文化の学習室#07 権現と本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)

 

 三社祭を調べている内に、本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)とか権現という言葉に出会った。この言葉には今までも出会っていたので、それなりの知識もあったが、今回詳しいことが分かったので纏めておきたい。

 

<本地垂迹説(ほんぢすいじゃくせつ)>

 仏教の考え方の一つに、「本地垂迹説」というものがある。本来は仏様や菩薩様であるものが、一般大衆に理解しやすい形に姿を変え、人々を救う行いをされるという考えであるとか。その例として、日本の神様は実は仏様であって、姿・形を変えて衆生を救おうとされているというものがある。

 この考えは平安時代以前からあったそうで、東京都浅草にある三社権現神社も、お祭りされてるのは、「阿弥陀如来」、「観世音菩薩」、「勢至菩薩」の化現として祀られているようである。

 

<権現(ごんげん)>

 権現とは、上の本地垂迹説に依るもので、仏様が人間や神様などの分かり易く親しみやすい姿になった仮の姿そのものを言うようである。皆さんも、「権現さん」という呼び方を聞いたことがあるでしょう。

 有名なものとしては、徳川家康が「日光東照宮」に「東照大権現」として祀られていることが例として上げられる。

 

 皆さんも、お寺や神社に行かれたとき、偶に「お宮様に仏様とかが祀られ」、「お寺に神様とかが祀られている」のをご覧になり不審を持たれたかも知れないが、上のような理由からなのである。