叩く弦楽器とその歴史
世界中には多くの種類の弦楽器があります。しかし、弾く、こする以外にも、まるで打楽器のように、叩くことにより演奏される弦楽器があります。中には、演奏者の持つばちで弦が直接打たれる楽器もあるのです。
直接叩く弦楽器の台形の箱(共鳴胴)に数多くの弦を張り、日本の細いばちで叩く、というものが基本形です。このような楽器は紀元前3000年のアッシリアでもみられます。それが現在あるような形にほぼ落ち着いたのは、13世紀のペルシアで発達した結果と考えられています。この楽器がイランなどで「サントゥ−ル」という名称で今日も愛用されています。
この叩く弦楽器は、東方では中国やモンゴルへ伝えられ、西方ではバルカン半島を経てヨーロッパ全土へと広まりました。ヨーロッパでは、1400年を過ぎるまで、サントゥ−ルのような楽器は文献にはほとんど登場してませんでした。その後「ダルシマー」という名で広まりつつあったその楽器ですが、やがて、衰退の道をたどることとなります。その理由は、私達のようく知っている楽器にありました。この叩くという原理は改良され、キーを押す事により、ハンマーで弦を叩く鍵盤楽器が生まれたのです。私達にもなじみの深いピアノもそのひとつで、今では世界中に普及しています。このようにして、ピアノなどの鍵盤楽器に繁栄の道をゆずり、これらの楽器は衰退していったのです。
ツィンバロムとハンガリー音楽
一方、ハンガリーへと伝わった叩く弦楽器は、ツィンバロムと呼ばれました。ハンガリーは、ドナウ川流域にある国で、国民の大部分は東洋系のマジャール人です。
18世紀から19世紀にかけて、楽器の面ではジプシーの音楽家が目立ちます。ハンガリーでは、ツィンバロムの歴史はこの2世紀の間にジプシー楽団と結びつくようになりました。弦楽器とツィンバロムを用いたジプシー楽団の演奏は、この時代の大衆音楽に君臨るすことになります。
このジプシー楽団による、いわゆる「ハンガリー風」の演奏は、ブラームスの「ハンガリー舞曲」や、リストの「ハンガリー狂詩曲」の素材ともなっています。
このツィンバロムですが、音が必要以上に長く響き続けることが欠点と言われていましたが、1870年代にブタペストの楽器職人の手でそれを克服しました。同時に、音域を広げる工夫もなされ今日に至っています。
20世紀のハンガリーの音楽家・音楽学者コダーイやバルトークは自国の音楽文化を研究し、収集していたことで知られています。彼らの活動の背景にはハンガリー・オーストリア二重帝国下における圧制があり、政治的・文化的な抑圧に対し、自国の文化を守るための活動でもあったと思われます。
彼らは音楽に国の誇りと魂を感じながらも、ほかの民族の音楽の研究も熱心に行いました。これは、自国の音楽の独自性を証明するためではなく、民族音楽に共通したものがあることに気付いたためです。民族音楽には人間の本質的な部分のつながりを感じます。世界中の至る所で生まれた音に人間は手を加え、音楽という文化とつくってきました。民族音楽は、単なる音の組み合わせではなく、地域社会や生活の一部、あるいはそれ自身でした。
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