2001.12.01 WAKASA

鯖街道 熊川宿

 

 熊川宿の誕生(交通と軍事の要衡)

大正15年(1587)秋、若狭の領主となった浅野長吉(長政)は、翌年には国境の熊川の地を検分しています。ここが大切な要害の場所でることを認め、天正17年正月には「諸役免除」の判物(お墨付き)を与え、熊川の発展を図りました。熊川を通すなど、宿場町としての整備にも力めました。この政策は、木下、京極、酒井の代々の領主・藩主に受け継がれて、最初40戸ほどの小村だった熊川は、200戸を超す宿場町となり繁栄しました。また、熊川には陣屋も設けられ、町奉行所、番所(関所)、藩の米蔵などが置かれ、荷物を中継する問屋も軒を連ねることとなりました。

浅野長吉の判物をはじめ、代表の問屋が交代で書いた「御用日記」など、多数の文書が今も大切に保存されています。

 


若狭街道(鯖街道の主要ルート)

古くから若狭街道は、海産物のみならず、小浜に荷揚げされた日本海側諸国(諸藩)の物資を、京都方面に運ぶ重要な道でした。

江戸時代の「小浜市場仲買文書」によると、「往古弐拾万駄六拾万俵」「牛馬千百余疋」また「元禄の中頃まで川船三十艘」などの記録があります。1767年著の「椎狭考」には、「元禄年仲までも熊川街道の馬四百疋」とあり、また、1757年著の「捨椎雑話」には「京都氏の始め・・小浜より熊川までの川筋普請いたし、船にて・・荷物上り候」とあります。

なお、この若狭街道は、西国霊場の二十九番札所松尾寺(舞鶴)から、三十番宝厳寺(竹生島)への巡礼の道でもありました。享保8年(1723)7月25日には422人、前後3日間では1,000人の巡礼者が熊川に宿泊したことが、「御用日記」に明記されています。


いくつもの鯖街道(京は遠ても十八里)

若狭には「京は遠ても十八里」という言葉がありますが、若狭小浜から京都までが十八里(72km)、遠いと言っても知れたものとの、若狭人の意気込みが感じられます。また、与謝蕪村も「夏山や 通ひなれたる 若狭人」と詠んでいます。鯖や多くの物資を京都に運んだそのルートは、いくつもありました。最も盛んに用いたれた、熊川から朽木、大原・八瀬を経て京都の市中に至る若狭街道。「お水送り」の行われる神宮寺から根来を、遠敷川に沿ってさかのぼる針畑越の道。名田庄村から丹波(京都府下)を通って進む幾通りもの道、などがありました。また、小浜から熊川宿を経て、いわゆる九里半街道は今津に至り、湖西を南下する西近江路。

今津からは(古くは勝野や木津から)、多くの樽鯖、刺鯖などが船で運ばれたことが、小浜市場の古記録に見えています。


鯖街道の起源

古代において若狭は、御食国(天皇の食料を献上する国)の一つでした。特に上中町には、旧街道のほとりに大きな前方後円噴が集中しており、宮中の食膳(料理)を担当した「膳臣」一族の噴墓と考えられています。奈良の都の平城京や、更に古く藤原京の跡から出土した木簡には、若狭から送られた調(税)の塩をはじめ、御贄(天皇の食料)としての鯛や貽貝など魚や貝の荷札が多く発見されています。最近よく聞かれる鯖街道とは、かつて多量に捕れた鯖を、若狭から京都へ運んだ道のことです。なお、鯖はその代表的であり、若狭湾や広く日本海で捕れた魚介類が多く運ばれています。

すなわち鯖街道の起源は、既に奈良時代以前にあったといえます。

白石神社前にある時計台


綺麗に舗装された熊川宿


鯖街道の由来

古代、若狭は、朝延に食料を献上する御食国(みつくに)のひとつでした。日本海で魚や貝が遠路はるばる京都へ運ばれ、いつの頃からか若狭人の間では「京は遠くても十八里」などと豪気なことが言われてきました。18世紀後半から大量の鯖が若狭から京へと運ばれました。若狭街道が、鯖の道・鯖街道と呼ばれた由来です。



熊川宿の喫茶店です。

宿場町以前の熊川

熊川は、若狭と近江の国境に接近し、現在滋賀県の保坂峠(水坂峠)を越えて、今津や朽木に至る位置にあります。熊川が宿場となる前、すでに鎌倉時代には関所が設けられていたとの説もあり、室町時代初期の永享10年(1438年)、熊川村の東端の大杉に関所のあったことが、京都の「大覚寺分書」に見えています。

 


 

熊川宿を歩いて・・・

若狭の国、福井県遠敷郡上中町熊川にある熊川宿。近年になり町並みや家屋が注目を浴びるようになった。普段何気なく車で付近を通り過ぎるくらいで、確りと見たころがなかったが、今回始めてゆっくりと歩く事が出来た。

町並みは多彩な様式を壊さないように気が使われていた。時折、現代の物があり、違和感も感じたが、例えば、エアコンの室外機を格子でカバーしたり、自動販売機の概観を木を使い覆うと言う工夫もあった。

緩やかに流れる川は、今でも洗濯物や野菜を洗う場所として活用されていたり、その川が屋内下にも流れている場所すら残っていた。

1kある町並みには、宿場館、白石神社、松木神社、大岩などがあり、旧逸見勘兵衛住宅(町指定文化財)屋内も拝観出来るようになっていて2時間をかけて歩いた。

文化とは関係ないかもしれないが、この町に住む人のプライバシーが少なからずとも害されているのじゃないかと思った。町の人が温かく挨拶をしてくれたが、どの町の観光でも気をつけなければならないのはマナーかもしれないと・・・


旧逸見勘兵衛住宅(町指定文化財)

伊藤竹之助緒翁の生家で、熊川を代表する町家の一つということで、主屋、土蔵、庭が、平成7年1月に、町指定の文化財となりました。

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