歴史の学習室#01 「日本橋」

 

「4月の暦」を作っているとき、「日本橋開設の日」という記念日から、中学生の時、「江戸時代の5街道は、全て日本橋から出ている。」と聞いたことを思いだし、 ちょっと調べてみようという気になった。

 

 まず、お断りをして置くが、日本橋と呼ばれる有名な地名は2カ所有る。その1つは「東京の日本橋(にほんばし)」であり、もう1つは「大阪の日本橋(にっぽんばし)」である。そう、東京と大阪では、呼び方が違うのである。

 

東京日本橋(にほんばし)

 

<歴史>

 古くから、為政者達は、道路の整備に努力したもので、特に織田信長は全国統一に近づくと、戦国大名が設けていた国境の関所を無くし、交通の便を良くしたようで、その後、豊臣秀吉も、同じ様な政策を採ったようである。

 

 徳川家康が政権を奪うと、道路の再整備を行い、特に有名な5街道を設置した。

 そして、全ての街道の出発点を、1603年に架設された「日本橋」と定め、そこを起点に、一里塚を置くようにした。その結果、日本中の人間が、否応なく「江戸」や「日本橋」を意識しなくてはならなくなったのである。また、「江戸湊」の中心も「日本橋」としたので、陸上交通だけでなく、海上交通の中心にもなったようである。

 

 江戸市民にとって、「日本橋」は馴染みやすい場所であったようである。と言うのも、江戸の中心と言われるだけあって、橋の上に立つと、「江戸城」と「富士山」を見ることが出来たそうである。

 そのように人に馴染まれ人が集まるようになると、幕府もそこを利用するようになり、「高札場」や「処刑場・晒し場」が設置されたという。また、商人達もこぞって「日本橋」周辺に店を置くようになり、大変な賑わいに成ったのである。

 こうして、「日本橋」は、ますます江戸の中心、日本の中心になっていったようである。

 

 その後、何度も木造の橋が架け替えられたが、明治44年に、中はコンクリートだが外は石を張り付けた近代的な橋が架けられた。その日を記念して、「日本橋開設の日」が制定されたようである。

 

<現在>

 今の「日本橋」は、周囲が高層ビル街になり、おまけに高架道路が頭上を通っているため、決して人々が集い、憩える場所ではない。

 今の状況は、決して喜べるものではないのであろうなあ。

 

大阪日本橋(にっぽんばし)

 

<歴史>

 豊臣秀吉は、政治の中心を大阪に置き、「大阪城」を築くと共に、町作りにも力を入れた。そして、水陸両方の町に発展させるため、多くの川を掘り、橋を架けた。そして、大阪の中心に造られた橋が、「日本橋」であった。その結果、人々は、橋の回りに集まり、江戸の場合と同じように、発展していった。

 大阪を南北に通るメイン街道であった「紀州街道」の起点が、「日本橋」であったようである。

 

 その後、歴史の変遷を経て、第二次世界大戦での空襲で壊滅状態になったが、驚異的な復興を果たし、特に電気関係の市が流行り、今の電気街の礎と成ったようである。

 

<現在>

 現在の日本橋は、東の東京秋葉原に並び称される「大電気販売店街」になっている。私も、ときどき彷徨い、パソコンなどを買ったりする大好きな場所である。