福井県小浜市 切戸(きれど) ここは、「切戸」といい、海から小浜町へ入る玄関口で、桟橋が付けられ、江戸時代、通行手形を改める番所も併設されていた。小浜藩は、江戸時代を通じて藩以外海岸に通じる道々に木戸(柵)を立て、荷揚げの場所を制限していた。ただ、一箇所木戸が立てられていないところを「切戸」といい、多くの巡礼者と物流の拠点であった。 巡礼者は、通行手形を持って四国三十三箇所霊場第29番札所松尾寺から30番札所の武生島へ参拝する人々で、丹後国から青葉山中山寺を経て和田村から渡船で本郷村を経由して小浜についた。江戸時代中期以降、巡礼者が増えたため、和田村の船主が2艘新造したため、小浜の船主と争った。 明治45年には、幅3m、長さ90mの大きな桟橋に改修され、鉄道が施されるまで敦賀・舞鶴へ1日1便がが、本郷・和田へ1日3便の定期船が就航しており、また大正期には桟橋に荷揚げ用のレールが敷かれた荷物検査所もあり、船着場周辺には飲食店が並んで賑やかであった。 いま、海岸通りが横断して、昔ここが「切戸」であったことの面影はどこにも無いが「切戸」の地名を後世に伝えるために説明を設置した。 平成15年5月 若狭路博2003小浜市実行委員会
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小浜湾から、小浜市内を見た風景(切戸) |
松ヶ瀬台場 堀跡 | |
福井県若狭町の舟屋 |
小浜城は、北側と南川にかこまれた中州の中央に水堀d囲んだ方形の本丸を設けている。 この写真は、川から城址を望む。 緑の茂ったところが小浜城址です。 |
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酒井 忠勝 初代小浜藩主の酒井忠勝は、1587年(天正15年)、酒井忠利の長男として三河西尾(愛知県西尾市9で生まれました。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに先立ち、徳川秀忠が信濃の真田昌幸・幸村父子を攻めた戦で初陣をはたしました。1620年(元和6年)2代将軍秀忠は、世継ぎとなる徳川家光に忠勝を近待させ、2年後には1万石を加増し大名にしました。1624年(寛永元年)に老中、1627年には武蔵国川越で10万石を得て、1634年(寛永11)には11万3500石で小浜藩主として小浜は入部しました。1637年(同14)大老に就任し、4代徳川家綱を補佐する幕府の重鎮として活躍しました。1656年(明暦2)隠居し、1660年(万冶3)剃髪して空印と名乗りましたが、幕政にはなお大きな影響力を持ちました。初代酒井小浜藩主として小浜の町づくりの基礎を築くと同時に、この小浜城を完成させました。 |
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