着想型と現実型 H17/11/06

「碁は着想なり」と言い切りたいほど、囲碁においては着想が大切である。
部分的なヨミの能力も勿論大切であるが、まず着想があり、次に、その正しさを裏付けるためにヨミが必要になる。

着想は感性の世界、イメージの世界である。(右脳)

碁を知らない人から見ると碁盤は狭いように見えるかも知れないが、碁盤は無限の広さを持っている。
無限の広さだから、どこが一番大きいかを知ることは容易ではない。
囲碁のプログラムが弱いのは、コンピューターでさえ、どこが一番広いか計算することが出来ないためである。

今、碁の世界では勢力が再び見直されている。
勢力が認められれば認められるほど、着想の比重は大きくなる。
つまり、地は計算出来るが、勢力は計算が出来ないからである。

コンピューターでさえ出来ない複雑な判断を、人間は「感性」と云う能力で瞬時に判断することが出来る。

歴史的に見ると、勢力が重視されるのは、これで3回目である。

(1) 第一回目は平安時代である。
その頃の碁は、あらかじめ四隅に石を置いてから打ち始めたので、自然、勢力が重視されたものと思われる。

(2) 室町時代から実利が重視され始め、江戸時代は実利一辺倒になる。

(3)江戸時代末期になると、丈和や秀哉が高目、目ハズシを打ち始め、再び勢力が注目され出した。
 今は、武宮正樹を中心として、勢力の碁が全盛期である。

武宮の碁を見ると、いかに着想が大切かが分る。

既成の考え方は彼によって次々と覆された。
どんなに読みに読んで打っても、予想外の着想の手を打たれると、すべてが水泡に帰してしまい、すべての計算は無駄になってしまう。
常識にこだわらない自由奔放な着想で、しかも結局は正しかったと云う結論を出して、碁の考え方を変えつつあるのが武宮である。

しかし、武宮もときどき負ける。
いや、タイトルをなかなか取れない。
なぜ負けるかと云うと、碁は着想だけでは勝てないからである。
碁には事務的な注意力も必要である。(左脳)

どんなに天才的な着想で優位を築いても、また営々として苦労して優勢となっても、ちょっとした不注意ですべてを失うことがある。
碁は、高度な次元で勝負が決まると云うよりも、しごく簡単な見損じで決まる場合が多い。

したがって碁においては読みの力や間違いを犯さない注意力、あるいは冷静な形勢判断や計算と云った、現実的な事務能力も必要である。

案内人:
この本は、平成5年、週刊碁に連載されたものを、平成15年に初版したものです。
ですから、世代交代した現時点から見ますとヘンに思うかも知れません。
その辺の所は、よろしくお願いします。

つづく。