取敢えず、東京在住の令息卯一郎に変更して、この事業を継続することにした。
第2代所長田中卯一郎が『50周年記念誌』に寄せた「言葉」』からの抜粋
以上の努力は彼の精神的肉体的健康を損ねたものであろうか、更に、なさねばならぬ仕事、佐分利の於ける実費診療所の開設、東京の諸事業を計画し乍ら突然と病の床に倒れた。それは昭和十年十一月十一日である。即ち前日目黒保育所の幼児一同を引率して上野動物園に行き翌日床について近々二十日間、即ち十一月三十日死去したのである。享年六十五歳である。知人同藩である、時の文部次官添田敬一郎氏は死去の報に駆けつけ死に顔を身乍ら、「惜しいことをした今少し生かしておきたかった」と強く一言云われた。原田積善会の河崎藤重郎氏は、「実に単純、率直な人だった」と云われた。参集の知人友人凡て其の死を惜しんだ。これ真に彼のしからしむる処であり、また一大光栄の至りである。彼は、死の前、長男に「残念だと云った。これしきの病でしぬものかたも云った。然し万一の場合は、佐分利と目黒を継いでくれ」と云ったが私は自分の天職である牧師をやる故嫌だと断ったが彼は、「断じてやってくれ、でないと、こんなに後援して下さる方々に申訳ない」と云いつつ死んだのである。私は今、其の偉業を継承して目黒の保育所をやっている。(昭和十三年一月記す。)
昭和11年4月 補助金下付申請書。
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第9回から第14回までの卒園写真(昭和11年〜16年) |
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昭和13年9月30日 後援会を組織
後援会を組織して村内有志百二十名の会員を得、特別会員は年額一円以上、通常会員は年額五十銭以上として、数年継続し急場を凌いだこともあった。
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昭和15年4月1日 田中エツ佐分利託児所 所長に就任
昭和十五年三月三十一日 経営者田中卯一郎は東京目黒に於いて、亡父の遺業、託児所と授産場とを管理することは不可能にて何かと不都合なる故を以て、実質的な所長田中エツに名偽変更したのである。 |

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昭和10年 松太郎から送られてきた友愛目黒保育所風景
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| 昭和15年頃の佐分利のスナップ写真 |
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昭和16年12月8日 大東亜戦争に突入 平和を祈る
然るにこの当時から、昭和16年12月大東亜戦争勃発し、物資は不自由を極め各階級共に生活は実にみじめな状態に陥った。エツは一人の家庭なるが故に米は十二日分か、多くて十五日分の配給であった。これを三十に分ち其の一分を毎日の食糧とし、決して闇米を買うようなことはなかった。また河原を開拓して甘藷を作り、園児のおやつにしたり、その大部分は三方の国立療養所の患者の窮状を耳にし、荷造りをして送り、大いに感謝されたのであった。尚戦時中は毎夜二時に目をさまして、枕元に端座し、世界の平和を祈願した。夜明前や就眠直後では苦痛が少ないから目をさますのに一番苦しい時分をこの黙?にあてたのである。
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第15回から第20回までの卒園写真(昭和17〜22年)
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昭和20年2月11日 この事天聴に達し忝くも金一封恩賜のご沙汰があり、直ちに宮内省に御礼言上に上りました。
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昭和22年12月12日 児童福祉法制定
第39条 保育所は、日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳児又は幼児を保育することを目的とする施設とする。
2 保育所は、前項の規定にかかわらず、特に必要があるときは、日日保護者の委託を受けて、保育に欠けるその他の児童を保育することができる。
昭和24年5月16日 佐分利託児所を佐分利保育所に変更
政府の方針に添い届出て名称を旧名佐分利託児所を佐分利保育所と変更したのである。又創設時の旧館を既に売却して跡地は果樹園(柿畠)とし、記念会館(保育所)に九坪七合五勺を増築して、保育室に事欠かぬようになった。
当保育所としては一つの革新期に当り、米国より救援物質として小麦粉、脱脂粉乳の無償配布あり、無償と雖も数千円の運賃を某都度負担し、これが給食実施に器具、賄婦等に多大の出費を要し、かつ時代の進運に伴い、旧態依然として姑息の手段を以て経営することをゆるさず、有資格の保母を雇入れ事業は順調に進展することにいたった。
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| 給食実施概要 |
給食は幼児の健康増進のため、亦これを喜ぶため毎日実施して居る。材料不足のため私宅作りのもの使用のため手数を多く用するので困る。蚕豆の砂糖煮、馬鈴薯の茶巾搾り、粉乳入りの焼ぱん等を作ることもある。
給食材料の配布歩合は、脱脂粉乳一人一日の量22グラム、小麦粉は30グラム、一ヶ月25日の計算、但しパン給食実施の場合は一人一日当り百グラムを配給になったのである。
尚この24年度から共同募金の配分も相当の高額を交付せられ、これが補足として、幼児の家庭から一ヶ月三百円ずつ25年度からは四百円を徴収することにした。
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| 給食の児童に対する影響 |
給食を大変喜ぶようになってきた。給食時には一同顔を見合ってニコニコ笑い合い、とてもうれしそうである。世話する保母まで共にうれしくなり明日はもっと力をこめて、よく造ってやる気になる。従って児童の健康もすぐれ、体格発育もますます進んで行く有様です。
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| 保護者の世論 |
幼児の母は最初賛否半々ぐらいであったが、追々理解し、今は折々材料を持参する者もあり大いに助かる。今は十五円の給食費も喜んで納付するようになった。 |
第21回から第28回までの卒園写真(昭和23年〜30年)
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昭和31年6月13日 30周年記念の集い
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昭和34年度から法律を以て、幼児世帯の階層区分によりABCDに区分して徴収することになった。この頃から保育所経営も変革期に入りやっと苦況を脱してきたのである。しかしそれと同時にこの頃から、経費の調整経理の適正化が進み、殊に保育所の如き不なれな者ばかりの存在で、完全な報告や記帳をするには容易なことではなかったのである。 |
創立35周年記念祝賀会
昭和37年11月24日 創立35周年、給食準備室改築竣工祝、母の会と三つの催おしを合せて祝賀会を開催する。午前11時開会
プログラム
開会の挨拶 わが大和の国
一 聖書朗読 田 中
一 讃美歌二九 こどものともは
一 挨拶 田 中
一 お話し、思い出 田 中
一 遊戯 田 中
一 終りの祈り 田 中 一 閉会の辞
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来客
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| 共同募金事務局長井ノ口英信殿福井県児童課長殿 |
大飯町長永谷刀禰殿 中川自然殿 |
父子 田中むめを殿 成田医院殿 福谷 中川富貴子殿 以上七名 集合したる保育児童 四十五名 同 母 四十名 賄方手伝のため御依頼したる佐畑区の主婦各位 山口なか、柳原町子、畑中貞子、谷口はる、盛本喜代子、盛下節子、柳原美知子、谷口こよ、山崎百合子、畑中千代 以上十一名 保育所職員 田中エツ、岸崎スミエ、柿本利子、柿本千代恵 以上四名 右 同日午前十一時開会、午後一時閉会 午後一時一同に昼食を饗応し、午後二時記念のため撮影して、全く終了したるは午後五時であった。
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昭和39年10月7日 第12回中日功労者として表彰・祝賀会を開く。
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午前十一時開会 プログラム
一 我が大和の国
讃美歌五十九 会衆一同
一 御挨拶 田中園長
一 聖書朗読 田中園長
一 お祈り
一 主我れを愛す 会衆一同
一 祝辞 町長代理助役 谷口安三
一 思い出の数かず
元後援会長 中川自然
一 思い出を語る 田中園長
一 五輪おんど 園児一同
一 閉会の辞 田中園長
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午後一時来賓、園児及び母の会一同に昼食を饗応し一同歓をつくす。昼食後本日の出席者園児四十九名、母姉四十八名、来賓及び職員一同記念撮影をする。全く行事終わり解散したのは午後五時であった。
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昭和35年頃のスナップ写真
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第29回から第38回までの卒園写真(昭和31年〜昭和40年) |
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昭和42年11月 創立40周年記念会
昭和42年11月17日 創立40周年を記念して大飯町より感謝状をうく。
エツ園長は当年80歳となり、その意味も含め創立記念会を役場関係者、保護者会。中川自然氏、そして職員、園児50数名で行った。
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昭和44年頃の保育内容
園児が全員集まった9時頃から、エツ園長のお始まりが始まる。オルガンを弾き子供達に歌わせ、次にお話が始まる。そして、戦前、戦中の紙芝居を読んで聞かせる。朝の園長の時間は15分か20分ぐらいだっただろう。それが終わると、各保育室に入って設定保育が始まる。昭和43年ぐらいから保母資格をもった保育士が増え、保育内容も向上していた。その頃の主任保母は柿本利子さんで、堀口さん石蔵さんなど地元の方、そして三方の谷口さん、高浜の小林さんは、小車田の山本修さん宅に下宿して保育所に通ってこられていた。これは今の保育士さんでは理解しがたいと思うが、職員全員朝7時までに入り、仕事が終わりエツ園長にふるまわれるお茶とお菓子をいただき、職場を離れるのが午後7時すぎだった。そこまでは当たり前だと思われる方がおられるかも分りませんが、夏ならそれでも良い、しかし冬は当時よく雪が降り、職員さんは朝の6時過ぎに歩いて保育所まで来て、子供達の通路(町道)の雪かきをするから凄い保育士さんばかりだった。
昭和46年1月5日 田中エツ園長逝去
創立と共に保母として勤務、創立者の夫、田中松太郎の死後も一人滞まり、幾多の苦難を乗り超え、保育者としての全人生を佐分利の子供たちに捧げたのである。その業績、人生は福井県の、いやまた日本の保育史と申して過言ではあるまい。「夫の亡くなった時、苦況に陥った時、戦時中および終戦後、物資の極端に欠乏した時、幾たび閉鎖しようと思ったか知れない。それでも一端、乗り出した船だから頑張ろうと勇気百倍、漸く今日に至ったのであります。過ぎし日を回顧すれば実に感慨無量であります」とエツ氏は述慨する。(創立35周年記念に際し中川長一郎氏記述)
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享年82才であった。なおその業績に対し被表彰の主なるもの、次のとおりである。
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一、昭和15年4月 一、昭和16年1月
一、昭和17年2月
一、昭和19年11月
一、昭和20年2月
一、昭和20年5月
一、昭和29年7月
一、昭和39年9月
一、昭和43年6月
一、昭和45年11月
一、昭和46年1月
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佐分利村教育会より
佐分利村教育会長より
福井県知事三好重夫氏より
財団法人中央社会事業協会より
宮内省より下賜
全日本健康乳幼児表彰会長より
福井県知事小藩治和氏より
中日功労賞をうく
福井県知事中川平太夫氏より
厚生大臣内田常雄氏より
勲五等端宝章をうく,従六位に叙さる
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| 昭和46年1月8日 田中エツ園長の葬儀 聖ルカ教会 司祭 富田正道牧師 |
第39回から第43回までの卒園写真(昭和41年〜昭和45年)
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昭和44年度 第43回卒園写真 これが田中エツ園長の卒園式です。
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昭和46年1月6日 田中忠男(25歳)佐分利保育所の経営を引き継ぐ
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| 田中エツの死後、その孫田中忠男元園長が経営を引き継ぎ、保育所の改革期に入る。最初に手がけたことは保育の近代化でした。すべてが近代化とはいきませんが、「強い子、元気な子」の保育目標のもと個性ある保育をすることでした。それには地元の保母、高浜、三方から小車田区の山本修家に下宿してた保母がおり、その職員さんに伸び伸びと保育に専念できる環境を作ることも私の大事な仕事でした。また施設の開放にも心がけました。中尾先生にピアノ教室を開いていただき、園児には渡辺淳先生を招き毎週1回絵画の指導、職員には湯口さんの未生流生け花をご指導いただいた。 |
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昭和47年8月16日 厚生大臣より社会福祉法人佐分利保育園として認可
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昭和47年8月 まず保育所の法人化に取り組み、厚生大臣より社会福祉法人佐分利保育園として認可を受ける。それを期に保育内容の近代化を図り、さらに老朽化した園舎建築事業に着手した。即ち別掲の如建設趣意書のもと佐分利14区500世帯の各位と卒園者800名および特志家にもご賛同を頂きその額、200万円余りとなり、主に、屋外遊具等を購入した。園舎建築費は、日本自転車振興会(別掲)945万円大飯町(別掲)300万円共同募金35万円等の補助金に加え総額2,559,1千円を以って建築竣工をみたものである。昭和48年6月〜12月建築請負業者 大谷組
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| 昭和48年4月29日 宮内庁より御下賜金を受く |
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昭和48年12月5日 新園舎竣工
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昭和48年度園舎改築に係る振興会からの借入
社会福祉事業振興会の借入返済金は1年据置の16年間となっていたが、実際それは園長の給料で返済していくという過酷なものであった。園長は昭和49年6月に結婚。田中美知子保母と共稼ぎで何とかしのいでいた。返済は49年9月から16年間続いたのである。また社会福祉事業振興会の利子は4.6%の金利で県が二分の一、町が四分の一の補助金があった。その返済が終わった数年後に措置費の中の民間経営調整費から条件付で借入返済にまわせるようになったがまだまだ十分ではなかった。
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昭和48年12月23日竣工園舎落成披露が行われる。
園舎落成披露開催。当日は福井県・大飯町・福井県共同募金会および関係当局ならびに近隣ご支援多数のご参集を戴き心ばかりの披露をした。
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第44回から第49回までの卒園写真(昭和46年〜昭和51年)
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| 昭和51年4月より創立50周年を迎えるまでの一年間。
どのような形で式典をもち
叙位叙勲をうけた故田中エツの業績をどのような形で顕彰すべきか
奇しくも故エツの7回忌法要の年である等につき熟慮して参りました。その間、保育園理事緒氏には御熱心な討議の末、更に積極的成案を得たしだいであります。
一、増築工事 昭和48年度の新築直後ではあるが、当時物価高騰のため事業を縮小した関係から室内遊戯場が狭く、よってこれを拡張し、保育室を中央競馬福祉財団の補助金により増築する。
一、顕彰碑建立 故田中エツ先生の業績を末永く後世に伝うため
一、記念誌発行
この三点を重要目標として50周年行事の準備にかかったのであります。
然してその成果として
昭和51年11月着工の遊戯室拡張工事に係わる保育室等増強工事はkk大谷組の懸命な姿勢の間に昭和52年3月完成し、また故田中エツの顕彰碑は大谷繁春氏の絶大なご援助のもとに見事建立されました。若輩理事長は、各界諸氏、皆様方のこの保育園に寄せられる深い愛情とご協力により、課せられた記念行事を催行できますことは、まことに欣快とする処であり、ここに改めて深甚なる敬意をあらわして深く感謝する次第であります。
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昭和51年11月着工 中央競馬福祉財団の補助金のもと増築及び改装
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| 昭和51年度 増築工事決算書 |
昭和52年5月16日 創立50周年
昭和52年6月18日 創立50周年記念式典を催す。福井県、大飯町関係者、福井県私立保育園連盟関係者、そして佐分利地域の方々、保護者、園児、職員、法人役員の多くの参列者の下、富田司祭によって顕彰碑の除幕式が盛大に行われた。
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| 50周年記念に田中エツ顕彰碑を建立 |
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| 50周年記念誌より 戴いた渡辺先生の挿絵 旧園舎 |
昭和45年から52年頃までの保育、行事
佐分利保育所で行う運動会がなく、佐分利小学校運動会と共同開催の形で参加していたが、昭和47年田中園長は本郷保育所の園長さん、当時交通機関は船しか無かった大島保育所の所長さんの処に出向き、合同運動会を提案し快諾を受けた。町内の3園はいづれも60名定員だった。始めは佐分利、本郷、大島に持ち回りで行ってたが、大島に通じる青戸大橋の完成してから、大飯町の中心地、本郷で行われるようになり、今現在も総合運動公園グランドで行われてる。勿論、小学校との運動会にも参加し続けてる。
また、屋外遊戯場に幼児用プールを設置して、水遊びより一歩踏み込んだ水泳の基本を学べさせた。4歳、5歳になると、伏し浮きが出来るほど上達していた。
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| もちつき |
生活発表会 |
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| 交通安全教室 |
お泊り保育佐分利川の河原でキャンプファイヤー |
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昭和50年から58年頃までの、50年代は豪雪にみまわれ、屋根の雪下ろしを度々行った。降ろした雪は、園児の滑り台としてソリー遊びを良く楽しんだ。
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| 昭和55年度 町補助金をもって園舎増築 |
昭和48年には、大飯町にとっても町内の私立保育園にとって、良い悪いは別として変革が訪れた。町は本郷区に「五つの家」(町立幼稚園)を設置したのである。それまでの経緯はここでは書かないが、私は町内の税金一人頭にした幼児の教育費の公平を考えると、納得がいかなかった。55年に60名定員を75人にする為の増築でもあった。然るに幼稚園並みの年長組の部屋を増設したのである。勿論、玄関も別にした。
[建 物]
鉄骨造鉄板葺2階建
1階 384.27u 2階 85.51u |
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第50回から第57回までの卒園写真(昭和52年〜昭和59年)
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昭和55年度 施設定員を60名から75名に変更
昭和55年の増築で、園舎は今の現況となったが、しかしその当時は増築には消極的であった。だが当局の強い要望で、増築を決意した。それは政府も今、頭を悩ましてる待機児童の問題である。佐分利にも15名ぐらいの待機児童がおり、その解消のため60名定員を75名の定員にするために、増築を余儀なくされたのであった。しかし、これは経営の立場で考えると、誠に不合理なことが生じるのである。定員が60のときは措置単価が60名単価の適用だったが、75のときは90名単価が適用されるからだ。園児は15名増えても措置費はほとんど変わらないのである。それにまた重要な不安があった。園児数が将来的に見て減少するのは明らかであったからである。しかしその当時の佐分利の園児数は、私の園長在任中で一番多い時期でもあったので75名定員は経営的には苦しかったが、継続せざるを得なかった。
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昭和55年度の保育単価表
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第58回から第61回までの卒園写真(昭和60年〜64年)
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保 育
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佐分利保育園の保育は障害児保育、異年齢児交流事業(体験隊行事)行ってる。主な保育、行事は次のとうりである。
昭和55年度障害児保育を開始
健常児と同じステージで保育してほしいとの保護者からの要望にこたえ、障害児保育を開始した。その後多くの障害児保育を行う。
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昭和59年度佐分利保育園ちびっこ消防クラブ発足
現理事成瀬源太郎氏の働きかけにより、当時若狭地方初めての幼年消防クラブが佐分利保育園に発足されたのである。主な趣旨は、子供達に「火遊びをしません」と言うことだった。防火ポスター製作、消防署見学(秋の小遠足を兼ね)等を行っている。 |
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平成4年9月 佐分利体験隊発足
私が佐小グランドで少年野球の指導をしていた時のことである。鹿野の谷口公一氏がグランドにひょっと入ってきた。彼曰く「スポーツだけではなく技術系、文化系の活動も広めようではないか」との提案があった。私がこたえて「そうですね、せっかくきのこの森がつくられたのだからそれを活動拠点として考えて見ましょう」、それから2ヵ月後、佐分利体験隊と称して発足した。隊員は会長ほか8名で編成された。翌年には異年齢児交流事業として体験隊活動を行うこととなった。活動は参加児童、園児とともに佐分利公民館の協力を得て実施された。竹を材料とした水鉄砲造り、竹馬つくり、竹とんぼ作り、たこ作りなどを行い、又ペットボトルロケットも制作し、少し園児には難しかったかも知れないが、紙ヒコーキ造りそして映画会等であった。行事の中で園児、小学生が楽しみにしていたのが、毎年行われたキャンプだった。名田庄の2ヶ所のキャンプ場で、名田庄に行かない時は、園庭で行われた。道路改正法によるチャイルドシート着用義務等の理由で、キャンプは中止を余儀なくされた。体験隊とは別に年中、年長組のお泊り保育を園内で行っている。
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名田庄頭巾山キャンプと体験隊スタッフ
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お絵かき幼児画
幼児画展と言えば、まず渡辺淳さんが3年間の指導をしてくれたことを、初めに書かなければならない。先生は当時郵便配達の仕事を請け負い、示現会会員で日展にも多く入選していた。その先生が園児に絵画を教えてくれたのだから、感激である。その当時やはり、県幼児画コンクールに応募して入選していたのは、嶺南では聖ルカ幼稚園ぐらいなものだった。しかし先生の指導により入選者を多く出した、大変喜ばしいことであった。3年後私が引き継ぎ絵画指導にあたった。創造性豊かな絵が幼児画展に入選する。口では簡単だがそれを絵の中に見出すのは至難の技である。しかし、その絵の中に幼児の心を見出せることも事実である。それは児童の絵から心の鏡をしてとらえ分析するのである。私は精神科医ではないから、創造性にしぼって園児の絵を選ぶ。そして数年後、団体、奨励賞、優秀賞を数多くとり嶺南随一と言われる様にまでなった。18年度も引き継いだ現園長のもと、ベテラン保育士の指導により団体奨励賞をいただいてる。
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水遊びプール
昭和50年頃か、それまで園庭にあった幼児用プールではものたりなくなり、佐分利小の低学年用のプールをお借りすることになった。年中、年長の園児はおよそ直線で800mの学校を往復したのである。プール遊びが始まった。遊びと言うより訓練に近かったと思う。その当時は佐分利川の水量が少なくなっており、ほとんどの子が川で水遊びをしないという時代だった。そこで当時、小浜の水泳大会でも例年優秀な成績を出されてる、本郷小学校の教諭にその指導方法を教えて戴いた。その教諭は現在本小校長先生となっている。
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生活発表会と主な行事
昭和58年度から、それまで屋内遊戯場で行われていた生活発表会を佐分利川公園内の体育館で行っていた。しかしその数年後には本郷の町民センターで行うようになった。園児はその発表会のために練習に明け暮れる。決して上手ではない。リハーサルには遠くて行かれないから、指導する保育士はあせる。だが本番に強いのが佐分利保育園児の伝統であった。
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七 夕
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園庭ですいか割り |
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| 小車田区の山本修氏の畑で芋掘り、くり拾い。山本氏の家のおじいさん、おばあさんの時代からこの日のためにサルに取られないようにいのししに掘られないように大切に芋、くりを育ていただいてます。感謝 |
夜店まつり |
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| 箱館山スキー場でお別れ小遠足 |
朽木スキー場でお別れ小遠足 |
第62回から第69回までの卒園写真(昭和64年[平成元年]〜平成8年)
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平成7年度 施設定員を75名から60名に変更
昭和55年の増築で園舎で施設定員を75名としたが、平成4年4月当初措置児68名、5年度61名、6年度57名と落ち込んだいった。この措置児の人数で90名単価の適用だった。平成7年度にこの結果をみて、当局はやっと60名単価に戻してくれたのである。保育所の経営はその年度、特に3歳未満児の入園児数によって大きく変わり、その結果保育士が余るという年度が何年もあった。がしかしそれだからといってその度に辞めてくれなって言えますか、そこは職員全員の昇給ストップで乗り切ってきたのである。その点は民間保育所の宿命みたいなもだったが心から保育士職員に感謝せねばならない。そしてとうとう限界が訪れたのは平成4年以降の入所児童の減少だった。この経験を今後に活かして、「定員増をしてならぬ」という教訓みたいなものが生まれた。その後また大きな変革がおきるのである。佐分利だけでなく本郷は勿論のこと高浜など近隣市町村からの入所が認められるようになり、同時に国の待機児童解消対策で60名なら4月当初は定員の15%増まで、5月当初には25%増まで入所できるようになった。当園にとって願っても無いような環境になっていった。ところがそれだけの人数が満たされると、今度は定員をあげろといってくる。私は頑として受け入れなかった。簡単な試算で年間一千万円措置費が下がるのである。私が保育士に言い訳できる金額ではない。私は多くを望んでるわけではない。今後小子化が続き、60名定員で60名の園児がおるなら幸いである。平成17年度に私が園長を辞める決断をした理由の一つである。佐分利地区の子は現在でも50名前後です。私が辞める決意した年度は予算が立てられなかったからで、給料の高いものが辞めざるを得なかったのである。もう一つの理由はこれから出てくる卒園写真で分ってくるだろう。
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第70回から第73回までの卒園写真(平成9年〜平成12年)
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平成8年度 時間延長型保育サービス事業 開始
保育所の開所時間は朝7時から6時を基準としてたが、それを1時間延長して午後7時までとなった。はじめは延長保育を希望する保護者には1日100円のおやつ料を収めてもらったが、現実はそんな時間におやつを食べさすと夕食が食べれない子も出てきて延長保育は望むがおやつは要らないとのことで、今ではおやつ代を徴収してない。
平成11年度 少子化対策事業補助金を受け屋根の葺き替え工事
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平成12年3月31日 園長田中忠男が社会福祉法人佐分利保育園理事長を退任
同年4月1日 理事長に第5代経営者 田中康介が就任
新会計基準準拠の施行
平成12年度は国の会計基準が変わり、それに伴う会計ソフトを変更した。しかし、このソフトは私が造ったものだから変更できたが、それまで無かった減価償却の考え方を理解するまでかなりの時間を要した。それだけでは無い。資金収支計算書、事業収支計算書、貸借対照表等の整合性が理解できていなかった。当時、県の指導監査に来ていただいた方が、後にその移行後の整合性を示す書類のコピーを送っていただいた。感謝。今でやっとその整合性が分るようになったから当時は大変だった。
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第74回から第77回までの卒園写真(平成13年〜平成16年)
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平成14年4月1日 苦情処理委員会が発足 別掲
平成17年4月1日 第三者評価基準制度が施行 別掲
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平成17年9月30日 第4代経営者 園長田中忠男 退任
祖母田中エツ園長から引き継ぐこと35年にて退任の決断をしたり。とりあえずは施設長を副園長清水敬子にまかせ、後に田中康介が正式な園長に就任した。
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園長田中忠男 退任の挨拶状
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拝啓 秋冷の候、ますますご健勝のことと存じます。
さて、私はこのたび、九月三十日をもって佐分利保育園園長の職を辞したことをご報告させていただきます。
思えば昭和四十六年一月に、祖母田中エツより保育所の経営を引継いでのち今日までの三十五年間、園舎改築、保育の近代化、法人設立等を手がけてまいりました。その間、保育制度の変遷、過疎、少子化等の問題に翻弄されましたが、延べ二千人以上の措置児を大過なく保育できたことは、私の何よりの喜びとするものであります。これは一重に、法人役員、保育士職員、大飯町並びに地域住民の皆様の公私にわたる温かいご指導とご厚情の賜物であったと思っております。心から御礼申し上げます。有難うございました。これからも、何とぞ変わらぬご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。 末筆ではありますが、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
平成十七年十月吉日
敬具 |
第78回から第79回までの卒園写真(平成17年〜平成18年)
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平成18年4月1日 学童保育が始まる
この18年度より学童保育を開始した。佐分利児童クラブを発足、保育士が学校から直接「佐分利公民館」に帰ってきた児童の指導にあたり、あそびや生活の場を通じて、児童の健全育成に努める。 |
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平成18年12月1日 理事長田中康介が園長に就任。
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第80回の卒園写真(平成19年3月)
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保 育(思い出のアルバムから)
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通常の保育以外に講師をお招きして、園児にご指導していただいてる。習字教室は平成4年度から田中景子先生、その後は池野やな枝先生に引き継いでもらい現在に至る。また平成11年度から始まった英会話教室は谷口マリアン先生に現在までご指導いただいてる。その後講師を2人制にしてから、中川アリン先生、現在は益井ニーナ先生にお願いしてる。
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| 佐分利郵便局からいただくチューリップの花が咲きました |
保育園の裏手の山裾のブルーベリー農場に行っておいしかった |
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| 幼年消防クラブ活動 |
おいのり |
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| 合同運動会 |
生活発表会 |
平成18年度卒園式の年中組みさんの写真です。
前年度まで本郷区の園児で、年長のとき幼稚園に行かれた方、そして何らかの事情で年長までおられなかった方々が入ってません。大変申し訳御座いませんでした。もしお気づきのかたは「思い出のアルバム」から一枚送付していただければ、このページに載せさせていただきます。 |
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| 平成18年度 ひまわり組 卒園写真 |
創立80周年記念誌を編集するにあたって
私が17年に園長職の退任を決断したおりに、社会福祉法人・佐分利保育園の『沿革史』を著すべきと考えました。そしてこれが、私にとっての最後の仕事になるであろう、などと思っているうちに、すでに2年が過ぎてしまいました。いつまでものんびり構えているわけにはいきません。そろそろ、本格的に、『佐分利保育園80年誌』の仕上げに取り組んでしかるべきでありましょう。――私がこれから編集・執筆する『社会福祉法人・佐分利保育園80周年記念誌』は、前々代の田中エツ園長が口述して中川長次郎氏が記録した『創立30周年記念史』、それをベースに私が手がけた『創立50周年記念誌』を参考にしたものになるでしょう。さらには、実兄・佐々木信雄(翻訳家)のホームページに記された創立者・田中松太郎にまつわるエピソードも引用する所存であります。それぞれの時代に登場する方々のお名前に言及し、当時の写真を掲載をさせていただくこともあるかもしれませんが、そのさい、失礼のないように万全を尽くしたいと思っておりますので、なにとぞ、お許しをいただけますようにお願いいたします。 平成19年2月 元園長 田中忠男
平成19年5月16日 創立80周年記念日
昭和2年5月16日創立者田中松太郎が佐分利託児所を県に届出て事業を開始して以来、田中卯一郎、祖母エツそして田中忠男、現園長の5代を経過して、この日を迎えることとなった。無料通年制で事業を開始した松太郎、そしてそれを支え戦前戦後を乗り切り、児童福祉法が施行後、昭和24年保育所認可を県下一番で認められるまでの、祖母エツの労苦を考えると筆舌に尽くしがたく、現在我々保育に係わるものとしては、心して経営・保育を行わなければならないと感じるのであります。あらためて、その時代に佐分利託児所・保育所を支えて戴いた、佐分利村・大飯町・佐畑区・保護者の皆様方に厚く御礼申し上げます。またこの80周年はあくまで通過点に過ぎず、今後ともおおい町はもとより、高浜町をはじめ近隣市町村の幼児保育(教育)、子育て支援等に邁進する所存であります。
元園長田中忠男はこれを記念して、80周年記念誌を2年がかりで計画、執筆活動を行っていた。決して十分な内容ではないが、これをインターネットに公開することで、元園長の職務としての沿革誌(史)は終わった。
元園長田中忠男は厚生労働大臣表彰等数々の表彰を受け、退職後平成18年2月7日県政功労者表彰を受く。
創立80周年記念式典は後日理事会において決定されるが、来年園舎改築も控えてることから式典は後日を見計らってからだと思う。しかし、園児にはこれを記念して、80周年記念「おもいでのアルバム」他粗品を配ることとなった。
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追記・・佐々木信雄<父祖の地は若狭>から抜粋
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| 右端(西側)は小学校(国民学校)の、左端が高等科(新制中学)の校舎だった。もちろん、まん中が講堂。左の校舎1階に職員室が、さらには、その手前の渡り廊下北側に保健室があった、と思う。月並みだけど、ひどく懐かしい。また、「大飯郡誌」(昭和6年度版?)637ページには、佐分利の託児所についての記事があった。<佐分利託児所は田中光大師の経営にして昭和二年五月十二日の創設なり>と書かれてある。このころ、わが祖父は“田中松太郎”ではなく、“田中光大”を名乗っていた。 |
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創立者略歴 <田中光大 △明治四年五月生△原籍、福井県小濱町△受洗、大正三年十一月△受按、大正十年五月△出身、聖書学院△前任、栃木自給伝導館及四谷キリスト教会△現任、東京府下下目黒四二〇、目黒クリスチャン教会△妻及男児二名、女児二名△教派、クリスチャン教会△現住所、東京市外下目黒四二〇教会内>「基督教年鑑」・(大正14年度版「年鑑」の「フース、フー」)・佐々木信雄所有資料より。 |
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